🦲9〕─1─改竄される日本の歴史。「聖徳太子」は教科書から消される。〜No.35No.36No.37 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 エセ保守とリベラル左派は、日本の歴史を神話・宗教・文化に基づく民族の歴史を科学的根拠に基づく人民の歴史に改竄しようとしている。
 反宗教無神論・反天皇反民族反日の彼等の最終目的は、天皇制度廃絶と天皇家・皇室の消滅である。
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 2023年11月2日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「なぜ「聖徳太子」は教科書から消されたのか…「正しくは厩戸皇子」という歴史学者の主張には納得できない
 最近の教科書では、聖徳太子を「厩戸王(聖徳太子)」と記すようになった。憲政史家の倉山満さんは「聖徳太子像は奈良時代の創作と指摘され、『聖徳太子はいなかった』という大珍説まで広がった。聖徳太子と呼ばれていなかったからと言って、事績を片っ端から否定することは間違っている」という――。
 【画像】狩野(晴川院)養信筆「聖徳太子二王子像」(模本)東京国立博物館
 ※本稿は、倉山満『嘘だらけの日本古代史』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。
■古代史の偉人・聖徳太子が「厩戸皇子」になったワケ
 小学生がやりそうな、ひっかけクイズです。
Q 法隆寺を建てたのは誰?
A 聖徳太子
Q ぶー! 大工さん‼
 学界って、このレベルの議論を始めるので、タチが悪い。つまんない話をしたので、お口直しに!
 昭和を代表する国民的歌手だった三波春夫氏は、「お客様は神様です」というステージ・フレーズでよく知られ、今でも使われます。ちなみに、このフレーズに調子に乗ってクレームをつけてくる客に対しては「他の神様にご迷惑です」と答えるのが接客業界では密かに推奨されているとかいないとか。
 それはともかく、歴史研究家の顔も持つ三波春夫氏には、『聖徳太子憲法は生きている』(小学館、一九九八年)という著作があります。たいへん堅い内容の本です。この本では、最終的に偽書であると認定された『聖徳太子憲法』(小川多左衞門、一七八八年)という書物が研究されています。
 偽書・偽文書の研究は難しく、偽物だと言ってもそのすべてが嘘とは限らず、本当の部分だけを抽出して事実を再現する手法なので、極めて高度な技術が求められます。三波氏は『聖徳太子憲法』を使って、「十七条憲法は八十五条憲法だった」と主張しています。すなわち、太子の残した憲法は、「通蒙・政家・儒士・神職・釈氏」の五つに分かれた合計八十五条憲法だったとのことです。そう言われると、納得のいくことが多々あります。
■世紀の大珍説「聖徳太子はいなかった」
 十七条憲法は、天皇よりも先に坊さんが来ています。第一条が「和をもって尊しとなし」、第三条に「天皇勅語には必ず従え」、その前の第二条が「篤く三宝を敬え」で、「仏、法、僧を大事にしろ」です。極めて不自然です。八十五条を解体、一つにまとめた時にこうなったのは仏教界の意向が反映された、との仮説は成り立ちます。
 別に仮説であってこれが正解だなどと断定はしませんが、「仏教を信仰する聖徳太子蘇我馬子と組んで神道を固守する物部氏を滅ぼした」などというイメージだけで語るより、その後も神道家や儒学者が太子から崇拝された日本の歴史を考えると、三波節の方が私には説得力があります。
 そして、まったく説得力がないのがこれ。

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世紀の大珍説
聖徳太子はいなかった。

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 この後に「厩戸皇子はいたけどね」と続きます。なんじゃそりゃ。
 これが学界を二分する大論争になったのですから、日本古代史学界も落ちたものだなと横目で見ていました。しかし、この説、マトモな人には否定されたので、さすが古代史学界と安堵(あんど)したのも確かです。
 主唱したのは、中部大学教授(現・名誉教授)の大山誠一氏です。片っ端から聖徳太子の事績を否定し、「厩戸皇子の確実な事績は、斑鳩に住んでいたことと法隆寺を建てたことかもしれない、だけ。いわゆる聖徳太子像は奈良時代にでっちあげられた」と主張しています。あまりの衝撃的な内容に、この人の太子がらみの本を全部読んだのですが、腰が砕けました。結局、それかい?
