🎍16〕─3─聖徳太子の第1回宗教改革とは日本の仏教国家化と仏教寺院の総合病院化であった。~No.48 

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 2022年1月20日号 週刊新潮「夏裘冬扇 片山杜秀
 今こそ聖徳太子
 福沢諭吉の前、1万円札の肖像画聖徳太子だった。『日本書紀』の記述に従えば、太子は西暦574年に用明天皇の子として生まれ、622年に斑鳩宮でなくなった。用明の妹、つまり太子にとっては叔母になる推古天皇の御代の政治を、ハイティーンから約30年、とりしきったという。
 はて、太子は何をしたか。いちばんに604年、太子が30歳の年の、十七条憲法制定だろう。第一条は『和を以て貴しとなす』。日本の古代の政治が如何に不和に満ちていたかが窺い知れる。そうでなければいきなり和を叫ぶはずはない。すると古代の豪族たちを不和に導いた最大の原因は何か。やはり外来文化の問題だろう。太子が13歳の年、渡来人を束ねて仏の教えを広めようとする国際派の蘇我馬子と、日本伝統の神々を奉ずる国粋派の物部守屋とにあいだに戦が起き、馬子が勝利した。太子はというと、父方の祖母と母方の祖母も共に馬子の姉妹。明らかに国際派で仏教派だった。十七条憲法の第二条はこうだ。『篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり』。太子は、推古天皇蘇我一族と手を携え、仏教の国教化路線に邁進したと思われる。
 なぜそこまで仏教に?当時の朝鮮半島では百済新羅高句麗が三つ巴。日本は常に微妙なかじ取りを迫られていた。一方、中国大陸には隋という統一王朝が出現。中国と言えば一に儒教だが、隋は例外的に仏教を最重視した。半島の3国も仏教が強い。日本が東アジアで存在感を高めて行くには、価値観の共有は必須だった。
 しかし、もっと差し迫った理由もあった。蘇我馬子用明天皇も、仏教に帰依したきっかけは、重い病気に罹ったからという。治療のために仏僧を招きたくて信仰に向かった。そもそもこの時代の仏教を今日の感覚で狭義の宗教と考えてはいけない。渡来人を主とする当時の仏僧とは、レオナルド・ダ・ヴィンチのような人たちだった。数学にも天文学にも土木建築にも美術にも音楽にも通じていた。もちろんインドや中国の医術にも!何しろ薬を調合できた。渡来層とは現代のファイザーやモデルナに相当した。
 7世紀の日本は、東アジア情勢に首を突っ込み、半島や大陸との人の往来も活発にした。結果、新しい疫病が次々と伝来し、神道と結びついた従来の医療では対応できなくなっていた。一種の医療崩壊である。しかし、物部守屋大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)に祈ることこそが相変わらず医療と考え、渡来僧の新医術を異国の妖術として排斥した。異人を追い払い、鎖国して人の往来を減らすことこそ肝要と信じていた。蘇我馬子と戦争に及んだ大きな理由だろう。
 その後の日本を率いた聖徳太子は、たとえば四天王寺を『四箇院(しかいん)の制』に従って建立したという。仏に祈る敬田(きょうでん)院、薬局の施薬(せやく)院、治療院の療病院、入院施設の悲田院がセットになってこそ寺という思想だ。寺とは総合病院だった。
 一方、太子の外交とは二枚腰三枚腰であった。百済とも新羅とも高句麗とも隋とも、なるかけ仲良くしようとした。けれど、太子が逝くと、対外強硬派の中大兄皇子天智天皇)と中臣鎌足蘇我氏を滅ぼし、百済に肩入れして、隋の後継王朝の唐と新羅の連合軍に、白村江で敗れ、すわ亡国かと、防人(さきもり)を動員したりの大騒動になる。
 今年は太子の没後1400年。彼ほど現代日本に示唆を与える歴史的人物が他に居るだろうか。角を立てまいと四苦八苦する東アジア外交と、新時代に合わせた医療体制作りが、太子の政治の2本柱なのだから。……」
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 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、恩知らずであり、恥知らずであり、日本民族が持っていた惻隠の情などない。
 つまり、現代の日本人は数万年前の石器時代の日本列島で生きてきたヤポネシア人の子孫である日本民族とは言い難い。
 そして、武士・サムライでもなければ、百姓や町人などの庶民でもなく、その子孫でもなく、よって武士・サムライ及び庶民を語る資格はない。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「聖徳太子」の解説
 聖徳太子 (574―622)
 飛鳥(あすか)時代の政治家、また宗教的思想家。厩戸(うまやど)皇子、豊聡耳(とよとみみ)、上宮(かみつみや)王ともいう。父は橘豊日(たちばなのとよひ)皇子(用明(ようめい)天皇)。母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が、池辺雙槻宮(いけのへのなみつきのみや)の庭を歩いているとき、厩戸の前で皇子を出生したので「厩戸」の名がつけられたという。明治時代の歴史学者久米邦武(くめくにたけ)は、キリストの生誕に類似することに注目し、唐の都長安(ちょうあん)に流行していたキリスト教の一派景教(けいきょう)(ネストリウス派)の知識を天智(てんじ)・天武(てんむ)天皇のころ大唐学問僧が日本に持ち帰り、太子の誕生説話に付会したのであろうと推定した。「豊聡耳」の名は、太子が聡明(そうめい)で訴訟裁定に優れた能力をもつことにちなみ、「上宮」の名は、その宮が父用明天皇の宮の南、上宮の地にあったことによる。なお「聖徳」の名は、もっともポピュラーであるが、仏法を興隆した太子賛仰の意味を込めて、太子の死後用いられたもので、法起寺(ほっきじ)塔の露盤(ろばん)銘に「上宮太子聖徳皇」とあるのが初見である(706年造営)。
