🗾5〕─2─日本は島嶼国家であり、日本人は島人で、性根は島国根所であった。〜No.15No.16 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 人口爆発は満ち潮のように本島から離島へと日本人は溢れだし、人口激減は引き潮のように離島から本島へと日本人は引いていく。
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 日本は海の道であり、中国は陸の道であり、朝鮮は半島廻廊であった。
 海の道は遮る障害物がなく世界中に通じ、陸の道は国境で隣国に接し、半島廻廊は渡り廊下であった。
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 2024年4月17日 YAHOO!JAPANニュース ABA青森朝日放送「海の守り神「天妃様」の新衣装をお披露目 青森・大間町のマグロに負けない観光の柱としての期待も
 青森県大間町の神社に海の守り神として祭られている天妃(てんぴ)様の像についてです。台湾の総本山への初めての里帰りから戻り、現地で寄贈された新しい衣装がお披露目されました。
 大間稲荷神社に祭られている天妃様は、台湾や東南アジアなどで信仰を集めている海上守護の女神で、3月、台湾にある信仰の総本山「北港朝天宮(ほっこうちょうてんぐう)」に初めて里帰りしました。
 16日には町民たちを集めた報告会が開かれ、天妃様が北港朝天宮を訪れた映像が公開されました。
 そして、大間町観光協会の大見義紀会長が、現地で大歓迎を受けたことや、台湾の人たちの天妃様への思い入れの強さなどを報告しました。
 また、台湾で寄贈された新しい衣装がお披露目され、豪華な衣裳に身を包んだ天妃様の姿を町民たちが写真に収めていました。
 7月15日の海の日に町内で開催される天妃様行列には、北港朝天宮の関係者が訪れる予定で、今後は台湾からの観光客の誘致に期待が高まっています。
 【大間町観光協会 大見義紀会長】
 「張り切って、我々 媽祖(まそ)様(天妃様)を中心に、マグロに負けない観光のもう一本の柱として、大間町観光協会として頑張っていきたいと思っています」
 また会場では、4月3日に台湾の東部沖で発生した地震の被災者を支援しようと、訪れた人たちが募金を行っていました。
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 4月17日 YAHOO!JAPANニュース オーヴォ「私論「島嶼国家日本」 私たちは「島人」という自画像を提唱 日本離島センター小島愛之助専務理事
 長崎県五島市福江島の「大瀬崎灯台」(提供:五島市
 「日本」という言葉を聞いて、何を思い浮かべるだろう。富士山、相撲、歌舞伎、アニメ、コメ、集団主義・・・と、次々とイメージされるだろう。さらに、「日本人」の定義はなんだろうか。実は、意外に難しい。定義によって導き出される答えが違ってくるからだ。
 例えば、日本人を「日本という土地に生まれ、育った人」と定義する。すると、日本国籍を持ちながら、海外で育ち、海外で暮らしている人は、日本人ではないということになる。逆に、日本以外の国籍の人でも、日本で生まれ、育った人は日本人になる。
 日本人とはなにか――その問いはタマネギの皮のように、むいてもむいても「正解」という芯になかなかたどり着けないのかもしれない。
 その正解に近づく一つの補助線として、国土交通省で日本の離島振興政策に長年、携わってきた公益財団法人日本離島センター小島愛之助専務理事は、日本という土地に暮らす人々はすべて「島人」(しまびと)であるという自画像を提唱する。
 以下は、小島氏による「島嶼(とうしょ)国家日本」論である。(編集部)
▼「大きな島から来ました」
 我が国は、四方を海に囲まれ、海とつながることにより生きてきた海洋国家であります。同時に、1万4125の島々から成り立っている島嶼国家でもあります。デンマーク自治領であるグリーンランドの217万5600平方キロメートルを世界第1位の島としますと、我が国の本州でさえ、約10分の1の22万7414平方キロメートル、世界第7位の島に過ぎません。
 グリーンランドと本州の間に存在するのは、ニューギニア(79万平方キロメートル)、カリマンタン(74万3330平方キロメートル)、マダガスカル(58万7041平方キロメートル)、バフィン(50万7451平方キロメートル)、スマトラ(42万5000平方キロメートル)といった五つの島々であります。
 かなり昔のことになってしまいますが、ある国際会議の席上で、オーストラリアの代表が「自分は大きな島から来ました」という自己紹介をしたという話を聞いたことがあります。言うまでもないことではありますが、オーストラリアはグリーンランドの約3.5倍、我が国の約20倍の面積769万2024平方キロメートルを誇る、五大陸の一つであります。私自身も2014年に、オーストラリアを訪問させていただき、その広大さに驚かされた記憶があります。
 一方、日本の本州に居住する日本人の多くが自分を「島人」であると認識しているかどうかを考えますと、残念ながら否定的な答えを示さざるを得ないでしょう。個人的には、「島国根性」という言葉の悪い側面(島国根性=非国際化という図式)が強調されすぎているのではないかと考えています。
 国際社会における閉鎖性は大陸においても散見される事象ではありますが、我が国の場合には、海の存在や他国からの距離に起因する部分が大きいと考えられるわけです。
▼逆さ日本地図
 大陸と島、島と島の間には海があり、この島と海を介して、我が国は広く海外諸国とつながっています。
 筆者が勤務する日本離島センター(全国離島振興協議会事務局)の応接室には、新潟県佐渡市佐渡島)が作成した「東アジア交流地図」というものがあります。日本列島を上部に大陸を下部に配置した、いわゆる「逆さ日本地図」でありますが、これを眺めてみますと、海を介したつながりを実感できるような気がします。
 まず、日本海側に眼を向けますと、佐渡隠岐壱岐対馬、五島などといった島々を挟んで、ユーラシア大陸と接しております。実はこのことを体感できる場所があります。
 長崎県対馬市北西部の千俵蒔山(せんびょうまきやま)の中腹にある「異国(韓国)の見える丘」展望台がそれです。運が良ければ、約50キロ先にある、韓国・釜山市の街並みを見ることができます。
 他方、南の海に眼を転じてみますと、鹿児島から南西諸島を経て、遠くフィリピンやインドネシアへと続き、また伊豆諸島にはじまる東京諸島は、おそらくはマリアナ諸島へとつながっていると考えられるわけであります。
 これこそが、民俗学者で著名な柳田国男が唱え、小説家・島崎藤村が詠んだ「海上の道」にほかならないのではないでしょうか。「海上の道」は柳田の最晩年の著作でありますが、その原点は24歳の時に滞在した、愛知県伊良湖岬に椰子(やし)の実が漂着したことにある、と言われております。
 さらに、この体験を柳田が親友である島崎に語ったことから生まれた詩が「名も知らぬ 遠き島より流れよる 椰子の実ひとつ」なのであります。東京都の武蔵野台地にある旧石器時代の遺跡から、伊豆の神津島にあるものと同じ黒曜石(こくようせき)が発見されたという事実も「つながり」を感じさせるものではないかと推測されます。
離島振興法との関わり
 我が国が1万4125の島嶼から成り立っていると前述いたしましたが、そのうち、北海道、本州、四国、九州および沖縄本島を除く1万4120がいわゆる離島であります。さらに、このうち、256の有人離島を対象とする振興施策の根幹をなすものとして、「離島振興法」という法律があります。
 1953年に議員立法によって成立した法律でありますが、筆者は2002年、この法律の改正・延長に政府側の担当課長(国土交通省都市・地域整備局離島振興課長)として関係させていただくという、貴重な経験を得させていただきました。施行後50年の歴史を経て、時代背景も移り変わる中で、当時、法改正のポイントとして議論されましたことは、200カイリ時代における「国益」という観点でありました。
 「離島振興法」の対象離島256には、別の法律の対象になっている小笠原諸島奄美群島沖縄諸島、ならびに北方領土は含まれておりません。
 しかしながら、当時の法改正の理念は、明らかに、これらのすべての地域を包含するものでありました。すなわち、離島が、我が国の領域、排他的経済水域などの保全に重要な役割を担っていることが、初めて法の目的として明記されたのであります。その上で、地域の創意工夫と離島の自然的・地理的特性を活かした振興施策によって、離島地域の自立的発展を促進させることが目的として掲げられたのであります。
▼島に人が住むことの意味
 離島地域の自立的発展を促進させるのであれば、当然のことでありますが、人が住んでいるということの意味を考えなければなりません。実は、我が国の離島振興の歴史の中には、結果として無人島を造り出してしまったという悲しい経験が2回あります。
 一つは、1969年の東京都の八丈小島であり、もう一つは、翌1970年の鹿児島県の臥蛇(がじゃ)島であります。
 八丈小島は、人口流出による過疎化、生活条件の厳しさ、生活水準格差の拡大、子弟の教育に対する不安などを理由として、東京都の援助を受けて、91人の住民が集団離島を行い、その後は野生のヤギだけが住む島となってしまいました。
 一方、臥蛇島は、築港の困難さ、人口減少、航路の不安定性などにより、国策として無人島となり、その後は野生のシカの棲み家(すみか)になってしまいました。
 実はかつて有人離島であって、着岸することが可能であった島が無人化することは、野生動物のみならず、外国からの不法入国の拠点にもなり得るのではないかという指摘もあります。こうした事例だけを考えてみても、島に人が住んでいることの意味、そのための振興施策の重要性は十分に理解いただけるのではないでしょうか。
▼「星の箱船」
 ほとんど仕事上のつながりだけでありましたが、「一番お勧めの島はどこか?」と尋ねられた時に真っ先に挙げさせていただくのが、東京諸島の青ケ島であります。東京港の南358キロ、八丈島の南65キロに存在する周囲9キロの火山島です。
 夜間に民宿から一歩外に出て海の方を眺めると、何のあかりも見ることができない、つまり夜空の星しか見えないのであります。アーティストの篠原ともえさんは、母方の故郷である青ケ島を「星の箱船」であると言っておられます。言い得て妙である表現だと感じます。
 この青ケ島は、今から約240年前の1785年に天明の大噴火を起こしております。この時、約200人の青ケ島住民が八丈島に避難・移住し、青ケ島は一時、無人島となりました。
 しかし、住民たちは青ケ島に帰ることをあきらめず、苦難の末、約40年後の1824年に「還住」を果たしました。この「還住」という言葉も柳田国男命名であります。2013年まで八丈島と青ケ島を結ぶ定期船「還住丸」にその名を留(とど)めておりました。
 この「還住丸」は、運航ダイヤ上では所要2時間30分となっておりましたが、なにしろ黒潮を越えていく船ですから、その乗り心地たるや、これも筆舌に尽くし難いものがありました。青ケ島の最大の特産品は青ケ島焼酎「あおちゅう」でしょう。火山の地熱で蒸した「くさや」が柔らかくて臭みもとれており、筆者としては一番の好みです。青ケ島に行かれる際にはぜひ、夜空の星に加え、「あおちゅう」「くさや」を試してみてはいかがでしょうか。
▼島民の知恵を生かす
