🏹26〕─1─「日本の海賊」を研究するフランス人ダミアン・プラダン氏。前期倭寇。~No.82No.83No.84 

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 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
 前期倭寇では、蒙古襲来で被害を受けた日本人が海賊となっていた。
 日本人海賊には、中国や高麗(朝鮮)に対する復讐権・報復権を持っている。
 後期倭寇では、中国人・高麗人・オランダ人が海賊となっていて、日本人は10人に1人か2人であった。
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 2024年4月26日 MicrosoftStartニュース COURRIER JAPON「なぜ「日本の海賊」を研究しようと思ったのですか? | フランス人倭寇研究者に聞く
 コロナ禍により中断していた、クーリエ・ジャポンの人気シリーズ企画が帰ってきた。「渋沢・クローデル賞」フランス側受賞者へのインタビューだ。
 【画像】「日本の海賊」を研究するフランス人ダミアン・プラダン氏
 今回は、前期倭寇に関する博士論文で第39回(2022年)渋沢・クローデル賞を受賞した歴史学者のダミアン・プラダン氏に、2年遅れの受賞記念講演会があった日仏会館で聞いた。
──フランスのどちらで生まれ育ったのですか。
 フランスの南部にアルビという都市がありますが、そこから車で15分くらいのラバスティード-ガボスという、人口400人ほどの田舎で生まれ育ちましたので、けっこうな田舎者です。
 そんな環境でしたので、家族も周りの人も、極東に関する知識はあまりないというか、日本と中国の区別もつかないレベルでした。高校で日本について習ったことはありましたが、本当に関心を持っていたとは言えません。
 高校3年生のとき、アルビの書店で『日本語のまねきねこ』という日本語の教科書を見つけ、「面白そうだな」と買いました。最初は独学で、やがて日本の大学で学ぶことになりました。そもそもは日本語という言語に魅力を感じて始めた勉強だったんです。
 なぜ「日本の海賊」を研究しようと思ったのですか? | フランス人倭寇研究者に聞く
 © COURRIER JAPON 提供
 日韓の歴史を結ぶテーマを探して、倭寇にたどり着いたというダミアン・プラダン氏 
──その後、歴史の研究者を志されたわけですが、何か決定的な本との出会いがあったりしたのですか。
 いろいろな本を読んで歴史への好奇心が出てきたのですが、そのなかで印象深かったのが修士課程に入ってから読んだオリヴィエ・シャピュイの著作『海においても、空においても』(1999年、未邦訳)です。
 日本の歴史とはまったく関係ない内容で、ボータン-ボープレという水路測量技師を紹介する本です。この人物はあまり有名ではないですが、18世紀末から19世紀初頭にかけて地図の作成法を編み出し、その分野では大きな影響を残しました。
 その技師のことを紹介する前に、技術の歴史がこの本に書かれていたのです。たとえば航海のときに緯度や経度をどうやって測ってきたか。どんな道具や方法を使っていたのか。その道具や方法は、どう変化していったのか。そういったことが詳しく説明されていました。
 それを読んだとき、「ああ、1冊の本にこんなに多くの知識を盛り込めるのか」と感銘を受け、私もいつかこのような立派な本を書きたいと思ったのです。
 倭寇を研究することになったいきさつ
──なぜ倭寇を研究しようと思ったのですか。
 学部を卒業して日本学の修士課程に進もうとしたとき、すでに修士論文は日本の歴史で書くと決めていました。ただ、日本だけでなくて、韓国についても知りたい、勉強したいと思っていたんです。
 それで日韓という二国の歴史を結ぶテーマがあればいいと思って、当時の先生に訊きました。先生はそういった分野の専門家ではなく、あまり知識がなかったので「それなら豊臣秀吉朝鮮出兵か、倭寇ではないですか」と言われました。
 もちろん日韓の歴史は戦争だけではないですが、それしか思いつかなかったわけです。当時の私は、豊臣秀吉朝鮮出兵についての知識をある程度持っていましたが、倭寇についてはほとんど何も知らず、インターネットで検索してみたら面白そうだった。それで2008年からずっと倭寇の研究を続けています。
──海賊は船や沿岸部の町を襲撃して掠奪をする暴虐な組織ですが、大衆文化では、カリブの海賊など、反骨精神にあふれた自由で豪胆なヒーローとして肯定的に思い描かれることもあります。海賊が大衆文化の想像力を掻き立てる理由は何だとお考えですか。
 海賊がいた時代、普通の人は被害者だったわけですから、海賊のイメージは非常に悪かったです。犯罪者とみなされていました。そう考えると、おそらくロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説『宝島』(1883年)が画期的で、その影響が大きかったのではないか。
 この小説が出たときには、海賊はもういなくなっていたので、小説の読者は被害者の立場からではなく、海賊の立場から考えられるようになったのです。それでロマンチックなイメージが成り立ち、いまや海賊といえば、カリブの海賊のイメージしか出てこなくなっています。世界史をひもとけば、どんな海にも海賊がいた時期があるわけですけれどもね。
 倭寇についても、日本が抱く倭寇のイメージと、韓国や中国が抱く倭寇のイメージは、かなり違うわけです。だから海賊のイメージも国それぞれ、背後にある文化によって変わります。
 なぜ倭寇は野放しにされたのか
──日本史の教科書では、14世紀の倭寇を前期倭寇、16世紀の倭寇を後期倭寇と分けています。前期倭寇は、対馬壱岐・松浦地方・五島列島の人が中心となり、黄海東シナ海の海域を制していたとのことです。なぜ朝鮮半島、中国大陸、日本の国家は海賊を取り締まれなかったのですか。
 正確に言えば、倭寇は13世紀から存在していましたが、その多くは小規模なもので、あまり遠くに行きませんでした。前期倭寇の活動が本格的に始まるのが1350年で、1419年を境に激減しましたが、それでも15世紀半ばまで続きました。
 なぜ海賊を取り締まれなかったのか。それは当時の東アジアの政治的環境が大きく変動していたからです。中国では元朝が滅びます。朝鮮半島では高麗王朝が滅び、李氏朝鮮李朝に代わります。日本でも南北朝時代に入るわけです。
 なので、東アジアでは全体的に中央政権が自国内の問題への対処で忙しく、あえて倭寇の問題に集中して取り組む余裕はあまりなかったのです。
──倭寇の襲撃は、どのようなものだったのですか。1年に何回ほど襲撃に出かけ、日数はどれくらいかけていたのですか。
 襲撃回数は、どこに行くのかによって変わります。朝鮮半島の南海岸なら、すぐに行ったり来たりできるので、1年に何回もできます。でも、中国北部に行くとしたら、日数もかかるし、季節風を使う必要があります。なので、多くても1年に2回。通常は1年に1回しか行っていないと思います。
 1回の遠征の日数がどれくらいだったか。これはもちろん距離によって変わるわけですが、通常は数ヵ月です。15世紀前半の話になりますが、中国南部だったら、季節風を利用する必要がありますから、対馬を2月か3月に出帆し、帰ってくるのは、だいたい5月頃なので、約3ヵ月かけていた計算になります。
 その1回が終わったら、中国南部に行くのは次の年まで待たなければならない。
 朝鮮半島の場合は、ちゃんと説明してくれる史料がなくてわかりにくい部分もあるのですが、やはり数ヵ月かけていたように思えます。朝鮮半島の島々を臨時拠点としてよく使い、滞在することもあったからです。どれくらい滞在していたのかはわからないのですが、滞在が1ヵ月以上になった事例もあるようです。
 倭寇はどれくらいの規模の集団だったのか
──倭寇の船団の船舶数は何艘ほどだったのですか。
 初期の1350年代、60年代だったら、だいたい100艘ほどですが、200艘に達した事例もあります。1370年代、80年代になると、船舶数はドッと上がります。高麗側の史料によれば、1380年の倭寇船団は500艘以上だったと書かれています。これはおそらく誇張を含んだ数ですが、数百艘はあったに違いありません。
 1390年を過ぎてから、船団の船舶数が減りますが、これは倭寇の船が変わったことと関係しています。倭寇は最初の頃、乗組員が10~20人の小さな船を使っていたのですが、1390年代から15世紀にかけて50~60人が乗れる船を使うようになった。100人乗る船もありました。
 だから船舶数が数十艘でも、人数はそんなに変わらなかったのです。2000~5000人の集団に該当するでしょう。当時の倭寇は、かなりの武力を持っていました。
 倭寇という言葉はいろいろなものを指すのに使われていますが、私自身はあまり使いません。使うなら、大きな船団を組織した海賊だけに限定すべきだと考えています。
 1~2艘の小さな船に乗った10~20人の盗賊は、どの時代にもずっといたわけですね。それも倭寇だと書く歴史家もいますが、私はやはりそのふたつを混同してはいけないと考えます。発生メカニズムが完全に違いますので、できれば別々の言葉、別々の歴史現象として扱う必要があります。
──襲撃の標的はどのように選んでいたのですか。
 風向きも標的を決める要素のひとつだったように思えますが、おそらく最も豊かな地域を狙ったり、防御設備や軍艦があまりない場所を探したりしていたのではないでしょうか。
 もちろん時期によっても襲撃の標的は変わります。倭寇が強い時期は、軍艦があっても、それをものともせずに軍艦と戦うわけです。でも、倭寇が弱い時期は、軍艦を避けて、ほかの地方に行ったりします。70年間の話ですから、いろんな場合があり、倭寇の活動も変化しています。
 倭寇が内陸まで攻め入ったかどうかも、時代ごとに変わります。1370年代と80年代は前期倭寇の最盛期であり、この時期には、おもに朝鮮半島で川を遡って、陸のかなり奥まで入っています。川を遡って上陸したあと、さらに遠くまで入っていったこともありました。
 たとえば1380年代の前半、高麗が最も弱かった時期には、海岸から100キロ以上も陸を進んでいる事例もあります。ただ、それは一時期のことに過ぎず、その前と後は、そこまで深入りはしていませんでした。
 前期倭寇が奪っていたもの
──前期倭寇は何を戦利品として掠奪していたのですか。1回の遠征で、いまの日本円に換算して何円相当の戦利品を得ていたのか、わかりますか。
 残念ながら、そこまではわかりません。私もユーロ換算でいくらになるのか知りたいです。ただ、史料で倭寇が奪ったものとして最も頻繁に出てくるのは、米などの穀物と奴隷です。
 それが倭寇にとって重要な戦利品だったこともあるのですが、なぜこのふたつが史料にいつも出てくるのか。それは史料を作成したのが、高麗の政府や中国の中央政権だったこととも関係しています。
 中央政権にとって何が最も重要かといえば、それは政府の収入であり、当時は穀物が税金の代わりだったのです。また、その穀物を生産するのは誰かといえば、それは人です。ですから人々の拉致にも敏感であり、それを書き留めていたわけです。
 倭寇は、価値がありそうなものは全部、獲っていったように思えます。仏像やお経、陶磁器だけでなく、お寺の鐘など、手に入るものを全部、日本に持ち帰ったのです。それがどれくらいの価値だったか。それがなぜわからないかというと、合計でどれくらいの量を持ってきたのかがわからないからです。
 加えて中世の日本では、ものの値段がかなり上下しました。たとえば飢饉になれば、穀物の値段は上がりますが、その一方で(穀物を食べる)奴隷の値段は逆に下がります。ですから、価値の計算はほぼ不可能なのです。
 たとえば1375年に鎌倉で高麗の鐘が十貫文で売られた話が史料に出てきます。ただ、これは額が低いように思えますし、それが大きな鐘だったのか、小さい鐘だったのかも知りえません。ひとつのデータポイントとしては面白いですが、そこから全体を計算するのは無理です。
──倭寇が連れ去った人の数の推算も難しいですか。
 それも難しいです。奴隷として連れ去った人の数は、合計すると数万人以上だったはずです。10万人を超えるかもしれません。しかし、そこも全体的には知ることができません。(続く)
 続編では、前期倭寇と日本の大名とのつながりから、言語学習の秘訣、漫画『ワンピース』の話まで、縦横無尽にプラダン氏が語る。
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 4月26日 MicrosoftStartニュース クーリエ・ジャポンクーリエ・ジャポン「フランス人倭寇研究者に聞く
 日本の海賊の研究者というと『ワンピース』のことを必ず訊かれる
 フランスではいつも『ワンピース』のことを訊かれるというダミアン・プラダン氏 
 フランス人倭寇研究者インタビュー
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 倭寇の恩恵を受けた大名はいたのか
──日本の守護大名は、倭寇の活動の恩恵を受けていたのですか。
 これは学会では議論になっている点です。結論から言うと、私は大宰府を拠点にしていた少弐氏(しょうにし)と、その家来だった対馬の宗氏(そうし)が大きな役割を果たした説を支持しています。彼らが倭寇の活動から莫大な利益を得ていたように見えます。
 たとえば高麗と往来していた船に、高麗公事(こうらいくじ)という税を課していたことが史料からわかります。公事とは税のことです。それから唐人、つまり奴隷にも特別な税を課していました。つまり、倭寇の活動に税を課していたわけです。
 さらに、倭寇が持ってきた品物が少弐氏の元に流れる傾向があったように見えます。なので、おそらく倭寇の活動がもたらした経済効果は、少弐氏や宗氏にとって、とても重要だったと考えています。
 韓国の李領(イ・ヨン)などの歴史家は、倭寇が本格的に始まった1350年が観応の擾乱(1349〜52年、室町幕府の内部抗争が全国的な争乱に発展)の始まりと重なることに着目し、少弐氏が自分たちの軍事活動を支えるための兵糧米を高麗からとってこいと倭寇に命令を出した可能性が高いという説を唱えています。
 残念ながら明確な史料がないので、はっきりとは言い切れないですが、この説が当たっている確率が高いと私は考えています。
 「渋沢・クローデル賞」受賞記念講演をするダミアン・プラダン氏 Photo: Yuki Fukaya / COURRiER Japon
 前期倭寇頭目たち
──早田左衛門大郎(そうださえもんたろう)や阿只抜都(あきばつ)といった前期倭寇頭目については、どれくらいのことがわかっているのですか。
 阿只抜都は、韓国語ではアギバルドと読みますが、この人物のことはほとんど何もわかりません。彼が登場する史料は全部、1380年の荒山(こうざん)の戦いに関する史料です。この荒山の戦いで、後に朝鮮王朝(李朝)を樹立する李成桂(イ・ソンゲ)がアギバルドと戦ったことになっています。
 つまり、アギバルドは李成桂に関する史料、もっと言うなら李成桂の伝説にしか出てこない人物だとも言えます。この史料は、李成桂の継承者が、自分たちが樹立した新王朝を正当化するために作ったものです。李成桂の活動についても、まったくの創作とは言いませんが、美化されているのは事実です。
 そこにはアギバルドという15~16歳の勇気のある若い武士がいたが、最後は李成桂によって討ち取られたといった話が書かれていて、アギバルドは李成桂の引き立て役に終始しています。そんな信憑性の低い史料ですから、アギバルドについて正確なことは何もわかりません。
 そもそもアギバルドは、日本人の名前ではありません。アギは韓国語で「赤ちゃん」の意味で、バルドは、モンゴル語で「勇気のある武士」を意味する言葉に由来します。英語風に言うなら「ベイビー・ウォリアー」といったあだ名でしかありません。
 一方、早田左衛門大郎には、かなりの情報があります。史料に最初に登場するのは1396年です。その年、彼は倭寇の大船団を率いて朝鮮の島に上陸し、朝鮮側に「私たちは降伏したい」と伝えて連絡をとり、交渉の末、朝鮮王朝のために働くようになりました。
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☷41〕─1─誠信女子大学教授は「日本の靖国神社集団参拝」を世界のメディアに告発した。~No.101 

