🎍29〕─2─聖武天皇は自然災害の「責めは予(われ)一人にあり」との詔を宣布した。自然災害は神の天罰。~No.91 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・     
 聖武天皇は、天下を騒がせ民草を苦しめる政変、旱魃、飢饉、地震、疫病などの災厄は自分にあり、「責めは予(われ)一人にあり」との詔を宣した。
 天譴(てんけん)論=天罰。
 天皇の譴責(けんせき)。
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 文帝「罪人が出るのは、朕の徳が薄くて、教化が明らかでないからであろうか。罪人に肉刑を与えてどうして民の父親と言えようか。肉刑を廃止せよ」
 聖武天皇(文帝の治世に日食が起こった事に関して詔「朕は聞いている『天が万民を生じ、これがために君をおいて養い治めさせる。人主が不徳で、その施政が公平でないと、天は災いを示してその不治を警告する』と。ところで、この 11 月に日蝕があったが、これは譴責(けんせき)が天に現れたのである。これより大きな災いがあろうか。天下の治乱の責めは朕一人にある。ただ、2,3の執政の大臣がいるが、これはわが股肱のごときものである。朕は、下は万民を治め養う事も出来ず、上は日・月・星の三光の明を煩わせている。その不徳は大きい。この令状が至ったならば、みなみな朕の過失、知見の至らざる点、思慮の行き届かぬ点について考え、朕に告げよ。また、賢良方正の士でよく直言・極諌する者を推挙して、朕の及ばざる点を匡正せよ。・・・・・』」
 聖武天皇「春より旱天が続き、夏になっても雨が降らない。百川は水を減らし、五穀は実を萎ませたままである。誠に朕が不徳の致すところである。百姓に何の憂いあってか甚だしき憔悴に至るや。・・・また京と諸国において冤罪と主張し続けるものあらば、詳細に記録し報告せよ。また、放置されている白骨や遺骨が有れば埋葬し、民は酒を断ち、牛馬などを屠殺を禁じよ。高齢の徒、自存出来ぬ者にはしかるべく賑給せよ。なを天下に大赦を与える。但し、群れを成す強盗犯、受託収賄せる官人、納税物横領者、贋金造り、などを除き悉く免罪とする。」
 「今、疫病と旱魃が同時に起こり、田も苗代も干からびてしまった。そこで除災を願って名山大川・天神地祗に祈りを捧げたが、霊験は現れず、民は今に至っても苦しんでいる。実は朕の不徳がこの災禍を招いた。よって寛大な仁徳の施策を行って民の苦患を救おうと思う・・・」だ
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 キリスト教における自然災害の解釈は、昔は絶対神による罪人に対する天罰とされた。
 不運に死んだ善人の救済とは、父なる神の御光によって魂が天国・神の王国に召され、永遠の命を得る死後の楽園で生きる事とされた。
 つまり、天災で死ぬ事は不幸ではなく喜ばしい事であると、された。
 肉体とは、父なる神が土地・塵芥から創った器に過ぎない。
 人は生まれる前から、強者か敗者か、成功するか失敗するか、金持ちか貧乏人か、生きるか死ぬか、全ては絶対神によって運命が定められている。

 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
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 荻原井泉水(明治17{1884}年~昭和51{1976}年)「天を楽しむとはさ、天より自分に与えられたことを凡(すべ)て楽しとして享受することである。……雨がふるならば、その雨もまた楽しとする気持ちである。禅の言葉に『日々(にちにち)これ好日』という。この心境である。考えてみるまでもなく、今日、ここに私というものが生きて息をしていること、このことだけがすでに大きな天の恵みではないか。……人間はたえず成長していなければならない……70になっても、80になっても、成長しているべきものだ。長寿ということは、即ち生長ということなのだ。生長なき長寿はナンセンスである」『益軒養生訓新説』
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 日本の凶暴な自然災害に比べたら、如何なる戦争も子供の火遊びに過ぎない。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
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 2021年4月4日号 サンデー毎日五木寛之のボケない名言
