🎍49〕─2─ 清和天皇の被災者救済の為の「減税」。宗叡と神仏習合。貞観地震。~No.155 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 同じ日本人と言っても、現代の日本国民と昔の日本民族は別人である。
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 平安時代とは、頻発する自然災害・疫病・飢饉および藤原氏などの貴族による権力争いという内憂と朝鮮の日本侵略という外患で揺れ動いていた。
 天皇と庶民・被差別民の歴史とは、繰り返し襲い来る自然災害・疫病・飢饉などに耐えて生き抜いてきた日本民族の歴史であった。
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 戦後民主主義教育におけるマルクス主義史観とキリスト教史観の歴史教育はウソが多い。
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 藤原氏・源氏・北条氏・足利氏・豊臣氏・徳川氏など数多くの政治的権力者が、宗教文化的権威者である正統天皇を滅ぼして正当天皇に即位しようとしなかったのには、明快な理由があった。
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 週刊新潮1月18日号 夏裘冬扇 片山杜秀南海トラフはいつ揺れる?
  ……
 貞観清和天皇の世。大陸では天災は帝に徳なきゆえに起きると説く。ハイティーンの天皇は苦しむ。『貞観地震』の5ヶ月前に詔を発する。無辜の民がなぜ苦しまねばならなぬか。『責め深く予に在り』。清和天皇は徳を積むべく仏道修行に身を入れる。帝を導いたのは、大陸帰りで、悩み深き人ほど悟りを得られると説いた名僧、宗叡。が、天地は容赦せぬ。出羽の鳥海山貞観13(871)年に大噴火。その5年後、まだ20代の天皇は幼い息子に譲位。諸国を行脚し、山に籠る。御伴は宗叡だ。でも報われぬ。元慶2(878)年9月29日、相模や武蔵に大地震。1923年の関東大震災にとても似ている。元慶4(880)年10月14日には日本海側の出雲が大揺れ。どちらもマグニチュード7以上と推定される。そこで清和上皇の心はついに折れたらしい。出雲の地震から間もない12月4日に崩御した。
 その後は? しばし穏やかだった。が、天災は忘れた頃にやってくる。仁和3(887)年7月30日、西日本を超巨大大地震が襲った。『仁和地震』と呼ぶ。震源南海トラフだろう。都も大きく破壊された。光孝天皇は直後に崩御するが、この災害ゆえの怪我か心労のせいとも推測される。
 帝の徳の問題はとりあえず措く。貞観越中・越後の大震から太平洋側の『貞観地震』までは6年で、そこから再び日本海側の出雲の大震まで11年で、その7年後に『仁和地震』。新潟県中越地震から太平洋側の東日本大震災までは7年で、そこから再び日本海側の能登半島地震までは13年。……」 
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 世界で起きるM6以上の地震の約20%は日本周辺で発生し、甚大なる被害と夥しい犠牲者が出ていた。
 古神道シャーマニズムは、自然災害の中から生まれた。
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 宗叡(しゅうえい・しゅえい、大同4年(809年) - 元慶8年3月26日(884年4月25日))は、平安時代前期の真言宗の僧。俗姓は小谷氏。京都の出身。読み方については「しゅうえい」とも「しゅえい」ともいう。入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。
 略歴
 14歳で比叡山に入り載鎮に師事して出家し、のちに興福寺の義演から法相教学を、延暦寺の義真から天台教学を、円珍から金剛界胎蔵界両部を、実慧から真言密教を学び、禅林寺の真紹から灌頂を受けた。862年(貞観4年)真如法親王とともに唐へ渡った。五台山・天台山を巡礼し、また汴州の玄慶、長安の法全などに密教を学んで、865年(貞観7年)に帰国。869年(貞観11年)に権律師、879年(元慶3年)僧正に任じられ、東大寺別当・東寺二長者も歴任している。清和天皇の帰依を受け、天皇が出家する際にはその戒師も務めた。
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 宗叡の白山入山をめぐって : 9世紀における神仏習合の進展(1)
 https://iss.ndl.go.jp>books
 タイトル:, 宗叡の白山入山をめぐって : 九世紀における神仏習合の進展(1). 著者:, 吉田 一彦. 出版地(国名コード):, JP. 出版地:, 京都. 出版社:, 永田文昌堂.
