🏹42〕43〕─1─明の洪武帝は福建省の閩人に琉球移住を命じた。久米三十六姓。~No.129No.130No.131No.132No.133No.134 

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 久米三十六姓とは、明の洪武帝の命令で琉球に送り込まれた福建省閩(びん)人であった。
 洪武帝が久米三十六姓に与えた使命とは、朝貢国である琉球王国の支配として教養なき蛮族である琉球人を文明人に教化する事であり、海賊行為を続ける倭寇(前期倭寇)の取り締まりと敵国である倭国(日本)の動静監視であった。
 明国は、豊臣秀吉の唐入り(明国侵略)計画を久米三十六姓からの急報で知った。
 明国の対外政策は陸禁海禁で、朝貢国以外は国境近くの都市や港に商売で立ちいたっても、内陸部に入る事を禁止し、国内から排除していた。
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 久米三十六姓は、明治新政府琉球処分を断行した時、琉球王国の独立を守るべく清国に日本排除の軍隊派遣を要請した。
 一部の久米三十六姓は、琉球の将来を考えて、弱小国の日本領ではなく台湾同様に世界植民地帝国の清国領=中国領にするほうが好ましいと考えていた。
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 一般社団法人 久米崇聖会
 理事長挨拶
 14世紀に時の中国皇帝の命を受けて琉球へ渡ってきた中国の人達は首里王府の下で明・清への進貢や王府の治政に携わっていました。これらの人々は今の久米町界隈に暮らし久米三十六姓と呼ばれ、大交易時代には中国はもとより、遥かタイ・ベトナム、マレーシアまで出かけて琉球へ多くの富と文化をもたらしました。しかし明治になり琉球処分廃藩置県などを経て、それまでの役目を終えました。
 近世の久米三十六姓の末裔達は大正3年に久米崇聖会を設立して、先祖が築いてきた孔子廟至聖廟)や天尊廟・天妃宮の施設を維持管理し、釋奠や上天祭などの祭りを受け継いできました。
 それから今日まで100年余にわたり久米崇聖会は論語・中国語の講座開催などの地域社会への貢献活動、そして琉球歴史関連書籍の発刊や講演会など東洋文化の啓蒙と人材育成に努めてまいりました。
 また県内外や台湾香港中国などから年間9万人に近い人々を久米の孔子廟や波の上の天尊廟・天妃宮に迎えて沖縄観光にも一役買っています。
 我々の先祖である久米三十六姓は琉球と中国や東南アジアとの交流を担い、様々な文化風俗を琉球へもたらしました。その末裔で組織する久米崇聖会は先祖が築き上げた歴史文化の継承者であることを誇りに、東洋文化の普及や釋奠などの祭りを末永く後世へ伝承してまいります。今後とも私どもの活動にご理解を頂き、ご支援・御協力の程よろしくお願い致します。
 第21代久米崇聖会理事長 國吉克哉
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 久米三十六姓の歴史
 中国福建から琉球へ渡来した久米三十六姓
 久米三十六姓とは
閩人三十六姓とも言われ、明の時代の初期に閩の国、今の福建省から洪武帝の命により琉球へ渡来したといわれています。彼等は中国と琉球を往来するための航海・造船等の技術を持ち、進貢に不可欠な外交文書の作成や通訳、交易を担い、琉球王国の繁栄を支えた職能集団です。1392年に琉球に初めてやって来たとされますが、その後三百年間にわたり中国福建からの渡来者や首里那覇士族から迎え入れた人達も含めて久米三十六姓と称しています。居住区域は久米村(くにんだ)と呼ばれ、そこに暮らす人々は久米村人(くにんだんちゅ)と呼ばれました。
 久米三十六姓と至聖廟
 閩の国、福建からきた久米三十六姓の居住地である唐栄、久米村では中国文化が定着し儒教思想に基づく教育がされていました。中国の各地や東南アジアの華僑の人々と同様に、渡来人の心の拠り所として曲阜から孔子の絵像を持ち帰り1610年から釈奠の儀礼など行うようになりました。はじめは久米村内の有志の家を持ち回りで祭典を行っていました。1671年になって尚貞王の許可を得て公費と寄付により孔子廟を泉崎橋近く、現在の那覇商工会議所隣に建てました。それ以来、今日まで久米三十六姓の人々とその末裔が廟を守り祭礼を行っています。
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 OKINAWA 四季
 ホーム 沖縄の歴史 沖縄の久米三十六姓とは?