 津波てんでこ  ──三陸地方の伝承
 『自己責任』の重さとつらさ
 10年を過ぎても東日本震災の記憶は消えない。天災か人災か、今後も長く議論されることだろう。
 『津波てんでこ』
 という言葉が、深い悔恨(かいこん)とともにふたたび語られた。三陸地方に言い伝えられてきたという、古人の戒めである。
 激烈な災害時に、家族、知人、近隣の人びとの安否を気づかうのは、人情というものである。相互扶助の心なくしては人間社会は成りたたない。しかし、おのれの脱出よりも他者の安全を気づかうあまりに、もろ共に犠牲になった人びとの数も少なくなかった。
 『てんでんこ』とは、『それぞれに』『各自の判断で』行動せよ、という深い体験からの言い伝えである。
 それは無闇とお上の指示にしたがうだけでなく、自己判断で行動せよ、という庶民・大衆の覚悟ではないかと思う。
 私の郷里である九州でも、同じような表現があるのが不思議だ。『てんでん勝手にやればよか』などと言う。その『てんでん』には、自由気ままに、ではなく『自己責任において』というニュアンスがある。
 東北と九州で同じ方言が残っているのは、不思議なことだ。
 仏教でいう『自利利他』の教えが残っているのだろうか。いや、重い体験からの民衆の智慧かもしれない。痛みを乗りこえての名言であると思う。」
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 江戸時代。徳川幕府は、約10万人が犠牲になった振袖火事(明暦の大火)の跡始末として、思いつく限り、考えられる限りの手だてで町の防災と復興、被災民の救済と救護に全力を尽くした。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
 日本は、異種異文の朝鮮や中国を差別して排除し、同種同文に近い琉球人とアイヌ人を同化させた。但し、特権を有していた高級知識階級の久米三十六姓は区別し差別した。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 日本民族集団主義は、中華や西洋とは違い、共感と共有のる運命共同体である。
 日本には、西洋的ボランティアがいない。
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 2019年11月14日 産経新聞天皇と国民つなぐ祭祀、大嘗宮の儀 「災害はらう」古代から継承
 14日夜に始まった大嘗祭(だいじょうさい)の中心的儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」は皇位継承に際し、最も重要とされる儀式で、7世紀後半以降、中断を挟みながらも歴代天皇により継承されてきた。専門家は「天皇と国民をつなぐ祭り」「現代に通じる自然災害をはらう祈り」といった意義があると分析する。
 天皇陛下は即位した5月1日に「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」で皇位継承の正統性を示し、10月22日の「即位礼正殿(せいでん)の儀」で即位を国内外に宣明された。しかし、皇室研究者で神道学者の高森明勅(あきのり)氏は、大嘗祭を除くこれらの皇位継承儀式に欠けるのが「民との接点」と指摘し、大嘗祭に際して納められる米に着目する。
 高森氏によると、時の天皇が臨む例年の「新嘗祭(にいなめさい)」では前近代の場合、都を取り巻く畿内(大和、山城、河内、和泉、摂津)の官田(かんでん)(天皇の田)の米が使われるのが原則だった。これに対し、平安時代に編集された法令集延喜式(えんぎしき)」では、大嘗祭の米を「民の耕作する田」と規定。畿外の一般民衆の田が、亀の甲羅を使った占い「亀卜(きぼく)」によって選ばれた。「天皇と民が、稲作を媒介としてつながるのが大嘗祭。すべての民の奉仕を象徴するという位置づけで、日本人が日本人としての同一性を御代ごとに確かめる祭儀ともいえる」(高森氏)
 米の供納に関し、天皇と国民の従属的な関係を表すという指摘もあるが、高森氏は「大嘗祭の成立以来、天皇は国家の公的統治の体現者であり、専制君主だったことはない。階級闘争史観の先入観を持ってみない限り、強権支配の表れとみるのは見当違い」との見方を示す。
 国学院大名誉教授の岡田荘司氏は、大嘗祭の意義を「古代の衣食住への回帰」にあるととらえる。岡田氏は「清浄」を保つために新設される大嘗宮について、かつての天皇の居住空間を再現したものとみる。神々に供する米などは柏の葉で作られた簡素な器に盛られ、陛下が身につけられる「御祭服(ごさいふく)」も粗い絹が用いられる。
