👪49〕─1─フランクル心理学。ロゴセラピー。人生には意味がある。~No.175No.176No.177 

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 命の脅威とは、大陸では人間であり、日本列島では自然であった。 
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 人を作るのは、人間関係と自然環境に対する自我である。
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 ロゴセラピー(意味中心療法 ; 実存分析、英語: Logotherapy)とは、人が自らの「生の意味」を見出すことを援助することで心の病を癒す心理療法のこと。創始者は、神経科医で心理学者のヴィクトール・フランクル
 概要
 ロゴセラピーは、ジークムント・フロイトの「精神分析」やアルフレッド・アドラーの「個人心理学」と並び、心理療法ウィーン学派三大潮流のひとつとして挙げられることもあるものである。
 「ロゴ」は、ギリシア語で「意味」の意である。ロゴセラピーは、人は実存的に自らの生の意味を追い求めており、その人生の意味が充たされないということが、メンタルな障害や心の病に関係してくる、という見解を基にしている。(心的な疾患は、当事者に人生の意味に関して非常に限定的な制約を課していると言える。)ロゴセラピーは、人にその生活状況の中で「生きる意味」を充実させることが出来るように、あるいはその価値の評価の仕方を変えることが出来るように援助しようとするものである。
 そのためロゴセラピーは手法として、実存主義的アプローチをとり、下記の3点を基本仮説とする。
1.意志の自由 - 人間は様々な条件、状況の中で自らの意志で態度を決める自由を持っている。(決定論の否定)
2,意味への意志 - 人間は生きる意味を強く求める。
3,人生の意味 - それぞれの人間の人生には独自の意味が存在している。
 フランクルは、人の主要な関心事は快楽を探すことでも苦痛を軽減することでもなく、「人生の意味を見出すこと」であるとする。人生の意味を見出している人間は苦しみにも耐えることができるのである。
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 ロゴセラピー講演会
 心理学で見つける“人生の意味”
 ~ロゴセラピー(フランクル心理学)への招待~
 「こうして働くこと、生きることに、何の意味があるんだろう?」 今、多くの人がこうした苦悩や空虚感を抱えています。こうした苦悩を抱えている方や、そうした方の支援をされている方に是非とも知っていただきたいのが、ロゴセラピーです。
 ロゴセラピーとは、ナチスによる強制収容所体験記『夜と霧』の著者として知られるヴィクトール・フランクルが創始した、人生の意味を見つけるための心理療法(+哲学+人間学)です。フランクルは、強制収容所という極限状況の中でさえも、「いかなる状況でも人生には意味がある、人生にイエスと言うことができる」という信念を決して捨てませんでした。
 静岡でのロゴセラピー講演会は今回で三度目になります。今回は、初めての方にもわかりやすくロゴセラピーの概要を説明する第1部と、既にロゴセラピーを学んでいる方を主な対象として具体的なご質問にお答えする第2部をご用意しました。もちろん、どなたでもご関心があれば第2部までご参加いただけます。
 講師:草野智洋 くさのともひろ
 静岡福祉大学 准教授
 博士(人間科学) 臨床心理士
 日本ロゴセラピスト協会認定A級ロゴセラピスト
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 100分 名著
◯「夜と霧」ゲスト講師 諸富祥彦
 「生きる意味」を求めて
 諸富祥彦(もろとみ・よしひこ)
 明治大学文学部教授
 今、大きな悩みや苦しみを抱えている人がたくさんおられます。心理カウンセラーである私は日々そのような方に接していますが、その苦しみはますます切実さを増してきているように思われます。
 うつ病の患者さんは今や百万人超といわれています。とりわけ深刻なのは、自殺者の増加です。国の調べによると、すでに十年以上前から三万人を超えています。
 ……
 その数日後、NHKに一枚の葉書が届きました。
 「私は今、五十代半ばのホームレスです。仕事を失い、家族も失って、もう人生を投げ出してしまおうと思っていました。死のうと思っていたのです……。そんな時、たまたまつけたラジオで、先生の、フランクルのお話をうかがいました……。もう少し、生きてみようと思います。ありがとうございます……」
 そんな内容でした。
 フランクルの思想はそれにふれた人の魂を揺さぶる力を持っています。
かくいう私自身、十代半ばから二十代前半にかけて人生の悩みに煩わされ、悶々としていた時に、フランクルの本に救われたことがあります。
 フランクルの思想は、人生に対する見方(立脚点)を一八〇度転回することを私たちに求めてきます。
 たとえば、「人間が人生を問うに先立って、人生から人間は問われている」「幸福を求めると、幸福は逃げていく」「悩むことは人間特有の能力である」といったように、です。
