☯27〕─2─恥辱と屈辱に塗れた惨めな丙子胡乱。皇帝用語「皇」「勅」の国書問題。〜No.74No.75No.76 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 宮脇淳子天皇陛下をはじめとする外国の元首どころか、そもそも自分の国の大統領や、目上の人、世話になった人に対しても、韓国人が心から尊敬することはいっさいない」(『中国・韓国の正体』)
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 日本の歴史は、高麗・高麗系蒙古連合軍を勇猛果敢に撃退した元寇(蒙古襲来)である。
 朝鮮の歴史は、清国軍に敗北した恥辱と屈辱に塗れた丙子胡乱である。
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 朝鮮伝統文化の「恨」と「怨」の本質は、他人無視の自分だけで、傲慢と不遜で礼がなく、ウソと欺瞞で真実と真理がなく、現実の事実には価値を認めず踏みにじり忘却した。
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 朝鮮人にとって、日本の天皇・皇族・皇室は無価値な屑・無教養の野蛮人・無くても構わない無用の長物であった。
 帰化人のみが、天皇に忠誠を誓い、皇族を守り、皇室の存続の為に命を犠牲にして働いた。
 反天皇反日的日本人とは、渡来人である。
 渡来人達は、日本国を転覆させる為に反乱・内乱を起こし、天皇を殺す為に弓を引き、皇室を消滅させようとした。
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 2019年7月号 Voice「韓国の『扱い方』は清朝を手本とせよ  平野聡
 400年前の『丙子胡乱(へいしこらん)』が教えてくれる麟国への現実的対処
 乾隆帝
 『なんじの国は礼をしるが、陪臣(ばいしん)は礼を知らぬ』
 1780年に清の乾隆帝が、自ら主催した祝典への参加を固く拒(こば)んだ朝鮮王朝の『燕行使』(朝貢使節)に対して言い放った言葉である。
 ここでいう『礼』とは、儒学的観念でいうところので『礼教』あり、天の下、森羅万象に存在する上下関係を整える規範を指すことから、今日の日本人が意識するところの礼儀一般とは意味内容を異にする。しかし、時代が変わって『礼』の内容を、グローバルな社会や人間関係を円滑にするために広く受け入れられている規範一般を指すととらえ直すなら、日韓関係悪化の場面における韓国の政治エリートの作意ほど、乾隆帝の言に当たはまるものはなかろう。
 筆者は韓国社会が急速に民主化した1980年代に教育を受け、日本のすぐ隣に自由で民主的な国が増えたことを喜び、その後北東アジアから内陸アジアにかけての歴史に関心を抱いた者であるので、日韓関係の悪化を率直に残念に思う。日本の事物を過小評価し、何事も日本に責任があると言い立てる韓国の政治家やメディアに対しては強い違和感を抱かざるを得ない。
 そこで、時代や方法は異なるものの、やはり朝鮮半島のエリートから尊厳を毀損(きそん)される事態に直面した、もう一つの国家・大清帝国(以下清と称する)の事例を紹介し、日本としてはどう対応はすべきか、何らかの示唆を提供したい。
 1636年、丙子胡乱への道
 清を建国した女真(じょしん)人あらため満州人と、鴨緑江(おうりょっこう)の南に独自の『文化王国』を築いた朝鮮との関係は不幸なものであった。
 とりわけ、仏教が栄えた高麗王朝のときにモンゴル(元)が南下して従属を強(し)いた結果、王朝弱体を招いた仏教を否定して国家体制を立て直す思想として、高麗王朝には原理主義的な儒教である朱子学流入した。このことは、その後の朝鮮半島が周囲の他者に関わる際の対応を著(いちじる)しく硬直的にした。
