🎍43〕─1─朝廷を裏から牛耳る闇の女帝藤原詮子。藤原氏の全盛期の始まりは女性であった。~No.135 

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 日本の歴史や日本の権力・権威は、邪馬台国の呪術女王・卑弥呼最高神の女性神天照大神に通ずる日本人女性が支配し動かしていた。
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 藤原 詮子(ふじわら の せんし/あきこ、応和2年(962年) - 長保3年閏12月22日(1002年2月7日))は、平安時代中期、第64代天皇円融天皇の女御。一条天皇の母(国母)。院号東三条院(ひがしさんじょういん)。
 摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女で、母は摂津守藤原中正の娘時姫。先後して摂関に在職した道隆・道兼・道長、また冷泉天皇女御超子は同母の兄弟。
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 2023年12月3日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「歴史の教科書を読んでもわからない…源氏物語に登場する「闇の女帝」が進めたひどく悪辣な計略の中身
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 平安時代とはどんな時代だったのか。神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員の繁田信一さんは「藤原氏は娘を天皇の妃にして、その子を天皇に立てることで皇室との関係を深めた。政治の実権を握るために、天皇をだまして譲位させることもあった」という――。
※本稿は、繁田信一源氏物語のリアル』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
 朝廷を裏から牛耳る闇の女帝
 『源氏物語』の弘徽殿女御(こきでんのにょうご)については、現代の読者の大半が、恐ろしい女性という印象を持っているのではないだろうか。いや、それどころか、彼女を悪い女性と見ている読者も、けっして少なくはないことだろう。
そして、これは、今にはじまったことではない。「古注釈」とも「古注」とも呼ばれる、明治時代以前に成立した数多の『源氏物語』の注釈書においても、弘徽殿女御は、「性なし」と断じられ、「悪后(わるきさき)」と評されてきたのである。古語に言う「性なし」とは、現代語に訳すならば、「性格が悪い」といったところであり、また、「悪后」の意味するところは、字面の通り、「悪い妃」であろう。
 確かに、朱雀帝(すざくてい)の母親(母后)として皇太后となり、「弘徽殿大后」と呼ばれるようになって以降の彼女などは、さながら、朝廷を裏から牛耳る闇の女帝のようであった。弘徽殿大后は、間違いなく、恐ろしい女性であり、ある意味において、悪い女性である。
 例えば、彼女は、賢木巻の終わり、朱雀帝の寵愛する朧月夜(おぼろづきよ)と光源氏との密通が露見したときにも、「このついでに、さるべきことども構へ出でむに、よき便りなり」と、まず何より、この密通の件を口実(「よき便り」)に、かねてより嫌っていた光源氏に制裁を加える(「さるべきことども構へ出でむ」)ことを考える。
 彼女には、愛する女性に裏切られた気の毒な息子を慰めることよりも、積年の恨みを晴らすことの方が、ずっと重要だったのである。
 『源氏物語』では性なし、悪后と叩かれる
 かつて桐壺更衣(きりつぼのこうい)を心底から憎んでいた弘徽殿大后は、桐壺更衣の死後には、桐壺更衣の忘れ形見である光源氏こそを、桐壺更衣の代わりに憎み続けていたのであった。
 もちろん、弘徽殿大后の抱く憎悪は、光源氏にも十分に伝わっていた。朧月夜との密通が露見した後の須磨巻において、彼が自ら都を離れて須磨へと下るのは、他の誰でもない、弘徽殿大后を恐れたからであった。その頃、世間には、「遠く放ち遣すべき定めなども侍るなる」と、いずれ光源氏は罪人として公式に遠方への流罪に処されるだろうとの風聞が流れていたが、光源氏断罪の動きの中心にいるのが弘徽殿大后であることは、光源氏にもよくわかっていたのである。
