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歴史人
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「謎の4世紀」に行われたヤマト王権の朝鮮進出
歴史人編集部
ヤマト王権の成立に重なる謎に満ちた「空白の4世紀」
神功皇后
朝鮮半島を服属させた「三韓征伐」の伝説をもつ。東京都立中央図書館蔵
古代中国の文献には当時の日本(倭国)のことや、その交易(朝貢/ちょうこう)の様子が、たびたび登場する。裏を返せば、当時の日本列島に住む人にとっても、中国大陸や朝鮮半島は身近な存在であった。3世紀の邪馬台国や女王・卑弥呼についての記述は『三国志』(魏志倭人伝)に紹介され、『宋書(そうしょ)』には5世紀に朝貢した5人の倭王のことが記される。
しかし、その間の約150年間、4世紀にあたる時期については中国の史書にみられない。このことが、ヤマト王権の具体的な成り立ちを分からなくしている。いわゆる「謎(空白)の4世紀」と呼ばれる時期である。当時の中国では魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の三国時代が終わり、五胡十六国(ごこじゅうろくこく)という動乱期に突入。439年に北魏(ほくぎ)が統一するまで戦乱が続き、統一国家もなく、倭国に目を向ける余裕がなかったという事情がある。
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空白の4世紀
中国の歴史文献において266年から413年にかけての倭国に関する記述がなく、ヤマト王権の成立過程などが把握できないため、日本において「空白の4世紀」とも呼ばれている。
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2022年9月号 WiLL「編集部の今月この一冊
『民族と文明で読み解く大アジア史』 宇山卓栄著 講談社+α
「興亡を繰り返したチャイナ大陸に純粋な漢民族など、この地上のどこにも存在しない。ところが、中国政府は今日の中国の人口の92%が漢民族であると強弁する。また日本人の遺伝子上、中国人や韓国人よりもチベット人に近いことが最新の遺伝子解析の研究結果などで判明しているという。多様な民族と文明が混在するアジアを読み解く上で最適な一冊。」
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古墳人とは古墳時代に日本列島に居住していた人々の総称。弥生時代以後に朝鮮半島とユーラシア大陸東部から渡来して、古墳文化を担った。 在来の縄文人や弥生人と混血し、現日本人を形成していった。本州の「現代日本人」におけるゲノムにおいては約7割近くを占める。
概略
長らく日本人の起源を縄文人と弥生人の「二重構造」でみる説があったが、金沢大学、鳥取大学、アイルランド・ダブリン大学などの教授、研究員からなる国際共同研究グループが考古遺跡から発掘された人骨からDNAを抽出し、最新のゲノム分析を行った結果、「縄文人」「弥生人」「古墳人」は異なるゲノムであり「三重構造」であることを証明した。
形質的特徴
身長が高く古墳時代は日本の歴史の中で現代を除き1番高身長である。
古墳人のルーツ
日本列島で古墳や馬、馬具などが現れるのは弥生時代以後の古墳時代であり鉄器が日本国内で広く生産される様になるのもこの頃である。
古墳時代の渡来人としては、日本書紀に記載された弓月君氏が知られている。弓月君一族は応神天皇14年(283年)に朝鮮半島の百済から百二十県の人を率い帰化したとされる。 弓月君一族は八幡神社や稲荷神社などを創祀したことでも知られており、蚕や絹などによる織物、土木技術、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草なども広めた。
