🗻62〕─1─男系父系天皇を正統とする正史『日本書紀』は独立宣言である。~No.147No.148 @ ⑰ 

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 NHKオンデマンド - 歴史秘話ヒストリア - NHK
 2020年11月27日 (金)
 歴史秘話ヒストリア「日本誕生 知られざる物語 日本書紀1300年」
 日本書紀に描かれていたのは、神話の世界…だけではなく、実際のモデルとなった出来事がありました。一つ一つをひもとくと、古代の日本人が、クニという形を作るために何が必要だと感じていたのかが分かります。ロケで訪れた島根県出雲市は、日本書紀で描かれた時代の雰囲気を留めているようで、とても穏やかな空気に包まれていました。古代の交易で栄えた出雲地方は、大和政権から見ても、豊かな土地だったのでしょう。
 スサノオノミコトをまつる須佐神社。境内は、緑のなんともいい香りが~!これも、木の神様・スサノオノミコトにゆかりがあるからなのか、木の深い生命力を感じました。ご神木である大杉の木は、20メートルを超える高さ、樹齢は日本書紀と同じ1300年ほどというから驚きです。禰宜の須佐建央さんのご案内で木の根元まで歩み寄ると、まるで木に優しく包まれているような穏やかな気持ちに。須佐さんが「大杉さん」と呼んでいたように、神聖であり、身近な存在として大切にされてきたのですね。
 稲佐の浜の海岸線は、日本書紀に描かれた時代よりも、今は海の方にせり出しているといいます。住宅地の一角に残る、「屏風岩」。日本書紀では、この岩陰で、国譲りの話し合いが行われたとあります。ご案内いただいた吉川誓一さんの解説では、神々のやりとりが生き生きと語られ、神話にぐんぐん引き込まれました。番組ではご紹介することが叶いませんでしたが、写真中央にいらっしゃる新宮基弘さんからは、興味深いお話を。新宮さんが小学生のころは、この屏風岩の周りを年に一度、掃き清める行事があったそうです。その時は、揃いのはちまきにふんどし姿で、身を清めてから掃除をするのが習わし。とても気が引き締まる、大切な行事だったと教えてくださいました。
 発掘調査からも分かってきた、かつての出雲大社にあった巨大な本殿。高さ48メートル、階段の長さ100メートルもの本殿は、空を見上げるようなものだったのだろうな~と想像していたら、現在の本殿の近くに、かわいいウサギの置物を発見!ウサギと一緒に見上げながら、古代の人々の建築技術の高さ、神に対する気持ちの大きさに思いを馳せました。
 今回は、藤原不比等についてご紹介するということで、お着物は藤の花をあしらったものでした。実は、去年「興福寺」の回でも着用したものなのですが、今回の帯には、古代の話に合わせて個性的な花の模様が描かれたものを。帯や髪型が変わるだけで、雰囲気が変わるのがお着物の楽しさですね~。自分で並べるのは、ちょっと恥ずかしいのですが…ご笑納いただければ幸いです。
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 1月5日火曜NHK総合1 午後3時10分~ 午後3時55分
 歴史秘話ヒストリア「日本誕生 知られざる物語 日本書紀1300年」
 完成から1300年、日本最古の正史「日本書紀」。謎多き歴史書から見えてきたのは日本誕生の知られざる物語。スサノオの子孫が守るヤマタノオロチの骨!?謎の古墳群と出土品から神話の舞台・出雲の実態に迫る。オオクニヌシからアマテラスへの“国譲り神話”に秘められた史実とは!?なぜ日本書紀が必要だったのか?最新研究が語る中国人と日本人との合作説!古代日本最大の政治家・藤原不比等の編纂(さん)に込めた狙いに迫る。
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 「日本書紀」編纂の狙いとは?1300年の歴史に迫るNHK
 2020.11.25 21:45
 藤原不比等日本書紀 (C)NHK
 歴史情報番組『歴史秘話ヒストリア』(NHK総合)で日本書紀を特集。11月25日に放送される。
