🎍16〕─4・B─聖徳太子が目指した理想の国家とは男系父系天皇が統治する国であった。~No.49 

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 現代日本の教育は、聖徳太子坂本龍馬などの偉人を歴史教科書から抹消しようとしている。
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 外国人移民(主に中国人移民)にとって聖徳太子に対する敬愛の念がなければ何らの思い入れはない。
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 2024年12月14日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「聖徳太子が目指した理想の国家とは? 古代日本の近代化と国際化を夢見た皇子の挑戦
 聖徳太子像『集古十種』 国立国会図書館
 蘇我氏の皇子で蘇我氏期待の星だった聖徳太子一族は、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)の時に、よりによって蘇我入鹿(そがのいるか)に滅ぼされる。いったい何があったのだろうか? いや、これほどの大事件を起こした蘇我氏には十分な理由があったのに違いない。
■明日香を離れて斑鳩に遷った理由
 蘇我氏に期待された厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子 以下太子)は、蘇我馬子(そがのうまこ)がバックアップして成立する推古朝の皇太子として政治を執りました。もちろん馬子に協力して大和の国の近代化と国際化を推し進めたのです。
 古代の大王即位は20歳を目途に行われていましたが、49歳で亡くなるまで太子の即位はありません。その理由はこの時代に譲位はなく、推古天皇が長生きだったからです。もしも太子が即位していれば、その後の歴史は大きく変わっていたでしょう。乙巳(いっし)の変も白村江の戦いもなかったかもしれません。そして近代化は大きく前進していただろうと容易に想像ができます。
 太子についてはさまざまに推測されています。明日香を離れて斑鳩(いかるが)に遷った理由については、馬子とそりが合わなくなったからだとか、政治に嫌気がしたとか、仏教研究に時間を費やしたかったからなど、いろいろな説があります。ただ、太子の心の中を想像すると、いろいろなことが沸き上がります。
 例えば、「十七条憲法」を思い出してください。「二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」とありますが、どこにも「天神地祇(てんじんちぎ)を敬え」とは書かれていません。本来、日嗣(ひつぎ)の皇子の立場にある太子が天神地祇に触れないのは誠に面妖(めんよう)な事でもあります。
 それは西暦600年に大失敗をした遣隋使のリベンジを果たすために作られた憲法だからで、大和古来の「倭王は天を兄とし、日を弟とする。」的な内容を一切カットして、最新哲学の仏教国であることを主張したかったからかもしれません。
 太子は観音菩薩にたとえられていますが、私は釈迦の代理を務めた人だと思っています。御本人もそれを大願となさっていたかもしれません。父親の用明天皇が仏教を公認されて、叔母にあたる推古天皇が仏教興隆の詔(みことのり)をされて、それを実現したいという願いもあったでしょう。しかし日嗣の皇子である立場との矛盾も感じていたのではなかったでしょうか。
 つまり、太子は皇太子の立場で仏教興隆を志し、最新の技術や哲学で国家の近代化を目指したのでしょう。太子は徳治政治を目指して仏教を重要視しましたが、天照大神以来の天つ神も重要だった神仏習合以前のこの時代は、なかなか舵取りの難しさもあったでしょう。そして太子は一家を引き連れて、大和川右岸の斑鳩を拠点としたのです。
 その理由もさまざまです。飛鳥を離れて中央政治から離脱したように見えますが、太子は斑鳩に遷(うつ)ってからも精力的に政治活動をしていますから、それは違います。ならば、なぜ斑鳩だったのか?
 答えは、斑鳩地域が重要な首都防衛拠点であり、一朝有事の際には出撃拠点でもありました。馬子も信頼できる太子であればこそ、その重要拠点に送り出し、支援を怠らなかったのです。
 柏木 宏之
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 12月15日17:30 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【日本古代史ミステリー】「聖徳太子」という名前は”当時の呼び方”ではなく”後世の呼び名”だった⁉
 聖徳太子にはいまだにいくつもの「謎」がある。「聖徳太子」という名ですら、わかっていないことがあるという。
聖徳太子は当時の呼び方ではなく後世の呼び名
 聖徳太子とはもちろん彼の生前の名前ではなく、その薨去(こうきょ)後に生前の威徳(いとく)を讃えて呼称されたものである。実名は厩戸皇子(うまやとのみこ)といった。厩戸皇子は、養老4年(720)に成立した『日本書紀』の段階ですでに「豊聡耳聖徳(とよとみみしょうとく)」と呼ばれていた。聖徳太子という呼称は奈良時代の半ば過ぎには成立していたようである。
 聖徳太子とは彼をひとつの理想像として称賛しようとする意図から作られた名前であるから、それは明らかに実像とは別次元の虚像の呼称なのである。かつて大山誠一氏によって提唱された「聖徳太子非実在説」は、その虚像がどうして生み出されたのかを解明しようとした研究であって、聖徳太子の実像である厩戸皇子の存在を根底から否定しようとするものではなかった。宮内庁所蔵の有名な「聖徳太子像」は厩戸皇子の実像ではありえず、それが「唐本御影(とうほんみえい)」と呼ばれているように、聖徳太子が生きた時代よりも1世紀以上も後の、中国風の衣冠を身に着けた人物の画像にすぎないのである。
聖徳太子の実名である厩戸の意味とは?
 厩戸皇子は「厩戸豊聡耳(うまやととよとみみ)」「豊耳聡」などとも呼ばれている。豊聡耳・豊耳聡は美称であり、いわゆる和風諡号(しごう)の一種であろう。6世紀前半から半ばにかけて世襲王権が成立したのにともない、亡くなった治天下の大王(おおきみ/後の天皇)に日本風の贈り名がたてまつられるのが恒例となった。安閑(あんかん)天皇に「広国押武金日(ひろくにおしたけかなひ)」、宣化(せんか)天皇に「武小広国押盾(たけおひろくにおしたて)」といった諡号が献上された例が知られている。厩戸皇子は即位することはなかったが、天皇に准ずる地位にあったので和風諡号が献じられたのであろう。
 厩戸は諱(いみな)=実名(じつみょう)と考えてよい。これは厩戸皇子イエス・キリストのように馬小屋で生まれたことによるとされる。だが、彼は厩皇子ではなく厩戸皇子なのである。『日本書紀』は、その母穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひえみこ/欽明/きんめい/天皇皇女)が臨月を迎えながら宮中を巡幸中に厩の扉(これが厩戸である)にあたった拍子に安産で厩戸皇子を出産したことによる命名と説明している。『日本書紀』の段階で厩戸の意味がすでに不明になっていたために、このような牽強付会(けんきょうふかい)の話が作り出されたのであろう。
■厩戸は生まれた場所ではなく王宮の名前だった
 厩戸皇子のような身分の諱はその幼少期の養育(乳母)をまかされた豪族の名前(ウジナ)が採られることが多く、ウジナはその豪族の本拠地をあらわす地名である場合が大半を占めた。だが、厩戸のウジナや地名は確認されていない。ただ近年、厩戸は厩坂(うまさか)という地名と同じ場所を指すのであり、7世紀前半に実在した厩坂宮(うまやさかのみや)の存在が注目されている。厩坂宮が蘇我氏の勢力圏であった畝傍山(うねびやま)東南麓にあったことからすれば、蘇我氏出身の母をもつ穴穂部間人皇女の居所であった厩坂宮が厩戸皇子誕生の地であった可能性は考えられる。
 監修・文/遠山美都男
 歴史人2023年10月号『「古代史」研究最前線!』より
 歴史人編集部
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