分子人類学からみた古墳人のルーツ
父系のルーツ(Y染色体ハプログループ)
古墳人にみられるO3a2c(P164)Y染色体ハプログループは東アジア全体で見られるタイプで、特に半島と満州で高頻度である。ハプログループO(M175)系統は東アジア東部が起源とされている。。
古人骨ゲノムデータの主成分分析
成分分析では現代日本人と古墳人集団との中間に位置し、縄文人や弥生人よりも現代日本人との遺伝的親和性が高い。
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ウィキペディア
チベット系民族とは、言語学上としてのチベット・ビルマ語派チベット語群(Bodish languages)を用いるモンゴロイド系諸族の総称である。北部は騎馬民族(遊牧民)が多く、南部は農耕民族が多い。
チベット高原を起源とするが、カシミール(ラダック)地方のパキスタン側バルティスターンの住人のように、必ずしも「チベット系民族の一員」としての自意識を持っていない集団を含む場合がある。
チベット系民族の一部のうち、北インドのカシミールやネパール(ネパール人)やミャンマー(ビルマ族)では、古くからコーカソイドに属するインド・アーリア系との混血があり、中央アジアにいたチベット系民族の一部は現地のテュルク系と同化していった(サラール族など)。
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世界史の窓
北方民族
中国・漢民族の北方のモンゴル高原とその周辺で遊牧生活を送る諸民族を総称して北方民族という。農耕民族である漢民族との関係は中国史の軸として重要である。
中国本土の黄河や長江流域には農耕文明が形成されたが、その北方の乾燥あるいは草原地帯には、遊牧や狩猟、あるいは半農半猟生活を送る民族が独自の社会と文化を形成していた。現在の地域で言えば、モンゴルとその周辺、中国に属する東北地方、内モンゴル、新疆ウイグルがその舞台である。これらの民族を漢民族から見て北方民族(あるいは北方系民族)と言うが、世界史上でも一般的な言い方となっているようで、教科書でも「北方民族の活動」とか「北方民族の動向」というテーマで扱われることが多い。ところが、手近な高校生用用語事典、あるいは世界史事典には「北方民族」という項は立てられていない。意外とその範囲や概念にはブレがあるようだ。
中国では北方民族とは、万里の長城の北側で活動しているという意味で「塞外(さいがい)民族」という。しかし、実際には常に長城以南に侵入(彼らから見れば進出)し、華北をたびたび支配、元や清のように中国全土を支配した民族もあった。この北方民族と漢民族の対立軸は中国史を貫く対立軸となっている、と捉えられがちであるが、実際は常に対立していたわけではなく、交易において相互補完しあう関係であり、融和・融合の歴史でもあったことを忘れてはなるまい。
北方の主要な民族
北方民族を見ていく際、まず民族系統(語族)の違いを意識することが必要である。北方民族として活動した諸民族には、主として、モンゴル系・トルコ系・チベット系・ツングース系の違いがある。以下に世界史上で活躍した北方民族の主なものを挙げる。
※印を付けたチベット系はその活動範囲は中国の北部よりも西部というのが正しく、北方民族ではなく西方民族とするべきであるが、関係が深いのでここでは北方民族に含めた。
紀元前6~前3世紀
匈奴 前4世紀~後4世紀 モンゴル系とされるがトルコ系説もある。西方のスキタイに始まった騎馬と鉄器の技術が中央アジアに伝わり、匈奴も騎馬遊牧民として陰山山脈付近に建国。前3世紀には広大な遊牧国家を建設、君主は「単于」を称す。前3世紀末の冒頓単于は、漢の高祖の軍を破った。しかし漢の武帝の時代になると形勢は逆転し、次第に圧迫され、前60年、前48年頃と匈奴の分裂が続いた。
