🎍40〕─1─清和・陽成・光孝の三代が日本史・平安時代の大転換点となった。~No.126No.127No.128 

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 天皇三代実録。
 第56代清和天皇
 第57代陽成天皇
 第58代光孝天皇
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 平安時代とは、朝廷が庶民に重税を課し貧困に追い込んで苦しめ、巨万の富を手にした皇族や公家達は贅沢に優雅に遊びながら暮らし、宮中では権謀術数を駆使した権力闘争が繰り返されていた、とは半分ウソである。
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 天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説。
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 2022年6月23日号 週刊新潮「夏裘冬扇  片山杜秀
 平安王朝衰退史 清和・陽成・光孝の巻
 源頼朝義経清和源氏清和天皇の孫が臣籍降下して源氏姓を名乗った。はて、清和天皇とは?第56代。父の文徳天皇崩御に伴い、平安2(858)年、9歳で即位。平安京に遷都して65年目のこと。翌年に平安は貞観(じょうがん)に。そこから日本は大変だった。貞観5年、咳逆(がいぎゃく)病が大流行。新型インフルエンザだろう。同年、越中・越後で大震。6年、富士山大噴火。同年と9年に阿蘇も噴火。10年、播磨・山城で大震。都も大揺れ。そして翌11年5月26日。東日本を大地震と大津波が襲う。規模も範囲も11年前の震災とダブる。翌6月には『貞観の入寇』。新羅の海賊が九州を荒らす。外敵侵入!朝廷は国防に大わらわになった。
 変事は続く。貞観13年に鳥海山大噴火。翌年には、渤海使が新型ウイルスを大陸から運んだらしく、またも咳逆病が大流行。太政大臣藤原良房もどうやらこの病で没した。それから4年後の貞観18年、清和天皇はまだ20代半ばだというのに退位。幼い皇子が陽成天皇となる。なぜかくも早く?儒教の天譴(てんけん)論に従って責任をとったのかもしれない。皇帝に徳が足りないと天罰が下り、地震や台風や疫病や外国勢力が襲うというのが天譴論。貞観はあまりに密にそうなった。天皇の立場はない。清和天皇は、諸国を巡り、苦行し、祈り、心身を追い詰め、31歳で崩御した。
 さて、清和から陽成に代替わりし、列島に平穏が戻ったか。違った。元慶2(878)年9月29日、マグニチュード7.4と推定される相模・武蔵地震が発生。規模も範囲もまるで関東大震災。元慶4年には出雲で巨大地震。さらに奇ッ怪事が!元慶8年2月、陽成天皇はまだハイティーンなのに突如退位。理由は不明。しかし、嵯峨源氏の系で、天皇の乳兄弟(ちきょうだい)にもなる源益が宮中で撲殺されたのと、退位の時期が連動する。天皇が事件に深く関わった説も有力だ。とにかく天皇家に何らかの乱れがあったらしい。
 陽成の後を継いだのは?清和天皇の叔父の光孝だ。『百人一首』でおなじみ。『君がため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ』と詠んだ天皇。即位したとき50代半ば。今度こそ日本は平和になったか。そうは問屋が卸さない。仁和3(887)年7月30日、仁和地震。近年の研究は、南海トラフ震源とする東海・東南海・南海の連鎖巨大地震であったと推定する。いちばん警戒されている地震が、その日に起きたらしい。都も揺れに揺れた。大きな余震が何十日も続く。その最中に何と天皇崩御。理由は伝わぬ。地震発生前は元気だったのに。清和同様、天譴論に苛まれてか。ともかくあまりに急。皇太子が居ない。しかも光孝の皇子はみな臣籍降下して源姓になっていた。その中のひとり、源定省が皇族に復帰して天皇に。宇多天皇という。例外も例外の緊急対応だ。今日風に言うと、旧宮家からまさかの皇族に復帰して即位したようなものだろう。
 20年と少しの間に、疫病に外国の侵略に宮中の混乱に、飢饉も富士山噴火も関東大震災もあった。東日本の大震災の18年後に南海トラフの大地震が起きた。三代の天皇のうち、ふたりは地震と関係するかのように崩御した。
 仁和地震の混乱の渦中で即位した宇多天皇は、菅原道真らを重用して皇威の回復に努める。が、清和以来の天譴乱れ打ち状態の前にはもう戻れに。藤原氏の力は強まるばかり。権力はいよいよ私(わたくし)され、天皇は、形骸化する。目立たぬが極めて重い日本史の大転換点であったろう。
 平成から令和へと、天変地異のことも人の世のことも、何だが妙に平仄(ひょうそく)が合うのが、とても気になるのです。」
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 朝日日本歴史人物事典「清和天皇」の解説
 清和天皇
 没年:元慶4.12.4(881.1.7)
 生年:嘉祥3(850)