  593年(推古天皇1)に、聖徳太子は推古(すいこ)女帝の皇太子となった。大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)は、大連(おおむらじ)の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、さらに崇峻(すしゅん)天皇を殺して、権力を振るっていた。皇太子は通例、次期皇位継承者であるが、聖徳太子の場合、天皇家の危機にあたり、国政を担当する任務が与えられており、したがって「摂政(せっしょう)」に比重が置かれていたと解される。聖徳太子は政治をゆだねられて執政の座につき、一方推古天皇は、不執政の座に上った。「天皇」の称号が、これまでの「大王(おおきみ)」にかわって用いられるのは、推古朝のころとされているが、自らは動かず、しかも天界のもろもろの星の中心に位置する北極星をさす「天皇」の称号は、不執政の座を表すのに適切であったと考えられる。
   [田村圓澄 2017年8月21日]
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 蘇我馬子の建立にかかる飛鳥の法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺)は、596年に完成し、高句麗(こうくり)僧の慧慈(えじ)(?―623)、百済(くだら)僧の慧聡(生没年不詳)をはじめ、多くの僧が入った。仏法興隆について、聖徳太子と馬子とは協力することができた。こうして太子は大和(やまと)の斑鳩(いかるが)に法隆寺を建てるが、蘇我氏の建てた法興寺と、「仏法興隆」の文字を分かち合っていたことが注意される。
 太子には3人の側近があった。高句麗の慧慈、百済系と思われる覚哿(かくか)(生没年不詳)、それに新羅(しらぎ)系渡来氏族である秦河勝(はたのかわかつ)であった。慧慈は仏教の、また覚哿は儒学の師であったが、秦河勝を含め3人の側近は、東アジアの国際情勢について太子に説明することができたであろう。高句麗百済新羅朝鮮半島の三国は互いに争っていたが、聖徳太子の側近としてこの3人はバランスがとれていた。
 執政の座にある聖徳太子にとって、蘇我馬子との関係には少なからぬ困難があった。601年に斑鳩に宮をつくり、ついで磐余(いわれ)の上宮から斑鳩に移ったのは、馬子の本拠である飛鳥から離れ、しかも難波(なにわ)(大阪)に通ずる新しい拠点を確保することにより、独自の外交、内政を展開するためであったと考えられる。
 589年(崇峻天皇2)に隋(ずい)は中国大陸を統一したが、太子は、600年、607年、608年、614年の4回、隋に使者を送った。使者の任務は、辞を卑(ひく)くして中国の皇帝から政治支配権の確認を求めた5世紀の倭(わ)の五王とは異なり、文物、文化の移植にあった。したがって長期留学の学生、学問僧も同行したが、大陸文化の本格的な移植はこれらの留学生に負うところが多かった。
 603年に冠位十二階が制定された。家柄によって身分が決まる氏姓制度にかわり、個人の力量、才能によって地位を決める冠位十二階制は、昇進も可能であり、後の官人の位階制の始まりとなった。冠位十二階の施行に続いて憲法十七条を制定した。冠位十二階が、天皇制の下での官人貴族の序列化であるとすれば、憲法十七条は、官人貴族の服務規律であり、道徳規範であった。
 聖徳太子が目ざしたところは、天皇を中心とする中央集権国家体制の確立であった。推古朝の政治について、聖徳太子蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである。それだけに太子と馬子との対立は不可避であった。
   [田村圓澄 2017年8月21日]
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 太子の父用明天皇は、仏教帰依(きえ)を表明した最初の天皇であったが、その願望は実現しなかった。用明天皇の仏教受容は、病気の平癒を期待したのであり、いわば現世利益(げんぜりやく)を仏教に求めたのであるが、太子の仏教受容には、現世利益を求める傾向も、鎮護国家を求める呪術(じゅじゅつ)的要素もなく、仏教を人間の個人の内面的・精神的なものとの関連において理解しようとするものであった。太子の仏教理解を示すものに憲法十七条があり、太子のことばとして伝えられる天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)に載せられた「世間虚仮(せけんはこけなるも)、唯仏是真(ただほとけのみこれまことなり)」と、舒明(じょめい)即位前紀に記された「諸悪莫作(もろもろのあしきことをばなせそ)、諸善奉行(もろもろのよきわざをおこなへ)」とがある。また推古天皇のために経典を講義したときにできたという法華(ほけ)、維摩(ゆいま)、勝鬘(しょうまん)の『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』があるが、この『三経義疏』については、太子の著作であるか否か、また太子の著作であるとして、どの部分が太子の独自の解釈であるかは、なお検討を必要とする。
   [田村圓澄 2017年8月21日]