 こんな弘徽殿大后(弘徽殿女御)は、やはり、恐ろしい女性であろう。が、彼女は、本当に悪い女性だろうか。古くは中世から「性なし」と断じられて「悪后」と評されてきた弘徽殿大后であるが、例えば、彼女が朧月夜との密通の件で光源氏を罰したとして、これは、悪行ではあるまい。
 むしろ、王朝時代の倫理観からすれば、天皇の寵愛する女性に手を出すことこそが悪行であり、したがって、光源氏こそが悪人である。そして、悪人である光源氏が罪人として処罰されるのだとすれば、それは、正義の実現なのではないだろうか。
 そう考えると、弘徽殿大后(弘徽殿女御)は、恐ろしい女性ではあっても、悪い女性ではない。それでも、彼女が「性なし」「悪后」と叩かれ続けてきたのは、要するに、彼女が光源氏の敵だったからであろう。物語の世界では、たとえ主人公こそが真の悪であるとしても、その主人公と敵対する登場人物は、皆、悪として位置付けられてしまうものなのである。
 モデルとなった藤原詮子
 しかし、『源氏物語』の弘徽殿大后(弘徽殿女御)のモデルの一人に比定される東三条院藤原詮子は、間違いなく、現実の王朝時代を生きた本物の「性なし」の「悪后」であった。
 彼女に冠せられる「東三条院」という号は、太上天皇(だいじょうてんのう)(上皇)に准ずる身の准太上天皇としての号であり、「院号」と呼ばれるものである。上皇が「院」と呼ばれることも、それぞれの上皇が「陽成院」「宇多院」といった院号を持つことも、王朝時代以前から通例となっていたから、一条天皇の母親として准太上天皇となった詮子も、「院」と呼ばれたのであり、かつ、院号を奉られたのであった。
 ただし、一条天皇の母親であって、当然のことながら女性であった彼女は、殊更に「女院」と呼ばれ、また、彼女の院号は、特に「女院号」と呼ばれる。また、詮子の女院号が「東三条院」であるのは、彼女の父親の本宅であったことから彼女の里第ともなった邸宅が、世に「東三条殿」と呼ばれていたからに他ならない。
 そして、そんな尊貴な身の東三条院詮子であるが、彼女は、恐ろしい女性であったうえに、とんでもなく「性なし」の、とんでもない「悪后」であった。
 わが子を天皇にするため、花山天皇を出家に追い込む
 なぜなら、彼女は、自身が一刻も早く天皇の母親(母后)になるために、一人の天皇を詐術によって玉座から追い出すという、ひどく悪辣(あくらつ)な陰謀に荷担していたからである。いや、もしかすると、その謀略において、彼女は、単なる共謀者などではなく、首謀者でさえあったかもしれない。
 そもそも、詮子は、右大臣兼家の娘であり、円融天皇の女御であった。そして、彼女は、円融天皇の唯一の皇子である懐仁親王を産む。すると、この皇子は、円融天皇が退位して、花山天皇が即位するや、わずか五歳にして皇太子に立てられることになる。この時点で、詮子は、『源氏物語』の序盤の弘徽殿女御と同様、皇太子(東宮)の母親という立場にあった。
 しかし、花山天皇は、在位三年目で唐突に退位する。それは、最愛の妃を喪った悲しみに耐えきれず、出家の道を選んでの退位であったが、『大鏡』によれば、この電撃的な出家劇・退位劇の裏には、詮子の父親にして皇太子懐仁親王の外祖父(母方の祖父)である右大臣兼家の謀略があったらしい。
 すなわち、幼い新天皇の外祖父として、天皇の大権を代行する摂政の座に着くことを目論む兼家が、一日でも早く外孫の懐仁親王を即位させようと、自らも動き、かつ、その息子をも使って、花山天皇に出家を唆したというのである。
 父・兼家さえも陰謀の手駒にする
 事実、花山天皇が突然の出家によって玉座を下り、懐仁親王がほんの七歳にして一条天皇として即位すると、その外祖父の兼家は、待ち構えていたかの如く、当然のように摂政に就任する。そして、新摂政兼家は、横暴の限りを尽くしつつ、栄華の限りを求め続けていく。兼家が花山天皇の出家・退位で得たものの大きさは、まさに計り知れない。
 だが、実のところ、そんな兼家さえもが、この陰謀においては、単なる手駒の一つに過ぎなかった。剛腕の政治家にして辣腕(らつわん)の謀略家として知られる兼家も、実際には、その娘の詮子の掌中において、いいように転がされているだけだったのである。
