🏹4〕─2─鎌倉時代に日本総人口の3分の1が死に絶えた。寛喜の大飢饉と念仏宗教。〜No.9 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本列島は地獄であり、日本社会はブラックである。
 日本人は、親鸞が嘆いたように「悪人」であった。
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 現代の日本人には、民族的な伝統・文化・歴史そして宗教がないだけに理解できない。
 日本民族は、念仏宗教・神話宗教・崇拝宗教・自然宗教などの低位宗教を必要としたが、絶対神による奇蹟・恩寵・恩恵を説く啓示宗教などの高位宗教を必要としなかった。
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 同じ人間でも、日本人と中国人・朝鮮人・韓国人とは違う。
 日本の天皇は、中国の皇帝や朝鮮の国王とは違う。
 日本の土着宗教は、中国や朝鮮の宗教とは違う。
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 日本の総人口。 
 飛鳥時代奈良時代は約400万人。
 1192年 鎌倉時代は約757万人。
 1338年 室町時代は約818万人。
 1603年 江戸時代は約1,227万人。
 1868年 明治時代は約3,330万人。
 日本民族の歴史とは、人口増加の歴史である。
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 2021年3月25日 YAHOO!JAPANニュース「【中世こぼれ話】鎌倉時代に日本を襲った、寛喜の大飢饉について検証してみる
 ソマリアの飢餓。鎌倉時代にも大飢饉があった。(写真:ロイター/アフロ)
 国連によると、2030年までに飢餓や栄養不良を終息させることが難しいという。飢餓は、世界共通の課題である。ところで、鎌倉時代に日本を襲った寛喜の大飢饉をご存じだろうか。今回は、この飢饉を紹介することにしよう。
 寛喜の大飢饉とは寛喜2・3年(1230・31)に発生した大飢饉で、日本の歴史上でも稀有な天災だった。実は、この大飢饉の前年から不順な天候が続いており、その難を避けるべく改元が行われ、安貞から寛喜へと年号が変わった。ところが、年号が変わっても、飢饉が回避されることはなかった。
 寛喜2年(1230)6月、武蔵国金子郷(埼玉県入間市)と美濃国蒔田荘(岐阜県大垣市)は異常気象で、初夏にもかかわらず降雪があったという。不幸なことに、この年の夏は冷夏と長雨が続き、同年7月には霜降、8月には大洪水と暴風雨が襲来し、例年にない強い冷え込みが日本列島を襲った。冷害により農作物は大きな被害を受け、収穫に悪影響をもたらした。
 寛喜2年(1230)の天候不順による農作物の収穫量の減少のため、翌年はわずかに残った備蓄穀物を食べ尽くし、全国的に餓死者が続出したのである。厳しい飢餓で人々は死に絶え、人口の3分の1が失われたという。
 翌寛喜3年(1231)は一転して激しい猛暑に見舞われ、旱魃が農民を苦しめた。早い段階で種籾すら食したので、作付けが困難になる不幸にも見舞われたのだ。
 同年9月には北陸道と四国が深刻な凶作となり、京都や鎌倉といった都市部には生活困窮者が流入した。『明月記』(藤原定家の日記)には、餓死者の死臭が漂ってきたという生々しい記述がある。餓死者が激増したため、幕府は備蓄米を放出した。さらに年号を貞永に改め、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)などで国土豊年の祈禱が執り行われた。
 大飢饉で庶民の生活は困窮した。問題となったのが、自分はもとより妻子までも売るという、人身売買が続発したことだ(自分を売るとは、自ら奴隷になること)。これまで人身売買を禁じてきた幕府は対応を迫られ、苦境に立たされることになる。その事実を示すものが、次に掲出する法令であった。
 寛喜3年(1231)に餓死者が続出したため、飢人として富家の奴婢になった者については、主人の養育した功労を認め、その奴婢になることを認める(人身売買の許可)。人身売買は、その罪が実に重いものである。しかし、飢饉の年に限っては、許可するところである。ただし、飢饉のときの安い値段で、売主が買主から奴婢を買い戻す訴えを起こすことはいわれないことである、両者が話し合って合意し、現在の値段で奴婢を返還することは差し支えない。
 幕府は出挙米を供出するなど対策を行ったが、人身売買を許可せざるを得なかった。しかし、それは飢饉の年のみという時限立法の措置だった。恒久的な措置でなかったことに注意すべきで、人身売買の罪の重さを認識していた。そして、法令の後半部分では、予測されるトラブルを避けるための配慮もしたが、この措置はのちに幕府を悩ませる。
 この法令は寛喜3年(1231)の大飢饉から8年後の延応元年(1239)4月17日に発布されたものだが、この段階でも人身売買をめぐる問題は深刻だった。同年5月には、幕府が人身売買を禁止した様子がうかがえる(『吾妻鏡』)。