フランクルを読むうちに、私たちは、「私の幸せはどうすれば手に入るのか」「私の自己実現はどうすれば可能なのか」という「私中心の人生観」を、「私は何のために生まれてきたのか」「私の人生にはどのような意味と使命(ミッション)が与えられているのか」という「生きる意味と使命中心の人生観」へと生きる構えを一八〇度転回することが求められるのです。
 フランクルの思想のエッセンスは次のようなストレートなメッセージにあります。
どんな時も、人生には意味がある。
 ……
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 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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 日本民族人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
 つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
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 MS&ADインターリスク総研株式会社
 コンサルタントコラム
 「津波てんでんこ」を正しく理解しよう~災害に強い組織づくりへの第一歩~
 所属 リスクマネジメント第一部 リスクエンジニアリング第二グループ
 役職名 コンサルタント
 執筆者名 加藤 真由 Mayu Kato
 自然災害
 2023年6月2日
 「津波てんでんこ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。「津波てんでんこ」とは、「津波が来たら、いち早く各自てんでんばらばらに高台に逃げろ」(岩手県HPより)という津波襲来時の避難に関する三陸地方の言い伝えである。2011年3月に発生した東日本大震災にて、従来から津波防災教育を受けていた岩手県釜石市の小中学生が、この「津波てんでんこ」の教えを実践した。これにより、多くの命が助かった事例は「釜石の奇跡」として大々的にメディアに取り上げられた。その一方で、「津波てんでんこ」は、その注目度の高さ故、言葉がひとり歩きした結果、「自分だけが助かればよい」という意味で誤解され、「利己的で薄情である」と批判された事例も見受けられる。津波被害から身を守り、災害に強い組織づくりをするためにも、まず「津波てんでんこ」という言葉の意味を正しく理解する必要がある。
 京都大学の矢守克也教授は、「津波てんでんこ」は4つの意味・機能を多面的に織り込んだ重層的な用語であることを述べている(2012年)。
 1つ目は、「自助原則の強調」である。「自分の命は自分で守る」という考え方は重要だとされている。しかし、単純に津波避難における「自助」の重要性にとどまるものではなく、自己責任の原則だけを強調するものではないことに注意が必要である。
 2つ目は、「他者避難の促進」である。避難する姿が目撃者にとっての避難のきっかけとなり、結果的に他者の避難行動を促す仕掛けとなる。
 3つ目は、「相互信頼の事前醸成」である。「津波襲来時はお互いに"てんでんこ"する。」という行動を、事前に周囲の他者と約束する。この信頼関係が共有されていれば、「てんでんこ」の有効性が飛躍的に向上する。
 4つ目は、「生存者の自責感の低減」である。被災時には、津波で命を落とした他者に対して自責的感情に苛まれやすい。しかし、事前に他者と「てんでんこ」を約束しておくことで、「亡くなった人も"てんでんこ"した(しようとした)にも関わらず、それも及ばず犠牲になった」と考え、生存者の自責的感情を低減する可能性がある。
 この4つの意味・機能より、「津波てんでんこ」という言葉には、自助だけでなく、共助の重要性を強調する要素が含まれている。加えて、一刻を争う津波避難時の行動原則だけでなく、事前の社会のあり方や事後の人の心の回復等にも大きな意味を持つものである。
 東洋大学の及川康教授は、「津波てんでんこ」という言葉に対する考えを認識度別に調査した。その結果、「津波てんでんこ」に対する真の理解を得るためには、一義的・表面的な原義を提示するのみでは不十分で、適切な解説・解釈がなされる必要があることを示唆した(2017年)。
 「津波てんでんこ」という1つの言葉から学ぶべきことは非常に多い。災害に強い組織を作るためにも、東日本大震災をはじめとした過去の災害を振り返り、1つの言葉をテーマに皆さんで深い議論を重ねてみてはどうだろうか。
 以上
 (2023年5月25日 三友新聞掲載記事を転載)
 古川 崚仁 Ryoto Furukawa
 氏名 加藤 真由 Mayu Kato
 役職 リスクマネジメント第一部 リスクエンジニアリング第二グループ コンサルタント
 専門領域 自然災害リスク/カーボンニュートラル/スポーツ・リスクマネジメント/イベント・リスクマネジメント/施設等(指定管理者)の安全管理
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 cotree
 人生の意味に悩む人のために ~ロゴセラピーからのメッセージ~|臨床心理士 草野智洋
 更新日 2023年05月18日 | カテゴリ: 自分を変えたい
 生きることに何の意味があるのか?