■「その時代にその名前で呼ばれていなかった」では理由にならない
 法隆寺を建てたのは厩戸皇子であり、聖徳太子ではないとか言われたら、小学生がクイズで「法隆寺を建てたのは大工さん」と言ってんのと同じです。脱・皇国史観の成れの果てとしか言いようがない。大山さん、自分の支持者相手には意見を言うのだけど、反論に対して正面から答えず、「反論がなかった」とか言い出すんで、私の性に合わない。
 あんまり何回も言いたくないのですが、「その時代にその名前で呼ばれていなかった」は、不在の証明でもなんでもありません。北条早雲は生きていた時にそんな名乗りはしていません。また、北条政子が「政子」と名乗ったのは、夫の頼朝死後二十三年目です。頼朝が妻に「政子」と呼びかけたことは一度も無かった。しかし、「北条早雲」「北条政子」は立派な歴史用語です。
 現代でも「平成上皇」「令和天皇」といえば、「勝手に殺すな!」と怒られます。「平成」「令和」は死後に贈られる予定の名前ですから。ただし後世の人が平成時代や令和時代を語るのに、そういう呼び方をしても何の問題も無いでしょう。
 言葉は事象を示す記号でもあるのですから借り物、本質的な議論をしないと。そして最近は中世史でも考古学の成果を多く取り入れています。たとえば、信長の延暦寺焼き討ちは言われてきたほど大規模ではなかった、とか。これが古代史になると、大きく変わります。
 長らく、「日本の最古の貨幣は七〇八年に鋳造・流通が開始された和同開珎(わどうかいちん)だ」とされていました。しかし、存在は知られていたものの年代が確定していなかった富本銭(ふほんせん)が、一九九〇年代以降の発掘調査で、和同開珎よりも前につくられたものであることが確実となり、日本最古の貨幣とされています。
■片っ端から事績を否定するのが実証主義ではない
 最初に天皇を名乗ったのは誰か論争も同じです。
 本題に戻ると、「十七条憲法偽作説」を採る人が、鬼の首でもとったかのように指摘する言葉が「国司」です。十七条憲法第十二条に「国司」が登場します。「国司」は、大宝律令以降に使われるようになった地方官僚の名称で、奈良時代にできた言葉が時代を遡って使われているのはおかしい、捏造だ、と主張しています。これについては、大津透氏が次のように解説しています。
 大化改新の時の「東国国司」のように、中央から地方に派遣され、屯倉の管理や国司を監督する臨時の使者は(クニノ)ミコトモチとよばれ国宰・宰などの字があてられる官があり、『日本書紀』編者がそれを「国司」と記したと考えればよいだろう。(前掲『天皇の歴史1 神話から歴史へ』三五頁)
 例の津田左右吉も「国司」が使われているのはおかしいと主張していますが、聖徳太子研究の大家だった坂本太郎先生は反論しています。専門的な内容には立ち入りませんが、片っ端から聖徳太子の事績を否定するのが実証主義とは思いません。後世の人が振り返る時に当時は無かった言葉を使っても、それが即座に存在しなかった理由にはならないでしょう。
 聖徳太子伝説のすべて、「生まれる前にこの世を救う使命を帯びた金色の菩薩が夢の中で母の口の中に入ったら太子が産まれた」とか、「聖徳太子は生まれてすぐに七歩、歩いた」とか、「聖徳太子は七人の話を同時に聞けた」とか、「聖徳太子の予言書には南北朝の動乱が書かれていた」とか、そのまま信じよとは言いません。
 マトモな人は、聖徳太子伝説のすべてを信じていた訳ではなく、その中から何らかの事実を抽出してきました。そのすべてを否定するのも、すべてを肯定するのも、同じように非科学的です。
■もう一つの「古代史のウソ」
 第三十二代崇峻天皇は、蘇我馬子が放った刺客・東漢駒に暗殺されてしまいます。『日本書紀』は、天皇が狩りの獲物の猪の首を指さして、「この猪の首を切るようにアイツの首を切りたい」と呟いたので、馬子が先手を取って暗殺したことになっています。異説では、讒言だったことになっていますが、とにかく馬子は天皇を暗殺しました。
