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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本書紀、720年成立。
古事記、712年成立。
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日本書紀とは、正史と言われるが、勝者・権力者が都合の良いように作ったウソが混じっているニセの歴史である。
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天皇と日本国の正統性の根拠は、誰も侵す事ができない天皇を中心とした民族の神話物語である。
それ故に、エセ保守とリベラル左派は天皇家の正統性を潰す為に民族の神話物語に基ずく日本書紀を非科学的ニセ物と否定している。
それが、戦後民主主義教育の流れをくむ現代の歴史教育である。
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ヤマト王権による日本統一は、東アジアの中華世界から見れば正しく、中華帝国と朝鮮諸王朝の侵略から日本を守る為に必要な事であった。
歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
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2023年10月26日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「「古事記」は日本人向け、「日本書紀」は海外向けの書物だった…ヤマト朝廷が日本神話を編んだ本当の理由
日本書紀神代巻上下(吉田本) 上巻より冒頭部分。紙本墨書、鎌倉時代・13世紀、京都国立博物館蔵。(図版=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
日本の神話を記した『古事記』『日本書紀』はどういう書物なのか。人気予備校講師の茂木誠さんは「白村江の戦いでの大敗した朝廷が、『唐からの独立』と『皇室の正統性』を示すために政治的な意図で書いた。このため海外向けの『日本書紀』は漢文、日本人向けの『古事記』は万葉仮名で書かれている」という――。
【写真】富雄丸山古墳で出土した盾形の銅鏡(2023年1月20日、奈良県橿原市)
※本稿は、茂木誠『「日本人とは何か」がわかる 日本思想史マトリックス』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
■日本建国神話における「2つの国譲り神話」
日本の神話は、『古事記』『日本書紀』をまとめた朝廷が皇室の祖先神とするアマテラス側の立場、つまり勝者の視点で書かれたものです。スサノオがひどい乱暴者として描かれるなど、恣意(しい)的な部分も感じます。一般的に歴史は勝者が書くもので、世界の神話でもそれは同じです。
むしろ日本神話はまだマシなほうでしょう。敗者の言い分もちゃんと書いていて、敗者のオオクニヌシの要望どおりに出雲大社を建造するところが日本神話のゆるいところです。これが大陸国家なら、攻め込んで、叩き潰して、おしまいです。
日本の神話には、実は二つの国譲り神話があります。
九州に降り立った天孫族(アマテラスの一族)が瀬戸内海を東進し、奈良盆地にあったヤマトの国に攻め込みます。天孫軍のリーダーがのちの神武天皇になるイワレビコです。これを迎え撃ったヤマトの王がニギハヤヒ(饒速日)です。ニギハヤヒは九州から天孫軍が攻め込んでくると、ヤマト防衛軍の指揮をナガスネヒコ(長髄彦)という武将に任せました。
このナガスネヒコ将軍が天孫軍に「お前たちはなぜ攻めてくるのだ?」と問うと、イワレビコが「我らは天孫だから」と答えます。すると、「いやいや、我らの王ニギハヤヒ様だって天孫だ」とナガスネヒコがいいます。「では、その証拠を出せ」とイワレビコ。
そこでナガスネヒコが見せたのは、天孫族の証拠である特殊な矢でした。さて、これを見たイワレビコは「ムムム、おぬしも天孫族か」とひるみます。
■「あなたも天孫か!」とあっさり降伏
ところが、ヤマトの王ニギハヤヒは「あなたも天孫か! 同胞ではないか!」とあっさり降伏して、ヤマトを譲ってしまいました。
最後まで徹底抗戦を続けたナガスネヒコは、主君のニギハヤヒが「止めよ」と命じても従わないので、斬られてしまいました。なんとも微妙な結末です。こうして勝者となったイワレビコが、橿原宮で初代天皇として即位しました。
最近、盾形の大きな鏡が発掘されて、話題になった富雄(とみお)丸山古墳(奈良市)。この「富雄」という名称ですが、調べてみると面白いことがわかりました。最後まで抵抗したナガスネヒコの名前は、「トミノナガスネヒコ」といいます。
