🏹18〕 ─2─正嘉地震は南海トラフ地震。自然災害と日蓮「立正安国論」。1257年。~No.54 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本仏教は葬式仏教であり、日本神道は死者神道である。
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 日本民族は、数万年前から、戦争の殺し合いではなく自然災害の中を逃げ回って生きて来た。
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 日蓮はで、中国や朝鮮による日本侵略と日本滅亡の脅威を警鐘していた。
 「立正安国論」は、中国人や朝鮮人による日本人虐殺の「元寇」を預言していた。
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 現代の日本人は、戦後民主主義教育の日本人極悪非道史観(東京裁判史観)の歴史教育で洗脳された為に事実の歴史・現実の歴史が理解できない。
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 2025年6月15日 YAHOO!JAPANニュース 静岡放送(SBS)「河湾で発生した南海トラフ地震鎌倉時代から800年続く“津波除け”祈祷 日蓮聖人が滞在した沼津の寺で【わたしの防災】
 今から800年前、鎌倉時代の記録に残る大地震地震の揺れや津波の痕跡、歴史の記録などから、その一つが駿河湾で発生した地震であることが分かってきました。静岡で大きな被害があったとみられます。
 【写真を見る】日蓮聖人が8日間にわたり津波除けの祈祷を行った日蓮宗の寺「妙海寺」
 静岡県から九州の沖にかけて広がる南海トラフ地震の想定震源域。14世紀以降、大規模な地震が約100年から150年の周期で、繰り返し発生しています。また、13世紀の鎌倉時代にも南海トラフ地震活動を物語る大地震の記録が残されています。
 5月、千葉県で開かれた地球惑星科学分野の学術大会。筑波大学の藤野滋弘准教授は、鎌倉時代に起きた2つの地震に注目しました。
 <筑波大学 藤野滋弘准教授>
 「静岡市の上土遺跡で、地割れとか、地表のたわみがみたいな痕跡が見つかっている」
 静岡市葵区国道1号静清バイパスの近くにある「上土遺跡」では、地震の激しい揺れによる液状化などの痕跡が過去の研究で明らかになっています。また、駿河湾に面した静岡県沼津市井田地区では津波の可能性がある海水が侵入した痕跡が見つかっています。
 <藤野准教授>
 「上土遺跡の地震動の痕跡を評価すると、どうやら13世紀後半なんじゃないかという感じになる。沼津市井田の海水侵入イベントの年代も正嘉地震、永仁地震をカバーしている範囲である」
 鎌倉時代に起きた2つの地震。1293年の「永仁地震」は相模湾震源とみられます。一方、1257年の「正嘉地震」は、駿河湾で発生した可能性があると藤野准教授は指摘します。
 <藤野准教授>
 「1257年の翌年、半年後ぐらいに日蓮宗を開いた日蓮が沼津を訪れて、地元の人の求めに応じて、津波よけの祈祷をしたという伝承が残っているそう」
 沼津港や千本浜公園に近い場所にある日蓮宗の寺「妙海寺」(静岡県沼津市)では、1258年に日蓮聖人が滞在し、8日間にわたり津波除けの祈祷を行いました。
 <妙海寺 笹津海道住職>
 「地震とか、その時に飢きんが起こったりとか、疫病が流行ったりとか、そういったことの原因は、日蓮聖人は、信仰の誤りにあると。滞在されている間に8日間の津波除けの祈祷を執り行われたということで、そのご祈祷を今に伝えているのが、この寺」
 津波除けの祈祷は毎年、大晦日の夜から1月8日の朝まで、8日間連続で夜間に行われています。鎌倉時代から約800年間、途切れたことはないといいます。
