🎍49〕─3─仁和大地震と仁和大洪水。東西同時多発の南海トラフ巨大地震と天皇の祈り。~No.155 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 戦後民主主義教育の優等生であるエセ保守とリベラル左派には、日本民族がなぜ宮中祭祀、正統天皇の祈り、そして天皇を神聖不可侵として護ってきたのかが理解できない。
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 『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)は、日本の平安時代に編纂された歴史書六国史の第六にあたり、清和天皇陽成天皇光孝天皇の3代である天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。延喜元年(901年)に成立。編者は藤原時平菅原道真、大蔵善行、三統理平など。編年体の漢文で書かれた。全50巻。

 災害の記録
 29年間の記録の中で、地震は300以上記録されている。
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 世界で起きるM6以上の地震の約20%は日本周辺で発生し、甚大なる被害と夥しい犠牲者が出ていた。
 古神道シャーマニズムは、自然災害の中から生まれた。
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 関東大震災で起きた日本人・朝鮮人・中国人惨殺事件は、日本の災害史で関東大震災の1件のみである。
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 貞観5(863)年  越中・越後大地震
 貞観6(864)年  富士山大噴火。
 貞観10(868)年 播磨から山城にかけて大地震
 貞観11(869)年 東北巨大地震貞観地震)。肥後国の大風雨。
 貞観13(871)年 出羽・鳥海山大噴火。
 元慶2(878)年  関東大地震
 元慶4(880)年  出雲大地震
 仁和3(887)年  南海トラフ巨大地震(仁和地震)。
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 何故、万世一系として世界最古の王家=皇室が血筋・世襲の男系父系正統天皇を必要とし非血筋・非世襲の女系母系正当天皇を排除したのか。
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 平安時代とは、頻発する自然災害・疫病・飢饉および藤原氏などの貴族による権力争いという内憂と朝鮮の日本侵略という外患で揺れ動いていた。
 天皇と庶民・被差別民の歴史とは、繰り返し襲い来る自然災害・疫病・飢饉などに耐えて生き抜いてきた日本民族による「覚悟の歴史」であって、差別の歴史でも階級の歴史でもなかった。
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 2019年11月19日 朝日新聞デジタル記事「887年の巨大地震南海トラフの西側と東側で同時発生
 有料記事
 桑原紀彦
 南海トラフ沿いの地震
 887(仁和3)年に起きた「仁和地震」は、南海トラフの西側と東側の震源域で同時に起きた巨大地震だった、と産業技術総合研究所などの研究チームが18日、発表した。静岡県磐田市で見つかった津波堆積(たいせき)物の分析と、文献の記述から、年代を推定した。
 産総研地質調査総合センターの藤原治・副研究部門長らは、磐田市で見つかった津波堆積物の地層に含まれる植物断片などの放射性炭素年代測定により、7世紀末、9世紀末に津波が押し寄せていたことを特定した。堆積物が確認された地点は当時の海岸線より2キロ以上内陸だという。
 一方、平安時代の歴史書日本三代実録」には、887年に南海トラフ西側で地震が発生したことが分かる記述があり、同じ日に「(東海地方を含む)広い範囲で強い揺れを感じた」という記録もある。日本三代実録以外の主な史書には9世紀末、ほかに大地震が起きた記録はないが、こうしたことを踏まえ887年に南海トラフ西側と東側で同時に地震が起きたと推定した。
 また、これまでの記録で68…
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 光孝天皇(こうこうてんのう、830年〈天長7年〉- 887年9月17日〈仁和3年8月26日〉)は、日本の第58代天皇(在位:884年3月4日〈元慶8年2月4日〉- 887年9月17日〈仁和3年8月26日〉)。諱は時康(ときやす)。
 仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継の娘、贈皇太后沢子。
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 世界で起きるM6以上の地震の約20%は日本周辺で発生し、甚大なる被害と夥しい犠牲者が出ていた。
 古神道シャーマニズムは、自然災害の中から生まれた。
 日本民族の覚悟は、中国や朝鮮とは違う。
 自然災害を鎮める為に使用されたのが天皇家天孫降臨神話・高天原神話であった。
 つまり、日本の最高神である女性神天照大神の血筋である。
 故に、天皇は「現人神」とされた。
 が、現人神とされた天皇には自然災害を止める霊力・神力はなかった、つまり無力であった。
 同様に「日本の神々も無力である」、それが日本の偽らざる宗教観であった。
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 日本の天皇は、日本列島・日本民族の中から生まれたのであって朝鮮や中国とは関係なかった。
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 南海トラフ巨大地震
684年 白鳳(南海)地震
887年 仁和(南海)地震
1096年 永長(東海)地震
1099年 康和(南海)地震
1361年 正平東海地震、正平南海地震
1498年 明応東海地震
1605年 慶長地震
1707年 宝永地震
1854年 安政東海地震安政南海地震
1944年 昭和東南海地震
1946年 昭和南地震
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 仁和期に起きた出来事
3年
 7月30日:仁和地震(東海・東南海・南海連動型地震)発生。五畿七道が被災、大阪湾に巨大津波八ヶ岳の山体崩壊など。
 8月26日:光孝天皇崩御宇多天皇践祚
4年
 8月15日:仁和寺建立。信濃国千曲川で仁和の大水(仁和地震による八ヶ岳の崩壊で形成された日本最大規模の天然ダムが決壊)。
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 日本地質学会学術大会講演要旨
 第129年学術大会(2022東京・早稲田)
 仁和洪水(西暦888年)砂層の堆積学的研究からみた千曲川洪水と土地利用の関係
 *保柳 康一, 亀谷 兼人
 はじめに
 千曲川は,長野,山梨,埼玉の三県境界の甲武信ヶ岳に源を発し,長野県内の佐久平佐久盆地),塩田平(上田盆地),善光寺平(長野盆地)などの盆地を通り,新潟県境で信濃川と呼称を変えて日本海に達する全長367 kmの日本最長の河川である.2019年10月関東地方西部を通過した台風による豪雨によって,長野盆地で複数の堤防が決壊し,大きな被害をもたらした.千曲川の洪水は,数多く歴史記録に残されているが,最も古い記録は西暦888年の洪水である.河内(1983)は,『日本三代実録』『類聚三代格』『日本紀略』『扶桑略記』の記述に基づき西暦888年(仁和4年)に,千曲川上流の八ヶ岳山麓に形成された天然ダムが決壊して洪水が発生し,長野盆地まで達していたことを示した.このことから,上田盆地長野盆地の平安期の遺跡や水田跡を覆う砂層は.その際の洪水によりもたらされたものであると解釈され,その発生前の状況についても考古学的に検討された(川崎,2000). この発表では,この洪水砂層とその上位と下位の堆積物を堆積学的に検討して,洪水前の千曲川流域の土地利用と環境,仁和洪水の特徴,洪水後の環境と人間活動についてその概要を示す.
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 2024年1月7日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「大阪に「約3.3メートルの大津波」が押し寄せてきた…「南海トラフ巨大地震」がもたらした「衝撃的な被害」
 続いた大揺れ
 白鳳地震(684年)から203年後の887年8月22日(仁和3年7月30日)午後4時頃、大地震が発生。この地震南海トラフの東側(東海地震震源領域など)と西側(南海地震震源領域)が、ほぼ同時又は短い時間差の連動地震で、それぞれM8.0~8.5と推定され、「仁和(にんな)南海トラフ巨大地震」の可能性が高いとされている。
 【マンガ】「南海トラフ巨大地震」が起きたら…そのとき目にする「ヤバすぎる惨状」