 今年は、日本に伝存する最古の正史『日本書紀』の完成から1300年の記念イヤー。また、『日本書紀』に「比べる者がいないほど優れている」と記されている藤原鎌足の息子で飛鳥・奈良時代の政治家、「藤原不比等(ふじわらのふひと)」没後1300年の節目の年でもある。
 同番組では、古代の体系的な法典『大宝律令』『養老律令』の作成に関わったことから、『日本書紀』編纂にも深く関わったといわれている藤原不比等に注目。
 国内向けに天皇の歴史を記した『古事記』と異なり、国外に向けて日本をアピールするため編纂された謎多き歴史書日本書紀』から見えてきた日本誕生の知られざる物語を最新研究から迫る。
 また、謎の古墳群と出土品から判明した神話の舞台・出雲の実態や、中国人と日本人との合作説といった驚きの学説も登場する。
 『日本書紀』は、奈良県などのゆかりの地で1300年を記念するイベントも開催されるなど、古代史ファンの注目も高い。放送は、11月25日・夜10時30分からNHK総合にて。
 文/いずみゆか
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 日本人の祖先は、特に皇室は「日本国と日本人子孫の為に良かれと想い」命を賭けて祈り戦ってきた。
 子孫である現代日本人は、顔も見た事もない祖先が頼みもしないのに勝手にやっておきながら、それを「恩に着せられるのは大迷惑だ」と嫌っている。
 それが反天皇反日的日本人達である。
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 『日本書紀』とは、中華世界・中華帝国・中華皇帝に対する、日本国は日本天皇=帝(みかど)が統べる自主独立国である事を宣言する「正史」であった。
 『日本書紀』は、日本天皇による日本国統治の正統性を証明する歴史である。
 古代に編纂された歴史である以上、近代西洋歴史学に基づく事実ではなく、民族的思い込みの物語が含まれていても構わない。
 重要なのは、歴史的事実を探求する事ではなく、日本国家は独立国として中国帝国の支配を受けず、日本天皇は中国皇帝に対して対等の地位にあって臣下ではないと証明する事であった。
 つまり、自主独立国である事を世界に認めさせる事が目的であった。
 外交交渉を成功させる為ならば、真実ではなく、正しくなくても、多少の嘘、誇張・はったり、改竄・歪曲・捏造があろうとも許される。
 日本国が、臣下として属国・保護国を受け入れた朝鮮などとは違う独立独歩の道を歩き始めた「一里塚」である。
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 朝鮮の歴史は、中華世界の正員として、中国帝国の支配を受け、中華皇帝に忠誠を誓う臣下の歴史である。
 それは、琉球王国とて同じである。
 朝鮮国王も琉球国王も、中華皇帝から国王位を叙任される事で正統な統治者と認められた。
 日本天皇が、朝鮮国王や琉球国王と明らかに違うのは正統である。
 朝鮮国王や琉球国王の統治は、中国の政治・軍事・経済の影響を完全排除した主体性を持った自主独立国としての正統性ではなく、中国の絶対権力に屈服し中国の絶対権威から授かる受け身としての正当性であった。
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 中国の正史の原型は、司馬遷の「史記」である。
 正統史記は、滅んだ王朝史である。
 中国には、普遍宗教の絶対神による天地創造・人間創生の開闢(かいびゃく)神話や中華民族史や中国人物語はなく、あるのは儒教の徳価値観・正統史観に基づく非宗教の王朝興亡記録だけである。
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 毎日新聞
 「古事記」「日本書紀」同時期登場の謎(下) 出雲神話は「蘇我王朝」へのノスタルジー
 会員限定有料記事 毎日新聞2020年1月23日 15時00分(最終更新 1月23日 15時00分)
 伊藤和史
