🏹9〕─3・B─「歎異抄」は親鸞の「君たちはどう生きるか」だ。「災害と真宗史」。〜No.25 

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 平安末期は戦乱と災害によって生き地獄と化していて、鎌倉仏教は地獄に苦しむ庶民を救済する為に誕生した。
 仏教の救済には、御仏の教えで悟りを開き、生きている現世での救済と死んだ後の極楽浄土・来世での救済の二種類があった。
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 真宗大谷派東本願寺
 親鸞聖人の生涯(1173~1262)
 浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、戦乱や災害が相次いだ平安時代末期から鎌倉時代にかけて、90年のご生涯を送られました。
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 方丈記。1212年(建暦2)。
 東洋経済オンライン「方丈記に描かれた5大災厄が映す諸行無常の本質
養老孟司が「一番読んでもらいたい古典」と言う訳
 2021/09/14 15:00
 旅の途中、いつかの記憶に思いをはせる……「方丈記」に記された災害の記憶とは(画像:信吉/文響社
 「枕草子」「徒然草」にならぶ、日本三大随筆のひとつである「方丈記」。「ゆく河の流れは絶えずして〜」の冒頭ですが、前半は平安時代末期におこった5つの大きな災害のルポタージュであり、実は日本最古の災害文学なのです。
 5つの災害とは、地震、辻風(竜巻)、急な遷都、飢饉と疫病、地震のこと。この方丈記を漫画化した『漫画方丈記』より、5大災厄のうちの1つ、「飢饉と疫病の災い」の部分を抜粋しご紹介するとともに、養老孟司さんによる解説をお届けします。
 (外部配信先では漫画を全部閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください)
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 2023年12月29日18:02 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「高橋源一郎歎異抄」の生きる知恵を今のことばに 「歎異抄」は親鸞の「君たちはどう生きるか」だ
 「ぼくたちのことば」に置き換えて書き上げた『一億三千万人のための「歎異抄」』は、どのようにして生まれたのでしょうか(写真:朝日新聞出版写真映像部・上田泰世)
 この10年の間、親鸞の『歎異抄』を繰り返し読んできた作家の高橋源一郎さんが、みずみずしい「ぼくたちのことば」に置き換えて書き上げた『一億三千万人のための「歎異抄」』。今まで誰も読んだことのない『歎異抄』は、どのようにして生まれたのか。700年前の本を今に届ける意味を、高橋さんに聞いた。
 高橋源一郎『一億三千万人のための「歎異抄」』で700年前の親鸞の言葉を現代に
■『歎異抄』と『ゴジラ-1.0』
 日本でも大ヒット公開中の『ゴジラ-1.0』が、12月1日に全米2308館で公開された。オープニング興収1100万ドルのヒットで外国映画の実写映画としては、2004年公開の中国映画『HERO』に次ぐ史上2番目となる記録で日本の実写映画としては歴代1位だという。公開日こそ2位スタートだったものの、その勢いは止まらず、12月4日にはついに全米興収1位にまで上り詰めている。このニュースを目にした時に、『一億三千万人のための「歎異抄」』を上梓したばかりの高橋源一郎さんの翻訳についてのこんなことばを思い出した。
 「19歳の長男にNetflixで世界配信中の『PLUTO』を勧めたところ、全8話をノンストップで鑑賞していました。そのあとすぐに『ゴジラ-1.0』を観に行っていて、どちらの作品もものすごく面白かった、と。『PLUTO』は手塚治虫の『鉄腕アトム』の中のエピソード『史上最大のロボットの巻』のリメイクですし、『ゴジラ』にしても国内だけでも30作もシリーズ化されています。どちらも本質はきちんと残ったまま、新しい解釈で進化している、これも翻訳なわけです。