 その18年前には三陸沖を震源とする「貞観地震(869年 7月9日・推定M83)」が発生し、仁和地震の9年前には千葉県沖を震源とする「関東諸国大地震(相模・武蔵地震・推定M7.4)」地震が発生していた。
 文徳天皇に続く清和・陽成・光孝3代の歴史を編年体で記した勅撰国史日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』巻五十に、「卅日、申時、地大震動、経歴数剋震猶不止、天皇出仁寿殿、御紫宸殿南庭、命大蔵省、立七丈幄二、為御在所、諸司倉屋及東西京廬舎、往往顛覆、圧殺者衆、或有失神頓死者、亥時又震三度、五畿内七道諸国、同日大震、官舎多損、海潮漲陸、溺死者不可勝計、其中摂津国尤甚(以下略)」と地震のことが記されている。日本三大実録は史家の間でも信頼性が高いとされているので読み下すと、「卅日(さんじゅうにち)申時(さるのとき)、地大震動(ちだいしんどう)し、数剋(すうこく)を経歴して、震(ふ)ること猶(なお)止まず。天皇、仁壽殿(じじゅうでん)を出(い)でて、紫宸殿(ししんでん)の南庭(なんてい)に御(おわ)し、大蔵省に命(めい)じ、七丈(しちじょう)の幄(あく)二つを立てしめ、御在所(ございしょ)と為(な)し給(たま)ひき、諸司(しょし)の倉屋(そうおく)及び東西京(とうざいきょう)の廬舎(ろしゃ)、往々転覆(ところどころてんぷく)し、壓殺(あつさつ)せらるる者衆(おお)く、或(あるい)は失神して頓死(とんし)する者有りき。」と書かれ、御所などで激しい揺れが続いた模様がつぶさに綴られており、天皇は仁壽殿を出て、紫宸殿の南庭に今でいうテント2張を張り、仮の御在所となされた。建物の下敷きによる「圧死者」や失神(気を失って)しての「頓死(急死)」が多かったと記すほど激しい揺れだった。「數剋(すうこく)を経歴して、震(ふ)る猶(なお)止まず」「亥(ゐ)の時、亦(また)震(ふ)ること三度(みたび)」とあるように、午後4時ごろの地震の後も揺れが続き、午後10時ごろには大揺れが3回あったとされる。その後も続いた地震の模様が綴られていく。その被害は京都だけでなく、「五畿内七道(ごきないしちどう)諸国(しょこく)も同日大震(どうじつだいしん)ありて官舎(かんしゃ)多く損じ。海潮陸(かいちょうりく)に漲(みなぎ)りて、溺死者(できししゃ)勝(あげ)て計(はか)るべからず。其(そ)の中(うち)攝津國(せっつのくに)尤(もっと)も甚(はなは)だしかりき」。
 地震の後に襲ってきた津波で海水が陸地を覆い、溺死者は数えきれなかったと津波の凄まじさを伝え、「津波被害がもっとも甚だしかりき」とされた攝津國(せっつのくに)は、当時、摂津国国府が難波津(なにわず・なにわのつ)の旧鴻臚館(こうろかん)にあり、摂津職という官職が難波津に置かれていたといわれる。難波津とは、古代の大阪湾に面して存在した港湾施設のことをいうが、当時この難波津が地域の政治や経済の中心的役割を果たしていたと思われる。難波津があった場所については諸説あるが、現在の大阪市中央区付近と推定する説が多い。
 大阪に大津波、長野では山体崩壊
 つまり、1136年前の仁和南海トラフ巨大地震で注目すべきは、現在の大阪という大都市に約3.3mの大津波が押し寄せ、甚大被害をもたらしたと推定されることである。この後の南海地震でも、同じよう大阪の被害が繰り返し伝えられている。木造建物は津波の浸水深2mで構造被害や損壊が生じ、浸水深4mで流出する可能性が高いと考えられる。「水都大阪」は低地が多く河川や堀川を溯上する津波に弱い。こうした歴史をもう一度思い返し、BCP(事業継続計画)や防災マニュアルに津波対策をきちんと反映させる必要がある。
 例えば津波襲来時のビルでは、上階は水没しなかったとしてもビル自体が孤立し、必然的に籠城(巣ごもり)作戦が必要となる可能性がある。あるいは、川や水路に囲まれた市街地や地下鉄・地下街などが浸水又は破壊され、建物の残骸や瓦礫などが押し寄せた場合、通勤・通学途上の人はどうするべきだろうか。こうした想定に対応するためには、発災時の安全・減災行動について一人一人の知識と意識を啓発することや、事前の実践的避難訓練が不可欠となる。
 災害と歴史は繰り返す。だからこそ、歴史の教訓に学び、我々は同じ轍を踏まないようにしなければならない。
 仁和地震で大揺れに襲われた五畿内七道とは、五畿内と呼ばれる大和、山城、摂津、河内、和泉の五国(現在の奈良県京都府中南部大阪府兵庫県南東部を合わせた地域とされる)と、七道と呼ばれる東海道東山道北陸道山陽道山陰道南海道西海道(街道というより街道に面した周囲の地域を意味する)をあわせた地域のことである。「五畿内七道諸国同日大震(おおなゐ)す」、つまり、全国の広い地域で同時又は連続して大揺れに襲われたものと考えられている。京都では数尅(約2時間)を経歴しても揺れが止まなかったと書かれているが、これは仁和地震が広大震源域で長い破壊継続時間だっただけでなく、東海地震と南海地震が同時又は短い時間差で連動して動いた南海トラフ巨大地震だった可能性を窺わせる。