つまり、「富雄」とはナガスネヒコの本拠地だったのです。弥生時代の人と推定されるナガスネヒコ本人の、一族の墓かもしれません。
■神話に記された「多民族国家」日本
敗北者ナガスネヒコの子孫は、実は日本各地に散っています。
神武天皇との戦いに敗れた後、東北地方に逃げ込んだのが、ナガスネヒコの弟ともいわれるアビヒコ(安日彦)だという伝承もあります。彼の末裔(まつえい)は東北で勢力を伸ばし、平安時代には岩手県を中心に半ば独立国家を築いた安倍氏として知られています。
安倍氏は平安後期に朝廷に逆らい、滅ぼされました(前九年の役)。この時に捕えられた安倍宗任(むねとう)という武将が京都まで連行され、九州に追放されました。その後、山口県に移った彼の子孫が、安倍晋三元首相の一族です。ですから、安倍一族の祖先はナガスネヒコということになります。二千年の時を超えて、政権を取り戻したわけです。
一方、前九年の役で敗れ、北方へ逃げた安倍氏の少年が津軽(青森県)で生き残り、やがて「安藤」と名前を変えます。この津軽安藤氏は、鎌倉時代から戦国時代にかけてこの地で勢力を誇った武士一族です。
当時の日本最大の港は九州の博多でしたが、それに匹敵する港が青森の十三湊(とさみなと)でした。安藤氏はその港を押さえ、今のロシア領ウラジオストクや樺太の先住民(女真族)とも日本海交易を行っていました。この地盤を蠣崎(かきざき)氏が引き継ぎ、江戸時代に松前藩となるわけですが、安藤氏も元をたどればナガスネヒコに行きつくのです。
東北や北海道の人たちには、縄文系のDNAが色濃く残っています。同じことは沖縄の人たちにもいえます。九州から瀬戸内、近畿地方は弥生系、大陸系のDNAが強く発現します。神話とDNAからわかるように、日本は多様なルーツを持つ多民族国家なのです。
■ルーツはバラバラ、遺伝子も多様
その意味で、古代日本はアメリカ合衆国とよく似ています。先住民も残っていれば、欧州やアジア、中南米から渡ってきた人たちもいる。アメリカはわずか250年であの広大な大陸を征服したため、先住民の殺戮もやっています。
しかし古代日本では、数百年かけて少しずつ渡来人が流入し、縄文人とも混血していきました。古代の日本にはいろんな顔の人がいて、価値観も多様だったはずです。「日本は島国で単一民族国家」ではないのです。
よく見れば、日本人ほど顔のバラエティが豊かな民族はいません。およそ人種によって「この顔は○○人」と見分けられるものですが、日本人は顔だけ見てもわかりません。それだけルーツがバラバラで、遺伝子が多様だということです。
■国民意識とは、我々がつくり出した幻想である
学校で地域の歴史をきちんと学ぶ機会がないことも問題です。北海道から沖縄まで教科書が一律であるため、古代史はヤマトの歴史ばかりが教えられます。
日本の歴史はそんな単純なものではないでしょう。ヤマト政権にとっての「日本統一」が、地方から見ればヤマトによる「侵略」かもしれません。教科書も都道府県ごとに違っていいと思うのです。
また、日本人とかアメリカ人とか、国民意識というものは、はじめから実態があるわけではなく、とくに近代化の過程において意図的につくられたものです。つまり、国民意識(ナショナリズム)とは我々がつくった幻想なのです。
では、地方国家のゆるやかな連合体が、一つにまとまるには何が必要だったでしょうか。それは、共通の敵です。サッカーにたとえるなら、普段は各クラブチームが競い合っていますが、ワールドカップになれば、日本代表「サムライブルー」として団結する。それと同じです。
日本列島各地の国々の共通の敵として現れたのが、中華帝国でした。強大な隋や唐が朝鮮半島にまで押し寄せ、今にも日本列島に触手を伸ばそうとしていたのです。
それが起きたのはいつか。中国が魏晋南北朝時代の混乱を経て統一され、隋や唐という強力な国家が出現したのは6世紀末以降です。隋や唐は朝鮮半島に侵攻し、今にも日本列島に攻め込む勢いでした。侵略の危機にさらされた日本列島は、いよいよ国家としてまとまらざるを得なくなりました。
もはや多様性を許容する余裕はなくなったというわけです。
■中華グローバリスト蘇我氏vs.ナショナリスト物部氏
6世紀前半、多神教のヤマトに大陸から仏教が伝えられました。巨石や大木、滝などの自然物を祀っていたアニミズム的な原始神道とは対照的に、外来の新しい神様は金箔(きんぱく)に覆われたきらびやかな仏像でした。
「すごい、こんな神様がいたんだ!」と当時の日本人は驚愕(きょうがく)します。仏教の教え自体に興味を示したというより、豪華絢爛(けんらん)な仏像に心を奪われたのです。その一方で、「これは本当に神なのか?」という疑いも生まれ、豪族間で争いが起こります。
