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2021年4月26日 現代ビジネス「日本人の先祖は「コロポックル」だった? 無言で交易を行った小柄な民族
藤井勝彦
■粛慎(みしはせ)の人々の「沈黙交易」とは?
コロポックルの住処だった?!古墳時代後期の横穴墓群の遺跡・吉見百穴(埼玉県比企郡吉見町) 藤井勝彦提供
新型コロナ蔓延後、唾液の拡散を防ぐためにマスクをすることは、最早当たり前。そればかりか、商店や飲食店では一切掛け声もなく、無言のまま注文や支払いが完了することまで、至極当然とみなされるようになったようである。無言のままの商行為が成り立つとなれば、まさしく、「無言交易」あるいは「沈黙交易」とでも言い表せる、新たな文化到来かと言いたくなりそうである。
ところがこの「沈黙交易」なる商行為、実は今に始まったものではなかった。北海道以北では、千数百年前あるいはそれ以前から、日常的に行われていたものだった。その様子は、『日本書紀』にも記されている。斉明(さいめい)天皇6(660)年3月の条である。この時、蝦夷討伐(えみしせいとう)のため、安倍比羅夫(あべのひらふ)が陸奥(北海道ばかりか樺太にまで到達していたとの説も)に派遣されているが、そこで粛慎国の人々が「沈黙交易」を行っていたというのだ。
比羅夫は、蝦夷ばかりか粛慎まで討伐しようとしていたのだが、その粛慎の人々をおびき寄せるため、海岸に絹や武器、鉄などを置いて待ち構えたという。案の定、彼らがやってきて、それを黙って持ち去っていった。
ところが、その後、思いもせぬことが起きた。何と、彼らが同じところに舞い戻ってきて、着ていた衣や布などをその代金だと言わんばかりに置いていったのだ。もともと、そのような商行為が、彼らにとっては当たり前というべき物々交換の方法だったのである。
■北方から渡来してきた古モンゴロイド
ここに登場する粛慎なる国がどこにあったのかは、諸説あって定かではないが、海洋漁労民族・オホーツク人が暮らしていた北海道北部から樺太、南千島あたりだったとみられている。竪穴式住居に暮らしながら、アザラシやオットセイなどの海獣を食料としていたとも。さらに熊を捕らえ、その毛皮を重要な交易品として、道東のアイヌなどと交易を行っていたようである。
この民族の先祖はロシアのアムール川流域とみられているが、その上流近くにあるバイカル湖といえば、日本人起源説が取りざたされるブリアート人の居住地域である。日本人の北方起源説、つまり石器時代に北方から古モンゴロイドが渡来して縄文人となり、縄文時代晩期に南方から新モンゴロイドが渡来して弥生人になったとの説によれば、この辺りに暮らしていた古モンゴロイドが、2万年前あたりまで地続きであったユーラシア大陸東端から、サハリン、北海道を経て日本列島全域に拡散。これが、縄文人の根幹になった…とも考えられるのだ。
■コロポックルこそが日本人の先祖だったかも
さて、本題はここからである。この粛慎なるオホーツク人も、いつの頃(13世紀頃との説も)からか、道東アイヌと同化あるいは駆逐されて姿を消してしまったようである。その後は、この地域に住む人々も、アイヌと呼ばれるようになったという。興味深いのが、その辺り一帯に言い伝えられてきた小人伝説である。ここにアイヌが住み始める前から、コロポックルという名の背丈の低い人々が、蕗の葉で葺いた竪穴式住居で暮らしていたと言い伝えられているのだ。
このコロポックルの存在を世に広めたのは、日本初の人類学者として知られる坪井正五郎(つぼいしょうごろう)といわれる。日本石器時代人=コロポックル、つまり日本人の先祖はコロポックルだと唱えたのだ。この説はその後多くの学者たちによって否定されたものの、近年、考古学者の瀬川拓郎氏によって、再び見直されるようになっている。
瀬川氏の著書『アイヌ学入門』によれば、このエリア一帯に小人(コロポックル)伝説が伝えられているものの、その中の北千島だけ小人伝説を伝えていないという。そこから、北千島こそがコロポックルが住んでいたところだとの説を掲げたのである。一説によれば、疫病(特に疱瘡、つまり天然痘)の伝染を極端に恐れた(ケガレの思想とも)ことが起因となって、相手との接触を避ける「沈黙交易」が始まったというのだ。何やら、現在の状況(新型コロナ蔓延)と似通ったものがありそうだ。