 <笹津住職>
 「純粋には、この地の津波を抑えるという非科学的かも知れないが、その念を強く持って読経するのと同時に、地元の方には、これが行われているということをもって、いつ何時、そのような被害が起きても準備はしっかりしておけと、そのような啓発の意味もあるのではないかと思うので、代々の住職も恐らく同じ気持ちで続けてきたものと思う」
 藤野准教授は、歴史の記録は検証が必要で、地質などの研究には誤差があるとしながらも、1257年の正嘉地震駿河トラフで起きた海溝型の地震だと解釈できるとまとめました。
 <藤野准教授>
 「過去の記録からその地域でどの程度の地震動や、どの程度の津波が起き得るのかという情報も得られることがあるので、そういったものは防災の基礎情報として重要であると思う」
 南海トラフ地震には、繰り返し発生してきた歴史があります。私たちの目の前にある駿河湾はその震源域であり、激しい揺れや津波に対し、備え続けなければなりません。
 静岡放送
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 2020年6月22日 YAHOO!JAPANニュース「感染症と災害、飢饉、元寇に苦しんだ武家政権鎌倉時代
 (写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)
 地震とともに始まった武家社会
 400年も続いた平安時代は、グレゴリオ暦の1185年5月2日に壇ノ浦の戦い源頼朝平氏に勝利して終焉し、本格的な武家政権鎌倉時代へと移行しました。壇ノ浦の戦いから3か月後の8月13日に文治地震(元暦地震)が起き、京は強い揺れに見舞われ大被害をこうむり、翌月、元号が元暦から文治に改元されました。地震被害の様子は、前報に記したように、方丈記に克明に記されています。
 ちなみに、頼朝は、1147年に平治の乱で敗れた源義朝熱田神宮宮司の娘の間の三男として、名古屋にある熱田神宮西の邸宅で生まれたそうです。織田信長豊臣秀吉徳川家康に加え源頼朝も愛知で生を受けたことは、名古屋っ子の私にとってはちょっと誇らしいことです。
 1189年には、頼朝と対立した源義経が殺されます。頼朝は、1192年に征夷大将軍に任じられ、その後、1199年に51歳で病没します。その間、御家人を中心とした武家社会の構築に勤しみます。頼朝の死後は、息子の頼家、実朝が順に将軍を務めましたが、1219年に実朝が暗殺され、源氏の将軍は途絶え、その後は、北条氏による執権政治が行われました。
 災異改元が続いた鎌倉時代
 1185年から1333年まで148年間続いた鎌倉時代には、50回の改元がありました。平均すると3年に一度も改元しています。一世一元の代始改元しかない今とは大きく異なります。50回の改元のうち災異改元が30回を占め、そのうち、地震に関わる改元が11回もあります。大化の改新以降1375年の歴史で地震に関わる改元は28回ですから、鎌倉時代地震による改元の多さは特筆されます。他には、疾疫が11、旱魃が5、風災が4、水災と飢饉と火災に関わる改元がそれぞれ3回ずつありました。
 ちなみに、前々回に紹介した平安時代は、391年間で88回の改元があり、半数の44回が災異改元でした。地震に関わるのが9回、旱魃・風水害に関わるのが18回、疾疫に関わるのが21回、飢饉に関わるのが2回ですから、鎌倉時代地震、気象災害、飢饉の多さが分かります。
 災害が続いた鎌倉初期だったが、承久の乱で幕府の力が強まる
 1201年に大風雨が鎌倉を襲い、下総は高潮に見舞われます。さらに1206年に赤斑瘡(はしか)が流行して元久から建永、翌年1207年には疱瘡と大雨で建永から承元に改元されます。中国大陸では、この時期、頼朝の15歳年下のテムジンが勢力を拡大し、1206年にモンゴル帝国を樹立、チンギス・ハンの名を受けます。