 なぜ、古事記日本書紀という二つの歴史書が並行してつくられたのか。日本古代史の重大問題への答えとして、「古事記は敗れた側の歴史を語る。勝者(天皇側)の日本書紀とは成り立ちが違う」と考える三浦佑之・千葉大名誉教授(古代文学)の新刊「出雲神話論」(講談社)を紹介した。
 さて、まるで方向の異なる大山誠一氏の出雲神話論にもぜひ触れたい。古事記日本書紀の神話を分析していくと「蘇我氏の王朝」の存在に帰結し、その過ぎ去った時代への郷愁の物語が出雲神話である、というのが大山説の眼目だ。著作としては、「神話と天皇」(平凡社・2017年)、「天孫降臨の夢~藤原不比等のプロジェクト」(NHKブックス・09年)に詳しい。【伊藤和史】
 乙巳の変は王朝交代のクーデター
 通説では、645(大化元)年、横暴を極めた蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子が中大兄皇子と忠臣の中臣(藤原)鎌足に滅ぼされた。この「乙巳(いっし)の変」を契機に大化の改新が始まるとされている。しかし大山説によれば、この暗殺劇の真の姿は、蘇我王家に対する中大兄側のクーデターにほかならない。
 蘇我氏奈良県の葛城地方を本拠とする豪族で、もともと葛城氏の配下にあったが、外交などで活躍し台頭したという。その蘇我氏の王朝の実在性については、中国の史書「隋書倭国伝」で当時の倭国王が男性であることの記載や、奈良県・飛鳥地域の考古学的実態、さらに日本書紀自体の記述でも蘇我氏が実質的に大王として描かれていることなどを論拠に、もはや疑いえない、と結論づける。
 こうしたことから、乙巳の変とは剣による王朝交代のクーデターにほかならず、その神話上の表現が同じく剣にものをいわせた「国譲り」だと導かれるわけである。
 天孫降臨は「藤原氏に都合のよい天皇制」創始の根拠
 「国譲り」と並ぶ日本神話の核心が、アマテラスの孫のニニギが地上支配のために高天原から降りてくる「天孫降臨」である。大山説では、この神話は、鎌足の息子不比等による草壁王家擁立の物語と説明される。
 天武天皇没後、妻の持統が政務を行ったものの、皇統の行方は不安定な状態にあった。それを天武・持統の息子である草壁皇子(早世のため即位せず)、草壁の子・軽皇子文武天皇)、文武の子・首皇子聖武天皇)と順次皇位につけていくという不比等の政治理念を神話化したものが天孫降臨神話というわけだ。その創作途上では、草壁早世といった予期しない事態も起こったため、物語の整備は段階を踏んで行われた。もちろん、そうした苦心の跡も神話に残っている。
 この創作により、天皇の神格化が達成される。ただし、天皇は権威はもっても権力をもつ存在にはなりえなくなった。実質的な支配権を握るのは天皇外戚である藤原氏であって、そういう「藤原氏にとって都合のよい天皇制」を創始するための根拠となる神話がつくられていったのである。
 こ…」
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 2020年7月号 正論「編纂から1300年『日本書紀』に学ぶ国難突破の処方箋
 久野潤
 現代にも通ずる指針
 昨年は令和改元という、誠にめでたき佳節(かせつ)であった。平成改元の折は自粛ムードを、当時8歳の小学生であった筆者も覚えている。この度は打って変わって、大変なお祝いムードで皇位継承そして元号の根拠でもある『日本書紀』編纂(養老4年=西暦702年)から1300年という年を迎えている。
 しかし、現存する我が国最古の正史『日本書紀』1300年にあたって、世間の盛り上がりは8年前の『古事記』1300年と比べてもイマイチと言えよう。
 …… 
 たとえば昨今の東アジア国際関係を見るにつけ、隣国の行動についての本質は『日本書紀』に描かれた時代から何も変わっていないことに気付く。ところが戦後の日本人は、その意義の一角から『日本書紀』を失うことで、国家の重大局面においても〝想定外〟だらけになり、そして日本人としてとるべき行動・心構えも忘却してしまったかのようではないか。これは、今回のような感染症拡大に際しても当てはまるのである。
 伊勢の神宮創建の由来