ただし、北千島の人々が竪穴式住居に暮らしていたことは事実であるが、背丈が特段低かったかどうかは不明。おそらく「交易すれど交流せず」との頑なな姿勢が異端視されたことで、時が経つにつれ、多少背丈が低かったことを、大げさに語られるようになったのではないかと考えられるのだ。
ちなみに小人伝説といえば、『記紀』に登場するスクナビコナがよく知られるところ。ガガイモの実で作った小さな船に乗って海の彼方から来訪。大国主神とともに国造りに励んだという神様である。鵝(がちょう)の皮の着物を着ていたというところなど、太古の世界の住人を匂わせている。コロポックルとの関連を指摘する声が上がるのも、宜なるかなというべきか。
また、『鬼滅の刃』には、小人に該当するような鬼は存在しないが、差別を受けたことを起因として鬼と化したケースは少なくない。猟奇的な性格から、生まれ育った村の人々から忌み嫌われていた玉壷(ぎょっこ)をはじめ、黒死牟(こくしぼう)、半天狗(はんてんぐ)、妓天太郎(ぎゅうたろう)なども、それぞれ理由は異なるとはいえ、忌み嫌われて育ったことが鬼になった一因であったことは間違いなさそう。
ともあれ、今やコロポックルなる小人伝説など忘れ去られてしまいそうな感もあるが、実のところ、日本人の源流を考える上では、決して侮るべきものではないのだ。前述のオホーツク人がブリアート人とつながりある民族であったとすれば、道東アイヌはもとより、コロポックルさえ、日本人の祖先、あるいはそれと大きなつながりのある民族であった可能性が出てくるからだ。こうしてみると、何気なく見捨てられてきた伝説、伝承なども、今一度、見直してみる必要があるのではないか? そんな気がしてならないのである。
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2023年6月9日 現代ビジネス「3つの「日本人の起源説」で最有力だった「変形説」…「二重構造説」に引き継がれずマイナー説になった理由
斎藤 成也国立遺伝学研究所 特任教授(斎藤成也研究室)
今日は何の日?――人類学者・長谷部 言人生まれる
人類学者・解剖学者の長谷部 言人(はせべ・ことんど、1882-1969)をご存知でしょうか? 1931年、兵庫県明石市の西八木海岸で発見された腰骨と思われる骨のかけらを縄文時代以前に日本列島に存在した「原人」のものだとされました。これが有名な「明石原人」で、この結論を下したのが長谷部でした。
その後の研究で「明石原人」の化石の石膏模型は縄文時代以降の新人のものであるという解析がなされましたが、当時は「日本最古の人類」として大きな話題を呼びました。
長谷部は、日本の人々を身体と文化の両面から考察し、「日本列島に渡来した第一の移住者の子孫が、時間的に変化して現在の日本人となった」という、数ある日本人ルーツを探る日本列島人の成立に関する【変形説】の潮流を生みました。今回は、この【変形説】をじめとした、3つの代表的な日本列島人の成立と現在の見解について見てみましょう。
【書影】図解 人類の進化
*この記事は、ブルーバックス『図解 人類の進化』より、内容を再構成してお届けします。
人類が日本列島にやってきた「3つの通説」
日本人とはどんな人々なのでしょうか。「日本という国の国民」という答えが常識的なところかと思いますが、日本国という政体の存在は有史以後1400年ほどの間のことです。今回のように、数十万年以上前から存在する日本列島に棲む人々を論じる場合は、「日本国の国民」との混同を避けるためにも、ここでは「日本列島人」としたいと思います。
さて、そんな日本列島の美しい弓なり形は環太平洋造山帯の一部であり、北は千島列島とアリューシャン列島、南は琉球列島に続いています。ユーラシア大陸とは、朝鮮半島およびサハリン島を介してつながり、一方で弓は大きく太平洋に張りだしています。
【地図】日本列島日本列島 map by gettyimages
このような地理的位置にあるため、日本列島にはさまざまな人間がユーラシア大陸から移動してきて住み着きました。日本列島人はこのような重層構造をもっていると考えられます。
現在の日本列島に住んでいる人々と、さまざまな時代の人々のあいだにどのような関係があるのかについては、昔から多数の説がありますが、大きく以下の3種類の考え方に分かれます。
【置換説】日本列島に渡来した第一の移住者の子孫は先住民であり、それとは系統の異なる第二の移住者の子孫が現在の日本人である
