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2023年5月11日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「待望の「鮮卑拓跋」本、登場! 中国史のカギを握る「忘れられた部族」とは? 騎馬遊牧民が中華文明を創った⁉
学術文庫&選書メチエ編集部
「三国志」に「秦の始皇帝」、チンギス・カンにラストエンペラー、さらに毛沢東の長征と文革。中国の歴史には多くのドラマがあり、英雄がいる。そんななかで、あえて「マイナーな部族」に光をあてた中国歴史本が注目されている。『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』(松下憲一著、講談社選書メチエ)だ。「〈鮮卑拓跋〉などという本が一般書レーベルで出るとは!」「これ、待ってたヤツだ」など、ネット上では刊行前から期待の声があがっている。しかし、「センピタクバツ」って、いったい何なのか――。
中国史の分水嶺、「大分裂時代」の主役
強大な漢王朝が滅んで魏・呉・蜀に分裂し、その三国の覇者・曹操の魏が晋に継承され、そして……、この辺から「なんだかわからなくなる」のが中国の歴史だ。この4~6世紀は、さまざまな「民族」や「王朝」が入り乱れ、中国史のまさに「難所」と言っていいだろう。「魏晋南北朝時代」とか「五胡十六国時代」といわれるこの時代に、主役を演じたのが「拓跋部」だ。
「拓跋部とは、中国を最初に支配した遊牧民です。中国の歴史は、漢族と北方遊牧民の対立と融合の歴史だといえますが、そのなかで、遊牧集団・鮮卑に属する部族の一つ、拓跋部は王朝・北魏を建てて北部中国を支配し、その後の〈中華〉の形成にも大きな影響を及ぼしたのです」と、『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』の著者で、愛知学院大学教授の松下憲一氏はいう。
〈中国の歴史は、[夏・殷・周]→春秋・戦国→[秦・漢]→ 魏晋南北朝→[隋・唐]→ 五代十国・宋と遼・金→[元・明・清]というように統一王朝時代([ ]で示した王朝)と分裂時代との繰り返しで展開してきた。それともう一つ、中国の歴史は、漢族と北方遊牧民との対立と融合の歴史でもある。中国王朝のなかには、夷狄(いてき)とか胡族(こぞく)と呼ばれる北方遊牧民が支配者となったいわゆる異民族王朝(征服王朝とか遊牧王朝とも呼ばれる)がある。〉(『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』p.10)
この「夷狄」と呼ばれた騎馬遊牧民の一団、拓跋部が、魏晋南北朝の分裂を制して新たな時代を拓いた、というのだ。
秦・漢という古代帝国と、当時世界一の栄華を誇った隋唐王朝に挟まれた魏晋南北朝時代については、これまでもさまざまな研究書や概説書が刊行されてきた。しかし、この大分裂時代は、どうにも複雑に入り組んでわかりにくいのである。
そこで、この時代を制した「拓跋部」を主人公にして、中国が隋唐王朝に統一されるまでを描いたのが新刊『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』だ。そこで見えてくるのは、漢民族だけでなく、野蛮とされた異民族が融合して「新しい中華」が生まれ、現代へと続いてきた中国の本当の姿だ。
鮮卑とは「アメリカ人」みたいなもの?
拓跋部は、世襲でリーダーを出す一族・拓跋氏を中心に、拓跋氏から分れた氏族や親戚筋が集まった部族だ。拓跋氏は高度な騎馬技術を生かした軍事力を誇り、4世紀初めに代(だい)という国を建て、さらに386年には代国の王・拓跋珪が王朝・北魏を建てる。そして北魏の太武帝が、439年に五胡十六国を平定し、中国の北半分を手中に入れるのである。
この北魏は130年余り続き、東西に分裂した後も、北周・隋・唐まで拓跋部の血脈や軍事力は影響力を保ち続けたという。近年ではこれらを一括して「拓跋国家」と呼ぶ研究者もいて、歴史教科書にも書かれるようになった。隋・唐といえば、典型的な「漢民族の中華王朝」をイメージする世代も多いだろうが、その認識は古くなりつつあるのだ。
中国・フフホト市の盛楽博物館前にたつ拓跋珪(道武帝)の像。松下憲一氏撮影
© 現代ビジネス
では、「鮮卑」とは何なのか。