 さらに、いくつかの古文書に記載されている誘発災害がある。それは遠く離れた信濃国(長野県)では、仁和地震(887年)の大揺れで山体崩壊が起き、川が堰き止められた。その天然ダムが約1年間湛水し続け、翌年の888年(仁和4年)6月20に決壊し大洪水を引き起こす。被害は信濃国の六郡(佐久・小県、埴科、更級、水内、高井郡・現在の佐久市千曲市長野市など)に及び、各所の城や住居を押し流し、多数の牛馬男女が流死。死骸は丘を成したと書かれている。
 状況からすると、地震の大揺れで大規模な山体崩壊が起きたのは北八ヶ岳と推定される。それにより大月川岩屑(がんせつ)なだれが発生し、千曲川・相木川の河道閉塞(かどうへいそく・川の堰き止め)が発生、その結果日本最大規模とされる巨大な堰き止め湖(天然ダム)ができたものと推測されている。その翌年、仁和地震の303日後に堰き止め湖が決壊し、千曲川流域で「仁和の大水(にんなのおおみず)」と呼ばれる大規模洪水が発生し、多数の人と建物が流されたと考えられている。
 太平洋沿岸から約300キロメートル内陸(長野)の地まで、大規模土砂災害を発生させる凄まじい大揺れであったことが推定される。つまり、いったん南海トラフ巨大地震が発生すれば、危険なのは沿岸だけでなく、「海から遠く離れた内陸でも、大揺れ、山津波、大洪水に襲われる可能性がある」ということだ。こうした歴史と大地からの警告を、覚悟をもってしっかり受け止めての減災対策が重要である。
 夏の早朝、「正平の南海トラフ巨大地震
 887年仁和地震の474年後、1361年7月26日(正平16年・康安元年6月24日)午前4時頃(寅の刻)に発生したのが正平地震(しょうへいじしん)。この地震名の「正平」は南朝元号から取ったものであり、北朝元号の康安から取って康安地震(こうあんじしん)とも称される。多くの史料が北朝の年号で書かれているため、日本史学の慣習に倣って「康安地震」と称した方が良いとする意見もあるが、本書では一般的に多く使われている正平地震の名称で進める。
 北朝の廷臣・三条公忠(きんただ)の日記『後愚昧記(ごぐまいき)』には、「四天王寺、金塔転倒、微震になりおわんぬ、また、大塔の空輪(くうりん)落ち、塔傾き危うと云々。伶人(れいじん)一人、承仕(しょうじ)一人、在庁(ざいちょう)二人圧死と云々」と記されている。西暦593年に聖徳太子が建立したとされる四天王寺では、その金塔が転倒し、空輪は落ち、大塔が傾いたとあるように、現在の大阪市にあたる地域が激しい揺れに見舞われている。それによって伶人(雅楽を演奏する楽士)や承仕(仏具管理などに従事する僧など)が死亡と書かれている。
 さらに法隆寺の記録『斑鳩嘉元記(いかるがかげんき)』には、大和の寺社の被害に続き、「また安居殿御所西浦(やすいどのごしょにしうら)まで潮満ちてその間の在家人民多くもって損失する云々」とある。これは津波についての記載。安居殿御所西浦の位置については諸説あるが、当時、天王寺西門の坂下には「西浦」と呼ばれた地名があり、貝類などを採集・販売を生業(なりわい)とする商人らの居住地があったという説や、西方寺の境内に立地する合邦辻閻魔堂(がっぽうがつじ えんまどう・現在の大阪市浪速区松山町筋・下寺町筋)付近という説もある。ここは四天王寺正門の西方に位置し、上町台地西方にある天王寺七坂のひとつ、逢坂(おうさか)の上り口にあたる。四天王寺門前まで上町台地の斜面を上って、坂に向かって右手に一心寺、左手に安居神社(やすいじんじゃ・安居天満宮ともいう)がある。安居殿御所西浦が安居神社付近と仮定すれば、海抜約3.3~4.65mと推定される。「西浦まで潮満ちて」となると、津波溯上高は3.3メートル以上と思われる。現代よりも当時は海が近かったにしても、海岸から約2キロメートル以上の内陸に3.3m以上の津波が押し寄せ、多くの人々が犠牲になるほどの大津波だった事になり、8.0~M8.5の正平の南海トラフ地震と推定されている。
 さらに、前述の『後愚昧記』や『斑鳩嘉元記』のほか、南北朝時代の貴族・近衛道嗣の日記『愚管記(ぐかんき)』など複数の史料には、本震の3日前および2日前、京都・畿内において強い地震の記録がある。これを正平地震の前震という説や、正平の東海地震と推定する説もある。つまり、1361年7月23日、24日に正平の東海地震又は東南海地震領域の半割れが発生。その後余震が続き、2日か3日後の時間差で正平の南海地震の続発地震が発生したという推定もできる。伊勢神宮に伝わる『神宮文書(じんぐうぶんしょ)』に、「康安元年六月の地震により外宮(げくう)正殿の御壁板が抜け懸け、御束柱が顛倒(てんとう)する」との記載があり、この付近に烈震をもたらしたのが東海地震の領域か東南海地震の領域が動いた半割れの地震だったか。そしてその数日後の時間差で南海地震領域が連動して動いた「正平南海トラフ巨大地震」の可能性があるともされる。