 朱子学は、厳格な人格陶冶(とうや)を修めた聖人君主が礼制を立て、天地万物を貫く上下関係を徹底的に整えることによって、『理(法則)』と『気(現実)』が調和し、社会の安定が実現すると説く。そのような考えに共鳴する高麗の官僚がクーデターを起こして李朝=朝鮮王朝が成立し、同じころ。中華文明の地でも朱子学を尊ぶ明がモンゴルを長城の北に放逐した。朝鮮は以来、明を『上国』と慕い、明の皇帝にもっと近(ちか)しく朱子学的精神に満ちた『東方礼儀の国』であろうとした。
 1592年以後、このような朝鮮に豊臣秀吉が出兵し、明が援助の遠征軍を送った。当時斜陽であった明には、豊臣軍の対明拡大を避けるため朝鮮を戦場とする意図があり、明兵も朝鮮の民衆に乱暴狼藉を加えたため、明は本当に朝鮮にとって感謝に値(あたい)したのか疑問の余地はある。それでも朝鮮は王朝として存立し得たため、明に『再造の恩』を感じた。また朝鮮では、混乱を極めた国家を立て直すためにも一層朱子学的観念が強調され、水軍の将帥(しょうすい)・李舜臣を忠臣のなかの忠臣として神格化する動きが今日まで繰り返し強まることにもなった。
 ところが明は、朝鮮への出兵で財政が傾いたのみならず、朝廷内部における朱子学派と陽明学派の党争などもあって国力が衰微(すいび)した。それでも朝貢国に下賜(かし)する高価な毛皮を調達するため、北方の騎馬民族女真から収奪した結果、反発した女真あらため満州の雄・ヌルハチが後金を建国し、満州人を中心にさまざまな集団の同盟関係をめざすなかで、降伏した一部の漢人を軍事組織『八旗』に取り込んだほか、朝鮮にも協力を求めた。
 しかしそもそも朝鮮からみて北方の騎馬民族は『オランケ(野蛮人)』であり、明を『上国』と慕う立場でったため、朝鮮は後金の誘いを拒否して明と組み、1618年には『サフルの戦い』で大敗を喫(きっ)した。以来朝鮮は、後金から『兄弟』関係を受け容(い)れさせられた。
 ヌルハチの後継者ホンタイジ(皇太極)は、さらに今日の内モンゴルを完全に取り込むと、1636年に国号を大清と改称し、騎馬民族からみれば大ハーン、儒学的価値観からみれば天命を承(う)けた皇帝として君臨した。その際にホンタイジは『兄弟』朝鮮にも即位式への参列を求め、朝鮮の使臣(ししん)に国書を託したものの、このとき清と朝鮮の価値観が衝突した。
 清は明と異なる清新(せいしん)な帝国を立てて、満州・モンゴル・漢・朝鮮といった多様な人びとに等しく安寧(あんねい)を提供しようとした。しかし朝鮮の使節は、『上国』明に対する絶対的な忠誠と、『兄弟』満州人との交隣とのあいだで進退窮(きわ)まり、明の皇帝以外用いるべきではない文字『皇』『朕』が散りばめられた国書の受け取りを執拗(しつよう)に拒んだばかりか、やむを得ず受け取った国書の写しを作成し、本物の国書を帰路の途中に置き去りにした。
 しかしこうした行為すら、漢城(ソウル)の廷臣(ていしん)により糾弾され、使臣は『ホンタイジの面前で破棄しなかった』罪で処罰されたほか、『明への忠誠をやめてオランケを戴く不義の国家に落ちぶれるよりも滅亡するほうがいい』といった類(たぐい)の、『民』不在の斥和(せきわ)論が充満した。
 ホンタイジとしては、『兄弟』朝鮮の度を超えた無礼を糾(ただ)すにはいられなくなり、1636年の末に自ら漢城を攻めた。行き場を失った朝鮮国王・仁祖(インジョ)と廷臣は南漢城で絶望的な包囲に晒(さら)され、ついに王朝滅亡を避けるため、国王が平服を着用して徒歩で下山し、ホンタイジの前で三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)することを受け容れた。
 これが、朝鮮半島史上稀(まれ)に見る屈辱『丙子胡乱』である(興味をおもちの方には韓国映画天命の城』をお勧めする)。そして、ホンタイジが寛大な心で朝鮮国王を許し、朝貢国として存続することを認めたという趣旨の『三田渡碑({センジョンドビ}大清皇帝功徳碑)』が、ソウルメトロ蚕室(チャムシル)駅至近に現存している。
 『熱河日記』にみる朝鮮朱子学
