🎍45〕─2─天然痘で平安時代の人口の30%前後が死亡。正暦4年(993)。~No.142 

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 日本の脅威は、人ではなく自然であった。
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 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
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 日本民族は、旧石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
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 現代日本人は、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力がないただけに現実に起きた歴史的事実が理解できない。
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 2024年4月21日10:41 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「【光る君へ】藤原道長の兄たちを次々と死に追いやり 日本の人口を激減させた感染症の正体
 吉高由里子
 ラストシーンが衝撃的だったのは、NHK大河ドラマ『光る君へ』の第15回「おごれる者たち」(4月14日放送)であった。まひろ(吉高由里子紫式部のこと)はさわ(野村麻純)と近江(滋賀県)の石山寺へ詣でた帰り道、川辺に降りてみると、川べりにはたくさんの遺体が転がっていた。
 【画像】大河初?2話にわたって描かれた、まひろと道長のラブシーン
 第16回「華の影」(4月21日放送)では、疫病の正体が描かれる。 まひろは以前、文字を教えたたね(竹澤咲子)という少女から、両親が救護施設である悲田院に行ったきり帰らないと伝えられる。そこで、悲田院へ赴くと、そこでは多数の疫病患者が苦しんでおり、まひろも感染してしまう。
 むろん、まひろはここで命を落としはしないが、平安時代には、疫病すなわち感染症は死の病だった。戦乱こそ比較的少なかったこの時代だが、疫病は繰り返し流行し、人々の命を奪った。 現在、『光る君へ』で描かれているのは正暦5年(994)のことで、『栄華物語』にはこの年の最初の記事に、次のように書かれている。
 「いかなるにか今年世の中騒がしう、春よりわづらふ人々多く、道大路にもゆゆしき物ども多かり(どうしたことか、この年は世の中が騒然として、春から病に倒れる人が多く、都の大路にも忌まわしいもの、つまり遺体があふれている)」
 もがさ(痘瘡)と呼ばれたこの疫病は、昭和52年(1977)に地球上から根絶された天然痘だと考えられている。正暦4年(993)に九州で流行しはじめ、同5年4月ごろから京都でも猖獗をきわめた。『日本略紀』七月条には「京師の死者半ばに過ぐる。五位以上六十七人なり(京都では人口の半分が死亡し、五位以上の貴族だけでも67人が命を失った)」と記されている。
 当時は感染症についての知識など皆無だから、対策といっても加持祈祷くらいしかなかった。疫病は猛威を振るうにまかされ、このときは都のあらゆる路頭に死体が転がっていたと記録されている。そのうえ、堀水も死体でふさがったためかき流す措置がとられ、犬やカラスは死体の食べすぎで飽食状態だったと伝わる。
 二人の関白が次々と死去
 当然だが、疫病は身分を問わない。正暦5年のうちは、公卿(国政をになう三位以上の上位貴族)は感染を免れていたようだが、翌正暦6年(995)になると、公卿たちも容赦なく襲われた。
 現在、『光る君へ』では、藤原兼家段田安則)の死後、長男の道隆(井浦新)が後を継ぎ、摂政、続いて関白として栄華をきわめている。長女の定子(高畑充希)を一条天皇(塩野瑛久)に入内させたばかりか、強引に中宮(皇后)の座に就け、長男の伊周(三浦翔平)をはじめ身内ばかりを露骨に出世させている。だが、そんな権力者も、病の前には無力だった。
 道隆は大酒飲みで、持病の飲水病に悩まされていた。これは現代の糖尿病で、道隆に関してこの病名が最初に記されるのは、正暦5年11月13日付の『小記目録』なので、おそらくそれ以前から自覚症状があったのだろう。そして、年が明けて正暦5年(994)になったころから政務に影響がおよぶようになり、4月10日に死去している。すでに飲水病がかなり進行しており、それが死因だという説もあるが、そうだとしても、疫病に感染して死期が早まったとみる研究者は多い。