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 622年(推古天皇30)2月22日に、聖徳太子斑鳩宮で亡くなった(紀は前年2月5日没)。49歳であった。遺体は河内(かわち)の磯長(しなが)の墓地に葬られた。墓は大阪府南河内郡太子町の叡福寺(えいふくじ)境内に現存する。太子を思慕する人々により聖徳太子信仰が形づくられるが、半跏思惟(はんかしい)像が亡き太子のイメージを表した。釈迦(しゃか)の前身である悉達(しった)太子の像であった半跏思惟像は、聖徳太子像と重なった。そして8世紀には、太子は「日本の釈迦」と仰がれることとなる。鎌倉時代およびそれ以前に成立した太子の伝記・絵伝は、現存のものだけでも20種を超える。それらは、時代を下るにしたがって内容を豊富にし、伝記としての体裁を整えるが、統一的完結的なまとまりをもつ最初の伝記である藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)の『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』において、その太子像は荒唐無稽(こうとうむけい)な異聞奇瑞(きずい)で満たされている。
   [田村圓澄 2017年8月21日]
 『田村圓澄著『日本仏教史 第1巻』(1982・法蔵館)』▽『田村圓澄著『聖徳太子』(中公新書)』
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 第1回宗教改革は、聖徳太子推古天皇である。日本は、仏教色を強め儒教色を弱めた。
 日本が選んだ仏教は、インド仏教・中央アジア仏教から分かれた長江流域系(道教色)中国仏教、百済仏教(親日・知日)、高句麗仏教であって黄河流域系(儒教色)中国仏教・新羅仏教(反日・敵日)ではなかった。
 第2回宗教改革は、聖武天皇光明皇后である。
  聖武天皇は、「仏教国家」の詔を発した。
 第3回宗教改革は、空海最澄である。
 第4回宗教改革は、親鸞である。
 第5回宗教改革は、徳川家康・秀忠で、キリスト教禁止と日本人奴隷交易破壊である。それは、キリスト教会とイエズス会による宗教侵略の阻止であった。
 日本は、完全なる仏教国になったが、仏教勢力は幕府の強権的統制下で政治の場から排除されていた。
 以上は、日本の仏教化が目的で、神道縄文時代からの神話物語を崇拝するだけで経典・聖典による教えはなかった。
 第6回宗教改革は、日本の無宗教化で、国家神道はお辞儀拝礼宗教行為であって信仰宗教ではなかった。
 明治政府は、キリスト教から日本の宗教及び精神を防衛する為に、無宗教的礼拝行為としての「国家神道」を創設した。
 神仏分離で、庶民に永年積もり積もった寺院への怒りが爆発して廃仏毀釈が起き、全国で多くの寺院が破壊された。
 天皇の神聖を批判もしくは否定する宗教団体でない限り、信仰の自由を認め宗教弾圧はしなかった。
 ローマ・カトリック教会を敵にまわさない為に、キリスト教会に対しては細心の注意を払った。
 一部のアメリカ系プロテスタントは、親中国反天皇キリスト教会として活動していた。
 明治政府は、政治から宗教・国学を排除する為に西洋の哲学と啓蒙思想、中国の儒教を利用した。
 仏教に対して廃仏毀釈神道に対して神社合祀令。
 第7回宗教改革は、敗戦後にGHQ、マルクス主義者・共産主義者キリスト教会が政教分離と信教の自由そして反宗教無神論と反天皇反民族反日本を広める為に行った。
 第8回宗教改革は、人口激減時代。
人工停滞期の江戸時代までは土葬で、人口爆発期の明治からは火葬となり。人口激減期の現代では海洋散骨や樹木葬など自然葬儀が流行っている。
 檀家の軒数が減ってお布施などの収入が減少して寺の維持ができない寺院や、少子高齢化で後継者のいない寺院などは、近在の寺院と統廃合されるか、最悪、廃寺となる。
 庶民・利用者・消費者によって、祭祀など宗教行事は宗教色を薄めた人集めの単なるイベントとされた。
 そこには、先祖の感謝の念を捧げる先祖供養も先祖祭祀もない。
 それは、無宗教反神論のマルクス主義的世俗教育で、死ねば「無」に帰すのみという考え方で、霊魂の救済を否定し、死後の安らぎも否定した。
 唯物論に基ずく「神殺し」であり、祖先神・氏神の人神崇拝の完全否定である。
 自分という「個」の存在を、祖先との楔から解き放ち、祖先との縁を断絶させる事である。
 祖先の否定。
 日本人は、問われれば素直に「無宗教」と答え、特定の神を信じていないと話す。
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 現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
 戦後民主主義教育を受けた高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
 現代の国際常識、世界正義は、男女平等、女性権利の向上、フェミニズムジェンダーで、正統性男系父系天皇制度は悪とされている。
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 現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
 戦後民主主義教育を受けた高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
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 昭和天皇「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまう。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。自分の任務は祖先から受け継いだ日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はない。そのためなら、自分はどうなっても構わない」(1945年8月10日聖断)
