🎍16〕─4・A─聖徳太子は仏教を利用した諸改革で日本を中国化から救った。中国化とは臣下による天皇弑逆。~No.49 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 昔の日本には生きた民族の歴史に基づいた神話、宗教、伝統、文化が日常の中に生命力を漲らせて生きていたが、現代の日本には死んだ国民の歴史しかない。
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 聖徳太子は、日本の為に中国の儒教ではなくインドの仏教を選んだ。
 聖徳太子の選択が、その後の日本と中国・朝鮮の運命を分けた。
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 日本は仏教国家で中国と朝鮮は儒教国家。
 聖徳太子による第一回宗教改革で、日本仏教はインド仏教や中国仏教・朝鮮仏教とも違う異端的な仏教である。
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 仏教の菩薩信仰は、聖徳太子の帰依で衆生救済・衆生済度として国土に深く根付き民族の心を救ったが、中国や朝鮮では儒教の天子を打倒する革命思想として貧民・下層民の間に広がった。
 中国における宗教的革命思想は、キリスト教イスラム教にも存在していた。
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 2022年3月号 Hanada「1400年目の真実
 『国体を守る』聖徳太子の苦悩  相澤宏明
 聖徳太子と昭和の一貫性
 昨年令和3年は、聖徳太子1400年遠忌(おんき)の年であった。今年は薨去(こうきょ)後1400年である。一昨年、昨年とコロナ禍を蒙(こうむ)ったが、意義ある年としなければならないのは言うまでもない。
 聖徳太子が取り組んだ諸改革は、現今のわが国おいて、いかなる価値をもつのであろうか。その点で確実に言えることは、いまに生きる日本人鑑(かがみ)そのものである、われわれの鑑として聖徳太子を眺める必要を痛感する。
 聖徳太子と昭和をめぐる身近な史話を披露しておこう。
 昭和5年から同61年、それから昭和19年から同60年、この年数が何かというと、前者はわが国の紙幣に聖徳太子の肖像が図柄として採用され続けた時期。1万円札や5千円札だ。大東亜戦争前、戦争中、終戦を挟んで昭和の約50年間、時代の激変を経験しながらも長期間にわたり、皇族の同一人物の肖像が使用され続けた。
 後者は法隆寺の昭和の大改修が始まった年と終わった年だ。のちにもふれるが、法隆寺推古天皇の初期、7世紀初頭に聖徳太子の造立(ぞうりゅう)になる寺院である。木造建築物としては世界最古のものだから、昭和に入り傷(いた)みが増してきた。
 そこで昭和9年から〈昭和の大改修〉と銘打ち、修理が始まった。国や県の支援のもと、長期にわたり修理を続けてきたのである。ようやく昭和60年に修理は完成した。
 この2つの事実によって、聖徳太子の存在が抜き差しならないものであるということがわかる。
 昭和20年8月15日を境として、日本の国体は変わったのか、変わらなかったのかという論争があったし、いまもある。なかでも、和辻哲郎氏と佐々木惣一氏との国体変革・不変革論争などは有名だが、この史実からみれば国体は不変革となろう。
 戦前の昭和と戦中の昭和、および戦後の昭和に、一貫して聖徳太子の肖像が紙幣の図柄に採用されていた、このときは、国体は変革されていないし、昭和が一貫している明らかな証拠になる。また、法隆寺の大修理が戦後も一貫して続けられたことも、昭和が一貫している証明の一助となり得る。
 ところが、昭和20年8月15日をもって昭和は断絶したという説が、いまに至るも根強く存在してる。これを革命思想と言ってよく、『昭和の日』が制定された平成17年当時の国会でも、一部の議員がこの昭和断絶説、8月革命説など難癖をつけて反対した。
 もし変革したのであれば、即刻、聖徳太子の肖像は紙幣から消滅したであろう。それが依然として続いたというところに、昭和の一貫性、ならびにわが国の継続が認められてよい。
 徳川時代やそれ以後の近世の思想家や学者らから、聖徳太子はいなかったという極論が出てきて、聖徳太子無人説なる言葉が独り歩きしてきた。また、最近になり、聖徳太子を説明抜きで使用してはいけないなどと教科書検定で意見が付されるなど、一般の純朴な国民は、わが国における紙幣に描かれた聖徳太子がいなかったと思ってしまう危険性に見舞われている。
 ところが、聖徳太子はいなかったという主張は、厩戸皇子とか、上宮太子とか別名でお呼びする皇子は実在した、と言わんとしているのである。
