🎍5〕─3・B─現代の歴史学者は「神武天皇」を無視している。~No.13 

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 2024年1月15日 YAHOO!JAPANニュース「日本史上の重要人物〈神武天皇〉を、歴史学者はなぜ無視してきたのか?
 『神武天皇歴史学』外池昇氏に聞く
 外池 昇成城大学教授
 政治的に「右」か、「左」か。そんなことにこだわる時代は、もう終わったのではないだろうか。日本の歴史における天皇という存在、そしてその「初代」とされる神武天皇についても、戦後歴史学が積み上げてきた成果と方法によって研究すべき課題がたくさん残っているのではないか――。講談社選書メチエの新刊『神武天皇歴史学』は、そうした思いを新たに抱かせてくれる意欲作だ。著者の外池昇氏に話を聞いた。
 そんなに毛嫌いしなくても…
――まず、最初にお聞きしたいのですが、神武天皇って、実在したのでしょうか。
 外池 それがいつも、まず聞かれることなんです(笑)。私の答えは、歴史上の他の人物と同様の意味では「いない」、ということになりますね。それはつまり、同時代の史料や考古学的資料で存在が確認できない、ということです。
 ただ注意したいのは、『古事記』と『日本書紀』に共通して初代天皇と位置付けられている。もちろん、記紀のある部分から向こうは歴史的事実として扱えないということは僕も賛成するんだけど、同じ本に事実と区別なく語られていて、それがかなり重要な要素になっている。おそらく、いろんな人物の事績や伝説をつなぎあわせて作られた人格だと思いますが、それとても何らかの歴史と考えられます。ですから、そんなに毛嫌いすることもないんじゃないかっていうところですね。
 幕末明治期の画家・月岡芳年が描いた神武天皇
――歴史学の対象としては、いままで避けられてきたのでしょうか。
 外池 戦前の天皇中心の「皇国史観」による日本古代史では、特に学校教育では神話も史実として扱っていたわけです。しかし、僕らの世代の歴史学は、当たり前のように戦中戦前の歴史観を否定した上に成り立っていたものだから、神話の時代は日本古代史の範疇には入らないですよね。だから戦後の歴史学ではこれまで、神武天皇神武天皇陵を中心に扱った研究は見当たらない。
 でも、神武天皇を否定した上に成り立った日本古代史でありながら、神武天皇をどう見るかという問題にまともに答えてこなかったのは、あまり褒められた態度ではなかったと思う。考古学上の発見や、新しい研究手法を受け入れて、それを妨げない範囲で『古事記』や『日本書紀』の歴史も受け入れていいんじゃないかと思いますね。
――しかし、実在が確認できない人物を歴史学で扱うというのは…
 外池 記紀に描かれた事績が、どんな史実を反映しているか、日向から大和まで東征の道のりを歩いて確認する…なんていうことも、時間があればやってみたいけれども、僕がやってきた研究はそうではなくて、おもに天皇陵、つまり天皇墓所の問題なのです。
 実在したかどうかわからないのに、墓所だけはある、というのが古代の天皇です。これは、宮内庁が「ここがそうだ」と決めている。有名なところでは、世界遺産仁徳天皇陵ですね。
 でも、こうした天皇陵の多くは、古代からそうと決められていたわけではありません。江戸時代から明治にかけて、当時の政治課題として取り組まれてきたのです。特に明治新政府は、全国規模で天皇・皇族の陵墓の洗い出しと認定作業を行っている。つまり、実在が確認できない古代の天皇が歴史的に重要な意味を持つのは、古代ではなく近代になってからなのです。
 なかでも特に神武天皇については、明治維新の際の「王政復古の大号令」にも、「諸事神武創業ノ始メニ原(もと)ツキ」とあるように、近代という時代が、その理念の中心に神武天皇をすえてきました。また、明治天皇の父の孝明天皇は、神武天皇陵にお参りすることで攘夷を実行しようと考え、神武天皇陵の認定と整備を急いだわけです。