 「現代と比べ厳しい状況にあった衣食住の環境下で、陛下が自然が鎮まるよう祈られる。近年は国内でも災害が続くが、日本国中に住む人々の祈りを、天皇の立場で共有するところに現代的な意味がある」。岡田氏はこう分析する。
 宮内庁は陛下が五穀豊穣(ほうじょう)を祈られる「御告文(おつげぶみ)」の内容を明らかにしていない。ただ、これまでの研究で判明している過去の大嘗祭御告文では、自然災害を被らないよう祈る言葉は共通しているという。
 国学院大学研究開発推進機構長の武田秀章氏は、平安時代に東北地方を襲った貞観地震(869年)の際、当時の清和天皇が救済のための詔(みことのり)を出した例などを挙げ、「被災者への気持ちは東日本大震災などにおける皇室のなさりようと同じ」と指摘。今回の大嘗祭での御告文の内容も継承されていると推測し「自然の恵みを祈り、災いを未然にはらう歴代天皇の祈りが凝縮されているのではないか」と話した。(伊藤弘一郎、篠原那美)」
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 YAHOO!JAPANニュース
 度重なる感染症と自然災害で生まれた奈良時代平安時代の文化と制度
 福和伸夫 | 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
 2020/6/1(月) 7:30
 災禍と歴史
 新型コロナウィルスの感染拡大の中、過去の感染症や自然災害を調べるようになりました。海外では、14世紀の黒死病(ペスト)とルネッサンスコロンブスアメリカ大陸発見と天然痘による16世紀のアステカ文明やインカ文明の衰退、18世紀のリスボン地震ポルトガルの衰退、アイスランドラキ火山噴火による飢饉とフランス革命、1918年の第一次世界大戦終結スペイン風邪など、大規模な感染症拡大や自然災害は、世界の歴史と密接な関係があるように感じられます。そこで、日本の歴史についても調べてみました。今回は、手始めに、奈良時代平安時代感染症と自然災害について考えてみます。
 天平時代の天然痘地震天平文化
 729年から749年まで続いた聖武天皇が治めた天平は、奈良時代の最盛期で、天平文化が花開きました。一方で、地震や疫病の大流行がありました。734年5月18日には、畿内七道を揺るがす地震が起きました。生駒断層の活動が疑われており、誉田山古墳の一部が崩壊しました。その直後、735年から737年には、天然痘と思われる疫病が大流行しました。総人口の3割前後が死亡したとも言われます。この疫病で、藤原不比等の息子4人兄弟(藤原武智麻呂藤原房前藤原宇合藤原麻呂)が病死しました。735年に大宰府に帰国した遣唐使や、新羅使が平城京に疫病を持ち込んだ可能性があります。
 地震や疫病、飢饉に悩んだ聖武天皇は、仏教の力を借り、国分寺国分尼寺を各地に作らせ、その総本山の東大寺法華寺を建て、大仏を建立しました。多くの農民が命を落としたため、743年には、農業振興のため墾田永年私財法を制定し、農地の私有化が図られました。直後の745年6月5日には、天平地震が発生しました。この地震は養老断層が活動したもので、養老断層は、1586年にも天正地震を起こしています。
 天平文化成立の裏には、感染症と大地震があったようです。ちなみに、節分のときに行う豆まきは、宮中で行われた追儺に起源があるそうです。疫病を持ち込む鬼を国外に追い払うために行われたと言われ、8世紀に始まったそうです。天平の疫病との関りが想像されます。
 貞観の時代の疫病・地震・噴火と摂関政治・国風文化
 859年から877年まで続いた貞観時代には、富士山の噴火、疫病、京都での洪水や飢饉、東北地方の大震災などが続発しました。藤原良房摂関政治が始まった時代でもあります。
 861年5月24日に、福岡県の直方に隕石が落下します。目撃記録が残る世界最古の隕石のようです。863年7月10日には、越中・越後で地震が起きます。同年には、都でインフルエンザと思われる疫病が蔓延し、終息後、霊を鎮めるため神泉苑で御霊会が開かれました。翌年864年7月2日には、富士山が大噴火します。貞観噴火と呼ばれる割れ目噴火で、青木ヶ原を溶岩が埋め尽くしました。866年には、応天門の変が起き、伴氏が滅亡して、藤原良房が摂政に就き、摂関政治が始まります。868年8月3日には播磨国地震が発生します。山崎断層が活動したようです。869年7月13日には、東日本大震災とよく似た貞観地震が発生し、大津波が東北の拠点・多賀城を襲いました。この年に神泉苑に当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈りました。これが、祇園祭の起源になりました。