 平安前期の天皇文徳天皇藤原良房の娘明子の子。名は惟仁。水尾帝とも。嘉祥3(850)年11月,兄の3親王(惟喬,惟条,惟彦)を超え,生後8カ月で皇太子に立てられるが,紀名虎の娘静子の生んだ惟喬親王については,その悲運がさまざまな伝承を生み,良房と名虎が相撲で勝負を決めた(『平家物語』)とか,それぞれ真言僧の真雅と真済に加持祈祷させた(『大鏡』『江談抄』)といった話が伝えられる。天安2(858)年8月,9歳というそれまでの天皇としては最年少で即位,これを後見した良房が事実上の摂政となった。しかし『貞観格式』の編纂など制度の整備や学問の振興には積極的にかかわっており,その治世が評価されている。貞観18(876)年11月,27歳で譲位,清和院(平安左京北辺四坊)に移ったが元慶3(879)年5月に出家(法諱は素真)してからは近畿の諸寺を巡礼し,酒や酢を断って精進生活を送った。藤原基経の粟田山荘(のち円覚寺に改む)で没。臨終の際,西方に向かって結跏趺坐し,定印を結んだまま往生したが,なお生きているようであったという。遺詔により山陵は作らず,火葬したが(左京区黒谷の金戒光明寺裏山に火葬塚があり,経塚と称される),生前自ら終焉の地と定めた嵯峨水尾山に葬られた。ちなみに『続拾遺往生伝』には,清和の前世が僧侶であったという話を収める。なお賜姓源氏のうち武士化した者は清和天皇の子孫に多い。(瀧浪貞子)
 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「陽成天皇」の解説 
 陽成天皇 ようぜいてんのう
 (868―949)
 第57代天皇(在位876~884)。清和(せいわ)天皇第一皇子。母は藤原基経(もとつね)の妹高子(たかいこ)。諱(いみな)は貞明。藤原良房(よしふさ)の邸染殿第(そめどのだい)に生まれ、3か月にして皇太子となり、そのまま染殿第で育った。9歳で清和天皇の譲位を受けて即位し、基経が前代に引き続いて摂政(せっしょう)となった。しかしその後数年にして天皇は乱行多く、881年(元慶5)ころから基経と対立が続いた。883年には天皇の乳母(めのと)紀全子(きのまたこ)の産んだ源益(みなもとのみつ)を殺したり、馬を愛好して宮中でひそかに飼わしめるなどのことがあった。ここに至って天皇と基経との対立は極に達し、翌年2月天皇は自ら病気を理由に譲位した。陵墓は京都市左京区神楽岡(かぐらおか)東陵。 [福井俊彦
 『目崎徳衛著『平安王朝――その実力者たち』(1965・人物往来社)』
 小倉百人一首(13) 歌人陽成天皇(…
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「光孝天皇」の解説
 光孝天皇 こうこうてんのう
 (830―887)
 第58代天皇(在位884~887)。仁明(にんみょう)天皇第3皇子。母は従(じゅ)五位上紀伊守(きいのかみ)藤原総継(ふさつぐ)の女(むすめ)沢子(たくし)。諱(いみな)は時康。文徳(もんとく)、清和(せいわ)、陽成(ようぜい)の歴代3帝に仕え、一品式部卿(いっぽんしきぶきょう)となっていたが、宮中の乱脈粛正の意図をもって陽成天皇が廃されたあと、藤原基経(もとつね)の推挙により即位した。基経とは外戚(がいせき)関係になく、才識、人品を見込まれた擁立であり、基経の公正な態度に世人が感服したという。天皇は基経の推戴(すいたい)の功に報いるため、「奏すべき事、下すべき事、必ず先(ま)ず諮稟(しりん)せよ」との勅書を下し、関白の文字はないものの、事実上関白の職を命じた。皇嗣(こうし)についても基経にゆだねたが、基経は天皇の意をくみ、源定省(さだみ)(宇多(うだ)天皇)を推薦した。[森田 悌]
 小倉百人一首(15) 歌人光孝天皇
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 『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)は、日本の平安時代に編纂された歴史書六国史の第六にあたり、清和天皇陽成天皇光孝天皇の3代である天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。延喜元年(901年)に成立。編者は藤原時平菅原道真、大蔵善行、三統理平など。編年体の漢文で書かれた。全50巻。
 編纂
 『日本三代実録』の序文によれば、本書の編纂は寛平5年(893年)頃、宇多天皇源能有藤原時平菅原道真、大蔵善行、三統理平に編纂を命じたことにより始まった。具体的な開始年には諸説ある。記された各人の官位からの推測では、寛平5年(893年)4月から寛平6年(894年)8月となる。『日本紀略』には寛平4年(892年)5月1日とあるが、この時期に関する同書の記述には誤記が多く、信頼度は高くないという。寛平9年(897年)に源能有が没し、翌898年に宇多天皇が譲位すると、編纂作業は中断した。
 次の醍醐天皇の勅を受けて編纂を再開し、事実上、延喜元年(901年)8月に完成した。途中、菅原道真が失脚して大宰府に左遷され、三統理平は転任して編纂から外れた。完成を報告したのは、藤原時平と大蔵善行の2人であった。編纂の実質的中心は、菅原道真と大蔵善行の2人と推測される。
 内容
 編集方針は「序」を示し、国家儀礼慶事、災異(災はウ冠の下に火)は全て載せるとしている。六国史の中で最も精緻な記述を持ち、後世の史書の規範となった。詔勅や表奏文を豊富に収録し、先例のできあがった慣行を記載するなど、読者たる官人の便宜を図った。節会や祭祀など年中行事の執行をも記す。
 現存する写本は、叙位任官や詔勅・上表の本文、薨卒に関する記述に脱文や省略が多い。これを誠実な態度の表れとみる者もいるが、その部分に編者が故意に隠した事実があるのではないかと疑う者もいる。江戸時代、松下見林や狩谷棭斎などが補訂作業を行った。