 明は反乱の嵐のなか、1644年になると崇禎帝(すうていてい)の自殺により崩壊し、明の遺臣・呉三桂が山海関の扉を開いて以来、北京に入った清が漢人社会をも支配した。三田渡の屈辱を味わった朝鮮が待望する『上国』明の再興は叶わず、個々人のレベルでは崇禎後紀元を使って明への忠誠を思いつつも、王朝としては引き続き清に朝貢しれ歴代皇帝の正朔({せいさく}年号と暦)を使わざるをえなくなった。むしろそううることで、朝鮮こそ新たな清の『天下』においてもっと『礼』を実践する国家であることを示すのみならず、明の崩壊後も真の『中華』らしさが朝鮮で継承されていると自負した。このような意識を小中華思想という。
 表向き清に臣従しながらも、朝鮮の国内では崇禎後紀が語られ、満州人皇帝への嫌悪が蔓延したことに対し、清がとった対応は明快であった。清と朝鮮は儒学的概念による『天下』の論理を共有する。ただ、『オランケ』が明の後を継いで、『天下の主』となったことを認めたか否かの問題である。そこで、清と朝鮮のあいだで朝貢儀礼が繰り返され、皇帝と臣下たる国王の関係が表向き常に再確認されさえすれば、朝鮮の内幕は深く問わなかった。
 そもそも清からみて、他の朝貢国にしても、あるいは排満思想を抱き続けた漢人社会にしても、満州人皇帝と完全に同じ価値観を共有し得ないことは百も承知であった(たとえば、琉球が薩摩・江戸と北京双方の影響下にあることも、本来であれば二重の忠誠という大問題であるが、北京は見て見ぬ振りを貫いた)。その代わり、清が朝貢国を含めた『天下』の安寧と『盛世』実現のために尽力していることを絶対に認めさせるという点で、清は決して妥協しなかった。
 その結果、満州人皇帝がめざす『天下』のありようと、朝鮮が信じる朱子学の『礼』とのあいだに深刻な亀裂が生じた。清は単に朝鮮と朱子学的論理による君臣関係を結んでいたのみならず、騎馬兵力の連帯という見地からチベット仏教を手厚く保護することで、今日の中華人民共和国+モンゴルに相当する範囲に君臨した。満州皇帝は、朱子学と仏教それぞれの論理を使い分けて『天下』を統治していたものの、皇帝にしてみれば如何なる『教』であれ、人心を整えて社会に安寧をもたらす点では同じであり、等しく尊重しあうことが望ましい。
 しかしそのような発想は、仏教の『空』を激しく嫌悪して『淫祠(いんし)・邪教』扱いする朱子学からみれば、天地を逆転させる迷妄(めいもう)である(朱子学者は仏陀を『浮屠』と呼ぶなど悪罵{あくば}を尽くした)。もっとも、そもそも皇帝がしばしば仏教や道教を尊重することもまた、その時点での『天の意志』の表れであり、朱子学者は強い不満を覚えても、敢えて皇帝を糾弾しないのが常であった。
 とはいえ、朱子学的観念で武装した社会に君臨した朝鮮のエリートにとって、彼らの『礼』に合致しない外部の思想や行動と妥協することは、決してその場限りの問題ではなく、最終的に彼らの自国内における体面を著しく毀損する問題である。だからこそ丙子胡乱に先立ち、ホンタイジへの度を超した無礼が生じたのであり、また改めて乾隆帝の面前でもこの問題が露呈した。1780年に朝鮮から送られた『燕行使』は、乾隆帝チベット仏教を手厚く保護する行為に対し無礼極まりない態度をとり、本論冒頭に示した乾隆帝の怒りの言を誘ったのである。その状況は、随員として同行した当時の朝鮮きっての実学者・朴趾源(パクチウォン)による『熱河日記』のなかで、好奇心の趣(おもむ)くままに綴られている。
 この年、乾隆帝チベット仏教の最大宗派である黄帽派の第二の活仏であるパンチェン・ラマ6世を北京と熱河(現在の承徳市。夏の離宮『避暑山荘』やチベット仏教の大伽藍が並ぶ)に迎えて大々的な仏教的祝典を催し、ちょうど北京を訪問していた朝貢国の使節にも参列を命じた。これに対し朝鮮の『燕行使』一行は強硬に拒否して乾隆帝を当惑させ、ついに乾隆帝から冒頭の言が発せられたことで『我らは死ぬ』と泣き叫ぶに至った。それでもついに乾隆帝の厳命でパンチェン・ラマからの祝福を受けることになった彼らは、茫然自失のまま護身の仏像をパンチェン・ラマから授与されてしまった。
 使臣の一部はその後仏像を売却し、その代金すら汚らわしいと考えて馬子に与えたほか、正使が受け取ってしまった仏像の扱いをめぐって朝鮮王朝は大混乱に陥り、最後には平壌の北にある妙香山に安置して漢城には入れない措置をとったほか、その場で受け取りを拒否しなかった使節の『不潔さ』が厳しく糾弾された。