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 立地経済学 事始め
 2018/12/21 清和天皇による「減税」
 From 藤井聡@京都大学大学院教授
 大災害が多発し、首都直下地震南海トラフ地震がリアルに予期される今、防災、強靱化を「行う」という政治判断こそが必要である、だから、そうした当たり前の政治判断を導く「思想」について徹底的に議論せねばならない。
 この議論の中でも特に、今の「消費増税」問題にも直結する大変、意味深長な議論がありましたので、ご紹介差し上げます。
 それは、清和天皇による「減税」のお話。
 平安の清和天皇の時代、疫病や災害が連発しました。
 その中でも特に酷かった災害が、貞観地震でした。
 この地震は、「千年に一度」と言われた、かの東日本大震災の「前回」の巨大地震
 いわばそれは、平安版・東日本大震災
 この地震の一報を受けた清和天皇は、これを即座に「天罰」と捉えます。
 つまり、この巨大災害は、「自分自身の不徳の致すところの帰結」として、天からの戒め、罰として下されたものに違いない、と感得します。
 こうした「天罰」として捉える伝統は、古来から繰り返し見られるものです。
 例えば奈良時代聖武天皇は、大地震や疫病、飢饉が度重なった時に、それを天の怒りと捉え、それを鎮める趣旨も込めて、かの大仏を建立しました。
 鎌倉時代では、日蓮上人が、同じく度重なる災害は、日本人のこころの乱れを反映したものだと説きましたし、近代では、関東大震災の折に、思想家の内村鑑三や、財界の渋沢栄一、詩人の北原白秋らがこぞって、近代日本の在り方に対する「天罰」に違いないとそれぞれの立場で論じています。
 こうした日本の伝統の中で清和天皇もまた、「天人感応説」あるいは「天人相関説」と呼ばれる、「天災は為政者の不徳に対する天罰である」という考え方を唱えていたわけです。
 「天罰」というと、何やら非科学的だ―――と考える向きも多かろうかと思いますが、よくよく考えると、天罰と捉える伝統の「機能」に着目すると、きわめて合理的に政治の「改善」を果たす、至って「実践的」な思想だ、という側面が見えてきます。
 なぜなら、その地震や台風で人が死に、街が破壊され、その被害が拡大してしまうのは、その「備え」が不十分であり、かつ、社会や経済のありようが「脆弱」であったからです。
 だから、巨大な天災の被害を目の当たりにした為政者は、自らの政治の不十分さに思いを致し、深く「反省」し、社会のあり方を改善していく努力を始めなければならないわけです。
 そして、そうした反省と、改善努力は、為政者が、それを「天罰」と捉えれば捉えるほど、大きくなります。
 しかし、それを天罰と捉えず、単なる「アンラッキー」と捉える様な下劣な為政者は、
どれだけ被害が大きくても、何の反省も、改善努力もしません。
 つまり、その災害を天罰と捉えるのは為政者として誠に「正しき」態度であり、天罰と捉えない為政者は、「悪しき」為政者と言わざるを得ないわけです。
 こうした構図の中、清和天皇は、その災害を明確に「天罰」と捉え、自らの政治は「悪しきもの」だったと反省したわけです。
 そしてその反省に基づき、清和天皇はまず、「減税」を断行します。
 東北の民は困っているだろうから、年貢を取るのを控えたわけです。
 あわせて、当時の蝦夷征伐(東北討伐)を中止し、「東北の復興」に当たるべしという詔勅を出します。
 翻って、現代の日本の歴代政権は、こうした清和天皇の態度を未だに持っているのでしょうか?
 残念ながら「否」としか言いようがありません。
 東日本大震災の翌年には、清和天皇が行った「減税」とは逆に、被災者も含めたあらゆる国民から薄く広く徴税する「消費税」の増税を三党合意で決定してしまいます。
 清和天皇が東北への侵攻を止めたのとは逆に、農業主体の東北の被災地に対する、「安い外国の農産品」の侵攻を加速するTPPや日欧EPA、さらには、日米貿易協定を始めてしまいます。
 それどころか、あらゆる側面で、外国勢力が「侵攻」しやすくなる方向で、水道法や漁業法、種子法、入国管理法、IR実施法が、改訂・廃止されたり、設置されたりしています。
 しかも災害は、東日本大震災だけではありません。
今年だけでも北海道と大阪の大地震西日本豪雨や台風21号、24号がありましたし、ここ数年の間でも、熊本地震や広島や伊豆大島の土砂災害、北九州や北関東の豪雨災害など、日本全国が被災地となっています。
 そして何と言っても、過去20年の間に、平均世帯所得を130万円も下落させた、「デフレ不況」という災害に、全ての国民が苛まれています。
 もしも、清和天皇に象徴される、天災を「天罰」と捉える伝統的精神が我が政府に残存していたのなら・・・
 この度重なる「災い」を契機に、自らの政治がいかなる意味で「悪政」なのかと「反省」し、その反省に基づいて、様々な「改善」がなされていたに違いありません。
 しかし、繰り返しますが、我が国の歴代政府は、そうした「伝統的精神」が全く残存していないかのように、消費増税を断行し、国民産業への「外国からの侵攻」を促す自由貿易規制緩和を加速し続けてきたのです。
 こうした現在の政府の振る舞いは、日本の伝統の見地から言うなら、「悪政の極み」
と言わざるを得ないでしょう。
 この平成の御代で、我が国国民に降り注いだ度重なる天災を「天罰」と捉えぬ政府には、
早晩、「天罰」が下ることになるでしょう。
 そして、そうした「政府」を放置し続ける民主国家日本の国民にもやはり、巨大な「天罰」が早晩、下されることとなるでしょう。
 そうならないためにも―――
 政府を含めた我々国民一人一人が、我々を苛む天災の一つ一つを、謙虚に受け止め、自らの立ち居振る舞いの一つ一つを改めんとする、伝統的精神が今、強く、求められているのです。
 これこそが、筆者が説き続けている、国土強靭化の基本思想なのです。
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有)ソルブ  林原安徳
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 関東大震災で起きた日本人・朝鮮人・中国人惨殺事件は、日本の災害史で関東大震災の1件のみである。
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 如何なる宗教も、日本の天災を食い止める事ができない。つまり、宗教は無力であった。