【混血説】日本列島に渡来した第一の移住者の子孫に、それ以降の移住者が混血をして、現在の日本人となった
【変形説】日本列島に渡来した第一の移住者の子孫が、時間的に変化して現在の日本人となった
順に見てみましょう。
かつての祖先と入れかわった「現日本列島人」
シーボルトが提唱「かつての祖先は絶えている」説
置換説は、江戸時代末期に発表されたフランツ・シーボルトのアイヌ説が最初です。シーボルトは、アイヌの人々がかつては日本列島全体に生息していた先住民の子孫であり、一方現代本土日本人は、日本神話に登場する天孫降臨族(てんそんこうりんぞく)が大陸から渡来したものの子孫であるとしました。
その後、この考え方は先史時代人骨の研究を行なった小金井良精(こがねい・よしきよ)によっても支持されました。
また、明治初期に、いわゆるお雇い外国人教師として、帝国大学(現在の東京大学)で動物学を教え、大森貝塚を発見しました米国人エドワード・モースも、大森貝塚の発掘結果をもとに、日本列島にはアイヌの人々の祖先とは別の先住民がいたという説を提唱しました。これはプレ・アイヌ説とよばれますが、モースは晩年にはシーボルトと同じ、アイヌが日本列島の原住民だったというアイヌ説に変わっています(寺田、1981)。
日本人類学会を創始した坪井正五郎は、このプレ・アイヌ説に似通ったコロポックル先住民族説を唱えました。コロポックルとは、アイヌの民話にでてくる身長の低い人のことです。この説は現在では学史にのみ残っているだけですが、後に佐藤さとるの『だれも知らない小さな国』をはじめとするコロボックル物語という童話の名作を生みました。
【写真】19世紀に撮影されたアイヌの人たちアイヌの人たちを描いたイラスト(19世紀の作品) illustration by gettyimages
ある地域において人類集団が置換すること、つまり完全に人間が入れ替わることは、実際に例があります。カリブ海のキューバ島には現在多数の人々が住んでいますが、かつての先住民の系統はすべて死に絶えたとされています。
日本列島でも、全体の集団が置換とはいえないものの、過去に置換があった可能性はあります。たとえば、沖縄からは2万年ほど前の港川人が発見されていますが、彼らと現代沖縄人が系統的につながっているのかどうかは、わかっていません。
混血説について
混血説について日本人の起源に関する混血説は、明治初期に日本で医学を教えたドイツ人のエルヴィン・ベルツが最初に唱えました。
ベルツは、まずシーボルトの考えを受け入れて、アイヌ人が北部日本を中心に分布した先住民族であるとしました。次に日本人を長州型と薩摩型とに分け、前者は中国東北部や朝鮮半島などの東アジア北部から、後者はマレー半島などの東南アジアから移住した先住民の血を色濃く残していると考えたのです。
長州型と薩摩型ベルツは、長州型と薩摩型に分けて考えた。長州出身の山縣有朋(左)と薩摩出身の西郷隆盛 photos by gettyimages
ベルツはまた、アイヌ人と沖縄人の共通性を指摘しています。これはアイヌ沖縄同系論として、その後の日本人の二重構造説などにつながっていきます。
変形説について
そして、日本人の起源に関する第三の考え方が変形説です。
日本列島に渡来した第一の移住者の子孫が現在の日本人であり、過去と現在の時代差は、同一集団の変化にすぎないとします。
長谷部言人が提唱し、その後鈴木尚(すずき・ひさし)が実際の骨の資料を調べた結果をもとに主張しました。この考え方は、十万年、百万年という長期的な進化を考えれば、もちろん妥当なものです。進化の基本は遺伝子の変化であり、突然変異が蓄積するには、通常それだけの時間が必要だからです。
逆に、骨の形態変化には、非遺伝的な要素があります。それを物語るのが日本人の身長の変化です。
明治維新以降、日本人の身長は増加したけれど…
よく知られているように、1867年の明治維新以降、日本人の成人の平均身長は大きく増加しました。
成人男子の場合、江戸時代末期には157cm程度だったものが、150年ほどたった21世紀初頭では、170cmほどとなっています。古代から近世にかけて、身長が161cmから157cm程度に低下しました。
その後150年ほどのあいだに170cmまで平均身長が伸びたのは、明治時代以降の栄養条件の改善のためだと思われますので、それ以前の身長の低下も、栄養条件が悪化していったからかもしれません。国際結婚が増えたといっても、それが日本列島人の遺伝的構成を大きく変えたとは考えられません。