 「何のために生きるのか?」、「なぜ生きなければならないのか?」、「生きることに何の意味があるのか?」。これらは言わば人生の意味に対する疑問といえます。このコラムを読んでくださっているということは、あなたは多少なりともこういう疑問を抱いておられるのでしょう。
 ですが、家族や友人と気軽に人生の意味について話し合うことができる人、そしてそれによって人生の意味に対する疑問が解消した人というのは、あまりいないのではないかと思います。日常生活で話すにはちょっと「重い」テーマですよね。
 こういう問題にあまり関わり過ぎると変な宗教に騙されちゃうんじゃないか、と心配になる人もいるかもしれません。宗教は本来は人間の助けになるはずのものですが、現代の日本人にとってはちょっと怖いもの、あまり近寄らないほうが良いもの、という印象を持たれる方が多いでしょう。
 ロゴセラピストとして、人生の意味と向き合う
 かく言う私は10代の頃からずっと人生の意味に対する疑問を抱いており、大学では宗教学という学問を専攻しました。
 人生の意味の答を求めて宗教に関心を持ったものの、一般的な日本人と同じく「何かの宗教を信仰する」ということにはどこか抵抗のあった私が出会ったのが、ヴィクトール・フランクルという心理学者(精神科医)であり、彼の創始したロゴセラピーでした。その後、紆余曲折はありましたが、大学院に進学して臨床心理学を学び、現在はロゴセラピーを専門とする臨床心理士(ロゴセラピスト)として、人が人生を意味あるものにするためのお手伝いをしています。
 意味への意志
 人間は、人生の意味に悩むものである
 ロゴセラピーの立場からまず自信をもってお伝えしたいことは、「人生の意味について悩むことは決しておかしなことではない!」ということです。それは、人間だからこそ悩むことのできる最も人間らしい悩みである、とフランクルは言います。いかがでしょう?私の場合は、この言葉だけでもずいぶん救われた思いがしました。
 「そんなことを考えてる暇があったらもっと働きなさい!」とか「え? そんなこと考えてるの? おかしいんじゃない?」などとは言われません。「うんうん、やっぱりそういうことって考えちゃうよね、人間だもの。」というのがロゴセラピーの基本的なスタンスです。
 ロゴセラピーでは、意味を求める「意味への意志」こそが人間の最も根源的な動機であると考えます。簡単に言えば、人間にとって最も大切なのは「意味」だということです。「そんなことはない。私にとって一番大事なのはお金だ。」という人もいるかもしれません。
 しかし、ではそのお金は何のためにあるのかを考えてみてください。お金は、家族を養ったり趣味を楽しんだり夢を叶えるための勉強をしたりと、人生を意味あるものにするための手段としては、確かに役に立ちます。しかし、お金は人生の意味そのものではありません。
 失われた10年だ20年だと言っても、日本は経済的にはまだまだ豊かな国です。もしも経済的な豊かさが幸福に比例しているのであれば、日本人はみな多くの発展途上国の人々よりも幸せでなければなりません。
 しかし、実際のところどうでしょうか? 日本の自殺率は減少傾向にあるとはいえ、まだまだ世界の中で高い水準のままです。仕事をすればそれなりに生きていくだけのお金を稼ぐことはできます。養ってくれる家族がいれば働かなくても生きることはできます。社会保障もそれなりに充実しています。
 そんな今の日本では、「生きること自体」はそれほど難しいことではありません。しかし、だからこそ、「何のために生きるのか」という生きる意味を見つけることが難しくなっているように私は感じます。すなわち生きる意味が見つからないということは「意味への意志」が満たされていないということです。
 生きる意味を見失う苦しみ
 生きる意味とは酸素のようなものだと私は思います。普通に呼吸をして生活しているときには、私たちは酸素のことなど気にもとめません。しかし、酸素が薄くなって苦しくなると、私たちは酸素が人間にとってどれだけ大切だったかに気がつきます。生きる意味を見失ってしまった人の苦しみは、そうでない人にはなかなか理解されません。
 コペルニクス的転回
 人生の意味とは何か?〜ロゴセラピーが教えてくれること
 それでは、人生の意味とはいったいなんでしょうか?「人間は○○のために生きる」という○○にあてはまる正解を、ロゴセラピーは教えてくれるのでしょうか?実は、残念ながらそうではないのです(さんざん引っ張っておいて、すみません)。
 ロゴセラピーの立場からは、普遍的・一般的な形で人生の意味とは何かを答えることはできません。例えば、チェスや将棋のようなゲームを考えてみてください。チェスや将棋で「一般論としての一番良い手」とは何かを語ることができるでしょうか。チェスや将棋では、刻々と盤面の状況が変わっていきます。「今のこの盤面の状況での一番良い手」ならば考えることができますし、むしろ重要なのはそっちです。
 チェスや将棋の喩えと同じように、人生の意味というテーマに関しても、「人間は○○のために生きている」といった形で、全ての人間のどのような状況にも当てはまるような普遍的な「○○」を論じることはできない、というのがロゴセラピーの立場です。
 だったらロゴセラピーなんて役に立たないじゃないか、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私はそうは思いません。ロゴセラピーは、普遍的・一般的な人生の意味を教えてくれるものではありませんが、私たち一人ひとりが生きている「この人生」を「意味のあるものにする」ための方法ならば教えてくれます。
 人生を「意味あるものにする」ために
 ここで少し「意味(名詞のmeaning)」という言葉と「意味のある(形容詞のmeaningful)」という言葉について整理しておきます。ロゴセラピーは一般論としての人生の「意味」は教えてくれないけれど、自分の人生を「意味のある」ものにする方法ならば教えてくれる、と述べました。
 別の例で考えてもらいたいのですが、おいしい料理を作りたい場合に、「おいしさ」とは何かを教えてほしいという人はいませんよね。重要なのは(名詞の)「おいしさ」とは何かを知ることではなく、(形容詞の)「おいしい」料理を作ることです。寒くて凍えている人にとって大事なことは、「暖かさ」とは何かを知ることではなく、「暖かく」することです。
 それと同じように、人生の意味に悩む人にとって大切なことは「意味」とは何かを知ることではなく、人生を「意味のある」ものにすることだと言えます。
 人生からの問いに「答える」
 さて、ロゴセラピーが教えてくれる人生を意味のあるものにする方法とは、どのようなものでしょうか? それは、「人生の意味とは何か」と問うことをやめ、自分が人生から「問われている」ことに気づき、人生からの問いに「答える」ということです。問うことをやめて答える。この抜本的な考え方の変化を、ロゴセラピーでは「人生の問いのコペルニクス的転回」と呼びます。
 しかし、なんだかわかったようなわからないような話ではありませんか? 人生から問われているとはいったいどういうことでしょう? 人間と違って人生は生き物ではありません。人生に口があって言葉を話すわけではありません。人生さんと話したことのある人はいないでしょう。しかし、確かに人は人生の意味を問います。あれはいったい誰に対して問うているのでしょうか?