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 2024年4月25日 MicrosoftStartニュース 中央日報「日本の靖国神社集団参拝に…徐坰徳氏「世界のメディアに告発」
 日本超党派の国会議員約90人が靖国神社を集団参拝して議論になっている中、誠信(ソンシン)女子大学の徐坰徳(ソ・ギョンドク)教授がこれを世界の主要言論に告発した。靖国神社には太平洋戦争A級戦犯が合祀されている。
 25日、徐教授は自身のインスタグラムに「AP通信、ロイター通信、CNN、BBC、ニューヨーク・タイムズ新華社通信など世界主要20カ国約50のメディアに靖国神社および参拝についての問題点を一つひとつ指摘した」と明らかにした。
 これに先立ち、21日には岸田文雄首相が靖国神社に供物を奉納し、新藤義孝経済再生担当相は靖国神社を訪れて直接参拝した。
 徐教授は「告発メールで靖国神社を日本の政治家たちが持続的に参拝するのは自分たちの侵略戦争を『正当化』しようとする狙いで、歴史を否定する行為だと強調した」と伝えた。
 また「今後、北東アジアの平和と繁栄のために日本のこのような行為を全世界に広く知らしめて世界的な世論が形成されるように協力してほしいと呼びかけた」と説明した。
 靖国神社明治維新戦後、日本で起きた内戦と日帝が起こした数多くの戦争で亡くなった246万6000人余りの英霊を追悼する施設だ。
 特に極東国際軍事裁判により処刑された東條英機元首相など太平洋戦争A級戦犯14人も合祀されている。徐教授は「世界的な世論を通じて日本の間違った部分を引き続き圧迫していく」と付け加えた。
 関連するビデオ: 高市氏も靖国神社参拝…閣僚2人目 岸田首相は真榊奉納のみ 春の例大祭 (日テレNEWS NNN)
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 4月26日 MicrosoftStartニュース 産経新聞「「日本の軍国主義の忌まわしい象徴」 ロシア外務省報道官が議員連盟靖国参拝を非難
 ロシア国旗
 © 産経新聞
 ロシア外務省のザハロワ報道官は25日の記者会見で、日本の超党派議員連盟が先に東京の靖国神社を一斉参拝したことについて「20世紀前半の日本の野蛮な拡張主義と攻撃的な政策に苦しんだ近隣諸国の国民感情を傷つけるものであり、強く非難する」と述べた。靖国神社は「日本の軍国主義の忌まわしい象徴」だとも主張した。
 ロシアは従来、日本の国会議員による靖国参拝を特段問題視しない姿勢を示していたが、ウクライナ侵略に伴う日露関係の悪化を背景に方針を転換。ザハロワ氏は昨年10月にも、国会議員による靖国参拝について「日本は自身の恥ずべき歴史の1ページを白紙化しようとする試みをやめるべきだ」などと述べていた。
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 4月5日 産経新聞「まだまだ根強い「反日病」 
 有料会員記事
 黒田 勝弘
 昨年7月、リトアニアで会談前に握手する韓国の尹錫悦大統領(左)と岸田文雄首相。韓国の知識人は反日主義から脱却できるのか(共同)
 これまで日本との〝歴史戦争〟の先頭に立ってきた韓国の国策研究機関「東北アジア歴史財団」の朴枝香(パクジヒャン)・新理事長(71)がこのほどメディアとの懇談で語った「若い世代に(反日的な)歴史認識を強要すべきではない」とする所信が非難の対象になっている。
 新理事長(女性)はソウル大名誉教授(西洋史)で保守派として知られる。今回の人事および発言は「日本に謝罪を要求するのはもうやめよう」という尹錫悦(ユンソンニョル)政権の新しい対日観に沿ったものだが、歴史にこだわり日本に謝罪と反省を求め続ける〝反日守旧勢力〟の存在は依然、根強い。新理事長に対する非難を機に守旧抵抗勢力の手法を改めて振り返ってみる。
 この財団は教育省傘下で2006年設立。学問、政治、外交が一体となって日本や中国をはじめ国際社会に韓国の歴史認識を広げることが目的だった。特に日本との関係では領土問題や慰安婦問題、日本海名称問題で日本批判を精力的に展開してきた。歴代の理事長の多くは韓国史や日韓史研究者だったが、今回初めて西洋史(英国史)専攻の朴枝香氏が任命された。
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 4月24日 産経新聞「林長官「尊崇の念当然」 靖国巡る中韓反発に
 記者会見する林芳正官房長官=22日午前、首相官邸(春名中撮影)
 林芳正官房長官は22日の記者会見で、靖国神社に「真榊」と呼ばれる供物を奉納した岸田文雄首相に対する中韓両国の反発に関し「私人の立場で奉納したと理解している。どの国であれ、国のために命をささげた方々に尊崇の念を表することは当然だ」と述べた。「今後とも隣国である両国を含む国々との関係を強化していく方針は変わらない」とも強調した。
 首相は21日、靖国神社の春季例大祭初日に合わせ「内閣総理大臣 岸田文雄」名で真榊を奉納。同日、新藤義孝経済再生担当相が参拝した。
 在日本中国大使館は「断固反対する」と非難。韓国外務省も「深い失望と遺憾を表する」との報道官論評を発表した。
 靖国神社の春季例大祭に合わせて岸田文雄首相と尾辻秀久参院議長が奉納した「真榊」=21日、東京・九段北
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 4月21日12:18 産経新聞「韓国、岸田文雄首相の靖国奉納に「深い失望と遺憾の意」 外務省報道官論評を発表
 桜井 紀雄
 ソウル市内に掲げられた韓国国旗
 【ソウル=桜井紀雄】韓国外務省は21日、靖国神社岸田文雄首相が供物を奉納し、一部閣僚が参拝したことについて「深い失望と遺憾の意を表する」との報道官論評を発表した。
 論評は「日本の責任ある指導者らが歴史を直視し、過去への謙虚な省察と心からの反省を行動で示すこと」を促すとし、それが未来志向的な日韓関係発展の「重要な土台」になると強調した。
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 4月21日 産経新聞「韓国、岸田文雄首相の靖国奉納に「深い失望と遺憾の意」 外務省報道官論評を発表
 桜井 紀雄
 ソウル市内に掲げられた韓国国旗
 【ソウル=桜井紀雄】韓国外務省は21日、靖国神社岸田文雄首相が供物を奉納し、一部閣僚が参拝したことについて「深い失望と遺憾の意を表する」との報道官論評を発表した。
 論評は「日本の責任ある指導者らが歴史を直視し、過去への謙虚な省察と心からの反省を行動で示すこと」を促すとし、それが未来志向的な日韓関係発展の「重要な土台」になると強調した。
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 2023年10月17日18:20 産経新聞「韓国、岸田首相の靖国奉納に「深い失望」
 岸田文雄首相が靖国神社の秋季例大祭のため、真榊を奉納した=17日午後、東京都千代田区(斉藤佳憲撮影)
 【ソウル=時吉達也】岸田文雄首相が17日、靖国神社の秋季例大祭に合わせ「真榊(まさかき)」と呼ばれる供物を奉納したことに対し、韓国外務省の任洙奭(イムスソク)報道官は同日の定例記者会見で「深い失望と遺憾」を表明した。
 任報道官は「日本の責任ある指導者たちが歴史を直視し、過去の歴史に対する謙虚な省察と心からの反省を行動で示すよう促す」と述べた。
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 10月17日18:30 産経新聞「中国、岸田首相の靖国奉納「断固反対」
 靖国神社の秋季例大祭に合わせ岸田首相が奉納した「真榊」=17日午前、東京・九段北
 中国外務省の毛寧副報道局長は17日の記者会見で、岸田文雄首相が靖国神社の秋季例大祭に合わせて「真榊」と呼ばれる供物を奉納したことについて「後ろ向きな動きに断固反対する」と反発した。
 毛氏は日本政府に厳正な申し入れをしたと表明。日本に「侵略の歴史を直視して反省」することを求め「軍国主義を徹底的に断ち、実際の行動でアジアの隣国や国際社会の信頼を得るよう促す」と述べた。(共同)
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 中世キリスト教会・イエズス会伝道所群と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として世界中に輸出していた。
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 日本軍は、戦場で敵兵と便衣隊を殺す戦争犯罪を行ったが、同じ戦場で敵国人を助ける人道貢献と戦争を止める平和貢献を行っていた。
 昭和天皇東条英機松岡洋右松井石根A級戦犯達の靖国神社、軍部・陸軍は、反ユダヤの宗教的人種主義が支配する世界から助けたユダヤ人に裏切られた。
 松岡洋右ヘブライ文化研究者・小辻節三が、ポーランドユダヤ人難民数万人をヒトラースターリンの魔も手から救っていた。
   ・   ・   ・   
2024-01-08
💖目次)─8─近代天皇と軍部・陸軍の人道貢献・平和貢献。「歴史の修正」は悪なのか?~No.1 * 

日中戦争
2019-05-13
💖18)─1─河南省黄河防爆破と大洪水。溺死100万人以上。日本軍は中国人10万人以上を助けた。1938年〜No.68No.69No.70No.71・ 
2019-05-15
💖18)─2─河南省大飢饉。日本軍は戦争をしながら飢餓民約1,000万人を助けた。日本軍の敵兵虐殺事件。1940年No.72No.73No.74No.75・ 
2019-05-16
💖18)─3─日本軍は河南省救援物資輸送路を死守した。大陸打通作戦。泰緬鉄道。日本軍兵士の餓死・病死。1944年〜No.76No.77No.78No.79・ 
   ・   ・   ・   
日本陸軍防疫部隊が中国人を救った。
2020-06-14
💖19)─1─日本軍は中国軍が行った堤防破壊、井戸への毒やコレラ菌投入の尻拭いをしていた。〜No.80No.81No.82No.83・ 
   ・   ・   ・   
中国共産党の非人道行為。
2019-05-17
💖20)─1─中国共産党は、日本人戦病餓死者の尊厳を穢し、霊魂を冒涜し、慰霊の場を踏みにじる。〜No.84No.85No.86No.87・ 
   ・   ・   ・   
キリスト教の日本に対する宗教侵略。
2019-03-19
💖21)─1─アメリカのCPIとアメリカ・キリスト教会が日本を戦争へと追い詰めた。〜No.88No.89No.90・ 
   ・   ・   ・   
日本の軍部・陸軍とユダヤ人。
2019-03-20
💖23)─1─オトポール事件。軍国日本とポーランドユダヤ人難民達。上海のユダヤ系サッスーン財閥。1932年〜No.94・
2020-09-17
💖23)─2─ユダヤ人難民をナチス・ドイツから助け守った日本の軍部・陸軍。〜No.95 
2021-05-07
💖23)─3─ユダヤの東條批判。中国・韓国に告ぐ「靖国神社に戦犯は祀られていない」。〜No.96  
2023-07-27
💖23)─4─「ヒグチ・ルート」で生き延びたユダヤ人難民の子孫が語る。〜No.97 
2023-08-02
💖23)─5・A─欧米が嫌いナチスソ連も恐れたユダヤ難民を保護して助けた日本・ルート。〜No.98 
2023-08-14
💖23)─5・B─松岡洋右は親ユダヤ派として陰でユダヤ人難民達を助けていた。〜No.98 
2023-08-15
💖23)─5・C─ユダヤ人の命のビザ発給は日本陸軍東条英機)の功績であった。〜No.98 
2023-08-16
💖23)─5・D─軍国日本はなぜユダヤ人を虐殺しなかったのか?〜No.98 
   ・   ・   ・   
神戸とポーランドユダヤ人。
2019-03-21
💖24)─1・A─ポーランドユダヤ人難民を助ける事に、日本軍部は協力し、日本外務省は猛反対した。1940年〜No.99・ 
2021-05-04
💖24)─1・B─ユダヤ難民救った独自ビザ発見、外交官・根井三郎の功績。〜No.99 
2023-01-16
💖24)─1・C─「命のビザ」を発給 宮崎市出身の外交官・根井三郎の功績。〜No.99 
2020-09-16
💖24)─2・A─JTBとポーランドユダヤ人難民。天草丸。〜No.100 
2021-05-05
💖24)─2・B─ユダヤ人の救世主・JTB職員大迫辰雄。天草丸によるユダヤ人難民輸送。〜No.100 
2020-09-15
💖24)─3・A─杉原命のビザを持ったポーランドユダヤ人難民は敦賀に上陸した。敦賀空襲。〜No.101 
2022-03-22
💖24)─3・B─ユダヤ元難民「敦賀は天国のようだった」。避難と救済。〜No.101 
2020-09-14
💖24)─4・A─ポーランドユダヤ人難民を保護した神戸市民と神戸空襲の地獄。〜No.102 
2022-12-03
💖24)─4・B─軍国日本の商業都市神戸は、ポーランドユダヤ人難民を保護し支援した。〜No.102 
2023-01-29
💖24)─4・C─日本陸軍主導、東南アジア占領地でユダヤ人保護。英傍受公電で裏付け。〜No.102 
2023-02-28
💖24)─4・D─軍国日本の国際港神戸を「人道貢献」の世界記録遺産にすべきである。〜No.102 
   ・   ・   ・   
アメリカ・ユダヤ人。ニューヨーク・ユダヤ人共同配給委員会。
2019-03-22
💖25)─1─上海ユダヤ人ゲットーとアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会(ジョイント)。イェドヴァブネ事件。1940年〜No.103・ 
2020-05-20
💖25)─2─アメリカ・ユダヤ人とセントルイス号事件。ブルメンソール元財務長官。〜No.104No.105No.106・ 
   ・   ・   ・   
日本租界内の上海ゲットー。
2019-03-24
💖26)─1─上海ホロコースト未遂事件。日本陸軍松岡洋右ゲシュタポユダヤ人虐殺を阻止した。1942年〜No.107・
2021-03-29
💖26)─2─日本軍占領下の上海ゲットー・上海ユダヤ難民資料は世界記憶遺産申請に値する。〜No.108No.109No.110  
   ・   ・   ・   
 中国共産党が弾劾するところの、第二回南京事件ホロコーストではない。
 韓国や北朝鮮が告発するところの、朝鮮人従軍慰安婦や強制徴用もホロコーストではない。
   ・   ・   ・   
2018-12-05
🎺40:─6─日本陸軍部隊は、漢口大空襲の中から数十万人の中国人を救出し保護し収容し治療して助けた。1944年12月17日。~No.188No.189No.190No.191・ @ 
   ・   ・   ・   
連合軍はユダヤ人の救出より戦争の勝利を優先した。
2020-09-19
💖27)─1─アメリカとイギリスは、ユダヤ人児童約2万人の救出を拒否した。ヒムラー友の会と国際稀金融資本。1942年〜No.111 *
2020-09-20
💖27)─2─欧米諸国はホロコーストを黙認しユダヤ人を助けなかった。〜No.112No.113No.114No.115  
   ・   ・   ・   
中国共産党の陰謀。
2019-03-28
💖28)─1─中国共産党による「日本はホロコースト犯罪国家である」という国際世論操作。〜No.116・ 
2024-03-30
💖28)─2─国際的反日天皇勢力によるウソの「日本軍3000万人虐殺説」。〜No.117No.118No.119No.120 
   ・   ・   ・   
人道貢献を人々の悲惨な末路。
2019-03-30
💖29)─1─人道貢献をした、A級戦犯は縛り首で殺され、昭和天皇戦争犯罪者と罵倒されている。2016年〜No.121No.122・ 
   ・   ・   ・   
海洋民の日本民族は古代から海難救助の民であった。
2019-03-30
💖30)─1─日本人漁民は目の前で難破船した遭難者を助けた。〜No.123No.124No.125 
   ・   ・   ・   
中国共産党の親ユダヤ派弾圧。
2020-05-21
💖31)─1─ユダヤ人難民を助けた中国人シンドラー中国共産党の敵であった。〜No.126No.127No.128No.129No.130・ 
   ・   ・   ・   
アメリカの宗教的人種差別。
2019-04-03
💖32)─1─アメリカにおける、黒人の暴動と非暴力の日系アメリカ人。〜No.131No.132No.133No.134・ 
2019-04-04
💖32)─2─アメリカの人種差別主義者・白人至上主義者による反ユダヤ犯罪と反黒人暴動。〜No.135No.136No.137No.138・ 
   ・   ・   ・   
敵を弔う。
2021-06-20
💖33)─1─日本民族は敵味方に関係なく死者は等しく弔った。松井石根 と興亜観音。〜No.139No.140No.141No.142 
   ・   ・   ・   
2021-09-29
💖38)─1─1942〜44年のベンガル飢饉と東條内閣。餓死者約300万人。〜No.159No.160No.161No.162 
   ・   ・   ・  
2022-01-05
💞目次」─3・C─ユダヤ人をホロコーストから救った人と見捨てた人々、実行した人。戦うユダヤ人。〜No.1 * 
   ・   ・   ・   
2020-05-20
💖25)─2─アメリカ・ユダヤ人とセントルイス号事件。ブルメンソール元財務長官。〜No.104 
💖27)─2─欧米諸国はホロコーストを黙認しユダヤ人を見捨てた。〜No.112No.113No.114 
   ・   ・   ・   
2018-10-23
🎄43」─1─第二次世界大戦ユダヤ人難民船セントルイス号事件。ニューヨーク万博。ユダヤ人難民船タイガーヒル号事件。1938年~No.140 @ 
2018-11-12
🎄54」─2─ローマ教皇は、ホロコースト情報を聞いていたが公言せず全世界に向けてクリスマス・メッセージを放送した。ドイツ軍の敗走。1942年8月~No.182No.183No.184・ 
2022-09-25
🎄58」─2─アメリカとルーズベルトユダヤ人救済は1944年以降だった。~No.198No.199 
2018-11-25
🎄59」─1─絶滅収容所におけるユダヤ人の反乱。目の前の救済責任を放棄した赤十字国際委員会とドイツ赤十字。~No.200 @ 
2018-12-02
🎄61」─2─キリスト教徒はホロコーストから生還したユダヤ人を襲った。ユダヤ人はドイツ東部でドイツ人民間人約150万人を虐殺した。オデッサ・ファイル。・1945年7月26日~No.208No.209No.210・ @ ⑮
2020-09-28
🎄63」─1─共産主義圏でのホロコースト生還者に対するキェルツェ虐殺事件。1946年7月4日。~No.214No,215No.216 ⑯ 
   ・   ・   ・    