鮮卑は、かつての教科書では「鮮卑族」とも表記され、「民族」のように思われがちだが、松下氏は、「鮮卑を民族ととらえるのは正しくない。さまざまな部族が集まった集団と考えたほうがいい」という。
〈鮮卑はモンゴル系ですか、トルコ系ですか、という質問を受けることがある。しかしこの質問に正確に答えることはできない。(中略)質問自体が成り立たないからである。鮮卑というのは騎馬遊牧民による政治的連合体の名称であって、そこに属する人々は言語や風習が違ってもみな鮮卑になる。〉(『中華を生んだ遊牧民』p.22)
〈匈奴・鮮卑・突厥・モンゴルというのは、支配集団の名称であると同時に、そこに所属するものを含めた集合体(国家)の名称でもある。そのため匈奴や鮮卑を称しているから、それらはみな同じ言語・風習をもった民族であると考えてはいけない。〉(同書p.22)
これは例えば、現在のアメリカ人が多様な民族・言語・宗教から成り立っており、「アメリカ民族はラテン系ですか? アフリカ系ですか?」などという問いが成り立たないのと似ているだろう。
以上が「鮮卑拓跋」の基礎知識だが、しかし近年ではさらに、「拓跋部はホントに鮮卑なのか?」ということが問題になりつつある、というのだ。
「いままでは拓跋部は鮮卑だっていうのは当たり前だったんですが、もともと鮮卑だったかは怪しくて、鮮卑のグループに入った方が部族にとって有利だから鮮卑を名乗り、伝説や系譜をあとから創作した可能性が高いと思います。中国の研究者には「もとは匈奴系じゃないか」という人もいますね」(松下氏)
いまも「誇るべき家柄」に
中国の北半分を手中に収めた北魏・拓跋部はその後、どうなったのか。
名君として知られるのが、471年に帝位についた孝文帝だ。孝文帝は、都をそれまでの平城(現・山西省大同)から南の洛陽に移し、朝廷での遊牧民の習俗(胡俗)を禁止した漢化政策をとった。洛陽の都市プランは隋唐の長安に受け継がれ、東アジアの都城のモデルとして、日本の平城京・平安京にも大きな影響を与えている。しかし、漢民族にすっかり同化してしまったわけではない。
〈遊牧民が中国に入って支配したとき、それまでの中華文明を否定し、破壊したわけではなかった。かといって、圧倒的な中華文明に飲み込まれてしまったわけでもない。遊牧民は中華文明のなかから必要なものを選択して受容した。と同時に、胡俗を持ち込んだ。ここに胡俗と漢俗の融合がうまれ、あらたな中華として再生される。その繰り返しが中国の歴史である。〉(『中華を生んだ遊牧民』p.230)
また、この時代には仏教も積極的に導入された。世界遺産として人気の雲崗石窟・龍門石窟は北魏時代に造営が始まった仏教遺跡だ。
中国・山西省の世界遺産、雲崗石窟。松下憲一氏撮影
© 現代ビジネス
そして、北魏が分裂した後の東魏・西魏はもちろん、北周を建国した宇文氏、隋の楊氏、唐の李氏も、その系譜は拓跋部にさかのぼる。
〈拓跋氏をはじめとする北魏建国に関わった北方遊牧民の子孫たちは、北魏以降、中国社会のなかに溶け込んでいき、漢人の知識人と同じように古典教養を身につけ、漢語を話し、漢文をつづり、漢服を着た。そのため鮮卑語や胡服はなくなった。その意味では漢化したのであるが、一方で、拓跋氏の子孫である、または北魏に参加した胡族の子孫であることに誇りを持っていた。〉(同書p.226-227)
その後も、拓跋氏の子孫であることや、北魏に参加した胡族の子孫であることは、「誇れる家柄」として中国社会に定着している。
現在、中国政府が認定する「少数民族」に「拓跋」は含まれないが、数年前には、「私の先祖は拓跋氏です」と言ってきた中国人留学生がいて、松下氏を驚かせたという。
「中国では司馬遷の子孫とか、諸葛亮の村とか、そういうお話はいっぱいあるので、本当にきちんと系図がたどれるのかわからないけれども、拓跋氏はいまも、そういう誇らしい一族とされているのです」(松下氏)
4000年も持続する〈中華文明〉の強さの秘密は、こうした衝突と融合の歴史にあるのだろう。
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三国志
『三国志』時代は人が死にすぎ 人口激減で漢民族は滅亡危機だった?
2022/09/13
被害者数の最小推定値は3600万人
被害者数は最小で3600万人、最大で4000万人です。
中国の人口を考えれば大したこたぁない、なんて思うでしょうか?