 「コペルニクス的転回」とは、天動説から地動説への転回、すなわち180度すっかり向きを逆方向にすることです。人生に口があって問いを発するのかどうかはよくわかりませんが、少なくとも人生の意味に対する疑問を抱いていた人が、「何か」に向かって問いを発していたことは事実です。
 コペルニクス的転回というぐらいですから、その「何か」から逆に自分が問われているということにしておきましょう。問うているのが人生なのか何なのかは、ひとまず置いておきます。要は、私たちは何かから問われており、それに答えなければいけないらしいということです。
 良心によって
 今この瞬間の状況において、最も意味のある行動を選択する
 ではいったい「答える」とはどういうことでしょうか? どうすれば私たちはその問いに答えたことになるのでしょうか? ロゴセラピーの考え方によれば、「人生からの問いに答える」とは、「今この瞬間の状況において、最も意味のある行動を選択する」ということです。
 例えば、駅のホームを歩いていて目の前で人が線路に転落したという状況があったとしましょう。この状況では、どうすることが最も意味のある行動でしょうか?勇気があれば自分も線路に飛び降りてその人を救いあげることができるかもしれません。
 そこまではできなくても、急いでホームに設置されている列車の緊急停止ボタンを押すことはできるかもしれません。大声で駅員さんや周囲の人に助けを求めることならできるかもしれません。そうやって一人の人間の命を救うことができたなら、その行動にはなんと意味があるでしょうか。
 しかし、その状況で落ちた人を助けるのではなく「見て見ぬふりをする」という行動を選択することも、私たちには可能です。自分が助けなくても他の人が助けるかもしれません。落ちた人が自力で這い上がってくるかもしれません。自分がぶつかったり突き落としたりしたわけではないのですから、別に自分が助けないといけないという決まりはないはずです。
 線路に落ちた人を助けるという行動と助けないという行動、私たちはそのどちらを選択することも可能です。しかし、どちらの行動により意味があるか、どちらが「人生からの問い」に対してより正しく答えているか、その答は明らかでしょう。
 ほぼ全ての人が「助けることに意味がある」と答えるのではないでしょうか。しかし、どうして私たちは、ある行動と別の行動を比較して、どちらの行動に「より意味があるか」がわかるのでしょうか。
 良心が指し示す最も意味のある行動を選択する
 ロゴセラピーでは、人間には良心が備わっているから、その状況で自分がどうすることに最も意味があるかを認識することができる、と考えます。人間の目が光を感知し、耳が音を感知するのと同じように、人間は良心によって意味を感知することができる、というのがロゴセラピーの考え方です。
 ただしこれは生物学的な話ではなく、あくまでも良心というものどう捉えるかというイメージの話です。さて、それでは、もし人が良心に反した行動をとるとどうなるのでしょうか? 別の例で考えてみましょう。
 私は学生で、テストを受けています。しかし、勉強を怠けていたせいで全くわかりません。このままではひどい点数になってしまうでしょう。そんなとき、勉強が得意な前の生徒の答案が自分の席から丸見えだということに気がつきます。先生はこちらを見ていません。チャンスです。それを写せば、私は高得点をとることができるでしょう。
 この状況では、どのような行動の選択肢が存在するでしょうか? その中で、良心が指し示す最も意味のある行動はどのようなものでしょうか?