☲21〕─3・B─パプアニューギニアの老人は「日本兵とたくさん遊んで楽しかった」と語った。~No.69 

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 ニューギニア攻防戦では、東西ニューギニアで日本軍18万人以上、豪軍8千人、米軍1万4千人の戦死者、戦病死者を出し、また現地人にも多くの犠牲者を出した。さらに、日本軍の中には、台湾高砂族による高砂義勇兵や朝鮮志願兵、チャンドラ・ボース支援のインド兵やインドネシア人兵のほか、漁船ととも徴用され戦死した本土の漁師がいた事も忘れてはならない。
   ・   ・   ・   
2018-04-11
🍙21〗─4─昭和16年6月 戦争回避を目的とした幻の「ニューギニア島日本売却」提案。~No.101No.102No.103・ @ 
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 2024年4月24日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「「日本兵とたくさん遊んで楽しかった」パプアニューギニアの老人からそう聞かされて、社会学者が戸惑った理由
 大野 哲也
 © PRESIDENT Online
 社会学とはどのような学問なのか。桃山学院大学大野哲也教授は「社会学では『従来とは異なる視点』で対象を捉える。例えば『戦争は100%悲惨だ』という前提をいったん留保して、『なぜ私は、戦争は100%悲惨だと思っているのか』と自問自答するのが社会学的思考法だ」という――。
 ※本稿は、大野哲也『大学1冊目の教科書 社会学が面白いほどわかる本』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
 1988年から2年間、パプアニューギニアで暮らしていた
 今からさかのぼること三十数年、1988年から90年にかけての2年1カ月間、大洋州に浮かぶ島国パプアニューギニアで暮らしていた。当時この国は「地球最後の秘境」と呼ばれ、日本社会で生きてきた者にとってはまさに異文化、毎日が驚きの連続だった。
 この国は第二次世界大戦時に激戦が繰り広げられた場所で、多くの日本兵が命を散らした悲惨な記憶の場でもあった。15万の兵士が送られ、12万8000人が命を落としたといわれている。大半は銃弾ではなく、食糧不足による飢えと、蚊を媒介にして罹るマラリアによって倒れたのだった。
 日本にとっては凄惨な歴史を有する国だが、住んでいた頃は、そのような面影はところどころに転がるように放置されている朽ち果てた戦闘機や軍事車両にみることができる程度であり、そこに暮らす人たちも戦争のことを話題にすることはまったくなかった。
 異国の地で「ニホンジンですか」と話しかけられる
 ただ、一度だけ面白い経験をした。仕事でラバウル島に行った時のこと、町を散策していると一人の老人がふらりと近づいてきた。自分たちとは肌の色や髪の毛の質がまったく違うアジアの人間をみつけて、興味と好奇心がむくむくと湧き上がってきたのかもしれない。
 おじいさんは出し抜けにこういった。「ニホンジンですか」。見知らぬ「外国人」がたどたどしくも正確な日本語を突然話したのでびっくりしたが、ともあれ、戸惑いつつ「そうです」と日本語で答えた。そうすると「おーっ」と歓声をあげて、満面の笑みをたたえながら「もしもしカメよ、カメさんよ」といきなり歌い出した。そして完全な歌詞と発音とメロディーで一番を歌い終えるとまたもや唐突に「タナカさんは元気ですか」といった。
 頭のなかが「?」マークでいっぱいになった私に彼が語ったところによると、その真相はこうだった。
 「第二次世界大戦中に日本兵がたくさんやってきた」
 「彼らは、当時、子どもだった私とよく遊んでくれた」
 「タナカという人に日本語を教えてもらった」
 「その時に“もしもしカメよ”の歌も教えてくれた」
 「タナカはとてもよい人だった」
 「彼は元気か?」
 戦争には「悲惨」以外の見方がある
 戦争に関して誰かがなにかを語り、メディアが伝えるときには、いかに残忍で悲惨で浅はかな行為であるかが強調される。「日本は唯一の被爆国」という言葉や、夏の高校野球のテレビ中継でかならず放送される8月15日の終戦記念日の黙祷などは、そのような集団的心象を象徴している。この姿勢は絶対的に正しい。「破壊と殺戮はよい行為だ」「どんどんするべきだ」とは誰も思わない。武力攻撃は人間性の否定と冒瀆であり、モノと自然と命の蕩尽であり、愚の骨頂である。
 だが個人の記憶レベルになると、戦時の楽しい記憶がよみがえることがある。微笑みながら「もしもしカメよ」と口ずさみ、歌を教えてくれた兵士タナカの今を気遣う心持ちは、自分とはなんの関係もない、いわばとばっちりともいえる交戦をけっして喜んではいないものの、非日常のなかの日常の一場面では、子ども心に楽しさがあったことの証左である。
 戦争をこのような視点からみたことはなかった。戦火を生き延びた父母と祖父母から断片的に聞く話は「食べるものがなくて生のドングリを食べた」「東京から着の身着のまま岡山に疎開した」などの定番化した苦労話ばかりだった。なので「楽しかった」という話はとても新鮮でインパクトがあった。30年以上も前の話なのにいまだにその光景を鮮明に再現できるのは、モノやコトを違う視点から見てみることの驚きがあまりにも強烈だったからだろう。
 社会学の本質=「違う視点でものごとをとらえる」
 字面だけをみると社会学はとても簡単そうだ。なにせ「社会」を「学ぶ」のだから、「社会について考えるのだろう」とすぐに了解してしまう。しかも対象となる「社会」はあまりにも見慣れ、聞き慣れたコトバだ。
 大学入試で面接を担当するとき、「社会学ってどんな学問だと思っていますか」と質問することがある。すると多くの受験生は胸を張って「歴史とか政治とか社会問題とかを考えることです」と答える。その声を聞くたびに、笑みを保ったまま少しがっかりする。
 核心はその部分にはないからだ。
 ではエッセンスはなにか。パプアニューギニアで出会ったあの老人が、すでに教えてくれている。彼は社会学を生きているといえるのだ。
 社会学の心髄、一番重要な部分は「従来とは異なった視点で対象を捉える」ことにある。このことをもう少し深く考えてみよう。
 「缶ジュース」はどんな形に見えるか
 あなたの目の前に一本の缶ジュースがある。まず真正面に立ってみよう。どんな形に見えるだろうか。実際は円柱だが、そうは目に映らない。シルエットだけに限定すれば長方形に見えるはずだ。それを確認したうえで、次に上方にアングルを移動させてみよう。そうするとまん丸に見える。
 これが社会学的方法論である。
 なんだか、凡庸すぎて馬鹿にされたような気分になるかもしれない。しかしこのとき頭のなかでは、相当複雑な作業をしているのだ。円柱であることがすでにわかっているモノを、その「わかっている」をいったん横に置いておいて、長方形や真円だと認識・判断するのだから。
 パプアニューギニアの老人をもう一度振り返ってみよう。彼は戦争が悲惨なことは当然ながら理解している。そのうえでそのような感情や知識をいったん留保して、戦場で経験した楽しい思い出を語ったのである。「凄惨な現場だったけれども、こういうこともあったのだよ」と。
 自分自身のことも「新たな視点」で見てみよう
 私たちは日常生活を生きる実践の蓄積によって、知らず知らずのうちに視線を据えつけてはいないだろうか。「戦争はもっとも愚かな行為」「社会から犯罪はなくすべき」「女性がスカートを穿くのはよいが、男性がスカートを穿くのはおかしい」など、「○○はこうあるべき」というような価値観や意見、見る角度を固定化してしまっている。あるいは日々を生きるプロセスで、周囲(=社会)からの影響を受けて一定の型に嵌め込まれていっている。
 老人が戦時下での楽しい思い出を語ったことに驚いたのは、私に「戦争は100%悲惨だ」という前提があったからだ。社会学的思考法は「なぜ私は、戦争は100%悲惨だと思っているのか」と自問自答することにつながっているのだ。
 思考実験としての社会学は、自分自身について一所懸命に考えることと同一だ。「あなた」の存在をいったん保留したうえで、あなた自身について考えることなのである。こうした学問は、小中高校で学ぶ知識のありようとは異なっている。そこでの勉学は基本的に、記憶することと、正しい答えを追求することに重点が置かれているからだ。
 社会学は人生を豊かにする
 あなたは自分自身をどのように捉えているだろうか。いろいろな性格や志向性や習慣があることだろう。そのような複雑怪奇な自己を、自分以外のモノやコトを経由して、いままでとは異なった立場から再考してみる。するとジュースの缶が長方形や真円に見えるように、新しい自分の姿が浮かび上がってくるに違いない。
 知的好奇心を自在に操りながら、社会について、あるいは多様な生き方を実践している人びとの意識や行為の深層に迫る。それが社会についての深い理解、人びとに対する柔軟な諒解につながっていく。チャレンジングでスリリングな知的冒険の先には、あなたなりの「よりよい社会」や「よりよい生」への扉がひらけているはずだ。
 社会学は、あなた自身の人生の可能性を広げるばかりか、生き方を彩り豊穣にしていくことだろう。これが社会学の醍醐味であり、社会学を学ぶ意味である。

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 パプアニューギニアの激戦地で日本軍兵士の戦死は、戦闘死ではなく餓死と病死の方が多かった。
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 ニューギニアの戦い(New Guinea Campaign)は、第二次世界大戦中期以降、ニューギニア戦線において、日本軍と連合国軍との間で行われた一連の戦闘である。戦闘が非常に悲惨だったことでも知られ「ジャワは天国、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」とまで言われた。
 概要
 太平洋戦争開始後間もない1942年1月、日本の大本営は「ニューギニアおよびソロモン群島の要地の攻略を企画する」と決定し、ニューギニアについては「ラエ、サラモア攻略後なしうればポートモレスビーを攻略する」とした。この決定により1942年3月8日、日本軍は東部ニューギニアのラエ、サラモアに上陸し占領した。 これがニューギニアの戦いの始まりであり、ダグラス・マッカーサー大将が率いる連合軍との間で1945年8月15日の終戦まで戦いが続けられた。連合軍の優勢な戦力の前に日本軍は次第に制海権・制空権を失って補給が途絶し、将兵は飢餓や過酷な自然環境とも戦わねばならなかった。ニューギニアに上陸した20万名の日本軍将兵のうち、生還者は2万名に過ぎなかった。また台湾高砂族による高砂義勇兵や朝鮮志願兵、チャンドラ・ボース支援のインド兵やインドネシア人兵補も戦闘に参加している。

 戦場の環境
 自然環境
 今日に伝わるパプアニューギニアの伝統文化
 ニューギニアにおける戦いは過酷な自然環境との戦いでもあった。日本兵の死因の多くは直接の戦闘によるものでなく、マラリアアメーバ赤痢デング熱、腸チフスなどの熱帯性の感染症と飢餓による栄養失調と餓死であった。戦時中に日本で上映されたニュース映画『日本ニュース』の中ではニューギニアの自然環境を「千古斧鉞(せんこふえつ)を知らざる樹海(第194号)」「瘴癘(しょうれい)の暗黒地帯(第203号)」「悪疫瘴癘(しょうれい)の蛮地(第210号)」と述べている。自然環境との戦いには連合軍も苦しめられ、マラリアを媒介するハマダラカの駆除にDDTが活用された。ジャングルにおける行軍では方向感覚を失った部隊が同じところを回ることが少なくなかった。これは人間が左へ、左へと進む習性を持つためであり、誘導員か方位磁石(日本軍一般兵士には支給されていない)が不可欠であった。また、ワニなどの動物に食べられる者もいた。
 原地民
 ニューギニアの原住民は日本軍と連合軍の双方から過酷な仕事を命じられながら忠実に物資の輸送や道案内を行い、負傷者の面倒見に一役買った。また、両軍のスパイや民兵として活躍する者もいた。中には逃亡する現地人もいたものの、日本軍から「まじめで忠実」と賞賛され、連合軍からも黒い天使(Fuzzy Wuzzy Angels)と呼ばれた。ただし、現地人は食料よりタバコを欲しがるということで、日本軍では訓練された台湾の高砂族(詳細は高砂義勇隊を参照)に対する評価の方が高いケースもある。
 戦争末期に日本軍が分散自活の体制に入ると、原住民の中には連合軍と通じて日本兵を襲撃する者も現れた。ジャングルでの行動に慣れた原住民に対して、衰弱し少人数に分散した日本兵はなすすべもなかった。一方で、食糧採取などにおける原住民の協力なしには、日本兵の多くは生きながらえることはできなかったであろうことも事実である。

 結果
 ほとんどをジャングルに覆われた未開で広大なニューギニア島の戦いで大きな役割を果たしたのは航空機であった。大型の輸送機を持たない日本軍は兵員や物資の輸送を海上輸送に頼ったが、その海上輸送を確保するためには制空権が必須であった。日本軍は主に陸軍がニューギニアの航空戦を担い、新鋭の三式戦闘機など多くの機材と人員を投入したが、制空権はおおむね次のように推移した。
 1942年4月まで:日本側が制空権を掌握
 1942年8月まで:制空権は伯仲
 1942年9月以降:連合軍がブナ方面での制空権を掌握し、その制空権は逐次西方に拡大
 航空戦力は初期においては拮抗していたが、次第に
 航空機の数
 航空機の性能(戦闘機は1943年秋以降、爆撃機は最初から)
 搭乗員の数、技量、士気、健康管理
 飛行場の建設能力(建設機械と資材)
 レーダー
 の面でいずれも連合軍側が優位になり、これがニューギニアの戦いの結果に決定的役割を果たすことになった。
 ニューギニアの戦いにおいてダグラス・マッカーサーはしばしば最前線に出て将兵を激励し、また大胆な飛び石作戦を実施するなど優れた指導力を発揮した。1944年4月にホーランジアへ司令部を進めたマッカーサーはそこからフィリピン奪還作戦を指揮し、10月20日にレイテ島への帰還を果たした。戦いの焦点はフィリピン、硫黄島、沖縄へと移り、ニューギニアは次第に戦略的価値を失っていった。
 東部ニューギニア戦線に投入された第18軍将兵は16万名、西部ニューギニアも含めると日本軍は20万名以上が戦いに参加した。そのうち生きて内地の土を踏んだ者は2万名に過ぎなかった。犠牲者には徴用船でニューギニアへ赴いた船員たちなど軍属や民間人、シンガポールの戦いで降伏したインド人捕虜も含まれ、正確な全貌は不明である。連合軍の戦死者もオーストラリア軍8,000名、アメリカ軍4,000名に上った。現地人の犠牲者数は明らかではないが4万人から5万人とも推定されている。このような状況から帰還兵達は「ジャワの天国、ビルマの地獄、生きて帰れぬニューギニア」と評したという。