 その背景として、幕府は寛喜3年(1231)の大飢饉で人身売買を認めたものの、妻子や所従を売買したり、あるいは自ら富家の家に身を置く者が跡を絶たなかったという事情があった。それに伴う訴訟も増加していた。こうした問題を受けて、同年5月1日には六波羅探題に向けてある指示がなされた。
 それは訴訟で扱う範囲のことで、訴人(原告)と論人(被告)が京都の者であれは、幕府が関与しないという原則である。関東御家人と京都の者との裁判の場合は、幕府が定める法によって裁きを行うことになった。そして、最後の結びでは、改めて人身売買を禁止する旨の言葉で締め括られている。
 同年5月6日には幕府の下文が発給され、「綸旨」に任せ人身売買を禁止する旨が伝えられた。つまり、朝廷としても大飢饉以来の悪習を断ち切りたいと考えていたのである。
 一連の流れを考慮すると、寛喜3年(1231)の大飢饉を契機にして人身売買が常態化し、トラブルや訴訟が増加した様子をうかがえる。あくまで時限立法であったはずが、ことはうまく運ばなかったのである。その流れは、決して止むことがなかった。
 いずれにしても、食糧危機や飢饉は非常に怖い。国連の報告を待つまでもなく、私たちも真剣に考える時期に来ているようだ。
 渡邊大門
 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。
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 同じ日本人と言っても、戦後の歴史教育を受けた現代の日本人は戦前の歴史教育を受けていた昔の日本人とは違う。
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 武士も公家も、身分が低く貧しい庶民が死のうが生きようが気にはしていなかった。
 最も穢れた身分とは、血と死を生業とする武士であった。
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 日本民族とは、性善説を信じ、お人好しなほどに「お互いに助け合う」人々の事である。
 何故なら、日本列島で生きるには助け合わなければ生きていけないからである。
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 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本民族は、旧石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
 それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
 日本文化とは、唯一人の生き方を理想として孤独・孤立・無縁、わび・さび、捨てて所有しないを求める、「何も無い所」に時間と空間を超越し無限の広がりを潜ませる文化である。
 それが、日本人が好む「色即是空、空即是色」である。
 日本文化は、中国文化や朝鮮文化とは異質な独立した特殊な民族的伝統文化である。
 日本民族は、死を見詰め、死を抱きしめ、死を文化とし、死と共に生きた人である。
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 寛喜の飢饉(かんきのききん)とは、1230年(寛喜2年)から1231年(寛喜3年)に発生した大飢饉。鎌倉時代を通じて最大規模。
 概要
 飢饉が生じた前後の時期は、天候不順な年が続いており、国内が疲弊した状態にあった。既に1229年には、飢饉を理由に安貞から寛喜への改元が行われている。
 藤原定家の日記『明月記』にはその状況が詳しく書かれており、寛喜3年9月には北陸道と四国で凶作になったこと、翌7月には餓死者の死臭が定家の邸宅にまで及んだこと、また自己の所領があった伊勢国でも死者が多数出ていて収入が滞った事情が記されている。
 特に京都、鎌倉には流民が集中し、市中に餓死者が満ちあふれた。幕府は備蓄米を放出すると共に、鶴岡八幡宮で国土豊年の祈祷を行っている。翌1232年、貞永への改元が行われた。
 御成敗式目の制定の背景にも大飢饉にともなう社会的混乱があったといわれている。
 宗教的には、親鸞道元の活躍した時期と重なっており、とくに東国で親鸞が「絶対他力」を提唱したことについて、網野善彦は、こうした親鸞の思想の深化には、越後国から常陸国にうつった親鸞が、そこでみた大飢饉の惨憺たる光景に遭遇したことと深くかかわっていると指摘している。
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 何故、親鸞阿弥陀仏の「他力本願」に縋って念仏を唱え始めたのか。
 日本民族念仏宗教は死を受け入れて死と共に歩んできた。
 日本の歴史には、マルクス主義の反宗教無神論は有害無益であった。
 日本の宗教は、阿片ではない。
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 2023年11月1日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「「日本国の人口の3分の1が死に絶えた」鎌倉時代に起きた歴史的な異常事態とは?