 翌年870年に菅原道真が方略試を受験しました。問題は、「明氏族」「弁地震」の2問で、地震について弁ぜよとの問いに対し、道真は中国で張衡が発明した世界初の地震計の地動儀のことを答えて合格します。そして、871年に鳥海山、874年に開聞岳が噴火しました。
 元慶時代になっても、878年11月1日に関東地震が疑われる相模・武蔵地震、880年11月23日に出雲の地震が、さらに仁和時代になって、887年8月2日に京都の地震、8月26日に南海トラフ地震の仁和地震が発生します。まさに、大地動乱の時代でした。その後、894年には、菅原道真の意見で、遣唐使が廃止されます。901年に道真は大宰府に左遷され、903年に落命します。こういった中、日本独自の国風文化が芽生えていきました。
 11世紀末の疫病・災害・改元武家社会の到来
 10~11世紀、清少納言紫式部などが登場して王朝文化が花開く中、疫病が頻発しました。大都市・平安京は地方と交易が多く、密集した社会で疫病が感染しやすい環境でした。11世紀末には、1096年12月17日に永長東海地震、1099年2月22日に康和南海地震南海トラフ地震が続発します。この時期には、災異改元が何度も行われました。
 古事類苑の歳時部によると、1095年の寛治から嘉保への改元は疱瘡、1097年の嘉保から永長への改元は天変と永長東海地震、同年の永長から承徳への改元は天変と地震、1099年の承徳から康和への改元は康和南海地震と疾病によるとあります。たった4年間に4度も災異改元があり、原因は感染症地震でした。この時期は、院政が始まった時代で、末法思想も広がったようです。
 嘉保への改元以降の100年間に、改元が38回も行われ、そのうち災異に関わる改元は27回を数えます。うち、疾疫や疱瘡に関わる改元が12回、地震に関わる改元が4回あります。日本は、大化以降、1375年間に248の元号を持ち、疾疫や疱瘡が関わる改元は42、地震が関わる改元は25あります。100年平均で、18の元号を持ち、疫病に関係する改元は3.1回、地震に関係する改元は1.8回です。平安時代後期の疫病による改元の多さは異常です。この時代、平治の乱保元の乱が起き、武士が台頭し、その後、平清盛源頼朝の時代へとつながっていきました。
 災禍を乗り越え、新たな文化を作ってきた奈良や平安の先人の苦労が思い浮かびます。
 福和伸夫
 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
 建築耐震工学や地震工学に関する教育・研究の傍ら、地域の防災・減災の実践に携わる。民間建設会社の研究室で10年間勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科で教鞭をとり、現在に至る。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。
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 エホバの証人
 聖書の見方
 神は自然災害を用いて天罰を下されますか
 神が自然災害を用いて天罰を下すと信じる人もいれば,そんなことはないと考える人も​います。どちらか分からない,という見方もあります。ある宗教学教授はこう述べてい​ます。「ほとんどの宗教伝承によれば,自然災害が神意によるものかどうかはだれも断言できない」。
 しかし聖書は,納得のゆく答えを与えています。神が自然災害を用いて天罰を下すかどうかを明らかにしているのです。さらに,多くの人の苦しみの原因も明らか​にしています。
 聖書の記録から分かる一定のパターン
 聖書は,エホバという神に関する二つの基本的な真理を教えています。一つは,神は創造者であるゆえに地球の自然力を制御する力と権威をお持ちである,という真理です。(啓示 4:11)もう一つは,神の行動は常に神の性格や特質や原則と調和している,という真理です。神はマラキ​3章​​6​節で,「わたしは​エホバであり,わたしは変わっていない」と​述べておられます。では,これらの点を念頭に置き,過去の二つの出来事を考えてみましょう。洪水と干ばつです。聖書の記録を見ると,神は自然力を用いて裁きを執行する時​に必ず(​1)警告を与え,(​​2)理由を示し,(​​3)従順な人々を保護なさる,ということが​分かります。
 ノアの時代の洪水
 警告を与える。