 残ったのは『小中華』としての自己満足のみ
 以上の経緯は、清と朝鮮いずれの正式な記録にも表れず、双方ともに伏せることで関係を辛うじて維持した。筆者は以前、『熱河日記』の原本が朝鮮王朝の文書館『奎章閣』(現在はソウル大学校にある)のもっとも目立つ位置に展示されているのを目にして、朱子学への過度の固執、あるいは自国中心の『礼』の過剰な発露が他者と衝突した場合の惨憺(さんたん)たる結果を痛感したものである。
 清はこうして朝鮮に対し、繰り返し自らの論理をとおし、有無を言わせず従わせた。しかし、朝鮮のエリートの体面を損(そこ)ねたがゆえに、満州人皇帝が良心の痛みを感じたということはまったくない。
 丙子胡乱についていえば、清との『兄弟』関係がたとえ強いられたものであったとしても、朝鮮は明と清のあいだで慎重に振る舞うべきであった。しかし、妥協の余地なき対明『義理』がついに、清に対する極めつけの無礼に転じた以上、清は朝鮮も理解するところの『天下』の論理で服従されたにすぎない。
 朝鮮からの『燕行使』を批判した乾隆帝は、儒学とは異なる論理で生きる人びとをも包合した『天下』全体の安定を優先され、頑(かたく)なな『礼』を奉じる人びとと仏教のあいだに架橋しようとした。ついに仏教祝典に参列させられた『燕行使』の内面の屈辱と、彼らが朝鮮に帰国後受ける糾弾などはまったくとるに足らなかった。
 その後、1895年の下関条約締結まで、少なくとも両者が共有する『天下』の秩序に従って、朝鮮は清に臣従し続けた。如何ともし難い朝鮮は結局、朝貢儀礼の実践によって『小中華』としての自己満足を得るしかなかった。
 このように、清の朝鮮に対する態度は、あくまで最低限共有しうる規範に基づいて、よりグローバルな基準に立つ側が、狭い基準に基づいて礼儀を失する側に対して、有無を言わせず規範を遵守(じゅんしゅ)させたものであった。それでも朝鮮が彼らの狭い『礼』にこだわるとすれば、彼らなりの『義理』を泣き叫びながら貫く姿勢を見せるしかないし(個人がどう行動するか、常に周囲の朱子学エリートが見ており、お互いに蹴落とす口実にもなる)、清への不満を繰り返し内向きに語るしかない。
 また、屈辱を受けたなりに、与えられた秩序のなかでますます優等生的な存在であろうとする。そうすることで、精神的に清に屈服せず『克服』したことを内向きに説明することができる(近代中国文学の巨人・魯迅が『精神勝利法』と呼んだ行動様式である)。清はそのような朝鮮の内面に立ち入ることはしなかった。
 『価値観の共有』では規範の遵守を
 日韓関係も、相互不信のなかで結局『共存』した清と朝鮮の関係と似たような展開とならざるを得ない。
 日韓関係の背後に、歴史上しばしば日本が朝鮮・韓国を圧迫した不幸な関係があることは確かである。しかし、国際関係はもとよりあらゆる人間関係において、お互いの見解や立場が完全に一致しうるわけではないなか、時間をかけて対立を緩和して共存の利益を増すことこそが望ましい。現に日本はこのような見地から、戦後一貫して戦後賠償・経済協力に努めてきた(と筆者は考える)。
 それにもかかわず『未来志向』に逆行する展開が、主に韓国の一方的な行為によって増幅されているのはなぜか。そもそも関係のつくり方という点において、日本と韓国が価値観を共有していないためであろう。
 韓国側こそ道徳的で正義であり、『日本を克服した(克日)』という思い込みが強まる都度、彼らの内面で新たに想像され美化される原理・原初に照らして、乖離(かいり)した現実を修正しようとする。それが対日『積弊精算』であり、既存の条約や取り決めを無視したことで生じる問題の責任を日本に転嫁するという行為(それもまた『道徳心の発露』である)として表れている。問題の本質は、日本という存在を国際法の主体・対等な国と見なさず『どうでもよい』と考える韓国側の内向きな論理にあり、もはや『いまこそ日本の真摯(しんし)な謝罪が必要である』という段階ではない。