 貴人が亡くなったあとに名前を奉(たてまつ)るのを諡号(しごう)という。われらの世界でも、死んだあとに戒名をつけるという仕来(しきた)りがある。この場合の戒名は諡号にあたる。ところが、受戒名(法名)は生前から付けるべきだという考えもある。この考え方からすれば、生前から聖徳太子と名乗ることも肯定されてよい。
 ともかく、聖徳太子は生前から聖人と呼ばれる環境にあったとすべきで、法隆寺に祀られている釈迦三尊像の光背銘文(こうはいめいぶん)がそれを証明している。
 なぜ冠位〝十二階〟なのか
 聖徳太子は西紀574年から同622年まで生存された(異説あり)。
 日本人の偉大な先覚者に言及するとき、西紀を用いるについては忸怩(じくじ)たる感がある。しかし、西紀にも良いところがある。それは年齢計算が速いということだ。とともに、東西の歴史的人物について、同じ世代、同時代人かどうか一目で分かる。西暦500年、西紀6世紀などというと大体同じ人だと分かるから、良いところは取り入れなえればならない。
 わが国の6~7世紀に聖徳太子が出現し、諸々の改革を行ったことが、8世紀に成立した日本書紀や、上宮聖徳法王帝説など、諸伝記に書かれている。
 これらの伝記や、現今流布(るふ)している諸解説書などによるが、聖徳太子といわれる聖者が出現し、摂政に就任して最初に手がけた事業は何であったか。推古天皇の11年、西紀630年の冠位十二階の制定である。
 この制について掘り下げると、六段階の位、およびそれぞれに大小を分けて群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、当時の朝廷に出仕していた役人に十二段階の位をつけ、それら役人すべてに色つきの冠を着せ、勲功のあった官吏をどんどん登用する、こういうことを実施した。
 ところが、なぜ十二段階なのか、分かったようで分からないのである。
 大野達之助氏の『聖徳太子の研究』(吉川弘文館)などを見ると、儒教の反映だとしか書いていない。仁・義・礼・智・信の五常、五倫の思想に影響されて十二階の位をつくられたのであるとなっている。また、坂本太郎氏の『聖徳太子』(吉川弘文館)なども同じ説だ。ところがそうすると、五階とそれぞれ大小の合計十階のみしかなく、十二階にならない。
 そこで私なりに考えたのだが、この6段階は仏教が明かす菩薩行の六波羅蜜の思想によっているのではなかろうか、と思うに至った。
 六波羅六度万行(ろくどまんぎょう)とも言うが、菩薩の行いを6段階に分けてある。聖徳太子の仏教信仰からすれば容易に導き出される結論に至るのでは、と考えたのである。
 では、その六波羅蜜六度万行とは如何なる行か。これは人間の欲望たる貪欲・瞋恚(しんに)・愚痴(三毒)を克服するための行で、布施(ふせ)行、持戒(じかい)行、忍辱(にんにく)行、精進(しょうじん)行、禅定(ぜんじょう)行、智慧行。
 菩薩行を必要とする背景は、一個の人間として生存するうえで、一切衆生とは切っても切れない関係をたもたなければならないことにある。個人のみの解脱は許されない。
 この考えに基づくと、菩薩が覚(さと)りを開くのは、帰結するところ衆生救済にあるわけで、衆生救済、公への奉仕という誓願をもつべく6度の行を官吏に求められたのではないか・・・そのように思われるのだ。
 聖徳太子の仏教信仰、あるいは信念理想から考えられていくと、十二階の制が仏教の菩薩行に基因しているということは、今後大いに考えられていいのではなかろうか。
 日本は危機的状況にあった
 位の制定とともに、それぞれ官吏に冠の着用を命じた。
 しかも、その冠が色分けされている。これらにより一目瞭然、どの階位の役人かが分かる。役人同士はもちろん、天皇から御覧になっても役人の位が一目にして分かるわけである。
 では、何故にこのような色のついた冠をかぶせたのか。
 従来の研究において十分な説明はなされていない。不十分な解説として、役人に責任を持たせ、やる気を起こさせる式の解説を取り上げるのみで、聖徳太子の本心には到達できないのではと危惧(きぐ)する。聖徳太子の狙いは、役人のやる気を鼓舞する意味もあったが、それだけではないはずだ。外見からだけで判断してはいけない。外見からだけでは見誤る。なぜなら、冠の着用はわが国だけ限らず、当時の朝鮮半島にもあり、支那大陸にもあった。なぜ冠でなければいけないのか。外国使節接遇上必要などという狭義に限ってしまうと、朝鮮や支那の模倣説に終わるおそれがある。
 そこで、考えなければならないのは何か。
 当時の危機的状況にあった日本が置かれてた立場、これに対処すべき施策であったとする観点である。この観点に立てば、冠の意味が明確になるのではと思う。