 この時、聖徳太子が自分にとって従兄弟で崇峻天皇の皇子の蜂子皇子を匿い逃がしてあげて東北に辿り着き、出羽三山が開かれた、と出羽三山神社社伝は伝えています。出羽三山は後の神仏習合を先駆けるような宗教施設となります。
 ちなみに! 週刊誌やSNSでは秋篠宮家相手ならどんなバッシングをしても良いとの間違った空気があり、あまつさえ保守を自認する言論人までが「悠仁殿下の教育は大丈夫なのか」と公言している嘆かわしい状況ですが、黙らっしゃい。
 高校生になられた殿下は、皇室史に多大な関心をお持ちになられて蜂子皇子の話を知り、出羽三山まで遠足にでかけたとのこと(令和五年七月三十日、救国シンクタンクフォーラム「皇位継承問題」より。近日、叢書化の予定)。
 普通の人間、蜂子皇子の話なんか知りません。神社マニアだと出羽三山は、皇族のお墓がある東北唯一の神社と知っているでしょうが、庶民があれこれいらぬ心配をするよりも、本筋の学びをして、何をすれば「くにまもり」になるのかを知る方が、よほど大事です。
推古天皇は「日本で最初の女帝」なのか
 さて、第二十代安康天皇以来の、天皇暗殺です。とてつもない不吉に、女帝が登場します。第三十三代推古天皇で、今では最初の女帝とされていますが、その誤りは既に神功皇后の節でお話ししました。
 教科書では「最初の女帝は推古天皇」と教えていて、ここまで縷々述べてきた理由で、これが書き換わる可能性は極めて低いでしょう。ちなみに推古天皇が女帝の新儀だとして、天皇暗殺の不吉な事態への対処です。それより、こちらの説です。

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通説
すべての女帝は中継ぎだ。

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 これは難しい。私は八方十代の内、一代だけは中継ぎではないと思っています。本書の対象外である江戸時代の明正天皇後桜町天皇は、明確に中継ぎでした。ということで読者の皆様も、六方八代の天皇の誰が中継ぎでは無かったか、本書を読みながら考えてください。その最初が推古天皇です。
 現代、皇位継承問題で男系維持派の中には「女帝を認めると、女系天皇につながる。古代と違い、現代では女帝が生涯独身はあり得ないから」と主張する人がいます。それは構わないのですが、勢い余って「すべての女帝は中継ぎだった」と主張しなければならないと考えている人もいるようです。私は女帝は容認する立場ですが、政策論として現代で女帝を認めるべきではないとする立場には一理あると思います。女帝は無理やりやるものではないので。ただ、「すべての女帝は中継ぎだ」は、どうでしょう。基本的に中継ぎと思いますが、例外はお一人いると思います。
■「女帝=中継ぎ」という誤解
 強烈な男系派は「すべて中継ぎだ」と主張し、狂信的な女系派は「全員が本格政権だ」と主張する。さすがに、どちらも極端でしょう。
 ここで参考になるのが、女系容認派で私とは意見が違いますが、博識の笠原英彦慶応大学法学部教授です。実は笠原先生の『歴代天皇総覧』(中央公論新社、二〇〇一年)を事典代わりに使っているのですが、第四十三代元明天皇の項で、女帝が当時、「中天皇」と呼ばれていた事実に言及されています。
 ただ、推古天皇は在位三十五年に及ぶ長期政権となりました。三十五年の中継ぎとは何なのかという議論は確かに成立しうるでしょう。