外来文化の受容に積極的だったのが蘇我氏です。欽明天皇の13年目(西暦552年)、百済の聖明王(せいめいおう)が献上した仏像と仏教経典の受け入れをめぐって天皇が意見を求めました。この時、蘇我氏を率いる蘇我稲目(そがのいなめ)が、「西方諸国ではみなこれを崇めています。わが国だけが背くことはできません」と答えました。現代風に意訳すれば、「国際的孤立を避けるため、グローバルスタンダードを受け入れましょう」と言ったのです。
それに対して、「変なものを祀るな!」と異を唱えたのが物部(もののべ)氏と中臣(なかとみ)氏でした。
物部氏は神官兼国防大臣でした。物部は「もののふ」とも読みます。「もののふ」は侍のことで、天皇を護る軍事集団です。「国を護る」というと、現代では軍事力を指しますが、当時は「霊的に護る」、つまり祭祀(さいし)の意味もありました。
『先代(せんだい)旧事本紀(くじほんぎ)』という物部氏の伝承によれば、物部はもともとニギハヤヒを守る軍団でしたが、ニギハヤヒが神武天皇にヤマトを譲ったのを契機に、天皇家に仕えるようになりました。物部氏は、「異国の神を祀れば、わが国の神々の怒りを招きます」と猛反対します。「日本文化を破壊するグローバリズムに反対!」というわけです。
この時、日本で初めて、「ナショナリズム対グローバリズム」の対立が起こったのです。結局、欽明天皇は、蘇我氏が自分の屋敷に仏像を祀ることを許しました。
■疫病の流行を機に始まった権力闘争
ちょうどその時、疫病が流行りました。大勢やって来ていた渡来人が、大陸から感染症を持ち込んだのでしょう。
この疫病の原因を、物部氏は「古き神々の怒りだ」と主張し、蘇我氏は「仏罰だ」と反論しました。この崇仏論争(すうぶつろんそう)は、物部氏と蘇我氏との権力闘争に発展し、娘を天皇に嫁がせていた両者は皇位継承問題に介入します。
最終的に蘇我馬子が物部守屋を一族もろとも滅ぼし、物部氏側についた皇族も抹殺して終結しました。
■「敵」に学んで中央集権的な国家体制を整備
蘇我氏は、皇族を担いでは傀儡(かいらい)政権をつくり、政権へのコントロールが利かなくなると抹殺する。これを繰り返し、何人もの天皇や皇族を殺しています。
だから、聖徳太子は天皇になることを望まず、叔母の推古(すいこ)天皇を支えることで実権を握ろうとしました。ところが、49歳で急死してしまいます。
そのあと聖徳太子の長男である山背(やましろの)大兄王(おおえのおう)の一族を蘇我入鹿が攻撃し、自害に追い込むという事件を起こします。調子に乗った蘇我氏がついに大王や天皇の位を狙い始めると、中大兄皇子がクーデタを起こし、蘇我氏を滅ぼします。これが645年の乙巳(いっし)の変(へん)です。
このクーデタを助けたのが中臣鎌足(なかとみのかまたり)で、中臣氏は物部氏に仕えていた神官の家柄でした。つまり、乙巳の変は、物部勢力による蘇我氏に対するリベンジという側面もあったのです。
■白村江の戦いで唐に大敗
この直後、朝鮮半島に激震が走ります。隋の滅亡後に中国を統一した唐によって、百済が攻め滅ぼされてしまうのです。
ヤマトに亡命中だった百済の王子の要請に応える形で中大兄皇子(のちの天智天皇)が百済復興の援軍を送り、ついに中華帝国軍とヤマト軍が激突しました。これが663年の白村江(はくすきのえ)の戦いです。
結果は、ヤマト軍の大敗でした。唐からの戦後処理の遣いが、2000人もの兵士を引き連れて九州に上陸し、ヤマトに対して脅しをかけてきました。軍事力の差は歴然で、まともに戦っても勝てる相手ではありません。なんとか時間を稼ぎながら、唐に対抗できる強力な国家をつくるにはどうすればいいのか。それを考えたのが中大兄皇子改め天智天皇と、弟とされる天武天皇でした。
白村江の戦いのあと30年間、唐と国交を断絶したヤマトは「日本」=「日の昇る国」という国号を採用し、中央集権国家の実現を急ピッチで進めていきます。「唐に対抗するには、唐に学べ!」を合言葉に、官僚統制国家である唐の律令制に基づいた法体系や制度を取り入れた国づくりがスタートしました。
それまで「大王」と呼ばれていた君主の称号も、中華皇帝を意識して「天皇」と改められました。公地公民制を導入し、豪族の支配下にあった土地を天皇の所有としました。人民の数を把握したうえで土地を人民に分配し、徴税する仕組みをつくったのです。
また、唐の侵攻に備えて全国から徴兵した兵士を北九州に配備し、西の守りを固めました。これを「防人(さきもり)」と呼びます。こうして日本は、豪族連合政権の地方分権型国家から、天皇中心の中央集権型国家へと変貌を遂げていったのです。
この時の状況は明治維新に似ています。ペリーの黒船艦隊に遭遇して、「あれには到底勝てない」と衝撃を受けた日本人は、欧米諸国に追いつけ追い越せと西洋文明に学びました。敵に学んだのは明治維新が最初ではなく、そのルーツは白村江の戦いでの大敗にあったのです。
■「日本国とは何か?」という自問
唐と国交を断絶した30年間は、日本人が「日本国とは何か?」を自問する時期でもありました。なぜ、われわれは大唐帝国に抵抗するのか?
