🪁2〕─2─古今東西、遊牧騎馬民族がユーラシア文明を築く原動力だった。~No.3 

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 2019年4月20日 JBperss「古今東西遊牧民は文明を築く巨大な原動力だった
 【連載】ビジネスに効く! 世界史最前線(第20回)
 玉木 俊明
 モンゴル平原で暮らす現代の遊牧民
 人類の発達に思いを巡らす場合、「文明は定住民によって作られる」と考えている人がいるとしたら、それは大きな誤解をしていることになります。たとえば、太平洋の島々を移動していた人々は、海を結びつけた「文明」を築いたと言えます。つまり、移動し続ける人々も独自の文明を育み、それが周囲の定住民の文明に大きな影響を与えてきたのです。
 太平洋の例のように、海によって結び付けられていた人々より、明らかに文明の構築に貢献した「移動する民」がいました。現在、「遊牧民」と呼ばれる人々です。彼ら自身、一般に理解されているよりずっと高度な文明を築き、そして周囲の文明圏に大きな影響を与えてきたのです。
 遊牧民の起源
 例えば、世界史における遊牧民の重要性を強く提唱した人物の一人に、京都大学名誉教授でモンゴル史の研究で名高い杉山正明氏がいます。杉山氏は、「広大な大地を移動しながら生活していた遊牧民のおかげで、点在していた文明圏は各々孤立することをまぬがれ、広がりを可能にした。彼らがいたからこそ、文明が世界に広がっていった」としています。
 現在の歴史学界では、このような考え方は広く受け入れられつつあります。むしろ、遊牧民の貢献を考慮に入れない世界史を考えることは不可能です。
 さて、われわれ日本人が「一番馴染み深い遊牧民は」と聞かれれば、恐らく「モンゴル人」と答える人が多いのではないかと思います。彼らが築いたモンゴル帝国は、ユーラシア大陸にまたがる大帝国でした。
 しかし遊牧民族の歴史は、彼らが登場するはるか前から続いていました。では、最初の遊牧民はどんな人たちだったのでしょうか。それを知るために、まずは遊牧民が登場する背景について探っていきましょう。
 前3000年頃に、黒海北岸からカスピ海北岸にかけての地域で、気候変動により乾燥化が始まりました。それによりこの地域の広葉樹林が草原地帯へと変化していきます。すると、人々は農耕生活よりも家畜――羊や山羊、牛、馬など――とともに草を追って移動する放牧生活を選択するようになりました。現在の研究では、この地域の気候変動が「遊牧民誕生」の大きな契機だったと考えられています。
 それから少し時代が下がった前2000年ごろから前1700年ごろにかけて、ウラル山脈からカザフスタンにかけての草原地帯で、二輪戦車に乗ったインド=ヨーロッパ語族の軍団が、南方を脅かしたという説もあります。二輪戦車とは、戦闘用の馬車のことです。この頃は、馬具や騎乗の技術が発達しておらず、人間が馬に直接乗るのは困難でした。それ以前は、戦闘に馬を利用する場合には、左右に車輪がついた馬車を馬に引かせる形をとっていました。
 遊牧民がいつごろから騎乗の技術を身に着けるようになったのかは不明ですが、アジアや地中海で人が馬に乗るようになったのは、前10世紀頃のことと言われています。さらに、草原地帯で乗馬が開始されるのは、前9世紀〜前8世紀頃のことであったというのが、現在の学説になっています。
 というのも、前9世紀中頃、また世界的な気候変動が生じたからです。現代社会の砂漠化とは、まったく反対の現象ですが、それまで半砂漠だった地域が草原化するようになります。こうして草原地帯が増え、遊牧民が騎乗するようになったとされています。
 「最初の遊牧民スキタイ人
 現在の歴史研究では、「最初の遊牧民スキタイ人」という説が有力です。スキタイ人は、前7世紀頃から前3世紀頃にかけ、パミール高原西部からヴォルガ川までの黒海北岸に及ぶ草原地帯で活動したといわれ、最盛期は前6~前4世紀であったとされます。
 馬を自在に操り、集団で家畜を追う遊牧民は、それだけで大きな人事力を有することになります。
 スキタイ人イラン系民族に属すると考えられており、西アジアヒッタイト人などの諸民族から鉄器製造の技術を導入し、農具や武具に利用していました。彼らはそれを東方に伝える役割を果たしたのです。
 「歴史の父」と呼ばれる古代ギリシア人のヘロドトスは、その著書『歴史』の中で、アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス1世と対峙した相手として、スキタイ人について言及しています。
 ペルシア帝国のダレイオスは、馬車を使って軍隊を迅速に移動できるよう、石畳で舗装した「王の道」を領土内に整備しましたが、北方の脅威となっていたスキタイ人討伐のために大軍を率いてボスポラス海峡を渡って遠征した際には、遊牧騎馬民族であるスキタイ人の機動力に歯が立たず、大敗させられてしまいます。騎乗技術に秀で、さらに高度な騎射技術を身に着けていたスキタイ人は、非常に高い軍事力を備えていました。
 スキタイ人は、前6世紀以降には、黒海の周辺、南ロシア、北カフカスの草原を中心として強大な王国を形成したばかりか、アケメネス朝のダレイオス3世やマケドニアアレクサンドロス3世とも戦いました。このように勇敢で強かったスキタイ人でしたが、3世紀にゲルマン人の一派で、黒海北岸に居住していた東ゴート人に滅ぼされたと言われています。
 漢を「属国」にした匈奴
 スキタイ人に続いた有名な遊牧民として、モンゴル平原にあった匈奴がいます。彼らもまた強大な軍事力を持った集団でした。
