☳29〕─1─ラストボロフ事件。済州島事件。第2大和丸事件。昭和29年~No.101 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 1954年 中国共産党は、中国基督教三自愛国運動委員会を設立し、外国の宗教団体と国内の宗教団体の交流を遮断した。
 ラストボロフ事件。在日ソ連代表部二等書記官のラストボロフは、CIAの二重スパイである事が露見しかけた為にアメリカに亡命し、ソ連情報部が日本の労働組合はもちろん政治家や官僚や学者を使った、広範囲にわたるスパイ網を暴露した。
 中国やソ連北朝鮮などの反天皇反日勢力は、新聞記者、学生、ビジネスマン、外交官などあらゆる職業を利用して多数の情報機関員や工作員を日本に潜入させ、各分野で活躍する著名な日本人協力者から日本政府やアメリカ軍の機密情報を入手した。
 日本は、国家としての危機管理が幼稚で、スパイ天国と揶揄され、100件以上の北朝鮮工作員による日本人拉致事件を生む結果となった。
 李承晩大統領は、国際法を無視し、竹島に韓国沿岸警備隊を派遣して武力占領した。
 韓国国民は、対日強硬策を取る李承晩を支持した。
 韓国政府としては、朝鮮戦争で焦土と化して産業が完全に破壊さて、残されているのは漁業しかなく、漁場を広げる為には竹島を手に入れりしかなかった。
 朝鮮戦争が休戦になるや、連合国軍兵士相手の慰安所が閉鎖された。
 韓国人売春婦達は、アメリカ軍基地周辺に集まり「基地村」を造って、政府公認の売春をおこなった。
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 9月21日 韓国政府側は、済州島の農民蜂起が南朝鮮労働党によって引き起こされたとして、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団などからなる討伐部隊を送り込んで約6万人の島民を虐殺し、村の70%を焼き尽くした。
 討伐部隊は、血に飢えた獣のように同じ民族を虐殺した。
 島民3,000人は、命からがら海に脱出し、日本に不法入国した。
 これ以降も、半島からの韓国人の戦争難民が日本海沿岸に上陸し、大阪や神戸や東京などの在日韓国人居住地域に紛れ込んだ。
 その数は、正確には不明である。
 同様に。北朝鮮からの工作員も、日本に上陸して各地の朝鮮総連系組織と日本人協力者らの支援を受け、日本の反戦平和市民諸団体と協力して反米反日活動は行っていた。
 彼らは、本国の北朝鮮中国共産党の指示を受けていた。
 反日朝鮮人が日本に不法入国する現状は、古代から変わることがない。
 つまり。海によって国家侵略はなかったが、海によって個人による不法上陸は絶えなかった。
 日本の警察は、不法入国者が多いことを地元からの情報で得ておいたが、在日団体人権派の圧力に屈し、強盗や強姦や殺人などの犯罪を起こさないかぎり逮捕しなかったる。
 だが。日本政府は、逮捕した朝鮮人犯罪者を国外追放せず、有期刑で刑務所に収監しても在日特権で早期に釈放し、生活能力がないとして在日優遇処置として生活保護を与えた。
 人権派日本人は、日本人の権利よりも在日韓国・朝鮮人の権利を優先し、政府に圧力を加えていた。
 一部の判事も、司法判決の場で、自国民の保護より外国人の保護に心がけている。
 日本は、難民受け入れに消極的な閉鎖された国ではなく、むしろ不法入国者のおい無警戒国家であった。
 左翼・左派のマルクス主義諸団体の圧力で、日本は国防力を弱体化されて北朝鮮による日本人拉致を許し、国民保護という国家の責務も制約を受けて拉致問題解決もできずに今日に至っている。
 日本の刑務所は本国の刑務所に比べて待遇がよく、歯の治療や病気の治療が受けられるとあって、韓国人や朝鮮人や中国人らによる犯罪が急増した。