 同様に、イデオロギーも糞の役にも立たなかった。
 それが、日本に宗教とイデオロギーがなかった理由である。
 日本の宗教とは、畏れ敬う崇拝宗教であって信仰の啓示宗教ではなかった。
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 地獄のような自然災害・疫病・飢饉などから生き残る為に、天皇の権威の下で在来宗教の神道と外来宗教の仏教の良いとこ取りをして生み出されたのが「神仏融合」である。
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 歴代天皇は、日本国と日本民族の為に祈っていた。
 それ故に、日本国と日本民族は国内外の敵から命を犠牲にして天皇と皇室を護ってきた。
 それが、神聖不可侵とされた正統な天皇の真の姿である。
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 天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇制度である。 
 天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
 エセ保守とリベラル左派によるメディアと教育で洗脳された現代日本人の80%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
 エセ保守とリベラル左派とは、マルクス主義の反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人の事である。
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 朝鮮の日本侵略。
 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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 遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。 賊は伊豆国穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
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 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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 866(貞観8)年 山春永らの対馬侵攻計画。
 肥前基肄郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)、藤津郡領葛津貞津、高来郡擬大領大刀主、彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人と共謀し、日本国の律令制式の弩の製法を漏らし、対馬を攻撃する計画が発覚したが未遂に終わった。
 なお、この対馬襲撃計画に先立つ天安元年(857年)には、対馬島で島内の豪族が300人ほどの兵を率いて対馬守を襲撃する反乱が起きていた。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
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 保守には、正統保守・エセ保守である。
 現代日本では、急速に新保守の守旧派が増えた。
 正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
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 2019年11月14日 産経新聞天皇と国民つなぐ祭祀、大嘗宮の儀 「災害はらう」古代から継承  
 「大嘗宮の儀」が行われ、帳殿に向かわれる皇后さま=14日午後6時38分、皇居・東御苑(古厩正樹撮影)
 14日夜に始まった大嘗祭(だいじょうさい)の中心的儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」は皇位継承に際し、最も重要とされる儀式で、7世紀後半以降、中断を挟みながらも歴代天皇により継承されてきた。専門家は「天皇と国民をつなぐ祭り」「現代に通じる自然災害をはらう祈り」といった意義があると分析する。
 天皇陛下は即位した5月1日に「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」で皇位継承の正統性を示し、10月22日の「即位礼正殿(せいでん)の儀」で即位を国内外に宣明された。しかし、皇室研究者で神道学者の高森明勅(あきのり)氏は、大嘗祭を除くこれらの皇位継承儀式に欠けるのが「民との接点」と指摘し、大嘗祭に際して納められる米に着目する。
 高森氏によると、時の天皇が臨む例年の「新嘗祭(にいなめさい)」では前近代の場合、都を取り巻く畿内(大和、山城、河内、和泉、摂津)の官田(かんでん)(天皇の田)の米が使われるのが原則だった。これに対し、平安時代に編集された法令集延喜式(えんぎしき)」では、大嘗祭の米を「民の耕作する田」と規定。畿外の一般民衆の田が、亀の甲羅を使った占い「亀卜(きぼく)」によって選ばれた。「天皇と民が、稲作を媒介としてつながるのが大嘗祭。すべての民の奉仕を象徴するという位置づけで、日本人が日本人としての同一性を御代ごとに確かめる祭儀ともいえる」(高森氏)
 米の供納に関し、天皇と国民の従属的な関係を表すという指摘もあるが、高森氏は「大嘗祭の成立以来、天皇は国家の公的統治の体現者であり、専制君主だったことはない。階級闘争史観の先入観を持ってみない限り、強権支配の表れとみるのは見当違い」との見方を示す。
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 11月14日 産経新聞天皇と国民つなぐ祭祀、大嘗宮の儀 「災害はらう」古代から継承  
 国学院大名誉教授の岡田荘司氏は、大嘗祭の意義を「古代の衣食住への回帰」にあるととらえる。岡田氏は「清浄」を保つために新設される大嘗宮について、かつての天皇の居住空間を再現したものとみる。神々に供する米などは柏の葉で作られた簡素な器に盛られ、陛下が身につけられる「御祭服(ごさいふく)」も粗い絹が用いられる。