 文化庁文化遺産オンラインより「蒙古襲来絵詞
 トラブルが起きて裁判に臨む際、現代ならば成文の法律がある。だが、源頼朝が1185年に東国に打ち立てた武家政権は、先例の積み重ねをもとに判決がくだされる慣習法の社会だった。1221年に後鳥羽上皇鎌倉幕府に戦いを挑んで破れると(承久の乱)、西日本に広がる上皇方の所領3000ヶ所に鎌倉方の力が及ぶようになる。こうして全国的な統治体制が求められる中、1232年に制定されたのが、武家を対象とする日本初の成文法「御成敗式目」だった。ときの執権北条泰時は、承久の乱幕府軍を率いて京都に攻め上った総大将。泰時にとって、まさに乱の総仕上げと言えるだろう。本稿は、佐藤雄基『御成敗式目』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです。
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● 御成敗式目に先立つ9年前に 地頭の行動を規制する定めを発布
 承久の乱の2年後、1223年(貞応2年)の「新補率法」(編集部注/新たに補任された地頭の取り分の比率を定めた)は、収穫前の6月に朝廷が官宣旨(公文書の一種)として発布し、7月に幕府はそれを施行している。御成敗式目に先立つこと9年前、式目よりも先に「有名な法」になったのは、この新補率法だった。
 鎌倉幕府の地頭は、謀叛人の所領没収などを契機にして、元の「職」が地頭職に切り替えられたものである。荘園領主への年貢納入などに関しては、元の「職」の権利義務を引き継ぐことが大原則だった。
 だが、承久の乱後、畿内・西国に大量の地頭が生まれ、多くの混乱が生じた。とりわけ、元の所職の得分が少ない場合、武士たちが困ってしまって、他の収益を得ようとして非法を行うことが問題化していた。そこで、彼らが非法を行わないように、承久の乱後の新地頭たちが一定の収益を得られるように定めたのだ、と官宣旨は述べている。
 新補率法の内容は、(1)田畠11町(1町の面積は約1ヘクタール)のうち1町は地頭分とし、(2)1段(1町の10分の1の面積)ごとに加徴米(一定の年貢以外に徴収する米)5升(1升は約1.8リットル)の徴収を認めていた。この宣旨を「施行」する関東御教書(鎌倉幕府が発給した文書)をみると、(1)(2)以外にも、(3)山野河海からの収益は、「折中」の法に従って、地頭と荘園領主国司とで半々にすること、(4)犯罪者への財産刑による収益は、地頭が3分の1、荘園領主国司が3分の2とすることなどを定め、また、(5)寺社は基本的には荘園領主支配下にあり、地頭が「氏寺・氏社」を私的に支配することは認めるが、ほかは先例に従うこと、(6)公文・田所・案主・惣追捕使などの荘園現地の役人ポストについて、場所ごとに設置状況が多様で、一概にはいえないが、基本的には先例に従うこと、などが定められていた。
 このうち、鎌倉幕府が独自に付け加えた(3)山野河海、(4)財産刑の収益に関する2つの規定は、その後の中世社会に大きな影響を及ぼしていく。
 まず(4)についてみていこう。中世には、警察業務を担ったからといって、その給料が税金から支払われていたわけではない。警察業務を担う専門の役人(惣追捕使など)が設定される場合もあったが、そもそもそうした役人が設定されていない所領もあり、その場合は一般の荘官などが警察行為を行わなければならない。
 そのような状況のもと、犯罪者の財産を没収したり、罰金を徴収してこれらを収入としたりすることが、犯罪を取り締まることのインセンティブになった。しかし、それはしばしば警察権の乱用につながった。荘園年貢などのように明確に配分ルールが定められたものと異なり、臨時収入である財産刑・罰金は地頭にとって権益拡大の切り口だったためである。新補率法では、軽犯罪への罰金のような日常的なレベルの警察業務でさえも、地頭と荘園領主の荘園権益をめぐる争いの中で、荘園制における権益の一つとなった。