 もちろん『歎異抄』の翻訳の場合は、映画のように新しいものを生み出していくわけではないけれども、わかりにくい日本語をわかりやすい今の日本語にしながら、何百年もの長い間、愛されて現代まで読み継がれてきています」
 翻訳の意味とは何か。高橋さんは、<いま現在を生きる人びとの切実な問題に変換してみせる>こと、と考えている。『PLUTO』であれば、60年前のロボットの悲劇をAIという最新技術と共存していく現代社会に、全米ヒットとなった『ゴジラ-1.0』は、戦争のトラウマを持つ帰還兵の葛藤が現代的なテーマとして捉えられたことだろう。では700年も前の宗教書である『歎異抄』の場合はどうか。
 「『歎異抄』の書かれた時代は、今から700年も前の戦乱と飢餓と天災という大変な世の中です。そんな大昔の話と思いがちですが、今だって戦争と紛争、そして災害の時代ですよね。だからこそ、その先を見通すような思考が必要なのですが、今の作家は、その瞬間に面白いと思われるようなものを求められ、書くそばから消費される運命にあります。それでは、その先を見通すような思考は生まれません。
 この10年間、『歎異抄』を繰り返し読んできましたが、読めば読むほど夢中になりました。ぼくは親鸞を宗教家というよりもことばの人、つまり作家に近い人だったと思っています。人間がことばを使ってコミュニケーションする生きものである以上、宗教も政治も文学もこれを避けては通れない。
 親鸞のことばは700年たった今も古びずに生きていて、『歎異抄』には生きるための知恵が書かれていると思います。だからこそ『歎異抄』が700年前の宗教の本、という枠の中に閉じ込められているのは、あまりにももったいないと思いました」
■まるでわたしのために書かれているようだ
 <太宰治(ダザイオサム)という作家がいる。この国の作家の中でもとりわけて人気がある。もしかしたら、いちばん人気がある作家かもしれない。もちろんぼくも大好きだ。/ダザイオサムが好きだという読者に、その理由を訊ねると、こんな答えが返ってくることが多い。(略)/「彼の作品を読んでいると、まるでわたしのために書かれた作品のような気がしてくるんです。(略)/読者のみなさんはもう気づかれていることだろう。ここでも「シンラン」に起こったことが繰り返されているのだ>(『一億三千万人のための「歎異抄」』より)
 太宰治を読んでいると、まるで自分ひとりのために書かれているような気がする、と高橋さんは言う。それと同じように、『歎異抄』を読んでいると、まるで自分ひとりのために、あるいは、親鸞が直接自分に向かって語りかけているように、書かれている。そんな気がするはずだとも。
 ただし、そのためには、『歎異抄』のことばを太宰治のことばのように、いまのことばにする必要があるかもしれない。『歎異抄』を、700年前の人のように読むために、古いことばという「壁」を壊す必要がある。だから、翻訳するときに、古くなってしまった、少しわかりにくいことばを今のことばに、今なら親鸞はこういうだろうなというふうに、少しだけ変えることにしました。読者が置いてきぼりにされないように、と高橋さんは言った。
 「おもしろいのは、自分ひとりに向かって誰かが語りかけている、あるいは語りかけられているという体験を、親鸞自身がしていることです。アミダというエラいホトケは、この親鸞を救うために誓いを立てられた。そんな気がする。そう親鸞は言っています。常識的に考えるとおかしいですよね。ホトケはあらゆる人びとを救うために誓いを立てたのだから。
 でも、それほど個人に寄り添える思想でなければ、ひとりひとりの個人が、それは自分に向かって手を差し伸べた救いなのだと信じられるようなものでなければ、なんの力も持たないのです。そのことを親鸞はよく知っていたのだと思います。そんな親鸞だからこそ、彼のことばもまた、現代の我々ひとりひとりに、直接訴える力を持つようになったのです。
 親鸞は、自分は僧侶でも俗人でもない『非僧非俗』の身だと宣言しました。宗教者なのに妻帯し子どもを持ちました。難しいお経を読んだり、理解しなくてもかまわない、と言いました。寺もいらない、修行なんかしなくてもいい、寄進も不要だと言いました。ただネンブツを称えるだけで、誰でも救われると言いました。どれもこれも常識はずれでした。けれど、あらゆる常識を捨てた親鸞のことばは、当時の悩める人びとの心を深いところからつかまえたのです。