 その当時、わが国が置かれた立場とはいかなるものであったか。
 聖徳太子推古天皇の摂政につかれるのは推古天皇即位の年、西紀593年の4月である。その前年、崇峻天皇蘇我馬子によって弑逆される。直接の下手人は支那からの渡来人の末裔、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)だ。
 崇峻天皇は、蘇我一族の横暴に対し、つねに心痛を覚え、機会をみて排除しなければならないとの考えを持っておられた。これが君父を殺す意味の弑逆の原因である、と日本書紀に書かれている。
 あってはならない弑逆
天皇が臣下によって殺害される(弑逆)ことは、あってはならない出来事だ。神武天皇の建国以来、築き上げられてきた国の有り様を破壊に導きかねない大逆事件だ。天皇の臣下、一氏族の長であった馬子がそこまでやるのか、ということをやってしまった。
 とともに、朝鮮半島支那大陸との外交面において、任那(みまな)問題が尾を引き、それを跳ね返す力が不足している状況であった。内政外交ともに、わが国は存亡の秋(とき)を迎えていたのである。推古朝はその点で、内外の危機を梃子(てこ)として諸改革を志向したわが国の画期と捉(とら)えられるのである。
 いまの人々は弑逆という言葉の読み方に疎(うと)く、その意味するところの重大さに思い居たらない。崇峻天皇弑逆は古代のことで、文明の進歩もないところで惹起(じゃっき)したものであるからそのようなこともあったのかと、単に歴史上の知識として知っているだけだ。
 しかし、聖徳太子天皇が殺される出来事に際会(さいかい)し、天下に対する説明責任を課せられ、混乱する世間を鎮めるため解決策を模索していたのではないか。この大前提を理解しないと、聖徳太子の出現そのものさえが理解できないのではと思われる。
 仏教への姿勢を拝しても、そのことは理解できよう。聖徳太子は仏教を個人の好みによって取り入れ、神道を蔑(ないがし)ろにした、との俗論がいまもある。だが、これは間違いだ。当時の危機的状況を克服するためにはどうしても仏教を取り入れなければいけないとの確信をもち、国家を強固にするために仏教を活用しなければ、仏教に対する聖徳太子の本心や、わが国における仏教受容の真の意味は分からなくなる。
 官吏に菩薩たるを求めた冠
 以上の前提で、先にふれた冠につき再考してみよう。
 仏像で冠を着けているのは菩薩だ。
 この冠のことを宝冠という。阿羅漢は剃髪(ていはつ)。仏は螺髪(らはつ)といって、髪が巻かれ縮んでいる。鎌倉の大仏のように、蝸牛(かたつむり)に似ているから螺髪という。
 しかし、菩薩は螺髪形ではない。その代わりに冠を着け、在家の姿をも表し、煌(きら)びやかな装飾を施(ほどこ)した宝冠をつける。衆生を教化する姿だ。鎌倉の長谷寺の観音像などを想起すればよく理解できる。
 官吏はすべて冠を着けて菩薩の姿をとり、菩薩行に対応する十二階の制によって、官吏すべてが菩薩にならねば危機的な状況を乗り越えられないという切実な対応策、この点をもう一度、とくと振り返ってみる必要があるのではないか、このように思うのである。
 坂本太郎氏は『聖徳太子』にこう書かれている。
 《冠位十二階は近隣諸国の制度を参照しつつ、太子が創出した制度であり、推古朝の開明思想、礼容(れいよう)尊重のもっとも明らかな具現であった》
 だが、このような生ぬるい解釈では到底満足できなくなる。
 阪本氏に代表されるとおり一遍の解釈は、失礼ながら切れば血の出る解釈とは思えない。開明思想だとか礼容を尊重したものだとか、それはそのとおりなのであろうが、ものごとの表面をなぞる言葉だけでは、聖徳太子が採用した諸制度の本質は分からない。
 当時のわが国においては、崇峻天皇事件が表す深刻な氏族間の闘争、一部の大氏族による兼併(けんぺい)、横行がもたらす国家分裂、国体破壊の危機が展開していたという認識に立たないと、ちてもではないが聖徳太子の苦労や誓願、理想は把握できない。
 では、聖徳太子におけるそうした苦労や誓願、理想とは何か。これこそが、わが国の国体を守るという一点に集約される性格のものである。
 階級闘争の回避の方策 
 氏族の兼併とは、氏族同士で力を競い合う状況を指す。その結果、有力な氏族が弱小氏族を収奪する、自分の配下に収めるわけだ。こういう時代において、氏族対策をしなければいけないというのが太子の至上命題であり、国家をいかに正常に発展させるべきかという問題意識である。この点の舵取りを誤ると、まさに共産革命に向かうわけである。