 話を単純化すると、この状況では前の生徒の答案を写す(カンニングをする)という行動と、自力で頑張る(カンニングをしない)という行動という二つの選択肢があります。
 しかし、もしカンニングをして良い点数をとったとしても、そんな風にしてとった高得点には何の意味もないということは、私自身が一番よくわかっています。自分がカンニングをしたことが誰かに見られていたのではないか、陰で噂をされているのではないかと、良心の呵責に苛まれ、心が休まるときはありません。
 「状況における意味」の積み重ねが「人生の意味」になる
 このように、私たちは良心によって、今どうすることに意味があるか、逆にどうすることには意味がないかを感じとることができます。ただし、良心によって感じとることができるのは、あくまでも自分が今置かれている「状況における意味」です。
 そして、このような「状況における意味」の積み重ねが次第に「人生の意味」になってきます。もしも意味がないと自分でわかっている行動の選択を繰り返していけば、その人の人生は罪悪感や空虚感にまみれたものになります。
 それに対して、その都度の状況において良心が指し示す最も意味のある行動を選択することによって、充実感や充足感が感じられます。その小さな一つ一つの行動選択の積み重ねが、自分が生きていることには確かな意味があるという感覚につながっていくのです。
 他人の目
 「やりたいことをやる」の二つの側面
 これまで書いてきた通り、ロゴセラピーでは良心に従うということを重視しています。なぜなら、良心は意味を認識する器官であり、人生を意味あるものにするための羅針盤のような役割を果たしてくれるからです。おいしい料理を作るために頼りになるのは自分の舌の感覚ですが、意味ある人生を送るために頼りになるのは自分の良心の感覚です。
 ところが、私たちが生きていくうえで良心以外に行動選択の指針としがちなものが二つあります。一つは自分の欲望、もう一つは他人の目(人からどう思われるか)です。
人間が良心ではなく欲望に従って生きていくとどうなるでしょうか。最近は「自分がやりたいことをやることが大事」ということがよく言われます。この意見には私も概ね賛成します。ただし、「やりたいこと」と言った場合に、それは良心のレベルでのやりたいこと(この場合は「信念」と言っても良いかもしれません)なのか、欲望のレベルでのやりたいことなのか、この二つを区別する必要があります。
 例えば、今の仕事を辞めて自分の夢を追いかけたいという場合を考えてみましょう。家族や友人は「もったいない」、「リスクが高い」などと言うかもしれません。
 しかし、そうしたメリットもデメリットも全て理解と覚悟をしたうえで自分の良心(信念)に従ってその道を選択するのであれば、後で後悔することもないでしょう。たとえうまくいってもいかなくても、「あの時この道を選んだことには意味があった」、「これが私の人生だ」と思えるはずです。失敗したことを他人のせいにしたり世の中のせいにしたりすることもありません。
 同じように「やりたいこと」と言っても、アルコール依存症で治療中の人が「お酒を飲みたい」という場合はどうでしょうか。これは単なる欲望のレベルでのやりたいことです。もちろんそこで欲望に従ってお酒を飲むという選択をすることも可能ですが、ここで一時的に欲望を満たしても意味がないことは当人が一番よくわかっているはずです。
 そのような行動の選択をしていると、結局あとで後悔することになり、自己嫌悪に陥ったり、自分の存在の価値を感じられなくなります。また、欲望は一つ満たせばまた次の欲望が生まれてくるという性質を持っています。欲望を満たすことによって幸福になろうとする生き方は、自分の鼻先にぶらさげたニンジンを追い続ける馬のようなもので、いつまで経っても満たされることがありません。
 自己中心的ではなく自己超越的な生き方を
 欲望に従った生き方は、あくまでも自分の利益や快楽を目的とした「自己中心的」な生き方です。それに対して、良心に従った生き方は、もちろん自分の利益にもなる場合はありますが、それだけではなく自分以外の誰かや何かのためにもなる「自己超越的」な生き方だと言えます。自己中心的ではなく自己超越的な行動の選択をすることが、意味のある人生のための大切なポイントです。
 自分以外の誰かや何かのためとは言いましたが、だからといって「人からどう思われるか」を行動の指針にするのも空しい生き方です。20世紀の欧米社会に生きたフランクルは、人生を意味あるものにするために自己中心的な生き方ではなく自己超越的な生き方をすることを強調していました。
 行動指針は、他人の目ではなく自分の良心
 しかし臨床心理士としての私の経験では、21世紀の日本社会で悩みを抱えて生きている人の中には、欲望まみれの自己中心的な人よりも、必要以上に他人の目を気にして自分を殺してしまっている人のほうがずっと多いような印象があります。人から変に思われないように、場の空気を壊さないように、目立たずみんなと同じように生きていれば「無難」です。しかしそれはもう少し強い言葉で言えば「保身」にすぎず、自分が生きる意味は感じられません。
 もちろん私はわざと人から変に思われるような行動をとることを勧めているわけではありません。良心に従った意味のある行動と他者から評価される行動とは、たいていの場合には一致するでしょう。
 しかし、たとえ場の空気を壊したとしても、ここぞという場面では言うべきことを言ってやるべきことをやる、そうすることに意味がある、という局面は存在します。それは非常に勇気のいることですが、後になって「あのとき勇気を出していれば…」と後悔することにならないよう、人生を意味あるものにするための行動指針は、あくまでも他人の目ではなく自分の良心なのだということを意識しておく必要があります。