 このため、玉置玲央が演じている道隆の同母弟の道兼が後を継ぐ。ドラマでは、道兼は汚れ役を引き受けて父の兼家に栄華をもたらしながら、後継から外されて腐っていた。そんな兼家にようやく春が訪れ、4月27日、道兼を関白とする詔が下ったが、5月2日、一条天皇に関白就任御礼のあいさつをすると、そのまま立てなくなったという。疫病に襲われたのだ。5月8日にはこの世を去り、道隆は「七日関白」と呼ばれた。
 その結果、兼家の五男(正妻の息子としては三男)の道長柄本佑)の時代が訪れるのである。
 日本の人口の30%前後が死亡
 古くは古代エジプトギリシアローマ帝国にはじまって、世界各地で大流行を繰り返したもがさ、すなわち天然痘だが、日本は島国なので流入が遅く、大陸との交流が活発になった奈良時代になってから、流行するようになった。
 これは飛沫をとおして病原体が体内に侵入する感染症で、高熱が出て全身に発疹が起き、発疹が化膿して死にいたった。運よく回復しても、あばた(痘痕)が残ることが多く、藤原道長の時代の人は男女を問わず、顔などにあばたが見られるケースが多かったという。一条天皇天然痘にかかって治癒しており、顔に痘痕が残っていたのかもしれない。時代は異なるが、戦国大名伊達政宗が幼少期に右目を失明したのも、天然痘が原因だとされる。
 もがさがはじめて大流行したと考えられるのは、奈良時代天平9年(737)のこと。 『続日本紀』によれば、天平7年(735)に九州で発生し、その後、全国に流行したという。前述したように、道長の時代も正暦4年(993)にまず九州から流行がはじまっており、ともに大陸から船で流入した可能性が高そうだ。
 事実、奈良時代のもがさは、天平8年(736)に聖武天皇遣新羅使を派遣したことが命取りになったようだ。阿倍継麻呂を団長とする使節団は、平城京を出発して九州経由で新羅へと向かったが、その道中でもがさに感染。阿倍継麻呂も感染し、帰路に対馬で病死している。そして、残された一行が平城京に帰還したために、ウイルスが都に蔓延し、翌天平9年(737)には全国的な大流行になった。
 こうして、国政を担っていた藤原武智麻呂藤原房前藤原宇合藤原麻呂藤原四兄弟が全員病死してしまった。天平10年(738)には流行がピタリと収まったようだが、それまでに、当時の人口の25~35%に相当する100万~150万人が死亡したと推計されている。
 二大感染症はもがさと麻疹
 さて、道長に権力の座をもたらすことになった正暦年間のもがさも、ある時点で流行がピタリと病んだようだ。しかし、寛仁4年(1020)にふたたび流行している。『栄華物語』巻七には、前回の流行から二十余年が経過し、警戒していたところに、案の定、流行したという旨が書かれている。
 当時の人は、時間が経って免疫がない人が増えると流行する、ということを経験的に知っていたのだろう。事実、二十余年前に感染した人はこのときかかることはなく、その後に生まれた二十代以下の世代が集中的に罹患したらしい。
 この時代、もうひとつ猛威をふるった感染症が麻疹、すなわちはしかで、最初に記録されているのが、藤原道隆と道兼が死去した3年後、長徳4年(998)の流行である。『栄華物語』には、「あかもがさといふもの出で来て上中下分かず病みののしる(赤もがさ=麻疹という病気が発生して、身分の上中下を問わずに感染し、大騒ぎになっている)」と書かれている。
 麻疹はやはり二十余年を経た万寿2年(1025)にふたたび流行。敦良親王(のちのご朱雀天皇)のもとに嫁いでいた道長の娘、嬉子は8月3日、親仁親王(のちの後冷泉天皇)を出産したが、その直前にかかった麻疹が原因で、2日後にわずか18歳で命を落としている。
 われわれも感染症の猛威に苦しめられたばかりだが、平安時代の人たちにとっては、命に直結し、国家のあり方や社会の様相が大きく変わりかねないほどのものだった。そして、藤原道長の栄華は天然痘の流行を機にはじまったが、その終わりにははしかの流行が影を差したのである。
 香原斗志(かはら・とし)
 音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
 デイリー新潮編集部
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 時事ドットコムニュース>特集>日本神話に描かれた疫病と日本人との関係とは?