 『日本書紀』が伝える最初の国家レベルの感染症の事例は、2000年以上前の第10代崇神天皇の御代にさかのぼる。当時は御世替わりごとに遷都しつつ、その皇居内で天神地祇(てんしんちぎ)すなわち天上界と日本本土の神をお祀りしていた。それぞれを天照大神(あまてらすおおみかみ)と日本大國魂神(やまとおおくにたまのかみ)が代表する恰好である。崇神天皇5年(干支で換算すると西暦紀元前93年)疫病が発生して民の過半数が犠牲となり、翌年には『百姓(ほほみたから)流離(さすら)へ、或いは背叛(そむくもの)有り』(以下、『日本書紀』訓読は小学館『新編日本古典文学全集』シリーズ参照)という事態に陥った。
 ……
 仏教受容を機に『和の国』へ
 『日本書紀』で次に疫病の記述が見えるのは、まさに神道にもとづく祭祀が危機を迎えたかのような時期においてである。第29代欽明天皇13年(552)、朝鮮半島百済より仏像や経典が献上され、これが我が国への仏教公伝となる(『上宮聖徳法王帝説』など異説あり)。この外来宗教受容までの道のりは、教科書などで知られる通り平坦ではなかった。欽明天皇が群臣に下問したところ、天皇の政治を補佐する大臣(おおおみ)の蘇我稲目は、諸外国はみな仏を礼拝しているから日本もならうべきだと主張。しかし朝廷で軍事を担当する大連(おおむらじ)の物部尾輿中臣鎌子が、外来のものを信仰すれば日本古来の神々の怒りを招くとして仏像の礼拝することを断念される(藤原鎌足を輩出した中臣氏は、祭祀を担当する氏族であった)。
 試しに仏像を与えられた稲目は私邸に安置し、自ら修行も行い、寺院まで建立した。疫病が起こったのは、この時である。国中に蔓延し、しかも長引いたため若死にする人が『愈(いよいよ)多(おほ)く、治療(をさめいや)すること能(あた)はず』という惨状となった。これを見て尾輿・鎌子が改めて仏像を廃棄すべきと欽明天皇に奏上し、仏像は難波(なにわ)の堀江(現・大阪市の大川)に流し捨てられた。ところが、風もないのに皇居に大火災が起こったという。外来宗教をむやみに導入してはいけないという一方で、仏教を排斥することも神々は許さなかった、あるいはそのように解釈するよう望まれていることがうかがえよう。
 次いで第30代敏達天皇14年(585)、稲目の子で大臣の蘇我馬子が病気となった。馬子は仏像を礼拝し延命を願ったが、再び国中で疫病が発生する。この時は尾輿の子で大連の物部守屋や中臣勝海らが、先代から疫病が已(や)まず民が死に絶えようとしているのは、蘇我氏が仏教を信仰しているからに違いないと奏上。敏達天皇もこれを認めたため、守屋自身が指揮して蘇我氏の寺を焼き討ち、焼け残った仏像はやはり堀江に捨てられた。すると今度は雲もないのに大風が吹き、大雨が降った。さらに今度は悪性の天然痘で亡くなる者が国中に満ちあふれ、敏達天皇や守屋までが罹患した。そこで馬子は『三宝(さむぽう)』(仏教)の力に頼らねば治癒は難しいと上奏し、敏達天皇も馬子個人による仏教信仰を認めた。2年後に守屋と馬子との政争で敗死したのち、仏教は国家的に受容されることになる。
 『三宝』と聞いて、読者も推古天皇12年(604)制定の『十七条の憲法』第二条における『篤く三宝を敬(うやま)へ』を想起するのではないか。これは我が国へのあらゆる外来宗教伝来以前の信仰である神道の存在を自明のものとしたうえで、仏教との調和をもとめるものだ。同憲法第一条には、調和すなわち『和』を貴ぶべきと書かれているのは周知の通りである。
 ここで注意すべきは、蘇我氏による仏教受容の主張が、その教義解釈によってではなく『諸外国はみな仏を礼拝しているから』という理由であったと伝わっていることである。現代で言えば(雑駁{ざっぱく}ながら)グローバリゼーションあるいはTPP推進派のような立場となろうが、国際社会において国境のさまざまな垣根を必要以上に下げるリスクは多くの論者が警鐘を鳴らしてきた。現下の武漢ウイルス国別感染者数で、『グローバリゼーション発祥地』(エマニュエル・トッド)であるアメリカと、『大航海時代発祥地』ともいうべきスペインやイタリアが上位に入っているのが象徴的ではないか、ひりがえって最終的に日本で仏教が受け入れられたのは、往事(おうじ)の東アジア国際社会の趨勢が理由なのではなく、古来の神道と調和できたからに他ならない(その逆の例が、戦国~江戸時代におけるキリスト教であろう)。往事の度重なる疫病の発生・蔓延は当時、外来宗教を受容する際にも和の精神をもってせねばならないという神意と受け止められたことだろう。