 主人公
 人生は選択の連続である
 長い人生の中で、私たちは意識するしないにかかわらず、無数の行動選択を行っています。全ての瞬間の全ての行動を良心に従って選択するということは、現実的には不可能でしょう。私自身もそのようなことはできていませんし、ロゴセラピーの創始者フランクルも、「私は自分の原則にいつも忠実に生きてきたわけではない」と述懐しています。
 人生のあらゆる瞬間のあらゆる行動選択を良心に従って行うことは理想ではありますが現実的ではありません。しかし、良心に従った選択ができなかったと落ち込んでいる暇はありません。なぜなら、ある行動を選択した(もしくはしなかった)次の瞬間には、もう次の行動選択の機会がやってきているからです。
 意味のある行動の選択ができたときもできなかったときも、チャンスは常に次から次へとやってきます。どんなに良い一日でも嫌な一日でも、一晩眠ればまた同じように太陽が昇って新たな一日が始まるということと少し似ているかもしれません。
 良心に従って「生きていこう」とすることはできる
 ですから、人間は死の間際まで、人生を意味あるものにするチャンスに恵まれているのです。これまで自分の欲望や他人の目に従った行動ばかりしてきて自分の生きる意味がわからなくなってしまったという人でも、明日から、いえ、今この瞬間から、自分の良心に従って生きていくことが可能です。「生きていく」ことはちょっと大変かもしれませんが、少なくとも、自分の良心に従って「生きていこう」とすることは可能です。
 ここまでの話で、なんだか道徳のお説教のようだな、と思われた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ロゴセラピーはただの心理学(哲学的要素を多分に含んではいますが)であり、道徳ではありません。
 私自身も自分が道徳的な人間であるとは思っていませんし、相談に来られる方をロゴセラピーで道徳的な人間にさせようだなんて少しも思っていません。この点について、誤解のないように補足しておきます。
 「このように生きなければならない」と言うつもりは私にはありません。人生を意味あるものにしようとしまいと、欲望に従おうと他人の目に従おうと自分の良心に従おうと、それはその人の選択です。私は決して、良心に従って生きている人間のほうが欲望に従って生きている人間よりも偉いとか価値があるとか、そのようなことを言いたいわけではありません。
 ロゴセラピーは「人間は自己超越的に生きなければならない」というお説教ではなく、「人間は本質的に自己超越的な存在である」という人間観と「人間は自己超越的に生きたときに生きる意味を感じられる」という心理学的知見をお伝えしているにすぎません。その考え方を受け入れるかどうか、そしてそのように生きようとするかどうかは、完全にその人次第です。
 あなたは自分の欲望の奴隷でも、他人の操り人形でもない
 しかし、この長い文章をここまで読んでくださったということは、あなたはやはり人生を意味あるものにしたいと願っているのではないでしょうか。もしそうであれば、騙されたと思ってしばらく(試しに1か月ぐらいどうでしょう?)良心に従った自己超越的な行動の選択を意識してみてください。
 きっと、今までとは違った充実感が感じられると思います。それは別の言い方をすれば、自分が自分の人生の主人公であり、本当の意味で自分の人生を生きているという感覚です。あなたは自分の欲望の奴隷ではありません。他人からの評価を気にして他人を喜ばせるために存在する操り人形でもありません。自分の意志次第で人生を意味のあるものにすることができる、自由と責任をもった人生の主人公なのです。
 おわりに
 ここに書いたことは、膨大な(そして難解な)ロゴセラピー理論のごく一部を、現代の日本で生きる意味に悩んでいる人へのメッセージとして、私なりの解釈とともに記したものです。
 ロゴセラピーには、人生を意味あるものにするためのヒントがまだまだたくさん詰まっています。ご関心のある方は、ぜひ下記の本をお読みいただいたり、研究会やゼミナールなどにご参加ください。人生の意味について真剣に考えている人たちとの出会いが待っています。
 推薦図書
 『それでも人生にイエスと言う』 著:V.E.フランクル 訳:山田邦男・松田美佳 (春秋社)
 『ロゴセラピーのエッセンス 18の基本概念』 著:V.E.フランクル 訳:赤坂桃子 解説:本多奈美・草野智洋 (新教出版社
 『夜と霧』  著:V.E.フランクル 訳:池田香代子 (みすず書房
 『人生があなたを待っている』  著:H.クリングバーグ,Jr. 訳:赤坂桃子 (みすず書房
 推薦団体
・静岡ロゴセラピー研究会
・日本ロゴセラピーゼミナール
 草野智洋草野 智洋(くさの ともひろ)
 臨床心理士静岡福祉大学社会福祉学部・福祉心理学科 准教授。静岡県ひきこもり支援センター スーパーヴァイザー、日本ロゴセラピスト協会認定A級ロゴセラピスト
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 DIAMONDonline
 フランクルが独自に生み出した心理療法
 「逆説志向」と「反省除去」
 松山 淳:企業研修講師/心理カウンセラー/産業能率大学経営学部/情報マネジメント学部)兼任講師
 ライフ・社会
 フランクルの「名言」に学ぶ心を強くする考え方
 2018.8.2 4:50