 会員限定記事
 疫神の正体は怨霊?―京の町から人が消えた日
 神泉苑[筆者撮影]【時事通信社
 奈良時代から平安時代にかけて、疫病の原因は怨霊(おんりょう)、つまり「恨みを抱いて死んだ人の霊」だとする信仰が広まっていた。
 これを御霊(ごりょう)信仰という。
 歴史研究者の説によれば、平城京平安京という都市が建設されたことにより急激な人口集中が起こり、ゴミや排せつ物の処理が追いつかなくなって衛生環境が悪化した。こうして疫病が流行しやすい状態を招いたことが、御霊信仰が興った背景にあるという。
 特に恐れられたのは、皇太弟でありながら藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺への関与を疑われて憤死した早良(さわら)親王崇道天皇)、謀反を疑われて自害した伊予親王など、6人の皇族・貴族だ。
 863(貞観5)年には、平安京大内裏の南にある宮中専用の庭園である神泉苑(しんせんえん)で、それらの怨霊(御霊)を慰める御霊会(ごりょうえ)が行われた。
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 東洋経済ONLINE
 1000年前の日記が記した「日本の疫病対策」の源流
 「小右記」の平安時代、神頼みと科学的対策が並立
 倉本 一宏 : 国際日本文化研究センター 教授
2022/12/05 8:00
 毎年のように疫病に見舞われた平安中期。当時の人々の感染対策には、今の日本社会にも通じるところがある。
 藤原実資小右記』書影
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・『小右記』とは?
 平安中期の公卿、藤原実資(957~1046)の日記。実資は朝廷儀式や政務に精通し、その博学と見識は時の権力者、藤原道長にも一目置かれ、「賢人右府」と称された。『小右記』は、『野府記』などとも称される。逸文を含めると、21歳の貞元2年(977)から84歳の長久元年(1040)までの63年間に及ぶ記録で、当時の政務や儀式運営の様子が、詳細かつ正確に記録されている。
 平安中期は毎年のように疫病が蔓延
 2020年に新型コロナウイルス感染症が流行し、3年目を迎えようとしている。日本のコロナ対応を見ていると、どうもこの国だけ、ほかの国々とは異なる対応をしているように思えてならない。国内で感染が蔓延しているのに厳しい入国規制をかけたり、マスクや手洗いも外国よりも徹底しているようだ。
 歴史を研究していると、現代日本のこうした特質は、島国で外国や国内の異民族からの侵攻を想定していなかったこの国の歴史が、長い年月をかけて醸成していったものではないかという思いが日々新たになるこの頃である。その一端は、「疫病の時代」だった平安時代にも見ることができる。
 そこで今回紹介するのが、平安時代中期の公卿(くぎょう)、藤原実資(さねすけ)が記した日記、『小右記(しょうゆうき)』だ。時の権力者、藤原道長にも一目置かれた実資は、63年の長きにわたって日々の政務や社会について冷静なまなざしで書き記した。ここから、当時の人々がどのように疫病と向かい合ってきたかを知ることができる。
 疫病が猛威を振るった平安時代の中期
 平安時代の中期には、毎年のように疱瘡(ほうそう)(天然痘)や麻疹(ましん)(はしか)などの疫病が猛威を振るった。感染症に関する知識がなく、治療法や特効薬も確立されていなかった当時にあっては、これはたいへんな恐怖の対象であった。
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 古代平安京における疫病流行の史的研究
 所属: 浙江工商大学 日本語言文化学院
 役職: 講師
 氏名: 董 科
 本研究は、古代平安京における伝染病流行の実態を明らかにすることを目的とした
ものである。研究成果は下記通

 平安京で流行した疫病は?