 直接外洋に面していない紀伊水道や瀬戸内海であれば、南海トラフ地震でも津波の影響はさほど大きくはないと思われてきた。しかしもし今、その地域を3.3m以上の津波が襲えば、人口や社会資本の集積度からして甚大な物的人的被害が出る可能性がある。「正平南海トラフ巨大地震」は、こうした地域に662年前という時空を超え、今も警鐘を鳴らし続けている。
 晩秋熱波の昼、「宝永の南海トラフ巨大地震
 もう一つ、全割れ地震と推定されるのは、1707年10月28日13時45分頃に発生した宝永地震(宝永4年10月4日)。遠州灘沖~紀伊半島沖~四国沖を震源域としたM8.7~9.3の超巨大地震で、南海トラフのほぼ全域にわたって断層が破壊されたと推定されるという。澤田弘列が土佐国(現高知県)の出来事を書いた『萬變記(ばんぺんき)』には、「10月4日朝ヨリ風少(すこし)モ不吹(ふかず)一天晴渡リテ雲見ヘス(くもみえず)其(その)アツキ事極暑ノコトク」。晩秋にもかかわらず、土佐は真夏のような暑さの昼過ぎ、突然大地が揺れ始める。「未(ミ)ノ刻ハカリニ東南ノ方オヒタタシク(おびただしく)鳴リテ大地フルヒイツ其ユリワタル事天地モ一ツニ成(ナル)カトオモハル大地二三尺ニ割(ワレ)水湧出山崩(クズレ)人家潰(ツブル)事将碁倒(ショウギダオシ)ヲミルカコトシ」大揺れの後、大津波が襲う。「沖ヨリ大波押入ルト声々ニ呼バハリ上ヲ下ヘトカヘシ近辺ノ山ニ逃上ル」大津波は軽々と堤防を越え、高知城下に流れ込み数百人が波に呑まれ海に押し流され、城下だけでも溺死者は400人以上といわれる。地震による土砂災害も発生「山々ノ崩ルル土煙四方ニ渡リ忽(タチマチ)闇夜ノ如シ男女泣(ナキ)サケフ事限(カギリ)ナシ」
 「流家壹萬千百七拾軒、潰家四千八百六拾三軒、破損家千七百四十貳軒、死人千八百四十四人」と萬變記にあるように、宝永地震による主な被害は、土佐国(高知県)だけでも流失家屋1万1,170軒、倒壊家屋4,863軒、損壊家屋1,742軒、死者1,844人とされる。
 津波は伊豆諸島から四国、九州にまで及んだが、それは太平洋沿岸だけでなく、伊勢湾、大阪湾、瀬戸内海、豊後水道の奥まで襲来している。津波高は伊豆下田で5~7メートル、紀伊水道で5~10メートル、阿波(徳島県)で5~7メートル、土佐(高知県)で5~8メートルと推定されている。特に須崎(現高知県須崎市)では、津波の溯上高推定約18メートルといわれる。津波は国内だけにとどまらず、遠く韓国・済州島、中国・上海にも押し寄せ各地で被害をもたらした。
 幕府の記録では宝永地震の時、江戸近辺では被害はなかったが、大阪には津波が押し寄せ淀川や木津川河口から溯上し、約1800軒の家が倒壊し、約500人が死亡したとされていた。
 ところが、2013年に矢田俊文新潟大教授(中世災害史)が、尾張徳川家藩士が17~18世紀に記録した『朝林』を調べると、大坂町奉行から幕府に届いた報告書を写したものとして、大坂では地震により「3,537の家がつぶれ、5,351人が圧死、1万6,371人が(津波で)溺死」と書かれていたという。
 これまで宝永地震による死者は全国で2万人以上、倒壊家屋約6万戸、津波による流失家屋約2万戸とされてきたが、前述の『朝林』では、大阪だけで2万1,722人が死亡し、しかも1万6千人以上が溺死するほどの大津波が大阪に押し寄せたことになる。これは宝永地震の見方を大きく変える記述である。大坂の人口は当時約35万人とされ、死亡率は大阪の全人口の6%%に達し全国最多となる。大阪は南海トラフ地震が発生するたびに大きな被害を出しているが、宝永地震でこれほどの被害であったとすれば驚くばかりである。
 2013年10月に大阪府が算出した南海トラフ巨大地震が発生した場合の被害想定によると、最悪の場合、大阪府の人的被害(死者)は13万3,891人、全壊建物17万9,153棟と推計している。宝永地震における大阪の被害を勘案すれば、現在との人口比率などからしても、この推計は決して過大ではないのかもしれない。被害軽減のために、個人、企業、自治体はどこまで減災対策を進めているのだろうか。