 あらゆる世間の常識とかけ離れた『歎異抄』は700年前の人びとの心をつかまえました。そこには、時代を超えた普遍的な、人間の智慧が書かれているようにぼくには思えます。親鸞は700年前に『君たちはどう生きるか』と問いかけました。そして、今も、まったく同じように、『歎異抄』の中から、そういうことばが現代の我々に向かって語りかけられているのです」
 果たして、現代を生きる私たちの悩みに親鸞ならどう答えるのか。高橋さんに、将来に漠然とした不安を持つ40代のビジネスパーソンの質問に親鸞的思考で答えてもらった。
高橋源一郎が読者の悩みに答える
 【質問】
 40代になりました。今のところ健康に不安もなく、家庭生活も特に問題はありません。けれど、将来を考えると不安は尽きません。わたしの仕事は、誰にでもとって代わられるようなものです。いや、AIがもっと発達すれば不要かもしれません。かつてのようなやりがいは今は感じられません。どうしたらいいのか、考える端緒さえわかりません。高橋さんの『歎異抄』は、実は『君たちはどう生きるか』なのだそうですが、わたしのような人間へのヒントは書いてあるのでしょうか。申し訳ありません、質問になっていないのかもしれませんが。
 【回答】
 ご質問ありがとうございます。「パレスチナイスラエルの争いをどう見たらいいのか」とか「子どもがスマホばかりいじって困っています。とりあげるわけにもいきません。親としてどうすればいいのかお教えください」といった具体的な質問なら、わたしでも簡単に(ではありませんが)答えられます。でも、人びとの悩みの大半は、もう少し曖昧なものなのかもしれません。そして、そちらの方がずっと答えにくいのです。
 『歎異抄』は、弟子の唯円が師の親鸞が亡くなって遥か後、師のことばを思い出しながら書いた本です。そこに書かれた親鸞のことばを読むと、どれもが、我々ふつうの庶民たちが抱えている、曖昧で答えにくい問いへの回答になっているような気がします。そんなことばは、わたしも他では読んだことがありません。一冊まるごと読めば、読み終わった後で、なにか大きなことを教えられた、そう感じることができる本なのだと思います。
 親鸞は偉大な僧侶、というか仏教者だと思われています。歴史の本や教科書にはそう書かれているかもしれません。でも、実際はちがうとわたしは思っています。親鸞は、若い頃、宗派の争いに巻きこまれました。そして、反対する宗派の迫害にあって、流刑になります。仲間の中には処刑された人もいました。なんだか、いまと変わりありませんね。
 その後、親鸞は変わりました。「非僧非俗」を称え、自分は僧侶でもなく(僧侶という形式など信仰に関係ないから)一般人でもない(それでも信仰はいちばん大切にしているから)といったのです。そして親鸞は、僧侶なんて姿形で威張っても意味がないからと結婚し、子どもをつくり、家庭生活を営みました。
 『歎異抄』の中にも書いてありますが、宗教的な儀式もいらない、お布施もいらない、といいました。当時の一般庶民は字も読めず書けない人が大半だったので、お経もいらない、そんなものは自分で読むだけでいい、といいました。
 結局、親鸞浄土真宗では「南無阿弥陀仏」という念仏(ネンブツ)を唱えるだけで、あとはなにもしなくても、死んだ後は浄土(ジョウド)へ行けるといったのです。当時の僧侶たちは困ったことでしょう。自分たちが僧侶としてやっていることが、ぜんぶいらないことだといったのですから。
■人として生まれた以上、最後まで迷う
 そんな親鸞がやったのは、一般庶民の悩みを聞いて答えることだったのですが、わたしが好きなのは、次の問答です。
 あるとき弟子の唯円は、彼らの信仰の根本である「念仏」を唱えても実は喜びを感じないのですといいました。自分には信仰心がないんじゃないかと告白したのです。すると、意外なことに、親鸞は「おれも同じだ」と答えました。こんなふうにです。
 「いくらネンブツをとなえても、うれしくならないのは、信じられないからだ。なぜ信じられないのか。迷うこころがあるからだ。この世に執着しているからだ。おれたちが生きているからだ。おれたちがこの世界に生きて、欲望にまみれているからだ。おれたちがゴクラクより地上にしばられているからだ。ユイエン、だからこそ、おれたちはジョウドへ行けるんじゃないのか?」
