🎍16〕─2─聖徳太子は、神道価値観に仏教の行動的規範と儒教の道徳的慣習を加えた。法華経。~No.47 

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 中国・朝鮮は儒教国家であったが、日本は儒教国家ではなかった。
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 聖徳太子が学んだ仏教は法華経であった。
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 反天皇反日的日本人は、聖徳太子が嫌いである。
 共産主義者マルクス主義者)は、反宗教無神論儒教を許容しても仏教や神道を否定している。
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 (本記事は『Voice』2018年3月号、石平氏の「儒教ではなく仏教を選んだ聖徳太子の思想戦略」を一部、抜粋したものです。全文は2月10日発売の3月号をご覧ください)
 石平 聖徳太子の思想戦略
 2018年02月07日 公開
 石平(評論家)
 「関ケ原合戦」は戦争とは呼べない
 ――本書『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか』には、中華思想の背景には、儒教特有の「天命思想」や「徳治主義」があると指摘されています。
 石 天命思想とは、日本語でいえば皇帝への箔付けです。皇帝は人間社会の支配権を「天」から任されており、民衆は誰もが「天」の子である皇帝に服従しなくてはならない、という理屈になっている。
 この天命思想とセットとなるのが、徳治主義です。「天」はどういう基準で皇帝を選ぶのか。儒教においては「徳」とされます。天下万民のなかで、最も「徳」がある者が天下の支配を委ねられるとされるのです。
 ――為政者に「徳」が求められるのは当然で、西郷隆盛のいう「敬天愛人」と本質的には近い気もしますが。
 石 まったく異なります。「天命思想」にしても「徳治主義」にしても、皇帝が自身の政治支配を担保するための欺瞞にほかなりません。実際の中国史を見れば、そのことがよくわかります。漢の高祖である劉邦からして、典型的なならず者でしょう(笑)。そもそも皇帝になる条件が「徳のある人格者」であったら、古代から中国であんなに戦乱ばかりが続くわけがない。
 たとえば、私が天下分け目の戦いが行なわれたという関ケ原岐阜県関ケ原町)に行って驚いたのは、そのあまりに狭いこと。しかも戦いは1日で決着した。中国の基準ではこれは戦争とは呼びません(笑)。  
 ――関ケ原に集まった武将の多くが戦闘には参加していません。これを悪くいえば、自己保身。よくいえば無駄な血は流したくなかったといえる。西郷さんにしても、勝海舟との「話し合い」で江戸無血開城を実現しています。江戸が戦火になれば、多くの民衆が苦難に陥るという考えがあった。まさに「敬天愛人」の「愛人」の実践です。
 石 それこそ日本の「徳治主義」、すなわち「武士道」の姿でしょう。中国にはそうした発想はありませんから、ひとたび戦乱期、革命期に入ると、何百万人の民衆の血が流れる。どちらかの勢力が倒れるまで、戦い続ける。しかし、そのぶん中国の歴史は波乱続きで面白いといえます。日本の歴史は平和な期間が長すぎて、ちょっと退屈です(笑)。

儒教」=「論語」という誤解
 ――不思議なのは、儒教中華思想を支えるのに利用されたという一方で、孔子の教えをまとめた『論語』に代表されるように、日本では道徳面を説いた「良い教え」という印象が強いことです。中国の権力者が『論語』に書いてあることを守っていれば、あんなに戦乱が続くはずもないと思うのですが。
 石 そこが、日本人が陥りがちな典型的な誤解なのかもしれません。たしかに孔子は「巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」という言葉に代表されるように、「人としてのあるべき姿」を説きました。そのような孔子が説く教えのうち、弟子たちが覚えていたものをまとめたのが『論語』なわけです。もとより体系化されたものではなく、論理性に乏しい。たとえば、「仁」が大事といっても、肝心の「仁」の定義が『論語』には書かれていない。
 間違いなくいえるのは、『論語』とのちの儒教とはあまり関係がないことです。そもそも、儒教を「国家的宗教」にまつり上げたのは、漢の武帝です。彼は、中国史において最も戦争を行なった人物として知られています。このときから、「天命思想」や「徳治主義」の考え方が用いられ、政権の後ろ盾として儒教が利用され始めた。しかしこのような国家的イデオロギーとしての儒教は、孔子の『論語』の世界からすでに遠く離れています。