 考えてもみてほしい。右の陰謀で最も得をしたのは、結局のところ、天皇の母親(母后)となって、さらには准太上天皇ともなった、藤原詮子その人なのではないだろうか。
 天皇を宮中から連れ出した計略
 花山天皇が唐突に出家を遂げたのは、寛和二年(九八六)六月二十三日の夜のことである。その夜、花山天皇は、こっそりと宮中を抜け出すと、平安京東郊の東山に位置する元慶寺(花山寺)へと向かい、そこで、髪を下ろして僧侶となったのであった。
 しかし、天皇が秘密裏に内裏および大内裏を出るには、やはり、手引きをする者が必要となる。そして、史書の『扶桑略記』によると、手引き役を務めて花山天皇を宮中から密かに連れ出したのは、蔵人として天皇の側に仕えていた藤原道兼と厳久という僧侶とであった。彼らは、巧みに最も目立たない経路を選んで、みごとに花山天皇を内裏からも大内裏からも脱出させたのである。
 ここに登場する蔵人道兼は、兼家の息子に他ならない。彼は、「私も一緒に出家します」という虚言によって天皇に出家の決意を固めさせておいて、いざ元慶寺に到着すると、「出家する前に、父に最後の挨拶をして参ります」などと言って、さっさと逃げ出したという。おそらく、それらの全ては、兼家より指図された行動であったろう。
 だが、僧侶の厳久は、道兼が逃げ出した後も、花山天皇の傍らにあった。そして、彼こそが、花山天皇に出家を完遂させるという、最も重要な役割を担ったのであった。
 実行役の僧侶は大出世
 ただ、この厳久については、花山天皇の出家に関わる以前のことは、何もわかっていない。もちろん、そんな身元も不確かな僧侶であるから、花山天皇の出家があった時点では、何かしらの役職に就いてもいなかっただろう。彼をめぐっては、そもそも、どうして宮中に出入りできたのかが不思議なほどである。
 ところが、この厳久は、花山天皇が退位して一条天皇が即位するや、にわかに陽の当たる場所に顔を見せはじめる。
 彼の最初の晴れ舞台は、永延元年(九八七)の五月に摂政兼家が催した大きな仏事であった。『小右記』によれば、厳久は、その仏事において、人々に説法をする講師の役割を与えられたのである。ちなみに、権力者が主催する大きな仏事で講師を務めることは、王朝時代の僧侶たちにとっては、出世の階段に足をかけることと同義であった。
 やがて、長徳元年(九九五)十月、朝廷から権律師に任命された厳久は、ついに高僧の仲間入りをする。そして、藤原行成の日記である『権記』によれば、これは、東三条院詮子の推挙によるものであったらしい。また、厳久は、新たに建立された慈徳寺に別当(責任者)として迎えられることになるが、この慈徳寺は、東三条院詮子が建てた寺院である。
 藤原氏の全盛期はこうして生まれた…
 その後も、長保元年(九九九)に権少僧都に転じた厳久は、同四年には権大僧都へと昇進する。また、それとともに、ずっと慈徳寺別当をも務め続けた厳久であるが、彼の目立った活躍の場は、ほとんど常に、東三条院詮子こそを檀主(だんしゅ)とする慈徳寺での仏事であった。
 かくして、厳久が詮子に従属する身であったことは、疑うべくもあるまい。そして、その厳久こそが、花山天皇の出家をめぐって最も重要な役割を果たしたのであれば、花山天皇を出家させるという謀略は、やはり、東三条院詮子こそが主導したものであったろう。

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 繁田 信一(しげた・しんいち) 歴史学者神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員 1968年、東京都生まれ。東北大学神奈川大学の大学院を経て、現在、神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員、同大学国際日本学部非常勤講師、博士(歴史民俗資料学)。主な著書に『殴り合う貴族たち』(文春学藝ライブラリー)、『陰陽師』(中公新書)、『源氏物語を楽しむための王朝貴族入門』(吉川弘文館)、『下級貴族たちの王朝時代』(新典社)、『知るほど不思議な平安時代 上・下』(教育評論社)などがある。 ----------