 民俗学者であり、離島振興の父といわれている宮本常一は、離島振興法は住民の知恵を活かすことができる法律であるべきだ、と言われました。「離島振興法ができたから島がよくなるのではない。島をよくしようとするとき離島振興法が活きてくる」と主張されたのであります。
 2002年の法改正時のキーワードは「価値ある地域差」でした。離島地域の抱えるハンディを逆手に取り、セールスポイントにしていこうというものでありました。例えば、風や波といった「離島苦」を自然再生エネルギーとして糧に変えていこうという試みなどが議論されたわけであります。こうした取り組みの中には、すでに〝果実〟として結実しているものも見受けられます。
 幕末から明治期の思想家で、慶応義塾創立者福沢諭吉の言葉に「一身独立して 一家独立し 一家独立して 一国独立す」というものがあります。その「一身の独立」のために「学問をすすめる」というわけであります。
 地域振興に関していえば、「地域創(づく)りは人造り、人造りは自分作り」ということになります。離島地域に限らず、地域の振興のためには、地域住民の一人一人が自分を磨くことが大切であると思います。
 そのことによって、地域の歴史的・文化的遺産(ポテンシャル)や地域に根ざした「価値」を見いだすことができるのではないでしょうか。筆者が国交省の離島振興課長時代に島根県西ノ島町隠岐諸島)でお目にかかった元教員の女性の言葉が今でも忘れられません。「教師を辞めてから毎年、海外旅行に出かけていますが、いつも帰ってきた時に思うことが一番いいのが我が島だということであります」
 2011年9月に国交省国土政策局長に任命されました。今度は担当の局長として、離島振興法の改正・延長に関与することになりました。この時は同法の60年目の節目、人間でいえば還暦を迎えての改正でありました。
 かなり早い段階から各党が一堂に会しての議論が交わされ、その結果として抜本的かつ大幅な改正が行われました。一番のポイントは離島活性化交付金が創設され、ハードからソフトへの転換が具体的に踏み出されたことではないでしょうか。
 生まれ育って住み続けたいと思っている離島地域に、あるいは希望を持って移り住んできた離島地域に、未来永劫(えいごう)誇りを持って住み続けていただくためには、何が必要であるのか、法の存在自体が離島地域の住民の生活の礎であるという信念の下に、こうした面での拡充が図られていかなければなりません。
▼島があることによる「国益
 「国益」の話に立ち返らせていただきます。我が国が漁業管轄権や海底資源の調査・採掘権などの主権的権利を有する排他的経済水域は約447万平方キロメートルと、カナダ(約470万平方キロメートル)に続き、世界第6位の広さを誇っております。ちなみに、1位から4位までは、アメリカ、オーストラリア、インドネシアニュージーランドです。
 我が国の国土面積は約37万平方キロメートルでありますから、排他的経済水域の面積は国土面積の約12倍です。そして、何よりも重要なことは、こうした広大な排他的経済水域は14125の島々により、もたらされているということであります。
 このような問題意識を突き詰めて考えていきますと、この二十数年間に起きているさまざまな事態は極めて憂慮すべき事態と言えないでしょうか。
 北朝鮮の不審船問題にはじまり、韓国との間の竹島問題、中国との間の尖閣諸島問題、小笠原諸島沖の珊瑚(さんご)礁乱獲問題、そして沖ノ鳥島の国際的な取り扱いの問題などなど、枚挙にいとまがないと思われます。このうち、沖ノ鳥島を基点とする排他的経済水域は約40万平方キロメートルということでありますから、これは我が国の排他的経済水域全体の約1割であると同時に、我が国の国土面積にほぼ匹敵しているなど、大きな意義を有していると言えます。
▼ハードからソフトへ転換
 筆者は2013年7月に国家公務員を定年退職しましたが、その後しばらくして、2015年4月に全国離島振興協議会に奉職させていただくことができました。その当時は、国境離島を取り扱う新法の制定に向けての運動が活発化している最中でありました。
 もともとは、2012年に改正された離島振興法の附則第6条(特に重要な役割を担う離島の保全及び振興に関する検討)に端を発する問題でありましたから、筆者としても責任の一端を感じながら、真摯(しんし)に取り組みさせていただいた、と思います。
 そして成立させていただきましたのが、「有人国境離島地域の保全及び特定有人国境離島地域に係る地域社会の維持に関する特別措置法」であります。
 従来の離島振興策は、港湾や道路、船舶の整備など、ハード面における整備に重点が置かれてきました。もちろん、「ハードからソフト」への政策転換も徐々に浸透しつつありますが、人が住み続け、多様な人材がいる社会を造るためには、雇用を創り、若い人を育てなければなりません。
 こうした目的から、離島振興法に加えて、特定有人国境離島地域についての特別な支援策が措置されることになったわけであります。この法律には、航路・航空路の運賃や輸送費の補助なども含んでおりますが、一番の目的は、雇用を創り、有人国境離島の人口を増やすことであります。
 そのためには、新たな業を起こすことはもちろんのこと、観光振興をはじめとする交流人口の拡大にも注力していかなければなりません。
 さらに、2022年11月、自身3度目の経験となる離島振興法の改正・延長に、今回は離島市町村の立場を代弁させていただく立場から立ち会わせていただくことができました。振り返れば、1998年6月に旧国土庁地方振興局離島振興課長に着任させていただいてから四半世紀余り、折に触れ胸に刻んできたさまざまな課題について、盛り込んでいただいたことにあらためて感謝の気持ちを示したいと思います。今後は、離島振興法有人国境離島法が車の両輪として、離島地域全体の価値ある発展に寄与することを期待している次第であります。
▼「百年の計」で海と接する
 2011年の東日本大震災、そして2024年幕開けの能登半島地震などによって、私どもは海の怖さについて、あらためて痛感させられることになりました。
 しかしながら、元来、海は人間にとって貴重な資源の宝庫であり、そのもたらす恵みは、海底資源にいたるまで計り知ることはできません。私ども人間はすべからく、生きとし生けるものによって生かされております。海の恵みはその中の一つであるとともに、無限の可能性を秘めたものであると考えております。
 「百年の計」という言葉がありますが、一世代30年と考えますと、100年後は曾孫(ひまご)の時代であります。今、目前に迫る問題、自分の生きている間に結論が得られるとは思えない問題であっても、曾孫の世代のために手を打ち始めることが肝要ではないでしょうか。
 例えば、水産資源を涵養(かんよう)するための森林整備などは、食料安全保障を持ち出さなくても、重要だと思われます。一方で、排他的経済水域における権利の主張と実践は、それほど猶予のある問題ではなくなってきているのかもしれません。このような海に四方を囲まれている日本に住んでいることに対し、一人一人が少しでも日本人=島人としての自覚を持ち、離島への関心を高めていただくことを願わずにはいられません。
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🗾8〕─3─科学的根拠、日本人の起源は雑多な血の混入(コンタミネーション)であった。〜No.40 

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 日本民族は、混血の雑種であって純血種ではなかった。
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 2024年4月14日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「縄文人弥生人で分けられない「日本人のルーツ」 祖先はいつ、どうやって日本列島へやってきた?
 日本人は、どこからやってきたのでしょうか(写真:Ziyuuichi Tomowo/PIXTA
 「えっ?  最初の人類はアウストラロピテクスじゃないの?」。あなたの教養は30年前の常識のままかもしれません。
 【イラストで見る】核ゲノムの都道府県別SNP解析
 2022年のノーベル医学生理学賞受賞で注目が集まっている進化人類学。急速に発展するこの分野の最新成果をまとめた『人類の起源』(中公新書)の著者、篠田謙一国立科学博物館長が監修を務め、同書のエッセンスを豊富なイラストで伝える『図解版 人類の起源』より、一部抜粋・編集してお届けします。
■日本人の起源はどうなのか
 ゲノム研究の発展以前は、日本人の起源も発掘された人骨の形態をもとに研究され、日本列島集団には2つの大きな特徴があると考えられてきました。
 1つ目は、縄文時代弥生時代という時代が異なる人骨の間の明確に認識できる違い。2つ目は、北海道のアイヌ集団と、琉球列島集団、本州・四国・九州を中心とした本土日本人という3つの集団に姿形に区別しうる特徴があることです。
 このような違いを説明する原理として、「二重構造モデル」という学説が定説とされてきました。
 この学説は、旧石器時代に東南アジアなどから日本列島に進出した集団が縄文人となり、やがて列島に入らず北上した新石器時代の北東アジア人が渡来系弥生人となってやってきたという説です。
 しかし、近年のゲノム分析により、二重構造モデルでは説明できない事実が明らかになっています。
■「二重構造モデル」の限界
 「二重構造モデル」は、旧石器時代に東南アジアなどから日本列島に進入した集団を基層集団(縄文人)とし、その後、新石器時代に北東アジアから朝鮮半島経由で渡来した集団(弥生人)が入ってきたという単一的な視点が特徴です。
 縄文人弥生人という枠
 「二重構造モデル」では、東南アジア由来の旧石器人が縄文人になり、列島に入らず北上した集団は、寒冷地適応を受けて形質を変化させ、北東アジアの新石器人になったとされています。
 弥生時代になり、この集団の中から北部九州に稲作をもたらす渡来系弥生人が現れ、稲作が入らなかった北海道や、北部九州から2000年遅れて稲作が始まった琉球列島では縄文人の遺伝的特徴が強く残ることになり、それが両者の見た目の類似性を生んだと考えられています。
 つまり、縄文人弥生人の違いは、集団の由来が異なることに起因するという単一的な視点で説明しているのです。
 地域ごとに集団形成の過程が異なる! 
 地域別に現代日本人のゲノムを比べると、北海道のアイヌ集団、沖縄集団、本州・四国・九州のいわゆる本土日本人の間で違いが見られます。それは、地域ごとに異なる歴史があり、集団成立にも異なるプロセスがあることを示しています。
 「地域」という視点の重要性
 下の図は、都道府県別の核ゲノムSNP解析を表したもので、近畿・四国などの本土日本の「へそ」の部分と、九州や東北の間に違いが見えます(※外部配信先ではイラストを閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください)。
 畿内(きだい)を中心とした地域では、渡来系集団の遺伝的な影響が強く、周辺域では縄文人の遺伝的な影響が強く残っており、それを敷衍(ふえん)して、北海道と琉球列島では縄文系の比率が高いはずだと考えるのが二重構造モデル。
 しかし、「縄文人」や「弥生人」といった枠が先にあり、地域ごとの歴史や集団の成立過程を考える発想がありません。
ホモ・サピエンスはいつ日本へ? 