 かつて里見岸雄が強調した生命弁証法がある。治縁・血縁・心縁の三社会が上下本末にまつわり、生命現象として弁証法的に発展し、国体を強固にするという説で、それによれば階級闘争が行われて、生命体系が破壊されれば国体も破壊するそれが出てくる。生命体としての一君万民思想が護持されるか護持されないか、この問題が氏族によって出されていた、だからこそ、一君万民思想と中心帰一思想を再確認しなければならなかった。
 この点で注意を要するのは、当時の官吏は氏族で、朝廷に出仕していたのは氏族の実力者、その官吏に冠を着けて色分けをし、位分けをして各人の使命を自覚させる政策をとった。これが聖徳太子のそもそも最初の出発で、かかる政策に不服従の態度を示したのが蘇我氏である。
 太子薨後(こうご)に、蘇我氏は紫冠を私的に授与している。太子生前からすでにこのような習慣と思想を持っていたとすべきであり、大臣位の私有化、氏族の専横が行われていたとせねばならない。推古天皇を支えた摂政と大臣の双方が抜き差しならない対立に陥り、結局は蝦夷の子・入鹿が聖徳太子の皇子・山背大兄を殺害し、その一族を滅亡に追いやる。
 山背大兄一族の滅亡については、現今の歴史学界では無根説が強いようなのだが、以上の背景を考えると、蘇我氏の行いは果たせるかな、そのとおりであると首肯(しゅこう)できる。
 和辻哲郎は『古寺巡礼』において、《仮名文字は漢字の日本化ではなくして漢字を利用した日本文字の発明であり、寝殿造りも漢式建築の日本化ではなくしてシナから教はつた建築術による日本式住宅の形成である》と書いている。
 氏のこうした解釈は、わが国の文物は多く支那の摸倣である式の俗説を否定し、わが国の文化を優先させ得る謂(いわ)れの一斑(いっぱん)が見てとれる。
 聖徳太子によって受容し建立された仏教は『国家のための仏教であって、仏教のための仏教ではない』、辻善之助氏のこの言葉が千鈞(せんきん)の重みを持つわけである。
 十七条憲法の解釈
 このようにして確立した飛鳥仏教が、やがて奈良に移って奈良仏教に発展する。奈良から京都に移って平安仏教に発展していく。その後もそれぞれの時代において、聖徳太子の理念、理想、行動様式が復活してくる。
 天皇を中心にした復古革新の政治的動きとも連動して、国家改革の理念、理想、願望、誓願が発展してきているのである。
 かくしてわが国の独立自尊が保たれ、国威が発揚され、かつ国権が守られつつ国体意識の定着と昂揚(こうよう)とあいまって、当時の危機を乗り越えることができた。その背景には聖徳太子の仏教受容という視点を忘れてはいけないのではないか、というのが結論である。
 コロナ禍にある現在、日本人が一致団結して国家運営に取り込み、諸国から侮(あなど)りを受けないための『和』の精神、中心帰一を意図する『和』を貴(たっと)び、見直すことこそが、聖徳太子を現代に移し来たって鑑としなければならない眼目である。
 聖徳太子の十七条憲法の制定について、最後に簡単に触れておきたい。憲法の第一条にある『以和為貴(てわをもってとうとしとなす)』につき、ともすれば和を単に平和と解し、反戦不戦の条項とする傾向がある。
 しかし和を単なる仲良しクラブの結成などとすることは、浅解も甚(はなは)だしい。冠位十二階の制と表裏(外相が冠位、理念が憲法)一体ととらえれば、天皇帰一(きいつ)のもとの和であることがよく理解されるはじで、その点に太子が存在していると私は思われる。
 和こそが天皇への中心帰一精神の表現とする解釈が普及することを念じ、稿を閉じたい。」
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 聖徳太子は、第31代用明天皇を父とし穴穂部間人を母とする、正統性男系父系天皇の皇子である。
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 聖徳太子の時代と現代の日本には、似たような状況が幾つか存在する。
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 聖徳太子が衝撃を受けた事件とは、593年4月に起きた崇峻天皇弑逆事件である。
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 昭和天皇が命をかけて護ろうとした国體とは、民族の神話宗教を起源とする神の裔としての正統男系父系天皇帝王学で学んだ神武天皇仁徳天皇聖徳太子天智天皇聖武天皇明治天皇など祖先の理念、理想、願望、誓願そして行動様式であった。
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 皇室の血族優先(ネポティズム)は、血縁・地縁による依怙ひいき、縁故、身びいきとは違う。