① 古代平安京においては、天然痘・インフルエンザ・麻疹・マラリア赤痢・流行 性耳下腺炎と寄生虫症などの流行が確認された。 ② 流行したこれらの疫病のなかでも、天然痘・インフルエンザ・麻疹が当時の日本 に最も大きな影響をもたらした。
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 4月22日 YAHOO!JAPANニュース よろず~ニュース「大河『光る君へ』疫病の大流行で死者が続出 「ある井戸の水を飲め」広まった噂は妖言か 識者が語る
 NHK大河ドラマ「光る君へ」第16回は「華の影」。主人公のまひろ(紫式部)が疫病に感染して、藤原道長に看病されるシーンが描かれていました。紫式部が生きた平安時代中期のみならず、それ以前より、人々は疫病に悩まされてきました。疱瘡(天然痘)や麻疹などが流行し、多くの人の生命を奪ってきたのです。平安時代の貴族ならば、病になると、平癒のための加持祈祷を受けることができました。しかし、財力がない民衆は祈祷を受けることもできず、亡くなっていったのです。
 【写真】まひろ(紫式部)を演じる吉高由里子
 紫式部が10代後半か20代の時にも、都において疫病が流行します。疫病の発端は、九州だったと考えられています。正暦5年(994)正月に九州で疫病が流行し、それが徐々に全国へと広まっていったのです。路頭に迷う病人のために都においては、仮屋が立ちます。そこに病人を収容したのでした。
 それでも、病で死亡した人々が路頭に放置され、死臭に満ちていたとされます。都は骸骨で満ち、川は死人で溢れる惨状を呈するのです。検非違使(京都の犯罪・風俗の取り締まりなど警察業務を担当)が看督長(検非違使庁の下級職員)に命令して、堀水の中で亡くなっていた人々を掻き流すなどしています(平安時代後期の歴史書本朝世紀』正暦5年5月3日条)。
 さて、今回の疫病は神(伊勢神宮石清水八幡宮賀茂社、松尾社、祇園社)の祟りとされたため、5月20日には各社に臨時の奉幣使が派遣されました(前掲書)。流行病で人々が次々に亡くなるという恐ろしい事態。恐怖が人々を席巻すると、流言飛語が蔓延ります。この時も、1人の「狂夫」(おかしな男)が流言を飛ばしたといいます。それは、左京三条南油小路西にあった小井戸にまつわるものでした。その井戸は普段は使用されず、水は涸れて泥が深くなっている状態。そんな状態にあるにもかかわらず、男はその井戸の水を飲めば「皆、疫病を免れるだろう」と言い出したのです。
 明らかに怪しげな言葉でしたが、藁にもすがりたい人々は貴賎を問わず、井戸に押しかけて、桶瓶に水を蓄えたのでした(前掲書、同年5月16日条)。同書は「狂夫」の言葉を「妖言」としていますが、人々が井戸に押しかけたのも、その妖しげな言葉の「真偽」をよく調べなかったからだとしています。異常事態発生の際は、現代においてもネットで「妖言」が飛び交うことがあります。今回紹介した逸話は、現代人の教訓ともなるでしょう。
 (歴史学者・濱田 浩一郎)
 よろず~ニュース
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 現代ビジネス
 2022.01.29
 平安京を壊滅状態にした疫病に、庶民や下級官人はどう対処したか?
 貴族と下人を惑わせた妖言の数々
 倉本 一宏
 新たな疫神社に密集した貴賤の者は感染者を増やし、疫病が大流行する中で無量寿院の造営を進める道長藤原実資は憤慨する――毎年のように平安京を襲った疫病に対し、当時の人びとが取った行動は、コロナ禍の現代人に劣るものでは決してなかった。
倉本一宏氏が「平和で優雅な時代」の苛酷な日常を描き出した最新刊『平安京の下級官人』から、平安京を襲った疫病について述べた箇所を抜粋して公開します!