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🗾25〕─1・B─古代の鉄の短剣は宇宙から飛来した「隕鉄」で製造されていた。~No.113No.114No.115 

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 鉄の起源は、トルコ・ヒッタイト人であった。
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 2020年1月13日午後9時00分~9時59分 NHKオンデマンド「アイアンロード
 ~知られざる古代文明の道~
 この放送回の内容をNHKオンデマンドでご覧いただけます。
 いま、あのシルクロードより古い「文明の道」が姿を現し始めている。それは、現代社会に欠かせない「鉄」を伝えた道。西アジアから日本列島にいたるその道は、「アイアンロード」と名づけられた。このルートに沿うようにユーラシア各地の大草原や山岳地帯などで進む発掘調査からは、謎にみちていた古代国家の実像が次々と明らかになり、エジプトやギリシャなど、いわばメインストリームの古代文明とは異なる“未知の世界史”が浮かび上がっている。
 また、これまで武器を中心に考えられてきた古代の鉄の役割が、時代が進むなかで次々と広がっていった事実も分かってきた。鉄は和平を促す“交渉品”となり、異文明を結ぶ“交易品”となり、馬具を生んで“移動革命”をもたらし、工具として“芸術革命”を導き、農具となって“生産革命”を起こしていた。鉄は、武器による「征服と破壊」の一方で、「融和と建設」の主役でもあったのだ。
 番組は、俳優の江口洋介さんをナビゲーターに迎え、アイアンロード研究の最前線を追いながら、知られざる古代世界のダイナミズムを壮大なストーリーで描く。

   ・  ・   ・   
 朝鮮半島南部には、日本民族の祖先であった縄文人の子孫であった倭族が住んでいた。
 倭人(日本人)は、朝鮮半島の倭族や親日知日の百済と鉄の王国であった金官伽耶任那)と交易していた。
 金官伽耶任那)は、鉄の王国と呼ばれ、ヤマト王権金官伽耶任那)から鉄を輸入していた。
 金官伽耶任那)には、ヤマト王権前方後円墳が数多く点在している。
   ・   ・   ・   
 ヤマト王権が半島出兵を繰り返したのは、領土拡大の野心的侵略戦争ではなく、同族の倭族の安全と鉄の確保が目的の積極的自衛戦争であった。
 その為に、国際戦略として中華帝国との外交交渉を続けていた。
 当時の日本は、現代の外交下手な日本とは違って外交上手であった。
   ・   ・   ・   
 現代の反日派韓国人・朝鮮人親日派古朝鮮人・百済人・金官伽耶人(任那)とは別人である。
   ・   ・   ・

 2024年4月21日 MicrosoftStartニュース 産経新聞「人類と鉄の出合いに迫る考古学プロジェクト 宇宙から飛来「隕鉄」を使い短剣や円盤を再現
 CFを企画した愛媛大学アジア古代産業考古学研究センター長の村上恭通教授=松山市(前川康二撮影)
 © 産経新聞
 人類が初めて手にした鉄器は、果たしてどんな姿だったのか-。そんな考古学のロマンを再現するプロジェクトが立ち上がった。企画したのは鉄の歴史を研究する愛媛大学アジア古代産業考古学研究センター長の村上恭通教授。人類と鉄との出合いは4~5千年前、隕石(いんせき)のなかでも鉄を多く含む「隕鉄」を加工して装飾品などを作ったのが始まりと考えられており、プロジェクトでは実際に隕鉄から鉄器を作り、その輝きや強度、製造技術の水準などを検証する。4月26日までクラウドファンディング(CF)で寄付を募っている。
 隕石の中でも鉄を多く含む「隕鉄
 © 産経新聞
 鉄器の起源は隕石
 日本において鉄の文化は紀元前3~4世紀ごろ、朝鮮半島を経由して中国大陸からもたらされたとされる。では、中国大陸の金属文化はどこから伝わったのか。そのルーツをたどると約4~5千年前のウクライナやロシア・ウラル地方など黒海周辺に行き着くという。
 鉄の伝播の歴史「アイアンロード」を研究する村上教授によると、当時は前期青銅器時代に分類され、人類は主に青銅製の武器や農具などを使用していた。しかし、ウラル地方の遺跡では円盤状やかぎ状の鉄器が見つかっており、成分を分析すると「隕鉄」を用いたものと判明した。
 また、約3300年前の古代エジプトツタンカーメン王の墓から隕鉄で作られた短剣や枕などの副葬品約10点が見つかっており、当時は希少品として価値が高かったことが裏付けられる。
 こうしたことから、鉄器は誕生当初から「王や呪術師など、当時の権力者がその力を示すために身に着けていたのではないか」と村上教授。「空から落ちてきたという神秘性や希少性、銅とは違う重さ、打ち鳴らした音などが当時の人々の心を奪ったに違いない」と思いをはせる。
 レプリカ製造で検証
 ただ、ツタンカーメン王の墓で発掘されたものを除くと、最古級の鉄器はどれも腐食が進んでさびに覆われている。そのため、装飾品や祭礼品など権威の象徴として用いる際に重要視されたはずの鉄特有の輝きや打ち鳴らした際の音などを追究する余地がない。
 また、隕鉄の加工には当時主流の青銅器製造技術が転用されていたが、その技術水準も判明していないという。村上教授はこれらの謎を解き明かそうと、隕鉄製の鉄器を再現する「人類・鉄創世記プロジェクト」を企画することにした。
 プロジェクトでは、実際にウラル地方の隕鉄を使用。これまで発掘調査で確認された短剣や円盤、装飾品などのレプリカをプロジェクトメンバーの刀匠や鍛冶師が製造する。当時使ったとみられる青銅製の槌で鍛え、どの程度素材を加熱すれば同品質のものを作れるのか科学的に検証する。
 初めて手にした感動再現
 プロジェクトに必要な費用480万円については、3月7日からCFを開始。すでに目標額を達成しており、現在は第2目標の700万円に向け引き続き寄付を受け付けている。700万円を達成できれば、鉄器と青銅器を組み合わせた前期青銅器時代の「銅鉄複合器」も復元できるという。
 レプリカは順調にいけば来年秋ごろに完成する予定。愛媛大学内のミュージアムで展示するほか、実際に触れられるようなイベントで活用する計画という。
 村上教授は「人類が初めて手にした鉄器がどんな質感で、どうやって作られたかを解明することができる」とプロジェクトの意義を強調。同時に「レプリカを作ることで、実際の鉄器の重さ、輝き、色、音を体験できる。人類が初めて鉄器を手にしたときの感動を再現したい」と話している。(前川康二)
 ◇
 寄付はCFサイト「READYFOR(レディーフォー)」で4月26日午後11時まで受け付ける。
   ・   ・   ・   

🎍45〕─2─天然痘で平安時代の人口の30%前後が死亡。正暦4年(993)。~No.142No.143 

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 日本の脅威は、人ではなく自然であった。
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 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
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 日本民族は、旧石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
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 現代日本人は、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力がないただけに現実に起きた歴史的事実が理解できない。
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 2024年4月21日10:41 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「【光る君へ】藤原道長の兄たちを次々と死に追いやり 日本の人口を激減させた感染症の正体
 吉高由里子
 ラストシーンが衝撃的だったのは、NHK大河ドラマ『光る君へ』の第15回「おごれる者たち」(4月14日放送)であった。まひろ(吉高由里子紫式部のこと)はさわ(野村麻純)と近江(滋賀県)の石山寺へ詣でた帰り道、川辺に降りてみると、川べりにはたくさんの遺体が転がっていた。
 【画像】大河初?2話にわたって描かれた、まひろと道長のラブシーン
 第16回「華の影」(4月21日放送)では、疫病の正体が描かれる。 まひろは以前、文字を教えたたね(竹澤咲子)という少女から、両親が救護施設である悲田院に行ったきり帰らないと伝えられる。そこで、悲田院へ赴くと、そこでは多数の疫病患者が苦しんでおり、まひろも感染してしまう。
 むろん、まひろはここで命を落としはしないが、平安時代には、疫病すなわち感染症は死の病だった。戦乱こそ比較的少なかったこの時代だが、疫病は繰り返し流行し、人々の命を奪った。 現在、『光る君へ』で描かれているのは正暦5年(994)のことで、『栄華物語』にはこの年の最初の記事に、次のように書かれている。
 「いかなるにか今年世の中騒がしう、春よりわづらふ人々多く、道大路にもゆゆしき物ども多かり(どうしたことか、この年は世の中が騒然として、春から病に倒れる人が多く、都の大路にも忌まわしいもの、つまり遺体があふれている)」
 もがさ(痘瘡)と呼ばれたこの疫病は、昭和52年(1977)に地球上から根絶された天然痘だと考えられている。正暦4年(993)に九州で流行しはじめ、同5年4月ごろから京都でも猖獗をきわめた。『日本略紀』七月条には「京師の死者半ばに過ぐる。五位以上六十七人なり(京都では人口の半分が死亡し、五位以上の貴族だけでも67人が命を失った)」と記されている。
 当時は感染症についての知識など皆無だから、対策といっても加持祈祷くらいしかなかった。疫病は猛威を振るうにまかされ、このときは都のあらゆる路頭に死体が転がっていたと記録されている。そのうえ、堀水も死体でふさがったためかき流す措置がとられ、犬やカラスは死体の食べすぎで飽食状態だったと伝わる。
 二人の関白が次々と死去
 当然だが、疫病は身分を問わない。正暦5年のうちは、公卿(国政をになう三位以上の上位貴族)は感染を免れていたようだが、翌正暦6年(995)になると、公卿たちも容赦なく襲われた。
 現在、『光る君へ』では、藤原兼家段田安則)の死後、長男の道隆(井浦新)が後を継ぎ、摂政、続いて関白として栄華をきわめている。長女の定子(高畑充希)を一条天皇(塩野瑛久)に入内させたばかりか、強引に中宮(皇后)の座に就け、長男の伊周(三浦翔平)をはじめ身内ばかりを露骨に出世させている。だが、そんな権力者も、病の前には無力だった。
 道隆は大酒飲みで、持病の飲水病に悩まされていた。これは現代の糖尿病で、道隆に関してこの病名が最初に記されるのは、正暦5年11月13日付の『小記目録』なので、おそらくそれ以前から自覚症状があったのだろう。そして、年が明けて正暦5年(994)になったころから政務に影響がおよぶようになり、4月10日に死去している。すでに飲水病がかなり進行しており、それが死因だという説もあるが、そうだとしても、疫病に感染して死期が早まったとみる研究者は多い。
 このため、玉置玲央が演じている道隆の同母弟の道兼が後を継ぐ。ドラマでは、道兼は汚れ役を引き受けて父の兼家に栄華をもたらしながら、後継から外されて腐っていた。そんな兼家にようやく春が訪れ、4月27日、道兼を関白とする詔が下ったが、5月2日、一条天皇に関白就任御礼のあいさつをすると、そのまま立てなくなったという。疫病に襲われたのだ。5月8日にはこの世を去り、道隆は「七日関白」と呼ばれた。
 その結果、兼家の五男(正妻の息子としては三男)の道長柄本佑)の時代が訪れるのである。
 日本の人口の30%前後が死亡
 古くは古代エジプトギリシアローマ帝国にはじまって、世界各地で大流行を繰り返したもがさ、すなわち天然痘だが、日本は島国なので流入が遅く、大陸との交流が活発になった奈良時代になってから、流行するようになった。
 これは飛沫をとおして病原体が体内に侵入する感染症で、高熱が出て全身に発疹が起き、発疹が化膿して死にいたった。運よく回復しても、あばた(痘痕)が残ることが多く、藤原道長の時代の人は男女を問わず、顔などにあばたが見られるケースが多かったという。一条天皇天然痘にかかって治癒しており、顔に痘痕が残っていたのかもしれない。時代は異なるが、戦国大名伊達政宗が幼少期に右目を失明したのも、天然痘が原因だとされる。
 もがさがはじめて大流行したと考えられるのは、奈良時代天平9年(737)のこと。 『続日本紀』によれば、天平7年(735)に九州で発生し、その後、全国に流行したという。前述したように、道長の時代も正暦4年(993)にまず九州から流行がはじまっており、ともに大陸から船で流入した可能性が高そうだ。
 事実、奈良時代のもがさは、天平8年(736)に聖武天皇遣新羅使を派遣したことが命取りになったようだ。阿倍継麻呂を団長とする使節団は、平城京を出発して九州経由で新羅へと向かったが、その道中でもがさに感染。阿倍継麻呂も感染し、帰路に対馬で病死している。そして、残された一行が平城京に帰還したために、ウイルスが都に蔓延し、翌天平9年(737)には全国的な大流行になった。
 こうして、国政を担っていた藤原武智麻呂藤原房前藤原宇合藤原麻呂藤原四兄弟が全員病死してしまった。天平10年(738)には流行がピタリと収まったようだが、それまでに、当時の人口の25~35%に相当する100万~150万人が死亡したと推計されている。
 二大感染症はもがさと麻疹
 さて、道長に権力の座をもたらすことになった正暦年間のもがさも、ある時点で流行がピタリと病んだようだ。しかし、寛仁4年(1020)にふたたび流行している。『栄華物語』巻七には、前回の流行から二十余年が経過し、警戒していたところに、案の定、流行したという旨が書かれている。
 当時の人は、時間が経って免疫がない人が増えると流行する、ということを経験的に知っていたのだろう。事実、二十余年前に感染した人はこのときかかることはなく、その後に生まれた二十代以下の世代が集中的に罹患したらしい。
 この時代、もうひとつ猛威をふるった感染症が麻疹、すなわちはしかで、最初に記録されているのが、藤原道隆と道兼が死去した3年後、長徳4年(998)の流行である。『栄華物語』には、「あかもがさといふもの出で来て上中下分かず病みののしる(赤もがさ=麻疹という病気が発生して、身分の上中下を問わずに感染し、大騒ぎになっている)」と書かれている。
 麻疹はやはり二十余年を経た万寿2年(1025)にふたたび流行。敦良親王(のちのご朱雀天皇)のもとに嫁いでいた道長の娘、嬉子は8月3日、親仁親王(のちの後冷泉天皇)を出産したが、その直前にかかった麻疹が原因で、2日後にわずか18歳で命を落としている。
 われわれも感染症の猛威に苦しめられたばかりだが、平安時代の人たちにとっては、命に直結し、国家のあり方や社会の様相が大きく変わりかねないほどのものだった。そして、藤原道長の栄華は天然痘の流行を機にはじまったが、その終わりにははしかの流行が影を差したのである。
 香原斗志(かはら・とし)
 音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
 デイリー新潮編集部
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 時事ドットコムニュース>特集>日本神話に描かれた疫病と日本人との関係とは?
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 疫神の正体は怨霊?―京の町から人が消えた日
 神泉苑[筆者撮影]【時事通信社
 奈良時代から平安時代にかけて、疫病の原因は怨霊(おんりょう)、つまり「恨みを抱いて死んだ人の霊」だとする信仰が広まっていた。
 これを御霊(ごりょう)信仰という。
 歴史研究者の説によれば、平城京平安京という都市が建設されたことにより急激な人口集中が起こり、ゴミや排せつ物の処理が追いつかなくなって衛生環境が悪化した。こうして疫病が流行しやすい状態を招いたことが、御霊信仰が興った背景にあるという。
 特に恐れられたのは、皇太弟でありながら藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺への関与を疑われて憤死した早良(さわら)親王崇道天皇)、謀反を疑われて自害した伊予親王など、6人の皇族・貴族だ。
 863(貞観5)年には、平安京大内裏の南にある宮中専用の庭園である神泉苑(しんせんえん)で、それらの怨霊(御霊)を慰める御霊会(ごりょうえ)が行われた。
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 東洋経済ONLINE
 1000年前の日記が記した「日本の疫病対策」の源流
 「小右記」の平安時代、神頼みと科学的対策が並立
 倉本 一宏 : 国際日本文化研究センター 教授
2022/12/05 8:00
 毎年のように疫病に見舞われた平安中期。当時の人々の感染対策には、今の日本社会にも通じるところがある。
 藤原実資小右記』書影
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・『小右記』とは?
 平安中期の公卿、藤原実資(957~1046)の日記。実資は朝廷儀式や政務に精通し、その博学と見識は時の権力者、藤原道長にも一目置かれ、「賢人右府」と称された。『小右記』は、『野府記』などとも称される。逸文を含めると、21歳の貞元2年(977)から84歳の長久元年(1040)までの63年間に及ぶ記録で、当時の政務や儀式運営の様子が、詳細かつ正確に記録されている。
 平安中期は毎年のように疫病が蔓延
 2020年に新型コロナウイルス感染症が流行し、3年目を迎えようとしている。日本のコロナ対応を見ていると、どうもこの国だけ、ほかの国々とは異なる対応をしているように思えてならない。国内で感染が蔓延しているのに厳しい入国規制をかけたり、マスクや手洗いも外国よりも徹底しているようだ。
 歴史を研究していると、現代日本のこうした特質は、島国で外国や国内の異民族からの侵攻を想定していなかったこの国の歴史が、長い年月をかけて醸成していったものではないかという思いが日々新たになるこの頃である。その一端は、「疫病の時代」だった平安時代にも見ることができる。
 そこで今回紹介するのが、平安時代中期の公卿(くぎょう)、藤原実資(さねすけ)が記した日記、『小右記(しょうゆうき)』だ。時の権力者、藤原道長にも一目置かれた実資は、63年の長きにわたって日々の政務や社会について冷静なまなざしで書き記した。ここから、当時の人々がどのように疫病と向かい合ってきたかを知ることができる。
 疫病が猛威を振るった平安時代の中期
 平安時代の中期には、毎年のように疱瘡(ほうそう)(天然痘)や麻疹(ましん)(はしか)などの疫病が猛威を振るった。感染症に関する知識がなく、治療法や特効薬も確立されていなかった当時にあっては、これはたいへんな恐怖の対象であった。
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 古代平安京における疫病流行の史的研究
 所属: 浙江工商大学 日本語言文化学院
 役職: 講師
 氏名: 董 科
 本研究は、古代平安京における伝染病流行の実態を明らかにすることを目的とした
ものである。研究成果は下記通