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 2013年9月18日 産経新聞「夫婦の日本史 円融天皇藤原詮子 渡部裕明 
 □円融天皇(959~91年) 藤原詮子(961~1001年)
 「愛し合えない」夫婦の深い苦悩
 長徳元(995)年5月11日、一条天皇藤原道長に「内覧(ないらん)」の宣旨(せんじ)を下した。摂関政治全盛期のスタートとなるできごととして知られる。
 決定の背後にいたのは、一条天皇の母、藤原詮子(せんし)であった。関白・藤原兼家の娘で、道長には同母姉にあたる。貞元(じょうげん)3(978)年8月、円融(えんゆう)天皇の女御となり、史上初の女院(にょういん)(東三条院)になった女性である。
 兼家は、詮子を入内させ、皇子を生んでもらって外祖父となり、廟堂のトップの座につくことを狙った。そして、願いは成就した。天元3(980)年6月、詮子はただ一人の皇子(懐仁(やすひと)親王、のちの一条天皇)を生んだのである。
 だが、円融天皇と詮子の仲は、ぎくしゃくしていた。後宮でのライバル、藤原遵子(じゅんし)を皇后に定めるなど、詮子につらくあたったからである。誇り高く、勝ち気な詮子は深く傷つき、懐仁親王を抱え込んで天皇に会わせない逆襲に出た。
 円融天皇が詮子と打ち解けられない別の理由もあった。岳父の兼家である。兼家は権力欲むき出しで、手段を選ばない強引な人物だった。何かにつけ嫌がらせをされるのが、天皇には耐え難かったのである。
 心の通わない夫婦ではあったが、懐仁親王が即位し、詮子は国母となった。発言権は強まり、朝廷の人事などにも口出しするようになった。
 詮子は兄弟の中でも、好き嫌いがあった。8歳上の兄・道隆を嫌い、逆に5歳下の弟、道長をひいきにしたのである。亡き道隆のあとを継いだ嫡男の伊周(これちか)が内大臣だったのを飛び越え、権大納言でしかなかった道長が内覧になれたのは、詮子の働きかけがあったからだった。
 永観2(984)年8月、円融天皇はまだ26歳だったにもかかわらず、甥(おい)の花山(かざん)天皇に譲位した。兼家の嫌がらせに耐えかねての退位だったといわれる。円融上皇は出家し、現在の龍安寺(りょうあんじ)(京都市右京区)があるあたりに円融寺を設け、そこに住んで風雅な生活を送った。
 一方の詮子の晩年は、幸せだったとはいえない。長く手元で育てた一人息子の一条帝だったが、次第に母親を遠ざけるようになったからである。
 「清少納言が『枕草子』で描いた通り、一条天皇は道隆の娘・定子(ていし)を寵愛(ちょうあい)しました。夫から愛されなかった詮子は激しく嫉妬し、定子を嫌った。一条帝としては、そんな母親が疎ましくなったと思います」
 『天皇たちの孤独』(角川選書)で、円融天皇と詮子の関係にスポットを当てた繁田(しげた)信一・神奈川大学講師は話す。
 長保3(1001)年閏(うるう)12月17日、詮子は41歳の生涯を閉じた。知らせはただちに一条天皇にもたらされたが、天皇からは「特に悲しむ言葉はなかった」と、使者の藤原行成(ゆきなり)は日記『権記(ごんき)』に記している。
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 ◎もっと知りたい 円融天皇村上天皇の皇子で、兄・冷泉天皇のあとを受けて即位した。朝廷では藤原氏が力をつけており、その意向に気を使わされた。また15年の在位中は内裏が焼亡し、暴風や流行病が相次ぐなど、多難な時代だった。倉本一宏著『一条天皇』(吉川弘文館)を合わせ読むと、この時代がよく分かる。
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 日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原詮子」の意味・わかりやすい解説
 藤原詮子 ふじわらのせんし
 (961―1001)
 円融(えんゆう)天皇の女御(にょうご)、一条(いちじょう)天皇の母。藤原兼家(かねいえ)の女(むすめ)。母は藤原時姫(ときひめ)。道長の姉。978年(天元1)女御となり、一条天皇即位(986年=寛和2)ののち、同年7月皇太后となった。991年(正暦2)9月、太上天皇に準じて院号を授けられ、東三条院となった。1001年(長保3)10月、四十賀が行われた。同閏(うるう)12月22日別当藤原行成(ゆきなり)の邸で崩御した。