 古記録に残された災害
 古記録(こきろく)には、災害に関する記述が精確に記録されている。じつはこれらは世界規模における気候や災害の史料として、きわめて有益なものなのである、と『御堂関白記(みどうかんぱくき)』のユネスコ世界記憶遺産(「世界の記憶」)の申請に際して強調したことがある。
 海面変動による気候の歴史を示したフェアブリッジ曲線(海水準〈陸地に対する海面の相対的な高さ〉の変化に基づくもの)によると、全体的に温暖であった平安時代のなかで、西暦1000年前後は一時的に気温が低下した時期であった(山本武夫『気候の語る日本の歴史』)。そしてさまざまな災害が、日本列島および平安京を襲ったのである。
 なお、アジアの広域の樹木年輪幅のデータベースを統合して作成された東アジアの広域平均気温の年単位の時系列データを活用した、気候変動と災害との関連を考察する研究もはじまっている(中塚武監修、伊藤啓介・田村憲美・水野章二編『気候変動と中世社会』)。
 それによると、10〜11世紀は乾燥・温暖の極にあったとされているのであるが、単年度で具体的に史料を見ていくと、そうとばかりは言っていられない現象も存在した。
 また、耐火構造になっていない当時の建築は、火災に対してきわめてもろいもので、河川の治水も洪水には無力であった。なお、五重塔は柔構造で地震には強かったが、代わりに雷や風に弱かった。
 それにもまして、当時の医療技術や衛生状況では、毎年のように襲いかかってくる疫病に対して、人びとは有効な対応をとることができなかったのである。
 下衆や下人を襲った災害の実態
 それでも精一杯、これらの災害に立ち向かっていたのではあるが、これは摂関期に限ったことではなく、前近代の科学では、なかなかこれを克服することはできなかった。以下、摂関期の災害、特に下衆(げす)や下人(げにん)を襲った災害について見ていくこととしよう。
 一般的には、平安時代の人びとが迷信や禁忌に囲まれて生きており、たとえば物忌(ものいみ)や触穢(しょくえ)、方忌(かたいみ)などに極度に怖れおののいていたというイメージは、いまだに彼らに対する否定的な根拠として定着しているように見える。
 こういったものを怖れる平安時代の人間は、我々現代人よりも非科学的で劣った連中であり、現代人は彼らよりも進歩した人類であるという、思い上がった考えである。
 しかしながら、当時の科学技術や医療の水準のなかでは、彼らはさまざまな不可思議な現象に対して、精一杯の冷静さでもって、科学的に対処していたのである(現代でも仏滅などを気にしたり、科学的根拠のないお神籤(みくじ)や占いに熱中する人は多いではないか)。
 史料に残る平安人は、ほとんどが公卿(くぎょう)をはじめとする貴族階級の人びとであるが(史料ではなく『源氏物語』などの文学作品でイメージする人がほとんどであろうが)、その下位にある下衆や下人たちの実態は、はたしてどうだったのであろうか。この章では、できるだけ彼らの心性や行動、生活の実態も探っていくことをめざそう。
 平安時代における疫病という恐怖
 平安時代を研究していると、毎年のように疫病の猖獗(しょうけつ)が見られるし、それも疱瘡(ほうそう)(天然痘)や麻疹(ましん)(はしか)など、現代では克服された病気なので、何となく安心してしまうのであるが、ウィルスの知識がなく、治療法や特効薬も確立されていなかった当時にあっては、これは大変な恐怖の対象であった。
 ただし、平安貴族が加持祈禱(かじきとう)にばかり頼り、かえって病を重くしてしまった未開な連中であったという従前の理解には、非常に違和感を感じる。当時の医療技術の枠内では、彼らは精神医療としての加持祈禱も含め、精一杯の治療をおこなっていたのである。
 とはいえ、栄養状態や衛生環境の悪い民衆(加持祈禱をおこなってもらう財力も人脈もなかった)はもちろん、狭い交流範囲しかない宮廷社会でも、いったん流行がはじまると、すぐに感染が拡がってしまったのである。
 むしろ、口に入る物は何でも食べたであろう庶民よりも、栄養に偏りがあり、複雑な血縁関係や姻戚関係で結ばれていて見舞いに行っていた、そして職場がほとんど内裏(だいり)に限られていた貴族の方が、感染の危険性は高かったのかもしれない。
 数々の宗教的禁忌にも、貴族は縛られていたであろう。上級貴族はほとんど自身では見舞いには行かず、部下や家人(けにん)を遣わしているのも、一族の見舞いによって感染が拡大し、政府が壊滅状態に陥ってしまった天平(てんぴょう)9年(737)の天然痘流行で得た知恵なのかもしれない。