 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼によって結ばれていた。
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 中国・朝鮮は、公・忠より私・孝を優先する一族・家族中心の宗族主義で、公然と賄賂による不正が蔓延る依怙ひいき、縁故、身びいきである。
 楊逸「王朝時代の中国は、『家国』意識が強かった。漢王朝は『劉家天下』、唐王朝は『李家天下』と、国土と人民も皇帝家の『私有物』という考え方でした。」
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 ウィキペディア
 聖徳太子飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女
 「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡号。また、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)など本名は厩戸と言われることも多いが、戦後に推定された名が広まったものであり、古代の文献には見えない。
 叔母の推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を厚く信仰し興隆につとめていた。
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 推古天皇(すいこてんのう、554年5月21日〈欽明天皇15年乙巳朔癸丑: 4月9日〉- 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)は、日本の第33代天皇(在位:593年1月15日〈崇峻天皇5年12月8日〉 - 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)。
 在位期間は36年、『古事記』では 37年で、(神功皇后を含まない)日本史上最初の女性天皇。また、女性天皇の中では最長寿であり、最長在位である。女性君主は当時の東アジアではまだみられなかった。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)。炊屋姫尊とも称される。漢風諡号の「推古天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。『古事記』ではこの天皇までを記している。確かな記録が残っている最古の天皇とされる。
 天皇号を初めて用いた大王という説もあったが、1998年の飛鳥池工房遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見されて以降は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっている。また、容姿端麗であり、政治感覚に優れていたという。
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 冠位十二階は、日本で603年に制定され、605年から648年まで行われた冠位である。
 日本で初めての冠位・位階であり、この制定により人材登用の道が開かれた。朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す色別に分けた冠を授けるものである。
 七色十三階冠の施行により廃止された。

 諸外国の制度との関係
 冠位という用語を使うのは日本だけだが、中国及び高句麗新羅百済に先行して類似の制度があった。同時代的には朝鮮の官位に似ており、こちらを主に参考にしたとする説と、主に中国の古典文献を参考に考案したとする説がある。
 日本に冠位が設置施行された時期に中国にあった官品制度は、官を序列する仕組みであって、人を序列する冠位・位階制度とは原理的に異なる。冠位は隋・唐の制度を参照して作られたものではない。日本では冠位を爵とも呼んだが、隋・唐の爵は冠位とも官品とも異なり、秦・漢代の二十等爵が冠位に似た人に与える等級である。冠や服の色で官吏の等級を表す思想はもと中国にはなく、後漢末に魏の武帝曹操)が布でかぶりものを作り、その色を分けて貴賤を表したのをはじめとする。服色では、南北朝時代北朝北魏で定められた五等公服が五色の服色で等級を表したもので、これが品(官品)により色を分ける北周の制度にも引き継がれていたと言われる。等級による分割ではないが、北周では役務別に十二種の冕(冠の一種)を定め、それが五行の色で定められていた。