 巻15と、巻19から巻48、すなわち貞観10年(868年)と貞観13年(871年)1月から仁和元年(885年)12月には、ところどころ写本の省略箇所があり、全文が伝わらない。
 災害の記録
 29年間の記録の中で、地震は300以上記録されている。主な災害は以下に示す通り。
864年(貞観6年) - 駿河国甲斐国に被害を出した富士山の貞観大噴火
869年(貞観11年) - 陸奥国貞観地震肥後国の大風雨
887年(仁和3年) - 仁和地震南海トラフ巨大地震の一つ)
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 エンタメ!歴史博士
 貞観地震の1100年前はどんな時代? 動乱に揺れた平安貴族
 2011/4/18
 869年の貞観地震津波東日本大震災と類似するという(写真は津波で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町)
 東日本大震災と類似するとされる869年の貞観(じょうがん)地震津波貞観11年)。大地震平安京(現・京都)を舞台に都会的な貴族文化を享受していた人々の安全意識を一掃した。さらに政治面でも藤原氏中心の摂関制が確立されるなど貞観(859~877年)期は波乱の時代だった。
この時代は空海最澄らが中国から持ち帰った仏教文化が花開き「弘仁・貞観文化」と呼ばれる。中国の文学などを学ぶ紀伝道漢詩集の編さん、曼荼羅(まんだら)といった密教文化、豊満で神秘的な仏像などが特徴。仏教への帰依による安心感から「安全神話」も広がっていたという。
 官僚試験に「地震」の問題
 しかし、保立道久・東京大学史料編纂所教授は「9世紀は天地動乱の時代」と位置づける。若き菅原道真が受験した貞観12年の高等文官試験には「地震を論ぜよ」という問題があったほど。「前年の地震に対する朝廷の動揺の大きさが分かる」(保立氏)。
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 新・信長論、相次ぐ 目指したのは「東アジアの王」か
宗教面でも、「安心」を与える仏教とは異なる思想を誕生させた。保立氏によれば、「忌み」の思想と言われる神道が「火山・地震という自然の猛威を再認識した中で生まれた」という。
 政治の分野でも大きな変化が起こった。貞観8年の「応天門の変」だ。大内裏にあった応天門が焼失した事件で朝廷の権力争いが複雑に絡んでいく。犯人捜しは二転三転、真相は現在も不明だが、最後は名門・伴一族の失脚で決着した。ライバル氏族を朝廷から追放し藤原氏トップの良房が摂政の座に就き、藤原氏の政権独占が始まった。
富士山・阿蘇山が噴火
 自然災害も止まらなかった。貞観5年に越中越後(富山・新潟)地震。同6年には富士山が噴火し溶岩が流れ出て青木ケ原樹海の原型ができた。同10年には播磨(兵庫県)で地震。京都での体感地震も20回を超えた。
 同11年には貞観地震後に肥後(熊本県)・大和(奈良県)で地震が起きているという。この時期には阿蘇山鳥海山開聞岳の噴火のほかたびたびの疫病も記録されている。貞観3年には現在の福岡県直方市に「直方隕石(いんせき)」が落ちた。世界で最も古い落下記録のある隕石だ。
 貞観地震を研究・調査してきた産業技術総合研究所活断層地震研究センターの宍倉正展・海溝型地層履歴研究チーム長は東日本大震災を「貞観地震の再来」とし、東北地方の火山活動には今後も注意が必要と見る。ただ当時頻発したその他の地域の噴火には「相関性があるとは言い切れない」といい、過剰な反応は不要と話す。
 祇園祭の起源も
 ところで同5年には、初の朝廷主催による「御霊会(ごりょうえ)」が行われている。相次ぐ天災を受け、怨霊を鎮める祭りとして始まったものだ。疫病が流行すると民衆が主体の御霊会も頻繁になり、現在の祇園祭貞観期の祇園御霊会が始まりという。
    (電子整理部 松本治人)     
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 JCAST テレビウォッチ
 1100年前「貞観 地震」不気味な共通点-大地震・大津波後も続いた天災
 2011年05月19日13時22分
東日本大震災は「1000年に1度」の災害といわれるが、1100年前に同じような巨大地震があった。869年に起きた貞観地震である。「けさ単」コーナーで取り上げた。
 東日本大震災震源地・規模・被害そっくり
 平安時代の歴史書「日本三大実録」に記録が残されている。井上貴博アナが東日本大震災との共通点を上げる。①は震源地。ともに三陸沖。研究によれば、ごく近い場所という。②は規模。貞観地震マグニチュードは8.4以上と推定されている。東日本大震災はM9.0だった。③は被害者。貞観地震の死者は1000人といわれる。当時の日本の人口は500万人なので、今に換算すると2万人となる。
 ……
 その時の様子を「日本三大実録」は次のように伝える。現代文に直すと、「夜にもかかわらず、発光現象が起きて昼のように明るくなった。家の倒壊や地割れで生き埋めになり、多数の被害者が出た。荒れ狂う海は渦巻きながら膨張し、巨大な波はまたたくまに城下を襲った」(2011年5月18日の読売新聞を参考)
 今回の被害とそっくりではないか。さらに調べると、貞観地震の前後、日本各地で地震や噴火が頻繁に起きている。年表風にまとめてみると――