もちろんそんなことはありません。
三国時代の前、漢代の平和な時代において人口は確かに増え続けておりました。
漢代140年の時点で世帯数はおよそ970万、人口はおよそ5,000万人いたとされます。
それが280年の調査では、およそ250万世帯で人口1600万人にまで減少していたのだから驚かされます。
単純計算で、720万世帯、3,400万人が戦乱の中で消えてしまったんですね。
これは先ほどのWikipedia の最小値との差は200万人であり、比率にしておよそマイナス70パーセントという途方もない激減っぷりとなります。
全国の数値でこの調子です。
ゆえに曹操が漢詩で述べたように戦乱の激しい地域では「千里にわたって鶏の鳴く声もなく、生存者は百人に一人」という惨状も、決して大げさではなかったのかもしれません。
たしかに、戸籍確認の不備等があったのでは?というツッコミもありますが、その辺は後述するとして、ともかく先へ進めますね。
虐殺の定義は人数だけでは決まらないこともある
歴史上の虐殺数を見ていくと、ある傾向が見えてきます。
一例として、こういった国で起きた出来事が上位に入りやすい。
・中国
・ロシア
・フランス
中国の例を挙げ「中国人が残酷だからだ!」と民族性に結びつける本は、残念ながら見受けられます。
中国とソ連をあわせて、「共産主義は残酷だ!」とみなす論も、これまたよくあります。 ・ ・ ・
アジアンドラマの史実
北魏:拓跋鮮卑(たくばつせんぴ)の国とはどんなところ?
6 南北朝 2021.08.28
目次
北魏(ほくぎ)とはどんな国?
存在した時代
存在した場所
五胡十六国時代
南北朝
東魏と西魏に分裂、その後の国々
日本と北魏の関わり中国ドラマ「王女未央」に登場する魏の国は古代中国南北朝時代の国です。歴史上は北魏(ほくぎ)といいます。拓跋(たくばつ)氏が作った国です。
歴史上は魏という名前の国はいくつかありました。このときの魏は「北魏」とよばれています。
拓跋氏は「元」の漢風姓を使っていたので「元魏」と呼ばれることもあります。
晋(西晋)の滅亡から隋の統一まで、約400年の間。中国大陸には統一された国がなくいくつかの国に分かれていました。
その中で北魏は386年から534年の148年ほど、華北に存在した国です。
北魏はどんな国だったのか。北魏を治めていた拓跋(たくばつ)とは一族だったのか紹介します。
北魏(ほくぎ)とはどんな国?
存在した時代
北涼が存在したのは古代中国の五胡十六国から南北朝という時代。魏普南北朝ともいいます。
漢・三国時代の後。
隋・唐の前の時代です。
4世紀から6世紀になります。
このころの中国大陸は三国志の時代が終わり。三国時代を統一した晋も滅び小さな国がいくつもできて争っていました。
日本では古墳時代。正確な年代はわかりませんが、大和朝廷の勢力範囲を拡大した仁徳~雄略天皇の世代に近いようです。
朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が争っていた時代になります。
日本と北魏の関わり
日本で「魏」というと、ほとんどの人は三国志の「魏」を想像するでしょう。三国志の魏は「北魏(元魏)」とは違う「曹魏」です。
卑弥呼が使者を送った魏の国も「曹魏」です。
倭国(当時の日本列島の国)と北魏が直接交流なかったようです。
北魏は高句麗など朝鮮半島の国とは交流がありました。古代朝鮮の歴史書「三国史記」も北魏の記録を引用するという形で書かれています。
当時の中国大陸の国では、倭国は北朝よりも南朝を重視していたようです。
倭の五王が南朝側の宋に使者を送ってました。
倭国は高句麗や新羅と対立していた時期も多かったです。そのため陸路を使って北魏に行くことはできません。日本列島から直接北魏に行くのはかなり難しいのです。南朝なら船で行けます。それでも当時としては危険な旅だったでしょう。
北魏と日本が全く関係なかったかというとそうではありません。
日本は飛鳥時代には高句麗や百済から僧が来ました。朝鮮半島の国は北魏の影響を受けています。
日本にも法隆寺の仏像など北魏の影響の強いものがあります。高句麗・百済など朝鮮半島をとおして間接的に影響を受けているのですね。
もちろん日本にも南朝様式もあります。隋も文化的には北魏の影響を受けていたかもしれません。北魏だけが全てではありませんが、日本に仏教が伝来したのも北魏が仏教に力を入れていたからといえますね。
仏教だけではありません。国の制度も朝鮮半島の国々は北魏の影響を受けています。北魏の制度が朝鮮半島を経由して日本に伝わっているともいわれます。