 なお、ほとんどの平安人は疫病に罹かかった経験があり、多くの人の顔には痘痕(あばた)が残ったとされる。女房や貴族の女性はそれを隠すために厚く化粧を施したのだが、多くは鉱物性の白粉(おしろい)を塗ったため、よけいに肌が荒れることとなったと言われる。
 貴族と下人を惑わせた妖言
 永祚(えいそ)元年(989)や正暦(しょうりゃく)4年(993)にも疫病が流行したが(『小右記(しょうゆうき)』)、もっとも大きな被害をもたらしたのは、正暦5年(994)正月に九州から流行がはじまり、翌長徳(ちょうとく)元年(995)にかけて全国に広まった疱瘡であった(『日本紀略(にほんきりゃく)』)。
 正暦5年4月には京中路頭に仮屋を構えて薦筵(こもむしろ)で覆い、病人を収容させた。あるいは空車に乗せ、あるいは薬王寺(やくおうじ)に運送させたものの、死亡した者は多く路頭に満ち、往還の人びとは鼻を掩(おお)って通り過ぎた。
 烏犬は食に飽き、骸骨は巷(ちまた)をふさいだという。5月には京中の堀水が死人であふれたので、検非違使(けびいし)が看督長(かどのおさ)に命じて京中の堀水の中の死人をかき流させるという措置を執っている(『本朝世紀(ほんちょうせいき)』)。
 こうなると流言蜚語(りゅうげんひご)も生まれてくる。ある困った男が、「左京三条大路(さきょうさんじょうおおじ)の南、油小路(あぶらこうじ)の西にあった小井戸(水が涸れて泥が深く、尋常は用いないもの)の水を飲む者は疾病を免(まぬか)れる」という妖言(ようげん)を広め、これを信じた都人の士女が、こぞって水を汲んでいる。
 「男女は桶瓶を提げ、貴賤(きせん)の者は水差しや盥(たらい)に貯えた。ひとえに病死が千万であることを恐れ、妖言の真偽を調べなかったのである」とある(『本朝世紀』)。
 ふだん使用されていない井戸の泥水は道呪(どうじゅ)の流れにあり、密呪(みつじゅ)を生活手段とする下級僧侶の横行が、この妖言の背景にあるという指摘もある(新村拓『日本医療社会史の研究』)。
 また、6月16日に疫神(やくしん)が横行するという妖言があり、その日は公卿以下、庶民にいたるまで、門戸を閉じて往還しないという状況となった(『日本紀略』)。このような妖言に対しては、貴族も下人も、対応に違いはなかったのである。
 政府を壊滅状態にした疱瘡
 結局、4月から7月にいたるまでに、京内の死者は過半となり、五位以上の貴族の死者は67人を数えた(『日本紀略』)。この疫病は、翌長徳元年には左右大臣(さゆうだいじん)から大納言(だいなごん)3人、中納言(ちゅうなごん)2人などをたおし、政府を壊滅状態としてしまったのである。
 30歳で序列七位の権大納言(ごんだいなごん)に過ぎなかった藤原道長が政権の座に就いたのは、この時のことである。
 長徳4年(998)も、5月から赤斑瘡(あかもがさ)(麻疹)の流行がはじまり、6、7月に猖獗をきわめた。京師(けいし)の男女の死者ははなはだ多かったものの、「下人は死ななかった」というのが、せめてもの救いである(『日本紀略』)。
 その後も、『権記(ごんき)』に「この災厄(さいやく)は、毎年、連々として絶えることはない」と記されたように、長保(ちょうほう)元年(999)、長保2年(1000)、長保3年(1001)と、疫病の流行はつづいた。長保3年の賀茂祭(かものまつり)などは、疫病の蔓延によって死亡する者が多く、見物の車は二百両に満たず、往還の者も何人もいなかった。
 藤原行成(ゆきなり)などは、無常の観を催すために、わざわざ車や人の数を数えに行っているのである。まあ、このような状況でも賀茂祭を挙行するというのも、平安人のすごいところではあるが。
 寛弘(かんこう)以降も、寛弘2年(1005)、寛弘5年(1008)、長和(ちょうわ)3年(1014)、長和4年(1015)、寛仁(かんにん)元年(1017)、寛仁2年(1018)、寛仁4年(1020)、治安(じあん)元年(1021)と、疫病の流行はつづいた(北村優季平安京の災害史』)。