この時期にスタートした重大事業が『古事記』と『日本書紀』の編纂です。この二つの書物が書かれた目的は、一つは律令制導入による日本統一を記念した出版事業だったのでしょう。
しかし、もっと重要なのは、敵である唐に対して、「わが国は神武天皇以来、連綿と続く一つの皇統(こうとう)が治めている文明国であり、秦の始皇帝よりも古い建国の歴史を持つ国である」とアピールすることでした。これが『日本書紀』が、漢文で書かれている理由です。
もう一つ、この歴史観を日本人自身に教えるための書物が『古事記』でした。基本的に日本語で書かれていますが、まだ仮名文字が誕生する前なので、日本語の一音一音に漢字を当てた「万葉(まんよう)仮名(かな)」が使われています。
つまり、これら二つの書物は、「唐からの独立」と「皇室の正統性」という政治的な意図で書かれた文書であり、すべてが史実とはいえないのです。
■日本形ナショナリズムの始まり
特に話が盛られているのは古い時代の記述です。日本列島にもともとあったのは地方豪族による地方分権型の連合国家でした。しかし、唐からの侵略の危機にあって、「わが国は昔から一枚岩」と言わざるを得なくなった。
もし、「日本国は、実は小国家の連合体」と知られれば、ヤマト政権に不満を抱く地方豪族に外国勢力が加担し、内乱を引き起こさないとも限りません。実際、北九州の豪族が新羅と結んで反乱を起こしています(磐井(いわい)の乱)。ここに、日本型ナショナリズムの始まりを見ることができます。
『古事記』と『日本書紀』の編纂を指揮したのは皇族の舎人(とねり)親王(しんのう)ですが、この時代の最高実力者は、中臣鎌足の息子の不比等(ふひと)でした。鎌足は乙巳の変のあと、クーデタ成功のご褒美に天智天皇から「藤原」という新しい姓を賜ります。ただし、その時に鎌足はすでに臨終を迎えており、実際に「藤原」姓を名乗ったのは不比等からです。
蘇我氏に代表される国内の敵をすべて片づけた藤原氏が、次に外の敵に焦点を当てた事業が、日本の歴史をまとめることだったのです。
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茂木 誠(もぎ・まこと) 予備校講師
東京都出身。駿台予備学校、ネット配信のN予備校で大学入試世界史を担当。東京大学など国公立系の講座を主に担当。世界史の受験参考書のほかに、一般書として、『超日本史』(KADOKAWA)、『「戦争と平和」の世界史』(TAC出版)、『バトルマンガで歴史が超わかる本』(飛鳥新社)、『「保守」って何?』(祥伝社)、『グローバリストの近現代史』(共著、ビジネス社)『ジオ・ヒストリア』(笠間書院)、『政治思想マトリックス』『日本思想史マトリックス』(PHP研究所)ほか多数。YouTube「もぎせかチャンネル」でも発信中。
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親日派・知日派は、古朝鮮、百済、高句麗、古新羅、渤海。
反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮、大韓帝国。
韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
渡来人の中国人や朝鮮人には、皇室に対する畏れはなく、天皇や皇族を殺す事に罪悪感はなかった。
日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や嫌悪や差別はここから始まっている。
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663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張の熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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672年 壬申の乱。天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社)
生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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764年 藤原仲麻呂の乱。帰化人対渡来人の攻防。
親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備や坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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811(弘仁2)年 弘仁の新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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813年 第52代嵯峨天皇。新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河・遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済系帰化人・高句麗系帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。 賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