 「現代と比べ厳しい状況にあった衣食住の環境下で、陛下が自然が鎮まるよう祈られる。近年は国内でも災害が続くが、日本国中に住む人々の祈りを、天皇の立場で共有するところに現代的な意味がある」。岡田氏はこう分析する。
 宮内庁は陛下が五穀豊穣(ほうじょう)を祈られる「御告文(おつげぶみ)」の内容を明らかにしていない。ただ、これまでの研究で判明している過去の大嘗祭御告文では、自然災害を被らないよう祈る言葉は共通しているという。
 国学院大学研究開発推進機構長の武田秀章氏は、平安時代に東北地方を襲った貞観地震(869年)の際、当時の清和天皇が救済のための詔(みことのり)を出した例などを挙げ、「被災者への気持ちは東日本大震災などにおける皇室のなさりようと同じ」と指摘。今回の大嘗祭での御告文の内容も継承されていると推測し「自然の恵みを祈り、災いを未然にはらう歴代天皇の祈りが凝縮されているのではないか」と話した。
 (伊藤弘一郎、篠原那美)
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 20206月1日 YAHOO!JAPANニュース「度重なる感染症と自然災害で生まれた奈良時代平安時代の文化と制度
 福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
 災禍と歴史
 新型コロナウィルスの感染拡大の中、過去の感染症や自然災害を調べるようになりました。海外では、14世紀の黒死病(ペスト)とルネッサンスコロンブスアメリカ大陸発見と天然痘による16世紀のアステカ文明やインカ文明の衰退、18世紀のリスボン地震ポルトガルの衰退、アイスランドラキ火山噴火による飢饉とフランス革命、1918年の第一次世界大戦終結スペイン風邪など、大規模な感染症拡大や自然災害は、世界の歴史と密接な関係があるように感じられます。そこで、日本の歴史についても調べてみました。今回は、手始めに、奈良時代平安時代感染症と自然災害について考えてみます。
 天平時代の天然痘地震天平文化
 729年から749年まで続いた聖武天皇が治めた天平は、奈良時代の最盛期で、天平文化が花開きました。一方で、地震や疫病の大流行がありました。734年5月18日には、畿内七道を揺るがす地震が起きました。生駒断層の活動が疑われており、誉田山古墳の一部が崩壊しました。その直後、735年から737年には、天然痘と思われる疫病が大流行しました。総人口の3割前後が死亡したとも言われます。この疫病で、藤原不比等の息子4人兄弟(藤原武智麻呂藤原房前藤原宇合藤原麻呂)が病死しました。735年に大宰府に帰国した遣唐使や、新羅使が平城京に疫病を持ち込んだ可能性があります。
 地震や疫病、飢饉に悩んだ聖武天皇は、仏教の力を借り、国分寺国分尼寺を各地に作らせ、その総本山の東大寺法華寺を建て、大仏を建立しました。多くの農民が命を落としたため、743年には、農業振興のため墾田永年私財法を制定し、農地の私有化が図られました。直後の745年6月5日には、天平地震が発生しました。この地震は養老断層が活動したもので、養老断層は、1586年にも天正地震を起こしています。
 天平文化成立の裏には、感染症と大地震があったようです。ちなみに、節分のときに行う豆まきは、宮中で行われた追儺に起源があるそうです。疫病を持ち込む鬼を国外に追い払うために行われたと言われ、8世紀に始まったそうです。天平の疫病との関りが想像されます。
 貞観の時代の疫病・地震・噴火と摂関政治・国風文化
 859年から877年まで続いた貞観時代には、富士山の噴火、疫病、京都での洪水や飢饉、東北地方の大震災などが続発しました。藤原良房摂関政治が始まった時代でもあります。
 861年5月24日に、福岡県の直方に隕石が落下します。目撃記録が残る世界最古の隕石のようです。863年7月10日には、越中・越後で地震が起きます。同年には、都でインフルエンザと思われる疫病が蔓延し、終息後、霊を鎮めるため神泉苑で御霊会が開かれました。翌年864年7月2日には、富士山が大噴火します。貞観噴火と呼ばれる割れ目噴火で、青木ヶ原を溶岩が埋め尽くしました。866年には、応天門の変が起き、伴氏が滅亡して、藤原良房が摂政に就き、摂関政治が始まります。868年8月3日には播磨国地震が発生します。山崎断層が活動したようです。869年7月13日には、東日本大震災とよく似た貞観地震が発生し、大津波が東北の拠点・多賀城を襲いました。この年に神泉苑に当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈りました。これが、祇園祭の起源になりました。
 翌年870年に菅原道真が方略試を受験しました。問題は、「明氏族」「弁地震」の2問で、地震について弁ぜよとの問いに対し、道真は中国で張衡が発明した世界初の地震計の地動儀のことを答えて合格します。そして、871年に鳥海山、874年に開聞岳が噴火しました。
 元慶時代になっても、878年11月1日に関東地震が疑われる相模・武蔵地震、880年11月23日に出雲の地震が、さらに仁和時代になって、887年8月2日に京都の地震、8月26日に南海トラフ地震の仁和地震が発生します。まさに、大地動乱の時代でした。その後、894年には、菅原道真の意見で、遣唐使が廃止されます。901年に道真は大宰府に左遷され、903年に落命します。こういった中、日本独自の国風文化が芽生えていきました。
 11世紀末の疫病・災害・改元武家社会の到来
 10~11世紀、清少納言紫式部などが登場して王朝文化が花開く中、疫病が頻発しました。大都市・平安京は地方と交易が多く、密集した社会で疫病が感染しやすい環境でした。11世紀末には、1096年12月17日に永長東海地震、1099年2月22日に康和南海地震南海トラフ地震が続発します。この時期には、災異改元が何度も行われました。
 古事類苑の歳時部によると、1095年の寛治から嘉保への改元は疱瘡、1097年の嘉保から永長への改元は天変と永長東海地震、同年の永長から承徳への改元は天変と地震、1099年の承徳から康和への改元は康和南海地震と疾病によるとあります。たった4年間に4度も災異改元があり、原因は感染症地震でした。この時期は、院政が始まった時代で、末法思想も広がったようです。