 3つの異なる文化系統
 日本列島にホモ・サピエンスがやってきたのは約4万年前。
 二重構造モデルでは、彼らが均一な形質の縄文人となって列島内に広がったと仮定されていますが、ゲノム解析によって、縄文人はさまざまな地域から入ってきた集団であり、地域によって遺伝的特徴が異なる集団が居住していたことがわかってきました。
 下の図は、日本列島における3つの異なる文化系統です。地域が違えば、歴史も文化も異なり、集団の成立過程にも大きな違いがあるのは自然なことといえるでしょう。
 日本列島にホモ・サピエンスが最初に進出したのは、約4万年前の後期旧石器時代旧石器時代の遺跡は日本国内に1万箇所ほど知られていますが、人骨は琉球列島を除いてほとんど見つかっておらず、旧石器時代人の実像についてはあまりわかっていません。
■海を渡ってやってきた旧石器時代
 日本列島への流入のルートとして考えられるのは主に3つ。朝鮮半島から対馬を経由してくるルート、台湾から琉球列島を渡るルート、シベリアから北海道を通るルートです。
 この時期は最終氷期に当たるため、現在より海水面が低く、本州や九州、四国、沖縄には船で渡ってきたものと考えられます。
 二重構造モデルでは、縄文人は均一な集団と考えられてきましたが、ミトコンドリアDNAの解析によると、旧石器時代にさまざまな地域から入ってきた集団で形成され、遺伝的特徴が異なる集団が居住していたようです。
 日本列島内には、旧石器時代の遺跡は1万箇所ほどありますが、人骨は琉球列島以外ではほとんど見つかっていません。沖縄本島石垣島で発見された人骨は、ミトコンドリアDNAの分析が行われ、旧石器時代人の系統などが明らかになっています。
 遺跡や沖縄の化石人骨のデータ
 琉球列島の主な旧石器時代遺跡としては、「港川遺跡」「サキタリ洞遺跡」「白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡」「山下町洞穴遺跡」などがあり、近年旧石器時代の人骨が続々と見つかっています。
 ちなみに、現在のところ琉球列島以外の旧石器時代の人骨は静岡県の根堅(ねがた)遺跡のものだけ。
 港川人以外は、まだ次世代シークエンサを使った解析は行われていませんが、ゲノム情報を得ることができれば、琉球列島の人類史の解明に新たな展開をもたらすことができるはずです。
 沖縄の旧石器人は滅んでしまった可能性も? 
 沖縄本島で発見された約2万年前の人骨「港川1号」は、次世代シークエンサを用いたミトコンドリアDNAの解析も行われています。この人物は現代人につながらずに消滅した系統であると考えられています。
 実は、琉球列島集団の現代人を対象とした大規模なゲノム解析によって、沖縄の現代人の祖先は1万5000年前より昔にさかのぼらないという結論が導かれています。
 この結果は、港川人のミトコンドリア系統が現代人につながらないとする解釈と整合性があります。
縄文人の地域差が意味するものとは? 
 形態的には比較的均一だったと考えられている縄文人ですが、ミトコンドリアDNAの系統では、明瞭な東西の地域差が認められています。旧石器時代の日本列島には、進入ルートが異なるさまざまな集団が入ってきたと考えられます。
 さまざまな地域から入ってきた集団
 縄文人ミトコンドリアDNAの代表的なハプログループは、M7aとN9bです。西日本から琉球列島に多くなるM7aは、おそらく中国大陸の南部沿岸地域から西日本に進入したとされています。
 一方、東日本から北海道の地域で多数を占めるN9bは、九州にも特殊なN9b系統が存在。そのため、N9b系統の祖先は朝鮮半島から沿海州の広い地域に散在し、それぞれ北海道経由のルートと、朝鮮半島経由のルートで日本列島に到達したと考えられます。
 現代日本人に占めるそれぞれの割合は、M7aが約7.7%でN9bが約2.1%。この割合は、その後の弥生人との混合の状況に関連があると考えられます。
 篠田 謙一 :国立科学博物館
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 4月7日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「サルからヒトへ、古代DNAが明かした人類のルーツ
 遺伝子配列の変化をさかのぼると祖先がわかる
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 篠田 謙一 : 国立科学博物館
 21世紀になり、生物の持つDNA配列を自由に読み取れるようになったことで状況は大きく変わります(写真:angkhan/PIXTA
 「えっ? 最初の人類はアウストラロピテクスじゃないの?」。あなたの教養は30年前の常識のままかもしれません。
 2022年のノーベル医学生理学賞受賞で注目が集まっている進化人類学。急速に発展するこの分野の最新成果をまとめた『人類の起源』(中公新書)の著者、篠田謙一国立科学博物館長が監修を務め、同書のエッセンスを豊富なイラストで伝える『図解版 人類の起源』より、一部抜粋・編集してお届けします。
古代DNA研究は活況のときを迎えた
 これまで私たちの祖先を探す努力は、主に化石の発見とその解釈によるものでした。しかし、21世紀になり、生物の持つDNA配列を自由に読み取れるようになったことで、状況は大きく変わります。
 2006年に高速でDNAを解析する「次世代シークエンサ」が実用化され、大量の情報を持つ核DNAの解析が可能になりました。
 これ以前の古代人のDNA分析は、技術的な制約から、母系に遺伝するミトコンドリアDNAの情報に限定されていましたが、核DNAが持つ、父母双方からの情報を得られるようになり、古代DNA研究は活況を迎えました。
 その象徴ともいえるのが、2022年、古代DNAで人類進化の謎を解明したスバンテ・ペーボ博士のノーベル生理学・医学賞の受賞です。これにより、古代DNA研究の重要性が、国際的に認められたといえるでしょう。
 人類の起源
 (『図解版 人類の起源』より/絵:代々木アニメーション学院
 研究に革命もたらす「次世代シークエンサ」
 1980年代から始まった古代DNAの分析。
 かつては母親から受け継ぐミトコンドリアDNAといった両親の一方の情報に限定されていましたが、「次世代シークエンサ」の実用化により、両親双方からの情報を分析することが可能となりました。
 大量のDNA配列を高速で解析!
 生物が持つDNAは、G(グアニン)、A(アデニン)、T(チミン)、C(シトシン)という4種の「塩基」から構成され、ヒトでは細胞の核とミトコンドリアの中に収まっています。
 子どもは、両親から半分ずつの遺伝子を受け継ぐわけですが、それには母から子どもへ直接受け継がれるミトコンドリアDNA、父から息子だけに継承されるY染色体という例外もあります。
 ヒトが持つDNAの膨大な情報を「次世代シークエンサ」が高速で解析することで、これまで不明とされていた系統関係も明らかになってきています。
 古代ゲノムが解明する人類のルーツ
 DNAは、細胞の入れ替わりのたびに配列をコピーしていきますが、突然変異を起こして少しずつ変化します。
 他人と比べると、1000文字に1つ程度の割合で異なっているとされています。これをSNP(一塩基多型)といい、交配によって子孫に受け継がれていくため、この性質を利用すると、集団成立の歴史を推測することができます。
 また、遺伝子の働きを読み解くことで、自然環境や病などに適応したプロセスも解明することができます。このように古代ゲノムの分析によって、化石の形態ではわからなかった多くのことが判明しているのです。
 古代DNAの研究で明らかになった人類の系統関係を解説していく前に、あらためて基本的な知識や用語を整理。ゲノムやDNA、遺伝子など、読み進むうえで最低限必要なものに限定して簡単に解説します。
 「ゲノム」はヒトのカラダをつくる全体の設計図
 「遺伝子」は、私たちのカラダを構成しているさまざまなタンパク質の構造や、それらがつくられるタイミングなどを記述している設計図。
 ヒトは2万2000種類ほどの遺伝子を持っており、その情報をもとに日々の生活を可能にしています。つまり、人体を構成する個別のパーツや働きを担っています。「DNA」は、その設計図を書くための文字といえます。
 そして、「ゲノム」とはヒトひとりを構成する最小限の遺伝子のセットであり、ひとりの個体をつくるための全体の設計図になります。
 ミトコンドリアDNAの系統解析
 ミトコンドリアY染色体のDNA配列の変化をさかのぼっていくと、祖先までのルートをたどることができますが、これを系統解析といいます。
 そして、個人が持つこれらのDNA配列を「ハプロタイプ」と呼び、ある程度さかのぼると祖先が同じになるハプロタイプをまとめて「ハプログループ」といいます。
 下の図は、ミトコンドリアDNAのハプログループの系統図。人類共通の祖先はLであり、アフリカ集団のL3からアジアやヨーロッパなど世界に展開するMとNというふたつのグループが生まれているのがわかります(※外部配信先ではイラストを閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください。
 人類の起源
 (『図解版 人類の起源』より/絵:代々木アニメーション学院
 DNA分析で祖先をめぐる新たな展開
 現在のところ、DNAが解析された最も古い人類化石は、スペインの「シマ・デ・ロス・ウエソス洞窟」で発見された人骨です。
 1976年以降、28体分の人骨が発見されていますが、当初は60万年前のものとされ、形態的に約30万年前にヨーロッパに登場する「ネアンデルタール人」に似た特徴があることから、その前に生存していた旧人「ホモ・ハイデルベルゲンシス」の仲間ではないかと考えられていました。
 しかし、2016年にこの人骨のDNA分析が成功し、年代が43万年前のものと訂正されたことで、ネアンデルタール人の直接の祖先と考えられるようになったのですが、分析の結果はそれほど単純なものではありませんでした。
 驚くべきことに、「デニソワ人」という新たな人類との関係性が浮上。ホモ・サピエンスを含めた3者による意外な関連が判明することになったのです。
 最古のヒトゲノムを発見
 「シマ・デ・ロス・ウエソス洞窟」で発見された人骨群は、縦穴の地下13mの地点から出土。このような安定した環境に置かれていたこともDNAの長期保存を助け、最古のヒトゲノムの解析を可能にしました。
 ネアンデルタール人の特徴を持つ直接の祖先?
 「ネアンデルタール人」は、ヨーロッパや西アジアで生存した最も有名な化石人類です。成人の推定身長は150~175cm、体重は64~82kgというがっちりした体型をしており、脳容積は1200~1750mLと推定されています。頭部は、眉の部分がひさしのように飛び出し、前に突き出た鼻や太い頰骨が特徴です。
 シマ・デ・ロス・ウエソス洞窟で出土した人骨には、これらの特徴が見られ、年代からもネアンデルタール人の直接の祖先だと考えられています。
 DNA分析で明らかになった第三者との関係
 シマ・デ・ロス・ウエソス洞窟の人骨は、DNA分析により43万年前の初期ネアンデルタール人のものと考えられましたが、さらにDNAによってその存在が初めて明らかになった「デニソワ人」と、ホモ・サピエンスとの関係性が明らかに。
 約64万年前にまずサピエンス種が3者の共通の祖先から分岐し、さらに43万年より前にデニソワ人とネアンデルタール人が分岐したことがわかりました。そして、この3者は長期にわたって交雑していた可能性も判明したのです。
 Colum コンタミネーション問題とは?