 人として生まれた以上、最後まで迷うのだ。これが親鸞がたどり着いた結論でした。それこそが生きている証拠であり、意味なのだと。親鸞はそう考えたのです。もちろん、具体的な悩みは具体的に解決するしかありません。けれども、人が人として生きる限り生まれる悩みは解決しません。解決しないからこそ人である意味があるのです。
 いや、親鸞はもっとずっとうまく説明してくれています。ぜひ『歎異抄』を読んで、直接、親鸞本人にお訊ねになってください。きっとあなたに直接響くなにかを教えてくれるはずです。
 高橋 源一郎 :作家
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 真宗大谷派東本願寺
 【教学研究所コラム 聞】「災害と真宗史」
 2021年7月22日 教学研究所 【教学研究所コラム 聞】「災害と真宗史」2021-07-20T16:24:55+09:00教えにふれる読み物, 『聞』, 教学研究所, 教えにふれる
 「災害と真宗史」
 (上場 顕雄 教学研究所嘱託研究員)
 自然災害などによって、突然大切な身近な人の死に接した時、あらためて人生のいろいろなことや「生」や「死」について考えさせられる場合が多いのではないだろうか。
 災害といっても、「大地震」・「洪水」・「台風」・「旱魃」などがあるが、ここでは大地震真宗史について紹介・試考してみたい。
 親鸞聖人存命中、居住された地域で大地震に遭遇されたのは三度と思われる。聖人十三歳の比叡山時代・元暦二年(一一八五)、京都盆地北東部を震源とする大地震があった。現在の研究ではマグニチュード七・四と推定されている。
 白河天皇(一〇五三~一一二九)が建立した法勝寺(現廃寺、跡地左京区岡崎付近)の九重の塔は倒壊をまぬがれたが、垂木などすべて落ちたと伝える(中山忠親山槐記』)。比叡山も当然大変揺れたであろうし、聖人も生涯忘れない恐怖を体験されたと考えられる。
 また、聖人らが関東から帰洛された後、七十三歳の寛元三年(一二四五)にも京都で大地震があった。同年には、聖人の末娘・覚信尼の夫・日野広綱が亡くなっている。覚信尼にとって悲しい残念な年時でもある。
 『恵信尼消息』は、その大地震について何も語っていない。同消息は、すべて覚信尼宛で、私的なことを含む母子間の消息である。覚信尼の消息は現存しておらず、大地震を体験したことを、恵信尼に語った痕跡をみることはできない。『恵信尼消息』は、寛喜三年(一二三一)聖人が、佐貫(群馬県)の地で「衆生利益」のため『浄土三部経』を千部読誦しようと発願したが、中止したことを伝えている。当時、同地域で洪水被害か凶作であったと考えられている。母子は双方ともにこの事を深く理解していたのであろう。
 なお、聖人八十二歳の時にも京都で大地震が起きている。
 時代が下って、本願寺第八代蓮如上人時代も飢饉や疫病(伝染病)があった。長禄三年(一四五九)畿内一帯は二年連続の凶作で、京都では餓死者が毎日三百人程あったと伝えている(『大乗院寺社雑事記』)。また、寛正二年(一四六一)の飢饉や疫病では、周辺各地から難民となった人々が京都に殺到したといわれる。蓮如上人はこれらについて、『御文』や消息で何も語っていない。
 また、本願寺第十二代教如上人時代の文禄五年(一五九六)に有馬、高槻、伏見ラインで大地震があった。それにより上人建立の「大谷本願寺」(大坂)が倒壊したが、上人は消息に何も記していない。
 大地震旱魃あるいは疫病などが生起した場合、平安期以降一般的に仏教界や神社界では、それの除去や、祈雨のために祈祷が行われてきた。
 しかし、真宗は「祈祷仏教」ではない。さまざまな出来事を背負いながら、互いに助けあいをし、のり超えて人生や自己を考えていくのが真宗の特性の一つであろう。
 (『ともしび』2021年5月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
●お問い合わせ先
〒600-8164 京都市下京区諏訪町通六条下る上柳町199 真宗大谷派教学研究所 TEL 075-371-8750 FAX 075-371-6171