 嘉保への改元以降の100年間に、改元が38回も行われ、そのうち災異に関わる改元は27回を数えます。うち、疾疫や疱瘡に関わる改元が12回、地震に関わる改元が4回あります。日本は、大化以降、1375年間に248の元号を持ち、疾疫や疱瘡が関わる改元は42、地震が関わる改元は25あります。100年平均で、18の元号を持ち、疫病に関係する改元は3.1回、地震に関係する改元は1.8回です。平安時代後期の疫病による改元の多さは異常です。この時代、平治の乱保元の乱が起き、武士が台頭し、その後、平清盛源頼朝の時代へとつながっていきました。
 災禍を乗り越え、新たな文化を作ってきた奈良や平安の先人の苦労が思い浮かびます。
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 2021年3月11日4:00 YAHOO!JAPANニュース「自然災害が相次いだ貞観時代 東日本大震災は1200年は無理でも100年は災害を忘れないための工夫を
 饒村曜気象予報士
 山寺散歩・松尾芭蕉句碑と清和天皇御宝塔(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)
 貞観地震津波東日本大震災
 今から10年前の平成23年 (2011年) 、3 月11 目14 時46分に発生した三陸沖を震源とした東北地方太平洋沖地震は、東日本大震災を引き起こし、東北から関東にかけての東日本一帯で甚大な被害をもたらしました。
 各地の震度は、宮城県栗原市震度7をはじめ、福島、茨城、栃木の各県では震度6強を観測し、岩手県大船渡市、群馬県桐生市、埼玉県宮代町、千葉県成田市などでも6弱でした。
 このため、広い範囲で建物倒壊などの被害があり、関東地方では大規模な液状化が発生しましたが、約2万人の犠牲者の多くは地震によって発生した巨大津波によってです。
 三陸沖ではマグニチュード8程度の大地震が多く、大津波が発生していますが、東日本大震災時のような巨大津波となると、貞観地震津波以来、1142年ぶりということになります。
 平安時代藤原時平菅原道真等によって編纂された歴史書日本三代実録」には、清和天皇陽成天皇光孝天皇の3代、約30年間が記されています。
 この「日本三代実録」によると、貞観11年5月26日(869年7月9日)には、陸奥国(現在の福島・宮城・岩手・青森の各県)で、「驚濤湧潮、折洞濫長」があり、多賀城の城下(現在の宮城県多賀城市)城下まで津波がおしよせ、あたり一面が海のようになったと記されています。
 また、「日本三大実録」には、清和天皇が自らお召し物や食事を質素にして節約を呼びかけたことや、公卿の俸禄を減じたこと、慰問の使者を陸奥国に送ったこと、被害の大きかった地域の税を免除したことなども記されています。
 また、貞観地震津波の前に発生した地震津波については、津波堆積物の地質調査
 堆積物の中に混じる津波で遠くから運ばれた砂の層の規模と、含まれている木片の放射性炭素の年代調査という方法で推定できます。
 これによると、仙台平野では、貞観地震津波クラスの巨大津波は、1000年に1 回程度で何回もおきていることが、東日本大震災が発生する前から指摘されていました。
 例えば、東日本大震災の約9か月前、次のような記事が新聞各紙に載っています。
 平安の県沖地震M8.5国内最大規模 大地震500~1000年周期か=宮城
産総研 津波の痕跡から推定
 平安時代の869年に県沖で起きた「貞観地震」が、マグニチュード(M)8.4程度だった可能性が高いことが、産業技術総合研究所茨城県)の調べで分かった。地震のエネルギーは、近い将来の発生が予想される県沖地震の約20倍にあたり、国内最大級となる。500~1000年周期に大津波を伴う地震が起きたことを示す分析結果もあり、研究チームは「県沖地震と合わせて警戒が必要」としている。
 引用:読売新聞(平成22年(2010年)6月2日朝刊)
 東日本大震災の巨大津波は、想定外のものではなく、想定内のできごとでした。
 ただ、発生する間隔が、私たちの一生に比べて桁違いに長く、教訓の伝承ができなかったのです。
 災害が相次いだ清和天皇の御世
 天安3年4月15 日(859年5月20 日)に清和天皇が即位し、元号貞観と変わりますが、この貞観時代は自然災害が相次いでいます。
 平安京(京都)は、京の東を鴨川(現在の賀茂川)が、京の西を桂川が流れている都です。
 このため、都ができたときから両河川に対する洪水対策が重要な課題となっており、防鴨河使という役所が置かれたこともあります。
 「日本三代実録」によると、貞観2年9月14~15日(860年10月6~7日)には、台風が襲来して大風が吹き、桂川と鴨川がともに氾濫して東西交通がマヒしています。
 また、大阪湾で高潮が発生し、広い範囲で人や家畜に被害がでています。
 そして、貞観6年(864年)から始まった富士山大噴火では、北西山腹からの噴火で流れでた溶岩が青木ケ原を作り、「せのうみ」と呼ばれた湖を、精進湖と西湖に二分しています。
 貞観11年(869年)は貞観地震津波があり、貞観13年(871年)は、出羽(山形県)の鳥海山大噴火です。
 さらに、貞観13年閏8月7~13日(871年9月28日~10月2日)は、平安京で雷を伴った大雨が降って橋を流し、庶民の家が、その数がわからないほど壊れ、その後も雨が続き、7日後には再び河川が氾溢しています。
 「日本三代実録」によると「朱雀大路の東側 (左京)で35家138人、西側(右京)で630家3995人の被災者」がでています。
 ここで、被災者数が記録されているのは、朝廷が食料や塩を配っているからです。
 これほどの自然災害が相次いだ貞観時代ですが、ちょっとしたことで改元が行われていた時代に、貞観という元号は、清和天皇が皇子の陽成天皇に譲位するまでの19年続いています。
 清和天皇の御世は「貞観の治」といわれています。
 もともと、この言葉は、中国唐の第2代皇帝太宗の治世(627年から649年で元号貞観)をさす言葉で、中国史上最も良く国内が治まり、後世から理想時代とされています。
 このことは、自然災害が相次いだものの、政府と人民が協力して災害に立ち向かい、政治が安定していたことの反映と思います。
 災害を忘れないための工夫
 昔から、大きな災害が発生すると、そのときの教訓を後世に残そうという様々な試みが行われます。
 東日本大震災のあと、貞観地震津波のときの石碑が残っているとかの話が出てきましたが、1000年も経過すると、何のための石碑かということが分からなくなっています。
