🏹55〕─1─中世に多発した大災害。南海トラフの明応東海地震の甚大な被害。1498(明応7)年。~No.171No.172No.173 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代の日本人は、歴史の多様性として、歴史教育で中国や朝鮮との関連した歴史を教えられても日本民族の歴史を教えられる事はない。
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2023-08-06
☷36〕─1─南海トラフ大震災や東京大震災で中国人や韓国人・朝鮮人の虐殺事件が起きる危険性。~No.91No.92 
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 明応東海地震などの巨大災害では、関東大震災で起きたような日本人・朝鮮人・中国人を惨殺する事件は起きなかった。
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 1419(応永26)年 応永の外寇、第4代朝鮮国王世宗大王は日本を侵略し、対馬で虐殺を行った。
 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。

 応仁の乱、1467(応仁元)から1477(文明9)年までの内戦。
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 静岡県
 静岡県に被害をもたらした主な地震と日本で近年おきた主な地震
 1498年(明応7年)
 9月11日M8.2~8.4 明応地震 震災地域=東海道全般
 被害状況→津波。伊勢大湊で流出家屋1,000棟、死者5,000人。志太郡地方で流死26,000人。
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 2024年8月6日 YAHOO!JAPANニュース 静岡朝日テレビ「長寺の日海上人が1498年の明応東海地震での被害を書き残した資料を書籍化した「日海記の世界」を静岡県に贈呈 静岡市清水区
 地震などの災害対策に役立ててもらおうと、静岡市の寺の住職らが室町時代に起きた大地震の被災状況を記した本を静岡県に贈呈しました。
 静岡市清水区の海長寺の住職から鈴木知事に贈呈されたのは、4月に書籍化された「日海記の世界」です。
 この本は、明応東海地震が発生した1498年に、海長寺で住職をしていた日海上人が、津波被害や復興の様子を記録した書物をもとに作られたものです。
 明応東海地震による津波では、藤枝市焼津市などを含む当時の志太郡地方で2万6000人が死亡しました。
 こうした被害を県内の関係者にも広く知ってもらおうと、現在の住職らが日海上人の記録を現代語訳し、静岡大学小和田哲男名誉教授らが考察を交えて編集したということです。
 海長寺・中條暁秀住職
 「『大浪(津波)は大地動くの時これあり』というふうに日海上人は書いているので、日海さんは迅速に行動せよということをおっしゃりたいんだろうなというふうに思う」
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 明応地震(明応7年8月25日)
 明応地震(明応7年) 地震 津波
 東北 関東 東海 近畿
 室町時代(戦国時代)の明応7年8月25日(1498年9月20日)8時00分頃、推定マグニチュード8.6の明応地震が発生した。複数の地震が相次いで発生したとされるが、被害の記録から、南海トラフを原因とする東海、東南海、南海の3つの地震がほぼ同時に起こる三連動地震とされている。
 揺れの記録は会津から京都まで広範囲に及び、東海道一帯では地震の発生とともに大規模な津波が発生した。現在は海とつながった汽水湖となっている浜名湖は、もともと淡水湖であったものが、この明応地震津波によって湖と太平洋を隔てる陸地が決壊して現在のような姿となった。
 防災手帳
 災害発生時の行動と備えについて確認しましょう。
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 神の血筋である正統な男系父系天皇だけが、甚大な被害をもたらす自然災害を祈りで鎮める事ができる、日本民族はそう信じてきたがゆえに現天皇家を護ってきたし、貴族や武士は神聖天皇を廃して自分が俗世天皇に即位しようとはしなかった。
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 日本列島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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 日本民族人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
 つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
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 2020年7月6日 YAHOO!JAPANニュース「地震、飢饉、疫病が続発し、南北朝から戦国時代へと乱世が続いた室町時代
 福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
 (提供:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)
 南北朝から戦国時代へと続く乱世の時代
 室町時代の災禍について紹介する前に、歴史を簡単に復習しておきます。足利尊氏の裏切りと新田義貞による攻撃で鎌倉幕府が滅亡し、1334年に後醍醐天皇による「建武の新政」が始まりました。ですが、天皇中心の政治に武士の不満が高まり、尊氏が都を奪い、武家中心の社会に戻りました。尊氏は後醍醐天皇に対抗して光明天皇を立てたため(北朝)、後醍醐天皇は吉野に逃れ(南朝)、1336年に南北朝時代が始まります。
 尊氏は守護の権限を拡大して各地の武士をまとめます。守護は後に守護大名化します。国人と呼ばれた土着の武士は集団化し、後に戦国大名になっていきます。農村でも、荘園などの内部で農民たちが自立的・自治的な惣村を作り集団化しました。また、貨幣経済の浸透で商工業が栄え、流通も盛んになりました。
 こうして、社会が多様化し、民衆の力が高まりました。その結果、幕府の力が弱まり、飢饉も頻発して、土一揆国一揆一向一揆などが各地で起き、社会が乱れました。そして、足利義政の跡継ぎ争いや、守護大名間の勢力争い、守護大名家督争いなどが絡んで1467年に応仁の乱が始まり、戦火が全国に広がりました。応仁の乱守護大名が出陣したため、各地では、留守を預かった守護代や国人が力を持ち、下剋上が起こり、戦国時代につながりました。これらの背景には、すさまじい災害と疫病、飢饉があったようです。
 北条の反乱のさ中に鎌倉を襲った大風
 鎌倉幕府の執権だった北条高時の遺児の北条時行は諏訪に逃れていましたが、1335年に足利直義を破って鎌倉を占拠し、鎌倉幕府の再興を企てました。まさにその時に暴風雨で大仏殿が潰れ、大仏殿に逃れた500人が命を落としたと言われています。大風が吹かなかったら、時代は変わっていたかもしれません。
 この争乱は中先代の乱と呼ばれ、後醍醐天皇の命を受けた尊氏によって鎮圧されます。翌1336年には、尊氏らが京都に戻って建武の乱を起こし、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を始めます。尊氏は、建武の式目を発表し、1338年に征夷大将軍になって室町幕府を始めました。尊氏は、鎌倉幕府後醍醐天皇を裏切ったため、余り人気が無いようです。
 南北朝の内乱の時代に起きた疫病の頻発と南海トラフ地震
 南北朝の時代は1392年に足利義満によって合一されるまで、約60年続きました。この間、南朝では8回、北朝では17回の改元が行われます。その内、災異改元は、南朝が4回で、天変が2回と兵革が2回、北朝は10回で、重複はあるももの、疫病に関わるのが8回、天変が7回、兵革が6回あります。すなわち、南北朝の60年は疫病と天変と内乱の時代でした。
 1361年8月3日には南海トラフ沿いで正平・康安地震が発生します。正平は南朝、康安は北朝元号です。奈良や大阪、熊野で堂塔が倒壊、破損し、和歌山の湯の峯温泉が涸れるなどしたようです。また、高知、徳島、大阪での津波の記録も残されています。南海地震側の震源域の被害記録が多いようですが、最近、各種のデータから東海地震も連動したと考えられるようになりました。また、この地震の1年前に津波を伴う地震があり、3日前と2日前にも京都が強く揺れる地震がありました。これらが同じ震源域内の地震かどうかは不明ですが、もしも震源域周辺の地震だったとすると、南海トラフ地震臨時情報の活用が期待できることになります。正平・康安地震や疫病、兵革もあり、1362年に北朝元号が康安から貞治に改元されます。
 ちなみに、ヨーロッパでは、この南北朝の時代に、1339年から英仏間で百年戦争が始まり、1347年にはペストが蔓延し、ルネッサンスの時代へとつながっていきます。
 応仁の乱に至る間の地震、飢饉、疫病による混乱と一揆