 そして、宝永地震後に起きた富士山の宝永噴火である。宝永地震の余震が続く中、12月3日頃から富士山の山麓周辺でМ4~5程度の地震が数回発生。そして地震から49日後の12月16日、大地震の後に富士山宝永大噴火が始まった。富士山の南東斜面からの噴火で、白い雲のような噴煙が上がり、その後高温の軽石が大量に降り続いた。それにより付近の家屋が焼け、田畑を砂礫が埋め尽くした。暮れると噴煙の中に火柱が見え、火山雷による稲妻が飛び交った。100キロメートル以上離れた江戸では降灰によって昼間でも夜のような暗さになったという(新居白石著『折たく柴の記』)。噴火は約1か月続いてほぼ収束する。この年が亥年であったことから、宝永地震と富士山の噴火を合わせて「亥の大変(いのたいへん)」とも呼ばれた。この宝永地震は大地震×大津波×富士山噴火が重なった多重複合災害である。「富士山三大噴火」とは、「延暦(800~802年)の大噴火」「貞観(864~866年)の大噴火」「宝永(1707年)の大噴火」だが、大地震の発生直後に噴火したのは宝永だけである。
 このように今後想定される南海トラフ巨大地震の後に富士山が噴火する可能性は否定できないが、現段階では、富士山噴火と南海トラフ巨大地震に関する被害想定は別々に作成されている。この課題と詳細解説については後述する。
 さらに連載記事<「南海トラフ巨大地震」は必ず起きる…そのとき「日本中」を襲う「衝撃的な事態」>では、内閣府が出している情報をもとに、後半に及ぶ地震の影響を解説する。
 山村 武彦(防災システム研究所 所長)
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 2019年11月14日 産経新聞天皇と国民つなぐ祭祀、大嘗宮の儀 「災害はらう」古代から継承  
 「大嘗宮の儀」が行われ、帳殿に向かわれる皇后さま=14日午後6時38分、皇居・東御苑(古厩正樹撮影)
 14日夜に始まった大嘗祭(だいじょうさい)の中心的儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」は皇位継承に際し、最も重要とされる儀式で、7世紀後半以降、中断を挟みながらも歴代天皇により継承されてきた。専門家は「天皇と国民をつなぐ祭り」「現代に通じる自然災害をはらう祈り」といった意義があると分析する。
 天皇陛下は即位した5月1日に「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」で皇位継承の正統性を示し、10月22日の「即位礼正殿(せいでん)の儀」で即位を国内外に宣明された。しかし、皇室研究者で神道学者の高森明勅(あきのり)氏は、大嘗祭を除くこれらの皇位継承儀式に欠けるのが「民との接点」と指摘し、大嘗祭に際して納められる米に着目する。
 高森氏によると、時の天皇が臨む例年の「新嘗祭(にいなめさい)」では前近代の場合、都を取り巻く畿内(大和、山城、河内、和泉、摂津)の官田(かんでん)(天皇の田)の米が使われるのが原則だった。これに対し、平安時代に編集された法令集延喜式(えんぎしき)」では、大嘗祭の米を「民の耕作する田」と規定。畿外の一般民衆の田が、亀の甲羅を使った占い「亀卜(きぼく)」によって選ばれた。「天皇と民が、稲作を媒介としてつながるのが大嘗祭。すべての民の奉仕を象徴するという位置づけで、日本人が日本人としての同一性を御代ごとに確かめる祭儀ともいえる」(高森氏)
 米の供納に関し、天皇と国民の従属的な関係を表すという指摘もあるが、高森氏は「大嘗祭の成立以来、天皇は国家の公的統治の体現者であり、専制君主だったことはない。階級闘争史観の先入観を持ってみない限り、強権支配の表れとみるのは見当違い」との見方を示す。
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 11月14日 産経新聞天皇と国民つなぐ祭祀、大嘗宮の儀 「災害はらう」古代から継承  
 国学院大名誉教授の岡田荘司氏は、大嘗祭の意義を「古代の衣食住への回帰」にあるととらえる。岡田氏は「清浄」を保つために新設される大嘗宮について、かつての天皇の居住空間を再現したものとみる。神々に供する米などは柏の葉で作られた簡素な器に盛られ、陛下が身につけられる「御祭服(ごさいふく)」も粗い絹が用いられる。
 「現代と比べ厳しい状況にあった衣食住の環境下で、陛下が自然が鎮まるよう祈られる。近年は国内でも災害が続くが、日本国中に住む人々の祈りを、天皇の立場で共有するところに現代的な意味がある」。岡田氏はこう分析する。
 宮内庁は陛下が五穀豊穣(ほうじょう)を祈られる「御告文(おつげぶみ)」の内容を明らかにしていない。ただ、これまでの研究で判明している過去の大嘗祭御告文では、自然災害を被らないよう祈る言葉は共通しているという。