 1213年6月18日に鎌倉で地震があり、山崩れ、地裂け、舎屋の破潰などがあったようで、1214年に建暦から建保に改元されます。1218年には京で大火があって170町余りが焼失し、1219年には旱魃などもあったため、建保から承久に改元されます。災害続きの中、1221年に後鳥羽上皇が西国の武士と共に鎌倉幕府の討伐を試みたのが承久の乱です。これは失敗に終わり、逆に幕府の力が西日本にも及んで、武士の力が強まりました。
 疫病と旱魃、大風雨による2度の大飢饉
 1224年から1232年まで、5回連続で災異改元が行われます。1224年は地震と炎干、1225年は疱瘡、1228年は風災と疱瘡、1229年は風災と飢饉、1232年は風災、水災、飢饉による改元です。1228年には洪水で賀茂川が氾濫し、1231年は冷夏に見舞われました。冷害、洪水、旱魃のため、1230年から1231年にかけて、寛喜の大飢饉が発生して多くの人が命を落とし、疾病も流行しました。こういった中、布教活動をしたのが親鸞道元です。1232年には、武家の法典として有名な御成敗式目も制定されました。
 同様の飢饉は、1258年にも発生し、正嘉の飢饉と言われます。長雨や冷害、台風などが重なりました。飢饉の前の数年間は災異改元が毎年行われ、1256年に赤斑瘡の流行で建長から康元に、1257年には太政官庁などの焼失で康元から正嘉に改元されました。1256年には鎌倉で大風洪水が発生し、1257年には後述の正嘉の大地震が起き、鎌倉で甚大な被害となりました。そんな中、正嘉の飢饉が発生し、飢饉後には疫病も流行しました。このため、1259年に正嘉から正元に改元されます。
 鎌倉での地震の続発
 理科年表によると、鎌倉時代には、鎌倉周辺で地震が続発しました。1213年の鎌倉の地震に加え、1227年4月1日、1230年3月15日、1240年3月24日、1241年5月22日、1257年10月9日、1293年5月27日に鎌倉で被害を出した地震があったようです。1241年の地震津波も伴ったようです。1257年の正嘉の地震では鎌倉の社寺の多くが倒壊し、液状化も発生しました。正嘉の飢饉や疫病の直前に起きた大地震です。
 また、1293年の地震は、永仁関東地震とか永仁鎌倉地震と呼ばれ、建長寺をはじめ諸寺が倒壊・炎上しました。一説には2万3千人余の死者が出たとも言われます。当時の日本の人口は1000万人以下だったと思われますから、この数が本当なら大変な犠牲者数になります。この地震は、相模トラフ沿いの巨大地震国府津―松田断層帯との関係が指摘されていますから、関東を中心に広域で被害が生じたと考えられます。この地震の後には、正応から永仁に災異改元されました。
 運悪く、鎌倉時代は、相模トラフ沿いの巨大地震前後の地震の活動期に、震源近くに幕府を置いていたことになります。
 元の成立と疫病
 チンギス・ハンの孫でモンゴル帝国の第5代皇帝だったフビライ・ハンは、1271年にモンゴル帝国の国号を元と改め、複数の国家を元の大ハーンが統帥する連合国家へと再編しました。さらに、1276年には南宋との戦いにも勝利しました。広大な領土を支配したモンゴル帝国の時代以降、ユーラシア大陸全域で、陸路・海路による交易が盛んな平和な時代が訪れました。
 盛んな交易の結果、1320年から1330年ごろに中国で流行していたペストが、1347年にイタリアのシチリア島に伝染し、その後、ヨーロッパ全域に感染が拡大しました。黒死病と呼ばれるこの感染症で、ヨーロッパの人口の1/3~2/3の人が亡くなり、農奴の待遇改善やルネッサンスの芽生えに繋がったと言われています。新型コロナウィルスの感染スピードに比べればゆっくりでしたが、世界のグローバル化が人類史上最悪のパンデミックを引き起こした点は共通しています。