【グラフ】日本列島中央部における人間の身長の時代的変遷日本列島中央部における人間の身長の時代的変遷(『図解 人類進化』収載のグラフより作成)
すると、採集狩猟が中心だった縄文時代と稲作を導入して農耕社会に変化していった弥生時代という、生活様式が大きく変化したふたつの時代に生きた人々の体型の違いも、環境変化だけで大部分説明できるのではないか、という可能性がでてきます。
たとえば身長の増加です。最近150年の場合ほど劇的ではなかったようですが、縄文時代の人々の平均身長が158cmほどであったのが、古墳時代になると163cmほどと、ぐっと高くなっています。
人類の系統を示す「証拠」にならなかった「頭示数」
また日本人の頭の形は、14世紀(鎌倉時代後期〜室町時代)以降現代まで一貫して、前後に長い形から丸くなってきています。
頭の丸さを示すのに、人類学では伝統的に頭示数{(頭幅/頭長)×100}を用いています。頭長(前後径)と頭幅(左右径)が同一になると、この頭示数は100となり、頭がまん丸い状態を表わします。普通は頭長のほうが長いので、頭示数が80を超えると丸い頭(短頭)とよびます。この頭示数は、長いあいだ人類学で集団の系統関係を議論することに用いられてきました。
ところが、日本人の中で数百年のうちに頭示数が大きく変化しているという結果を鈴木尚が示しました。さらには、世界のあちこちで短頭化が同じように進んでいることがわかっています。これを短頭化現象とよびます。
【図】頭示数と短頭化現象頭示数と短頭化現象 illustration by Saori Yasutomi
こうなるともはや頭長や頭幅を調べて人類の系統を議論することには、あまり意味がありません。
変形説は、アイヌ人の存在をある意味で無視しました。また、この説の提唱後、新しいデータが次々に発表され、遺伝的に異なる系統が合流するほうが大きな変化を説明しやすいということがわかってきました。
また、骨形態が人類の研究に重要なことは変わりありません。現在では次に示すように、時代変化の少ない形態小変異のような形質がいろいろな人類集団で比較されています。
◇
日本人にルーツについては、古来より大きな関心を集め、その結果、これら代表的な通説の成立につながりました。これらの説を支えた研究は、骨や発掘物などの形態的な計測が主流でした。しかし、昨今では、遺伝子技術によって、データ的な裏付けを得て、かなり詳細なところまで明らかになってきています。
そのうち、細胞の小器官ミトコンドリアのDNAを解析することで、ある特定の遺伝子パターン「ハプロタイプ」を比較することで、日本人にいくつかのグループがあり、日本に渡来した人類集団を示唆されています。これまでの代表的な論に続いて、この「ハプロタイプ」による研究を見てみましょう。
続きは、明日・6月10日公開です。
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■粛慎(みしはせ)の人々の「沈黙交易」とは?
新型コロナ蔓延後、唾液の拡散を防ぐためにマスクをすることは、最早当たり前。そればかりか、商店や飲食店では一切掛け声もなく、無言のまま注文や支払いが完了することまで、至極当然とみなされるようになったようである。無言のままの商行為が成り立つとなれば、まさしく、「無言交易」あるいは「沈黙交易」とでも言い表せる、新たな文化到来かと言いたくなりそうである。
ところがこの「沈黙交易」なる商行為、実は今に始まったものではなかった。北海道以北では、千数百年前あるいはそれ以前から、日常的に行われていたものだった。その様子は、『日本書紀』にも記されている。斉明(さいめい)天皇6(660)年3月の条である。この時、蝦夷討伐(えみしせいとう)のため、安倍比羅夫(あべのひらふ)が陸奥(北海道ばかりか樺太にまで到達していたとの説も)に派遣されているが、そこで粛慎国の人々が「沈黙交易」を行っていたというのだ。
比羅夫は、蝦夷ばかりか粛慎まで討伐しようとしていたのだが、その粛慎の人々をおびき寄せるため、海岸に絹や武器、鉄などを置いて待ち構えたという。案の定、彼らがやってきて、それを黙って持ち去っていった。
ところが、その後、思いもせぬことが起きた。何と、彼らが同じところに舞い戻ってきて、着ていた衣や布などをその代金だと言わんばかりに置いていったのだ。もともと、そのような商行為が、彼らにとっては当たり前というべき物々交換の方法だったのである。