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834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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866(貞観8)年 山春永らの対馬侵攻計画。
肥前基肄郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)、藤津郡領葛津貞津、高来郡擬大領大刀主、彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人と共謀し、日本国の律令制式の弩の製法を漏らし、対馬を攻撃する計画が発覚したが未遂に終わった。
なお、この対馬襲撃計画に先立つ天安元年(857年)には、対馬島で島内の豪族が300人ほどの兵を率いて対馬守を襲撃する反乱が起きていた。
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869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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893(寛平5年) 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐、対馬を侵略。
894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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997(長徳3)年 南蛮の入寇。高麗人が、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。
898年と899年に、大規模な反天皇の武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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906年 延喜の新羅の賊。
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935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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1019年 刀伊の入寇。満州の騎馬民族・女真族による北九州侵略。
『韓国人に不都合な半島の歴史』 著者 拳骨たくみ「太宰府が4月16日に送った報告書が『朝野群載』(巻20)に記載されている。
その記述によると、彼らは畠を食いつくし、馬や牛、犬の肉まで食べたという。年寄りから子供らはみな惨殺され、壮年の男女400~500人は船に乗せられ拉致された。
……
高麗海軍による攻撃を受ける最中、賊たちは日本人捕虜たちを殺したり、す巻きにして海に投げ込んだりした。
高麗は日本人を救出し、300人余りが助かったと生存者の供述書に書かれているが、この時点で拉致された人々の80%近くが死亡していることがわかる。
……
一方の日本は、高麗に対して不信の念を強くしていた。
権大納言の藤原実資は、『賊は刀伊ということだが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐために自分たちを派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか』との見解を示した(『小右記』)。
この不信感には先述したように、かつて新羅による海賊行為がしばしば見受けられたことで、裏で高麗が糸をひいているのではないかと考えられたからに他ならない。
これらの事例からも、日本が韓国を古来から尊敬していたなどという話は、まったくの架空であることがわかるだろう。
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日本の朝廷は、中国同様に高麗との正式な国交を拒否した。
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ウィキペディア
刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、女真の一派とみられる集団を主体とした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に九州に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。
経緯
日本沿岸での海賊行為頻発
9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前、筑後、肥前、肥後、薩摩の九州沿岸である。
藤原隆家と九州武士団
藤原隆家は中関白家出身の公卿であり、眼病[注釈 3]治療のために大宰権帥を拝命して大宰府に出向していた。専門の武官ではなかったが、撃退の総指揮官として活躍したことで武名を挙げることとなった。
九州武士団および、東国から派遣された武士団のうち、討伐に活躍したと記録に見える主な者として、大蔵種材・光弘、藤原明範・助高・友近・致孝、平致行(致光?)、平為賢(為方・大掾為賢・伊佐為賢)・為忠(為宗)、財部弘近・弘延、紀重方、文屋恵光(忠光)、多治久明、源知、僧常覚らがいるが、寄せ集めに近いものであったといわれる。源知はのちの松浦党の先祖の1人とみられ、その地で賊を討って最終的に逃亡させる活躍をした。