 2度の元寇で疲弊した御家人
 1274年と1281年には、文永の役弘安の役と、2度の元寇がありました。フビライ・ハンは、1268年に朝鮮半島の高麗を介して、日本との国交を望む国書を送ってきましたが、鎌倉幕府はそれを無視しました。このため、元は、日本を脅すため、1274年に900艘の船で博多に攻めてきました。文永の役です。戦い方の違いで苦戦するものの、日本軍は頑張り、朝鮮半島に戻る南風の季節風の影響もあって、元の軍隊は撤退しました。
 その後、元は日本に何度も使節を送りますが、鎌倉幕府使節を処刑したりしため、1281年に弘安の役が起きます。日本は防塁を築き、各地から御家人が集めて防御しました。元の軍隊は、東路軍の船900艘と江南軍の船3500艘、計4400艘の大軍でしたが、前者は高麗、後者は宋の兵士が多く戦意はさほど高くなかったようです。元軍は兵糧の補給線などの問題も抱えており、日本軍は夜討ちなどで善戦しました。そんな中、大風が吹いて、元の多くの船が沈んだとのことです。有名な神風伝説です。日本人を苦しめてきた台風が、日本を救ってくれました。
 鎌倉幕府は何とか元寇を凌いだものの、外国軍に対する防御戦では、戦利品の土地はなく、戦った御家人たちに十分な恩賞を与えられませんでした。その後、1293年には、永仁関東地震が発生し、鎌倉などで甚大な被害になりました。直後には、平禅門の乱による兵火もあり、御家人は貧窮に苦しみました。このため、1297年に御家人の窮状を救うため永仁の徳政令が出されました。
 近畿地方地震が続発した鎌倉時代末期
 鎌倉時代末期、近畿地方地震が続発します。1299年6月1日、1317年2月24日、1325年12月5日、1331年8月15日と地震が起きています。1299年の地震では南禅寺金堂が倒れました。1317年の地震は京都が強く揺れ、1325年は正中地震と呼ばれ、滋賀・福井県境で起きた内陸直下の地震です。1331年は紀伊国での地震のようで紀伊半島では地殻変動も見られたようです。1317年の地震では正和から文保へ、正中地震の翌年の1326年には、地震と疫病により正中から嘉暦に改元が行われました。この間には、京都で疫病や大火も起きています。こういった中で、御家人や京都の貴族の不満も高まっていったようです。
 1331年6月、後醍醐天皇鎌倉幕府を打倒する元弘の乱を起こしました。一旦は、失敗して隠岐に流されますが、その後、楠木正成が挙兵し、足利高氏(のちの尊氏)の幕府への離反もあり、1333年7月に、御家人新田義貞によって北条氏が討ち取られ、鎌倉幕府は滅亡しました。そして、後醍醐天皇による建武の新政が始まりました。
 ちなみに、吉田兼好が「つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。」と語った「徒然草」を世に出したのは1331年と言われます。徒然草を読んで当時の人の気持ちに接するのも良いと思います。
 このように東国の武士たちによって作られた鎌倉時代は、度重なる自然災害と疫病、飢饉、元寇の襲来などに蹂躙され、再び後醍醐天皇を中心とする貴族の時代に戻ることになりました。
 福和伸夫
 名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
 建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。
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 Ameba
 鎌倉歳時記
 定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。