 〈神武天皇陵については、しばしば次のような言い方がなされる。つまり、「非実在の(筈の)神武天皇に墓があるのはおかしいではないか」というようにである。しかし、歴史上確かに実在した人物の墓が不明という場合ももちろんあるし、(中略)実在しない人物でも実際には墓とされる所がある場合もある。しかしそれでも今日なお神武天皇の墓、つまり神武天皇陵が確かに存在すると聞けば、奇異の感を抱く向きも多いのではないだろうか。そのような神武天皇また神武天皇陵は現代社会の中で果たしてどのように存在しているのであろうか。〉(『神武天皇歴史学』p.20)
 日本歴史掛図の「神武天皇」。戦前の学校教育で用いられた。
 権力者は古いほうにさかのぼる
――しかしなぜ、幕末明治期に注目されたのが、神武天皇だったのでしょうか。
 外池 大化の改新天智天皇でも、建武の新政後醍醐天皇でもなく、実在が確認できなくても初代とされる神武天皇を選んでいるわけですよね。しかし、詳細に見ていくと、明治政府がいきなり神武天皇を出してきたのではなく、江戸時代からだんだん問題になっていることもわかってくる。孝明天皇も何もないところからぽんと言ったわけではなく、たとえば水戸藩徳川斉昭は、建白書でしきりに神武天皇陵に言及している。歴史上、いろんな政権が自分の正統性を示すために、どんどん古いものにさかのぼっていくということはよくあることなので、その文脈で見ればよくわかる。
 ただ、江戸中期の元禄年間に幕府が中心になって天皇陵の修築事業を行った「元禄の修陵」以前には、神武天皇はどの程度話題になっていたのか、あるいはあまり話題になっていなかったのか、それはこの本を書きながらも、実は疑問でした。この時、幕府が神武天皇陵と定めた「塚山」は、どうやら貴人の墓所ではあったことはわかるが、その後、神武天皇陵となって現在にいたる「神武田」というのはもともと何があった場所なのかも、どうもはっきりしないのです。
 また、中世から戦国時代の文献で神武天皇に言及されたものがどれくらいあるのか、おそらく江戸時代より少ないでしょう。日本の歴史を通してみたときに、神武天皇とはどんな存在だったのか、わからないことは多いのです。
――『神武天皇歴史学』では、神武天皇に関連して墓所以外の話題も扱っていますね。
 外池 この本では特に、墓所である神武天皇陵と、橿原神宮紀元節、の三つをテーマとしていますが、この柱から見えてくるのが、いずれも近代の大きな画期です。
 「文久の修陵」では孝明天皇が神武陵を定め、明治改暦の時(明治6年)には紀元節が制定され、そして、神武天皇を祀った橿原神宮の創建は明治23年(1890年)ですが、これはもちろん、国家神道など近代日本の宗教政策に大きく関わってきます。
 この橿原神宮の創建に尽力した奥野陣七は、非常に興味深い人物です。幕末には勤王運動の下役として奔走して挫折し、橿原神宮の参拝者招致に活躍して一攫千金をねらい、後に神宮と決裂して激しく確執を繰り広げる。まさに幕末明治期の激動を体現したような生涯を送ります。
 神武天皇銅像は各地に建てられている。写真は新潟市白山神社のもの。
 自分の「担当の時代」だけ見ていてもダメ
――もともと、天皇陵や神武天皇に関心があったのですか。
 外池 僕は成城大学の大学院に入ったんだけど、いわゆる歴史学科ではなく、常民文化専攻といって、民俗学もあって、歴史学もあって、というところでした。
 天皇にはもともと関心はあって、ある時、図書館で江戸時代の随筆の索引をまとめた本を見ていたら、天皇とか皇子とか皇女の項目の中に、清和天皇皇子の貞元親王(さだもとしんのう)の墓所の記述があった。その墓所は千葉の君津にある。なんでこんなところにと思ってみて他の本もいくと、明治に入るとこんどは三重県名張にもある。で、自分のほうが正しいと主張して、千葉と三重で言い合っている。
 なぜ明治時代になって、急にこんな争いが始まったかっていうと、このころ、明治政府が、皇子や皇女の伝承があったらそれを届けよとお触れを出している。届けがあれば、役人が出ていって調べて、根拠があれば指定する。それを全国でやったので、それで火がついた。で、君津も名張も、どっちも指定されなかったんだけど。