 [山中 裕]
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東三条院」の意味・わかりやすい解説
 東三条院 ひがしさんじょういん
 [生]応和2(962).京都
 [没]長保3(1001).閏12.22. 京都
 円融天皇の女御 (にょうご) 藤原詮子太政大臣兼家の娘。母は藤原時姫。貞元3 (978) 年円融天皇の女御となり,天元3 (980) 年懐仁親王 (のち一条天皇) を産んだ。寛和2 (986) 年一条天皇が即位すると,皇太后の宣下を受けた。正暦2 (991) 年病んで落飾し,太上天皇に準じて東三条院と称した。これが女院号の初めである。陵墓は京都府宇治市の宇治陵。
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 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館TOP大河ドラマ2024 光る君へ「光る君へ」に登場する人物「藤原詮子
 「藤原詮子」(ふじわらのせんし)は、平安時代に栄華を極めた「藤原道長」(ふじわらのみちなが)の姉であり、摂関政治を本格的にした「一条天皇」(いちじょうてんのう)の母親です。弟である藤原道長を非常にかわいがり、藤原道長の娘を一条天皇の妻にするために一役買った結果、「紫式部」(むらさきしきぶ)と「清少納言」(せいしょうなごん)が同時期に中宮(ちゅうぐう:天皇の后)へ仕える状況が生まれました。2024年大河ドラマ「光る君へ」では、「吉田羊」(よしだよう)さんが演じます。
 目次
 藤原詮子の生涯
 藤原詮子の逸話

 藤原詮子の生涯
 藤原詮子
 藤原詮子の生年は962年(応和2年)で、父は中納言(ちゅうなごん)という高官を務めた「藤原兼家」(ふじわらのかねいえ)、母は「藤原時姫」(ふじわらのときひめ)です。
 978年(天元元年)8月に宮中にあがり、「円融天皇」(えんゆうてんのう)の女御(にょうご:中宮の次の位)として入内しました。
 980年(天元3年)、のちに一条天皇となる「懐仁親王」(やすひとしんのう)を出産しますが、まだ子を産んでいない「藤原遵子」(ふじわらのじゅんし)が円融天皇正室に迎えられます。これに怒った藤原兼家は、娘・藤原詮子東三条邸にこもり、「花山天皇」(かざんてんのう)を出家させて、藤原詮子の幼い息子・懐仁親王を即位させるべく画策したのです。
 計画は順調に進み、986年(寛和2年)に花山天皇が退位したため、まだ7歳であった懐仁親王一条天皇として即位。藤原詮子は皇太后となり、父・藤原兼家は摂政の座に就きました。
 991年(正暦2年)に夫である円融天皇崩御すると藤原詮子は出家し、上皇に準じる「東三条院」(ひがしさんじょういん)という立場となります。出家後も政治への干渉を続け、一条天皇の皇后である「藤原定子」(ふじわらのていし)が若くして死去した際には、残された内親王達を養育。
 長く権力の中枢にいた藤原詮子でしたが、1002年(長保3年閏)に病のため40歳でこの世を去りました。
 藤原詮子の逸話
 藤原道長
 藤原詮子は、末の弟である藤原道長を大変かわいがっており、藤原道長を出世させるために、息子の一条天皇へ懇願したと言われています。なかには、一条天皇の寝室を訪ねて泣き落したという説もあるほどです。
 そんな藤原詮子を良く思わない者もおり、特に藤原道長と対立していた「藤原実資」(ふじわらさねすけ)は、自らの日記「小右記」(しょうゆうき)で藤原詮子を批判しています。
 また、当時、一条天皇の皇后・藤原定子藤原道長の兄の娘で、非常に聡明でしたが、藤原詮子藤原道長の娘である「藤原彰子」(ふじわらのしょうし)を一条天皇へ入内させようと画策。藤原詮子の働きかけもあり、藤原道長藤原定子を皇后としたまま藤原彰子中宮とする「一帝二后」(いっていにこう)という制度を実現させます。
 ふたりの皇后に学問を教える女官が必要となったため、清少納言藤原定子に、紫式部藤原彰子に仕えるという状況が生まれたのです。
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