 やがて日本が今次の武漢ウイルスを克服したところで、社会的な人間関係がギクシャクし、政治の場では悪者探しばかり行われ罵詈雑言が飛び交う国家になり果てていればどうであろうか。『日本書紀』に描かれた先人たちが、疫病を和の力で乗り越えたことにも学ぶべきである。
 疫病蔓延中にも隣国の脅威
 仏教論争に端を発した政争はいったん蘇我氏の勝利に終わったが、その後専横を極めた蘇我氏は第35代皇極天皇の御代、皇極天皇4年(645)乙巳(いっし)の変で中大兄皇子中臣鎌足らに粛清される。ここに始まる一連の政治改革が大化の改新と呼ばれるが、その皇極天皇重祚(譲位したのち再び即位)した第37代斉明天皇の御代に、『日本書紀』で再び疫病の記録が見える。斉明天皇6年(660)朝鮮半島百済が唐・新羅連合軍の攻撃で滅亡し、百済王子を擁立する遺臣たちが日本に救援を求めた。斉明天皇百済救援を命じ、さっそく瀬戸内海に面する難波宮(現・大阪市中央区)へ行幸して新羅征討の軍備を始めた。ところが前線目指して集結途上の軍船が、あらぬことか夜中に前後逆さにひっくり返っていたり、天にも届くほどの蝿の大群が標高1,500メートル以上の小巨坂({おおさか}現・岐阜─長野県境の神坂峠)を越えて西へ向かったりと不吉な前兆が続く。それでも斉明天皇は翌年早々に朝倉橘広庭宮({あさくらたちばなのひろにわのみや}現・福岡県朝倉市)に遷幸(せんこう)した。ところが、近くの朝倉山の木を木材にしたことで神の怒りを買って宮殿が倒壊し、さらに宮中に鬼火が現れて役人や近侍の多くが病気で死んでいった。同年7月には斉明天皇崩御し、百済救援は頓挫。翌月難波へと戻るその柩を、大笠を着た鬼が朝倉山上から見下ろしていたと伝わる。
 天智天皇2年(663)、第38代天智天皇は再び百済復興のため日本海を越えて出征したが、白村江の戦いで大敗している。斉明天皇の命まで奪った先の疫病は、隣国に与する何者か(鬼)の妨害であったのか、はたまた出征の時期ではないとの神からの警告であったのか。いずれにせよ当時から、大量の亡命者流入や疫病といった日本側の非常事態を斟酌(しんしゃく)してくれるほど東アジア国際情勢も甘くなかったということになる。
 武漢ウイルス感染拡大のさなか、本年1~4月における中国公船の領海侵入は延べ28隻で、尖閣諸島沖の接続水域侵入にいたっては381隻にのぼり、過去最多を記録した昨年の同時期286隻をはるかに上回るペースとなっている。(5月17日付『時事通信』)。先人たちが疫病への対応中にも警戒を怠らなかった時代と同じく、中国は日本からのマスク大量支援などといった善意に応じる国ではないのである。
 『日本書紀』の教訓を取り戻せ
 ここまでの話を、単なる昔の日本人だけの作法なのだと笑い飛ばすわけにはいかない。武家社会成立後に仏教が庶民に浸透してゆき、特に江戸時代は幕府により儒学が公式の学問とされ、仏教が統治の一翼を担っていたため、『日本書紀』にもとづく価値観・歴史観がある面では失われかけた。しかし同じ江戸時代にいわゆる国学が興り、幕末の国難を乗り越える際にその精神を取り戻したおかげで、国家の再統合による近代化にも成功している。これは権力者による政策のみならず、国民一般の〝下からの力〟なくしてはなし得ないことであった。そのクライマックスが、神武天皇による建国から2600年の節目にあたるとされた昭和15年(1940)の紀元2600年奉祝であろう。これは戦後、その根拠となった『日本書紀』否定と相まって、軍国主義の産物であるように評価される事が多い。しかぢ当時の大日本帝国陸海軍も、たかだか数十~百年レベルのイデオロギー次元を越えて、自分たちの建国以来2000年以上の歴史を背負って戦っているのだという矜持をもっていた。
