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平安京は、都大路から一歩裏道に入ると、犯罪者が横行する不穏な世界であり、怨霊や物の怪などの魑魅魍魎が跋扈する怪しげな世界であった。
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2024年11月12日 YAHOO!JAPANニュース 草の実堂「【平安の闇に潜む凶悪犯罪】身ぐるみ剥がされた女房たち、野犬に屠られた皇女
【平安の闇に潜む凶悪犯罪】身ぐるみ剥がされた女房たち、野犬に屠られた皇女
平安時代といえば、現在放映中のNHK大河ドラマ「光る君へ」に登場する、雅やかな貴族のイメージを思い浮かべる人も多いでしょう。
一見優雅にみえる平安時代ですが、実際の平安時代は決して穏やかな時代ではありませんでした。貴族から庶民まであらゆる階層で、強盗、略奪、殺人、放火など血生臭い事件が頻発していたのです。
今回は、内裏に侵入した強盗に身ぐるみ剥がされた女性たちの事件と、街中で殺されて遺体を野犬に屠られた皇女の事件を紹介します。
画像 : 『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使 wikic public domain
内裏に入った強盗たち
画像 : 平安京内裏図 wiki c Stca74
「光る君へ」の37話「波紋」でも描かれていた強盗事件。
夜、内裏に正体不明の強盗が押し入り、女房二人の衣装を剥ぎ取り逃げていったという事件です。
突然起こったこの恐ろしい事件の顛末は、紫式部が日記に書き記しています。
ときは、寛弘5年(1008)の大晦日。
強盗が侵入したのは、藤原道長の長女・藤原彰子の住む内裏「藤壺」(上図を参照)でした。
画像 : 藤原彰子 紫式部日記絵巻断簡(東京国立博物館蔵)wiki c public domain
夜中に突然響いた女性たちの叫び声や泣き声に気づき、紫式部が彰子の部屋へ駆けつけました。
するとそこには、彰子に仕える二人の女房が、着物をすべて剥ぎ取られ、裸で震えながらうずくまっている姿がありました。
当時、貴族の屋敷や宮中に強盗が入り込むことは珍しくなく、金銭、着物、絹織物、弓などがしばしば盗まれていました。
この事件に関しても、女房たちの着物が高価だったことから、強奪を目的に狙われたと推測されました。しかし奇妙なことに、強盗は彼女たちの着ていた着物は剥ぎ取ったものの、元旦用の装束には手を付けずに立ち去ったのです。
本当に、着物の強奪だけが目的だったのか、謎が残ります。
強盗は「宮中に出入りできる身分の人間」ということになったそうですが、結局捕縛されることもないまま、事件の究明は終わってしまったそうです。
殺されて遺体が野犬に食べられた天皇の娘
画像 : 花山天皇が出家を決め供の者に見守られながら、花山寺に向かう途中に木陰で月下の都を見返す姿 月岡芳年 public domain
平安時代の貴族・藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』には、万寿元年(1024)の12月ごろ、花山法皇の娘が殺された事件が記されています。
花山法皇の「女好き」は有名で、天皇時代には多くの女御(天皇の後宮の職名の一つ。天皇の寝所に侍す)がいました。
なかでも、ことのほか寵愛したのは藤原忯子(よしこ)でしたが、忯子は花山天皇の子を宿したまま、わずか17歳で帰らぬ人となってしまったのです。
その後、悲しみのあまり若くして出家をした花山天皇は法皇となり、一時は修行に励む日々をおくっていました。
ところがその後、禁欲的な生活の反動なのか、忯子の妹の家に通ったり、中務(なかつかさ)・平平子(たいらのひらこ)という母娘を同時に寵愛するという、破天荒な恋愛を繰り返すようになったのです。
さらに母娘は、ほぼ同じ時期に法皇の子を身ごもり、出産までしています。
その二人の皇女のうち妹(平平子の娘)は、世間体が悪いという理由からか里子に出され、藤原彰子の女房として出仕することになったそうです。
犯罪の黒幕は、素行の悪い貴族か
画像 : 着物の袖を上げて大きく口を開けた獣を避けている貴族 月岡芳年 public domain