なお、中世の大豪族菊池氏は藤原隆家の子孫と伝えているが、石井進は在地官人の大宰少弐藤原蔵規という人物が実は先祖だったろう、との見解を示している。
九州・東国武士団は鎮西平氏とも呼ばれ、このうち伊佐為賢(平為賢)が肥前国鹿島藤津荘に土着し肥前伊佐氏となった。薩摩平氏はその後裔と称している。
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一般社団法人日本戦略研究フォーラム
1300人拉致事件の顛末
―「刀伊の入寇」から学ぶ今日的教訓―
.顧問・元ベトナム・ベルギー国駐箚特命全権大使 坂場三男
日本史を勉強した人でも今から約1千年前、1019年に起こった「刀伊(とい)の入寇」を知らない人は多い。しかし、この出来事は日本史上で初めて発生した外国勢力(海賊ではあるが)による大規模な侵攻であり、日本人365人が殺害され、1300人近くが拉致されるという未曽有の大事件であった。
……
長らく続いた平和の中で、多くの公卿たちに「国を守る」という防衛意識が完全に欠落していたとしか思えない。今日、私たちが置かれている状況に照らすとき、何とも教訓に満ちた話ではないか。
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世界史の窓
「刀伊の入寇」
刀伊は筑前の国にも上陸し、北九州沿岸一帯を荒らした。太宰権帥であった藤原隆家(関白藤原道隆の子であったが、道長と対立し一時出雲に流されていた。この時は自ら望んで太宰府に赴任していた)は、地方豪族の武士団を率いて撃退することに成功した。刀伊の船は帰路、高麗の水軍によって壊滅させられ、連行された日本人捕虜200余名が救出された。
(引用)当時の日本では、刀伊が旧渤海の故地に住むツングース系の女真人であることを、だれも知らなかった。政府は、襲来が高麗と無関係であるのを知ったが、高麗への警戒をゆるめなかった。また高麗が、捕虜にされた日本人を送還してくれても、なんら報いることをしなかった。公卿たちは、事件の認識と処理において、まことに鈍感で冷淡であった。<大江一道『地域からの世界史18・日本』朝日新聞社 p.83>
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世界大百科事典内の刀伊の入寇の言及
【平安時代】より
…中国からは高級織物や書籍などが輸入され,日本の貴族の間に珍重されたが,とくに大量に輸入された宋銭は全国に流通し,商業・経済の発達に大きな役割を果たした。 こうして10世紀後半以降,おおむね平穏な対外関係を保っていた間に,突発的に起きたのが,1019年(寛仁3)の刀伊(とい)の入寇である。これは遼の支配下にあった女真族の一部族が壱岐・対馬を襲い,北九州にも上陸して寇掠した事件であるが,大宰権帥藤原隆家をはじめ,在地豪族の奮戦によって,短時日の間に撃退することができた。…
※「刀伊の入寇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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1093年 「海賊船」を拿捕し真珠、水銀、硫黄、法螺などの貨物を接収し宋人と日本人の乗員を奴隷にした、と記録している。これらはすべて日宋交易における日本産の有力な交易物なので「海賊船」として拿捕したというのは単なる口実だとも考えられる。
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文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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虐殺から生き残った対馬・壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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1405年~1433年 明の永楽帝。イスラム教徒で宦官の鄭和は、大艦隊を率いて南海遠征を行い、相手が弱いと見れば侵略して財宝を強奪した。
世界の常識では、船団は海賊行為をおこない、敵対国の商船を襲撃していた。
明国大艦隊は、目の前の日本を無視して東南アジア・中東に向かった。
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1419年 応永の外寇。世宗大王・李氏朝鮮軍による対馬侵略。
朝鮮軍、227隻、1万7,285人。
島民114人を虐殺し、民家1,939戸を焼いた。
対馬守護代の宗貞盛は700騎を率いて反撃し、朝鮮軍2,500人(一説では3,700人)を撃ち取り、日本側の戦死者は123人であった。。
朝鮮軍は、台風を恐れて全軍撤退し、事実上の敗走であった。
日本武士団700騎 vs. 朝鮮軍1万7,285人。
日本の大勝利。
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ウィキペディア
応永の外寇(おうえいのがいこう)は、室町時代の応永26年(1419年)に起きた李氏朝鮮による対馬への侵攻を指す。糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征(朝: 기해동정)と言われる。