 風雨にさらされて読みにくくなっており、かろうじて読んだとしても、こんな山奥まで津波がくるなんて考えられないという感覚です。
 当然のことながら、防災には結びつきませんでした。
 貞観地震津波は当時の人々にとって大変な出来事で、しばらくははっきりした形で伝承されてきました。
 百人一首に「契りきな かたみに袖を 絞りつつ 末の松山 浪こさじとは」という和歌があります。
 「涙を流しながら貞観地震津波で浪が押し寄せてきても波が越えなかった末の松山のように、二人の愛は変わらないと誓ったのにあなたは心変わりした」という意味で、清少納言の父、清原元輔が作った失恋の歌です。
 この「末の松山」は現在の多賀城市の末松山宝国寺の裏にある小山で、貞観地震津波で近くまで津波が押し寄せましたが、浪が越えなかったということで有名でした。
 平安時代貞観地震津波が伝承されており、多くの文化人が「末の松山」というだけで巨大津波を思い出し、付近まで旅した都の人は足を延ばして訪問しています。
 しかし、内陸部にあって海とは関係がなさそうな「末の松山」は、次第に忘れられていきますが、松尾芭蕉は「末の松山」まで足をのばして訪問しています。
 月日は流れ、東日本大震災の巨大津波は、多賀城市に再び襲来しましたが、「末の松山」を津波が超えることはありませんでした。
 また、京都の有名な祭りに祇園祭があります。
 非業の死者の霊を鎮め神として祀ることで霊は鎮護の神となる考え方が御霊信仰で、そのため行うのが御霊会です。
 当時流行した疫病退散を祈願するため、貞観5年(863年)に始まったとされますが、山鉾巡行が始まったのは貞観11年(869年)、貞観地震津波の年からです。
 貞観地震津波のニュースがいつ京都に伝わったのかわかりませんが、律令体制で駅伝の制が頭著な発達をしていた時代ですので、地震発生の約10日後の6月7日には第一報が都に伝わっていたのではないかと思います。
 というのは、勅命により全国の国の数と同じ66本の矛をたてたのが、この6月7日で、洛中の男児が御輿を奉じて内裏裏の神泉園に集まり、御霊会を修して除疫を祈ったのが勅命7日後の6月14日です。
 そして、国の数と同じ66本の矛に悪霊を移し、この矛をたてて祇園社から御輿を出したというのが、祇園祭りの最初の山鉾巡業です。
 つまり、貞観11年(869年)の御霊会が事実上の祇園祭の起源とされ、令和元年(2019年)には、祭の1150周年が祝われています。
 しかし、東日本大震災が発生するまでは、貞観地震津波のようなことが起きることは信じられなくなったことから、祭りの起源としては認識されていませんでした。
 祇園祭そのものは伝承されていますので、起源まで伝承されていたら、1000年以上も災害の教訓が伝承されたことになります。
 なお、律令制における国の数は、分国と統合が繰り返されてきましたが、弘仁4年(813年)の加賀国設置を最後に、66国2島(壱岐島対馬島)となり、明治維新まで変わることはありませんでした。
 100年後まで忘れない工夫
 貞観地震津波の教訓のように、1000年以上も災害の教訓を伝承するというのは、非常に難しいことですが、100年後まで忘れない特別の工夫には、役だった例が僅かですがあります。
 その一つが、明治29年(1896年)6月15日に発生し、約2万2000人が死亡した明治三陸地震の伝承です。
 明治三陸地震では、北海道から東北地方の太平洋側を大きな津波が襲い、死者が約2万2000名、家屋流出全半壊が1万棟以上、船の被害約7000 隻という大災害となりました。
 この大災害は日本中の関心事となり、大阪毎日新聞では、地震発生6 日後の6月21 日の誌面で三陸地震津波についての解説を大きく載せています(図1)。
 図1 大阪毎日新聞明治29年(1896年)6月21 日) 
 その中で、過去日本で発生した津波について詳しく特集し、嘉永7年11月5日(1854年12月23日)に起こった安政南海地震に際し、土地の豪農浜口儀兵衛(梧陵)が、暗闇の中を逃げ惑う村人を助けるため、機転をきかせて積んであった稲村に火を附けさせた話が載っています。
 村民はこの火を目的に駆け出して生命を助かったという話です(図2)。
 図2 図1の記事の一部
 4 ケ月ほど前に日本国籍をとった神戸クロニクル社(貿易関係の英字新聞社)の小泉八雲記者が、この記事を読んで感激し、明治三陸地震津波の惨状と浜口儀兵衛の話などを組み合わせて「A Living God(生き神様)」を書いています。
 小泉八雲は松江師範学校(現在の島根大学)の英語教師時代に結婚した小泉セツのため、日本国籍をとる手続きが行われていた神戸で新聞記者をしていました。
 日本のことを書いた英文が少なかったこともあり、「A Living God」は、全国の師範学校での英語授業に使われます。
 和歌山県の南部小学校教員の中井常蔵は、和歌山師範学校時代に読んだ「A Living God」が地元の偉人の話であることに感動し、子供向けの物語を作り、文部省の教材募集に応募しています。
 これが「稲むらの火」で、昭和12年(1937年)から約10年間、全国の尋常小学校では中井の作品を使って防災教育が行われました。
 このため、「地震津波・高いところ」という考えが多くの日本人に浸透していました。
 筆者が中学2年生だった昭和39年(1964年)6月16日、新潟地震による津波を新潟で経験しましたが、このことを実感しています。
 激しい揺れの直後は校庭に避難したのですが、先生は「津波の可能性があるので高い所へ」と言い、全員が校舎の屋上に移動しました。
 学校周辺に住んでいる人も次々に屋上に避難してきましたし、小高くなっている国鉄の線路上など高い所に多くに人が素早く避難しています。
 津波は、筆者がいた中学校の1階の天井付近まで達した一部始終を見ていましたが、大人が口々に「稲むらの火」の話をしていたのが記憶に残っています。
 「稲むらの火」を使った防災教育は、太平洋戦争の終戦によって戦前の教育が否定されると同時に終わってしまいましたが、新潟地震の発生時点では、「稲むらの火」を知っている人が多数派でした。
 しかし、東日本大震災が発生したときは、多くの人が戦後生まれで、「稲むらの火」を知っている人は少数派でした。
 そして、新潟地震による津波新潟市という県庁所在地を襲い、新潟空港津波を被って使えなくなり、信濃川を遡って内陸部まで達したことを知らずに、「近年は発生していない津波被害」という言葉が溢れました。