他に烏孫(トルコ系か)、月氏(イラン系またはトルコ系)があったが、匈奴に押されて西の中央アジアに移動した。
4~5世紀
五胡 魏晋南北朝時代の混乱の中で、北方民族は五胡といわれ、分裂した中国王朝の傭兵となることによって、華北に進出を開始した。五胡とは匈奴・羯・鮮卑・氐・羌をいう。彼らは混乱に乗じて、一時華北に五胡十六国といわれる国々を建設したが、いずれも短命であった。
柔然 5~6世紀、中国の魏晋南北朝の混乱期にモンゴル高原で台頭。その君主は「可汗」を称す。鮮卑の立てた北魏と抗争。6世紀に突厥に滅ぼされる。
北魏 拓跋氏が鮮卑を統一、さらに439年に五胡十六国の分裂を終わらせ、華北を統一した。しかし、北魏は漢化政策をとり、それに反発する武人勢力が反乱を起こして分裂し、衰退した。鮮卑は次第に北方民族としての性格を失った。
※吐谷渾 チベット系 4~9世紀、黄河上流の青海地方に興った。東西交易で繁栄したが、隋・唐に押され、分裂、西は唐に服属し、東は吐蕃に征服された。
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『「海国」日本の歴史 世界の海から見る日本』 著者・宮崎正勝。 原書房。
第二章 騎馬遊牧民の進出と東アジア海域世界の広域化
1 黙殺された大規模移住の時代
⦿史書は循環を重んじた
黄海海域は4世紀から6世紀に、『五胡』と呼ばれる騎馬遊民の『中原』占領により激変した。ユーラシア世界では、遊牧民が仕掛けた戦争、征服が社会変動の一大契機になっているが、東アジアもその例外ではなかった。漢帝国の長期にわたる崩壊過程のなかで起こった激動が、海域を含む東アジア世界への漢族の大規模な移住を生み出したのである。
『中原』から追い出された漢人の江南、朝鮮半島、黄海周辺への移住が、黄河を『民族の移住と交流の海』に変えた。世界史で大きく取り上げられる『ゲルマン民族の大移動』をはるかに上回る漢人の移住の波が黄河周辺に及び、玄海灘交易圏などの黄海、東シナ海のローカルな交易圏が相互に結ぶ付きを強めていくのだが、天命と易姓革命に基づき天下(世界)を描く中国の史書にはその意義をくみ取る視点がない。
世界史の視点で見ると、3世紀から5世紀は、騎馬遊牧民がヨーロッパ、西アジア、インド、東アジアを激変させた時代だった。つまり①ゲルマン民族大移動がローマ帝国西部をゲルマン社会に変え、476年に西ローマ帝国が滅亡、②5世紀から6世紀のエフタルの侵入により、西アジアのササン朝が弱体化し、インドのグプタ朝が滅亡、③『五胡』(北方の5つの騎馬遊牧民)の黄河中流域進出に伴う東アジア世界の混乱と拡張が、ほぼ同時に展開されているのである。
東アジアでは、五胡十六国時代(304~439)が約130年間続き、同地域から押し出された漢人が長江流域、朝鮮半島、黄海海域などに波状的に移住し、中華帝国のタガが一時的に外れた。そうした中で、日本列島の面貌も一新されていく。
⦿古墳に映し出された黄河世界の広域化
従来の日本史ではローカルな玄海灘交易圏の海域認識がそのまま引きずられてしまっているが、東アジアの海域史の分水嶺となる五胡十六国時代以降の変化が意識される必要がある。海域世界は、大変動を遂げるのである。
3世紀後半から7世紀前半に至る日本列島の古墳の変化は、隔靴搔痒(かっかそうよう)の感はあるものの大規模な移住による海域世界の変動を反映している。日本列島の古墳が大きく姿を変えるほど、変動が激しかったということである。この時期の倭国に関する中国側の文献がないため、『倭人世界』、倭国の状況は列島の古墳の変化から推測するしかなく、『古墳時代』と呼びならわされている。教科書などにも記されていて周知のことだが、簡単に記しておこう。