 「どんな時にも人生には意味がある。未来で待っている人や何かがあり、そのために今すべきことが必ずある」ーー。ヴィクトール・E・フランクルは、フロイトユングアドラーに次ぐ「第4の巨頭」と言われる偉人です。ナチス強制収容所を生き延びた心理学者であり、その時の体験を記した『夜と霧』は、世界的ベストセラーになっています。冒頭の言葉に象徴されるフランクルの教えは、辛い状況に陥り苦悩する人々を今なお救い続けています。多くの人に生きる意味や勇気を与え、「心を強くしてくれる力」がフランクルの教えにはあります。このたび、ダイヤモンド社から『君が生きる意味』を上梓した心理カウンセラーの松山 淳さんが、「逆境の心理学」とも呼ばれるフランクル心理学の真髄について、全12回にわたって解説いたします。
 フランクルが独自に生み出した心理療法
「逆説志向」と「反省除去」
 われわれが自分の不安から自由になれるのは、自己観察やまして自己反省によってではなく、また自分の不安を思いめぐらすことによってでもなく、自己放棄によって、自己を引き渡すことによって、そしてそれだけの価値ある事物へ自己をゆだねることによってである。
 『神経症1(V・E・フランクル[著]、宮本忠雄 小田晋[訳] みすず書房
 不安から自由になる「逆説志向」
 フランクル心理学は、人生観にコペルニクス的転回を起こす「思想・哲学」として世界中の人に影響を与え続けています。その「思想・哲学」の側面がクローズアップされるため、心理療法としての側面が忘れられがちです。
 フランクル心理学は「ロゴ・セラピー」と呼ばれます。「セラピー」ですのでフランクルが開発したオリジナルの「心理療法」があります。その代表的なものが2つあり、ひとつ目が「逆説志向」(paradoxical intention)で、ふたつ目が「反省除去」(dereflexion)です。
 本稿ではこの2つの「心理療法」について解説していきます。まず最初に、「逆説志向」について述べていきます。
 「逆説志向」とは、その本人が不安に思うことや恐れを抱くことを、自ら積極的に望んでみたり、行なったりすることです。不安や恐れから人は逃げたいものですが、逃げるのではなく、むしろ不安や恐れの中に飛び込みくぐり抜けていくようなイメージです。
 例えば、人前で話す時にどうしても緊張してしまう人のケースを考えてみます。聴衆を前にして話すことに苦手意識を持っている人は多いものです。
 会議でプレゼンで、あるいは結婚式のスピーチの場面で、人の前に立ち「緊張しないよう、しないように」と思っていても、顔が赤くなったり手が震えてきたり汗が流れてきたりします。緊張は自分の意志とは無関係に起きてくる生理現象であり、なかなか克服できないものです。
 この時、心では「緊張しないよう、しないよう」と緊張を抑えようとしていますが、体は逆にどんどん緊張してきます。緊張状態では、心理的な葛藤が発生しています。その葛藤がますます緊張を加速させるので、覚えていることを全て忘れてしまうような頭が真っ白になる状態が起きるのです。
 そこで「逆説志向」では、「緊張しないように」ではなく、「もっと緊張しろ、もっと緊張してやれ」と、自分が恐れている状況を自ら望む(志向する)ようにします。さらに、避けたい状況を自己指示する時に、ユーモアを絡めるのが「逆説志向」の大きなポイントです。
 例えば、「よし、今日のプレゼンで私は世界で一番緊張してみせるぞ。顔を真っ赤しにしてぶるぶる手を震わせてみんな大笑いさせてやるぞ」といった風にです。
 「逆説志向」の治療事例
 フランクルが独自に生み出した心理療法
「逆説志向」と「反省除去」
 「顔が真っ赤になるのはもう嫌だ」「あの嫌な汗をかくのはこりごりだ」と、不安を前もって予想し、実際に赤面したり汗が流れてくるのです。
  発汗恐怖の若い医師がフランクルのもとを訪れます。汗をかくのではないかと「予期不安」にとらわれると汗が流れてきます。そこでフランクルは「逆説志向」の考え方を伝え「今後発汗が起こりそうになったら、思いきって、自分はどれだけほどたくさんの汗をかけるかをひとつみんなに見せてやろうと心に決めてください」※1と指示します。
 そこで、若い医師は予期不安が起こりそうな人に会う時に、こう自分に言い聞かせました。
 「これまではたったの1クォート〔約1.4リットル〕しか汗をかかなかった。しかし今度はせめて10クォートは汗を流してやるぞ」※2
 その結果、彼は1回の面接と1週間の訓練で、4年間続いた発汗恐怖症が治ってしまったのです。
 睡眠障害にも効果を発揮する
 ある簿記係をしていた書痙〔指けいれん〕に悩む人物は、文字を書こうとすると指が震え、失職直前の状況に追い込まれフランクルの病院を訪れました。そして「自殺したい」と告げます。それまで数ヵ所の病院で治療を受けてきたのですが、治癒しなかったのです。
 ここでも「逆説志向」が効果を発揮します。
 この患者を担当したフランクルの同僚は、読みやすい文字を書こうとするのではなく、なぐり書きするように指示します。「さあ、私がどれほど素晴らしいなぐり書きの名手であるかをみんなに見せてやろう」※3と。
 すると翌日には書痙症状から解放され、その後の観察期間において再発することはなかったのです。
 この「逆説志向」は睡眠障害にも効果を発揮すると、フランクルはいいます。
 睡眠障害といわずとも、夜、眠ろうとして眠れない経験を多くの人がもっています。過去に起きた嫌なことや昼に職場で言われた嫌味や明日の重要な会議を思い浮かべて「うまくいくか」と不安になり、人は眠れなくなります。眠ろうと思えば思うほど、眠れなくなるのです。
 眠ろうとする自分に意識が向きすぎる「過剰な自己観察」のために余計に睡眠が遠のいていきます。そこでフランクルは、眠れない夜は眠ることを諦めるように勧めます。