 高句麗百済新羅の官位は、人に授けて肩書きとする点、授けるときに生まれの貴賤が重視される点で、日本の冠位と似る。『隋書』高麗伝が伝える高句麗の官は十二等あり、冠の違いで等級を示した。この十二等各々の名称は古い官職名が転用されたものだが、日本の冠位十二階とは位の数も冠の違いを伴う点も似ている。新羅の十七等も冠の違いをともなう位であった。『隋書』百済伝が官に十六品があると記す百済の十六等の官位は、日本の冠位と同質で、帯の色を分け、高位の冠に飾りをつけた。百済の十六階のうち十二階の名称は漢語を用いて整然と設計されており、その点で冠位十二と似ている。布製のかぶりものを冠と呼ぶのは百済の風習である。朝鮮三国の官位の成立時期は明らかでないが、日本の冠位より前であることは確かで、使者の往来がある隣国の制度として知られていた。
 だが朝鮮重視説をとる場合でも、その朝鮮の制度は古い中国の制度を範として作ったものであるから、冠位十二階は間接的に中国の制度の影響下にある。中国の古典を範にしたとしても、日本人が朝鮮三国の官位の知識を持たずにいたとは考えられない。いずれに重みがかかるにせよ、一つのモデルの単純な模倣ではなく、各種制度を参考に独自の制度を案出したものであろう。そして、異なる制度になったのは偶然や工夫の結果ではなく、違えることに意味があったと考えられる。古代の東アジアで官吏の服装は、それと一体になる儀式とともに支配秩序を目で見えるかたちで表す機能を持っており、ある国の制度をそのままに採用することは、その国の支配体制への服属を意味していた。新羅百済に対して歴史的な優越を主張し、小中華として振る舞うことを望んだ当時の日本にとって、朝鮮諸国の単純な模倣は絶対に避けねばならず、中国に対しても独自性を持つ制度を求めた。冠位十二階は、中国的な礼秩序を、朝鮮三国とも中国とも異なる方法で示すための制度であったと言える。
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 古代日本の存亡の危機とは、神聖不可侵な正統男系父系天皇統治を消滅させる破壊力を持った儒教の「放伐禅譲」、つまり日本を中華・アジア・東洋化する正当性易姓革命思想の定着であった。
 現代風に言うと、反宗教無神論と反天皇反民族反日本のマルクス主義共産主義そして一部のキリスト教原理主義の蔓延である。
 事実、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺するべく付け狙っていた。
 非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した正当女系母系天皇成立も、また同様に日本の存亡の危機である。
 現代日本人の80%近くが正統男系父系天皇から正当女系母系天皇への変更を支持為・希望し、日本人の多数が昭和天皇肖像画写真を焼く不敬行為を現代アートとして認めている。 
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 古代の歴代天皇は、日本は中国や朝鮮から進んだところを数多く学んだが同じようになりたいとは思わなかった、むしろ日本独自の日本らしい中国や朝鮮とは全く別の違う生き方を目指していた。
 対して朝鮮は、中国を見習い、中国を真似、中国以上の中国になろうとして、中国と敵対した古代朝鮮(百済高句麗・古新羅)を否定し切り捨てた。
 その代表例が、名前・中国姓への創氏改名、言語・中国語の公用語化、文字・中国語漢字の公文化であった。
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 歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
 唐の侵略がなかった為、唐に負けない国を作るべく敵であった唐に対する怨讐を捨て、唐を見習い手本とした。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および894年 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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 日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、1,神の民族神話、2,人類の文明発展、3,人間の英雄伝説の3つを持っている。
 神の宗教的民族神話とは、古事記日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