 その過程で、「孔子の教え」は中国から忘れ去られていきました。私から見れば、いまの日本人のほうがよほど『論語』の世界に生きています。それこそ『論語』を読んだことがない大阪のおばちゃんですら、自然とその教えを守っている(笑)。
 ――日本で『論語』が長く親しまれてきたのも、自分たちの感性に フィットする読み方ができるような、普遍的な人生訓だったからかもしれません。いずれにせよ、『論語』が儒教とは関係ないとすれば、日本人は儒教、ひいては中華思想とどのように付き合ってきたのでしょうか。
 石 日本には古代に儒教と仏教がほぼ同じ時期に入ってきたのですが、当時の人びとは儒教に対してきわめて冷淡な態度で接していました。
 たしかに聖徳太子が制定した十七条憲法には、儒教の用語や儒教経典からの引用が見られます。それから約1世紀後の大宝律令養老律令においても、朝廷の高級官僚の養成機関である大学寮が整備された際には、儒教経典が必修科目に定められています。しかし、古代において儒教の受容はある意味で「この程度」であり、社会全体に広がる思想ではありませんでした。
 これが仏教となると、大きく事情が異なります。聖徳太子は摂政になると、国家プロジェクトとして仏教の振興に力を注ぎ、難波に四天王寺を、大和朝廷の中心地である飛鳥には法隆寺を建立し、仏教普及の拠点としました。あの時代、日本は驚くほどの短期間で、アジアでも有数の仏教国家へと変貌を遂げました。
 ――儒教と仏教の受容の違いは、どんな理由から生まれたのでしょうか。
 石 聖徳太子を中心とする大和朝廷は、大きな政治的課題として「中国からいかに日本の自立を守るか」を掲げていました。その考えを汲めば、儒教ではなく仏教を選んだ理由はわかります。
 もしも中国を頂点、中心とする儒教を全面的に取り入れれば、それは日本が中華秩序の一員となり、中華帝国のいわば子分となることを意味します。実際、朝鮮は中国一の子分に自ら望んでなりました。しかし、「世界宗教」である仏教の世界では、日本も中国も対等です。だからこそ、大和朝廷は仏教を選んだのです。これはきわめて高度な思想戦略というべきものです。
 ――それだけの国際感覚を当時の日本人は抱いていたのですね。
 石 そうです。そして聖徳太子らの決断により、以降も日本は中華秩序にのみ込まれることなく、独立を保ち続けることに成功しました。これは、東アジア諸国のなかではほぼ唯一のことです。日本ははるか昔に「脱中華」をスタートさせていたことになります。
 ――大増刷が決定した『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか』でも解説されていますが、江戸時代に入ると、徳川幕府儒教儒学)を社会の中心に定めます。これはなぜでしょうか。
 石 戦国時代に織田信長一向一揆で苦しめられた史実は、よくご存じでしょう。時代が下るにつれ、仏教は大衆化することで、民衆を広範囲に結集する力をもちました。その最たる例が一向一揆であり、その恐ろしさを肌で理解していたのが徳川家康でした。家康は、仏教に取って代わる新しいイデオロギーが必要だと思案します。そこで目を向けたのが、儒教でした。つまり、儒教を利用して仏教を抑え付けようとしたわけです。なお江戸時代で儒教といえば朱子学が盛んであり、幕府も官学にしました。
 ただし、重要なのは、日本では朱子学を学んだほぼ直後から、その内容に疑問を感じて乗り越えようとした思想家が現れたということです。荻生徂徠伊藤仁斎がその代表です。
 ――彼らが疑問に感じたのは、朱子学のどの部分だったのでしょうか。
 石 私にいわせれば、朱子学が日本人の精神に合うはずがないのです。というのも、朱子学は究極の原理主義で、人間の欲を極端に抑え付ける思想だからです。かつての明、清や李氏朝鮮は、朱子学に基づいた社会をつくりましたが、「三従四徳」という考え方があります。これは、女性は生まれてからは父親、結婚したら夫、夫が亡くなったら息子に従うという教え。それでは夫も息子もいなくなったら、どうするのか。驚くべきことに、殉死するほかないのです。ある史料によれば、明では毎年、1万人ほどの殉死者がいたとされています。
 同じころ、日本は戦国時代から江戸時代でしたが、2代将軍・徳川秀忠正室であるお江(崇源院)にとって、秀忠はなんと3人目の夫です。「昨日の敵は今日の友」「惻隠の情」という言葉に代表されるように、恩讐を超えて、目の前の人間を大切にする。それが日本人の気質なのであり、そうであればこそ、朱子学は日本人にとっては「論外」の教えだった。