■北方から渡来してきた古モンゴロイド
ここに登場する粛慎なる国がどこにあったのかは、諸説あって定かではないが、海洋漁労民族・オホーツク人が暮らしていた北海道北部から樺太、南千島あたりだったとみられている。竪穴式住居に暮らしながら、アザラシやオットセイなどの海獣を食料としていたとも。さらに熊を捕らえ、その毛皮を重要な交易品として、道東のアイヌなどと交易を行っていたようである。
この民族の先祖はロシアのアムール川流域とみられているが、その上流近くにあるバイカル湖といえば、日本人起源説が取りざたされるブリアート人の居住地域である。日本人の北方起源説、つまり石器時代に北方から古モンゴロイドが渡来して縄文人となり、縄文時代晩期に南方から新モンゴロイドが渡来して弥生人になったとの説によれば、この辺りに暮らしていた古モンゴロイドが、2万年前あたりまで地続きであったユーラシア大陸東端から、サハリン、北海道を経て日本列島全域に拡散。これが、縄文人の根幹になった…とも考えられるのだ。
■コロポックルこそが日本人の先祖だったかも
さて、本題はここからである。この粛慎なるオホーツク人も、いつの頃(13世紀頃との説も)からか、道東アイヌと同化あるいは駆逐されて姿を消してしまったようである。その後は、この地域に住む人々も、アイヌと呼ばれるようになったという。興味深いのが、その辺り一帯に言い伝えられてきた小人伝説である。ここにアイヌが住み始める前から、コロポックルという名の背丈の低い人々が、蕗の葉で葺いた竪穴式住居で暮らしていたと言い伝えられているのだ。
このコロポックルの存在を世に広めたのは、日本初の人類学者として知られる坪井正五郎(つぼいしょうごろう)といわれる。日本石器時代人=コロポックル、つまり日本人の先祖はコロポックルだと唱えたのだ。この説はその後多くの学者たちによって否定されたものの、近年、考古学者の瀬川拓郎氏によって、再び見直されるようになっている。
瀬川氏の著書『アイヌ学入門』によれば、このエリア一帯に小人(コロポックル)伝説が伝えられているものの、その中の北千島だけ小人伝説を伝えていないという。そこから、北千島こそがコロポックルが住んでいたところだとの説を掲げたのである。一説によれば、疫病(特に疱瘡、つまり天然痘)の伝染を極端に恐れた(ケガレの思想とも)ことが起因となって、相手との接触を避ける「沈黙交易」が始まったというのだ。何やら、現在の状況(新型コロナ蔓延)と似通ったものがありそうだ。
ただし、北千島の人々が竪穴式住居に暮らしていたことは事実であるが、背丈が特段低かったかどうかは不明。おそらく「交易すれど交流せず」との頑なな姿勢が異端視されたことで、時が経つにつれ、多少背丈が低かったことを、大げさに語られるようになったのではないかと考えられるのだ。
ちなみに小人伝説といえば、『記紀』に登場するスクナビコナがよく知られるところ。ガガイモの実で作った小さな船に乗って海の彼方から来訪。大国主神とともに国造りに励んだという神様である。鵝(がちょう)の皮の着物を着ていたというところなど、太古の世界の住人を匂わせている。コロポックルとの関連を指摘する声が上がるのも、宜なるかなというべきか。
また、『鬼滅の刃』には、小人に該当するような鬼は存在しないが、差別を受けたことを起因として鬼と化したケースは少なくない。猟奇的な性格から、生まれ育った村の人々から忌み嫌われていた玉壷(ぎょっこ)をはじめ、黒死牟(こくしぼう)、半天狗(はんてんぐ)、妓天太郎(ぎゅうたろう)なども、それぞれ理由は異なるとはいえ、忌み嫌われて育ったことが鬼になった一因であったことは間違いなさそう。
ともあれ、今やコロポックルなる小人伝説など忘れ去られてしまいそうな感もあるが、実のところ、日本人の源流を考える上では、決して侮るべきものではないのだ。前述のオホーツク人がブリアート人とつながりある民族であったとすれば、道東アイヌはもとより、コロポックルさえ、日本人の祖先、あるいはそれと大きなつながりのある民族であった可能性が出てくるからだ。こうしてみると、何気なく見捨てられてきた伝説、伝承なども、今一度、見直してみる必要があるのではないか? そんな気がしてならないのである。
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