🎍25〕─3・①─記紀神話における天孫降臨物語には2系統あった。~No76 

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 2024年3月6日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【古事記日本書紀が描く神話の世界】もうひとつの天孫降臨ニギハヤヒ神話の真相―
 槵觸神社にある四皇子峰は、神武天皇とその皇兄弟五瀬命稲飯命三毛入野命の4柱の降誕地で、神功皇后三韓征伐に際して、7日7夜の戦捷を祈願した場所であるとも伝わっている。
 天孫・ニニギがアマテラスに命じられて、高天原から筑紫の日向の襲の高千穂峰に天降ったとのお話は、よく知られるところである。しかし、実はそれ以前にも、河内において、ニギハヤヒなる天神の御子が降臨していたとも伝えられている。それがニニギの兄で、太陽神を示す「天照」の名を冠して呼ばれていたとも。それはいったい、何を意味しているのだろうか?
■ニニギとニギハヤヒ、2つの天孫降臨物語
 天孫降臨といえば、いうまでもなく天孫・ニニギがアマテラスあるいはタカミムスヒに命じられて、葦原の中津国を治めるべく地上に降りたったとされる物語である。高天原(たかまがはら)から筑紫(つくし)の日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峰に天降ったとされるものの、その出立の地、および降臨の地がどこであったのか、はたまた、降臨自体が何を意味するものだったのかも明確でなく、今日に至るまで、侃々諤々(かんかんがくがく)の激論が戦わされているのだ。
 その真意がどのようなものだったのかはともあれ、その後、コノハナノサクヤヒメとの間に生まれたヒコホホデミ(山幸彦)からウガヤフキアエズにかけての日向三代を経て神武天皇へと系統を繋いでいったとのお話も、多くの人の知るところだろう。
 ところが不思議なことに、このニニギの降臨とは別に、ニギハヤヒなる御仁の降臨物語も記録されている。それが記されているのは、『日本書紀神武天皇紀内であるが、そこでは、ニギハヤヒなる天神の御子が、天神の証ともいうべき天の羽羽矢(ははや)と歩靭を携えて、天岩船に乗って天降ったと伝えているのである。
 そのニギハヤヒに仕えるのが河内の豪族・ナガスネヒコで、神武天皇の東征物語の大和における対戦相手として知られた豪族の長であった。神武天皇軍に攻められて窮するものの、心が捻じ曲がったまま改心することもなかったとの理由で、主であるはずのニギハヤヒに殺されてしまったとか。
 その後ニギハヤヒは、ナガスネヒコの部下を率いて天皇に帰順。忠誠を誓ったことで、天皇がこれを寵愛したとも。それが、物部氏の先祖であると簡単に記したところで、話の幕を下ろしているのだ。その後のニギハヤヒの消息は、『記紀』共々、記すことはなかった。わずかに一言、付け足すかのように「物部氏の祖」だったと記しているのが気になるところである。
物部氏の存在をさらっと紹介したその理由とは?
 実は、この最後に記された「物部氏の祖」だったというのが問題である。なぜなら、それこそが、ヤマト王権に先行して、大和に物部王国があったことを物語っているからである。『記紀』の編纂者は、そのことには触れてほしくなかったものの、隠しきれないとでも思ったのか、一言だけさらりと言いのけて終了。それ以上の詮索はお断りとでも言わんばかりに、話題を変えたのである。
 ということで、これ以上の詳細は『記紀』から推し量ることはできそうもない。それを知るには、物部氏の動向を記した『先代旧事本紀』を頼る方が良さそうだ。
 同書でもニギハヤヒがアマテラスの孫であるというのは『記紀』同様であるが、降臨の様相が多少異なっている。天の磐船に乗って最初に降り立ったのが、河内の川上哮ヶ峯としている点である。さらに、その後大和の国鳥見白庭山に遷座したと続ける。配下であったナガスネヒコの妹を娶ったものの、ウマシマジが生まれる前に亡くなってしまったという辺りが、『記紀』の記述と大きく異なるところだろう。
 また、『日本書紀』では、ナガスネヒコを殺害したのはニギハヤヒとしているが、同書では、彼を殺したのは息子のウマシマジの方。神宝を神武天皇に献上したのも、当然のことながら、この息子であった。
 このウマシマジが率いていたのが物部氏で、天皇に帰順して以降、皇城守護の任に当たったというから、ここではニギハヤヒの息子であるウマシマジが、物部氏を率いて天皇に降ったということを明確に物語っているのだ。
 ちなみに、ナガスネヒコが討伐される前のことであるが、宇陀の穿邑(うがちむら)へとたどり着いた際、神武天皇に恭順の意を示した弟磯城(おとしき)にも注目したい。神武天皇が反抗する兄磯城(えしき)を討伐できたのは、この弟磯城のおかげだったからである。
 制圧に成功した神武天皇が、その後、弟磯城磯城県主に任じ、後の天皇家に多くの娘を皇妃として嫁がせたとも記しているが、実情は、もとより磯城に勢威を張っていた豪族だったというべきだろう。つまり、もともと物部氏が勢力を張っていた大和の地に、九州勢力であった天皇家が侵入。その際、この磯城に勢威を張っていた豪族の協力を得て制圧に成功したということになりそうだ。
■ニニギとニギハヤヒは兄弟だった?
 ところで、このニギハヤヒ、『日本書紀』によれば、「天神の御子」だったというが、その天神、つまりニギハヤヒの父とは、いったい誰のことなのだろうか?その名を知る手がかりも『先代旧事本紀』が記している。
 それによれば、ニギハヤヒとは、アメノホアカリと同一神であるという。アメノホアカリといえば、『日本書紀』にもその名が記されている。アマテラスとスサノオの誓約によって生まれたアメノホシミミの子である。前述のニニギもアメノホシミミの子であるから、二人は兄弟ということになるのだ(ニニギの子がアメノホアカリとの説も)。
 となると、大和に最初に降臨して一帯を制覇していたのが兄のアメノホアカリで、それを降したのが、弟(あるいは親)のニニギということになってしまいそう。それが事実だとすれば、さすがに、ニニギの系譜を受け継ぐと明言したヤマト王権としては、この事実をあからさまに語ることは憚れたはずである。となれば、さらっと物部氏の存在を匂わせるだけで、その出自に関してのお話は、全てスルーしてしまうのが一番とでも考えたのだろう。
ニギハヤヒも皇祖神だった?
 さらなる問題はここからである。『先代旧事本紀』に記されたニギハヤヒの名を略さずに記してみよう。その名は、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」である。「天火明(アメノホアカリ)」の名が潜り込んでいるのは、前述したように、ニギハヤヒアメノホアカリと同一神であることの証とも言えるだろう。
 注目すべきは、冒頭の「天照」である。皇祖神とされるアマテラスも、漢字で書けば「天照大神」である。「天照」とは、文字通り大空にあって照り輝く太陽のことであるのと同時に、それを神格化した太陽神を示す言葉と考えるべきだろう。
 となれば、ニギハヤヒは、アマテラスと同じような太陽神であったということになってしまうわけで、皇祖神としてアマテラスを崇め奉るヤマト王権としては、都合の悪いことだったに違いない。ニギハヤヒも実は皇祖神で、かつ太陽神であったことをあからさまに知られるのはマズイ。ならば、その痕跡を隠そうと、『記紀』は記述を、曖昧かつ歪めて記してしまったのではないか? と、そんな風に想像してしまうのである。
 藤井勝彦
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