 さらに1231年(寛喜3年)に幕府は「盗賊」への罰金刑の基準を定め、盗品の価値が「銭百文もしくは二百文」の軽罪は、盗品の価値の2倍を罰金、「三百文以上」の重犯罪には、犯人の身柄に処罰を加え(中世には犯罪者を奴隷とすることも一般的だった)、その財産も没収してよいが、親類や妻子、所従には罪を及ぼさないこととしていた。幕府以外の荘園領主や在地においても、この幕府法が参照されていた。地域ごとに慣行として犯罪者からの罰金徴収などが行われていたにせよ、新補率法やそれを前提にした幕府法が、罰金刑を社会に定着させ、処罰の相場観を形成していたのである。
 (3)の山野河海や検断(警察業務)に関する権益に関しても、それまで荘園制の中で明確な位置づけを得ないでいたが、新補率法によって制度的な位置づけを得た。山野河海の権益に関して、折半するというルールは、在地社会にも広がり、地域レベルでの紛争にも適用されていく。
● 御成敗式目の7年前の法令で 誘拐や人身売買が禁じられた
 式目が「有名な法」になる「地ならし」をしたものに、新補率法とともに、1225年(嘉禄元年)の「嘉禄の新制」を挙げることができる。新制とは、平安時代以来、代替わりや天災に際して、朝廷が政治改革のために発した法令であり、「徳政」すなわち良い政治を意味していた。儒教的な天人相関説(自然現象と人間の行為は対応関係にあるとする説)の影響のもと、良い政治を行えば、天変地異も収まると信じられていたからである。内容は贅沢禁止や身分秩序の回復など多様であるが、状況に応じて変わる。
 朝廷による「嘉禄の新制」を遵守するよう幕府は諸国御家人に命令し、誘拐(「勾引」)と人身売買が禁止されている。誘拐や人身売買の禁止は御成敗式目には規定がみえない。これらは「嘉禄の新制」で禁止されており、内容が重複するからだろう。こうして朝廷の新制を取り込むかたちで、武家法のシステムがつくられた。新補率法とこの「嘉禄の新制」が、武家法の出発点であるといえるだろう。のちに式目が有名になってしまった結果、これらは忘れられていくが、決して式目から武家法が始まったわけではない。
 地頭・御家人たちは、荘園現地において新制を根拠にして誘拐や人身売買を取り締まり、財産刑を科し、自分の権益としていた。新補率法にせよ嘉禄の新制にせよ、法が出て、それが周知されたからといって実効性を持つわけではない。それによって権益を得ることのできる地頭・御家人たちがその法を運用しようとした結果、社会の中で定着して、実際に周知のものになっていくというプロセスを見落とすことはできない。さらに幕府は朝廷の新制を実行するだけではなく、自ら新制を出すようになっていく。御成敗式目自体が幕府による「新制」という側面を持っていた。いよいよ1232年の式目の制定をみていくことにしたい。
● 朝廷が定めた古来からの律令があるのに あえて武家に向けた法を定めた理由とは
 執権北条泰時御成敗式目を制定するとともに、式目制定の事情について京都にいる弟の北条重時に書き送っている。重時は、鎌倉幕府が京都に代理人として置いた六波羅探題である。
 泰時は重時のほうから朝廷関係者に釈明するように求めている。このときの泰時の手紙が2通伝わっており、式目を理解するうえで重要な手掛かりになる。2通とも若干の漢字交じりの仮名書きで、式目や幕府法を集めた書物に収められ、現在に伝わっている。鎌倉幕府室町幕府の役人たちにとって、式目制定の趣旨を伝える泰時の書状が式目とともに重んじられていたのである。立法者が法の制定意図を書状にしたためて他者に説明するということ自体、前近代日本の法の歴史において他に例をみない稀有な出来事だった。
 泰時の1通目の書状(8月8日付)は、式目を一部送り届けるとともに、律令法があるにもかかわらず、式目を制定した理由を述べたものである。現代語訳を示す。