 これに対する私の回答は二つ。一つは、古代の天皇は、実質的な権力を振るう前提の存在だった。ならば、中継ぎであっても、それなりの実力がないとなれないので、額田部皇女が選ばれた。もう一つは、ワンポイントリリーフのつもりが、長期政権になった。後者の方は、よくあります。
 たとえば、長期政権を築き戦後政治をリードした吉田茂は、最初は自他ともにワンポイントリリーフのつもりでした。外国の歴史ですと、神聖ローマ皇帝に選ばれたルドルフ(1世)も軽く思われていましたが、ハプスブルク家の栄光を切り開く“神君”となりました。よくある話です。
■なぜ推古天皇の治世は35年間も続いたのか
 どうして推古天皇の治世が三十五年間も続いたかというと、簡単に言えば天皇終身制で譲位の慣習がなかったからです。継体天皇から安閑天皇への譲位はほぼ危篤状態での譲位で、余生を過ごす前提ではありませんから、常例ではなく、当時の人の頭に無かったとしても不思議ではありません。
 さて、当時の朝廷で最大の権力者である蘇我馬子は、第二十九代欽明天皇蘇我堅塩媛の娘である額田部皇女を第三十三代推古天皇とします。異母兄である第三十代敏達天皇の皇后でもありました(正確にはこの時点で未亡人なので、皇太后)。馬子から見れば姪にあたります。この時代、数えきれないほど皇子はいますから、父子継承をやらずに兄弟継承をやっていれば、皇位継承候補者は無数になります。候補者が多いということは、争いが激しくなります。継体天皇以降は間違いなく豪族たちが認めないと天皇になれませんから、若くて実力がない皇子は不可。幼帝は論外です。じゃあ、「年齢」「実力」ってどうやって決めるかというと、その時の政治力になります。
 推古天皇二(五九三)年、聖徳太子が摂政になります。十九歳。女帝・太子・馬子の三頭体制になります。
 よくある説に、「推古天皇は馬子に対抗するために聖徳太子を擁立し、いずれ天皇に即位させようと考えていた」があります。逆に、太子晩年の時期に、馬子と推古天皇が不倫の関係にあったという説もあります。本当だとすれば、推定年齢約七十歳と約六十歳なので、かなりの老いらくの恋です。
■ワンポイントリリーフを続けざるをえなかった
 それはどうでもいいとして、一番若い太子が四十九歳で真っ先に亡くなりました。推古天皇は七十五歳くらいまで生きました。超長寿です。四十歳で即位したときに「十年くらいは中継ぎで」と考えたとしても不思議ではありません。
 つまり、後継者のはずの聖徳太子推古天皇より早く死んでしまったので、ワンポイントリリーフを続けざるをえなかったと考えれば不自然はありません。ただし、長寿となれば、天皇として政権を担います。実力者でなければ務まりません。
 推古朝のトロイカ体制、最近では安倍内閣が長期政権と化したのと似ています。安倍内閣では三大派閥の領袖である、安倍晋三首相・麻生太郎財務大臣二階俊博幹事長の三人が組んでいる限り、外敵に対しては無敵でした。
 しかし、この三者は政策や政局の主導権をめぐり、必ずしも一枚岩ではなく、常に不協和音が聞こえてきました。ただし、どんなに対立しても最後は結束したから長期政権を維持しました。
 歴史上、女帝・太子・馬子のような関係は、頻出します。

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 倉山 満(くらやま・みつる)
 憲政史家
 1973年、香川県生まれ。中央大学大学院文学研究科日本史学専攻博士課程単位取得満期退学。在学中より国士舘大学に勤務、日本国憲法などを講じる。シンクタンク所長などをへて、現在に至る。『並べて学べば面白すぎる 世界史と日本史』(KADOKAWA)、『ウェストファリア体制』(PHP新書)、『13歳からの「くにまもり」』(扶桑社新書)など、著書多数。

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