🏹9〕─3・A─殺生が“仕事”の武士の心をつかんだ親鸞の悪人正機説。〜No.25 

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 2023年11月25日 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「「悪人こそ救われる」 殺生が“仕事”の武士の心をつかんだ親鸞悪人正機説
 親鸞聖人像(奈良国立博物館蔵、出展:Colbase)
 藤原氏といえば、摂関政治による栄華を極めた一族のイメージは強いが、優れた文化人や僧侶も輩出している。例えば、公家社会から武家社会への転換期、同時代を生きた二人。「小倉百人一首」の選者である藤原定家浄土真宗の祖の親鸞だ。『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して紹介する。
 【写真】歎異抄を現代語訳した作家はこちら
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藤原定家 和歌の家の地位を確立した天才歌人
 御子左家は藤原道長の六男長家に始まる家系である。四代俊成は和歌の第一人者として各所の歌合で判者(歌の優劣を判定する人)を務め、後白河院の命で『千載和歌集』の編纂を主導し、幽玄の美を理想とする抒情的な独自の歌風を確立した。
 俊成に勝るとも劣らない才を受け継いだのが次男定家である。十代半ばから歌人として活動し、源平の内乱が始まっても「我がことにあらず」といって歌道に専心した。二十歳の時に詠んだ『初学百首』は、俊成が感涙をもよおす完成度であったという。二十代の半ばから父が歌の師範を務めた九条家に仕え、西行慈円ら名だたる歌人と交流したが、建久七年の政変で九条兼実が失脚すると、定家も内昇殿を停止され官位の昇進も滞る。
 定家を救ったのは和歌の力であった。正治二年(一二〇〇)、後鳥羽院歌人たちに自慢の和歌を詠進させた際、「駒とめて袖うちはらふかげもなし 佐野のわたりの雪の夕暮れ」を出し上皇に絶賛された。定家は内昇殿を許され、翌年新設された和歌所の寄人に抜擢。元久二年(一二〇五)、定家たちによって撰進された『新古今和歌集』は『万葉集』『古今和歌集』に並ぶ傑作と称され、新古今時代と呼ばれる和歌の黄金時代を到来させた。
 歌壇の第一人者となった定家は、その後も王朝和歌の再興をめざして自撰集や歌論書を著し、晩年は単独で『新勅撰和歌集』を編纂。『小倉百人一首』も定家の編纂と伝えられている。俊成・定家の二代の活躍により、和歌の家としての御子左家の評価は定まった。
 定家は不世出の歌人であったが、人並みに出世を望む官僚でもあった。五十歳にして念願の公卿になったが、それは定家自身が日記『明月記』で「狂女」と罵倒した卿二位(後鳥羽の乳母藤原兼子)に、定家の姉健御前が頼んでようやく実現したものであった。その後も除目が行われるたびに、息子の為家や知り合いの女房に朝廷の動向を探らせたという。定家が極官の正二位権中納言になるのは、公卿就任から約二十年後のことであった。ただし、妻が実力者西園寺公経の姉だったため経済的には恵まれ、晩年は将来の歌学の発展のために、『古今和歌集』『源氏物語』などの古典の書写に精力的に取り組んだ。
 一方、嫡子為家は叔父公経の猶子(形式上の養子)になっていたため栄達し、二十九歳で公卿、最後は正二位権大納言まで進む。家業の和歌についても、後嵯峨院のもとで『続後撰和歌集』を撰進し、個性をおさえ伝統にとけこむ中世和歌のスタイルを確立した。
親鸞 関東で念仏を広めた浄土真宗の祖
 日野家は冬嗣の兄真夏の後裔で、十一世紀半ば、資業が日野(京都市伏見区)に法界寺を創建したのに始まる。資業の曽孫実光は公卿となり子孫は名家(大納言を極官とする家柄)として繁栄したが、弟有範は出世街道から外れ中級貴族として生涯を終えた。
 浄土真宗の開祖親鸞は有範の子といわれている。九歳で出家し、比叡山で身分の低い堂僧として修業をつんだ。二十九歳の時、京の六角堂に参籠して聖徳太子の夢告を受け、浄土宗の開祖法然の弟子となる。親鸞法然に心酔し「たとえ上人にだまされて、念仏により地獄に落ちても後悔しない」と述べたという。法然親鸞を信頼し、専修念仏の教えを説いた『選択本願念仏集』の書写を特別に許している。二人は深い絆で結ばれていた。
 承元元年(一二〇七)、承元の法難と呼ばれる専修念仏の弾圧事件が起こり、法然と弟子たちが配流される。越後(新潟県)に流された親鸞は、配流生活の中で「愚禿親鸞」を称し「僧でも俗でもない。禿の字をもって姓とする」という非僧非俗の立場を打ち出す。
 四年後、赦免された親鸞は、建保二年(一二一四)、妻恵信尼や息子たちとともに常陸へ移住する。同国を選んだ理由は不明だが、法然の弟子だった下野の御家人宇都宮頼綱、またはその一族の招きによるともいわれる。以後、二十年間、親鸞常陸にとどまり笠間(茨城県笠間市)の稲田草庵(現在の西念寺)を拠点として布教活動にはげんだ。
 当時、東国の武士や百姓が信仰していたのは、加持祈祷によって豊作や健康などを祈る呪術であった。そのような人々に対して、親鸞阿弥陀仏への信仰が人々を救う唯一の道であると説いた。特に、悪人こそ阿弥陀仏の本願によって救われるという悪人正機説は、殺生を家業としてきた武士の心を強くつかんだことだろう。
 関東での布教活動を通じて念仏の意義、他力本願の確信を得た親鸞は、文暦元年(一二三四)頃に帰京した後、『教行信証』を著す。国内外の経典や解説書を踏まえて、自身の念仏・往生の思想を体系化したもので、浄土真宗の根本聖典となった。また親鸞の死後、異端の信徒が増えたことから、河和田(水戸市)の唯円は正統の教義を伝えるため『歎異抄』を著し、その思想をわかりやすく広めた。
 その後、末娘覚信尼の孫の覚如は、親鸞の大谷廟堂を寺院化して本願寺を創建。八世蓮如の時、大規模な教団の組織化が図られ、戦国大名をも脅かす政治勢力に成長していく。
●京谷一樹(きょうたに・いつき)
 歴史ライター。広島県生まれ。出版社・編集プロダクション勤務を経て文筆業へ。古代から近・現代まで幅広い時代を対象に、ムックや雑誌、書籍などに執筆している。執筆協力に『完全解説 南北朝の動乱』(カンゼン)、『テーマ別だから政治も文化もつかめる 江戸時代』、『年代順だからきちんとわかる 中国史』、『「外圧」の日本史』(以上、朝日新聞出版)、『国宝刀剣 一千年を超える贈り物』(天夢人)などがある。
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 同じ仏教でも、日本仏教と中国仏教・朝鮮仏教とは全然違う。
 中国仏教は、革命宗教として数多くの王朝や王国を滅ぼしていた。
 日本仏教は、鎌倉仏教を境にして、権力者に媚び諂い栄耀栄華を求めない、乞食僧として身分低く貧しい人々を分け隔て無く積極的に救済する庶民仏教へと変貌した。
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 人殺しを職業としていた武士は、動物を殺して生計を立てていた穢多や罪人にと関わっていた非人以上に穢れていた。
 犯罪者に関わる武士は、不浄役人として差別されていた。
 親鸞の「悪人正機説」は、人を殺す武士の免罪符となった。
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