 匈奴が明確な形で歴史に登場するのは、始皇帝が中国を統一した時代だったようです。中国の統一と同時期に、匈奴も複数の部族が統一され、強力な国家になっていったのです。この脅威を振り払うため、始皇帝は、将軍である蒙恬を派遣し、匈奴をオルドス地方(現在の中国・内モンゴル自治区南部)から追い払い、さらに彼らの南下を防ぐために万里の長城を建設したのです。
 こうした秦の対策もあり、匈奴の勢力は一時的に衰えます。しかし、冒頓単于単于匈奴の王。在位前209〜前174年)の時代になると、匈奴は急激に強大化し、復活してきます。
 冒頓はまず、東の遊牧民集団・東胡を滅ぼし、続け様に西の遊牧民集団・月氏を敗走させるなどして、瞬く間に広大な帝国を形成しました。その本拠はモンゴル草原の中央部にあり、それより東を左、西を右とし、それぞれ左賢王・右賢王などを置いて分割統治させました。初めてモンゴル平原を統一した匈奴には、30万人以上の騎兵兵力がいたとされています。
 冒頓は、前200年、漢の高祖・劉邦の軍隊を破ります。漢は、始祖である劉邦が冒頓に敗れてから50年ほど、匈奴の属国でした。漢は公主(皇帝の娘)を匈奴単于に妻として差し出し、しかも、毎年、絹、まわた、酒、米などを贈りものをする関係になりました。漢にとっては屈辱的な関係だったのです。
 このような関係を逆転させようと試みたのが武帝(在位前141〜前87年)でした。
 武帝は、「匈奴討伐」のために、武将である衛青、霍去病(かくきょへい)らの軍を派遣し、さらに張騫の軍で挟撃させるなど、度重なる遠征をしたのです。次第に形勢が怪しくなった匈奴は、烏維単于(うい ぜんう:在位前114〜前105年)の治世下になると、漢から人質を要求されるまでに衰退します。その後、分裂と統一を繰り返すなどして、歴史から姿を消してしまいました。
 ゲルマン人を「大移動」に駆り立てた遊牧民
 表舞台から姿を消した匈奴ですが、実はその一部が後に「フン族」と呼ばれる人々になったのではないかという説もあります。フン族とは、北アジアの遊牧騎馬民族で、その西進がゲルマン人の大移動を引き起こしたとされる人々です。確定した学説ではありませんが、アジアの遊牧騎馬民族が、ヨーロッパを揺るがす大移動のきっかけを作ったのは間違いないようです。
 ゲルマン人の大移動は、大きく見て2回に分けられます。
 一度目は、375年の西ゴート人のドナウ川越境から、568年の北イタリアでのランゴバルド王国の建国までです。二度目は、8世紀にから11世紀まで続いたノルマン人の移動を指します。ただし、一般には、一度目だけを指して、「ゲルマン人の大移動」といいます。
 一度目の大移動の中心であったゴート人は、もともとバルト海南部に住んでいたゲルマン人の一部なのですが、やがて南下し、黒海沿岸部に移り住む過程で東西ゴート人へと分かれました。
 このうち東ゴート人は、すでに述べましたようにスキタイ人を滅ぼした人々ですが、今度は同じ遊牧民であるフン人によって征服されることになりました。
 この様子を見てフン族を脅威に感じた西ゴート人は、ドナウ川を越えてローマ帝国領に侵入していきます。これが一度目の「ゲルマン人の大移動」となっていくのです。
 フン族を描いた19世紀の歴史画(ヨーハン・ネーポムク・ガイガー画。Wikipediaより)
 さて、ゲルマン人の大移動の直接のきっかけをつくった北アジアの遊牧騎馬民族であるフン族は、もともと中央アジアステップ地帯に住んでいたと考えられています。2世紀頃にバイカル湖方面から西方に移動を開始し、4世紀になって南ロシアのステップ地帯に入ったようです。最盛期にはその領土は、中央アジアのステップから現在のドイツにまで広がるという巨大な帝国を形成したのです。
 フン族は、アッティラ(406〜453年)の治世下で最盛期を迎えますが、451年のカタラウヌムの戦いで、西ローマ・西ゴートの連合軍に敗れます。翌452年にはイタリアに侵入しますが、自陣の中で疫病が流行しため撤退を余儀なくされます。その翌年、アッティラが病死すると、この強大な帝国は急速に衰退し、崩壊してしまいます。
 フン族の国家は、軍事力は非常に高いものがありましたが、統治機構は十分に発展していなかったと考えられます。アッティラという個人の強力なリーダーシップによって成り立っていたので、リーダーがいなくなった途端、あっけなく崩壊してしまったのです。これは、遊牧民のみならず、この当時の国家にしばしば見られたことでした。
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 それはさておき、フン族に圧迫され大移動を余儀なくされたゲルマン人たちは、ヨーロッパのさまざまな地域に定住するようになります。たとえば、西ゴート人がイベリア半島、東ゴート人がイタリア、ブルグンド人が南西フランス、フランク人が北西フランス、アングロサクソン人がブリテン島に国家を立てました。ヴァンダル人はイベリア半島から北アフリカに入り、カルタゴの故地に建国しています。
 こうして見ると、大移動したゲルマン人たちによって現在のフランス、ドイツ、イタリア、イギリスの原型が作られたことが分かります。そのきっかけを作ったのは、遊牧騎馬民族フン族でした。遊牧民の進攻があったからこそ、各地で民族や文化の交錯が起こり、そして現在のヨーロッパが形作られていったのです。
 ヨーロッパ史をみていく上で、さらには世界史を考えるときに遊牧民の役割を無視することはできないことは、ここからもお分かりいただけるでしょう。遊牧民が世界史をつくった時代があったのです。
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