 人びとの訴えを裁くとき、もっぱら律令格式の法文に従って、裁判をするべきなのですが、田舎には律令のことをだいたいでも知っている者は、千人万人に一人でさえもいないのです。犯してしまえばたちまちに罰せられることが分かりきっている盗人・夜討のような罪でさえも企て、破滅してしまう者がたくさんいます。
 まして法令の中身を知らない者が罪の意識もなくしでかしてしまってきたことを、裁判のときに律令格式の法文に準拠して(幕府が)判断するのであれば、(その者からすれば)捕らえるための落とし穴のある山に入って、知らずして穴に落ちてしまうようなものでしょう。
 このためでしょうか、大将殿(源頼朝)の時代には、律令格式に準拠して裁判することなどありませんでした。代々の将軍の時代もまたそうしたことはなかったので、今日でもその先例を手本としてまねているのです。
 武士たちが法を知らなければ非法を犯してしまうから、武士たちに従わせる法を定めたという論理になっている。もちろん律令法は存在するが、武士たちのほとんどが律令法を知らず、幕府も頼朝の時代以来、慣習をもとにして裁判を行ってきたので、改めて成文法をつくり、武士たちに周知させたい、と述べている。泰時は続けてこう述べる。
 関東御家人・守護所・地頭にはあまねく披露して、この意図を心得させてください。とりあえず(式条を)書き写して、守護所(・地頭)には個別に配って、各国内の地頭・御家人たちに言い含めるようしてください。この式条に漏れたことがありましたら、追って書き加えるつもりです。あなかしこ。
 泰時が重時に対して、西国の守護に写しを配布して、よく周知するようにと伝えていることにも注目したい。武士たちが法を知らないために罪を犯してしまうことを恐れているという泰時の発言もこれに関わる。
 しばしば御成敗式目は武士の権利を保護するための法であると論じられてきた。しかし、まずこの式目の目的は、武士たちに非法を起こさせないことを目的としていたことに注意したい。そのためにこそ武士たちを「言い含め」て教化していくことが必要だったのであり、式目は、承久の乱後における武士非法の統制、「言い含める」法の系譜を引くものだった。中世の法として周知徹底を目指すのは例外的であり、そうしなければならないという危機意識があったのである。
● 未曾有の大飢饉をおさめるために 朝廷も幕府も政治改革を志向した
 御成敗式目がつくられた1232年(貞永元年)当時、日本列島は歴史的な大飢饉に襲われていた。後世「日本国の人口の3分の1が死に絶えた」と語り継がれた寛喜の大飢饉である。
 寛喜という年号は、1229年に飢饉を理由にして安貞より改元されたが、翌年も長雨と冷夏となり、1231年には大飢饉となって、京中は飢え死にした人びとの死体が腐臭を放つ状況であったという。30年代末までその影響は残り続けた。また、年貢の納入などが大打撃を蒙る中で、地頭と荘園領主などの間で荘園権益をめぐる紛争が激化し、幕府法廷における訴訟も増えた。ある意味で承久の乱よりも深刻な危機だった。
 このとき朝廷で政権を担ったのは九条道家である。将軍九条頼経の父親である道家は、京と鎌倉にまたがって大きな政治的な影響力を行使していた。1231年(寛喜3年)、道家のもとで朝廷は「寛喜の新制」を発している。神事・仏事の興行と寺社修造、朝廷公事、贅沢の禁止、身分に応じた服装の規定、警察・治安維持の強化などの内容を持ち、飢饉に対応して政治改革を行う姿勢が示されていた。
 朝廷の新制に先立って北条泰時は幕府に仕える人びとに贅沢の禁制を出していたし、続く御成敗式目は、第一条に神社、第二条に寺院の修復を掲げており、明らかに「新制」の形式が意識されていた。1156年(保元元年)の保元の乱後の保元新制によって記録所が設置されたように、訴訟制度を改革して、社会秩序を本来あるべき姿に戻すこともまた新制の眼目だったことに注意したい。式目は裁判の基準を示して「理非」に基づく公正な裁判を強調するという点においても、まさしく「新制」であり、徳政だったのである。