 古代試料に残されたDNAはわずかで、これらの試料を増幅して分析を行いますが、このときに問題となるのが、現代人のDNAの混入(コンタミネーション)です。
 最初は、この問題に注意が払われることは稀でしたが、近年はDNA分析を前提とした発掘が行われ、混入を防ぐための慎重な措置が取られています。
 ネアンデルタール人の化石が発見された19世紀以降、彼らが私たちの祖先なのか、共通の祖先から派生した親戚なのか、論争が繰り広げられてきましたが、1997年に発表されたネアンデルタール人ミトコンドリアDNAの研究によって一応の決着を見ました。
 この研究では、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスと70万~50万年前に分岐した親戚であるとされました。
また、ホモ・サピエンスの中にネアンデルタール人由来のミトコンドリアDNAがなかったことから、21世紀の初め頃は、彼らはサピエンス種と交わることなく絶滅したと考えられていました。
 しかし、この結果は「次世代シークエンサ」による核ゲノム解析が可能になったことで、覆されることになります。2010年の研究で、ネアンデルタール人のDNAが現代人のDNAに流入していることが判明したのです。
 ネアンデルタール人とサピエンス種
 ネアンデルタール人ホモ・サピエンスが分岐して以来交雑がないということであれば、両者が共有するDNAの変異はすべての現代人の集団で等しくなるはずです。
 そうならないのは、サピエンス種の出アフリカ以後も交雑があったということ示しています。
 超有名な化石人類「ネアンデルタール人
 ひさしのように大きく前に突き出た眉に、がっちりした体格で知られる「ネアンデルタール人」。2010年の研究で、サハラ以南のアフリカ人を除く、アジアとヨーロッパの現代人のDNAに約2.5%の割合でネアンデルタール人のDNAが流入していることがわかりました。
 ホモ・サピエンスと分岐したのちに交雑がなかったとすれば、アフリカの集団も等しくDNAに痕跡が残るはずで、そうならないということは、サピエンス種の出アフリカ後に交雑があったことを示しています。
 人類の起源
 (『図解版 人類の起源』より/絵:代々木アニメーション学院
 ネアンデルタール人と交雑していたサピエンス集団がいた!
 ヨーロッパ人と東アジア人を比較すると、東アジア人のほうがわずかに多くネアンデルタール人のDNAを受け継いでいます。これは、ホモ・サピエンスが世界に拡散する初期の段階で、いくつかの集団に分かれて広がっていったことを示しています。
 その中の1つがネアンデルタール人と交雑して世界に広がり、一方、交雑していない集団もヨーロッパの集団形成に関与したものと考えられます。いずれにせよ、ネアンデルタール人は間違いなく私たちの隠れた祖先なのです。
 ゲノムで解明「ネアンデルタール人の生活」
 高い精度でゲノムが解析されたネアンデルタール人は、シベリア西部のデニソワ洞窟とチャギルスカヤ洞窟、クロアチアのヴィンデジャ洞窟から出土した3体。これらに加え、各地で得た複数のデータから集団形成の様子などが明らかになりました。
 ネアンデルタール人の集団形成
 下の図は、古代ゲノムの解析が行われている主なネアンデルタール人の遺跡です。これらから得たゲノムデータを解析することで、ネアンデルタール人の集団の構造や、分化の様子も再現されるようになりました。
 人類の起源
 (『図解版 人類の起源』より/絵:代々木アニメーション学院
 例えば、チャギルスカヤ洞窟(8万年前)のネアンデルタール人のゲノムは、地理的に近いデニソワ洞窟(11万年前)より、ヨーロッパのヴィンデジャ洞窟のネアンデルタール人に近く、この事実から彼らは11万~8万年前に西ヨーロッパから東へ移動した集団の子孫であることがわかります。
 『ビジネス教養・超速アップデート-図解版 人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』(中央公論新社)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします
 東西で異なる婚姻形態が判明!?
 ゲノムの解析によって拡散の様子も明らかに。
 ネアンデルタール人の共通の祖先から、まずデニソワ洞窟の集団が分離し、さらにチャギルスカヤ洞窟の系統が東へ移動、その後ヨーロッパに残った系統からヴィンデジャ洞窟や他の西ヨーロッパの系統が生まれたと考えられています。
 また、東のグループは60人以下の少人数での婚姻(近親交配)をしていたことが判明。西の集団には見られないため、東の集団は人数が減り、近親婚を繰り返したことで消滅したと考えられています。
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 篠田 謙一 国立科学博物館
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🗾14〕─4─アニメを通して語り継ぐ「日本人と海との関わり」。~No.70 

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 2024年4月15日 YAHOO!JAPANニュース アニメージュプラス「【海ノ民話】アニメを通して語り継ぐ「日本人と海との関わり」
 ▲(左から)勝木友香さん、久保華誉さん、海野光行氏、永井紗耶子さん、加納さん。
 日本財団「海と日本プロジェクト」の一環として一般社団法人日本昔ばなし協会が推進する「海ノ民話のまちプロジェクト」では、日本各地に伝わる海にまつわる民話を、2018年のスタートから2022年までの5年間で実に42本もアニメ化してきた。
3月24日(日)に2023年に新たに制作された25本の「海ノ民話アニメーション」の上 映会が開かれたが、続く25日(月)には各会の有識者による「公開シンポジウム『海ノ民話』から学ぶもの ~作家・芸人・学者の視点から~」も東京・文藝春秋ホールにて開催された。
 【関連画像】シンポジウムの様子や作品ビジュアルを見る(写真12点)
 “次世代へ豊かで美しい海を引き継ぐために、海を介して人と人がつながる” というスローガンを掲げる「海と日本プロジェクト」の一環として制作されているのが「海ノ民話」アニメーション。自然との調和や、生活の知恵や教訓など、時代を超えて語り継がれてきた、日本に生きる人と海との関わりを、さらに次世代へとつなげていくという壮大なプロジェクトだ。
 そうした「海ノ民話」について、プロジェクトの舵取りを担う公益財団法人 日本財団 常務理事の海野光行氏に加え、各界からの有識者を招いて様々な視点から議論を交わそうというのがこのシンポジウムの主眼だ。
 パネリストとして登壇したのは、小説家の永井紗耶子さん、お笑いコンビ「Aマッソ」の加納さん、日本昔話学会委員の久保華誉さん。司会は放送作家・脚本家の勝木友香さんが務めた。
◆パネリストプロフィール◆
 久保華誉さん
 日本昔話学会委員/1975年生まれ、静岡県出身。主な著書に『なぜ炭治郎は鬼の死を悼むのか―昔話で読み解く『鬼滅の刃』の謎』(草思社、2023年)、『日本における外国昔話の受容と変容―和製グリムの世界』(三弥井書店、2009年)などがある。
 永井紗耶子さん
 小説家/1977年生まれ、神奈川県出身。新聞記者、フリーランスライターを経て2010年『絡繰り心中』で小学館文庫小説賞を受賞し、作家デビュー。2023年『木挽町のあだ討ち』で第169回直木賞を受賞。
 加納さん
 芸人/1989年生まれ、大阪府出身。ワタナベエンターテインメント所属。2010年、幼馴染のむらきゃみとともにお笑いコンビ「Aマッソ」を結成、ネタ作りを担当。テレビやラジオなどでも活躍するほか執筆活動などマルチな才能を発揮する。
 シンポジウムは「現代人と海との距離感について」「海ノ民話が持つ価値について」「民話が持つ時代性と普遍性について」「海ノ民話をどのような表現媒体で伝えていくか」「海ノ民話の活用法と文化的価値について」という5つのテーマで進行した。
 冒頭では海野氏より、全国に伝わる民話は約2000あると言われており、そのうちの約2割が海にまつわるものだが、資料が散逸したり語り部が減ったことによってその存続が危ぶまれる中、受け継がれてきた「海ノ民話」を次世代へと継承することがプロジェクトの主眼であるとの説明があった。
 続いて、パネリストそれぞれが印象に残った作品をセレクト。永井さんは「輪郭線が淡くて蛇たちの動きも可愛らしい」と『虻が島の大蛇』(富山県 氷見市/2022年度)、「螺鈿のような幻想的な絵柄で統一された芸術的作品」と『海の姫宮の旅』(山口県 岩国市/2022年度)の2作品を挙げていた。
 『ゼンパはん』(徳島県 小松島市/2021年度)を選んだ久保さんは「海坊主と主人公のゼンパはんとの問答が昔話らしい語り口で楽しかった」とその理由を語った。
 加納さんが選んだのは『お屋敷になったクジラ』(和歌山県 串本町/2020年度)。「捕ったクジラが木材になるという、昔話らしい飛躍があるのが面白い」と芸人ならではの視点を披露した。
 また、司会の勝木さんも気になった作品を2つピックアップ。『おたるがした』(愛媛県 松山市/2019年度)には「どんな境遇に陥っても人間には立ち上がる力があるということが感じられる」と、民話から得られる「学び」に注目していた。さらに、『海に沈んだ鬼』(高知県 中土佐町/2023年度)については、「自然の脅威と人間の無力さが感じられ、人間を救うために身を投げ出す鬼の自己犠牲の精神にも感銘を受けた」と語った。
 さらに、実際に会場で『神割り岩』(宮城県 南三陸町/2023年度)の上映も行われた。
 多岐にわたるテーマについて小説家、芸人、民話研究者というそれぞれの視点からの鋭い意見が次々と飛び出したシンポジウムは意義深いものとなった。2018年にスタートした「海ノ民話のまちプロジェクト」は今年で7年目を迎える。これまでに制作されたアニメーションは67作品、ほとんどの都道府県をカバーしており、興味深いのは長野県や山梨県など内陸で「海がない」県にも「海ノ民話」は伝わっているのだ。それはつまり、日本人にとって海からの恵みがどれだけ重要なものであったかということを物語っている。
 それはまた、日本人の心の奥底には共有されるひとつのルーツとして「海」というものが存在している、と言い換えることもできるだろう。そうした伝承をアニメーションという形で語り直し、また各地の名産品とのコラボなどで文化振興や町おこしなどにもつながっていく「海ノ民話」には、まだまだ大きなポテンシャルが秘められている。
今回はシンポジウムの中で話題に上ったいくつかの作品を場面写真とともに紹介したが、これ以外にも数多くの魅力的な作品が揃っているので、興味を持った方はぜひ観てほしい。
 (C)2018-2023 一般社団法人日本昔ばなし
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🏹68〕─2─日本はどのように「中国から学び」、「中国から離れた」のか。~No.218 

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 日本民族は、国際言語である中国語を学んだが民族言語である日本語にこだわり中国語を拒否した。
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 日本と朝鮮は違っていた。
 日本は世界から孤立の道を選んだ。
 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではなかった。
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 2024年4月13日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「日本はどのように「中国から学び」、「中国から離れた」のか
 松岡 正剛
 日本はどのように「中国から学び」、「中国から離れた」のか
 © 現代ビジネス 提供
 日本文化はハイコンテキストである。
 一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する!