863年(6年前) 今の富山県から新潟県にかけ大地震
864年(5年前) 富士山、阿蘇山が噴火
868年(前年)  いまの兵庫県で大地震(M7以上)
869年貞観地震
871年(2年後) 鳥海山が噴火
878年(9年後) 関東地方で大地震
887年(18年後) 南海地震(M8.0~8.5)
 他の巨大地震や噴火誘発
 さて、これを今と比較するとどうか――。
1995年(16年前)阪神淡路大震災
2004年(7年前) 新潟県中越地震
2008年(3年前) 岩手宮城内陸地震
2009年(2年前) 浅間山噴火
2010年(昨年) 桜島噴火
2011年(今年) 新燃岳噴火
2011年(今年) 東日本大震災
 なんとも、不気味な類似である。今後どうなるのか。貞観地震の何年後かに噴火や大地震が続いている。産業技術総合研究所地震履歴研究チーム長の宍倉正展氏はこう話す。
 「大きな地震が火山や活断層を刺激し、他の地震や噴火を誘発する可能性はある。過去を詳しく調べることで、今後起こることを想定内にできるはず」
 実は、東京電力福島第1原発と第2原発について、専門家から「プレート間地震の検討において、869年貞観地震を考慮すべきではないか」と指摘を受け、回答した文書がある。2009年7月13日付の「コメント回答」で、「検討を行った結果、策定した基準地震動を下回る結果になった。しかし、今後も引き続き適宜必要な検討を行っていく所存」と回答している。
 今となってはどうしようもないことだが、「ここで何らかの対策を取れていたかもしれない。想定外を想定内にできたかもしれない」と井上アナ。
 司会のみのもんたとコメンテー
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 日本で発生する甚大な被害をもたらし夥しい犠牲者を出す自然災害・疫病・飢餓は、科学ではなく宗教とされ、神々が何らかの原因で和神から荒神に豹変して荒れ狂うからである、と考えられていた。
 その全ての厄災を自分の不徳が原因であると引き受け反省し謝罪の言葉を述べるのが、正統な天皇の最重要な役目だった。
 日本において、普遍的信仰宗教(キリスト教)の絶対神や科学至上主義のイデオロギー共産主義)は百害あって一利なしの無用の長物、ハッキリ言って有害であった。
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 仁徳天皇「私はすっかり富んだ。民が 貧しければ私も貧しい。民が豊なら私も豊ななのだ」(かまどの逸話)
 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
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 その重責ゆえに、誰も天皇の代わりができない。
 それ故に、藤原氏、北条氏、足利氏、織田氏豊臣氏、徳川氏などの実力者は、天皇の地位を簒奪する事はしなかった。
 日本中心の民族神話で例えるなら、天皇は滅ぶる事のない・死ぬ事のない高天原天孫族の天つ神であり、実力者は何れは滅んで消える・死んで黄泉国に落ちる出雲系国つ神である。
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 国と世界の平和と繁栄、民草と全ての人々の安寧と幸せ、自然の平穏と厄災の鎮静を神々に祈る資格があるのは、日本に住む全ての人の中で唯一天皇だけである。
 日本に住む如何なる聖職者・宗教家、俗欲に塗れた政治家・役人、権威を持った学者・思想家では、不可能である。
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 天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇制度である。 
 天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
 現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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 日本民族が崇拝してきた八百万の神々が正統な神である事を保証しているのは、最高神・女性神の血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇の神性である。
 つまり、民族宗教、神話物語でる天皇神話である。
 近代の憲法や法律の宗教法人法が認定する神仏には、合憲・合法に基づいた正当性がっても、神性・神聖の正統性はない、つまり金儲けの為に作られたウソの神仏である。
 当然、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇には神仏を認め保証する神力はない。
 日本の八百万の神々は天皇家の祖先神である伊邪那岐命イザナギノミコト)と伊邪那岐命イザナミノミコト)から生まれた、それが天皇神話である。
 八百万の神々の正統な神性は、天皇神話は保証している。
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 現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