 南北朝の時代が終わった後、室町幕府は、応永の乱で大内義弘を討つなどして守護大名の力を削ぎ、明との勘合貿易などで豊かになって、安定期を迎えました。その中、1408年に紀伊や伊勢に被害を出した応永地震が起きています。
 その後、1419年に洪水や大風・干ばつなどが、1420年に大干ばつが発生し、凶作で応永の飢饉が起きました。さらに1428年にも2年続きの飢饉が起き、農民が徳政を望んで正長の土一揆を、翌年には播磨の土一揆を起こしました。1438年にも飢饉や疫病が起き、1441年に嘉吉の徳政一揆が起きます。この年には、播磨の守護の赤松満祐が将軍足利義教を暗殺する嘉吉の乱も起きました。さらに、1445年には諸国を台風が襲い、1446年は大洪水、1447年には大風、洪水、干ばつなどがありました。このため、凶作と疫病で文安の飢饉となり、徳政を求めて文安の土一揆も起きました。
 東国での地震、争乱と応仁の乱
 関東地方では、1433年に永享相模の地震が起き、1436年には鎌倉で大火があります。さらに、1454年には東北地方太平洋沖を震源とする享徳地震が発生します。この地震東日本大震災と同様の超巨大地震です。直後には、鎌倉でも大地震があったようです。こういった中、関東地方を中心に戦国時代の先駆けともいえる四半世紀に及ぶ享徳の乱が始まります。
 関東での争乱の中、1459年の干ばつと台風、1460年の大雨洪水、冷害、バッタの蝗害(こうがい)などが重なって各地で凶作となり、長禄・寛正の飢饉が起きました。飢餓に陥った人が都に集まり、飢えと疫病に苦しんで大量の犠牲者が出ました。この中、寛正の土一揆が起きます。そして、混乱が続く中、1467年に応仁の乱が始まり、都は焼け野原となります。
 地震だらけだった戦乱の時代
 応仁の乱終結した後、1485年に山城の国一揆が、1488年に加賀の一向一揆が起き、1493年の明応の政変の後、本格的な戦国時代に突入します。この戦乱の中、大地震が続発します。1495年9月12日に明応鎌倉地震が起きました。一説では、この地震津波に乗じて、戦国大名北条早雲小田原城を奪取したともいわれています。鎌倉大仏殿が津波で破壊されたとの説もあり、相模トラフ沿いの地震の可能性も指摘されています。ただし、いずれも諸説あるようです。もしもこの地震が相模トラフ沿いの地震だとすると、1293年永仁鎌倉地震、1703年元禄地震、1923年大正関東地震と、200年に一度くらいの頻度で地震が起きていることになります。
 1498年には7月9日に日向灘地震があり、9月20日には南海トラフ沿いで明応地震が起きます。被害は甚大で、安濃津浜名湖津波被害などが、伝えられています。ですが、戦乱の時代の中のため、その真偽は良く分かりません。相模トラフ沿いと南海トラフ沿いの地震が3年の間隔で発生したとすると、1703年元禄地震と1707年宝永地震と同様の連続発生だったことになります。
 その後、1502年に越後南西部での地震、1510年に摂津・河内の地震、1520年に紀伊半島や京都で被害が記録される永正地震などの被害地震がありました。また、1535年には美濃で大水があり2万人が犠牲になったとの記録もあります。ただ人数が多すぎる気もします。斎藤道三と土岐頼純が激突し戦火が広がっていたさ中の洪水です。
 さらに、1539年に大雨・洪水、蝗害で飢饉が発生し、1540年にも大雨・洪水や疫病流行などが起き、天文の飢饉になりました。畿内では、1544年、1557年にも洪水が起きたようです。そして、1560年に今川義元織田信長が雌雄を決した桶狭間の戦いを迎えます。
 大航海時代のヨーロッパの影響が日本に忍び寄る
 明応地震が起きた1498年は、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開いた年です。これ以降、ヨーロッパと東アジアが海路で結ばれ、香辛料やお茶などの交易が盛んになります。また、1492年にコロンブス西インド諸島を発見し、コロンブス交換が起こり、アメリカ大陸から梅毒が欧州に伝わり、逆に天然痘などがアメリカ大陸に伝わりました。この天然痘によって中南米アステカ文明とインカ文明が滅びました。1521年にスペイン人のコルテスが中米のアステカを征服し、1533年にピサロインカ帝国を滅亡させます。マゼランの率いたスペイン艦隊が世界一周を成し遂げたのは1522年です。日本が戦乱に明け暮れる中、世界は大航海時代に突入しました。また、ルターが1517年に95か条の論題を発表して宗教改革を始め、欧州は大きく変貌していきます。
 その影響は、日本にもやってきました。アメリカ大陸から伝わった梅毒が倭寇を介して日本にも伝染し、1512年に流行を起こしました。有名な戦国武将の浅井長政加藤清正も感染したようです。また、1543年に、ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝え、1549年には、宗教改革に対抗するイエズス会フランシスコ・ザビエルキリスト教を伝えます。そして、織田信長豊臣秀吉徳川家康による天下統一へと時代が進んでいきます。