『漢人の大規模移住』以前の古墳時代前期(3世紀末から4世紀末)には、弥生期の伝統社会が依然として続いていた。副葬品も銅鏡、玉で、被葬者は、司祭者としての性格が強くもっていた。3世紀後半に造営された最古の前方後円墳は、卑弥呼の墓ともいわれる奈良県桜井市の箸墓古墳で直径は約278メートルである。
海域世界が激変した4世紀から5世紀には瀬戸内海航路の開発が進み、政治の中心が北九州から河内(現在の大阪府南東部)に移った。この時期には、同一規格の巨大な前方後円墳が多数造られる。奈良盆地の大和川沿いの巨大古墳は、直径200メートルから300メートルにも及ぶ。
4世紀には、遺跡からのウマの骨が増加する。『倭人伝』にはウマの記述がないため、ウマはこの時期に列島にもたらされたものと考えられている。4世紀後半の福岡市の老司(ろうじ)古墳からは、馬具の『轡(くつわ)』も出土する。騎馬技術の伝入の証しである。
5世紀、前方後円墳がさらに巨大化し、直径486メートル、高さ34メートルの大阪府堺市の大仙古墳も築造された。この古墳の完成には、延べ680万人の労働者が必要と計算され、1日に2,000人を動員しても15年8カ月の歳月が必要だったと推測されている。強力な権力の出現である。副葬品も祭器から鉄製武具、馬具などの武器に変わり、多数の馬形埴輪がつくられた。……」
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『世界史とつなげて学ぶ中国全史』 岡本隆司著 東洋経済新報社
「第二章 寒冷化の衝撃
気候変動により『民族大移動』が始まった
前章でみたとおり、ユーラシアの歴史は、乾燥地域と湿潤地域という二元世界のもたらすダイナミズム、とりわけ両者の境界地帯の動向が基軸になってきたプロセスでした。オリエント、インド、東アジアのそうした境界地帯それぞれが、ゆるやかに関連し合いながら文明を生み出し、紆余曲折を経ながら、2世紀末ごろから軌を一にして、平和な時代を迎えたのです。
ところが3世紀あたりから、大きな場面転換が起こってきました。気候変動により、地球の寒冷化が始まったのです。
図表2-1は北半球の気温偏差を表したグラフです。これをみると、3世紀あたりから寒冷化局面が顕著になり、その底を打って温暖化に転じるのが、9~10世紀ごろであることがわかります。
逆にいえば、3世紀までの地球は比較的、暖かったわけです。その初期条件の中で、第一章で延べたようなユーラシアの歴史が展開しました。ところが寒冷化すると、初期条件が変わることを意味します。生態とそれにもとづく生活も変更を迫られることは必然でしょう。要するに、今までどおりのやり方では、生きていけないということです。
具体的には、まず人間が寒さを感じるのは当然として、植物の生育も悪くなります。もともと植生が豊かな場所が若干悪くなる程度なら、影響はまだ小さいかもしれません。しかし、豊かでない場所がさらに悪くなれば、その植物に頼る動物たちが生存の危機に陥ります。
つまりは、暖かいところが寒くなるより、寒いところがさらに寒くなるほうが影響は大きい。それは即ち、南部の農耕地域より北部の遊牧地域により大きなダメージが加わることを意味します。たとえば草原なら草が生えてこなくなる、具体的に草原面積の縮小となって現れることでしょう。
そこで遊牧民は、生存のためにやむなく草原を求めて、南へ移動を開始します。これが4~5世紀のヨーロッパを中心に各地で大混乱をもたらした、いわゆる『民族大移動』の契機をなすものです。
寒冷化は、北半球のユーラシア全体を覆った現象です。そのため、タイムラグはあるものの、遊牧民の南下は各地で共通する行動パターンでした。たとえばカスピ海の北あたりの大草原を拠点にしていたフン族という遊牧民は、西方・南方へ大移動します。
その先にいたのが、狩猟採取生活を送っていたゲルマン人です。……
……
人口減少と強制労働の時代へ
以上のプロセスは、西洋史で克明にわかっていることです。では同じ時代、東アジアはどうだったのか。それを概観してみたいと思います。