 平安京で流行した疫病は?
① 古代平安京においては、天然痘・インフルエンザ・麻疹・マラリア赤痢・流行 性耳下腺炎と寄生虫症などの流行が確認された。 ② 流行したこれらの疫病のなかでも、天然痘・インフルエンザ・麻疹が当時の日本 に最も大きな影響をもたらした。
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 4月22日 YAHOO!JAPANニュース よろず~ニュース「大河『光る君へ』疫病の大流行で死者が続出 「ある井戸の水を飲め」広まった噂は妖言か 識者が語る
 NHK大河ドラマ「光る君へ」第16回は「華の影」。主人公のまひろ(紫式部)が疫病に感染して、藤原道長に看病されるシーンが描かれていました。紫式部が生きた平安時代中期のみならず、それ以前より、人々は疫病に悩まされてきました。疱瘡(天然痘)や麻疹などが流行し、多くの人の生命を奪ってきたのです。平安時代の貴族ならば、病になると、平癒のための加持祈祷を受けることができました。しかし、財力がない民衆は祈祷を受けることもできず、亡くなっていったのです。
 【写真】まひろ(紫式部)を演じる吉高由里子
 紫式部が10代後半か20代の時にも、都において疫病が流行します。疫病の発端は、九州だったと考えられています。正暦5年(994)正月に九州で疫病が流行し、それが徐々に全国へと広まっていったのです。路頭に迷う病人のために都においては、仮屋が立ちます。そこに病人を収容したのでした。
 それでも、病で死亡した人々が路頭に放置され、死臭に満ちていたとされます。都は骸骨で満ち、川は死人で溢れる惨状を呈するのです。検非違使(京都の犯罪・風俗の取り締まりなど警察業務を担当)が看督長(検非違使庁の下級職員)に命令して、堀水の中で亡くなっていた人々を掻き流すなどしています(平安時代後期の歴史書本朝世紀』正暦5年5月3日条)。
 さて、今回の疫病は神(伊勢神宮石清水八幡宮賀茂社、松尾社、祇園社)の祟りとされたため、5月20日には各社に臨時の奉幣使が派遣されました(前掲書)。流行病で人々が次々に亡くなるという恐ろしい事態。恐怖が人々を席巻すると、流言飛語が蔓延ります。この時も、1人の「狂夫」(おかしな男)が流言を飛ばしたといいます。それは、左京三条南油小路西にあった小井戸にまつわるものでした。その井戸は普段は使用されず、水は涸れて泥が深くなっている状態。そんな状態にあるにもかかわらず、男はその井戸の水を飲めば「皆、疫病を免れるだろう」と言い出したのです。
 明らかに怪しげな言葉でしたが、藁にもすがりたい人々は貴賎を問わず、井戸に押しかけて、桶瓶に水を蓄えたのでした(前掲書、同年5月16日条)。同書は「狂夫」の言葉を「妖言」としていますが、人々が井戸に押しかけたのも、その妖しげな言葉の「真偽」をよく調べなかったからだとしています。異常事態発生の際は、現代においてもネットで「妖言」が飛び交うことがあります。今回紹介した逸話は、現代人の教訓ともなるでしょう。
 (歴史学者・濱田 浩一郎)
 よろず~ニュース
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 現代ビジネス
 2022.01.29
 平安京を壊滅状態にした疫病に、庶民や下級官人はどう対処したか?
 貴族と下人を惑わせた妖言の数々
 倉本 一宏
 新たな疫神社に密集した貴賤の者は感染者を増やし、疫病が大流行する中で無量寿院の造営を進める道長藤原実資は憤慨する――毎年のように平安京を襲った疫病に対し、当時の人びとが取った行動は、コロナ禍の現代人に劣るものでは決してなかった。
倉本一宏氏が「平和で優雅な時代」の苛酷な日常を描き出した最新刊『平安京の下級官人』から、平安京を襲った疫病について述べた箇所を抜粋して公開します!
 古記録に残された災害
 古記録(こきろく)には、災害に関する記述が精確に記録されている。じつはこれらは世界規模における気候や災害の史料として、きわめて有益なものなのである、と『御堂関白記(みどうかんぱくき)』のユネスコ世界記憶遺産(「世界の記憶」)の申請に際して強調したことがある。
 海面変動による気候の歴史を示したフェアブリッジ曲線(海水準〈陸地に対する海面の相対的な高さ〉の変化に基づくもの)によると、全体的に温暖であった平安時代のなかで、西暦1000年前後は一時的に気温が低下した時期であった(山本武夫『気候の語る日本の歴史』)。そしてさまざまな災害が、日本列島および平安京を襲ったのである。
 なお、アジアの広域の樹木年輪幅のデータベースを統合して作成された東アジアの広域平均気温の年単位の時系列データを活用した、気候変動と災害との関連を考察する研究もはじまっている(中塚武監修、伊藤啓介・田村憲美・水野章二編『気候変動と中世社会』)。
 それによると、10〜11世紀は乾燥・温暖の極にあったとされているのであるが、単年度で具体的に史料を見ていくと、そうとばかりは言っていられない現象も存在した。
 また、耐火構造になっていない当時の建築は、火災に対してきわめてもろいもので、河川の治水も洪水には無力であった。なお、五重塔は柔構造で地震には強かったが、代わりに雷や風に弱かった。
 それにもまして、当時の医療技術や衛生状況では、毎年のように襲いかかってくる疫病に対して、人びとは有効な対応をとることができなかったのである。
 下衆や下人を襲った災害の実態
 それでも精一杯、これらの災害に立ち向かっていたのではあるが、これは摂関期に限ったことではなく、前近代の科学では、なかなかこれを克服することはできなかった。以下、摂関期の災害、特に下衆(げす)や下人(げにん)を襲った災害について見ていくこととしよう。
 一般的には、平安時代の人びとが迷信や禁忌に囲まれて生きており、たとえば物忌(ものいみ)や触穢(しょくえ)、方忌(かたいみ)などに極度に怖れおののいていたというイメージは、いまだに彼らに対する否定的な根拠として定着しているように見える。
 こういったものを怖れる平安時代の人間は、我々現代人よりも非科学的で劣った連中であり、現代人は彼らよりも進歩した人類であるという、思い上がった考えである。
 しかしながら、当時の科学技術や医療の水準のなかでは、彼らはさまざまな不可思議な現象に対して、精一杯の冷静さでもって、科学的に対処していたのである(現代でも仏滅などを気にしたり、科学的根拠のないお神籤(みくじ)や占いに熱中する人は多いではないか)。
 史料に残る平安人は、ほとんどが公卿(くぎょう)をはじめとする貴族階級の人びとであるが(史料ではなく『源氏物語』などの文学作品でイメージする人がほとんどであろうが)、その下位にある下衆や下人たちの実態は、はたしてどうだったのであろうか。この章では、できるだけ彼らの心性や行動、生活の実態も探っていくことをめざそう。
 平安時代における疫病という恐怖
 平安時代を研究していると、毎年のように疫病の猖獗(しょうけつ)が見られるし、それも疱瘡(ほうそう)(天然痘)や麻疹(ましん)(はしか)など、現代では克服された病気なので、何となく安心してしまうのであるが、ウィルスの知識がなく、治療法や特効薬も確立されていなかった当時にあっては、これは大変な恐怖の対象であった。
 ただし、平安貴族が加持祈禱(かじきとう)にばかり頼り、かえって病を重くしてしまった未開な連中であったという従前の理解には、非常に違和感を感じる。当時の医療技術の枠内では、彼らは精神医療としての加持祈禱も含め、精一杯の治療をおこなっていたのである。
 とはいえ、栄養状態や衛生環境の悪い民衆(加持祈禱をおこなってもらう財力も人脈もなかった)はもちろん、狭い交流範囲しかない宮廷社会でも、いったん流行がはじまると、すぐに感染が拡がってしまったのである。
 むしろ、口に入る物は何でも食べたであろう庶民よりも、栄養に偏りがあり、複雑な血縁関係や姻戚関係で結ばれていて見舞いに行っていた、そして職場がほとんど内裏(だいり)に限られていた貴族の方が、感染の危険性は高かったのかもしれない。
 数々の宗教的禁忌にも、貴族は縛られていたであろう。上級貴族はほとんど自身では見舞いには行かず、部下や家人(けにん)を遣わしているのも、一族の見舞いによって感染が拡大し、政府が壊滅状態に陥ってしまった天平(てんぴょう)9年(737)の天然痘流行で得た知恵なのかもしれない。
 なお、ほとんどの平安人は疫病に罹かかった経験があり、多くの人の顔には痘痕(あばた)が残ったとされる。女房や貴族の女性はそれを隠すために厚く化粧を施したのだが、多くは鉱物性の白粉(おしろい)を塗ったため、よけいに肌が荒れることとなったと言われる。
 貴族と下人を惑わせた妖言
 永祚(えいそ)元年(989)や正暦(しょうりゃく)4年(993)にも疫病が流行したが(『小右記(しょうゆうき)』)、もっとも大きな被害をもたらしたのは、正暦5年(994)正月に九州から流行がはじまり、翌長徳(ちょうとく)元年(995)にかけて全国に広まった疱瘡であった(『日本紀略(にほんきりゃく)』)。
 正暦5年4月には京中路頭に仮屋を構えて薦筵(こもむしろ)で覆い、病人を収容させた。あるいは空車に乗せ、あるいは薬王寺(やくおうじ)に運送させたものの、死亡した者は多く路頭に満ち、往還の人びとは鼻を掩(おお)って通り過ぎた。
 烏犬は食に飽き、骸骨は巷(ちまた)をふさいだという。5月には京中の堀水が死人であふれたので、検非違使(けびいし)が看督長(かどのおさ)に命じて京中の堀水の中の死人をかき流させるという措置を執っている(『本朝世紀(ほんちょうせいき)』)。
 こうなると流言蜚語(りゅうげんひご)も生まれてくる。ある困った男が、「左京三条大路(さきょうさんじょうおおじ)の南、油小路(あぶらこうじ)の西にあった小井戸(水が涸れて泥が深く、尋常は用いないもの)の水を飲む者は疾病を免(まぬか)れる」という妖言(ようげん)を広め、これを信じた都人の士女が、こぞって水を汲んでいる。
 「男女は桶瓶を提げ、貴賤(きせん)の者は水差しや盥(たらい)に貯えた。ひとえに病死が千万であることを恐れ、妖言の真偽を調べなかったのである」とある(『本朝世紀』)。
 ふだん使用されていない井戸の泥水は道呪(どうじゅ)の流れにあり、密呪(みつじゅ)を生活手段とする下級僧侶の横行が、この妖言の背景にあるという指摘もある(新村拓『日本医療社会史の研究』)。
 また、6月16日に疫神(やくしん)が横行するという妖言があり、その日は公卿以下、庶民にいたるまで、門戸を閉じて往還しないという状況となった(『日本紀略』)。このような妖言に対しては、貴族も下人も、対応に違いはなかったのである。
 政府を壊滅状態にした疱瘡
 結局、4月から7月にいたるまでに、京内の死者は過半となり、五位以上の貴族の死者は67人を数えた(『日本紀略』)。この疫病は、翌長徳元年には左右大臣(さゆうだいじん)から大納言(だいなごん)3人、中納言(ちゅうなごん)2人などをたおし、政府を壊滅状態としてしまったのである。
 30歳で序列七位の権大納言(ごんだいなごん)に過ぎなかった藤原道長が政権の座に就いたのは、この時のことである。
 長徳4年(998)も、5月から赤斑瘡(あかもがさ)(麻疹)の流行がはじまり、6、7月に猖獗をきわめた。京師(けいし)の男女の死者ははなはだ多かったものの、「下人は死ななかった」というのが、せめてもの救いである(『日本紀略』)。
 その後も、『権記(ごんき)』に「この災厄(さいやく)は、毎年、連々として絶えることはない」と記されたように、長保(ちょうほう)元年(999)、長保2年(1000)、長保3年(1001)と、疫病の流行はつづいた。長保3年の賀茂祭(かものまつり)などは、疫病の蔓延によって死亡する者が多く、見物の車は二百両に満たず、往還の者も何人もいなかった。
 藤原行成(ゆきなり)などは、無常の観を催すために、わざわざ車や人の数を数えに行っているのである。まあ、このような状況でも賀茂祭を挙行するというのも、平安人のすごいところではあるが。
 寛弘(かんこう)以降も、寛弘2年(1005)、寛弘5年(1008)、長和(ちょうわ)3年(1014)、長和4年(1015)、寛仁(かんにん)元年(1017)、寛仁2年(1018)、寛仁4年(1020)、治安(じあん)元年(1021)と、疫病の流行はつづいた(北村優季平安京の災害史』)。
 寛弘2年2月には、「天下の人は貴賤を論じず悩(や)み患っている」とあり、長和4年4月には、京畿内(きょうきない)・外国(げこく)(畿外(きがい))に病死者が多く、段々と五位の者に及んでいて、京中(特に北辺大路(ほくへんおおじ) 〈一条大路(いちじょうおおじ)〉)に「汚穢(おわい)の物」(死体)がきわめて多いので路頭に出して置くというので、検非違使に命じて掃い清めさせている(『小右記』)。「掃い清め」られた死体は、どこでどのように扱われたのであろうか。
 神社に神頼みをする朝廷
 そしてこの長和4年の6月25日、西京(右京)の人の夢想によって、花園寺(はなぞのでら)の南西の方角、紙屋川(かみやがわ)の西頭(にしのほとり)に、新たに疫神社(えきしんしゃ)を卜(ぼく)した。東西京師の庶民はこぞって御幣(ごへい)を捧げ、神馬(じんめ)を連れて社頭(しゃとう)に向かったという。
 注目すべきは、翌26日にこの今宮(いまみや)で御霊会(ごりょうえ)をはじめたところ、朝廷の作物所(つくもどころ)が神宝(じんぽう)を造り、六衛府(ろくえふ)や馬寮(めりょう)がそれに奉仕したということである。すでに朝廷も新たな神社に神頼みといったところであろうか。
 両京の人は、25日の夜から、御幣や神馬を奉献して避ける路がなく、垣の内は紙を積んで空処がなくなったことは、あたかも紫野(むらさきの)神社(長保3年に奉遷(ほうせん)された今宮社(いまみやしゃ))のようであったという。
 藤原実資(さねすけ)でさえ、「深く命を惜しむことによる。真偽を調べなかったのか」としながらも、「もし霊験(れいげん)があるのならば、もっとも帰依しなければならない」などと記している。
 これで疫病が収まればよかったのであるが、29日には、この今宮社を崇祀(すうし)した後、病患(びょうかん)はいよいよ倍したとある(『小右記』)。貴賤の者が密集したせいであろう。
 道長の命に憤慨する実資
 寛仁4年3月の疫病は裳瘡(もがさ)と称され(疱瘡の一種か)、上下の道俗の男女で28歳以下の者が多く病悩し、時には老者が病むこともあったという。下人もこの病で多く死去したという。4月には後一条(ごいちじょう)天皇も罹患してしまった(『左経記(さけいき)』)。
 治安元年2月は道長が法成寺(ほうじょうじ)(無量寿院(むりょうじゅいん))の造営を進めていた時期であったが、こういう時にも疫病は待ってくれない。下人で死亡した者は数えきれず、路頭の死体は敢えて言うことができなかったが、道長一門の人たちは、疫病を怖れず、花を訪ねて遊宴を重ねていたという。
 疱瘡は老者には及ばないが、この疫病は老少を論じないということで、諸国に派遣して相撲人(すまいびと)を徴発する相撲使(すまいのつかい)を遣わすのは都合が悪かろうということで、さすがに前年につづいて相撲節会(すまいのせちえ)は停止(ちょうじ)となった(『小右記』)。相撲人同士の濃厚接触を避けるためでもあろう。
 しかし、道長の命によって、無量寿院の講堂の礎石(そせき)を、公卿たちが曳くことになった。二百余人で礎石1個を曳くことになったが、実資は、「近日、疫病がまさに発おこっている。下人は死亡している。遺った民はないようなものである。万人は悲嘆している。誰人に曳かせるというのか」と憤慨している(『小右記』)。
 異国からの疫病神
 永承(えいしょう)7年(1052)5月、またもや西京の住人の夢に、神人(しんじん)と称する者が出て来て、自分は唐朝(中国)の神で、この国に流れて来た。自分が到った所は皆、疫病を発するから、瑞想(ずいそう)(めでたいしるし)を表わした所に社(やしろ)を造営するよう告げた。
 この夢想は郷里(ごうり)に広まり、東西の京の人びとは、こぞってその場所に向かい、社屋を立てた。また諸府の人たちも祭礼(さいれい)を挙行し、隣里の郷党は雲のように集って饗応したとある(『春記(しゅんき)』)。
 中国から疫病神(えきびょうしん)が来るという経験は、遣唐使の時代以来、日本の人びとにとって、恐るべき歴史経験として認識されていたはずであり、この夢に現実性を賦与しているのである(倉本一宏『平安貴族の夢分析』)。
 このように、平安時代にも、例外的な人びともいたものの、密集を避ける、移動を避ける、異国人との接触を避ける、肉体接触を避けるなど、現代の感染予防にも通じる行動もとられていた。
 平安時代人は外交もおこなわず、穢(え)(特に死体)を恐れるなど、その保守性や後進性が指摘されることが多いが、それらも疫病感染を予防するためと考えれば、当時の医療知識のなかでは、精一杯の感染防止を考えていたのであるというのが、昨今の情勢を見ていての感想である。
 また、何だか安心するのは、朝廷(つまり天皇)や摂関などの上級貴族も、疫病などの危機に直面すると、下級官人や庶民と同じような対応をおこなうということである。人間の心性の本質には、じつは身分の差は案外にないということを実感させられる。
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👪49〕─1─フランクル心理学。ロゴセラピー。人生には意味がある。~No.175No.176No.177 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  