 鎌倉散策 五代執権北条時頼 五十三、正嘉の飢饉と徳政
 2024年09月10日(火)
 テーマ:鎌倉寺社仏閣
 正嘉三年(1259)、全国的な飢饉が拡大した事により、三月二十六日に元号が正元元年と改められた。『吾妻鏡』は、この年の記述が欠落している。寛喜二年(1230)から寛喜三年(1231)にもたらし、「天下の人種三分の一を失す」とまで語られる寛喜の大飢饉以来、諸国で続く飢餓が拡大し、京都では食人の噂が広がるなど飢餓状態が続いた。また疫病が流行し。正嘉の飢饉、または正元の飢饉と呼ばれる。正嘉年間の大地震に加え大飢饉の発生などの災害が続発した。これら飢餓や疫病の発生をきっかけに様々な社会問題が顕在化し、弘長元年には幕府が新政を発して徳政が謳われた。鎌倉時代の一つの転換期にあたる。
 『中世法制史料集』「第一巻鎌倉幕府法」から、幕府は飢餓対策の一つとして、庶民が山で山芋等の採取や、海・川での魚や海藻を採取することを妨げないように諸国の地頭に命じた。
 『 吾妻鏡』は正元二年(1260)正月から記載され、この年の四月十三日に、文応元年と再び改元されている。
 この年の埦飯も、相州禅室(道崇・北条時頼)、奥州禅門(観覚・北条重時)、相州(北条正村)の差配で行われた。まさしく幕府の権力を掌握する・北条氏の序列を見ることが出来る。将軍家(宗尊)及び幕府の正月の儀式が行われる中、同月十日には、京からの急使が鎌倉に到着した。
 『吾妻鏡』正元二年(1260)正月十日条、「今月八日、園城寺の三摩耶戒壇について宣下されたところ、同月卯の刻、日吉社の神輿三基・祇園三基・北野二基・京極寺一基の位上吸気の神輿が入京し、陣等に振り捨て奉りました。二基は院御所に振り奉りました。」と申し立てた。
 同月十七日、京都の院御所に落雷あり、風習・風聞にさゆうされる京の情勢不安が窺え、二十日、園城寺戒壇許可の勅許が取り消された。二十六日に園城寺の宗徒の使者が鎌倉に到着して、「今月四日、当時の三摩耶戒壇について宣下されたところ、同十四日、山徒(比叡山の宗徒)が院に参上した時にこれを訴え、同二十日に宣下が召し返されました。その上、園城寺を焼き払うと山徒が蜂起しました。事は一大事であり、一寺の存亡にかかわる事です。」と申した。園城寺の幕府の後ろ盾とする協定が、これらにより窺うことが出来る。二十日に朝廷が戒壇建立を許す宣下が取り消され二十二日には(日吉社などの)神輿が帰座し、翌二十三日には園城寺の宗徒が寺を離れて退散したという。幕府は、六波羅延暦寺の蜂起により被害が出ないよう園城寺警護を六波羅に命じた。先述した通り、この抗争は南北朝期まで続くことになる。
 (北条時頼像)
 二月、北条時頼の嫡子・時宗が将軍の供奉などを勤める小侍担当に就任する。当時すでに北条実時別当に任じられていた。しかし、この別当職は複数を送官職ではなかったが、時宗就任以降に別当を複数任命することが慣行となっている。すでに実時が別当になっているところへ時宗が就任した事の正当化するための慣例化であった。得宗専制が進む中、他の北条庶流に対しての配慮とも取れるが、時宗の将来の執権となる事を考慮して経験を積ませる時頼の配慮であった。小侍別当であった実時は思慮に富んだ教養深い人物であり、時宗は実時から指導を受けながら人格を陶治したと考えられている。
 『吾妻鏡』正元二年(1260)二月五日、「故岡屋禅定殿下(近衛)兼経公の御息女(宰子:御年二十歳)が最明寺禅室(道崇・北条時頼)の御猶子として(鎌倉に)到着された。そのまま山内の(時頼の)邸宅に入られた。これは(宗尊)の御息所(正室)となられるためであるという」。近衛宰子を猶子にする事で北条得宗家から将軍に嫁がすという形をとり、将軍家外戚という地位を得ることになる。本来猶子とは、身分の低い立場の人間が、自分より身分の高い人間との間で結ぶものであるが、摂関家の女性が王朝における身分序列において自家より低い北条得宗家の猶子となる事は異例であった。宰子は、後の文永元年(1264)四月二十九日に七代将軍・惟康王を産んでいるが、『吾妻鏡』の文永元年(1264)記載は、欠落しており、その詳細を見ることはできない。文永三年(1266)七月に謀反の嫌疑を受けた宗尊が鎌倉を追放され、その要因に宰子の関係性が示されている。