乾燥地帯の遊牧民である匈奴は、かつて一大帝国を築いて漢王朝と対峙していましたが、やがてバラバラになり、一部は中国の中心地域・中原に移住していました。これも寒冷化の影響を受けたものかもしれません。匈奴のみならず、他のチベット系諸族も、生存のために同様の動きをしているからです。
先に述べたとおり、中国内部は都市国家の居住形態でした。人々は城壁の内側に住み、その外側に広がる耕作地帯で働く、というパターンです。しかし都市と都市の間には、かなりの隔たりがありました。膨大な土地が横たわっており、当然ながらそのすべてが耕作地だったわけではありません。匈奴などの遊牧民は、そうした空地(くうげきち)にテントなどを張って、生活していたわけです。『華為雑居』または『胡漢雑居』とでもいえばよいでしょうか、漢王朝の平和な時代から、文献にはこう表記が散見されるようになっています。つまり、中国内部に異なる種族・集団が少しずつ入り込んでいた。それは、ローマ帝国に多くのゲルマン人がいたことと同じと考えればいいでしょう。
かれらを放置するのは危険だという議論は、当時からあったようです。しかし打開策があるわけではありません。結局、そのまま黙認されて、最終的に統一王朝政権を破壊へと導くことになるのです。これもローマのケースと同じです。
東西の歴史がパラレルに進行したことは、けっして偶然ではないでしょう。両者はシルクロードでつながり、しかも寒冷化という同じインパクトを受け、生存の危機に直面していた似たような形になるのもうなずけると思います。
寒冷化は遊牧民のみならず、農耕民にも悪影響を及ぼします。農産物の生産量が低下し、多くの人を養えなくなるからです。したがって、それまでに飽和状態だった人口は、淘汰されていきます。当時の戦争も、人口を減らす一因にはなりましたが、それより気候や経済の影響で減った数のほうがはるかに多いと思います。
ちなみに、当時の政府の統計によれば、人口は以前の10分の1程度まで激減したとの記録もあります。さすがにこれは減りすぎで、おそらく政府が把握しきれなくなっていたということでしょう。
実は漢族の人口は、一桁(けた)まで把握されていました。当時の統計に、5,959万4,978人という数字があって、とても細かいですが、その体制が維持できなくなったのだと思います。……
……
パラレルな東西と中国史の転換
一方、西洋の歴史でも、ローマ帝国の末期から農業の担い手が代わります。それまではラティフンディウムと呼ばれる奴隷制が存在していました。奴隷は戦争の捕虜から供給されるので、平和な時代の到来とともに数が減りました。それと並行して、一般市民の間で、貧富の差も拡大してきます。土地を所有する貴族・有力者は、奴隷の代わりに没落農民を受け容れて小作人として雇うようになります。これを『コロヌス』といい、かれらによる農業形態を『コロナトゥス』といいます。かれらはローマ市民権を持ち、蓄財も許されていましたが、土地に縛られていたという点では、従来の奴隷と変わりません。これが、中世にかけてヨーロッパで一般的になる農奴制の始まりです。
こうしてみてくると、やはり東西の農耕世界では、同じ時期に似たような社会経済情勢だったことがわかるでしょう。東と西ははるかにつながっていると考えるべきです。
……
小国分立から北朝の時代へ
こうして小さな政治ブロックで集中的に経済を支えるという形態がうまれます。それは、地域の分裂をより鮮明にすることとなりました。それが4~5世紀の『五胡十六国』と呼ばれる時代で、……のように小国が分立していました。
……
……いずれにしても、こうした五胡は鮮卑(せんぴ)の北魏によって整理され、中原は一つにまとめられたのです。以後の華北・中原を支配した王朝を北朝といいます。
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江南の開発から南朝へ