 この辺のことを論文に書いて学会誌に載せたら、私の指導教授――我妻建治先生という「神皇正統記」の研究などで著名な中世史家でした――がこれは陵墓(皇族の墓地)の問題だろう、続けてはどうか、と言われた。江戸と明治の陵墓政策の違いもあるし、地元の伝承と政府の政策の乖離という問題もある。だから僕にとっては、古墳・天皇陵っていうのは、最初から近代史のテーマなんですよ。
 〈ここでは(引用注:植村清二著『神武天皇』では)神武天皇の実在・非実在の問題は、「ただいくらか通俗的な興味をひくだけの問題に過ぎない」とされている。そしてそれにもかかわらず、神武天皇についての研究は、実在・非実在の問題を離れても価値があるものであり、しかも「紀元節や建国祭の復活から離れて、なお新しい研究の主題である価値を失わない」というのである。 この指摘は、長年月を経た今日なお新鮮である。そのことを私流に解釈してしまえば、まさに神武天皇の研究は自由でなくてはならないということである。〉(『神武天皇歴史学』p.15)
――そういう視点で研究する方は少なかったのでしょうか。
 外池 僕らの世代の研究者で近世史・近代史といえば、まあ、民権運動とか、地域経済史とかが多かったと思う。日の丸反対運動に参加しよう、とかね。でも僕の周囲ではそうでもなくて、自由にやらせてくれたんですね。
 結局、古代史だろうと中世史だろうと、歴史学の根本テーマのひとつは、「我々が生きている近代とはどういう時代か」ということにあって、自分の担当の時代だけ見ていればいいっていうわけではないでしょう。古代史の研究者も、自分たちの学問のことを考えていくと、明治のことも考えなきゃいけないだろうし、神武天皇を近代はどうとらえてきたか、ということと、それはたがいに関係しあうテーマなんじゃないでしょうか。
 ※関連記事〈初代天皇なのに、教科書に登場するのは「神武景気」だけ。この程度の知識で、ホントに良いのだろうか?〉〈神武天皇墓所は三ヵ所あった!? 幕末の混乱期、荒れ果てた「暴汚」「霊威」の地に決定した「ある事情」。〉も、ぜひお読みください。
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2019-11-27
🎌5〕─2─閉ざされた万世一系の祭祀王家・日本皇室(男系・女系の双系による直系長子相続)。~No.26No.27No.28 @ 
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 ヤマト王権の初代天皇である神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)こと神武天皇は神話上の架空ではなく史実に実在していた。
 ヤマト王権は数千年前の弥生時代古墳時代に成立し、ヤマト王家はその中で生まれ、現天皇家は正統な世襲として男系父系天皇として存在する。
 正当な非世襲の女系母系天皇は、現天皇家とは血の繋がらない別系統の新しい皇室を意味する。
 つまり、女系母系天皇問題とは、血の繋がった血統の天皇か血が繋がらないらない皇統の天皇かの選択である。
 女系母系天皇を選ぶという事は、新たな初代天皇を即位させる事である。
 初代神武天皇を消し去るとは、現天皇家である正統な世襲として男系父系天皇を廃絶する事を意味する。
 女系母系天皇即位賛成派のエセ保守とリベラル左派そして8割の国民世論の目的はそこにある。
 メディアと教育は、反宗教無神論と反天皇反民族反日を子供達に教える為に活動している。
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 現代日本人は、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力を持っていない為に、世襲と言っても現代の世襲と昔の世襲が違う事が理解できない。
 それは、自然に対しても愛国心皇国史観でも同様である。
 日本国や日本人の間から、急速に民族主義が消えつつある。
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