 *本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
 漢に学び、漢から離れる
 ここでは、いくつもの日本のコンセプトが「和漢の境」をまたぐことによって成立してきたという顛末を話したいと思います。
 和漢の境をまたぐとは、中国(漢)と日本(和)の交流が融合しつつ、しだいに日本独自の表現様式や認知様式や、さらには中世や近世で独特の価値観をつくっていったということです。
 これはおおざっぱには、次のようなことを意味しています。アジア社会では長らく中国が発するものをグローバルスタンダードとしての規範にしてきたのですが、そのグローバルスタンダードに学んだ日本が、奈良朝の『古事記』や『万葉集』の表記や表現において、一挙にローカルな趣向を打ち出し、ついに「仮名」の出現によって、まさにまったく新たな「グローカルな文化様式」や「クレオールな文化様式」を誕生させたということです。しかも、その後はこれを徹底して磨いていった。何を磨いたかというとクレオールな「和漢の境」を磨いていったのです。
 なぜ、このようなことをしたのか。なぜそんなことが可能になったのか。たんに知恵に富んでいたわけではないのです。
 二、三の例で説明します。
 たとえば禅宗は中国からやってきたもので、鎌倉時代には栄西道元はじっさいに中国に行って修行もしています。しかし、日本に入って各地に禅寺が造営されるようになると、その一角に「枯山水」という岩組みや白砂の庭が出現します。竜安寺大徳寺が有名ですが、このような庭は中国にはないものです。
 中国の庭園(園林と総称します)は植物も石もわんさとあります。日本の禅庭は最小限の石と植栽だけでつくられ、枯山水にいたっては水を使わずに石だけで水の流れを表現します。つまり引き算がおこっているのです。
 お茶も中国からやってきたものでした。栄西が『喫茶養生記』でその由来を綴っている。しかし日本では、最初こそ中国の喫茶習慣をまねていたのですが、やがて「草庵の茶」という侘び茶の風味や所作に転化していきました。
 またそのための茶室を独特の風情でつくりあげた。身ひとつが出入りできるだけの小さな躙口を設け、最小のサイズの床の間をしつらえた。部屋の大きさも広間から四畳半へ、三帖台目へ、さらには二帖台目というふうになっていく。こんなことも中国の喫茶にはありません。ここにも引き算がおこっているのです。
 侘び茶や草庵の茶に傾いた村田珠光は、短いながらもとても重要な『心の文』という覚え書のなかで、そうした心を「和漢の境をまぎらかす」と述べました。たいへん画期的なテーゼでした。
 古来、日本には中国からさまざまな建具が入ってきました。衝立や板戸です。たいていは頑丈な木でできているのですが、日本はそこから軽い「襖」や「障子」を工夫した。桟を残して和紙をあてがったのです。これらは1970年代以降の日本の技術シーンで流行した「軽薄短小」のハシリです。
 このように、日本は「漢」に学んで漢を離れ、「和」を仕込んで和漢の境に遊ぶようになったのです。
 *
 さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。
 関連するビデオ: 初の日米比首脳会議 中国の行動に「深刻な懸念」 連携強化へ (テレ朝news)
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 2024年4月12日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「「日本の文明」に圧倒的な衝撃を与えた「3つ目の黒船」の正体…史上「最初で最大」の文明的事件
 松岡 正剛
 © 現代ビジネス 提供
 日本文化はハイコンテキストである。
 一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する!
 *本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
 史上最初で最大の文明的事件
 日本という国を理解するためには、この国が地震や火山噴火に見舞われやすい列島であることを意識しておく必要があります。いつどんな自然災害に見舞われるかわからない。近代日本の最初のユニークな科学者となった寺田寅彦が真っ先に地震学にとりくんだのも、そのせいでした。日本はフラジャイル(壊れやすい)・アイランドなのです。
しかも木と紙でできあがった日本の家屋は、火事になりやすい。燃えればあっというまに灰燼に帰します。すべては「仮の世」だという認識さえ生まれました。けれども、それゆえに再生可能でもあるのです。こうして復原することは日本にとっては大事な創造行為になったのです。熊本城の破損や首里城の炎上は心を痛める出来事でしたが、その復原こそは多くの人々の願いとなった。そのため「写し」をつくるという美意識が発達します。
 ひるがえって、日本列島は2000万年前まではユーラシア大陸の一部でした。それが地質学でいうところのプレートテクトニクスなどの地殻変動によって、アジア大陸の縁の部分が東西に離れ、そこに海水が浸入することで日本海ができて大陸と分断され、日本列島ができあがったと考えられています。
 このような成り立ちをもつゆえに、日本列島が縄文時代の終わり頃まで長らく大陸と孤絶していたという事実には、きわめて重いものがあります。日本海が大陸と日本を隔てていたということが、和漢をまたいだ日本の成り立ちにとって、きわめて大きいのです。
 その孤立した島に、遅くとも約3000年前の縄文時代後期までには稲作が、紀元前4~前3世紀には鉄が、4世紀後半には漢字が、いずれも日本海を越えて大陸からもたらされることになったという話を、『日本文化の核心』第1講でしておきました。「稲・鉄・漢字」という黒船の到来です。
 とりわけ最後にやってきた漢字のインパクトは絶大でした。日本人が最初に漢字と遭遇したのは、筑前国(現在の福岡県北西部)の志賀島から出土した、あの「漢委奴国王」という金印であり、銅鏡に刻印された呪文のような漢字群でした。
 これを初めて見た日本人(倭人)たちはそれが何を意味しているかなどまったくわからなかったにちがいありません。しかし中国は当時のグローバルスタンダードの機軸国であったので(このグローバルスタンダードを「華夷秩序」といいます)、日本人はすなおにこの未知のプロトコルを採り入れることを決めた。
 ところが、最初こそ漢文のままに漢字を認識し、学習していったのですが、途中から変わってきた。日本人はその当時ですでに1万〜2万種類もあった漢字を、中国のもともとの発音に倣って読むだけではなく、縄文時代からずっと喋っていた自分たちのオラル・コミュニケーションの発話性に合わせて、それをかぶせるように読み下してしまったのです。
 私はこれは日本史上、最初で最大の文化事件だったと思っています。日本文明という見方をするなら、最も大きな文明的事件だったでしょう。ただ輸入したのではなく、日本人はこれを劇的な方法で編集した。
 中国語学習ムーブメント
 漢字の束を最初に日本(倭国)に持ってきたのは、百済からの使者たちでした。
 応神天皇の時代だから4世紀末か5世紀初頭でしょう。阿直岐が数冊の経典を持ってきた。当時の日本は百済と同盟関係になるほどに親交を深めていました。
 阿直岐の来朝からまもなく、天皇の皇子だった菟道稚郎子がこの漢字に関心をもち、阿直岐を師と仰いで読み書きを習いはじめました。これを見た応神天皇が、宮廷で交わしている言葉を文字であらわすことに重大な将来的意義があると感じて、阿直岐に「あなたに勝る博士はおられるか」と尋ねたところ、「王仁という秀れた者がいる」と言います。さっそく使者を百済に遣わしてみると、王仁が辰孫王とともにやってきた。
 このとき『論語』『千字文』あわせて11巻の書物を持ってきた。この『千字文』というのは、たいへんよくできた漢字の読み書きの学習テキストです。私も父に教えられて書の手習いがてら、いろいろ学びました。
 王仁は「書首」の始祖となります。その後も継体天皇7年のときに来朝した五経博士の段楊爾、継体10年のときの漢高安茂、欽明15年のときの王柳貴というふうに、何人もの王仁の後継者が日本に来ました。
 このことは、見慣れない「文字」とともに「中国儒教の言葉」がやってきたことを意味します。そうして朝廷に中国語の読み書きができる人材がいよいよ出現してきたのです。
 それなら、こうした外国語学習ムーブメントが日本の中に少しずつ広まって、みんなが英会話を習いたくなるように、やがて中国語に堪能な日本人(倭人)がふえていくはずです。
 実際、たしかにそういうリテラシーの持ち主はふえたのですが(貴族階級や僧侶に)、だとすれば今日の日本人が英会話をし、英語そのままの読み書きができるのと同じように、多くの日本人が中国語の会話をするようになって当然だったのですが、そうはならなかった。
 中国語をそのまま使っていくのではなく、漢字を日本語に合わせて使ったり日本語的な漢文をつくりだしたりした。まさに文明的な転換がおこったのです。
 *
 さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。
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🗻4〕─3・C─古墳の数は約16万基。日本が誇る古墳文化と巨大な古墳。~No.13 

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 2024年4月11日8:32 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「古墳の数は16万基、コンビニの約3倍! 日本が誇る「巨大な古墳」ができるまでの14プロセス
 コンビニ店数の約3倍近い数、約16万基もの古墳が国内に存在するのをご存じだろうか。日本が誇る古墳文化の楽しみ方を、その種類から造営方法まで、古墳見学を楽しむハウツーを5回にわたって伝授する。第1回は「古墳ができるまで」。
 【徹底解剖】古墳の作り方の14プロセス
■世界的にも特異な形状と規模
 土製建造物の技術の到達点
 エジプト・ギザのピラミッドや中国の始皇帝陵とよく比較される古代権力者の墓が日本最大の古墳・大山(仁徳陵)古墳である。
 墳長は486mで、航空写真で見て初めて鍵穴のような形の全体像を見ることができる巨大さだ。
 この大山古墳は、巨大古墳が相次いで築かれた古墳時代中期前半の築造だが、古墳時代初期でも墳長280mもの巨大な箸墓古墳が築造されていた。
 いったい、これほどに大規模な埋葬施設はなぜ築かれたのか。そもそも古代人はいかにして、この途方もない大きさの古墳を築き上げたのか。
 それは文献にはいっさい記されていないが、調査成果や出土品などからおおよそ推定できる。
 何事もそうだが、古墳の築造も、まず建設地を決めることから始まる。
冒頭に挙げた大山古墳は、堺の港付近の台地端部に造られているが、これは海から来る人々に、その威容を見せつけるためであった。
 場所が決まれば、地面に杭や縄で測量し設計図を描いた。広大な古墳築造には木の伐採もかなり多く行われただろう。
 それが終わると、次に土を掘って墳丘の土台などから土を盛り上げていく。土を固め石室を造ればほぼ完成だ。ただ、まさに言うは易し、その完成には小さいものでも数年、長大な前方後円墳なら数十年かかったとみられる。
■古墳ができるまで
 現代のような大型機械やトラックのない時代、古墳のような大規模なものをつくるのは困難であった。古代人がどのような技術で、どれほどの人手や予算で古墳を築造したのか。文献史料はなく、実地の調査や出土品などをもとに考えるしかない。また、文化的な影響を受けたと思われる中国や朝鮮半島との比較からも、ある程度は類推することが可能である。
1 古墳を設計する
 建物を造る場合、実際より小さな模型を作成して完成イメージを共有する。それと同様のことが古墳でも行われていたはずだ。
2 用地を選定
 古墳は被葬者の権力を示すものであるため、多くの人に見てもらえる山や丘など、人々が往来する交通の要衡が選ばれた。
3 予定地の木を伐採
 木の伐採は広範囲におよび森林を伐採して用地を確保する。大山古墳など全長数百m規模のものは多くの森林が伐採されただろう。
4 用地をならす
 伐採が終わると、今度は地面・基盤をならして整える。巨大な古墳ともなれば固い地盤であることも用地選定の絶対的な条件だった。
5 測量を開始
 最初の設計図をもとに、杭と縄を用いて測量したと思われる。これが終わると設計図を地面にも正確に描いていく。
6 地面に設計図を描く
 手の指や足の歩幅など人間の体を使って測る身度尺、水田などを方形に区画した方格地割の技術などが用いられたと考えられる。
7 周囲の土を掘る
 地面に描いた設計図に沿って、古墳の周囲を掘削し、掘り下げることで空堀や濠になる。また掘った土で盛り土を確保できる。
8 土を盛り上げる
 掘削して得られた土を古墳内面に盛土する。採土場である濠から網状編んだモッコに土を入れオウコ(天秤棒)で担いで運んだ。
9 盛土を固める
 盛土は最初に周囲に溝を掘り、その外側を土手状に高くして土で埋めてから固め、それを何度も繰り返して高くしていく。
10 石を運ぶ
 古墳の斜面は、むき出しではなく、石が葺かれていた(葺石)。そのための石が河原や石切り場、石材置き場から運ばれた。