 ――荻生徂徠伊藤仁斎は、そのことを見抜いていたわけですね。
 石 そうでしょう。彼らが朱子学からの脱却を唱えたのちに登場したのが、賀茂真淵本居宣長です。かくして日本で国学が誕生した。ここで詳述はしませんが、このとき日本人は儒教、さらにいえば中華思想を完全に切り捨て、『古事記』や『日本書紀』、『源氏物語』などに代表される、日本人の本来の心に立ち返ったのです。
 そもそもの始まりは、儒教ではなく仏教を選んだ聖徳太子の英断にあったといえますが、そうした先達の懸命かつ賢明な判断があればこそ、日本は東アジアにおいて、中華秩序の呪縛にとらわれずに済んだのです。」
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 儒教と言っても一つではない。
 中国や朝鮮では権力が認める官学儒教(正統派儒教)のみか存在しないが、日本では私学の諸派儒教が複数存在していた。
 聖徳太子儒教と、足利学校儒教と、江戸時代の儒教と、明治時代の儒教と、現代日本儒教と、では別の儒教である。
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 聖徳太子は、儒教の真義から「和」のみを日本に定着させたが、それ以外の硬直した不寛容・排他的な教義を敬して遠ざけた。
 聖徳太子のお蔭で、日本では儒教原理主義による宗教・諸学弾圧は起きなかった。
 聖徳太子は、儒教原理主義的教義を日本から排除した。
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 江戸時代の官学儒教朱子学)が行った弾圧は、学問では蛮社の獄であり、宗教ではキリシタン弾圧と徳川光圀廃仏毀釈であった。
 それでも、西洋・中世キリスト教会の宗教裁判・異端審問・魔女狩り、中国や朝鮮の宗教弾圧ほど残虐性はなかった。
 日本の宗教や学問に対する弾圧は、世界的に見れば小規模で、徹底性が乏しかった。
 日本の弾圧は限定的で、煽動者や同調幹部など少人数を処罰したが、その他は命を取る事なく軽い罰にとどめて放免とした。
 つまり、性善説的に「罪を憎んでも、人を憎まず」で、正しさを諭して悔悛させることである。
 中国・朝鮮や西洋での弾圧は殲滅で、一切容赦せず、問答無用で、女子供に関係なく根こそぎ虐殺した。
 つまり、性悪説的に「毒虫の子は毒虫」で、善人か悪人かは殺した後に絶対神が審判を下し、善人の魂は天国に召され、悪人の魂は地獄に堕としてくれる。よって、絶対神の御名によって実行される殺人は善行であって悪行ではない。
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 中国や朝鮮では、儒教は国家を一つにまとめ王朝を守る為に幾度も仏教や諸学派を弾圧した。
 弾圧されていた革命宗教の仏教と諸学派は、貧困層を味方に付けて反乱を繰り返していた。
 儒教は、祖先を聖人・賢者として奉る祖先崇拝から、神・仏・鬼を否定し、宗教を拒絶した。
 宗教系反乱軍は、大虐殺をおこない、死体の山や血の湖を築いて儒教王朝を滅ぼした。
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 死臭や血生臭さは、中国・朝鮮で嘔吐したくなるほどひどかったが、日本はそれほどきつくなかった。
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 日本で儒教原理主義的な宗教弾圧が発生したのが明治初期で、仏教に対しては廃仏毀釈で、神道に対しては神社合祀令と国家神道であった。
 国家神道は、儒教による宗教弾圧の産物である、つまり江戸時代までの皇室の宮中祭祀や鎮守の神社神道にはなかった参拝形式であった。
 武士道による教育勅語軍人勅諭は、中国思想の儒教で、日本の神道でもインドの仏教でもない。
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 武士道は、明治に新しく作られた新しい精神で、江戸時代にはなかった。
 武士の覚悟とは、表面は儒教であったが、内面は仏教特に禅宗の座禅であった。
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 聖徳教育の原点
 聖徳太子が十七条憲法を制定したのは、当時の政治家や官僚に守るべき心得を示唆するためでした。その第一条で「和の精神」こそが智を啓き、道徳心を養う根本であるとしましたが、香順先生はここに教育の普遍的で根源的な姿をみたのです。