奈良京の平城京は北魏の都・平城がモデルという説もあります。平安京の東半分(左京)は古い呼び方で洛陽城といいます。西半分(右京)は長安城(こちらは唐の都)。
北魏が平城から洛陽に遷都したのと関係ありそうですね。
その仏教を再興させ熱心だったのが「王女未央」に登場する拓跋濬(たくばつ しゅん)なのです。拓跋濬が仏教に熱心でなかったら日本への伝来はもっと送れていたかもしれません。
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山川出版社
北魏(ほくぎ)
Beiwei 386~534 後魏,元魏ともいう。鮮卑(せんぴ)の拓跋氏(たくばつし)が華北に建てた王朝。西晋の末,拓跋猗盧(いろ)が盛楽(内モンゴル)にいて代王に封じられ,什翼_(じゅうよくけん)のとき前秦の苻堅(ふけん)に敗れていったん政権が瓦解したが,苻堅が_水(ひすい)の戦いで敗れたのに乗じ,386年拓跋珪(けい)(道武帝)が再建して魏王と称した。396年帝位につき,翌年河北の後燕を滅ぼし,398年平城に都を定め,部族制を解散して,中国的専制国家を始めた。3代太武帝(たいぶてい)は夏,北燕,北涼を併せて華北を統一し(439年),また道教を信じて廃仏を行ったが,4代文成帝は仏教を復興して雲崗(うんこう)石窟を開いた。6代孝文帝は均田制,三長制をしいて帝権を強化し,494年洛陽に遷都し,胡服,胡語,胡姓を禁じて中国風に改め,鮮卑・漢人両貴族の家格を定めて通婚を奨励するなど,中国同化政策を進めた。しかし北辺の六鎮にいた北方民族は,この政策から取り残され,身分も低下したので,8代孝明帝のとき霊太后(れいたいこう)の失政に乗じ,523年反乱を起こした。そのなかから爾朱栄(じしゅえい)が洛陽を陥れて孝荘帝を立て,ついで部下の高歓(こうかん)が代わって孝武帝を立てたが,孝武帝は長安に脱出して宇文泰(うぶんたい)を頼ったので,高歓は孝静帝を擁して都を_(ぎょう)(河北)に移した(534年)。これより東魏と西魏に分かれるに至った。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「拓跋氏」の意味・わかりやすい解説
拓跋氏 たくばつし
北アジアの遊牧民、鮮卑(せんぴ)種中の一部族。3世紀なかば拓跋力微(りきび)のとき史書に姿を現し、盛楽(中国、内モンゴル自治区)に根拠を置いた。晋(しん)は永嘉(えいか)の乱に苦しむと、その援助を期待して拓跋猗盧(いろ)を310年、代公に封じて山西省北部の地を与え、315年には代王に封じた。代国はのち年号をたてて晋の冊封(さくほう)下より離れ一時国威を伸ばしたが、376年前秦(ぜんしん)に敗れていったん滅び、386年拓跋珪(けい)のもとで北魏(ほくぎ)王朝として復興した。その原住地は大興安嶺(だいこうあんれい)であったと考えられ、そこからは、北魏の太武帝が使者を派遣して祀(まつ)った鮮卑族の祖廟(そびょう)の石室が1980年に発見されている。なお、5世紀末の孝文帝の一連の改革の一環として、拓跋氏は元(げん)氏と改姓された。
[窪添慶文]
[参照項目] | 鮮卑 | 北魏
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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世界史の窓
拓跋氏
鮮卑の中の一部族集団。拓跋圭が出て、386年に北魏を建国した。
鮮卑のなかの慕容氏と並ぶ有力部族。鮮卑はトルコ系の北方民族と考えられるが、始めは匈奴に服属し、内モンゴル草原で遊牧生活を送っていた。幾つかの部族集団を作るようになり、拓跋氏(拓跋部という言い方もある)もその一つであった。3世紀の中ごろ、力微(りきび)という族長を中心に拓跋氏を中心とする部族連合国家を形成し、盛楽を本拠とするようになった。しかしその死後、部族国家は崩壊し、4世紀の初めにその孫の猗盧(いろ)が統合を回復し、中原が混乱するなか、晋の地方長官を援助した功績で、代王の爵位を得て現在の山西省代県の西を所領とした。しかし、漢人の知識人を重用したため部族長たちの不満があったためか、この国家も瓦解した。<川勝義雄『魏晋南北朝』1974 講談社学芸文庫版 p.343-346>