 式目制定の翌年、1233年(天福元年)には道家は「徳政奏状」を天皇に提出し、式目と同じく「理非」に基づく裁判を政治改革の眼目に挙げている。社会的な危機に対応して、朝廷と幕府が連携して政治改革を行うことは、鎌倉時代の大きな特徴だったが、式目はまさにその一環だった。
 佐藤雄基
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 12月15日 YAHOO!JAPANニュース「【その後の鎌倉殿の13人】鎌倉幕府執権・北条泰時は寛喜の大飢饉にどのように対応したのか
 寛喜3年(1231)は飢饉の年でした。鎌倉時代後期に編纂された歴史書吾妻鏡』には「今年、世上は飢饉」(同年3月19日条)と記されています。多くの百姓が飢え死にしそうな状況が現出したのです。それに対して、鎌倉幕府の執権・北条泰時は、どのように対応したのでしょう。先ず、泰時は自らが守護を務める伊豆国駿河国の民衆に「出挙米」(すいこまい)を施します。農民へ稲の種もみを貸し付けたのです。食料庫を有している者たちに言い聞かせて、その事を実行しました。
 担当の奉行は、豊前中務丞実景。実景は、泰時の仰せを受けて、文書を作成します。そこには次のように書かれていました(実景から、北条家の家臣・矢田六郎兵衛尉に宛てた3月19日付書状)。「今年、世間は飢饉のため、人民が餓死するという噂が流れている。これはとても不便である。伊豆や駿河において、貸付米を持っている輩がそれを放出しないので、人民は生活の仕様がないという。よって、早く、貸付米を与えよとの仰せである。後日、貸付米を与えなかったならば、報告にしたがって、処分する積もりである」と。泰時は出挙米(貸付米)を放出させて、領国で困窮する人々を救おうとしたのでした。
 濱田浩一郎
 歴史家・作家
 1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数
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2024年2月2日 YAHOO!JAPANニュース「【その後の鎌倉殿の13人】鎌倉幕府執権・北条泰時は飢饉の際、人身売買をなぜ容認したのか?
 鎌倉時代を生きる人々を襲った寛喜の大飢饉(1231年)は、日本国の人口の3分の1が死に絶えたと言われるほどの凄まじい飢饉でした。飢饉に際会した人々の間には「人身売買」が横行します。朝廷は人身売買を禁止する原則を崩しませんでしたが、鎌倉幕府はそれを容認したのです。なぜか?餓死者が続出するという一大事に際して、それを食い止めるためです。つまり、人々が生きていけるようにするため、人身売買を認めたのでした。幕府のこの処置は、飢饉に対する一時的なもの。飢饉が終息すると、幕府は人身売買を禁止する命令を発令しています(1239年)。朝廷からも、幕府に対して、人身売買を禁止せよとの申し入れがありました。
 飢饉が終わると、飢饉当時に安値で売却した妻子などを取り戻そうとする動きが起こります。そうした訴えが幕府になされることになるのです。売主と買主との間で揉め事も発生していたと思われます。幕府はそうした訴えにどう対処したのか。延応元年(1239)4月17日の「追加法」によると「売主が飢饉当時の値段で買い戻すことは認められない」としています。ただし「売主と買主が合意の上で、現在の価値に換算して買い戻すことは問題ない」とも付記しているのです。飢饉の際に人身売買を禁止することはかえって民衆のためにならない、民衆の嘆くところとなる。そうした観点から、幕府は人身売買を認めていたのです。飢饉に喘ぐ民衆を救いたいという幕府執権・北条泰時の想いがそこに反映されていたと思われます。
 濱田浩一郎
 歴史家・作家
 1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数
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