 大東亜戦争期、たとえば前出の天照大神伊勢の神宮)や日本大國魂神({やまとおおくにたまのかみ}大和神社{おおやまとじんじゃ})がそれぞれ戦艦『伊勢』そして世界最大の戦艦『大和』の艦内神社として分霊されお祀りされたことも象徴的である(艦内神社については、拙著『帝国海軍と艦内神社』祥伝社、平成26年参照)。また当時の日本人の多くも、『日本書紀』に記されたことをかならずしも字面だけ教条主義的な信奉していたわけではなく、何より古代から継承され続けてきたことの方を尊いと考えていたのではないか。國學院大學出身の特攻隊員であった山口輝夫海軍少尉の遺書(抜粋)にも表れているだろう。

 実に日本の国体は美しいものです。古典そのものもよりも、神代の有無より、私はそれを信じて来た祖先たちの純心そのものの歴史のすがたを愛します。美しいと思います。国体とは祖先たちの一番美しかったものの蓄積です。実在では、我国民の最善至高なるものが皇室だと信じます。私はその美しく尊いものを、身を以て守ることを光栄としなければなりません。(北川衛編『あゝ特別攻撃隊徳間書店、昭和42年より)

 現今の歴史教育の影響で、日本人が昭和天皇による昭和21年(1946)元日の詔書、いわゆる『人間宣言』で『古事記』『日本書紀』の神話から解放されたと考えるのは大いなる誤解である。
 その詔書では『朕(ちん)ト爾等(なんじら)国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依(よ)リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非(あら)ズ』、すなわち皇室の根拠として、神話だけでなくてその歴史上一貫して国民との信頼関係が重要であることが述べられ、また天皇が神の子孫であるということも否定されていない。にもかかわず、戦後の日本人は自ら『日本書紀』を、その貴重な教訓ごと封印してしまっていたのである。
 ……1300年後これだけ見た目が変わり果てた社会においても、変わらず皇室が存在し、間違いなく皇位継承が行われ、『日本書紀』に記された神々が全国の神社でお祀りされ続けているからである。
 ……本稿で悠長な精神論ではなく、異形の感染症対応に追われる現場の方々をも無にしないための、日本再生への実践的提言と受け取られることを切に願う。」
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 現代日本は、正史『日本書紀』を否定している。
 ちなみに正史『日本書紀』では、女性は男性と同権かもしくは男性よりも上位者とされている。
 日本の最高神は女性神天照大神であり、天照大神は現皇室の祖先神である。
 日本天皇の正統性とは、女性神天照大神を源とする直系の血筋・血統と男系の皇統という民族中心神話・天孫降臨神話・高天原神話である。
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 日本には、私欲・俗欲・強欲な政治権力と宗教権威、そして神聖不可侵の清明天皇の御威光が存在していた。
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 日本列島には、民族中心神話・天孫降臨神話・高天原神話が隅々まで息づいている。
 日本民族日本人は、惟神(かむながら、かんながら)の道を心の支えとして生きてきた。
 惟神の道とは、絶対神を信仰する宗教ではなく、八百万の神々を念(おも)い祈る宗教である。
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 現代日本人の歴史理解力では、敗者の滅びの物語を含む倭(やまと)の『古事記』を読めても勝者の正統性を主張する日本国の正史『日本書紀』は読めないし、ましてや北畠親房の『神皇正統記』や徳川光圀が編纂を命じた『大日本史』は理解不能である。
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日本書紀「神代」の真実 - 邪馬台国からヤマト王権への系譜 - (ワニブックスPLUS新書)