当時足利義持(室町幕府の将軍)が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている。 朝鮮軍は227隻の船に1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、宗貞盛の抵抗により、朴弘信、朴茂陽、金該、金熹ら4人の将校が戦死し、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死し、朝鮮軍は動揺して逃走したが船に火を掛けられて大敗を喫した。朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほど戦果は不充分であったが結局実現しなかった。この外征以降、宗貞盛に日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされた。その後、宗貞盛は李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮への通交権は宗氏にほぼ独占されるようになった。
対馬再征計画
7月9日(7月31日)に、対馬へ向けて出港し再攻撃することが提案されたが、兵の士気がすでに落ち、船の装備が破損し、風も強くなっていたことから得策ではないとして、台風が静まることを待ってから軍隊を整えて再遠征しても遅くはないとしたが、結局実現はしなかった
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凡人は歴史に学ぶ
応永の外寇
室町幕府の3代将軍・足利義満は甚だしく公家化しましたが、その子の4代将軍・義持は、わずか9歳で後を継いだものの、長じて将軍として活動するようになると、父とは反対のことをしました。義満が生前に望んでいた「太上法皇」の尊号が、朝廷からわざわざ下されたとき、義持はそれを辞退し、義満夫人の葬式も簡素に行い、義満の自慢だった政務中枢の北山第も、鹿苑寺(金閣)を除いてすべて取り壊しました。
また、義満が開始した明との貿易も、義持は日本にとって屈辱外交だと考え、冊封関係を否定。そのため、1411年(応永18年)にやって来た明の使者を兵庫の港から帰してしまい、入洛させなかったのです。武家の原理に戻ろうとした義持は、父の外交政策も根本的に否定し、保守的・国粋的に徹しようとしたのです。また、勢力を盛り返そうとする守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回り、比較的安定した政権を築き上げました。
そして1419年(応永26年)6月、「応永の外寇」なる事件が勃発します。朝鮮の将軍・柳廷顕(りゅうていけん)、李従茂(りじゅうも)らが、蒙古兵とともに(蒙古兵は誤認とする説が強い)、兵船1300余艘を率いて対馬に襲来したのです。九州と対馬の諸豪族たちとの間で壮絶な戦闘となりましたが、最後は日本軍が大勝利し、その後、朝鮮は日本襲撃を断念します。
この知らせを受けて驚愕したのが幕府です。日明関係がよろしくなかった時ですから、すわっ、元寇の再来かと思い慌てふためきました。義持も石清水八幡宮に参籠して無事を祈願しました。このとき、風もないのに八幡若宮の鳥居が倒れ、義持を仰天させたといいます。
しかし、実際のところは、元寇のような大層なものではありませんでした。朝鮮の太宗が、当時の倭寇による掠奪の激しさに閉口し、倭寇の本拠地と思われる対馬を攻撃したのであって、元寇のときのように日本を征服しようなどという意図は全くなかったのです。
しかし、そんなことは九州の武士にも足利将軍にも分かりません。明も預かり知らないことですから、事件の2、3週間後に国交を求めて使者を送ってきました。幕府は「ひとの国に攻撃をしかけながら、何という図々しさか」と怒り、明とは国交を断絶する旨を伝え、返事の国書を与えて帰国させたのです。その内容の一部は、次のようなものです。
「明国の使臣が両国往来の利をしきりに説いているのに、義持がこれに応じないのは、先君義満が病に倒れた時に占ったところ、諸神の祟りであるのが明らかになったからだ。わが国は古来、外国に向かって臣と称したことはないのに、義満は暦と印を受けた。わが過ちを認めた義満は、死に臨んで永く外国との通交を絶つことを誓った。自分は神明の意にしたがい、先君の命を奉ずるのみである。昔、元兵100万が攻め寄せてきたが、神兵の援けによりこれを海の藻屑とした。今わが態度を怒り、攻め寄せるなら、迎え撃って戦わん」
この返書をもらった明帝は、「いったい何のことやら」とずいぶん怪訝に思ったのではないでしょうか。
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1428年 世宗大王は、日本からコメ作りや水車の製造など多くの事を学んだ。
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後期倭寇は、対馬・壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人・南蛮人であった。
日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
後期倭寇は中世のバイキングに似たところがあった。
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豊臣秀吉の朝鮮出兵・唐入り。
1792年文禄の役、1797年~98年慶長の役。
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歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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2023年7月7日 YAHOO!JAPANニュース Book Bang「近寄りすぎても、離れすぎてもいけない――「難しい隣国」の来歴を描く『朝鮮半島の歴史 政争と外患の六百年』の読みどころ(レビュー)
