- 作者:上坂 冬子
- メディア: 文庫
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本政府と朝鮮総督府は、日本人と朝鮮人は祖先の同じくする民族(日鮮同祖論)であるから、日本人と朝鮮人は溶け合い混じり合う事で一体になるべき(内鮮一体)という国策から、日本人と朝鮮人の結婚(内鮮結婚)を奨励した。
日本に出稼ぎ労働者として上陸していた朝鮮人は男性がほとんどであった為に、朝鮮人男性と日本人女性の結婚が行われた。
1938年から1942年までの内鮮結婚は5,458組で、敗戦まで内鮮結婚が行われいた。
日本人女性の両親や親戚・友人が猛反対しても、町会長・警察署長・自治体職員は国策であるとして結婚をまとめあげた。
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人には善人もいれば悪人もいる。
日本人にも、いい日本人もいれば悪い日本人もいる。
いい日本人は2割で、悪い日本人は2割で、中間であやふやな日本人は6割。
日本民族日本人は、自然を愛し、自然と共に生きるべく自然を守っていた。
日本の自然は、1/fゆらぎとマイナスイオンで満たされていた。
日本民族日本人は、自然の1/fゆらぎとマイナスイオンを体の中に取りこみ、心を鎮め、精神を正常に保ち、争い事を極力避けながら平穏無事に生きてきた。
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1945年8月15日 敗戦。
日本国内にいた朝鮮人達の帰国ラッシュとなり、北緯38度線以南は韓国とされた。
日本人妻は、離婚を望まず韓国人夫に従い、子供がいれば子供と共に韓国に渡った。
1946年3月 GHQは、日本軍支配地域に住んでいる日本人居留民の帰国に関して「引揚に関する基本指令」を出し、韓国人や中国人と結婚している日本人妻はそこに留まる事を認めた。
日本人妻で帰国を希望する者の中で、韓国人夫や中国人夫が日本に渡るのを拒否すれば離婚して子供を連れて帰国した。
帰国せず中国大陸や韓国半島に留まった日本人妻は、一夜で反日化した中国人や韓国人の迫害を受け、中には耐えられず自殺する日本人妻もいた。
韓国人夫と朝鮮に渡った日本人妻は、愛した夫の実家が日本では考えられないほどの極貧状態に愕然し、言葉も通じず、生活風習も異なって困惑した。
反日化した夫の家族によって奴隷の様にこき使われ、離婚して帰国したくとも離婚手続きの金も旅費もなく断念し、悲惨な境遇に耐えるしかなかった。
朝鮮人夫の一部には、日本人妻を愛し庇う者もいた。
李承晩大統領は、韓国人学童に日本人への敵愾心植え付ける為に反日教育を徹底して行った。
韓国人の子供たちは、混血児を差別し暴力を振るった。
混血児は、苛められる鬱憤を日本人母親にぶつけて暴力を振るった。
日本人妻の中には、地獄の様な朝鮮人夫の実家から逃げだし、ソウルや釜山など都市の極貧下層民の中に入り込み橋下や地方であれば人目に付かない様に山奥に逃げて行き続けた。
韓国在住の日本人妻の20.8%が、韓国に渡って4〜5年の内に韓国人夫から離別されたという。
韓国のキリスト教会は、日本人妻を救済する為に「弥生会」を設立した。
李承晩政権は、日本人が3名以上集まる事を禁止していた。
日本人妻達は、お互いに助け合い励まし合う為に教会内で「在韓日本婦人会」を結成した。
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1961年5月16日 5・16軍事クーデター。朴正煕は、クーデターを起こして軍事独裁政権を樹立した。
日本赤十字社は、帰国を望む日本人妻を救うべく韓国赤十字社の協力を得て帰国事業を開始した。
だが、ハングル語の新聞が読めない日本人妻や帰国できるという情報が得られない逃亡日本人妻は、依然と苦しい生活を強いられていた。
国策で朝鮮人男性と結婚させられた日本人女性は、日本国家から見捨てられ、日本政府からの救いの手も得られなかった。
8月31日 日本社会党の加藤シヅエ議員は、参議院外務委員会で在韓日本人妻の惨状について発言した。
「先ごろ作家の平林たい子さんも現地に行かれまして、この日系婦人達がどのくらいう生活に困窮しておるかというような事をつぶさに見てこられたそうでございまして、この約2,000人の日本婦人のうちの8割に相当する1,600人くらいは、子供を4、5人かかえていて、全然生活の道を失っておる母子世帯でございます」
韓国人夫の実家の57.9〜82.4%が、極貧家庭であった。
朴正煕軍事独裁政権に反対する日本人達は、在韓日本人妻の惨状を持つ出し、韓国との国交回復を進めようとする日本政府を追求した。
在韓日本人妻は政争の道具として扱われただけで、日本人は誰も助けようとはしなかった。
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1965年 朴正煕は、国家再建の資金と韓国経済創設の支援金を日本から得る為に日韓国交回復を行った。
韓国政府は、在日韓国人の権利について交渉を行った。
日本政府は、植民地支配という負い目と国交回復交渉をまとめる事を最優先として、韓国側を不快にさせる恐れがある在韓日本人妻の待遇改善を求めなかった。
日本の国家と政府は、またしても在韓日本人妻を見捨てた。
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1966年 在韓日本婦人会は、名称を「芙蓉会」と改め、名誉総裁に李方子(りまさこ)妃殿下を迎えた。
李方子は、李氏王家最後の王妃であり、日本の梨本宮家の出あった。
戦後の日本は、戦前に国外の日本居留民を国家の責務として武力を行使しても保護しようとし戦争を起こして失敗した事を「歴史の教訓」とした為に、国内の日系人が暴力を振るわれようが殺されようが無視し見捨てていた。
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1969年 日本政府は、在韓日本人妻の帰国にあたり原籍地で身元引受人がいる事を条件とした。
敗戦から14年。
日本人妻の実家は、自分が望んで韓国人と結婚し韓国に渡った身勝手な家族と嫌悪し、身元引き受けを拒否した。
日本人妻達は、帰国したら実家に戻らず、東京・大阪・福岡などの都会に住む事を希望した。
韓国国籍を持ち日本語を話せない混血児達は、日本に渡っても日本に馴染めず日本人母親と別れて韓国に戻ったが、韓国人父親と別れて日本に渡った為に帰る家もなく孤児となり、町の浮浪児となった。
将来を悲観した日系浮浪児は自殺した。
儒教価値観の強い韓国では、外国人との混血児は差別の対象となっていた。
反日感情の強い韓国では、日系混血児を雇ってくれる企業や商店はなかった。
韓国人父親と生活していた日系混血児は、徴兵制度で韓国軍に入隊し、そのまま軍人の道を選んだ。
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1972年 韓国老人施設協会の会長・金龍成は、元日本人妻が生活苦で犯罪を起こして大田刑務所に収監されている事を知り、彼女らを保護する施設として「慶州ナザレ園」を設立した。
芙蓉会は、歳をとり身寄りもなく孤独に極貧生活を送っている元日本人妻達の救済すべく、見請け人となって慶州ナザレ園に収容させた。
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戦後の日本政府はどこまでも国民に冷たかく、国家は国外在住の国民を見捨てる事を証明した。
護憲派は、戦争行為一切を否定する憲法九条を守る事が至上命題であるとして、個別的集団的自衛権も否定し、武器を所有も反対している。
平和を守る為ならば、国民の生命財産は切り捨てるべきだと。
如何なる理由がっても戦争に巻き込まれない為には国民を見捨てる、それが現代日本における「歴史の教訓」である。
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