 日本と韓国が第三国との関係で最低限共有する規範=今日でいえば国際法や一般的な国際的礼譲(れいじょう)に則して、韓国の政治エリートが自ら逸脱を修正せざるをえない局面に持ち込むことが必要である。それで改めて韓国側が屈辱を感じ、国内で批判に晒され、対日ナショナリズムが再生産される可能性が高いものの、いまや日本としては国際的な規範に終始し、普通の国家として韓国に相対するのみであり、特別な遠慮に及ぶ必要はない。お互いに価値観を共有し得ないながらも、一般的な国際的規範にともに従ったほうがよいことを確認したとき、初めて『未来志向』を語ればよい。
 とりわけ新元号『令和』は『和たらしむ』と読め、積極的平和主義を意味すると解することもできる。このような新時代にあって必要なのは、決して自国中心主義的な道徳観ではなく、グローバルな規範・第三者の視線にも照らして妥当な問題解決である。
 それは情誼(じょうぎ)よりも規範に管理され、内向きの不満も残り続ける『冷たい和=冷和』であるが、実際の紛争よりもはるかによい」
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 朝鮮は、国際・世界・アジア・東アジア・中華などの国外情勢を見る事なく、考慮する事なく、理解する事なく、自国中心・自分中心で考え行動する。
 つまり、彼らには、他国も他国民も他人も見ようとはしないから、一切の配慮も忖度もしない。
 彼らの視界や思考から、他国や他国民や他人は排除されている。
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 朝鮮が見ているのは中国の正統性・正義だけであり、日本人を教養なき野蛮人と差別し軽蔑し嘲笑し、対等関係どころか存在そのものを否定するが如く日本に背を向けていた。
 朝鮮は、中華帝国・中国に縋って生きても、日本と共に生きたいとは思ってはいないどころか、日本とは友人になりたくないし、日本と共に生きる事を嫌っていた。
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 朝鮮人の思考や行動とは、常識や道理をわきまえて我慢・堪える大人の対応ではなく、場所や時間を一切気にせず親や大人を根負けさせる子供の対応、つまり泣き叫び転げ回って駄駄を捏ねて言う事を聞かず相手に無理を強いる事である。
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 朝鮮と中国を衰退させ近代化を拒絶したのは、儒教原理主義朱子学であった。
 日本の儒教は、正統派朱子学ではなく異端派の論語儒学である。
 儒教にとって、仏教は秩序を破壊する革命宗教であった。
 廃仏毀釈を行ったのは、朱子学である。
 その意味で、日本の近代化は日本の朱子学化をもたらした。
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 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海であった。
 反日派敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国であった。
 朝鮮の正統性は、親日派知日派ではなく反日派敵日派にある。
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 日本と朝鮮の間には、統一新羅以来、友好も善隣も一切存在していなかった。
 日本には、朝鮮への愛も信もなかった。
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 南方海洋民を主たる祖先とする日本民族日本人と西方草原の民を主たる祖先とする漢族系中国人・朝鮮人・韓国人とは、顔かたちはや体付きがにかよっていても、感情や思考そして行動や趣向は異なる。
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 日本は、日本天皇元号(暦)、通貨、度量衡、日本国語による文字などを持つ自主独立国家であった。