拓跋氏は、羯(匈奴系の北方民族)の石勒が建てた後趙が華北を制覇するとそれに服属したようで、その人質として鄴に捕らえられていた什翼犍(じゅうよくけん)が338年に許されて帰国し、代国王を継承すると、中国文明の影響を受けて官僚制度と法律の整備に努めた。しかし、氐の苻堅が建国した前秦が華北を統一すると、拓跋氏もそれに服し、代国は河東・河西に分割された。
拓跋珪(道武帝)
什翼犍の孫が最初の拓跋国家、北魏を建国した拓跋珪である。383年、淝水の戦いで苻堅の前秦が敗れたため、華北は再び分裂状態となると、彼は386年に諸部族に推されて代王の地位に戻り、さらに魏王と称した(実質的な北魏の建国)。拓跋珪はその後、トルコ系の北方民族高車や柔然を攻撃して、騎馬部隊を従属させたほか、農業生産力を高めることにも努めて国力を充実させ、中原進出の機会を探った。
北魏の華北統一
396年、後燕国の慕容垂が死んだことを受けて征服し、翌年中には黄河以北の華北をほぼ平定した。398年に国号を魏(北魏)として初代皇帝道武帝となった。さらに第三代太武帝が北燕、北涼、夏を併合して439年華北を統一を完成させた。
これによって五胡十六国の分裂を終わらせ、420年に江南に成立していた宋から始まる南朝に対して、北朝の始まりとされ、ここから南北朝時代とされる。
その後、拓跋氏一族は、北魏が東西に分裂しながらも続き、さらにそれを継承した隋と唐で政治的な支配層を形成したので、それらの国家を拓跋国家と言う場合もある。
拓跋国家
北魏はその後、東西に分裂していくが、拓跋氏の血統は支配層として続き、北周・隋・唐はいずれもその血統と姻戚関係を結んだ漢人貴族が政権を握った王朝であった。このような鮮卑の拓跋氏に代表される遊牧系の北方民族(漢民族からは胡人と言われた)と漢人が混血し、文化的にも融合していったのが、北魏以降の北朝と、そこから生まれた隋・唐王朝で会った。このような胡漢融合国家を成立させた、拓跋系の貴族が支えた体制を「拓跋国家」といっている。
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ウィキペディア
拓跋氏(たくばつし)は、中国北部からモンゴル高原にかけて勢力を有した鮮卑拓跋部の中心氏族であり、狭義的には拓跋鄰の直系であり、後に鮮卑を統一し中国において北魏を建国した家系である。北魏では第5代皇帝献文帝まで国姓であったが、孝文帝のときに元氏と改姓された。
沿革
もともと、鮮卑は匈奴の支配下にあったものが、独立して次第に匈奴を漠北に追いやって勢力を築き、部族の中から檀石槐がすべての部族をまとめて統治していた。しかし彼の死後、部族間で相争う中で鮮卑の一部族であった拓跋部が台頭し、その中心氏族である拓跋氏が華北を統一し、北魏を建国するに至った。
鮮卑の大人(部族長)の家系は一定せず、安定的な世襲がなされていたわけではなかった。しかし、後漢末から鮮卑の部族内で首長の地位は世襲されていくようになっていたという。ちなみに、拓跋氏は複数の家系からなり、有力な世襲家系が10姓存在し、百世を経ても通婚しないということを掟として、必ず他の部族との婚姻をする族外婚を原則としていたとされる。
拓跋氏が台頭するのは3世紀後半に鮮卑の大人として台頭した拓跋力微以降である。その孫の拓跋猗盧は、西晋に協力して匈奴の劉淵と戦った戦功により、大単于の称号を与えられて代公に封ぜられ、陰山地方に所領を得た。拓跋猗盧は万里の長城の内城地域にさらなる領土割譲を要求し、これに成功した。彼が子の拓跋六脩に殺害されると、拓跋猗盧の甥の拓跋鬱律が継いだ。
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拓跋部(たくばつぶ、拼音: Tuòbá bù)は、鮮卑族の一部族で、華北に北魏などの王朝を建てた。托跋部、索頭部、索虜などとも表記される。
西晋時代の北方遊牧民族の領域
概略
檀石槐の統一鮮卑が崩壊し、再び分裂した鮮卑族において台頭してきたのが拓跋部である。3世紀後半に拓跋力微が内蒙古地方のフフホト盆地に南下してきて、そこを根拠地とし、4世紀の初め、力微の孫の猗㐌と猗盧が西晋を援けて匈奴の劉淵と戦い、その功によって大単于・代公に封ぜられ、陰山地帯の鮮卑の統領にのし上がった。猗盧は并州刺史の劉琨に桑乾河の上流、句注山以北の土地の割譲を要求し、大同盆地を含む内長城地帯を領有した。このように、北アジアの騎馬民族が華北に領土的要求をしたのは拓跋部が最初であり、そうしたことで直接華北の中国人と政治的、軍事的、文化的に関係を持った。
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