 「今夜はちっとも眠りたくない、ひとつ今夜は体を休ませながら、あれやこれやを考えてみたい。この前の休暇のことや、つぎの休暇のことをなど」※4
 本来であれば避けたい眠れない状況を、ユーモアをもって自ら望むことによって逆に睡眠を求める過剰な意識が薄れて眠りが訪れるというのです。
 「反省除去」~自分を観察し過ぎない
 「眠れない、眠れない」と悶々としている時、その人は自分に意識が向き過ぎています。自分を過度に観察し省みている「自己への過剰志向」が存在しているのです。「逆説志向」が効果を発揮するのは、ユーモアを交えて自分の状況を「笑い飛ばす」ことで、過剰志向をゆるめる効果が期待できるからです。
 人間の心には、囚われた自己から離れていく「自己離脱」の能力が備わっているのです。それ故に、自己への過剰志向を抑制することができます。
 そこで「逆説志向」とリンクする手法に「反省除去」があります。「反省除去」では、過度に自分を省みることをやめるように勧めます。「自分のことを考え過ぎてはいけません」と。これを「脱反省」ともいいます
 フランクルは音楽家や画家の例をあげます。音楽家は素晴らしい演奏をしようとして、画家は芸術的な作品を創ろうとして、つまり、過剰に芸術性を志向したがためにむしろ、創造性を見失ってしまったのです。それはスランプ状態ともいえます。そこでフランクルは「反省除去」の考え方を伝えることで、二人を創造性の苦しみから救いました。
 フランクルはこう書いています。
 「過度の自己観察、──まるでひとりでに行なわれるかのように無意識の深みの底でなされねばならぬはずの仕事を意識して「行なおう」とする意志、──それが創造的な芸術家にとって一種のハンディキャップになることは稀ではない。そこでは不必要な反省はすべて有害なものでしかありえないのである」※4
 この「反省除去」を適応するような場面の根幹には「自己執着」があります。「自己執着」という否定的な状況を「自己離脱」の力を使って肯定的な状況に転換させていくのが「反省除去」です。
 この手法はフランクルが強調する「自己超越」へとつながっていきます。
 「自己超越」とは、自己を越えていくことです。自分を志向するのではなく、自分を越えた存在を志向し、それらに自分を忘れて没頭することです。
 芸術家は芸術作品へ、教師は授業の時間へ、ビジネスマンは自分の仕事へ「自己を引き渡すことによって、そしてそれだけの価値ある事物へ自己をゆだねることによって」、人は不安から解放されクリエイティブになれるのです。
 拙著『君が生きる意味』では、苦悩する青年にフランクル心理学を説く「小さいおじさん」が繰り返し、自分にとらわれる「ボクの境地」を越えてゆけと諭します。それは、フランクル心理学の本稿に述べた「逆説志向」「反省除去」「自己超越」の考え方をベースにしています。
 自分を省みる適度な反省はもちろん必要ですが、自分のことばかり考える「過度の自己観察」は、時に人生のつまずき石となります。自分に囚われることなく「あるがまま」で、自己を越えた世界へより意識を向けていきましょう。
◇引用文献
 ※1-3『意味による癒し ロゴセラピー入門』(V・E・フランクル[著]、山田邦男[訳] 春秋社)
 ※4『神経症1』(V・E・フランクル[著]、宮本忠雄 小田晋[訳] みすず書房
 ※5『識られざる神』(V・E・フランクル[著]、佐野利勝 木村敏[訳] みすず書房
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◎1日目 こんな人生に意味はあるのか?
◎2日目 これってブラック企業ですよね?
◎3日目 自分を超えるって何ですか?
◎4日目 ボクのどこが自己チューなんですか?
◎5日目 「生きる意味」はどこに?
◎6日目 どんな時でも人生にイエスと言える?
◎7日目 苦悩する人は、選ばれた人
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 松山 淳(まつやま・じゅん)
企業研修講師/心理カウンセラー 産業能率大学経営学部/情報マネジメント学部)兼任講師 1968年生まれ。成城大学文芸学部卒業後、JR東海エージェンシー(広告代理店)に入社。同社退社後、2002年アースシップ・コンサルティング設立。2003年メルマガ「リーダーへ贈る108通の手紙」が好評を博す。読者数は4000名を越える。これまで、15年にわたりビジネスパーソン等の個別相談を受け、その悩みに答えている。2010年心理学者ユングの性格類型論をベースに開発された国際的性格検査MBTI®の資格取得。2011年東日本大震災を契機に、『夜と霧』の著者として有名な心理学者のV・E・フランクルに傾倒し、「フランクル心理学」への造詣を深める。ユングフランクル心理学の知見を活動に取り入れる。同年Facebookページ「リーダーへ贈る人生が輝く言葉」の運営開始。フォロワー数は6300名を越える。2016年産業能率大学情報マネジメント学部の兼任講師。2017年産業能率大学経営学部兼任講師に就任。経営者、起業家、中間管理職など、リーダー層を対象にした個別相談(カウンセリング、コーチング)、企業研修、講演、執筆など幅広く活動。

 程度の差はありますが、人前で話すことが苦手な人は、そのことを想像しただけで不安や恐れの感情が湧いてきて嫌な気分になります。実際にまだその場面に遭遇していないのに起きる不安を「予期不安」といいます。
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