『小右記』によると、その皇女は「夜中に路上で殺害されていたうえ、街中を徘徊していた野良犬に遺体が食べられていた」と伝えられています。
一説によると、彰子の邸宅に押し入った強盗が、この皇女に犯行を目撃されたため殺害し、路上に遺体を放置したという話もあります。
発見されたときに残っていたのは、皇女の長い黒髪と頭部、着物だけだったとか。
皇女は、誰に襲われ殺されたのか。なぜ深夜の路上に遺体を放置されたのか。盗賊が襲ったとしたら金目のものであった着物をなぜ残していったのか。などのさまざまな謎が残っています。
この事件は朝廷の公家たちを震撼させ、検非違使(日本の律令制下の令外官の役人で、不法・違法などを検察する天皇直属機関)が捜査にあたりました。
画像 : 知恩院を警護する検非違使 wikic public domain
そして、この痛ましい事件が起こった翌年の万寿2年(1025)、隆範(りゅうはん)という僧侶が逮捕され、ほぼ同時期に別の男が「自分が首謀者だ」と自首をしてきたので、その二人の男が犯人ということになりました。
ところが隆範は、検非違使による尋問で「この事件の黒幕は、皇女に熱を上げていた、左近衛中将・藤原道雅だ」と自白したそうです。
左京大夫・藤原道雅 public domain
しかし、その後の記録は残っておらず、どのような形でこの事件が決着したのかは定かではありません。
道雅は、この事件の影響によるものか理由が明確にされないまま、右京権太夫に左遷されています。
ちなみに道雅は、花山法皇の皇女殺害の黒幕説だけではなく、敦明親王の雑色長・小野為明を凌辱して重傷を負わせたり、博打場での乱行など悪行が絶えなかったために、「世上荒三位、悪三位」などと呼ばれていたそうです。
生活困窮した民から貴族まで、犯罪に走る
画像 : 平安時代の武士・藤原保昌に、盗賊「袴垂」(はかまだれ)が襲いかかろうとしている瞬間 public domain
なぜ、一国の首都であった平安京で、これほど犯罪が多発していたのでしょうか。
当時の平安京には、全国から集められた年貢などを収める蔵が立ち並び、多くの財を抱えた貴族たちが暮らしていました。豊富な物資が集積し、盗みの標的となるものが多かったことが、犯罪を誘発する要因となっていたと考えられています。
さらに、盗んだ品をすぐに売りさばける市場も存在し、盗品の流通が容易でした。
つまり、強盗事件が起こりやすい条件が揃っていたのです。
中には、標的にした屋敷に火を放ち、慌てた家人たちが家財道具を家から運び出し火を消そうとしている間に、それを盗む火事場泥棒も多かったそうです。
さらに、大胆にも貴族や宮中に押し入ったり、検非違使を襲撃したり、弾正台(監察・治安維持などを主要な業務とする官庁の一つ)の台印を盗んだり、囚人を奪ったり……など、権力への挑戦を示すような大胆不敵な犯罪も増加しました。
度重なる不作や飢饉により生活が困窮した人々が強盗に手を染める一方、貴族階級から転落した者たちが犯罪組織の首領となり、略奪や殺人を主導する事態も頻発していました。
こうして、平安京では多様で凶悪な犯罪が蔓延していたのです。
画像 : 『地獄草紙』「雨炎火石」(東京国立博物館蔵) Strange Arrow public domain
一般的には、貴族たちが雅やかな衣装に身を包み、華やかな恋愛をして和歌を詠み、琵琶や琴などの楽器を奏でるイメージがある平安時代。
しかし、その中心地である平安京の実態は、「平安」の名に反し、深刻な治安の悪化に悩まされていました。路上には飢えや病で命を落とした人々の亡骸が放置され、さながら地獄絵図のようだったと伝えられています。
こうした混乱と荒廃は、やがて高位貴族の力を衰えさせ、武士が台頭する土壌を生むこととなり、新たな時代へと移り変わっていくのでした。
参考:
『平安京の犯罪について(金沢大学教育学部紀要)』森田悌
『わるい平安貴族 殺人、横領、恫喝…雅じゃない彼らの裏の顔文庫』繁田 信一 (著)
『平安朝の事件簿 : 王朝びとの殺人・強盗・汚職』繁田信一著
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部
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