一方、この北朝と対峙した南朝の生い立ちは、もう少し複雑です。長江流域の江南には東晋がありましたが、これはもともと晋という王朝でした。曹操が興した魏を引き継いだ政権です。
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ちなみにこのあたりの政権は、以後の南朝もそうですが、中国で初めて日本の交渉相手になった国でもあります。『呉』は日本語で『くれ』とも読みますが、それは呉が日本から見て日が暮れる西方にあるという意味でもあります。また『呉服』は、もともと中国から来た服という意味でした。
東晋は100年ほど継続した後、宋王朝に取って代わられ、さらに斉、梁、陳という王朝に政権交代します。この4つの王朝を総称して南朝と呼んでいるのです。
いずれの王朝も地元の住民を従え、長江流域の開発に努めるわけですが、その中心地は大きく二ヵ所ありました。
一つは呉の時代からの本拠地だった建康(けんこう)、今日の南京です。……
もう一ヵ所は長江の中流域にある江陵(こうりょう)ですが、こちらも同じく高地です。日本でいえば湾岸・河口の沖積平野の東京や大阪ではなく、山あい・盆地の京都や奈良のようなイメージでしょう。
そのあたりから、江南の開発がはじまりました。逆にいえば、河口デルタの低湿地を耕作・住地とすることは、当時の技術ではまだ不可能だったのです。
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小規模な勢力に分立した南北朝
つまり南北朝時代は、大きくみれば南北にそれぞれ地域ブロックができていたわけですが、その中でも北は東西に、南は長江の下流域と中流域とに分かれていました。……
他に呼称がないので『南北朝時代』と呼んでいますが、実態は『五胡十六国』の時代と同様、小規模な勢力が分立していました。それらのブロックがそれぞれに再開発を進めることで寒冷化を乗り越えていったわけです。
……」
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2021年9月18日 朝日新聞デジタル記事「日本人の「完成」は古墳時代だった? DNAを分析、ルーツに新説
石倉徹也
古墳人の男性の復顔像。群馬県渋川市の金井東裏遺跡で出土した頭蓋骨(ずがいこつ)から復元された=群馬県立歴史博物館提供
写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版
金沢市で見つかった約1500年前の古墳時代の人骨のDNA解析から、縄文人や弥生人にはなく、現代日本人に見られる東アジア人特有の遺伝的な特徴が見つかった。日本人のルーツは、土着の縄文人と大陸から渡来した弥生人の混血説が有力だが、さらに大陸からの渡来が進んだ古墳時代になって古墳人が登場したことで、現代につながる祖先集団が初めて誕生したことを示唆している。
金沢大や鳥取大などの国際研究チームが18日、米科学誌サイエンス・アドバンシズに発表する。
日本人の起源は、列島に住み着いていた縄文人に、大陸からの渡来集団が混血して弥生人となり、現代の日本人につながったとする「二重構造モデル」が定説とされてきた。1991年に東大名誉教授だった埴原和郎氏が唱えた。
研究チームは、約9千年前の縄文人や約1500年前の古墳人など計12体のDNAを解読。すでに解読済みの弥生人2体のデータなどと比較した。親から子に遺伝情報が受け継がれる際に生じるわずかな違いの痕跡から、どの集団が遺伝的に近いのかを調べた。
その結果、弥生人は、中国東北部の遼河流域など北東アジアで多く見られる遺伝的な特徴を持ち、縄文人と混血していることも確認できた。一方、古墳人は、弥生人が持っていない東アジア人に多く見られる特徴を持っていた。さらに、現代日本人と遺伝的な特徴がほぼ一致することも判明した。
大陸からの移住、新技術持って次々に?