 様々な災害や感染症、西洋との関りを考えることで、室町時代の歴史の変遷が分かりやすくなるような気がします。
 福和伸夫
 名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。
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 2011年9月16日 日本経済新聞津波、海抜36メートル超到達か 1498年「明応東海地震
 静岡・沼津の被害推定 東大地震研「防災見直しを」
 室町時代の1498年に発生した大地震「明応東海地震」で、古文書の記録や伝承から、静岡県沼津市津波が斜面を駆け上り海抜36メートルを超える地点まで達していた可能性があることが16日までに、東京大学地震研究所などの調査で分かった。東日本大震災では、岩手県宮古市の斜面を39.7メートルまで津波がさかのぼったとする報告がある。
 静岡県東海地震津波被害の想定として1854年安政東海地震を目安としているが、東大地震研の都司嘉宣准教授は「明応東海地震津波の高さは安政東海地震の3~4倍あり、防災指針を見直すべきだ」としている。国の地震調査研究推進本部によると、明応東海地震は東海沖から四国沖の海底にある溝状の地形「南海トラフ」沿いに起きた大地震マグニチュード(M)は8.3程度で、津波紀伊半島から房総半島まで達したとされている。
 都司准教授によると、寺院が記録した古文書などにより浸水場所を調査し、現地で測量。明応東海地震では、沼津市戸田の集落の「平目平」と呼ばれる地点まで津波が到達したとの伝承があり、海抜を測定すると36.4メートルだった。平目平という地名も、当時の津波でそこまでヒラメが打ち上げられたという言い伝えに由来するという。
 また中部電力浜岡原子力発電所御前崎市)から30~40キロの磐田市掛塚でも海抜10メートルの場所まで浸水した可能性があった。
 都司准教授は「今後、津波によって運ばれてきた海の砂の層がないか調べたい」としている。
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 明応地震は、室町時代後期(戦国時代初期)の西暦1498年9月20日(明応7年8月25日)に日本で発生した大地震である[3]。南海トラフ沿いの巨大地震南海トラフ巨大地震)と推定されている。明応東海地震(めいおうとうかいじしん)とも呼ばれている。
 概要
 震央は東海道沖として北緯34.0度 東経138.0度。地震の規模はM8.2~8.4であったと推定されている。
 紀伊から房総にかけての沿岸に津波が押し寄せ、伊勢大湊で家屋流失1千戸、溺死5千、伊勢・志摩で溺死1万、静岡県志太郡で流死2万6千などの被害が出たという。記録にある被害分布が安政東海地震に類似しており、震源域は東海道沖と思われるものであった。一方で、四国でも一部大地震があったとする記録が見出され、また発掘調査から同時期の南海道沖の地震の存在の可能性が唱えられている。

 明応4年8月15日の地震
 『鎌倉大日記』には明応4年8月15日(1495年9月3日)に大地震が発生し、由比ヶ浜から参詣道に津波が押寄せ、高徳院の大仏殿が破壊され、溺死者200人余出たとある。

 明応7年6月11日の地震
 明応地震の位置(九州内)明応地震
 1498年日向灘地震(1498年7月9日・M7~7.5)の震央
 『御湯殿の上の日記』、『後法興院記』、『続史愚抄』など幾つかの史料に明応7年6月11日未-申刻(1498年6月30日15時頃)、畿内付近における大地震の記録がある。ただし被害記録は見当たらず、史料数は明応7年8月25日の地震より遥かに少なく、『後法興院記』では8月25日の地震について「辰時大地震、去六月十一日地震一倍事也」と述べている事から、京都において8月25日の地震は6月11日の地震の2倍の強さであった事になる。一方、1854年安政地震については京都付近は東海地震と南海地震は同程度の揺れであったと記録され、京都における震度は共に4 - 5程度と推定されている。

 南海道地震との連動の可能性
 明応地震の歴史記録は、東海道沿いのみで、ほぼ同時期に連動する可能性の高いと考えられている南海道沖の地震の記録を欠いたものとなっている。この時期は応仁の乱以来戦乱が続いた時代であったため詳細な記録が残される様な状況に無かった可能性もあるとされる。
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