 朝鮮は、中華皇帝から国王を承認してもらい、元号(暦)、通貨、度量衡、中国語の漢字の使用を許可された、自主独立のない中国の従属国であった。
 ベトナムは朝鮮と同じ中国の属国であっが気骨は違い、ベトナムは戦士として無駄と知りながら死を恐れず死力を尽くして抵抗し、朝鮮は文人として無駄を嫌い命を守る為に戦う事を放棄して大人しく従った。
 日本は、命を大事にする朝鮮ではなく、死を恐れないベトナムににていた。
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 日本の儒教と中国・朝鮮の儒教は違う。
 朝鮮の発展・進歩を潰したのは、儒教原理主義とも言える朱子学の教学であった。
 日本の儒教論語儒学で、正統派の朱子学を形骸化した御蔭で近代化に成功した。
 当然、仏教においても、日本仏教と中国仏教・朝鮮仏教は違う。
 そして、近代化や自由・民主主義においても異なる。
 つまり、日本と中国・朝鮮とは同じ所が少なく、違う所が多い。
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 朝鮮が発展・進歩を断念し貧困・困窮を貫いたのは、宗主国である中国による略奪と搾取、迫害と虐殺から祖国と国民を守る為の苦肉の策であった。
 つまり、獲られるモノ・奪われるモノがなければ安心・安全と言う事である。
 中国皇帝に冊封し土下座をして属国を誓い、忠実な臣下として礼をつくし、朝貢して高額な下賜品を賜って貧しさを補う。
 「貧しさに耐えなければならない」という不甲斐ない負け犬根性が、自分に対する「恨」と日本に対する「怨」という歪(いびつ)な感情を生み、癒やされる事がない僻(ひが)みを増殖させた。
 ゆえに、朝鮮人が真っ当な人間として平常心を保って平穏な生活を送るには、恨と怨を増幅させた罵詈雑言を吐き憂さを晴らせる野蛮人・下等人が必要であった。
 北方の蛮族であった満州人やモンゴル人は帝国を築きその軍門に降り臣下の礼をとった以上はそれができない、近隣で唯一残るのは日本人だけであった。
 それ故に、日本が如何に誠意を持って謝罪した所で、永久に、朝鮮は日本の謝罪を受け入れないし心を許した友人になるきはサラサラない。
 韓国人・朝鮮人に許して貰えるまで謝罪と反省と賠償金を払うべきだという日本人は、物事の道理をわきまえた大人でもなく、物事の道理を学ぼうとする子供でもなく、物事の道理が理解できないか拒否する乳幼児レベルである。
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 小中華主義の朝鮮は、日本国を野蛮国な下等国と見下し、日本民族日本人を無教養の蛮族と軽蔑していた。
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 江戸幕府は、生薬の高麗人参や高麗茶碗・高麗青磁などの陶磁器を高額で輸入したが、朝鮮人の入国を拒絶し、日本人の朝鮮や中国への渡航を禁止していた。
 日本と朝鮮の交流は、モノとカネのみで、ヒトの往来はなかった。
 日本と朝鮮の間には、友好や善隣など存在しなかった。
 江戸幕府はは、朝鮮との交易を縮小する為に、輸入品の量を減らすべく高麗人参や陶磁器の国内生産に力を入れた。
 日本は陶磁器を国産品として、オランダを通じて西洋に輸出し、世界で人気となり高値で取引された。
 日本の陶磁器はグローバル製品として飛ぶように売れ、朝鮮の陶磁器はローカル製品となり細々と取引された。
 その頃から、「日本海」は世界で知られていた。
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 統一新羅以来、約1400年間、朝鮮は中華帝国の属国として、中華皇帝の裁可を得なければ国王に即位できなかった。
 朝鮮は、中華皇帝の命令に従って、少女・女性を宮中慰安婦(妓生)とし、少年・男性を宮中奴隷(宦官)として献上していた。
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