 戦後民主主義教育を受けた高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
 現代の国際常識、世界正義は、男女平等、女性権利の向上、フェミニズムジェンダーで、正統性男系父系天皇制度は悪とされている。
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 日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。
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 神の裔・祭祀王の天皇が行う国事行為の「まつりごと(政)」とは、宮中祭祀の神々に祈りを捧げる事と、言霊・言挙げ文化で歌を詠む事であった。
 現代の反宗教無神論・科学万能思想を信奉する日本人には理解できない。
 まして、天皇否定、天皇制度廃絶の反天皇反民族反日本的日本人にはその能力がない。
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 歴史的事実として、中国人や朝鮮人は日本に逃げて来たが、日本人が中国や朝鮮に逃げ出した事例はない。
 多分、今後の日本では、多くの日本人が日本から中国、朝鮮、東南アジアあるいはアメリカ、オーストラリア、やカナダなどへ逃げ出す事になる。
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 中国人や朝鮮人は度々日本を襲撃したが、日本人が中国や朝鮮を襲撃した事はなかった。
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 日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、1,神の民族神話、2,人類の文明発展・進化・進歩、3,人間の英雄伝説の3つを持っている。
 神の宗教的民族神話とは、古事記日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
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 神代の民族固有神話を持っている国家や国民は、古代の古層を受け継ぐ日本以外に存在しない。
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 日本民族は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた。
 天皇家・皇室は、数千年前の弥生時代古墳時代に、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻し、幸せと豊かさを求めたムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として「天皇下駄論」・「天皇人身御供説」・「天皇生け贄説」で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
 その神聖不可侵の裁可者・天皇という地位を護る為に考え出されたのが、「政治的無答責の君主」、つまり政治権力も宗教権威も持たない天皇の権威つまり「天皇の御威光」である。
 祖先と国と民族に対して重い責任を負うのは、益荒男・日本男児の責務であって、手弱女・大和撫子ではなかった。
 故に、日本天皇は、最高神の女性神による民族神話、神話宗教、血筋・血統の家世襲万世一系で受け継ぐ事で正統性を与えられていた。
 民族神話で正統と認められた宗教的万世一系の男系父系天皇制度とは、いつ終わるか分からない弥生の大乱に辟易とした古代日本民族が、争いを避け、起きた争いを短期間で終わらせ、偽りでもいいから平穏無事を維持する為の歴史的叡智である。
 つまり、白黒を、善悪を、正邪を、ハッキリ区別しない為の宗教的正統な万世一系の男系父系天皇制度であった。
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 天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事を困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
 つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
 それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
 日本民族天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 徳川幕府は、目の見えない視力障害者・検校が行う高利貸しを保護していた。
 検校の中には、御家人株を買って子供を武士にし、上司や同輩に賄賂を贈っていた幕臣にしていた。
 百姓や町人も、金を使って武士の身分を手に入れ、才覚で町奉行勘定奉行などの役職について出世した。
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 数千年前の弥生時代古墳時代から、日本国・日本民族を1つにまとめている3つの力が存在している。
 1つ目が武力の政治権力、2つ目が経済力の宗教権威、3つ目が文化力=畏れの天皇の御威光・権威・御稜威・大御心であった。