11 葺石を葺く
 各斜面に葺石がはめ込まれることで古墳表面が石に覆われ、雨水からも保護された。装飾が施されていったと思われる。
12 石棺を造る
 石棺は輸送中に傷つくことがあるため、ある程度完成させてから、現場近くで石工が最後に仕上げていたとみられる。
13 石室を造る
 墳丘内に石室を造る。石棺を安置する玄室までの羨道(通路)が、石棺より狭い場合は、玄室内に石材を運び入れて石棺を造った。
14 完成
 石室内部の装飾を行い、墳丘上に埴輪などを並べて完成となる。こうして、埋葬の日に備えられたとみられる。
 監修/広瀬和雄(ひろせ・かずお)1947年京都市生まれ。同志社大学商学部を卒業。現在、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。主な著書に『前方後円墳の世界』(岩波新書)、『前方後円墳国家』(中公文庫)、『古墳時代像を再考する』(同成社)、『前方後円墳とはなにか』(中公叢書)ほか多数。
 上永哲矢
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 8月12日8:31 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「天皇にだけ許された前方後円墳から下位のリーダーも入った円墳まで 古墳の「形」と「大きさ」の謎
 ※「古墳時代の研究 7」都出比呂志「墳丘の形式」を元に作成(イラスト/蓬生雄司)
 日本にはコンビニ店数の約3倍近い数、約16万基もの古墳が存在する。日本が誇る古墳文化の楽しみ方を、
 その種類から造営方法まで、古墳見学を楽しむハウツーを5回にわたって伝授する。 第2回は「古墳の形」について。
 【図解】大きな前方後円墳天皇にだけ許されていた
■時代に応じて変化・進化
 形や大きさの法則性を探る
 ひと口に古墳といっても、その形には様々なものがある。大きくは「前方後円墳」「前方後方墳」「円墳」「方墳」の4つに分けることができる。その大きさや形状は、埋葬された人(被葬者)の階層によって決められていた。
 たとえば、多くの人に馴染みの深い「前方後円墳」は古墳の最上位に位置する。上から見れば鍵穴のような形をしていて、大王やその一族および、大和政権と密接な関係を持つ有力な首長が埋葬されたと考えられる。3世紀中頃に成立した形で、7世紀初め頃までの約350年間に造られた。前方後円墳は全国に約4700基あるが、被葬者の位によって大きさにも差があり、大山古墳のような巨大な規模のものは大王(天皇)のみに築造が許されていた。
 それに次ぐクラスの墳形が「前方後方墳」で、形状は「前方後円墳」に似ているが、後部も方形・台形に造られたという点で違いがある。こちらも各地の首長層に造られたと考えられるが、中央政権(大和政権)からの格付けは、前方後円墳の下位であったとみられる。その数は全国で約500基と比較的に少ない。造られたのが主に3世紀から4世紀末頃までに限定されていることもその理由だろう。
 それらに比べ「円墳」や「方墳」などは下位に属する古墳であるだけに数も多い。古墳は全国に約16万基あるといわれるが、9割を占めるのが「円墳」だ。その理由は、首長層(各地の政治的リーダー)の下位の中間層にまで、造墓が及んだ政治的理由に基づく。7世紀後半になっても築造が続いた。サイズは小型のものが多いが、埼玉県にある丸墓山古墳のような大規模なものも存在する。
「方墳」は5~6世紀の大王墓など巨大前方後円墳に付随したものも多く、7世紀になると大型のものが多くなる。それは「前方後円墳」の築造が終わりを迎えた時期でもあり、代わって大王や有力首長の墓として方墳が築かれたためだ。大阪府にある春日向山(用明陵)、蘇我馬子の墓と推定される石舞台古墳奈良県)などが有名である。
 古墳のランクとは?
 古墳の大小の差と形状は一見、無作為にも見えるが、実際は被葬者の位や大和政権との距離に応じ築かれるものが決まっていた。大和政権が君臨した畿内の一部では前方後円墳を頂点とした墓制が敷かれ、全国に広まった。
 監修/広瀬和雄(ひろせ・かずお)1947年京都市生まれ。同志社大学商学部を卒業。現在、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。主な著書に『前方後円墳の世界』(岩波新書)、『前方後円墳国家』(中公文庫)、『古墳時代像を再考する』(同成社)、『前方後円墳とはなにか』(中公叢書)ほか多数。
 上永哲矢
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 4月13日 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「仁徳天皇凌はクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵に匹敵する! 「前方後円墳」大きさランキング
 日本にはコンビニ店数の約3倍近い数、約16万基もの古墳が存在する。日本が誇る古墳文化の楽しみ方を、その種類から造営方法まで、古墳見学を楽しむハウツーを6回にわたって伝授する。第3回は古墳を代表する形といえばこれ「前方後円墳」について。
 【図解】こんなに大きい!仁徳天皇
■より大規模に墳丘を高くして
 権力の象徴となっていった
 古墳のなかで最上位に位置する「前方後円墳」の特徴は、やはり、その大きさと独特の形状である。 
 墳長は大山古墳(大阪府)の486m、誉田御廟山古墳大阪府)の425mが2トップ。それ以外に300mを超えるものが上石津ミサンザイ古墳(大阪府)、造山古墳(岡山県)、河内大塚古墳(大阪府)など西日本に6基あり、200mを超えるものを含めると合計39基。200m以上の古墳はいずれも前方後円墳に限られる。
 きれいな鍵穴の形の古墳もあれば方形部がやや細めや太めに造られるなど、築かれた時代の流行が認められる。たとえば3世紀の箸墓古墳奈良県)は、被葬者が埋葬された後円部より前方部が細く、前方部の頂から後円部の方向に向かって緩やかなスロープを描く。
 同じ奈良県でも、その少し後、3世紀後半の西殿塚古墳は後円部の最上段がやや高く、4世紀の行燈山古墳、渋谷向山古墳は突出して墳丘の最上段が高くなっている。また5世紀前半には前方部の幅が後円部の直径を超えるものが現れた。古墳時代中期に向け、全体的に巨大化していったのも、被葬者の権力を示すための動きとみられる。
 後円部で注目すべきは、墳丘上に設けられた方形の区画である。周囲を円筒埴輪で方形に囲み、さらに墳丘頂上の周囲にも円形に円筒埴輪を置いた。円形は神々の住まう天、方形は人々の住まう地を表すと考えられ、被葬者が統べていた共同体の再現および、土地の豊作と繁栄を願ったと考えられる。
 ただ、この前方後円墳は7世紀初めになると築かれなくなり、用明天皇聖徳太子の父)の頃以降、大王の古墳も方墳に変わる。聖徳太子が主導した天皇を中心とした中央集権国家体制が指向された時期に重なり、前方後円墳を権力の象徴とする体制が転換されたと推測される。
■三大陵墓の比較
 世界三大墳墓の一つに数えられる大山古墳。高さではピラミッドが世界一だが、全長で比べると230mのピラミッド、350mの始皇帝陵を上回る。
 比較すると大山古墳の巨大さがわかる。
 監修/広瀬和雄
 ひろせ・かずお 1947年京都市生まれ。同志社大学商学部を卒業。現在、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。主な著書に『前方後円墳の世界』(岩波新書)、『前方後円墳国家』(中公文庫)、『古墳時代像を再考する』(同成社)、『前方後円墳とはなにか』(中公叢書)ほか多数。
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🗾12〕─4・B─沖縄の普天満宮洞窟に約3万2000年~1万8000年前のたき火跡。~No.61 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本民族の祖先の一系統は、東南アジア・揚子江流域・台湾から沖縄を経て日本に辿り着いていた。
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 2024年4月12日 YAHOO!JAPANニュース 琉球新報普天満宮洞窟に約3万2000年~1万8000年前のたき火跡 県内最古級の人類活動痕跡 沖縄
 普天満宮本殿背後にある洞穴遺跡から出土した人骨や石灰岩、灰の塊など=12日、宜野湾市沖縄国際大学
 沖縄国際大学考古学研究室は12日、宜野湾市普天満宮本殿背後にある洞穴遺跡の発掘調査で、約3万2000年~1万8000年前の旧石器時代(後期更新世)の炉(たき火)跡が確認されたと発表した。
 【写真】県内最古級のたき火跡
 調査では、焼けた礫(れき)や透明度のある結晶質石灰岩なども出土したほか、約1万1000年前の人骨片も確認した。同研究室の新里貴之准教授は「県内でも最古級の人類の活動痕跡が見つかった。沖縄の人類史を考える上で極めて重要な遺跡」だとし、継続的な調査に意欲を見せた。
 同研究室は2022年度から普天満宮洞穴内の発掘調査を実施しており、これまで貝塚時代前期(縄文時代)の文化まで確認していた。23年度にさらに下層を調査したところ、今回の発見に至った。
 同研究室は普天満宮洞穴について、南城市のサキタリ洞遺跡、石垣島白保竿根田原洞穴遺跡、徳之島下原洞穴遺跡、山下町洞穴遺跡とともに、約3~2万年前の旧石器時代を代表する遺跡の一つであると指摘。琉球列島における人類の起源の研究に資する遺跡であることが判明したと強調した。
 普天満宮は尚賢王(1644年頃)が参詣したとされる由緒ある神社で、琉球八社の一つとされている。1991年には宜野湾市指定文化財「名勝」に登録された。
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 人類の誕生と大移動は運命である。
 日本人の祖先はアフリカのサルであるは宿命である。
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 約258万年前から約1万1700年前 更新世新生代第四紀の前半。
 600万年前~700万年前 人類(ヒト属)の祖先はチンパンジーボノボの祖先である類人猿から別れて進化していき、幾つかの人類種が枝分かれするが一つの系統を残して全て絶滅した。
 100万前 ホモ・エレクトスが陸伝いに日本列島に歩いてきて住み着いた。
 10万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカで誕生し、世界中に移住していった。
 3万5000年から3万年前以後 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)=旧石器人(ヤポネシア人)は日本列島にたどり着き、上陸した、漂着した、流れ着いた。
 縄文時代 1万2000年~2000年前。縄文人(日本土人)。
 数千年前 揚子江流域民である弥生系渡来人が山東半島から朝鮮半島を経由し、続いて中国旧満州地方に住んでいた古墳系帰化人が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してきた。
 この時点では、まだ日本民族(和人)・琉球民族アイヌ民族は生まれていない。
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 日本土人である縄文人(日本土人)は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部太平洋沿岸まで、西は朝鮮半島南部、日本海縄文人の海)を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
 縄文人は、手漕ぎ丸木舟で北米大陸の太平洋沿岸まで移動していた。
 中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と偏見を持って軽蔑し差別していた。
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 日本文明は、揚子江流域(江南地域)にあった漁労農耕の温和で平和志向の長江文明の後継文明であって、黄河流域で軍事優先で栄えたの領土拡大・侵略志向の好戦的黄河文明の亜流文明ではなかった。
 朝鮮文化は、黄河文明の亜流であった。
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 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
 数万年続いた日本列島の旧石器時代縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
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 旧石器人(ヤポネシア人)は、南方系海の民であった。
 縄文人(日本土人)は、森の民であった。
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 日本民族琉球民族アイヌ民族は、旧石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