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 ニッポン飢饉史
 飢饉の日本史
 『凶荒図録』の世界
 犬と鳥に食われる人間(『凶荒図録』)
 平安時代末期、世情の不安を背景に「六道思想」が流行しました。すべての生命は六道を輪廻するが、生前に罪を犯した人間は、そのなかの地獄道や餓鬼道に落ちるというものです。六道は上から「天道」「人間道」「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」で、いわゆる人間世界の下には「苦の世界」が4つも広がっているのです。
 平安時代に作られた国宝『餓鬼草紙』はその思想を反映したものとされ、たとえば餓鬼のおぞましい姿が描き出されています。
 餓鬼草紙
 『餓鬼草紙』(国会図書館HPより)
 しかし、現実には、人間道はしばしば餓鬼道より悲惨でした。食糧不足になれば、たちどころにして飢饉となるからです。
 『日本書紀』には飢餓の記録が頻出します。最古の記録は、崇神天皇5年で、「疫病により人民の半分が死に、飢饉となった」とあります。欽明天皇28年(西暦567年)には「郡国、大水により飢え、人がお互いに食べあった」と、いきなり食人の記録が書かれています。
 1181年(養和元年)には、京都で4万2300人が亡くなった「養和の飢饉」がありました。鴨長明の『方丈記』には《築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知らず、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目もあてられぬ事多かり》とあって、市中に遺体があふれ異臭を放っていたことがわかります。
 飢饉と『凶荒図録』
 トリに食われる
 1230年から数年間続いたのが、「寛喜の飢饉」です。極端な寒冷気候で、全国的な大凶作に。『吾妻鏡』には、《今年世上飢饉。百姓多以欲餓死》(寛喜3年3月19日)とあり、幕府は出挙米を拠出して救済に乗り出します。このとき、妻子や自分自身を「売却」する者が続出。幕府は当初これを認めませんでしたが、1239年、「飢饉の際の人身売買は有効」としました。
 1460〜1461年(寛正元年〜2年)には、風水害や疫病で「人民の3分の2が死んだ」(『興福寺年代記』)飢饉もありました。
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 2020年6月1日 YAHOO!JAPANニュース「度重なる感染症と自然災害で生まれた奈良時代平安時代の文化と制度
 福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
 災禍と歴史
 新型コロナウィルスの感染拡大の中、過去の感染症や自然災害を調べるようになりました。海外では、14世紀の黒死病(ペスト)とルネッサンスコロンブスアメリカ大陸発見と天然痘による16世紀のアステカ文明やインカ文明の衰退、18世紀のリスボン地震ポルトガルの衰退、アイスランドラキ火山噴火による飢饉とフランス革命、1918年の第一次世界大戦終結スペイン風邪など、大規模な感染症拡大や自然災害は、世界の歴史と密接な関係があるように感じられます。そこで、日本の歴史についても調べてみました。今回は、手始めに、奈良時代平安時代感染症と自然災害について考えてみます。
 天平時代の天然痘地震天平文化
 729年から749年まで続いた聖武天皇が治めた天平は、奈良時代の最盛期で、天平文化が花開きました。一方で、地震や疫病の大流行がありました。734年5月18日には、畿内七道を揺るがす地震が起きました。生駒断層の活動が疑われており、誉田山古墳の一部が崩壊しました。その直後、735年から737年には、天然痘と思われる疫病が大流行しました。総人口の3割前後が死亡したとも言われます。この疫病で、藤原不比等の息子4人兄弟(藤原武智麻呂藤原房前藤原宇合藤原麻呂)が病死しました。735年に大宰府に帰国した遣唐使や、新羅使が平城京に疫病を持ち込んだ可能性があります。