 日本の歴史において、政治権力と宗教権威は人間の強欲・私欲・個人欲で栄枯盛衰を繰り返し目まぐるしく入れ替わっていたが、その中で文化力の天皇の御威光だけは変わらなかった。
 そんな文化力の天皇の御威光を滅ぼうと忍び寄ってきたのが、キリスト教の宗教とマルクス主義共産主義イデオロギーであった。
 そして、現代日本人は日本のグローバル化の為にローカルな日本の文化力をゴミのように捨てようとしている。
 反天皇反民族反文化的行動を行っている日本人の多くが高学歴な知的インテリや進歩的インテリ達である。
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 世界の王侯貴族は他国からの軍人征服者であったが、日本の天皇は民族の伝統・文化・宗教の権威者であり保護者であった。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
  地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の甚大な被害をもたらす破壊的壊滅的自然災害は種類が多く、年中・季節に関係なく、昼夜に関係なく、日本列島のどこでも地形や条件に関係なく、同時多発的に複合的に起きる。
 それこそ、気が休まる暇がない程、生きた心地がない程であった。
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 仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
 神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
 神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 昭和・平成・令和の皇室は、和歌を詠む最高位の文系であると同時に生物を研究する世界的な理系である。
 武士は文武両道であったが、皇室は文系理系双系であった。
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 徳川家康は、実理を優先し、読書を奨励し、経験を重視し、計算の数学と理・工・農・医・薬などの理系の実利で平和な江戸時代を築いた。
 が、馬車や大型帆船は便利で富をもたらすが同時に戦争に繋がる恐れのあるとして禁止し、江戸を守る為に大井川での架橋と渡船を禁止した。
 つまり、平和の為に利便性を捨てて不便を受け入れ、豊よりも慎ましい貧しさを甘受した。
 それが、「金儲けは卑しい事」という修身道徳であったが、結果的に貧しさが悲惨や悲劇を生んだ。
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 日本で成功し金持ちになり出世するには、才能・能力・実力が必要であった。
 日本で生きるのは、運しだいであった。
 日本の運や幸運とは、決定事項として与えられる運命や宿命ではなく、結果を予想して自分の努力・活力で切り開く事であった。
 それは、自力というより、神か仏か分からない他者による後押しという他力に近い。
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 左翼・左派・ネットサハ、右翼・右派・ネットウハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者には、日本民族ではない日本人が数多く含まれている。
 彼らには、数万年前の石器時代縄文時代と数千年前の弥生時代古墳時代から受け継いできた日本民族固有の歴史・文化・伝統・宗教はない。
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 日本の自然は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境を生きてきた。
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 日本民族は、石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
 それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
 「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
 江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
 田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
 植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
 平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
 「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
 最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
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