韓国の歴史といえば、「日韓併合」と「朝鮮戦争」ばかりが注目され、近代以前の歴史はあまり知られていない。その空白を埋めるべく、新城道彦さんが『朝鮮半島の歴史――政争と外患の六百年』(新潮選書)を上梓した。本書の読みどころを、慶應義塾大学名誉教授の小此木政夫さんが紹介する。
小此木政夫・評「朝鮮独特の「政治の磁場」」
我々が隣接する朝鮮半島は政治的には「不毛の地」である。域内的にも国際的にも、調和や安定を欠いている。それは何をきっかけに、いつ発火するかわからない。歴史的にも、「近寄りすぎても不可、離れすぎても不可」という独特の「政治の磁場」であった。本書は我々にそのことの再確認を迫っている。
本書の著者は、六百年に及ぶ朝鮮半島の歴史を「政争」と「外患」の観点から俯瞰したうえで、それを日本による韓国併合や第二次世界大戦後の独立と分断の現代史と結び付けて解釈した。朝鮮王朝の「目をそむけたくなる歴史」を直視したうえで、「朝鮮半島が分断している現状はもちろん異例であるが、それと同時に、七〇年以上にわたって〈独立〉を維持していることもまた異例」だと指摘する。王朝史を俯瞰してこそ見えるものがあるようだ。
ところで、評者はかつて戦後の朝鮮分断を「独立と統一の非両立性ないし相克」と定義したことがある。それは「独立を達成しようとすれば統一が不可能になり、統一を実現しようとすれば戦争が不可避になるという不都合な状態」に着目するものであった(『朝鮮分断の起源』、慶應義塾大学出版会、二〇一八年)。しかし、著者はむしろ二つに分断された韓国と北朝鮮が、それぞれ長期にわたって独立を維持していることに注目した。朝鮮史においては、それこそ例外的だというのである。「分断による抑止」とか「分断による平和」という言葉が頭に浮かぶ。
一三九二年に太祖(李成桂)が始めた朝鮮王朝が最初に滅亡の危機に瀕したのは、豊臣秀吉の軍勢が朝鮮に侵攻したとき、すなわち十六世紀末の文禄・慶長の役による。首都である漢城は開戦から二十日間で陥落した。朝鮮が滅亡しなかったのは、明が参戦して日本の軍勢を押し返したからである。しかし、その明が疲弊し、日本が鎖国に向かうなかで、再び朝鮮半島の勢力均衡が失われた。一六三七年、朝鮮は清の皇帝に即位したホンタイジに攻め込まれ、四十日余りの籠城の後に降伏して服属を誓った。
他方、その間にも朝鮮国内では「党争」が激しく、それが国難への合理的な対処を妨げた。それに対抗するために、国王の側も英祖・正祖の代には「蕩平策」(特定の党派への過度の依存を避け、勢力均衡を図る政策)を採用した。しかし、それに行き詰ると純祖の代には寵臣や外戚の専横を許す「勢道政治」が始まった。王朝政治のためにさまざまな政治技術が開発されたが、党争を収束できなかったのである。政治腐敗と自然災害で民衆の生活は困窮し、民乱が頻発した。
さらに、やがて宗主国である清自身がアヘン戦争、アロー戦争、太平天国の乱など、内憂外患の深刻な状態に陥った。自らが西欧列強に領土を侵食されるなかで、清は富国強兵を進める日本を警戒して朝鮮への干渉を強めた。朝鮮の独立をめぐる日清の対立が深刻化したのである。さらに、日清戦争に勝利した日本が内政改革を通じて朝鮮政治への干渉を拡大すると、朝鮮はロシアに接近した。その先に待ち構えていたのが日露戦争と韓国併合であった。
ところで、著者は朝鮮王朝がすでに破綻の危機にあったことを前提にすれば、日本は「なぜ」自国の負担になりかねない国を併合したのかという興味深い問いを発し、伊藤博文と山県有朋が異なるアプローチを採ったことを紹介している。ちなみに、著者は『天皇の韓国併合』という研究書をまとめた専門家である。
伊藤は韓国併合に反対であった。併合のコストが大きすぎたからである。日本が大韓帝国を統治して、その破綻に瀕した国家財政を引き受けるよりも、むしろ韓国を保護国として内政を改革させ、経済を振興して自国を防衛させることが重要であると考えた。将来的には、そのような韓国と同盟して、日本の安全を図るという戦略方針を描いていたのである。そのために、伊藤は韓国の宮中改革に着手し、次代の皇帝と目される皇太子の李垠を東京に留学させた。長期的な計画であった。
しかし、一九〇九年十月にハルビン駅頭で伊藤が安重根に暗殺されると状況は一変した。伊藤に代わって最高実力者となった山県有朋やその下にあった寺内正毅陸軍大臣などの陸軍閥は、統治コストを顧みることなく、韓国併合に突き進んだのである。それは思慮不足に由来する「小さな失敗」にすぎなかったかもしれないが、満洲事変にまで繋がる後戻りのできない「大きな失敗」の出発点でもあった。大英帝国がヨーロッパ大陸との間の数百年の経験を経て「栄光ある孤立」を維持したことから学ぶべきであった。
このように、本書は朝鮮王朝史を俯瞰し、朝鮮半島の独特の「政治の磁場」を浮き彫りにすると同時に、日本外交の在り方をも考えさせる内容になっている。
[レビュアー]小此木政夫(慶應義塾大学名誉教授)
おこのぎ・まさお
新潮社 波 2023年7月号 掲載
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日本人、中国人、朝鮮人を薪に例えれば、日本民族日本人は燃え辛い悪質な生乾き薪で、漢族系中国人は燃えやすい良質な本乾き薪で、半島人は発火寸前の最優良な薪であった。
その違いは、戦争や災害が起きた時に被災地で暴動・騒乱、強奪・略奪、殺人・暴行、強姦が起きるかどうかである。
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歴史的事実として、漢族系中国人や半島人は反日敵日侮日で親日知日ではなかった。
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