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 神代の民族固有神話を持っている国家や国民は、古代の古層を受け継ぐ日本以外に存在しない。
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 日本民族は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた。
 天皇家・皇室は、数千年前の弥生時代古墳時代に、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻し、幸せと豊かさを求めたムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として「天皇下駄論」・「天皇人身御供説」・「天皇生け贄説」で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
 その神聖不可侵の裁可者・天皇という地位を護る為に考え出されたのが、「政治的無答責の君主」、つまり政治権力も宗教権威も持たない天皇の権威つまり「天皇の御威光」である。
 祖先と国と民族に対して重い責任を負うのは、益荒男・日本男児の責務であって、手弱女・大和撫子ではなかった。
 故に、日本天皇は、最高神の女性神による民族神話、神話宗教、血筋・血統の家世襲万世一系で受け継ぐ事で正統性を与えられていた。
 民族神話で正統と認められた宗教的万世一系の男系父系天皇制度とは、いつ終わるか分からない弥生の大乱に辟易とした古代日本民族が、争いを避け、起きた争いを短期間で終わらせ、偽りでもいいから平穏無事を維持する為の歴史的叡智である。
 つまり、白黒を、善悪を、正邪を、ハッキリ区別しない為の宗教的正統な万世一系の男系父系天皇制度であった。
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 天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事を困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
 つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
 それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
 日本民族天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
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 天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少ない。
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 徳川幕府は、目の見えない視力障害者・検校が行う高利貸しを保護していた。
 検校の中には、御家人株を買って子供を武士にし、上司や同輩に賄賂を贈っていた幕臣にしていた。
 百姓や町人も、金を使って武士の身分を手に入れ、才覚で町奉行勘定奉行などの役職について出世した。
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 数千年前の弥生時代古墳時代から、日本国・日本民族を1つにまとめている3つの力が存在している。
 1つ目が武力の政治権力、2つ目が経済力の宗教権威、3つ目が文化力=畏れの天皇の御威光・権威・御稜威・大御心であった。
 日本の歴史において、政治権力と宗教権威は人間の強欲・私欲・個人欲で栄枯盛衰を繰り返し目まぐるしく入れ替わっていたが、その中で文化力の天皇の御威光だけは変わらなかった。
 そんな文化力の天皇の御威光を滅ぼうと忍び寄ってきたのが、キリスト教の宗教とマルクス主義共産主義イデオロギーであった。
 そして、現代日本人は日本のグローバル化の為にローカルな日本の文化力をゴミのように捨てようとしている。
 反天皇反民族反文化的行動を行っている日本人の多くが高学歴な知的インテリや進歩的インテリ達である。
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 世界の王侯貴族は他国からの軍人征服者であったが、日本の天皇は民族の伝統・文化・宗教の権威者であり保護者であった。
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