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 命の脅威とは、大陸では人間であり、日本列島では自然であった。 
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 人を作るのは、人間関係と自然環境に対する自我である。
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 ウィキペディア
 ロゴセラピー(意味中心療法 ; 実存分析、英語: Logotherapy)とは、人が自らの「生の意味」を見出すことを援助することで心の病を癒す心理療法のこと。創始者は、神経科医で心理学者のヴィクトール・フランクル
 概要
 ロゴセラピーは、ジークムント・フロイトの「精神分析」やアルフレッド・アドラーの「個人心理学」と並び、心理療法ウィーン学派三大潮流のひとつとして挙げられることもあるものである。
 「ロゴ」は、ギリシア語で「意味」の意である。ロゴセラピーは、人は実存的に自らの生の意味を追い求めており、その人生の意味が充たされないということが、メンタルな障害や心の病に関係してくる、という見解を基にしている。(心的な疾患は、当事者に人生の意味に関して非常に限定的な制約を課していると言える。)ロゴセラピーは、人にその生活状況の中で「生きる意味」を充実させることが出来るように、あるいはその価値の評価の仕方を変えることが出来るように援助しようとするものである。
 そのためロゴセラピーは手法として、実存主義的アプローチをとり、下記の3点を基本仮説とする。
1.意志の自由 - 人間は様々な条件、状況の中で自らの意志で態度を決める自由を持っている。(決定論の否定)
2,意味への意志 - 人間は生きる意味を強く求める。
3,人生の意味 - それぞれの人間の人生には独自の意味が存在している。
 フランクルは、人の主要な関心事は快楽を探すことでも苦痛を軽減することでもなく、「人生の意味を見出すこと」であるとする。人生の意味を見出している人間は苦しみにも耐えることができるのである。
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 ロゴセラピー講演会
 心理学で見つける“人生の意味”
 ~ロゴセラピー(フランクル心理学)への招待~
 「こうして働くこと、生きることに、何の意味があるんだろう?」 今、多くの人がこうした苦悩や空虚感を抱えています。こうした苦悩を抱えている方や、そうした方の支援をされている方に是非とも知っていただきたいのが、ロゴセラピーです。
 ロゴセラピーとは、ナチスによる強制収容所体験記『夜と霧』の著者として知られるヴィクトール・フランクルが創始した、人生の意味を見つけるための心理療法(+哲学+人間学)です。フランクルは、強制収容所という極限状況の中でさえも、「いかなる状況でも人生には意味がある、人生にイエスと言うことができる」という信念を決して捨てませんでした。
 静岡でのロゴセラピー講演会は今回で三度目になります。今回は、初めての方にもわかりやすくロゴセラピーの概要を説明する第1部と、既にロゴセラピーを学んでいる方を主な対象として具体的なご質問にお答えする第2部をご用意しました。もちろん、どなたでもご関心があれば第2部までご参加いただけます。
 講師:草野智洋 くさのともひろ
 静岡福祉大学 准教授
 博士(人間科学) 臨床心理士
 日本ロゴセラピスト協会認定A級ロゴセラピスト
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 100分 名著
◯「夜と霧」ゲスト講師 諸富祥彦
 「生きる意味」を求めて
 諸富祥彦(もろとみ・よしひこ)
 明治大学文学部教授
 今、大きな悩みや苦しみを抱えている人がたくさんおられます。心理カウンセラーである私は日々そのような方に接していますが、その苦しみはますます切実さを増してきているように思われます。
 うつ病の患者さんは今や百万人超といわれています。とりわけ深刻なのは、自殺者の増加です。国の調べによると、すでに十年以上前から三万人を超えています。
 ……
 その数日後、NHKに一枚の葉書が届きました。
 「私は今、五十代半ばのホームレスです。仕事を失い、家族も失って、もう人生を投げ出してしまおうと思っていました。死のうと思っていたのです……。そんな時、たまたまつけたラジオで、先生の、フランクルのお話をうかがいました……。もう少し、生きてみようと思います。ありがとうございます……」
 そんな内容でした。
 フランクルの思想はそれにふれた人の魂を揺さぶる力を持っています。
かくいう私自身、十代半ばから二十代前半にかけて人生の悩みに煩わされ、悶々としていた時に、フランクルの本に救われたことがあります。
 フランクルの思想は、人生に対する見方(立脚点)を一八〇度転回することを私たちに求めてきます。
 たとえば、「人間が人生を問うに先立って、人生から人間は問われている」「幸福を求めると、幸福は逃げていく」「悩むことは人間特有の能力である」といったように、です。
フランクルを読むうちに、私たちは、「私の幸せはどうすれば手に入るのか」「私の自己実現はどうすれば可能なのか」という「私中心の人生観」を、「私は何のために生まれてきたのか」「私の人生にはどのような意味と使命(ミッション)が与えられているのか」という「生きる意味と使命中心の人生観」へと生きる構えを一八〇度転回することが求められるのです。
 フランクルの思想のエッセンスは次のようなストレートなメッセージにあります。
どんな時も、人生には意味がある。
 ……
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 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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 日本民族人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
 つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
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 MS&ADインターリスク総研株式会社
 コンサルタントコラム
 「津波てんでんこ」を正しく理解しよう~災害に強い組織づくりへの第一歩~
 所属 リスクマネジメント第一部 リスクエンジニアリング第二グループ
 役職名 コンサルタント
 執筆者名 加藤 真由 Mayu Kato
 自然災害
 2023年6月2日
 「津波てんでんこ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。「津波てんでんこ」とは、「津波が来たら、いち早く各自てんでんばらばらに高台に逃げろ」(岩手県HPより)という津波襲来時の避難に関する三陸地方の言い伝えである。2011年3月に発生した東日本大震災にて、従来から津波防災教育を受けていた岩手県釜石市の小中学生が、この「津波てんでんこ」の教えを実践した。これにより、多くの命が助かった事例は「釜石の奇跡」として大々的にメディアに取り上げられた。その一方で、「津波てんでんこ」は、その注目度の高さ故、言葉がひとり歩きした結果、「自分だけが助かればよい」という意味で誤解され、「利己的で薄情である」と批判された事例も見受けられる。津波被害から身を守り、災害に強い組織づくりをするためにも、まず「津波てんでんこ」という言葉の意味を正しく理解する必要がある。
 京都大学の矢守克也教授は、「津波てんでんこ」は4つの意味・機能を多面的に織り込んだ重層的な用語であることを述べている(2012年)。
 1つ目は、「自助原則の強調」である。「自分の命は自分で守る」という考え方は重要だとされている。しかし、単純に津波避難における「自助」の重要性にとどまるものではなく、自己責任の原則だけを強調するものではないことに注意が必要である。
 2つ目は、「他者避難の促進」である。避難する姿が目撃者にとっての避難のきっかけとなり、結果的に他者の避難行動を促す仕掛けとなる。
 3つ目は、「相互信頼の事前醸成」である。「津波襲来時はお互いに"てんでんこ"する。」という行動を、事前に周囲の他者と約束する。この信頼関係が共有されていれば、「てんでんこ」の有効性が飛躍的に向上する。
 4つ目は、「生存者の自責感の低減」である。被災時には、津波で命を落とした他者に対して自責的感情に苛まれやすい。しかし、事前に他者と「てんでんこ」を約束しておくことで、「亡くなった人も"てんでんこ"した(しようとした)にも関わらず、それも及ばず犠牲になった」と考え、生存者の自責的感情を低減する可能性がある。
 この4つの意味・機能より、「津波てんでんこ」という言葉には、自助だけでなく、共助の重要性を強調する要素が含まれている。加えて、一刻を争う津波避難時の行動原則だけでなく、事前の社会のあり方や事後の人の心の回復等にも大きな意味を持つものである。
 東洋大学の及川康教授は、「津波てんでんこ」という言葉に対する考えを認識度別に調査した。その結果、「津波てんでんこ」に対する真の理解を得るためには、一義的・表面的な原義を提示するのみでは不十分で、適切な解説・解釈がなされる必要があることを示唆した(2017年)。
 「津波てんでんこ」という1つの言葉から学ぶべきことは非常に多い。災害に強い組織を作るためにも、東日本大震災をはじめとした過去の災害を振り返り、1つの言葉をテーマに皆さんで深い議論を重ねてみてはどうだろうか。
 以上
 (2023年5月25日 三友新聞掲載記事を転載)
 古川 崚仁 Ryoto Furukawa
 氏名 加藤 真由 Mayu Kato
 役職 リスクマネジメント第一部 リスクエンジニアリング第二グループ コンサルタント
 専門領域 自然災害リスク/カーボンニュートラル/スポーツ・リスクマネジメント/イベント・リスクマネジメント/施設等(指定管理者)の安全管理
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 cotree
 人生の意味に悩む人のために ~ロゴセラピーからのメッセージ~|臨床心理士 草野智洋
 更新日 2023年05月18日 | カテゴリ: 自分を変えたい
 生きることに何の意味があるのか?
 「何のために生きるのか?」、「なぜ生きなければならないのか?」、「生きることに何の意味があるのか?」。これらは言わば人生の意味に対する疑問といえます。このコラムを読んでくださっているということは、あなたは多少なりともこういう疑問を抱いておられるのでしょう。
 ですが、家族や友人と気軽に人生の意味について話し合うことができる人、そしてそれによって人生の意味に対する疑問が解消した人というのは、あまりいないのではないかと思います。日常生活で話すにはちょっと「重い」テーマですよね。
 こういう問題にあまり関わり過ぎると変な宗教に騙されちゃうんじゃないか、と心配になる人もいるかもしれません。宗教は本来は人間の助けになるはずのものですが、現代の日本人にとってはちょっと怖いもの、あまり近寄らないほうが良いもの、という印象を持たれる方が多いでしょう。
 ロゴセラピストとして、人生の意味と向き合う
 かく言う私は10代の頃からずっと人生の意味に対する疑問を抱いており、大学では宗教学という学問を専攻しました。
 人生の意味の答を求めて宗教に関心を持ったものの、一般的な日本人と同じく「何かの宗教を信仰する」ということにはどこか抵抗のあった私が出会ったのが、ヴィクトール・フランクルという心理学者(精神科医)であり、彼の創始したロゴセラピーでした。その後、紆余曲折はありましたが、大学院に進学して臨床心理学を学び、現在はロゴセラピーを専門とする臨床心理士(ロゴセラピスト)として、人が人生を意味あるものにするためのお手伝いをしています。
 意味への意志
 人間は、人生の意味に悩むものである
 ロゴセラピーの立場からまず自信をもってお伝えしたいことは、「人生の意味について悩むことは決しておかしなことではない!」ということです。それは、人間だからこそ悩むことのできる最も人間らしい悩みである、とフランクルは言います。いかがでしょう?私の場合は、この言葉だけでもずいぶん救われた思いがしました。
 「そんなことを考えてる暇があったらもっと働きなさい!」とか「え? そんなこと考えてるの? おかしいんじゃない?」などとは言われません。「うんうん、やっぱりそういうことって考えちゃうよね、人間だもの。」というのがロゴセラピーの基本的なスタンスです。
 ロゴセラピーでは、意味を求める「意味への意志」こそが人間の最も根源的な動機であると考えます。簡単に言えば、人間にとって最も大切なのは「意味」だということです。「そんなことはない。私にとって一番大事なのはお金だ。」という人もいるかもしれません。
 しかし、ではそのお金は何のためにあるのかを考えてみてください。お金は、家族を養ったり趣味を楽しんだり夢を叶えるための勉強をしたりと、人生を意味あるものにするための手段としては、確かに役に立ちます。しかし、お金は人生の意味そのものではありません。
 失われた10年だ20年だと言っても、日本は経済的にはまだまだ豊かな国です。もしも経済的な豊かさが幸福に比例しているのであれば、日本人はみな多くの発展途上国の人々よりも幸せでなければなりません。
 しかし、実際のところどうでしょうか? 日本の自殺率は減少傾向にあるとはいえ、まだまだ世界の中で高い水準のままです。仕事をすればそれなりに生きていくだけのお金を稼ぐことはできます。養ってくれる家族がいれば働かなくても生きることはできます。社会保障もそれなりに充実しています。
 そんな今の日本では、「生きること自体」はそれほど難しいことではありません。しかし、だからこそ、「何のために生きるのか」という生きる意味を見つけることが難しくなっているように私は感じます。すなわち生きる意味が見つからないということは「意味への意志」が満たされていないということです。
 生きる意味を見失う苦しみ
 生きる意味とは酸素のようなものだと私は思います。普通に呼吸をして生活しているときには、私たちは酸素のことなど気にもとめません。しかし、酸素が薄くなって苦しくなると、私たちは酸素が人間にとってどれだけ大切だったかに気がつきます。生きる意味を見失ってしまった人の苦しみは、そうでない人にはなかなか理解されません。
 コペルニクス的転回
 人生の意味とは何か?〜ロゴセラピーが教えてくれること
 それでは、人生の意味とはいったいなんでしょうか?「人間は○○のために生きる」という○○にあてはまる正解を、ロゴセラピーは教えてくれるのでしょうか?実は、残念ながらそうではないのです(さんざん引っ張っておいて、すみません)。
 ロゴセラピーの立場からは、普遍的・一般的な形で人生の意味とは何かを答えることはできません。例えば、チェスや将棋のようなゲームを考えてみてください。チェスや将棋で「一般論としての一番良い手」とは何かを語ることができるでしょうか。チェスや将棋では、刻々と盤面の状況が変わっていきます。「今のこの盤面の状況での一番良い手」ならば考えることができますし、むしろ重要なのはそっちです。
 チェスや将棋の喩えと同じように、人生の意味というテーマに関しても、「人間は○○のために生きている」といった形で、全ての人間のどのような状況にも当てはまるような普遍的な「○○」を論じることはできない、というのがロゴセラピーの立場です。
 だったらロゴセラピーなんて役に立たないじゃないか、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私はそうは思いません。ロゴセラピーは、普遍的・一般的な人生の意味を教えてくれるものではありませんが、私たち一人ひとりが生きている「この人生」を「意味のあるものにする」ための方法ならば教えてくれます。
 人生を「意味あるものにする」ために
 ここで少し「意味(名詞のmeaning)」という言葉と「意味のある(形容詞のmeaningful)」という言葉について整理しておきます。ロゴセラピーは一般論としての人生の「意味」は教えてくれないけれど、自分の人生を「意味のある」ものにする方法ならば教えてくれる、と述べました。
 別の例で考えてもらいたいのですが、おいしい料理を作りたい場合に、「おいしさ」とは何かを教えてほしいという人はいませんよね。重要なのは(名詞の)「おいしさ」とは何かを知ることではなく、(形容詞の)「おいしい」料理を作ることです。寒くて凍えている人にとって大事なことは、「暖かさ」とは何かを知ることではなく、「暖かく」することです。
 それと同じように、人生の意味に悩む人にとって大切なことは「意味」とは何かを知ることではなく、人生を「意味のある」ものにすることだと言えます。
 人生からの問いに「答える」
 さて、ロゴセラピーが教えてくれる人生を意味のあるものにする方法とは、どのようなものでしょうか? それは、「人生の意味とは何か」と問うことをやめ、自分が人生から「問われている」ことに気づき、人生からの問いに「答える」ということです。問うことをやめて答える。この抜本的な考え方の変化を、ロゴセラピーでは「人生の問いのコペルニクス的転回」と呼びます。
 しかし、なんだかわかったようなわからないような話ではありませんか? 人生から問われているとはいったいどういうことでしょう? 人間と違って人生は生き物ではありません。人生に口があって言葉を話すわけではありません。人生さんと話したことのある人はいないでしょう。しかし、確かに人は人生の意味を問います。あれはいったい誰に対して問うているのでしょうか?
 「コペルニクス的転回」とは、天動説から地動説への転回、すなわち180度すっかり向きを逆方向にすることです。人生に口があって問いを発するのかどうかはよくわかりませんが、少なくとも人生の意味に対する疑問を抱いていた人が、「何か」に向かって問いを発していたことは事実です。
 コペルニクス的転回というぐらいですから、その「何か」から逆に自分が問われているということにしておきましょう。問うているのが人生なのか何なのかは、ひとまず置いておきます。要は、私たちは何かから問われており、それに答えなければいけないらしいということです。
 良心によって
 今この瞬間の状況において、最も意味のある行動を選択する
 ではいったい「答える」とはどういうことでしょうか? どうすれば私たちはその問いに答えたことになるのでしょうか? ロゴセラピーの考え方によれば、「人生からの問いに答える」とは、「今この瞬間の状況において、最も意味のある行動を選択する」ということです。
 例えば、駅のホームを歩いていて目の前で人が線路に転落したという状況があったとしましょう。この状況では、どうすることが最も意味のある行動でしょうか?勇気があれば自分も線路に飛び降りてその人を救いあげることができるかもしれません。
 そこまではできなくても、急いでホームに設置されている列車の緊急停止ボタンを押すことはできるかもしれません。大声で駅員さんや周囲の人に助けを求めることならできるかもしれません。そうやって一人の人間の命を救うことができたなら、その行動にはなんと意味があるでしょうか。
 しかし、その状況で落ちた人を助けるのではなく「見て見ぬふりをする」という行動を選択することも、私たちには可能です。自分が助けなくても他の人が助けるかもしれません。落ちた人が自力で這い上がってくるかもしれません。自分がぶつかったり突き落としたりしたわけではないのですから、別に自分が助けないといけないという決まりはないはずです。
 線路に落ちた人を助けるという行動と助けないという行動、私たちはそのどちらを選択することも可能です。しかし、どちらの行動により意味があるか、どちらが「人生からの問い」に対してより正しく答えているか、その答は明らかでしょう。
 ほぼ全ての人が「助けることに意味がある」と答えるのではないでしょうか。しかし、どうして私たちは、ある行動と別の行動を比較して、どちらの行動に「より意味があるか」がわかるのでしょうか。
 良心が指し示す最も意味のある行動を選択する
 ロゴセラピーでは、人間には良心が備わっているから、その状況で自分がどうすることに最も意味があるかを認識することができる、と考えます。人間の目が光を感知し、耳が音を感知するのと同じように、人間は良心によって意味を感知することができる、というのがロゴセラピーの考え方です。
 ただしこれは生物学的な話ではなく、あくまでも良心というものどう捉えるかというイメージの話です。さて、それでは、もし人が良心に反した行動をとるとどうなるのでしょうか? 別の例で考えてみましょう。
 私は学生で、テストを受けています。しかし、勉強を怠けていたせいで全くわかりません。このままではひどい点数になってしまうでしょう。そんなとき、勉強が得意な前の生徒の答案が自分の席から丸見えだということに気がつきます。先生はこちらを見ていません。チャンスです。それを写せば、私は高得点をとることができるでしょう。
 この状況では、どのような行動の選択肢が存在するでしょうか? その中で、良心が指し示す最も意味のある行動はどのようなものでしょうか?
 話を単純化すると、この状況では前の生徒の答案を写す(カンニングをする)という行動と、自力で頑張る(カンニングをしない)という行動という二つの選択肢があります。