 2018年08月07日 2020年01月13日
 沖縄では琉球王朝時代に中国から琉球へ渡った人々の末裔を「久米三十六姓の末裔」と呼ぶことがあります。琉球王国の歴史の中でたびたび登場する久米三十六姓。彼らはどのような目的で琉球に渡ってきたのでしょうか?
 久米三十六姓は中国皇帝の命を受けて琉球に渡ったプロ集団だった
 久米三十六姓は、琉球王朝時代に中国の皇帝の命を受けて琉球に渡ってきた職能集団です。琉球に渡ってきた当初は、彼らが中国の「閩(びん)」の出身者だったということから「閩人三十六姓」と呼ばれていました。ところが彼らの出身地を詳しく調べてみると、閩だけでなく福建省の出身者も含まれているかもしれないことが分かります。そのため彼らが琉球に渡ってから定住した地名をとって「久米三十六姓」と呼ぶようになりました。
 ちなみに「三十六姓」というのは、琉球に渡ってきた人数が36名であったという意味ではありません。そもそも当時の中国では、「三十六」という言葉には「大勢の(たくさんの)」という意味がありました。つまり久米三十六姓というのは「久米に定住した中国からのたくさんの職人たち」という意味なのです。
 久米三十六姓には13の門中がある
 沖縄には血縁関係のある共同体である「門中」という制度があります。もともとは系図と呼ばれる家系図のようなものを持っている士族の間での作られた共同体だったのですが、のちに系図を持たない商人や農民たちの間にも広がりました。
 中国から渡ってきた久米三十六姓にも、もちろん門中があります。久米三十六姓の門中は、「蔡氏」「程氏」「鄭氏」「林氏」「金氏」「毛氏」「紅氏」「楊氏」「魏氏」「陳氏」「梁氏」「阮氏」「王氏」の13あります。
 久米三十六姓の末裔には多くの政治家がいる
 中国皇帝の命を受けて琉球に渡ってきたプロ集団「久米三十六姓」ですが、彼らの末裔には沖縄を代表する政治家たちもたくさんいます。
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 那覇市若狭公民館
 若狭の歴史と文化
 若狭の歴史
 もともと那覇の西側というのは、小さな島々が点在する岩礁地域でした。特に現在の奥武山周辺は海で、下部が波によって削られたキノコ岩(ナパ岩)と呼ばれるものが多くあったといわれています。この方言でキノコを意味する「ナパ」というのが、のちになまって「なーふぁ」となり、現在の「那覇」という言葉になったといわれています。
 現在の若狭三丁目あたりから泊にかけては岩礁や塩田地帯であったといわれており、夫婦瀬公園(みーとぅじこうえん)には今でもその名残りの岩礁が、公園の中にそのまま残っています。
 尚巴志王の時代、琉球国を統一した彼は、那覇港を中国などとの貿易重要拠点に定めます。そのおかげで、那覇の西側である久米や若狭地域には、数多くの中国人や本土の人間が移り住むようになりました。特に久米三十六姓と呼ばれる中国人たちが久米には数多く移住し、また若狭には本土からの商人などが移り住みました。
 若狭という地名はおそらく本土からの居留者たちが名付けた地名のようで、狭い地域のことを若狭と呼んだようです。また現在の敦賀福井県南西部)のあたりを若狭国、と呼んでいたようで、そこからの移住者が名付けたとも考えられます。いずれにしろ、昔から本土と中国と深い関わりがある地域だったようです。
 1400年代になると、中国の明からの冊封使をむかえるために尚巴志王の三男であった尚金福王那覇一帯に大規模な工事を行い、現在の久茂地から安里のあたりにかけて、長虹橋と呼ばれる海中道路が誕生します。これを作ったのは移住した中国人の懐機で、これにより那覇から首里へのルートが確立され、貿易港としての機能をますます拡大していったと言われています。