 天皇にとって民(日本民族)は「大御宝(おおみたから)」である。
 仁徳天皇「私はすっかり富んだ。民が 貧しければ私も貧しい。民が豊なら私も豊ななのだ」(かまどの逸話)
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 天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者とは、日本民族であり、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少ない。
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 日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に石器時代縄文時代弥生時代古墳時代日本民族が住んできた。
 日本民族は、ヤポネシア人、石器人・日本土人縄文人弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が乱婚して混血して生まれた雑種である。
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 正統男系父系天皇制度は、数千年前の弥生時代古墳時代に、ナラの有力豪族達が集まって弥生の大乱を鎮め平和と安定、幸せと豊かさの為に話し合って作り上げた制度であった。
 日本は正統男系父系天皇制度のお陰で陰惨な虐殺に次ぐ虐殺という、中国や朝鮮の様な思想地獄、西洋や大陸の様な宗教地獄、ソ連中国共産党共産主義諸国の様なイデオロギー地獄は起きなかった。
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 1847(弘化4)年 マルクスエンゲルスは、プロレタリア革命を広める為に共産主義者同盟の綱領を起草して、共産党宣言を行った。
 マルクス主義社会主義共産主義は歴史の浅い、反宗教無神論の新しいイデオロギーである。
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 リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者は、女性天皇女系天皇即位に賛成し、天皇制度を正当女系母系天皇制度への変更を求めている。
 自民党内でも、正当女系母系天皇制度においても女性天皇女系天皇即位に賛成する政治家が多数派である。
 日本国内において、正統男系父系天皇男制度を護って女性天皇女系天皇即位に反対する日本人は少数派である。
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 現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
 戦後民主主義教育を受けた高学歴な知的インテリや進歩的インテリ、特にマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
 現代の国際常識、世界正義は、男女平等、女性権利の向上、フェミニズムジェンダーで、正統性男系父系天皇制度は悪とされている。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を殺すべく活動を本格化させた。
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 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 日本の歴史には3種類あって、1,日本民族の民話・伝承・寓話・宗教によるローカルな神話物語、2,アフリカを源流とする科学的根拠のグローバル人類史、3,記録が残る正史による人物英雄伝説である。
 ローカルな神話物語とは、古事記日本書紀を正統根拠とする日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話、つまり女性神天照大神最高神とする天皇神話である。
 それが、皇国史観であった。
 グローバルな人類史には、科学的経験的正当性はあっても宗教的合理的正統性はない。
 神話物語・人類史・英雄伝説の3つを持つのは、民族としては日本民族琉球民族アイヌ民族だけで、国家としては日本国だけで、その歴史に正当性を裏書きしているのが正統な天皇の神格である。
 その意味で、日本は特殊で特別であるが、日本国と日本人が優れているとは無関係である。
 天皇は日本を統一して日本建国宣言の詔を発していない為に、日本には建国年と建国記念日は存在しない。
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 天皇の存在意義とは、国内においては国家と国民統合の象徴であり、国外においては日本国と日本民族の信用の源泉である。
 日本円貨の信用も、日本の国家、政府、日銀、国民ではなく天皇である。
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 日本国憲法が、日本国と日本国民の国際的信用を保証してはいない。
 そもそも、日本国憲法を保証しているのは天皇である以上、正統な天皇の承認なくし日本国憲法の正当性はない。
 日本において、数万年の石器時代縄文時代及び数千年前の弥生時代古墳時代から受け継いできた歴史・伝統・文化・宗教における天皇の正統性は、1946年成立のキリスト教マルクス主義共産主義によって書かれた日本国憲法の正当性の上位にある。