 この「和の精神」は、太子が帰依していた仏教と、中国から伝来していた儒教の融合から生まれた思想ですが、もともとは「礼の用は和を貴しと為す」という論語の一節が原点でした。
 その論語の中で孔子は特に「礼」を重視し、上に立つ人間が、下の人間に対して礼をもって接すれば、自ずと下の人間にも礼の大切さが身についていくと説いています。ただ、それだけでは人間関係が円満にならないので、「和」を心がけようとも説いたわけです。「和」とは、なごみであり、親しみであり、穏やかさであり、助け合うことであり、他人を思いやることです。
 www.seitoku.jp/gakuen/wa0801/contents05/main06.html
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 一条真也 『第五講 仏教と儒教
 また、ひろさちや氏は、三つの宗教の関係について『仏教と儒教』にこう書いている。
 「仏教は最初から、道家儒教の思想や術語をうまく摂りこんできました。翻訳経典の訳語なども、伝統的な中国語が多く使われています。そうすることによって、仏教の外来性を薄めてきました。それも、儒教と仏教のあいだに大きな文化摩擦の生じなかった原因でしょう」
 そして、中国における儒・道・仏の三教一致は、日本においては神・儒・仏の三教一致となった。仏教と儒教は日本における二大外来思想だが、外来思想同士であるという点においては、大きな対立が生じようがない。しかも、仏教はいち早く神道と習合し、日本化した。神道と混ざり合うことによって、仏教は「日本人の宗教」になったのである。それに対して、儒教は本来の宗教性を薄めることによって日本文化の中に浸透した。宗教としてではなく、学問や制度や道徳倫理として、儒教は日本人の中に定着したのである。江戸の儒者が仏教攻撃を展開したように、もちろん理論上や学問上の対立はあった。しかし、仏教と儒教が宗教として対立し、日本で宗教戦争を起こすことなど絶対にありえないことだったのである。
 日本に入ってきた仏教と儒教にとって、最初にして最大の理解者はやはり聖徳太子であった。日本の神々を尊重する廃仏派から迫害された仏教を蘇我氏とともに日本に定着させ、日本仏教の道を開いたともいえる太子は、『勝蔓経』『維摩経』『法華経』の三経を重んじ、その註釈書としての『三経義疏』を自ら著した。太子がこの三経を選択したことについて、陽明学者の安岡正篤などは、その見識に感嘆せざるを得ないと高く評価している。安岡は著書『日本精神通義』において、次のように述べる。
 「三経ともに大乗仏教の根本経典でありまして、これをインド仏教が仏成道三七日後、鹿野苑(ろくやおん)において劣機鈍根の者にこんこんと説かれたという阿含(あごん)に発し、中国仏教が着実卑近な四十二章経から起こっているのに較べると、日本仏教の高邁な起こりに感服せざるを得ません」
 また安岡は、維摩詰を形容した「心の大なること海の如し」というにふさわしい聖徳太子は、その註釈にまた『論語』も『孝経』も『左伝』も、さらには『老子』も自由に引用しているということも見過ごすことができないと述べている。太子の儒教理解の深さは、「冠位十二階」や「憲法十七条」にも十分に発揮されていることはよく知られる。
 このように仏教にも儒教にも深い理解を示した太子であったが、やはり最大の功績は日本仏教の道を開いたことだろう。太子がファウンダーの役割を果たした日本の仏教は後世、大きな花を咲かせ、日本は世界に冠たる仏教王国となっていったのである。
 そのせいか、江戸時代の儒者国学者は盛んに太子を攻撃している。林羅山などは「八耳(やつみみ)、天皇を弑(し)す」とまで極限している。「八耳」とは太子の呼称であり、「弑す」とは「殺す」の意味だろうから、聖徳太子が崇峻(すしゅん)天皇を殺したということである。しかし崇峻天皇の暗殺は、蘇我馬子推古天皇に相談して計画・実行されたとされており、太子を犯人扱いにするのは言いがかりもはなはだしい。おそらく、羅山は太子が仏教に肩入れしたことが憎くてたまらなかったのだろう。
 また、太子は「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」という言葉を残しているが、これも江戸の儒者の攻撃の的になった。摂政とは政治家であり、宗教家ではない。その政治家が、世間はバーチャルであって、ただ彼岸の世界の存在である仏だけがリアルだなどというのは間違っている。それでは、政治家としての責任を果たしておらず、そもそも政治家になるべきではない。このような批判を荻生徂徠などが展開した。