 洪水より何十年も前に,エホバはノアにこうお告げになりました。「わたしはいま,地​に大洪水をもたらして,……すべての肉なるものを……滅ぼし去ろうとしている」。(創世記 6:17)「義の伝道者」ノアは人々に警告しましたが,人々は「注意しませんでした」。―ペテロ第二​ ​2:5。マタイ24:39。
 理由を示す。
 エホバはこう言われました。「すべての肉なるものの終わりがわたしの前に到来した。彼らのゆえに地は暴虐で満ちているからである」。――創世記 6:13。
 従順な人々を保護する。
 エホバはノアに,洪水を生き残るための箱船の建造に関する詳しい指示をお与えになり​ました。「ノア,および彼と共に箱船の中にいたものだけがそのまま生き残(り)」ました。―創世記 7:23。
 イスラエルでの干ばつ
 警告を与える。
 エホバがイスラエルに厳しい干ばつをもたらされる前に,預言者エリヤはこう布告しました。「[神の]言葉の命令によらなければ,ここ何年間かは露も雨もないでしょう!」―列王第一17:1。
 理由を示す。
イスラエルが偽りの神バアルを崇拝したため,エホバは行動を起こされました。エリヤ​はこう説明しています。「あなた方はエホバのおきてを捨て,あなたはバアルに従って行った」。―列王第一18:18。
 従順な人々を保護する。
 エホバは干ばつの間ずっと,従順な人々に食物をお与えになりました。―列王第一17:6,14; 18:4; 19:18。
 パターンから明らかなこと
 人々が災害で苦しむのは神のせいではない
 現代においては,人類を罰するために自然災害が用いられているとは言えません。公正​の神エホバは,これまで一度も「義人を邪悪な者と共にぬぐい去(った)」ことがありません。(創世記​18:23,25)従順な人々を守られました。しかし,現代の自然災害は男女​子どもを無差別に苦しめています。
 ですから,現代の自然災害は聖書に記録されている神の介入のパターンとは一致しませ​ん。さらに,そうした無差別な災害は神の性格と調和しません。ヤコブ1章​​​13​節が述べるとおり,神が悪い事柄を用いて人に試練を与えることはなく,ヨハネ第一 ​4章​​8​節にあるとおり,「神は愛」だからです。罪のない人々が暴風雨や地震などで苦しむのは,神のせいではありません。では,そうした災害はいつかなくなるのでしょうか。
 苦しみはなくなる
 エホバ神は,人類が自然災害に悩まされることを意図してはおられません。人間が平和​な地上で永遠に生きることを願っておられます。近い将来,ノアの時代と同じく,悪を除き去るために地上の物事に介入されます。それで,これまでと同様に事前の警告を発し,世界中で警告の音信を伝えさせておられます。生き残る機会を人々に与えるためです。―詩編 37:9,11,29。マタイ 24:14。
{考えたことがありますか
 ・神は人々を罰するために自然災害をお用いになりますか。―ヤコブ 1:13。
 ・神は罪のない人を滅ぼしたりはされない,とどうして言えますか。ヨハネ第一​4​:8。
 ・災害による苦しみはなくなりますか。―啓示 21:4。}
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 情報・知識&オピニヨンimidas
 圧倒的な死に日本人はどう向き合ってきたか
 死者と生者、この世とあの世との霊魂観をつなぐもの
 川村邦光大阪大学名誉教授)
 2011/06/10
 東日本大震災では多くの命が失われ、いまだ生死も定かでない人たちが大勢いる。「圧倒的な死」を前に、人は何ができるのか? 歴史と習俗を通して私たち日本人の死生観を、もう一度見直してみたい。
 震災は天罰か?
 東日本大震災が起きてまもなく、これを「天罰」だと言った政治家がいた。なるほど地震津波などの天災や自然災害は、歴史をさかのぼれば、かつて天罰(神罰・仏罰)とみなされたことがあった。この国の神話・伝説において、「天罰」を下した神もいないわけではないが、むしろ天災はもっぱら怨霊や無縁仏、成仏できない霊によるものとされた。また、儒教思想などの影響により、為政者はこれを「自らの不徳によるもの」と表明することもあった。
 たとえば奈良時代聖武天皇は、地震旱魃(かんばつ)、疫病の流行など、自分が即位してからの相次ぐ災いに対し、神々を祀(まつ)り祈祷をしたが、いまだ効果が現れず、人民が苦しんでいるのは、朕(ちん;天皇の一人称)の不徳による、という自責の詔(みことのり;天皇の命令、宣言)を出した。そして、741年、仏教の力にすがってこれを治め防ごうとして、全国に国分寺国分尼寺の建立を命じ、次いで2年後、大仏造立に着手したのである。天災を人民の不徳による天罰とするのは、当時であれ現代であれ、為政者としての資質にまったく欠けていると言わざるを得まい。