 国学院大学研究開発推進機構長の武田秀章氏は、平安時代に東北地方を襲った貞観地震(869年)の際、当時の清和天皇が救済のための詔(みことのり)を出した例などを挙げ、「被災者への気持ちは東日本大震災などにおける皇室のなさりようと同じ」と指摘。今回の大嘗祭での御告文の内容も継承されていると推測し「自然の恵みを祈り、災いを未然にはらう歴代天皇の祈りが凝縮されているのではないか」と話した。
 (伊藤弘一郎、篠原那美)
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 如何なる宗教も、日本の天災を食い止める事ができない。つまり、宗教は無力であった。
 同様に、イデオロギーも糞の役にも立たなかった。
 それが、日本に宗教とイデオロギーがなかった理由である。
 日本の宗教とは、畏れ敬う崇拝宗教であって信仰の啓示宗教ではなかった。
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 地獄のような自然災害・疫病・飢饉などから生き残る為に、天皇の権威の下で在来宗教の神道と外来宗教の仏教の良いとこ取りをして生み出されたのが「神仏融合」である。
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 歴代天皇は、日本国と日本民族の為に祈っていた。
 それ故に、日本国と日本民族は国内外の敵から命を犠牲にして天皇と皇室を護ってきた。
 それが、神聖不可侵とされた正統な天皇の真の姿である。
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 天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇制度である。 
 天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
 エセ保守とリベラル左派によるメディアと教育で洗脳された現代日本人の80%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
 エセ保守とリベラル左派とは、マルクス主義の反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人の事である。
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 朝鮮の日本侵略。
 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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 遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。 賊は伊豆国穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
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 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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 866(貞観8)年 山春永らの対馬侵攻計画。
 肥前基肄郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)、藤津郡領葛津貞津、高来郡擬大領大刀主、彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人と共謀し、日本国の律令制式の弩の製法を漏らし、対馬を攻撃する計画が発覚したが未遂に終わった。
 なお、この対馬襲撃計画に先立つ天安元年(857年)には、対馬島で島内の豪族が300人ほどの兵を率いて対馬守を襲撃する反乱が起きていた。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
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 保守には、正統保守・エセ保守である。
 現代日本では、急速に新保守の守旧派が増えた。
 正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
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