大陸からの渡来人の大規模な移住は、約3千年前の弥生時代にさかのぼる。研究チームは、それ以降も漢民族などの集団が次々に渡来し、織物や土木などの新技術を伝えて古墳時代を築き、現代の日本人につながっていったとみている。
古墳時代は3世紀後半~7世紀にかけて続き、弥生時代末ごろには邪馬台国が栄えたとされる。
今回分析できた古墳人の骨は、金沢市で発掘された3体にとどまる。新説を裏付けるには、さらに分析数を増やす必要があるという。
研究チームの金沢大古代文明・文化資源学研究センターの覚張(がくはり)隆史助教(考古科学)は「日本人が縄文、弥生、古墳の三つの祖先集団からなることを示す初めての証拠だ。今後、ほかの古墳人や弥生人のゲノムを広く調べることで、日本人の起源の謎に迫っていきたい」と話している。
論文は以下のサイト(https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419別ウインドウで開きます)から読むことができる。(石倉徹也)
古墳時代とは――大和政権が支配し、各地に前方後円墳
縄文、弥生に続く3世紀後半~7世紀までの時代。農耕技術の発展や武器の普及などにより権力や富みが集中して階級社会が生まれ、大和地方を中心とする大和政権が成立。指導者たちを葬った巨大な前方後円墳が各地に造られ、武具や鏡などが副葬された。邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓との説もある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)や、世界文化遺産の大山古墳(伝仁徳天皇陵、堺市)も有名だ。
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3世紀~5世紀 地球の寒冷によって最も被害を被った中国の遊牧草原地帯で人々の移動が始まり、人の数は雪ダルマ式に大きくなり、人の集団は玉突きのようにユーラシア大陸の東西へと移動し、先住民を追い出ようにしながら民族大移動が起きた。
人口が激減した西ローマ帝国と中華の晋王朝は、兵士と労働者の人口を増やし総人口を回復させるべく異民族を積極に受けれた。
急増した異民族は、偏見と差別への不満から反乱を起こし、戦乱と虐殺で帝国・王朝を滅亡した。
晋王朝は419年に蛮族兵士によって、西ローマ帝国は476年にゲンルマン人傭兵によって、それぞれ滅ぼされた。
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古墳時代(3世紀中頃~6世紀末頃)は、弥生の大乱を生き延びた大小幾つかの諸王国が日本各地に群雄割拠し、ヤマト王権はその中の一つであった。
ヤマト王権は、大陸や半島の侵略から列島を守る為に統一事業に乗り出した。
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日本民族は乱婚を繰り返した混血の雑種民族である。
北方系西方系南方系石器人(ヤポネシア人)⇨縄文人(日本土人)+揚子江系山東半島沿岸系海洋民⇨弥生人+南満州系遊牧蛮族⇨古墳人⇨倭人・倭族⇨ヤマト人・大和民族⇨日本人・日本民族。
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混血の古墳人が誕生する事によって、縄文人の子孫である日本民族と琉球民族・アイヌ民族がハッキリと分かれた。
アイヌ民族が続縄文人から変化するのは、8世紀から10世紀のどこかである。
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古代日本は、世界と繋がり、世界の影響を受けていた。
日本は中国や朝鮮に感謝するところは少なく、むしろ中国や朝鮮に感謝する点が多々ある。
それは、日本列島に移住してきた)大陸人・半島人の大半が行き場をなくした敗北者、難民、亡命者、逃亡者などの弱者や敗者であったからである。
渡来人や帰化人は、大陸や半島から日本に逃げて来た人々である。
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草原遊牧民による民族大移動は、ヨーロッパでは黒海・カスピ海に住んでいたゲルマン民族諸部族の西方移動であり、東アジアではモンゴル・満州の草原に住んでいた遊牧蛮族の南方移動である。
ゲルマン民族諸部族は、西ローマ帝国を滅ぼしローマ市民を虐殺した上にゲンルマン諸王国を建国し、奴隷宗教であったキリスト教は一時廃れた。
遊牧蛮族は、漢族の晋王朝を滅ぼして王朝の一族郎党を皆殺しにし漢族を奴隷の身分に落として五胡十六国を建国し、漢族上位者思想の儒教は一時廃れた。