 戦後民主主義教育を受けた日本国民や外国人日本国籍保有者が、日本国憲法における国民主権で自分達が日本国の国際的信用を責任を持って保証すると宣言した所で認められない。
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 天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇制度である。 
 天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
 現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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 日本民族が崇拝してきた八百万の神々が正統な神である事を保証しているのは、最高神・女性神の血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天天皇の神性である。
 つまり、民族宗教、神話物語でる天皇神話である。
 近代の憲法や法律の宗教法人法が認定する神仏には、合憲・合法に基づいた正当性がっても、神性・神聖の正統性はない、つまり金儲けの為に作られたウソの神仏である。
 当然、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇には神仏を認め保証する神力はない。
 日本の八百万の神々は天皇家の祖先神である伊邪那岐命イザナギノミコト)と伊邪那岐命イザナミノミコト)から生まれた、それが天皇神話である。
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 日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。
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 日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、神の宗教的民族神話と人の科学的民族伝説の二つを持っている。
 神の宗教的民族神話とは、古事記日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
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 日本民族は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた。
 天皇家・皇室は、数千年前の弥生時代古墳時代に、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻す為にムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として「天皇下駄論」・「天皇人身御供説」・「天皇生け贄説」で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
 その神聖不可侵の裁可者・天皇という地位を護る為に考え出されたのが、「政治的無答責の君主」、つまり政治権力も宗教権威も持たない天皇の権威つまり「天皇の御威光」である。
 祖先と国と民族に対して重い責任を負うのは、益荒男・日本男児の責務であって、手弱女・大和撫子ではなかった。
 故に、日本天皇は、最高神の女性神による民族神話、神話宗教、血筋・血統の家世襲万世一系で受け継ぐ事で正統性を与えられていた。
 つまり、民族神話で正統と認められた宗教的万世一系の男系父系天皇制度とは、数万年生きてきた日本民族の歴史的叡智の結晶である。
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 天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事を困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
 つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
 それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
 日本民族天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
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 日本国・日本民族を1つにまとめている3つの力が存在している。
 1つ目が武力の政治権力、2つ目が経済力の宗教権威、3つ目が文化力=畏れの天皇の御威光・権威・御稜威・大御心であった。
 日本の歴史において、政治権力と宗教権威は人間の強欲・私欲・個人欲で栄枯盛衰を繰り返し目まぐるしく入れ替わっていたが、その中で文化力の天皇の御威光だけは変わらなかった。
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 世界の王侯貴族は他国からの軍人征服者であったが、日本の天皇は民族の伝統・文化・宗教の権威者であり保護者であった。
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 祖先霊・祖先神・氏神の人神信仰は、命と魂、血と身体、遺伝子とDNAを受け継ぐ事である。
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