 死者への悼みと祈り
 今回のようなおびただしい被災死者に対して、生者がなしえるのは、死者に思いをはせ弔うことだろう。かつて行われていた弔いの作法を振り返ってみるなら、死者を思いやり、死者と生者がともに悲哀を分かち合おうとした、この国の人々のつつましやかな心根を知ることができよう。
 今から800年ほど前、源平合戦で国中が乱れた養和(1181年)のころ、戦乱の京都をはじめとして、諸国では旱魃や台風・洪水などにより大飢饉(ききん)となり、疫病がそれに追い打ちをかけて、さらに大地震、山崩れ、津波といった災禍に見舞われていた。鴨長明の「方丈記」によれば、都では2年続きの飢饉により、数えきれない餓死者の遺体が街路や河原にあふれていたが、片づけられることもなく腐れ果てていった。これを見かねた仁和寺の隆暁法印(りゅうぎょうほういん)という僧が、仲間の僧侶とともに遺体の額に大日如来を表す梵語の「阿(あ)」の字を記して回ったという。その数4万2300余り。この僧は、おびただしい被災死者たちを悼みながら、一人ひとりをねんごろに埋葬することはできないが、せめてこの字によって仏との縁を結び、仏に導かれて成仏することを願ったのである。これは今回のおびただしい看取(みと)られない「死」にも、何らかの参考になりはしないだろうか。
 また、源平合戦より少し前の12世紀初め、奥州藤原氏の初代清衡(きよひら)は、中尊寺建立に際し、鐘楼を建てて大きな鐘を掛けた。1126年に清衡が記したとされる「中尊寺建立供養願文」によれば、この鐘の鳴り響く限り、戦で倒れた敵味方の区別なく、果ては人が命を養うために殺生した鳥獣魚介に至るまで、仏の慈悲と救いにより浄土へ導かれることが祈念されている。このような「あらゆる生き物の霊魂はすべて平等だ」とする霊魂観は、日本人の特徴であり、今回の震災でも、飼われていた牛馬や犬猫ばかりでなく、水族館の魚類などの死さえも悼む人々に違和感がないのは、私たちがこうした心性に支えられているからである。
 弔いの風習
 一般に、大規模災害の被災死者は無機質な数字で表されるが、そこから死者や生者の悔しさ、無念さはにじみ出てこない。むしろ死者を標準化してしまい、生者を鈍感にする。死者は生前おのおの個別の名前を持ち、それぞれの生を送っていたがゆえに、その名を呼ばれ、悼まれ、記憶されることを望んでいよう。それが弔いの基本となる。こうした思いに基づく弔いの作法は、今日に至るまで培われてきた。災難死者は命を途中で断たれた者であり、非業の死を遂げたとされた。生者はその無念の死に思いをはせて悼み、鎮魂や供養の儀礼を執行し、歌舞音曲をもって慰め、また供養碑を建立して記憶にとどめ、後世に伝えようとした。それは今日民俗行事や郷土芸能として存続し、多くの供養碑や鎮魂碑として各地に残されている。
 たとえば今回の被災地東北には、「イタコ」「オガミサマ」などと呼ばれる巫女(みこ)が死者の霊を呼び寄せ、その思いを語らせる「口寄せ」の風習がある。また、未婚の者が亡くなった場合、山形では婚礼(ムカサリ)の光景を描いた「ムカサリ絵馬」の奉納が、青森では花嫁・花婿人形の奉納が行われている。あの世で結婚式を挙げさせて、若くして亡くなった死者の霊を弔うのである。この風習は「冥婚」と呼ばれ、地域を越えた広がりを見せている。ここには、死してもなお霊魂は成長するという霊魂観がある。
 弔いと芸能
 日本では、お盆(盂蘭盆会)になると死者の霊が供養され、盆踊りが各地で催される。岩手県では、「鹿踊り(ししおどり)」や「剣舞(けんばい)」(鬼剣舞)、福島県では「念仏踊り」などの芸能が、多くの地域で弔い法として行われている。これらは主に若者たちが担い、特に新盆の家々を門付け(かどづけ)して巡り、新しい精霊の成仏を願って舞い踊る。
 民俗学者折口信夫によると、若者たちが念仏踊りを懸命に行うことが、早世した者や非業の死を遂げた者の霊魂も成長・成熟させ、往生へと導くとしている。ここにも、死してなお霊魂が成長するという霊魂観が見られる。死者と生者、この世とあの世とは、自らの成長・成熟プロセスにおいて、ともに連携し共存しているのである。
 このような霊魂観は、もはやそれとは意識されないほどに薄らいでいるかもしれない。しかし、今回の被災により、いくつかの郷土芸能が存続の危機にあるとも言われる今だからこそ、連綿と受け継がれてきた民俗行事や郷土芸能の中にひっそりと息づく、こうした弔いの作法を改めて見直し、実践してみるよい機会となるのではないだろうか。
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