 現在の若狭地域には、その名残りがいくつも見受けられます。このページでは、現在と過去を照らし合わせながら、若狭公民館の近くにある歴史や伝承を紹介していきたいと思います。
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 ウィキペディア
 久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)は、1392年に明の洪武帝より琉球王国に下賜されたとされる閩人(現・福建省の中国人)の職能集団、及びその後三百年間にわたり閩から渡来した者や首里那覇士族から迎え入れた人々の総称。
 概要
 一般的には、琉球国王察度(在位1350年 - 1395年)の時代の1392年、洪武帝の命により多くの学者や航海士などの職能集団が来琉したと言われる。閩(びん)と呼ばれた現在の福建省からの渡来人であったため閩人三十六姓とも呼ばれた。しかし福建人だけではなく、福建省出身の客家も部分的に含まれた可能性が明らかになってきている。
 洪武帝からの下賜と言われるが大量集団移住と言う性格のものではなく、その多くは琉球において次第に形成されていった華人社会が基礎となった見られている。明からの人材提供と言う側面はあった。朝貢事務や船舶の運航に携わるよう琉球への帰化が命じられた事例が確認されている。人材育成の面でも明は支援しており、1392年以降、琉球留学生三五郎尾らを国子監で受け入れた。なお留学生の受け入れは、途中中断をしながらも1868年まで続けられた。
 集団の位置づけとしては、『明實録』嘉靖二十六年(西暦千五百四十七年)十二月辛亥の條によれば、三十六姓は琉球に入籍した以上、福建に籍を置くのは違法だとの皇帝の判決が下された。彼らは那覇の久米村(現・那覇市久米、唐栄とも)に定住したことから久米三十六姓と呼ばれるようになる。三十六姓といっても三十六人いたわけではなく、当時の中国では「三十六」はとても多い事の意味で、その中国から大勢の人が来たためそう呼ばれた。一時は五姓にまで減ったとも言われている。
 また久米三十六姓の末裔、及び久米村に住んでいた人々は久米村人(くにんだんちゅ)と呼ばれた。久米三十六姓の末裔たちは、琉球廃藩置県沖縄県になるまで約五百年の間、主として中国-琉球間の外交、貿易に従事し、久米士族としては異例の三司官に就任した蔡温をはじめ、多くの政治家、学者等を輩出した。
 『中山世譜』(18世紀)には、「(洪武)二十五年壬申……太祖……更賜閩人三十六姓」云々とあり、1392年、洪武帝は他の下賜品に加えて、閩人三十六姓を賜ったとの記述がある。しかし、明側の同時代史料である『明実録』等には、こうした記載がないことから、近年では研究者の間で三十六姓下賜説について疑問の声も出ている。
 『朝鮮王朝実録』の成化25年(1470年)の朝鮮人琉球漂流記に「(那覇には)唐人商販に来たりて、因りて居する者あり」との記述があり、15世紀には商売目的で琉球に渡来居住していた中国人がいたことが分かる。それゆえ、久米三十六姓とは、貿易、商売目的の中国人達が14世紀末以降、随時琉球へ渡来移住し、後に彼らの子孫によって、自分たちの先祖は洪武帝によって下賜されたという「物語」が作られたのではないかと考える説もある。
 江戸時代初期の薩摩藩による琉球侵攻後に、薩摩藩に従わず処刑された琉球王国の三司官の謝名利山も、その一人である。
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 閩民系(びんみんけい)または河洛民系(ほうろうみんけい)とは、閩語を話す漢族の一派である。
 概要
 中国河南洛水一帶で始まったとされ、現在では台湾や中国大陸の福建省中部~南部を中心に住んでいる。