西ローマ帝国も晋王朝も、命の危険がある国防を任せていた蛮族の傭兵(ある意味、渡来人)の反乱で滅亡した。
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揚子江河口流域に住んでいた弱い漢人(多くが長江文明の子孫)は、北からの蛮族大移動=民族侵略に抵抗せず、逃げるように東アジア世界南部全般(山岳・半島沿岸・海洋)へと散らばり、その一部が台湾・琉球・南九州から日本に流れ着いた。
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漢族は漢王朝末期・三国時代・晋王朝までの大戦乱と飢餓・疫病で人口が激減して兵士と労働者が不足した、為政者達は人口を回復させるべく周辺の蛮族を大量に移住させ新漢民族を作った為に、殷周時代からの栄光ある古漢民族は少数民族に陥り社会の片隅に追いやられ細々と生きながらえてきた。
220年に後漢が滅亡して三国時代(~280年)に突入した。
儒教的男系父系家制度は、少数民族となった古漢民族が殷周時代からの貴い血筋を野蛮族系新漢民族の汚れた血から守る為に生まれた男尊女卑の差別的排他的制度である。
異民族による五胡十六国・南北朝の混乱は、589年に鮮卑族の楊堅が中華を統一したが、二代目の煬帝が604年に父親の楊堅を殺害して即位し扶余(ふよ)族の高句麗討伐と大運河建設で再び混乱に陥り、鮮卑族の李淵は618年に隋王朝を倒して唐王朝を建国した。
李淵の次男李世民は、626年に兄弟を殺して第2代皇帝太宗に即位して一時の平和を築き、貞観(じょうがん)の治を行ったが、高句麗討伐に失敗した。
後漢滅亡から始まった戦乱による大混乱は約400年続いた。
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邪馬台国と卑弥呼が書き記されている『魏志倭人伝』は、三国時代の魏の歴史書である。
弥生時代とは、紀元前5世紀から紀元後3世紀ごろの約800年間である。
邪馬台国は、所在はいまもって不明であるが、2世紀後半から3世紀前半にかけて日本のどこかにあったとされる王国である。
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日本も世界規模の歴史的民族大移動の影響を受け、満州南部に住んでいた蛮族の一部が東に移動して朝鮮半島に侵入し、さらに半島を南東へ逃げる漢人や半島人を追って日本列島に移住してきた。
日本土人の弥生人は、日本に移動してきた渡来人(蛮族・漢人・半島人)と乱婚を繰り返して混血の古墳人となった。
新しい日本土人=古墳人は、奈良・大和を中心とするヤマト王権を築き、王権の象徴性である前方後円墳と宗教祭祀を各地に広める事で勢力を拡大し、その勢力圏は朝鮮半島南部にも及んでいた。
これが、弥生時代と飛鳥・斑鳩時代の間に存在した古墳時代である。
倭人・倭族、大和民族・日本民族とは、古墳人の事である。
大陸の動乱を深刻に意識するヤマト王権は、倭国の大陸からの独立を守る為に日本統一に乗り出したが、武力統一は混乱と衰退をもたらし大陸の侵略を招くとして武力を温存する宗教文化統一に力を入れた。
そして、政治の中枢を大陸・半島に近い北九州から遠い河内・奈良へ移した。これが、神武東遷伝説である。
さらに、大陸からの悪影響を日本の外で食い止めるべく半島南部を間接支配して防衛線とした。これが、神功皇后の三韓征伐伝説である。
国内統一が、日本武尊の神話・物語である。
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ヤマト王権の、始まりは邪馬台国を大和とすれば3世紀前半以前、九州とすれば3世紀後半以後で、畿内から西日本までを統一したのが4世紀後半で、東北地方を除く東日本を征服したのは5世紀とされている。
飛鳥時代は、6世紀末から7世紀前半まで。
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日本人や日本民族は、江戸時代後期からボンヤリと認識され、ハッキリとした輪を持った存在として確立するのは明治の近代教育の普及によってである。
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日本国・日本民族・日本人を認識していたのは、南蛮貿易とキリスト教布教を行った戦国時代の西洋人であったが、彼らは日本人を人間ではなく奴隷か家畜・獣と見下していた。
彼らが人間とみなした日本人とは、改宗した日本人キリシタンのみであった。
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