 三月十八日、藤原宰子が宗尊に輿入れ、二十八日に宰子の時服七か月分を重時の沙汰とされた。四月三日、宗尊が重時邸に入御し、十一月二十一日、宰子が北条重時邸に入御する。
 この頃、浄土宗の良忠が鎌倉に入っている。大仏朝直の帰依を得て佐助ヶ谷に悟真寺を創建し、専修念仏の指導的立場に立つ。後にこの浄土宗の宗徒が、極楽寺忍性等の宗徒と共に日蓮と争う事になる。
 同年四月二十九日、鎌倉で大火があり、長谷の長楽寺の前より亀谷の民家に至ったという。また六月には暴風雨により、洪水で河辺の民家のほとんどが流失し、山が崩れ、多くの人が生き埋めになり圧死した。この雨は、七日まで続いていた。
 (鎌倉 安養院)
 七月十六日、建長五年から鎌倉に移り、名越の松葉ヶ谷に草庵を構え布教活動を行っていた日連が、『立正安国論』を時頼に奉呈め、国主諫暁を行う。『立正安国論』で自界叛逆難(内乱)と他国侵逼(他国からの侵略)により日本が滅ぶと予言している。調度この頃、飢饉や天災による被害が多く、悪党の発生が深刻化していた中、内乱も想定される時期であった。他国侵逼においては、モンゴル帝国の拡大により南宋戦争等により高麗が降伏した時期である。南宋出身者の蘭渓道隆南宋の僧が日本に多く渡来してきた時期であり、交流もあったと考えられ、また鎌倉においても貿易船等の交流もあり、預言であったのか見解に基づく予測であったのかは不明である。しかし、日蓮は大規模な災害や飢餓が生じている原因は、法然の浄土宗の教えが流行し、為政者を含めて人々が正法に違背して悪法に帰依しているところにあるとし、その故に国土を守る諸天善神が国を去り、悪鬼が国に入っているためと示した。災難を止めるには、為政者が悪法への帰依を停止し正法に帰依する事が必要と主張している。とりわけ法然の専修念仏の浄土宗への批判の対象に取り上げた。また他宗を批判・口撃は「建長寺極楽寺寿福寺も鎌倉の寺は焼き払い、建長寺蘭渓道隆極楽寺の忍性も首をはねて由比ヶ浜に晒せ」という過激な発言により、八月二十七日、日蓮の松葉ヶ谷草庵焼き討ちされる。日蓮は草庵焼き討ちの危難を免れたが鎌倉に居られる状況ではなくなり、下総国若宮(現千葉県市川市)の富木常任の館に移り布教活動を展開した。その後の弘長元年(1261)五月十二日、鎌倉に戻った日蓮は、「持戒第一の聖人」、「生き仏」と慈善事業を行い、幕府からの信頼が厚い忍性を慕う宗徒や、臨済宗の宗徒、浄土宗の宗徒から訴えられ、御成敗式目第十二条「悪口(悪講)の咎」で伊豆配流、さらには佐渡配流迄下されている。
 (鎌倉 安養院)
 この年(文永元年〔1260〕)に、北条時頼蘭渓道隆とともに禅宗の影響をもたらした兀庵普寧(ごったんふねい)が来日している。兀安普寧は蘭渓同流と円爾の招きにより来日し、博多聖福寺に入り、鎌倉幕府執権・北条時頼の要請で建長寺二世となる。建長寺の本尊が地蔵菩薩であり、兀庵は、地蔵菩薩が自分より下位であるとして礼拝はしなかったという。時頼は兀庵に師事して参禅・問法を重ね印可を受けている。時頼無き後には、支持者を失い文永二年(1265)に帰国した。当時としては先鋭的な思想を持ち、難解な講釈を行った事から建長寺の本邦の僧徒のもめごとが多かった事から日本語の慣用句の「ごたごた」、元の単語はごったんごったんの語源になったと言われる。