 また、古代から移民が盛んで四大華僑族群のひとつでもある。
 河洛は河南、洛陽を意味し、閩南語を話す漢民族がそこから南下してきたとの伝承にちなむ。伝承や言語学的研究によれば、西周春秋時代に中原に居住していた漢民族が、長江下流域を経て、福建に定住。17世紀以後、その一部が台湾に移住したのが河洛人である。
 もっとも純粋な漢民族というより、南下漢民族が現地原住民と混血して、河洛人が形成されたと考えられている。たとえば台湾なら、福建河洛人と、台湾原住民とが混血して台湾河洛人となったわけである。
 もっともこの解釈は、中国大陸からの文化的断絶と、台湾の独自性の強調を目指す台湾の民主進歩党政権下で進められたものだということは、理解しておく必要がある。
 歴史
 現代閩海人は西晋末年および六朝から五代の時代に中原から福建一帯に移り住んだ漢族と、閩海越族(百越)から成ると言われる。
 中原からの漢族の移民が盛んになったのは、晋代永嘉二年即公元308年に発生した五胡乱華からだと言われ、唐代末期には、中原からきた陳元光、王潮、王審知らが閩国を建てるという事件があり、その頃がピークだといわれる。
 その後、福建の海上貿易の発展と農業不良から閩海の人たちは潮州、雷州半島台湾島海南島、東南アジアへの移民をはじめ、近現代に入ってもいまだヨーロッパ、アメリカ、日本などへの移民が盛んであるため、華僑最大の族群である。
 言語
 詳細は「閩語」を参照
 閩海河洛民系が母語とする閩語はたくさんの種類、方言があり、それぞれ閩東語(福州語福安語など含む)、閩北語、閩中語と閩南語(台湾語)などがある。また、潮州(潮州語)や雷州地区(雷州語)、海南島(海南語で話される方言)も閩語の内とされることもある。これらは同じ閩語系でもお互い意思疎通はとても困難である。
 居住地
 現在全世界で6000万人いるとされ、主に中国福建省広東省海南島、香港、マカオ、台湾、アジアではシンガポール、マレーシア、インドネシア、フィリピン、タイ、ブルネイ、日本など、そして近現代での移民が多いイギリス、フランス、アメリカ、カナダなどに住んでいる。
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 閩越(びんえつ)は、現在の中国福建省に存在した政権。
 戦国時代に楚によって滅ぼされた越人がこの地に逃れ、現地の百越族と共同して樹立した。存在期間は紀元前333年から紀元前110年頃とされる。特に紀元前202年前後の半世紀は国力が充実し、当時の中国東南部最大の国家勢力となった。閩越王騶無諸が城村(現在の福建省南平市武夷山市興田鎮)に築いた王城はこの地域最大の都市となった。
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 閩南民系(びんなんみんけい)または福佬人とは台湾、中華民国中華人民共和国福建省などに居住する漢民族の一派。東南アジアの華僑の多くもこれに属する。会話言語には共通性があって閩南語やホーロー語(福佬話)と呼ばれ、その中には台湾語と福建語の2つの方言がある。文書に関しては中国の福建省と東南アジアは中国語を使い、台湾は教会ローマ字(白話字)を使う。
 閩という漢字が虫を含むため、近年は閩南を河洛あるいは福佬と記す。河洛は河南と洛陽を意味し、そこにいた人々が長い時間を掛けて福建省を中心とした地域に移民したという伝承がある。この一方で抗体やDNAに基づき、元来この地域に住んでいた人々(百越)が混血や同化政策を通じて漢民族中の閩南に分類されたとの研究がある。 
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