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 日本民族は、旧石器人(南方東南アジア系ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(南方揚子江系渡来人)、古墳人(北方満州帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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 アイヌ民族は、旧石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)にシベリア・沿海州樺太北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島などオホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化人が南下してきて、混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
 アイヌ人は住んでいる島・地域によって幾つかに枝分かれして、それぞれ他の人種・民族と乱婚を繰り返し混血度を濃くして独自の微妙に違う生活スタイルで生きてきた。
 蝦夷地・北方領土アイヌ樺太アイヌ、千島列島アイヌカムチャツカ半島アイヌ、その他。
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 琉球民族は、旧石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)に揚子江流域・東南アジアから渡って来た人々と混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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 多種多様な人種、民族との乱婚による混血度・雑種性が、最も濃密なのが日本民族で、次ぎに濃いのが琉球民族で、最も薄いのがアイヌ民族である。
 同一の縄文人から分かれた日本民族琉球民族アイヌ民族の違いは、この「乱婚による混血度・雑種性」の濃度にある。
 例えるなら真珠で、アコヤ貝の体内に取り込まれた砂粒などの異物(日本列島の土人である縄文人)に貝が分泌する独自の炭酸カルシウムでホワイトオパールにも、ブラックオパールにも、偏光色オパールにもなる。
 さしずめ、日本民族は偏光色オパールであり、ホワイトオパール琉球民族であり、ブラックオパールアイヌ民族である。
 そこには、漢族中国人や半島系朝鮮人は含まれていない。
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🏹68〕─1─古代から日本には何度も黒船が来た。「稲・鉄・漢字」という黒船。~No.217 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本列島はユーラシア大陸の東の最果てにあり、人が辿り着いた辺境である。
 世界各地から文化と宗教、知識と技術は、海に囲まれた閉塞空間の日本に流れ込み、砂漠の水のように日本全土に染みこみ、その混沌とした状態の中から数万年前の旧石器時代縄文時代、数千年前の弥生時代古墳時代の時を経て生まれ出たのが日本文化で、その文化からヤマト王権=日本天皇、日本国、日本民族、日本神道が誕生した。
 日本文化は混沌とした泥沼文化で、混沌とは腐葉土である。
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 日本列島は、国生み神話の「おのころじま」である。
 記紀神話における「天地初発之時」はそういう意味である。
 「天地初発之時」とは「天(あめ)地(つち)初(はじめて)発(ひらけし)時(とき)」と読み、「天と地が初めて分かれたとき」という意味。
 「天(あめ)」とは虚空(そら)の上にある場所をあらわし、「地(つち)」とは地上のことをあらわしている。
 「天地初発」を言い換えると「天地開闢(てんちかいびゃく)」となる。
 日本は、数万年前の土着神話でできている。
 それは特種で特異ではあったが、取り立てて優秀と言うわけではなく、自慢して誇るほどの事でもない。
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 人類史から見れば、日本民族は日本列島で生きてきた「日本土人」である。
 日本は、世界の中心ではなく、地の果て、地が尽きる渚、生と死の境界線である。
 日本は世界を理解できるが、世界は日本を理解できない。
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 日本民族は、日本列島に流れ着いた異人種異民族が乱婚を繰り返して生まれた血が汚れた混血の雑種民族である。 
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 2024年4月11日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」
 日本文化はハイコンテキストである。
 一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する! 
 【写真】外国人が見抜いた「日本」を「変な国」にさせている「3つの原因」
 *本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
 「稲・鉄・漢字」という黒船
 最初に、日本の歴史を大きく理解するにあたっては、日本には「何度も黒船が来た」と見るのがいいと言っておきたいと思います。そう見たほうが日本をつかめるし、また、そう見ないと日本がわからないことが多い。
 ペリーの黒船以外にもイギリス艦船やプチャーチンのロシア艦船も来ていたのですが、それだけではなく鉄砲の伝来も、何度かにわたるキリスト教の宣教師たちの到来も黒船でした。それ以前はどうかといえば、もちろん元朝による蒙古襲来もそうですが、禅やお茶や朱子学(宋学)や『本草綱目』といった博物全書なども、日本人をびっくりさせた黒船だったのです。黒船だったというのは、それらはグローバライザーだったということです。
 もっと前なら、当然、仏教や建造技術や儒教の到来が日本を変えた。では、さらにその前の「最初の一撃」は何だったのか。
 原始古代の日本に来た黒船はなんといっても「稲・鉄・漢字」です。この三点セットがほぼ連続してやってきた。約1万年にわたった自給自適の縄文時代のあと、中国から稲と鉄と漢字が入ってきて日本を一変させたのです。紀元ゼロ年をまたぐ200~300年間のこと、弥生時代前後の大事件でした。
 なぜ「稲・鉄・漢字」が黒船だったのかを理解するには、その前の縄文時代の社会文化のことを少しは知らなければなりません。
 日本列島がアジア大陸から切り離されたのは約2000万年前のこと、現在の列島のかたちが定着したのは300万年前でした。地質学では「島嶼列島」と言い、その形状が枝に小さな花を点々とつけているようなので「花綵列島」とも言われてきました。私は、日本列島がアジア大陸という大きな扉にくっついた把手のようにも見えるので「把手列島」とも呼んでいます。
 15万年前の日本にはマンモスやナウマン象やトラが跋扈していましたが、1万年前にはすっかりいなくなっています。この15万年前と1万年前のあいだに、日本列島にヒトが住みはじめたのです。気候や照葉樹林の植生がよく、水がおいしかったのだろうと思います。おそらく3万年前には定住がはじまっていた。いわゆる縄文人です。
 縄文土器は約1万2000年前に出現します。最初は早期の隆線文土器というもので、そのあと前期・中期・後期・晩期と変化した。
 前期では円筒や底が平らなものがあらわれ、屈葬や耳飾りが流行します。中期は大集落や大型住居が登場し、土器に蛇文があらわれ、性神が崇められました。アニミズムが広まっていったのです。岡本太郎を驚かせた火焔土器は中期の長野県や新潟県に集中しています。
 後期の縄文人は協業や分業をはじめます。共同墓地、環状列石(ストーンサークル)が登場し、呪術用具がさかんにつくられた。晩期になると人々は文身をほどこして、体や顔を飾りました。文身とはイレズミのこと、「文」とはアヤをつけるという意味です。また、雑穀を育てて収穫し、煮たり搗いたりして食用にした。
 縄文社会には「縄文語」ともいうべき言葉によるコミュニケーションがありました。これは「原日本語」にあたるもので、もっぱら話し言葉に頼っていただけで、文字はありません。読み書きする文字がなかったのです。日本人は長らく話し言葉によるオラル・コミュニケーションだけに頼ってきたのです。そのぶん縄文などの文様や模様が、つまりは「文」が重要だったわけです。
 こういう縄文社会に「稲」と「鉄」と、そしてやや遅れて「漢字」がやってきた。強力なものたちでした。つまりグローバライザーとしての黒船でした。日本はここから一途で多様な国をめざします。
 松岡 正剛
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 2023年7月11日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「明治時代、日本に来た外国人たちが「驚愕」した「日本の文化」の凄さ
 松岡 正剛
 日本文化はハイコンテキストで、一見、分かりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……、この国の「深い魅力」を解読する!
 *本記事は松岡 正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
 発見された日本美
 こんなふうに、明治の「学び」は欧米主義一辺倒だったのですが、一方、意外なこともおこりました。ハーンやフェノロサやコンドルのように、日本の実情を取材にきた作家、日本に欧米の美術や建築を教えにきたお雇い外国人が、初めて見る日本の文化に驚きの目を見張ったのです。そして、この目を見張るほどの文化を欧米のロジックやテクノロジーが壊してしまうのではないかと心配した。
 ラフカディオ・ハーンは松江で日本人の小泉節子と結婚し、日清戦争日露戦争のあいだの明治二九年(一八九六)に日本国籍をとり、小泉八雲として日本のしきたりや昔話を英文にするためペンをとりました。『日本の面影』『心』『怪談』は傑作です。アーネスト・フェノロサハーバート・スペンサー社会進化論をひっさげて来日した俊英の学者でしたが、日本の仏像や日本絵画を見てびっくりし、岡倉天心とともに日本人が誇るべきはそういう日本独特のアートだと考えました。天心は『茶の本』『日本の目覚め』『東洋の覚醒』などを書き、欧米のリクツでは日本文化の精髄は説明できないと強調した。
 丸の内に煉瓦街を出現させた建築家のジョサイア・コンドルは、片山東熊(赤坂離宮東京国立博物館表慶館など)や辰野金吾日本銀行・東京駅・奈良ホテルなど)らを育て、かれらに洋風建築の精髄を教えるわけですが、自身は日本の絵画や三味線音楽に痺れ(端唄や小唄!)、河鍋暁斎日本画を学んだり、都々逸の本を英語で出版したりしたのです。
 ハーンやフェノロサやコンドルが見いだした日本の美は生活の中に生きていたり、徒弟的に師から弟子に伝えられたりしてきた技法やセンスにもとづくもので、教育的に継承されてきたものではありません。「生」と「技」と「美」がつながっていたのです。かれらはそこに感動したのです。
 浮世絵がたいそう特異な表現力の賜物として評価された
 それまで外国にあまり知られていなかった浮世絵が注目され、大量に海外流出してジャポニズムとして話題になっていったのもこの時期です。浮世絵も日本人には美術価値よりも江戸社会の風景や風俗を写したものとみられていたにすぎなかったのが、外国人にはたいそう特異な表現力の賜物として評価されたのでした。
 しかしながら政府が学校の先生や生徒にもたらそうとしたものは、日本人がたいせつにしてきた「生と技と美」のつながりを解釈できる能力の提供ではなかったのです。少なくとも「学制」としてはそういうことをほとんど重視しなかった。かわりに明治近代の学制が強調したのは何だったのか。「教育勅語」でした。これからの日本人が大日本帝国の国民(臣民)として守るべき歴史観と道徳観を公式見解にしたような勅語です。
 さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。
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 2023年7月12日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「外国人が見抜いた「日本」を「変な国」にさせている「3つの原因」
 日本文化の核心
 松岡 正剛
 日本文化はハイコンテキストで、一見、分かりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……、この国の「深い魅力」を解読する!