 しかし、太子は仏教のみを公式イデオロギーにしたわけではなく、儒教を用いて「冠位十二階」や「憲法十七条」を制定し、現実の政治において多大な業績を残したのだから、この批判も的はずれである。太子には、すぐれたバランス感覚があったのである。
 聖徳太子の後、日本の仏教界と中国の仏教界との交流が行われた。最澄空海らは入唐(にっとう)したが、栄西道元らは入宋(にっそう)した。その間には約四〇〇年が経過しているが、儒教の歴史において革命的事件が起きている。いわゆる新儒教の誕生である。
 北宋に周濂渓(しゅうれんけい)や程明道(ていめいどう)・程伊川(ていいせん)の兄弟、邵康節(しょうこうせつ)や張横渠(ちょうおうきょ)などが出るとともに、儒教も面目を一新し、実践的な儒教に深い思索を加え、精神生活あるいは人格生活の学とでもいうべきものを、それぞれ樹立した。南宋朱子はこれらの儒教説を集大成し、孔子以来の儒教を再解釈して、宇宙・社会・人間を首尾一貫した論理でとらえようとしたのである。彼の朱子学は、宋学とも呼ばれた。
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ウィキペディア
 聖徳太子敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))または厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)は、飛鳥時代の皇族・政治家。「聖徳太子」は、後世の諡号用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女

 ゆかりの神社
 敬神の詔を推古15年(607年)に出したことからわかるように、聖徳太子神道の神をも厚く祀った。四天王寺境内には鳥居があるほか、伊勢遥拝所・熊野権現遥拝所、守屋祠がある。
四天王寺七宮 - 聖徳太子創建。 小儀神社(四天王寺東門前)、土塔神社(同南門前)、河堀稲生神社天王寺区大道)、久保神社(同勝山)、大江神社(同夕陽丘町)、堀越神社(同茶臼山町)、上之宮神社(同上之宮町)
玉造稲荷神社大阪市中央区玉造) - 聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。
龍田神社奈良県生駒郡斑鳩町龍田) - 聖徳太子法隆寺の建設地を探していたとき、白髪の老人の姿をした龍田大明神が「斑鳩の里が仏法興隆の地である。私はその守護神となる」と託宣したので、その地を選び、鎮守社とした。
・御影の綱敷天満宮(神戸市東灘区御影) - 四天王寺創建の際、六甲山の御影石を切り出し、その際、蒼稲魂神を合せ祠る。その御神体と、聖徳太子の所持していた笏と駒角が現存する。
竜王宮(滋賀県竜王町鏡山) - 山頂付近に聖徳太子26歳の時、自ら観音像を彫られ創建された雲冠寺(うんかんじ)跡がある。 雨の神・水の神ともいわれる八大竜王龍王宮として祀られ、寺院の守護をした。
・飽波神社(生駒郡安堵町) - 聖徳太子牛頭天王を祀ったのが創建と伝えられ、飽波宮のあった場所と比定する説もある。主祭神素戔嗚尊
・森之宮神社(鵲森宮〈かささぎもりみや〉、大阪市中央区森之宮) - 用明天皇と間人皇后を祀る。聖徳太子創建。
・福王神社(三重県三重郡菰野町田口) - 聖徳太子の命により毘沙門天が安置され、国の鎮護と伊勢神宮の守りとしたと伝わる。
・御沢神社(おさわじんじゃ、滋賀県東近江市上平木町) - 主祭神は市杵嶋姫命、弁財天女、聖徳太子、八大龍王聖徳太子蘇我馬子に命じてこの一帯を開墾されたとき、用水の溜め池として清水(きよみず)池・白水(はくすい)池・泥水(にごり)池をつくり、神社を創建したと伝わる。
・白龍大神天宮塚(宝塚市) - 円錐形の山容をした天宮塚は中山連山の一つで、聖徳太子御修行遺跡。聖徳太子創建の中山寺[要曖昧さ回避]と関わる。

 『勝鬘経義疏
・『勝鬘経』の注釈書である『勝鬘経義疏』について藤枝晃は、敦煌より出土した『勝鬘義疏本義』と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたもので、大山はこれが筆写されたものとしている。
・『法華経義疏』巻頭の題箋(貼り紙)について、大山は僧侶行信が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとする。
安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(是・非など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親饌とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。