 一般的日本人は犯罪を起こして刑務所に収監されることを恥と感じるが、大陸の人間は罪の意識はないだけに恥とも思わない。
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 10月 ビョンヨンテ外務部長官「竹島は、日本による韓国侵略の最初の犠牲物だ」「日本が独島を奪取しようと企む事は、韓国への再侵略を意味する」
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 2017年2月22日 産経WEST「【竹島の日】寒さに体寄せ合った15歳の抑留生活 「李承晩ライン越えた」韓国に拿捕された元漁船乗組員・小川岩夫さん…「日本政府の姿勢は冷淡」 
 乗り組んでいた漁船が拿捕され、釜山の収容所で抑留生活を送る小川岩夫さん(左列の中央)。仲間たちと付近を散歩するのが、わずかに息を抜けるひとときだった(小川さん提供)
 韓国による竹島の不法占拠は、1952(昭和27)年の「李承晩ライン」宣言が出発点だ。この線を越えたとの理由で昭和29年11月、乗っていた漁船が拿捕(だほ)され、韓国で約8カ月の抑留生活を強いられた元漁船乗組員の小川岩夫さん(78)=松江市=は、「竹島の日」を迎えるたびに怒りがこみ上げる。
 ■人権侵害どころか「わずか8畳に21人、部屋の隅に排泄用の樽」
 バリバリバリ−。昭和29年11月、島根県浜田市の底引き漁船「第2大和丸」に乗り、長崎・対馬沖で漁の準備をしていた小川さん。韓国警備艇の激しい銃声を聞き、慌てて船内に逃げ込んだ。網でつながった「第1大和丸」ともども拿捕された。
 中学卒業後の29年8月、船に乗り始めて数度目の航海。釜山港で船から降ろされると、海洋警察へ。検事局に連行されて取り調べを受けた。「『李ラインに入ったか』と聞かれたが、15歳で下っ端の私が李ラインなど知るはずもなかった」
 留置場を経て刑務所に収監。刑務所内は劣悪な環境で、わらの布団と毛布が与えられただけで、厳しい寒さが体にこたえた。8畳ほどの板間に21人が詰め込まれて、すし詰め状態で「部屋の隅に排泄用の樽(たる)が置かれ、最年少者の私はそれを抱きかかえる形で寝なければならなかった」ことが辛かった。
 風呂は1度だけ
 20日ほどが過ぎ、小川さんを含めた数人の乗組員は郊外の収容所に移った。食事は、石が交じった丸麦のご飯と岩塩を溶いた湯。ここでも毛布1枚しかなく寒くてたまらず、男同士で体を寄せ合い震えていた。わずかな楽しみは、近所なら自由に外出できたことだった。30年6月に釈放されるまでの8カ月間で風呂に入ったのは1度だけ。日本政府の接触はなく、「帰国後、政府からは抑留期間中の日当として1日千円分が出ただけ。ほかの補償やわびもなかった」。
 小川さんはその後も漁に出た。31年4月には、浜田から一緒に出漁した船が拿捕され、五島列島付近まで一目散に逃げたこともあった。平成2(1990)〜5年頃は、かにかご漁船に。漁場までは竹島付近を通るルートで、「ヘリポートや警備の隊員がひなたぼっこをする姿などがよく見えた」と振り返る。
 体験を語り継ぐ
 国が記念日を定め、式典を主催する北方領土。米トランプ政権に対しても「日米安保の対象」と言質を取り付けた尖閣諸島−。これらに比べ、島根県主催の記念式典で首相や閣僚の出席もなく、領土権の確立に向けて有効な手立てを打ち出せていない竹島に対する国の姿勢はあまりに冷淡だ−と嘆く。「拿捕当時、政府が真剣に交渉していたら、抑留生活も無駄じゃなかったのに」。
 抑留体験者が高齢化し、生存者も少なくなる中、語り継いでいく必要性を痛感している。」



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