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 正嘉地震(しょうかじしん)は、ユリウス暦1257年10月9日頃、日本の関東地方南部で発生したと考えられている地震震源地は相模湾とみられ、規模はM7.0〜7.5と推定されている。この地震は、相模トラフ巨大地震の可能性が考えられ、その検討候補とされている。
 概要
 この地震は、鎌倉時代中期、正嘉元年8月23日に関東地方南部で発生し、大きな被害をもたらした。鎌倉に幕府が開かれて以降、鎌倉で地震が多発し、多くの被害があったことが、鎌倉幕府史書吾妻鏡』に記されている。その中でも、この地震を含め、仁治2年(1241年)と正応6年(1293年)の地震などは特に大きかった。それらの地震の被害について記された文献も見つかっているが、鎌倉以外の他の地域および全体的な被害は詳しく分かっていない。
 地震調査委員会(2014)は、歴史地震学的な検討を充分に行わず1293年の鎌倉大地震をM8級の相模トラフ沿いのプレート間地震と認定したが、本地震もセットで再検討したうえで結論を出す必要があるとされる。
 被害
 鎌倉では神社や仏閣の被害が激しく、山崩れや家屋の転倒が多く発生し、一部の地点では地割れや水の噴出が発生し、液状化現象も起きた。中下馬橋付近では、青い炎が出たという。また、余震も多く発生した。
 『吾妻鏡』には、大地震の様子が次のように記されている。
 {廿[にじゅう]三日乙巳[きのとみ]。晴。戌尅[いぬいのこく]に大いに地震う。音有り。神社仏閣一宇として全きは無し。山岳頽崩し、人屋顛倒し、築地皆悉く破損す。所々地裂け、水涌き出で、中下馬橋[なかのげばばし]の辺は地裂け破れ、其の中より火炎燃え出ず。色青し云云
     — 「吾妻鏡」}
 これを現代語に訳すと次のようになる。
 (午後八時頃(戌の刻とは午後七時から九時までの間)、大地震が起きた。音が鳴った。神社・仏閣で無事なものは一つもなかった。山は崩れ、住居は倒壊し、土塀もすべて壊れ、所々で地面が裂け、水がわき出した。中下馬橋のあたりでは、地割れから炎が燃え上がった。色は青かったという。
    — 「吾妻鏡」}
 この地震による惨状は、「立正安国論」を著される契機にもなった。
 山奈宗真著の明治三陸津波報告書である『岩手県沿岸大海嘯取調書』の陸中国九戸郡宇部村の項目に、本地震と同日に「野田海ト久慈ノ海ト津浪越ヘタリト云」と現野田村および久慈市など東北地方の太平洋沿岸にも津波が襲来したという伝承が記されている[信頼性要検証]。『日本被害地震総覧』はこの津波を疑わしいとするが、『吾妻鏡』とは独立の伝承かも知れず、この津波を無視しなければ房総沖の地震の可能性もあるかも知れないとされる。
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 正嘉の飢饉(しょうかのききん)は、鎌倉時代の正嘉年間に発生した全国規模の飢饉。
 概要
 1258年(正嘉2年)6月の長雨とその後の冷夏に加え、旧暦8月10日に上陸した大型台風のため全国的大凶作となり最初の飢饉が発生し、冬から翌年の1259年(正元元年)夏にかけても凶作が続いた。平安京で食人の噂が広がるなど、飢餓状態は続き疫病の流行が続いたという。領民の逃亡も起きた。
 影響はその後も長引き1261年(弘長元年)10月にも、武蔵国豊嶋郡江戸郷内(現在の東京都区部付近)の前嶋村で領民が不在となり、公事を負担できなくなるなど、全国で百姓の逃亡や餓死等により年貢の徴収や公事が停滞する状態が続いた。日蓮はこの飢饉を契機として「立正安国論」を書いた。
 なおこのように正嘉年間に災害が続発したため(1257年の大地震(正嘉地震)も含む)、1259年に元号が正元へ改元された。
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