・王勇[要曖昧さ回避]は『三経義疏』について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、『法華経義疏』の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする[38]。また花山信勝は『法華経義疏』行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している。
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 『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)は、聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))の総称である。それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)である。
日本書紀』に推古天皇14年(606年)聖徳太子が『勝鬘経』・『法華経』を講じたという記事があることもあり、いずれも聖徳太子の著したものと信じられてきた。『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存しているが、『勝鬘経義疏』・『維摩経義疏』に関しては後の時代の写本のみ伝えられている。
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 『法華経』(ほけきょう、ほっけきょう)は、大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想の原点が説かれている。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した。

 日本での法華経の流布
 日本では正倉院法華経の断簡が存在し、日本人にとっても古くからなじみのあった経典であったことが伺える。
 天台宗日蓮宗系の宗派には、『法華経』に対し『無量義経』を開経、『観普賢菩薩行法経』を結経とする見方があり、「法華三部経」と呼ばれている。日本ではまた護国の経典とされ、『金光明経』『仁王経』と併せ「護国三部経」の一つとされた。
 なお、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品第二十五は『観音経』として多くの宗派に普及している。また日蓮宗では、方便品第二、如来寿量品第十六、如来神力品第二十一をまとめて日蓮宗三品経と呼ぶ。
 606年(推古14年)に聖徳太子法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。
 「皇太子、亦法華経岡本宮に講じたまふ。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」(巻第22、推古天皇14年条)
 615年には聖徳太子法華経の注釈書『法華義疏』を著した (「三経義疏」参照)。
聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国には縁の深い経典として一般に考えられてきた。
 聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。
 最澄によって日本に伝えられた天台宗は、明治維新までは皇室の厚い尊崇を受けた。また最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。
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 世界大百科事典 第2版の解説
 法華義疏(ほっけぎしょ)
 聖徳太子の作とされ,《法華経》についての注釈を集めるとともに,みずからの注釈を施したもので,日本仏教の根元として注目をひく。全4巻。《勝鬘経義疏》《維摩経義疏》とあわせて《三経義疏(さんぎようぎしよ)》と称する。法隆寺に伝えられた太子の稿本があり,明治初年皇室に献納され,現在は御物とされている。六朝風の書体で記され,同筆で添削が施されており,日本最古の墨跡としても貴重である。三経義疏【栗原 治夫】
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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