 避難しなければ死亡するほどの大きな津波が襲ったのですが、新潟地震による津波の犠牲者はいませんでした。
 東日本地震が発生した時、「地震津波・高いところ」という考えで行動したという人が多かったら、もっと助かった人が多かったのではないかと感じました。
 明治三陸地震の伝承も、ほとんどは100年も伝わらなかったのですが、筆者のように津波襲来を見ている人が少なからずおり、各種メディアによって多くの資料が残されている約50年前の新潟地震さえ、伝わっていないのが現状だったのです。
 和歌山と南海地震
 「稲むらの火」は、主人公を老人にしている点や、地震の描写が実話とは違っている点がいくつかあります。
 第一、地震の描写は、和歌山を襲った南海地震ではなく、三陸地震のものです。
 浜口儀兵衛は、紀州広村(現在の広川町)出身で、広村から関東に進出し、銚子で醤油を作って江戸で売ることで財をなしたヤマサ醤油の浜口家をついでいます。
 広村で安政南海地震の激震に遭遇した浜口は、若者をつれて稲むらに火をつけてまわり、暗闇の中を逃げ回っている人が高台へ逃げるための目印にしました。
 その後、浜口は、再来するであろう津波に備え、巨額の私財を投じて広村堤防を作っています。
 4年間にわたる土木工事の間、女性や子供を含めた村人を雇用し続け、貸金は日払いにするなど村人を引き留める工夫をして村人の離散を防いでいます(図3)。
 図3 広村堤防概略図
 浜口の作った堤防には松林が作られ、その松林の内側にロウソクの材料ともなるハゼの木が植えられています。
 ハゼの木を切って売り、堤防を保守する人々の手間賃の足しにするというところまで考えた計画です。
 安政南海地震から92年後の昭和21年(1946年)12月21日に昭和南地震が発生し、約30分後に高さ4~5メートルの大津波が未明の広村を襲いましたが、浜口の作った堤防は、村の居住地区の部分を守っています。
 広村(広川町)では、全国的に珍しい「津波祭り」を長年にわたって開催しています。
 津波の犠牲者を悼み、浜口儀兵衛などの先人の防災活動に感謝し、堤防補修作業をしますが、祭りという楽しみを入れることで、防災の気持ちを長続きさせています。
 それが、昭和南地震のときに役立ったということを、地震学者で気象庁地震火山部長や政府の地震調査委員会委員長などを歴任した津村建四朗さんから直接聞いたことがあります。
 広村出身の津村健四朗さんは、子供の頃に昭和南地震を経験し、津波が押し寄せる中、日ごろ言われている通りに高台まで逃げたとのことでした。
 多くの人が亡くなっているのに、祭りの要素を入れることに対しての批判や割り切れないことが多いと思います。
 しかし、自分の一生より長い期間にわたって教訓を残し、少しでも後世の犠牲者を減らすことに貢献するということであるなら、せめてもの鎮魂になるのではないでしょうか。
 南海地震がいつ発生するかはわかりませんが、もし発生した場合には、安政南海地震の教訓が昭和南地震で生きたように、広川町では昭和南地震の教訓が生きると思います。
 ただ、この教訓を長く残す試みが、広川町だけのものではいけないと思います。
 全国で、その土地にあった工夫で1000年までとは言わなくても、100年先までは残す必要があると思います。
 このとき、少ないとはいえ、100年先まで教訓を残している実例が参考になります。
 手始めに、お孫さんに世代に「この話は大きくなって孫ができたら話して欲しい」と言って災害のときの話をしてみませんか。
 そのお孫さん世代が、「そういえば祖父母がこんな話をしていた」と、自分の孫世代に話を伝えてくれれば、100年先まで話が伝わることになります。
 図1、図2の出典:大阪毎日新聞明治29年(1896年)6月21 日)。
 図3の出典:著者作成。
 饒村曜
 気象予報士
 1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。
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 平安時代の災害史
 平安時代は災害の多い時代で、その災害が政治にも大きく影響しました。どれだけの災害がいつ頃あったのかを知ることで、怨霊が信じられた背景やそれに伴う幾度かの天皇の譲位、庶民が税から何故逃れようとしたのか??少しは近づけるのではないかなと思います。もちろん災害が理由の全てではありませんが。
 そんな理由から今回は年表を作っていこうと思います。
 目次 [非表示]
1 平安時代の災害年表
1.1 ■桓武天皇朝【781-806】
1.2 ■平城天皇朝【806-809】
1.3 ■嵯峨天皇朝【809-823】
1.4 ■淳和天皇【823-833】
1.5 ■仁明天皇【833-850】
1.6 ■文徳天皇【850-858】
1.7 ■清和天皇【858-876】
2 まとめ
 平安時代の災害年表
 平安時代に突入した桓武朝の災害から見ていきましょう。
 四角で囲んだ部分は天災によって引き起こされたと思われる事柄や災害対策、その天皇朝の際に起きた大きな事件などについて書いています。
桓武天皇朝【781-806】
788年  霧島山(宮崎と鹿児島県境付近)の噴火
790年  京・畿内天然痘流行
792年  高知で大洪水
794年  高知で大洪水
798年  香川で旱魃
799年  香川と愛媛で長雨
800年  富士山の噴火
784年に平城京から長岡京へ遷都。その一月前に平城京中に盗賊が続発したそう。794年には長岡京から平安京へ遷都。その理由は度重なる洪水とも桓武天皇の弟・早良親王の祟り(身近な人が次々と亡くなったことから)とも言われている。蝦夷討伐を本格的に行っていた時代でもある。
平城天皇朝【806-809】
802年  徳島で風水害
805年  徳島で地震津波
806年  磐梯山福島県)の水蒸気噴火(何月に噴火したかは不明)
807年  秋田焼山噴火か?
夫のある藤原薬子を寵愛。平城天皇自身が病弱だったこともあって即位3年で譲位。
嵯峨天皇朝【809-823】
809年  香川で旱魃
810~823年  鳥海山(秋田・山形)で水蒸気噴火
810~824年  京で防鴨河所と防葛野河所を設置(治水に関する役所)と推定
817年  香川で大干ばつ
818年  香川で洪水
同年8月  北関東一帯でM7.0-8.0の地震(=弘仁の大地震
819年  西日本の広い範囲で干ばつ
820年  凶作か?