 しかし、もしカンニングをして良い点数をとったとしても、そんな風にしてとった高得点には何の意味もないということは、私自身が一番よくわかっています。自分がカンニングをしたことが誰かに見られていたのではないか、陰で噂をされているのではないかと、良心の呵責に苛まれ、心が休まるときはありません。
 「状況における意味」の積み重ねが「人生の意味」になる
 このように、私たちは良心によって、今どうすることに意味があるか、逆にどうすることには意味がないかを感じとることができます。ただし、良心によって感じとることができるのは、あくまでも自分が今置かれている「状況における意味」です。
 そして、このような「状況における意味」の積み重ねが次第に「人生の意味」になってきます。もしも意味がないと自分でわかっている行動の選択を繰り返していけば、その人の人生は罪悪感や空虚感にまみれたものになります。
 それに対して、その都度の状況において良心が指し示す最も意味のある行動を選択することによって、充実感や充足感が感じられます。その小さな一つ一つの行動選択の積み重ねが、自分が生きていることには確かな意味があるという感覚につながっていくのです。
 他人の目
 「やりたいことをやる」の二つの側面
 これまで書いてきた通り、ロゴセラピーでは良心に従うということを重視しています。なぜなら、良心は意味を認識する器官であり、人生を意味あるものにするための羅針盤のような役割を果たしてくれるからです。おいしい料理を作るために頼りになるのは自分の舌の感覚ですが、意味ある人生を送るために頼りになるのは自分の良心の感覚です。
 ところが、私たちが生きていくうえで良心以外に行動選択の指針としがちなものが二つあります。一つは自分の欲望、もう一つは他人の目(人からどう思われるか)です。
人間が良心ではなく欲望に従って生きていくとどうなるでしょうか。最近は「自分がやりたいことをやることが大事」ということがよく言われます。この意見には私も概ね賛成します。ただし、「やりたいこと」と言った場合に、それは良心のレベルでのやりたいこと(この場合は「信念」と言っても良いかもしれません)なのか、欲望のレベルでのやりたいことなのか、この二つを区別する必要があります。
 例えば、今の仕事を辞めて自分の夢を追いかけたいという場合を考えてみましょう。家族や友人は「もったいない」、「リスクが高い」などと言うかもしれません。
 しかし、そうしたメリットもデメリットも全て理解と覚悟をしたうえで自分の良心(信念)に従ってその道を選択するのであれば、後で後悔することもないでしょう。たとえうまくいってもいかなくても、「あの時この道を選んだことには意味があった」、「これが私の人生だ」と思えるはずです。失敗したことを他人のせいにしたり世の中のせいにしたりすることもありません。
 同じように「やりたいこと」と言っても、アルコール依存症で治療中の人が「お酒を飲みたい」という場合はどうでしょうか。これは単なる欲望のレベルでのやりたいことです。もちろんそこで欲望に従ってお酒を飲むという選択をすることも可能ですが、ここで一時的に欲望を満たしても意味がないことは当人が一番よくわかっているはずです。
 そのような行動の選択をしていると、結局あとで後悔することになり、自己嫌悪に陥ったり、自分の存在の価値を感じられなくなります。また、欲望は一つ満たせばまた次の欲望が生まれてくるという性質を持っています。欲望を満たすことによって幸福になろうとする生き方は、自分の鼻先にぶらさげたニンジンを追い続ける馬のようなもので、いつまで経っても満たされることがありません。
 自己中心的ではなく自己超越的な生き方を
 欲望に従った生き方は、あくまでも自分の利益や快楽を目的とした「自己中心的」な生き方です。それに対して、良心に従った生き方は、もちろん自分の利益にもなる場合はありますが、それだけではなく自分以外の誰かや何かのためにもなる「自己超越的」な生き方だと言えます。自己中心的ではなく自己超越的な行動の選択をすることが、意味のある人生のための大切なポイントです。
 自分以外の誰かや何かのためとは言いましたが、だからといって「人からどう思われるか」を行動の指針にするのも空しい生き方です。20世紀の欧米社会に生きたフランクルは、人生を意味あるものにするために自己中心的な生き方ではなく自己超越的な生き方をすることを強調していました。
 行動指針は、他人の目ではなく自分の良心
 しかし臨床心理士としての私の経験では、21世紀の日本社会で悩みを抱えて生きている人の中には、欲望まみれの自己中心的な人よりも、必要以上に他人の目を気にして自分を殺してしまっている人のほうがずっと多いような印象があります。人から変に思われないように、場の空気を壊さないように、目立たずみんなと同じように生きていれば「無難」です。しかしそれはもう少し強い言葉で言えば「保身」にすぎず、自分が生きる意味は感じられません。
 もちろん私はわざと人から変に思われるような行動をとることを勧めているわけではありません。良心に従った意味のある行動と他者から評価される行動とは、たいていの場合には一致するでしょう。
 しかし、たとえ場の空気を壊したとしても、ここぞという場面では言うべきことを言ってやるべきことをやる、そうすることに意味がある、という局面は存在します。それは非常に勇気のいることですが、後になって「あのとき勇気を出していれば…」と後悔することにならないよう、人生を意味あるものにするための行動指針は、あくまでも他人の目ではなく自分の良心なのだということを意識しておく必要があります。
 主人公
 人生は選択の連続である
 長い人生の中で、私たちは意識するしないにかかわらず、無数の行動選択を行っています。全ての瞬間の全ての行動を良心に従って選択するということは、現実的には不可能でしょう。私自身もそのようなことはできていませんし、ロゴセラピーの創始者フランクルも、「私は自分の原則にいつも忠実に生きてきたわけではない」と述懐しています。
 人生のあらゆる瞬間のあらゆる行動選択を良心に従って行うことは理想ではありますが現実的ではありません。しかし、良心に従った選択ができなかったと落ち込んでいる暇はありません。なぜなら、ある行動を選択した(もしくはしなかった)次の瞬間には、もう次の行動選択の機会がやってきているからです。
 意味のある行動の選択ができたときもできなかったときも、チャンスは常に次から次へとやってきます。どんなに良い一日でも嫌な一日でも、一晩眠ればまた同じように太陽が昇って新たな一日が始まるということと少し似ているかもしれません。
 良心に従って「生きていこう」とすることはできる
 ですから、人間は死の間際まで、人生を意味あるものにするチャンスに恵まれているのです。これまで自分の欲望や他人の目に従った行動ばかりしてきて自分の生きる意味がわからなくなってしまったという人でも、明日から、いえ、今この瞬間から、自分の良心に従って生きていくことが可能です。「生きていく」ことはちょっと大変かもしれませんが、少なくとも、自分の良心に従って「生きていこう」とすることは可能です。
 ここまでの話で、なんだか道徳のお説教のようだな、と思われた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ロゴセラピーはただの心理学(哲学的要素を多分に含んではいますが)であり、道徳ではありません。
 私自身も自分が道徳的な人間であるとは思っていませんし、相談に来られる方をロゴセラピーで道徳的な人間にさせようだなんて少しも思っていません。この点について、誤解のないように補足しておきます。
 「このように生きなければならない」と言うつもりは私にはありません。人生を意味あるものにしようとしまいと、欲望に従おうと他人の目に従おうと自分の良心に従おうと、それはその人の選択です。私は決して、良心に従って生きている人間のほうが欲望に従って生きている人間よりも偉いとか価値があるとか、そのようなことを言いたいわけではありません。
 ロゴセラピーは「人間は自己超越的に生きなければならない」というお説教ではなく、「人間は本質的に自己超越的な存在である」という人間観と「人間は自己超越的に生きたときに生きる意味を感じられる」という心理学的知見をお伝えしているにすぎません。その考え方を受け入れるかどうか、そしてそのように生きようとするかどうかは、完全にその人次第です。
 あなたは自分の欲望の奴隷でも、他人の操り人形でもない
 しかし、この長い文章をここまで読んでくださったということは、あなたはやはり人生を意味あるものにしたいと願っているのではないでしょうか。もしそうであれば、騙されたと思ってしばらく(試しに1か月ぐらいどうでしょう?)良心に従った自己超越的な行動の選択を意識してみてください。
 きっと、今までとは違った充実感が感じられると思います。それは別の言い方をすれば、自分が自分の人生の主人公であり、本当の意味で自分の人生を生きているという感覚です。あなたは自分の欲望の奴隷ではありません。他人からの評価を気にして他人を喜ばせるために存在する操り人形でもありません。自分の意志次第で人生を意味のあるものにすることができる、自由と責任をもった人生の主人公なのです。
 おわりに
 ここに書いたことは、膨大な(そして難解な)ロゴセラピー理論のごく一部を、現代の日本で生きる意味に悩んでいる人へのメッセージとして、私なりの解釈とともに記したものです。
 ロゴセラピーには、人生を意味あるものにするためのヒントがまだまだたくさん詰まっています。ご関心のある方は、ぜひ下記の本をお読みいただいたり、研究会やゼミナールなどにご参加ください。人生の意味について真剣に考えている人たちとの出会いが待っています。
 推薦図書
 『それでも人生にイエスと言う』 著:V.E.フランクル 訳:山田邦男・松田美佳 (春秋社)
 『ロゴセラピーのエッセンス 18の基本概念』 著:V.E.フランクル 訳:赤坂桃子 解説:本多奈美・草野智洋 (新教出版社
 『夜と霧』  著:V.E.フランクル 訳:池田香代子 (みすず書房
 『人生があなたを待っている』  著:H.クリングバーグ,Jr. 訳:赤坂桃子 (みすず書房
 推薦団体
・静岡ロゴセラピー研究会
・日本ロゴセラピーゼミナール
 草野智洋草野 智洋(くさの ともひろ)
 臨床心理士静岡福祉大学社会福祉学部・福祉心理学科 准教授。静岡県ひきこもり支援センター スーパーヴァイザー、日本ロゴセラピスト協会認定A級ロゴセラピスト
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 フランクルが独自に生み出した心理療法
 「逆説志向」と「反省除去」
 松山 淳:企業研修講師/心理カウンセラー/産業能率大学経営学部/情報マネジメント学部)兼任講師
 ライフ・社会
 フランクルの「名言」に学ぶ心を強くする考え方
 2018.8.2 4:50
 「どんな時にも人生には意味がある。未来で待っている人や何かがあり、そのために今すべきことが必ずある」ーー。ヴィクトール・E・フランクルは、フロイトユングアドラーに次ぐ「第4の巨頭」と言われる偉人です。ナチス強制収容所を生き延びた心理学者であり、その時の体験を記した『夜と霧』は、世界的ベストセラーになっています。冒頭の言葉に象徴されるフランクルの教えは、辛い状況に陥り苦悩する人々を今なお救い続けています。多くの人に生きる意味や勇気を与え、「心を強くしてくれる力」がフランクルの教えにはあります。このたび、ダイヤモンド社から『君が生きる意味』を上梓した心理カウンセラーの松山 淳さんが、「逆境の心理学」とも呼ばれるフランクル心理学の真髄について、全12回にわたって解説いたします。
 フランクルが独自に生み出した心理療法
「逆説志向」と「反省除去」
 われわれが自分の不安から自由になれるのは、自己観察やまして自己反省によってではなく、また自分の不安を思いめぐらすことによってでもなく、自己放棄によって、自己を引き渡すことによって、そしてそれだけの価値ある事物へ自己をゆだねることによってである。
 『神経症1(V・E・フランクル[著]、宮本忠雄 小田晋[訳] みすず書房
 不安から自由になる「逆説志向」
 フランクル心理学は、人生観にコペルニクス的転回を起こす「思想・哲学」として世界中の人に影響を与え続けています。その「思想・哲学」の側面がクローズアップされるため、心理療法としての側面が忘れられがちです。
 フランクル心理学は「ロゴ・セラピー」と呼ばれます。「セラピー」ですのでフランクルが開発したオリジナルの「心理療法」があります。その代表的なものが2つあり、ひとつ目が「逆説志向」(paradoxical intention)で、ふたつ目が「反省除去」(dereflexion)です。
 本稿ではこの2つの「心理療法」について解説していきます。まず最初に、「逆説志向」について述べていきます。
 「逆説志向」とは、その本人が不安に思うことや恐れを抱くことを、自ら積極的に望んでみたり、行なったりすることです。不安や恐れから人は逃げたいものですが、逃げるのではなく、むしろ不安や恐れの中に飛び込みくぐり抜けていくようなイメージです。
 例えば、人前で話す時にどうしても緊張してしまう人のケースを考えてみます。聴衆を前にして話すことに苦手意識を持っている人は多いものです。
 会議でプレゼンで、あるいは結婚式のスピーチの場面で、人の前に立ち「緊張しないよう、しないように」と思っていても、顔が赤くなったり手が震えてきたり汗が流れてきたりします。緊張は自分の意志とは無関係に起きてくる生理現象であり、なかなか克服できないものです。
 この時、心では「緊張しないよう、しないよう」と緊張を抑えようとしていますが、体は逆にどんどん緊張してきます。緊張状態では、心理的な葛藤が発生しています。その葛藤がますます緊張を加速させるので、覚えていることを全て忘れてしまうような頭が真っ白になる状態が起きるのです。
 そこで「逆説志向」では、「緊張しないように」ではなく、「もっと緊張しろ、もっと緊張してやれ」と、自分が恐れている状況を自ら望む(志向する)ようにします。さらに、避けたい状況を自己指示する時に、ユーモアを絡めるのが「逆説志向」の大きなポイントです。
 例えば、「よし、今日のプレゼンで私は世界で一番緊張してみせるぞ。顔を真っ赤しにしてぶるぶる手を震わせてみんな大笑いさせてやるぞ」といった風にです。
 「逆説志向」の治療事例
 フランクルが独自に生み出した心理療法
「逆説志向」と「反省除去」
 「顔が真っ赤になるのはもう嫌だ」「あの嫌な汗をかくのはこりごりだ」と、不安を前もって予想し、実際に赤面したり汗が流れてくるのです。
  発汗恐怖の若い医師がフランクルのもとを訪れます。汗をかくのではないかと「予期不安」にとらわれると汗が流れてきます。そこでフランクルは「逆説志向」の考え方を伝え「今後発汗が起こりそうになったら、思いきって、自分はどれだけほどたくさんの汗をかけるかをひとつみんなに見せてやろうと心に決めてください」※1と指示します。
 そこで、若い医師は予期不安が起こりそうな人に会う時に、こう自分に言い聞かせました。
 「これまではたったの1クォート〔約1.4リットル〕しか汗をかかなかった。しかし今度はせめて10クォートは汗を流してやるぞ」※2
 その結果、彼は1回の面接と1週間の訓練で、4年間続いた発汗恐怖症が治ってしまったのです。
 睡眠障害にも効果を発揮する
 ある簿記係をしていた書痙〔指けいれん〕に悩む人物は、文字を書こうとすると指が震え、失職直前の状況に追い込まれフランクルの病院を訪れました。そして「自殺したい」と告げます。それまで数ヵ所の病院で治療を受けてきたのですが、治癒しなかったのです。
 ここでも「逆説志向」が効果を発揮します。
 この患者を担当したフランクルの同僚は、読みやすい文字を書こうとするのではなく、なぐり書きするように指示します。「さあ、私がどれほど素晴らしいなぐり書きの名手であるかをみんなに見せてやろう」※3と。
 すると翌日には書痙症状から解放され、その後の観察期間において再発することはなかったのです。
 この「逆説志向」は睡眠障害にも効果を発揮すると、フランクルはいいます。
 睡眠障害といわずとも、夜、眠ろうとして眠れない経験を多くの人がもっています。過去に起きた嫌なことや昼に職場で言われた嫌味や明日の重要な会議を思い浮かべて「うまくいくか」と不安になり、人は眠れなくなります。眠ろうと思えば思うほど、眠れなくなるのです。
 眠ろうとする自分に意識が向きすぎる「過剰な自己観察」のために余計に睡眠が遠のいていきます。そこでフランクルは、眠れない夜は眠ることを諦めるように勧めます。
 「今夜はちっとも眠りたくない、ひとつ今夜は体を休ませながら、あれやこれやを考えてみたい。この前の休暇のことや、つぎの休暇のことをなど」※4
 本来であれば避けたい眠れない状況を、ユーモアをもって自ら望むことによって逆に睡眠を求める過剰な意識が薄れて眠りが訪れるというのです。
 「反省除去」~自分を観察し過ぎない
 「眠れない、眠れない」と悶々としている時、その人は自分に意識が向き過ぎています。自分を過度に観察し省みている「自己への過剰志向」が存在しているのです。「逆説志向」が効果を発揮するのは、ユーモアを交えて自分の状況を「笑い飛ばす」ことで、過剰志向をゆるめる効果が期待できるからです。
 人間の心には、囚われた自己から離れていく「自己離脱」の能力が備わっているのです。それ故に、自己への過剰志向を抑制することができます。
 そこで「逆説志向」とリンクする手法に「反省除去」があります。「反省除去」では、過度に自分を省みることをやめるように勧めます。「自分のことを考え過ぎてはいけません」と。これを「脱反省」ともいいます
 フランクルは音楽家や画家の例をあげます。音楽家は素晴らしい演奏をしようとして、画家は芸術的な作品を創ろうとして、つまり、過剰に芸術性を志向したがためにむしろ、創造性を見失ってしまったのです。それはスランプ状態ともいえます。そこでフランクルは「反省除去」の考え方を伝えることで、二人を創造性の苦しみから救いました。
 フランクルはこう書いています。
 「過度の自己観察、──まるでひとりでに行なわれるかのように無意識の深みの底でなされねばならぬはずの仕事を意識して「行なおう」とする意志、──それが創造的な芸術家にとって一種のハンディキャップになることは稀ではない。そこでは不必要な反省はすべて有害なものでしかありえないのである」※4
 この「反省除去」を適応するような場面の根幹には「自己執着」があります。「自己執着」という否定的な状況を「自己離脱」の力を使って肯定的な状況に転換させていくのが「反省除去」です。
 この手法はフランクルが強調する「自己超越」へとつながっていきます。
 「自己超越」とは、自己を越えていくことです。自分を志向するのではなく、自分を越えた存在を志向し、それらに自分を忘れて没頭することです。
 芸術家は芸術作品へ、教師は授業の時間へ、ビジネスマンは自分の仕事へ「自己を引き渡すことによって、そしてそれだけの価値ある事物へ自己をゆだねることによって」、人は不安から解放されクリエイティブになれるのです。
 拙著『君が生きる意味』では、苦悩する青年にフランクル心理学を説く「小さいおじさん」が繰り返し、自分にとらわれる「ボクの境地」を越えてゆけと諭します。それは、フランクル心理学の本稿に述べた「逆説志向」「反省除去」「自己超越」の考え方をベースにしています。
 自分を省みる適度な反省はもちろん必要ですが、自分のことばかり考える「過度の自己観察」は、時に人生のつまずき石となります。自分に囚われることなく「あるがまま」で、自己を越えた世界へより意識を向けていきましょう。
◇引用文献
 ※1-3『意味による癒し ロゴセラピー入門』(V・E・フランクル[著]、山田邦男[訳] 春秋社)
 ※4『神経症1』(V・E・フランクル[著]、宮本忠雄 小田晋[訳] みすず書房
 ※5『識られざる神』(V・E・フランクル[著]、佐野利勝 木村敏[訳] みすず書房
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◎1日目 こんな人生に意味はあるのか?
◎2日目 これってブラック企業ですよね?
◎3日目 自分を超えるって何ですか?
◎4日目 ボクのどこが自己チューなんですか?
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 松山 淳(まつやま・じゅん)
企業研修講師/心理カウンセラー 産業能率大学経営学部/情報マネジメント学部)兼任講師 1968年生まれ。成城大学文芸学部卒業後、JR東海エージェンシー(広告代理店)に入社。同社退社後、2002年アースシップ・コンサルティング設立。2003年メルマガ「リーダーへ贈る108通の手紙」が好評を博す。読者数は4000名を越える。これまで、15年にわたりビジネスパーソン等の個別相談を受け、その悩みに答えている。2010年心理学者ユングの性格類型論をベースに開発された国際的性格検査MBTI®の資格取得。2011年東日本大震災を契機に、『夜と霧』の著者として有名な心理学者のV・E・フランクルに傾倒し、「フランクル心理学」への造詣を深める。ユングフランクル心理学の知見を活動に取り入れる。同年Facebookページ「リーダーへ贈る人生が輝く言葉」の運営開始。フォロワー数は6300名を越える。2016年産業能率大学情報マネジメント学部の兼任講師。2017年産業能率大学経営学部兼任講師に就任。経営者、起業家、中間管理職など、リーダー層を対象にした個別相談(カウンセリング、コーチング)、企業研修、講演、執筆など幅広く活動。