 *本記事は松岡 正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
 日本を支配するフィクション
 カレル・ヴァン・ウォルフレンに『日本/権力構造の謎』(早川書房)という二冊組の本があります。ウォルフレンはオランダの新聞の極東特派員をながく務めて、「フォーリン・アフェアーズ」の一九八六~八九年の冬号に書いた「ジャパン・プロブレム」が評判になったので、これを機に本格的に日本の権力構造の歴史と現在にとりくんだジャーナリストです。
 ウォルフレンの言う「ジャパン・プロブレム」とは、八〇年代の日本に疑問をぶつけたもので、自動車をはじめとする日本の輸出品の優位がアメリカの怒りを招き、いわゆるジャパン・バッシング(日本叩き)がおこっていたとき、日本は基本姿勢を改めなかったばかりか、そのような姿勢をとることの説明をしなかったのはなぜかというところに発していました。
 ふつうなら、この反応は日本がナショナル・インタレスト(国益)を守るべき明確な意志や意図があるからだと想定できることで、そういう意志や意図があっていっこうにかまわないはずなのですが、ところが当事者間の交渉のプロセスを見ても日本研究者たちの分析によっても、どうもその意志も意図も明確ではないのです。「失礼しました、できるだけ改善しましょう」と言っているだけなのです。
 そこでウォルフレンは次のような推理をせざるをえないと考えます。それは、日本にはおそらく三つほどのフィクション(虚構)があたかも現実のようにはたらいているにちがいなく、それが日本を「変な国」にさせているのだろうというものです。
 一つ目は、日本は主権国家として最善のナショナル・インタレストの選択をしていると諸外国から思われているが、実はそのようなことができない国なのではないか。だから何かが欠如しているか、何かを粉飾してきたのではないかというものです。
 二つ目、日本は自由資本主義経済を徹底していると主張しているけれど、どこかでごまかしているか、さもなくば内側では別の経済文化行為を許していて、外側の顔と内側の顔を使い分けているのではないか。そういうふうになっていても、そのフィクションを国民が納得して許容しているのではないかというのです。
 三つ目、日本には世界中がまだ理解できていない名付けにくい体制、たとえばかつての武家制度や天皇制がそうであったような、海外からは理解しにくい体制をどこかに温存しているのではないか。しかし、もしそうだとしてもその体制について日本は自覚も説明もできていないのだろうというものです。
 この三つのフィクションが絡んで動いているだろうだなんて、ジャーナリストとしても鋭いし、日本論としてもなかなかユニークです。穿った見方だとは思いましたが、私はおもしろく読みました。
 権力が行方不明の国
 ウォルフレンは、日本には本物の権力があるのかどうかを問うた。権力構造にいいかげんなところや、不首尾なところがあるのではないかという疑問をもった。もし欧米社会でそのようなことがあれば、たちまちその権力は解体するはずです。でも、日本はそうならない。だとしたら、それはどうしてそんなふうになったのか。ずっと昔からのことなのか、それとも最近のこと、つまり敗戦後のことなのか、そこに分け入ろうとしたのです。
 日本国憲法が定めるところでは、日本は議院内閣制の民主主義国家です。主権は国民にあり、立法権は選挙で選ばれた議員によって構成された国会にあります。したがって国会は法的にはすべての決裁者であるわけですが、ウォルフレンが見るところ、日本の国会は両院ともにそうなっていない。議題はたくさん出入りしているけれど、野党は「内閣なじり」ばかり、与党は「責任のがれ」ばかりです。
 両院から委任された行政府として内閣がつくられ、そのガバメント(政府)のトップに内閣総理大臣が立つわけなので、行政権すべての決裁者は首相にあるのですが、日本の首相は自民党政治の領袖を争うだけで、国家の行政責任をまっとうするための権力を掌握もしていないし、行使もしていないというふうに、ウォルフレンには見えたのでした。
 国会と首相が国家の権力を掌握していないとすると、これに代わって権力を動かしているのは官僚か財界かということになりますが、どうもこの両者にも権力が集中していません。どこかの役所や官僚のリーダーが目立つことはなく、大半の官僚の見解は政府の見解の「下支え」か「上塗り」が多い。経団連が国家の指針に対して明確なオピニオンを発表したことなどないし、有効な助言をしているとも感じられない。おそらくボスが多すぎて、両方ともに決定的なボスをつくれないか、つくらないようにしているのです。
 国会、首相、官僚、財界が権力の中枢をつくりきっていないのに、日本のどの部門も中央集権的な組織になっているのも解せません。それぞれの団体、たとえば警察、農協、日教組日本医師会法曹界、体育界などは中央集権的にできているのに、それらが組み上がった全体としてのパワーシステム(権力構造)は、どこにも体現されていないのです。
 多少疑わしいのは自民党で、ここにパワーシステムや中央集権の秘密があるのかもしれないと、ウォルフレンは時間をかけて調べるのですが、いくら調べてみても、どうやら自民党には派閥のパワーバランスがあるだけで、あとは「利益誘導」と「集票マシーン」が動いているばかりです。予算も財務省や各省庁に握られている。
 中央集権力は中央の力が地方の末端に及ぶことでもあります。けれども日本のばあいはその「押さえ」は地方にばらまく地方交付金や「補助金」に頼っているようで、それは政治意志や権力意志ではなく「お金」なのです。
 野党は野党で、のべつ権力奪取の声はあげているものの、それは与野党の力の逆転を選挙でどう勝ちとるかというところに主眼があって、あんなに時間があるはずなのに政治哲学を磨いているとは思えない、それが証拠に国民は野党の政治哲学に賛同して投票しているようではない。また政治哲学を磨くには、あまりに政党改変をしすぎている。
 こうなってくると、残るは警察権力と自衛隊と保守的圧力団体のどこかの深部に権力中枢の発動源でもあるのかという陰謀小説のような推測になってくるのですが、そういうものがこの国でひそかに動いているとは思えません。
 たとえば日本の警察権力は各国とくらべてみてもなんら遜色がないし、犯罪発生率や不正検挙率などを見ても格段の腕前をもっています。極度に中央集権化されている度合いも国内随一のようです。もしも野心を抱く一派がクーデターをおこすとすれば、公安警察と機動隊を握っている警察権力が一番の力をもっているといえます。
 けれども日本の警察にはナショナル・インタレストに対する意志がないように思えます。好意的に見れば国内の正義と安定にはすばらしい機能を発揮しているとしても、対外的にナショナル・インタレストを守っているようには見えません。日本の評判やプレステージを高めるという意図もない。
 自衛隊はどうかといえば、こちらは日米安保体制に骨の髄までしっかり縛られていて、にっちもさっちもいかないでしょう。三島由紀夫がかすかな望みをもったことはありましたが、自衛隊の隊員にも反逆の野望はひそんではいませんでした。私は「モーニング」連載時から、かわぐちかいじの『沈黙の艦隊』(講談社漫画文庫)のファンでしたが、ああいうことはとうていおこらないのです。
 それなら他の保守的な圧力団体が何かを掌握しているのかというと、農協から神社庁まで、産業界から右翼勢力まで、政治権力をほしがっているとは思えません。自民党とボス交ができていればそれで十分なのです。これではどこからもジャパン・クーデターなど、おこりっこない。
 いったいどうなっているんだ、利権の構造ばかりが目立っているけれど、国家や権力は無用の長物なのか、そんなことはあるまいとウォルフレンは考えこみます。そこで想定できたのは次のようなことでした。
 哲学なき権力構造
 日本の権力は、それがないなどとはいえないのだから、きっと極度に非政治的なプロセスでできているのだろう。そのシステムは欧米が規定してきた権力機構のしくみではなく、すなわち議会や内閣や官僚が制度的に掌握するのではなく、複合的なアドミニストレーター(管理者)によって連関的に体現されているのだろう。そう、想定したのです。
 そうだとすると、そのしくみがパワープロセス(権力の行使過程)になっているだろうことはあきらかなので、またそのプロセスが中央集権的なプロセスになっていることもあきらかなので、それらがボディ・ポリティックス(統治の体制)としてのみ見えるようになっているということになります。そして、そう見えるような努力ばかりが尽くされているのではないかというのです。
 一言でいえば、システムなきシステム、「権力中枢の不在を補うシステム」でできあがっているのが日本だというのです。日本の権力システムは部分と部分をつなぐアドミニストレーションの鎖でできていて、いわば関節技ばかりで決められてきたのではないかというのです。
 リスポンシビリティ(行動責任)をとるけれど、アカウンタビリティ(説明責任)がとれないのは、説明する準備も哲学もないからだとも指摘した。
これはあまりにも情けない日本の実情を推定されたなと、ギクッとせざるをえないことですが、ではこの推定に代わることを日本はとりくんできましたか、たとえば大学やマスメディアはこの推定をくつがえす研究や提案をしてきましたかと、ウォルフレンは挑戦的な問いを投げかけたのです。
 以上、ウォルフレンの見方には日本人が言いにくいところを突いたという点を含めて、なかなか興味深いところがあります。このあとも『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社)、『アメリカからの「独立」が日本人を幸福にする』(実業之日本社)、『日本を追い込む5つの罠』(角川書店)といった、かなり踏みこんだというか、そうとうお節介なタイトルの本も書いています。
 辛口でユニークな視点が躍如しているように感じられますが、ここで冷静になってやや大局思想的なことを言っておくと、実はこういう論調は、海外の知識人に多いリヴィジョナリスト(日本見直し論者)がしばしば口にしてきた日本異質論に近いものです。だから、その多くの議論は欧米の定見に沿って日本社会に切り込んだだけとも言えます。
 日本が国益を軽視したことはない
 たとえば、日本はナショナル・インタレストを守る主体がいないという見方については(日本が国益を軽視したことなんてありません)、欧米がそのための主体を前面に押し出して交渉決議してきた近現代史からすれば、そういうふうに受け取られても仕方がないところですが、日本はもともと合議的だったと、最近は中長期的な外交折衝に切り替わっていると見れば、反論可能です。ただ、日本人はそのことを世界にわかりやすく説明できていなかったのです。
 さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。
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