    ↑ 同年5月に「国司・郡司に行路病者を収容し、正税を用いて加療させる」
      との記載あり(日本史年表より)
810年に薬子の変藤原氏や皇族の間の勢力争い。
819年に畿内の富豪の貯財を調査、困窮者に貸し出し。
淳和天皇【823-833】
826か827年  富士山噴火か?(詳細不明)
827年8月   京でM6.5-7.0の地震(余震が翌年の6月まで)
830年  鳥海山(秋田・山形)で水蒸気噴火。泥流も発生。
同年   秋田でM7.0-7.5の地震
827年、京中の空閑地・荒廃地を払い下げた。
仁明天皇【833-850】
837年  鳴子山(宮城)で水蒸気噴火
838年  伊豆大島で中規模噴火
838~886年  伊豆大島で大規模マグマ噴火と水蒸気噴火
841年  長野で2月13日以前に地震
同年   伊豆で5月3日以前に地震
848年8月  大洪水により京・畿内で河陽橋・宇治橋・茨田堤が損壊
850年    秋田でM7.0の地震(月日不明)
上の災害とは別に9世紀初めから中頃にかけて、陸奥出羽国(青森・秋田・山形・岩手・宮城・福島)では飢饉・長雨・疫病が頻発していたと言います(東北平定で800年代の飢饉などの回数が載った表もあるので確認して下さい)。
837年、京で盗賊の捜索。
842年、承和の変藤原氏による初の他氏排斥事件。 伴氏と橘氏藤原式家の打撃が大きく、仁明天皇の子・文徳天皇が跡を継ぐことに。
文徳天皇【850-858】
852年  香川で旱魃
853年  京・畿内・畿外で天然痘流行
854年  陸奥の農民、凶作により困窮
856年  京でM6.0-6.5の地震発生
858年5月  京で洪水
852年、諸国の国司・郡司に池堰を修築し、農業を催勧。
854年、陸奥の兵士が逃亡、兵1000人を出して鎮める。
857年、京で群盗を捜補。
858年5月に穀倉院等の米殻・塩を京の窮民に与える。
 池堰はため池の事で雨が少ない近畿・山陽・四国地方の瀬戸内海側でよく作られています。
857年には京で盗賊ではなく“群盗”が発生していることに注目です。
 これまでの京でも盗賊の発生はありましたし、857年以前の災害後にも恐らくは盗賊達が出てきたことでしょう。ところが、857年以前の盗賊発生について主要な書物にその事実はそこまで言及されていなかったと考えられるのです(もちろん探し方が足りないだけかもしれません。ですが、少なくとも日本史年表に書かれた盗賊の発生は平安初期から857年までの間だと837年の盗賊発生の記載しか見当たりません)。
 度重なる災害と政治の腐敗でこのくらいの時期から徐々に朝廷の求心力が低下したのでは?とも推測できます。
清和天皇【858-876】
859~877年  全国的に洪水・干ばつ・大風・疫病が多発
860年    京で地震・冷害・雪害  (京都歴史災害研究より)
861年    高知で大洪水
863年 春  京・畿内で咳病(インフルエンザ)流行
同年7月   越中・越後(富山・新潟)で地震、山崩れなど
864年5月~  富士山大規模噴火
同年11月   阿蘇山(熊本)の噴火
866年    西日本で旱魃・風水害・洪水
867年    阿蘇山(熊本)噴火
同年     鶴見岳・伽藍岳(大分)の水蒸気噴火
868年    播磨・山城(兵庫・京都)で地震
869年    M8.3の貞観地震三陸沖)。津波も発生。
870年    富士山の噴火??
871年    鳥海山(秋田・山形)の中規模な水蒸気噴火➡マグマ噴火へ
同年8月   京で洪水(鴨川が氾濫したか?)
874年3月   開聞岳(鹿児島)で大規模噴火、泥流あり
同年8月   京都で暴風雨
875年    富士山で噴気
861年3月、陸奥・出羽から国外に馬を出すこと禁止。11月、武蔵国の群ごとに検非違使
862年5月、山陽道南海道諸国などに海賊追補命じる。
865年7月、山陽道南海道諸国などに海賊追補命じる。
866年4月、海賊を追捕しない国司を罰する。7月、尾張・美濃(愛知西部・岐阜南部)の郡司、広野河口開削を巡って闘乱。9月、応天門の変藤原氏による他氏排斥事件、伴氏が没落)。
867年3月、海賊追補のために5家につき保長1人、要路に偵邏(ていら・見張りの様なもの)置く。11月、伊予国宮崎村に海賊追補命じる。
 清和天皇の時代になると瀬戸内海で海賊が頻発しています。この海賊行為が始まった理由は過酷な取り締まりを行う国司への反発という意味もありました。861年の3月にあった「馬を出すこと禁止」令はやはり東北の不満を外に出さないようにするための処置ですね(そのうち東北にいた蝦夷や朝廷に帰順した蝦夷・俘囚について記事を書く予定でいます。蝦夷は馬と非常に密接な関係があったようです)。
 まとめ
 全体を通して見てみると、東北と瀬戸内海、九州の自然災害が目立ちます。平安初期には東北の火山噴火が頻発し、瀬戸内海は一時期落ち着いてはいますが基本的には干ばつや洪水。これは温暖化の影響が大きいと思われます。更には九州での噴火です。地震も9世紀には活動期に入っているのが分かります。
 9世紀がいかに地震が多いのか?が一発で分かり易いのがwiki地震の年表 (日本) – Wikipediaを見ると8世紀と10世紀の差が容易に見てとれます。
 これらの自然災害の他に火災も災害に含まれますが、京だけでもかなりの数になるので省略させていただいてます。火災については失火もさることながら、勢力争いによるものもあったようです。
 歴ブロ・歴ぴよ
 歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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