 程度の差はありますが、人前で話すことが苦手な人は、そのことを想像しただけで不安や恐れの感情が湧いてきて嫌な気分になります。実際にまだその場面に遭遇していないのに起きる不安を「予期不安」といいます。
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🎍42〕─3・D─尾張国郡司百姓等解文。永延2年(988)11月8日。~No.134 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年4月3日 YAHOO!JAPANニュース「【光る君へ】朝廷で話題になった「尾張国郡司百姓等解文」には、何が書かれているのか
 渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 京都御所(写真:イメージマート)
 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、朝廷で民衆からの訴えをどう扱うかが議論されていた。その際、話題になったのが「尾張国郡司百姓等解文」である。すでに日本史の教科書に取り上げられるほど有名であるが、いったい何が書かれているのか、改めて確認しておこう。
 尾張国郡司百姓等解文」は、永延2年(988)11月8日に尾張国内の郡司や農民らが国守の藤原元命(生没年不詳)の非法を朝廷に訴えたものである。大変貴重な史料であるが、原本は伝わっておらず、鎌倉時代後期の写本が早稲田大学東京大学史料編纂所真福寺に所蔵されている。
 元命の在任期間は3年に及んだが、その間の非法は31か条にわたった。そのうちの一つには、公出挙がある。公出挙とは、国司が官稲を春に3~5割の利息で貸し付け、秋の収穫後に返させた制度である。
 当初は勧農として行われていたが、実情は強制に近く、国家の大きな収入源になっていた。その結果、負担が農民に重くのしかかり、耕地を放棄して逃亡する原因となった。
 また、交易雑物の課税率を高くしたり、税帳などの公文書を偽造したり、郎党らによる農民への乱暴狼藉行為があったりし、大きな問題となっていた。元命自身の私利私欲の追及という点が大きな反発を招いたのだ。しかし、こういうことは決して珍しいことではなかった。
 訴えを受けた朝廷は、永祚元年(989)4月の除目において、元命を更迭した。代わりに、尾張国守に任命されたのは、藤原文信である。とはいえ、これで元命の官人としての生命が完全に断たれたわけではなかった。
 長徳元年(998)4月、吉田祭の上卿(責任者)が急に参加できなくなり、代わりに元命が役を務めた。また、子の頼方、孫の頼成は受領に任じられており、その後も家は続いたのだ。
 なお、後世に成った『尾州鳴海地蔵縁起』には、元命は更迭されたあと「術ツキテ東寺門ニテ乞食ケルガ、終ニハ飢死タリケリ」と書かれている。元命は万策が尽きて、東寺(京都市南区)の門前で乞食になったが、最期は餓死したというのだ。
 むろん、この話は史実として認められないが、そのあまりに酷い暴政を窺い知ることができる。10・11世紀には、こうした国守の暴政に対して、農民らはその非法を訴えたり、あるいは耕作地を放棄して逃亡したりした。まさに、藤原一族の政治手腕が問われたのだ。
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