 地震や疫病、飢饉に悩んだ聖武天皇は、仏教の力を借り、国分寺国分尼寺を各地に作らせ、その総本山の東大寺法華寺を建て、大仏を建立しました。多くの農民が命を落としたため、743年には、農業振興のため墾田永年私財法を制定し、農地の私有化が図られました。直後の745年6月5日には、天平地震が発生しました。この地震は養老断層が活動したもので、養老断層は、1586年にも天正地震を起こしています。
 天平文化成立の裏には、感染症と大地震があったようです。ちなみに、節分のときに行う豆まきは、宮中で行われた追儺に起源があるそうです。疫病を持ち込む鬼を国外に追い払うために行われたと言われ、8世紀に始まったそうです。天平の疫病との関りが想像されます。
 貞観の時代の疫病・地震・噴火と摂関政治・国風文化
 859年から877年まで続いた貞観時代には、富士山の噴火、疫病、京都での洪水や飢饉、東北地方の大震災などが続発しました。藤原良房摂関政治が始まった時代でもあります。
 861年5月24日に、福岡県の直方に隕石が落下します。目撃記録が残る世界最古の隕石のようです。863年7月10日には、越中・越後で地震が起きます。同年には、都でインフルエンザと思われる疫病が蔓延し、終息後、霊を鎮めるため神泉苑で御霊会が開かれました。翌年864年7月2日には、富士山が大噴火します。貞観噴火と呼ばれる割れ目噴火で、青木ヶ原を溶岩が埋め尽くしました。866年には、応天門の変が起き、伴氏が滅亡して、藤原良房が摂政に就き、摂関政治が始まります。868年8月3日には播磨国地震が発生します。山崎断層が活動したようです。869年7月13日には、東日本大震災とよく似た貞観地震が発生し、大津波が東北の拠点・多賀城を襲いました。この年に神泉苑に当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈りました。これが、祇園祭の起源になりました。
 翌年870年に菅原道真が方略試を受験しました。問題は、「明氏族」「弁地震」の2問で、地震について弁ぜよとの問いに対し、道真は中国で張衡が発明した世界初の地震計の地動儀のことを答えて合格します。そして、871年に鳥海山、874年に開聞岳が噴火しました。
 元慶時代になっても、878年11月1日に関東地震が疑われる相模・武蔵地震、880年11月23日に出雲の地震が、さらに仁和時代になって、887年8月2日に京都の地震、8月26日に南海トラフ地震の仁和地震が発生します。まさに、大地動乱の時代でした。その後、894年には、菅原道真の意見で、遣唐使が廃止されます。901年に道真は大宰府に左遷され、903年に落命します。こういった中、日本独自の国風文化が芽生えていきました。
 11世紀末の疫病・災害・改元武家社会の到来
 10~11世紀、清少納言紫式部などが登場して王朝文化が花開く中、疫病が頻発しました。大都市・平安京は地方と交易が多く、密集した社会で疫病が感染しやすい環境でした。11世紀末には、1096年12月17日に永長東海地震、1099年2月22日に康和南海地震南海トラフ地震が続発します。この時期には、災異改元が何度も行われました。
 古事類苑の歳時部によると、1095年の寛治から嘉保への改元は疱瘡、1097年の嘉保から永長への改元は天変と永長東海地震、同年の永長から承徳への改元は天変と地震、1099年の承徳から康和への改元は康和南海地震と疾病によるとあります。たった4年間に4度も災異改元があり、原因は感染症地震でした。この時期は、院政が始まった時代で、末法思想も広がったようです。
 嘉保への改元以降の100年間に、改元が38回も行われ、そのうち災異に関わる改元は27回を数えます。うち、疾疫や疱瘡に関わる改元が12回、地震に関わる改元が4回あります。日本は、大化以降、1375年間に248の元号を持ち、疾疫や疱瘡が関わる改元は42、地震が関わる改元は25あります。100年平均で、18の元号を持ち、疫病に関係する改元は3.1回、地震に関係する改元は1.8回です。平安時代後期の疫病による改元の多さは異常です。この時代、平治の乱保元の乱が起き、武士が台頭し、その後、平清盛源頼朝の時代へとつながっていきました。
 災禍を乗り越え、新たな文化を作ってきた奈良や平安の先人の苦労が思い浮かびます。
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