 寛弘2年2月には、「天下の人は貴賤を論じず悩(や)み患っている」とあり、長和4年4月には、京畿内(きょうきない)・外国(げこく)(畿外(きがい))に病死者が多く、段々と五位の者に及んでいて、京中(特に北辺大路(ほくへんおおじ) 〈一条大路(いちじょうおおじ)〉)に「汚穢(おわい)の物」(死体)がきわめて多いので路頭に出して置くというので、検非違使に命じて掃い清めさせている(『小右記』)。「掃い清め」られた死体は、どこでどのように扱われたのであろうか。
 神社に神頼みをする朝廷
 そしてこの長和4年の6月25日、西京(右京)の人の夢想によって、花園寺(はなぞのでら)の南西の方角、紙屋川(かみやがわ)の西頭(にしのほとり)に、新たに疫神社(えきしんしゃ)を卜(ぼく)した。東西京師の庶民はこぞって御幣(ごへい)を捧げ、神馬(じんめ)を連れて社頭(しゃとう)に向かったという。
 注目すべきは、翌26日にこの今宮(いまみや)で御霊会(ごりょうえ)をはじめたところ、朝廷の作物所(つくもどころ)が神宝(じんぽう)を造り、六衛府(ろくえふ)や馬寮(めりょう)がそれに奉仕したということである。すでに朝廷も新たな神社に神頼みといったところであろうか。
 両京の人は、25日の夜から、御幣や神馬を奉献して避ける路がなく、垣の内は紙を積んで空処がなくなったことは、あたかも紫野(むらさきの)神社(長保3年に奉遷(ほうせん)された今宮社(いまみやしゃ))のようであったという。
 藤原実資(さねすけ)でさえ、「深く命を惜しむことによる。真偽を調べなかったのか」としながらも、「もし霊験(れいげん)があるのならば、もっとも帰依しなければならない」などと記している。
 これで疫病が収まればよかったのであるが、29日には、この今宮社を崇祀(すうし)した後、病患(びょうかん)はいよいよ倍したとある(『小右記』)。貴賤の者が密集したせいであろう。
 道長の命に憤慨する実資
 寛仁4年3月の疫病は裳瘡(もがさ)と称され(疱瘡の一種か)、上下の道俗の男女で28歳以下の者が多く病悩し、時には老者が病むこともあったという。下人もこの病で多く死去したという。4月には後一条(ごいちじょう)天皇も罹患してしまった(『左経記(さけいき)』)。
 治安元年2月は道長が法成寺(ほうじょうじ)(無量寿院(むりょうじゅいん))の造営を進めていた時期であったが、こういう時にも疫病は待ってくれない。下人で死亡した者は数えきれず、路頭の死体は敢えて言うことができなかったが、道長一門の人たちは、疫病を怖れず、花を訪ねて遊宴を重ねていたという。
 疱瘡は老者には及ばないが、この疫病は老少を論じないということで、諸国に派遣して相撲人(すまいびと)を徴発する相撲使(すまいのつかい)を遣わすのは都合が悪かろうということで、さすがに前年につづいて相撲節会(すまいのせちえ)は停止(ちょうじ)となった(『小右記』)。相撲人同士の濃厚接触を避けるためでもあろう。
 しかし、道長の命によって、無量寿院の講堂の礎石(そせき)を、公卿たちが曳くことになった。二百余人で礎石1個を曳くことになったが、実資は、「近日、疫病がまさに発おこっている。下人は死亡している。遺った民はないようなものである。万人は悲嘆している。誰人に曳かせるというのか」と憤慨している(『小右記』)。
 異国からの疫病神
 永承(えいしょう)7年(1052)5月、またもや西京の住人の夢に、神人(しんじん)と称する者が出て来て、自分は唐朝(中国)の神で、この国に流れて来た。自分が到った所は皆、疫病を発するから、瑞想(ずいそう)(めでたいしるし)を表わした所に社(やしろ)を造営するよう告げた。
 この夢想は郷里(ごうり)に広まり、東西の京の人びとは、こぞってその場所に向かい、社屋を立てた。また諸府の人たちも祭礼(さいれい)を挙行し、隣里の郷党は雲のように集って饗応したとある(『春記(しゅんき)』)。
 中国から疫病神(えきびょうしん)が来るという経験は、遣唐使の時代以来、日本の人びとにとって、恐るべき歴史経験として認識されていたはずであり、この夢に現実性を賦与しているのである(倉本一宏『平安貴族の夢分析』)。
 このように、平安時代にも、例外的な人びともいたものの、密集を避ける、移動を避ける、異国人との接触を避ける、肉体接触を避けるなど、現代の感染予防にも通じる行動もとられていた。
 平安時代人は外交もおこなわず、穢(え)(特に死体)を恐れるなど、その保守性や後進性が指摘されることが多いが、それらも疫病感染を予防するためと考えれば、当時の医療知識のなかでは、精一杯の感染防止を考えていたのであるというのが、昨今の情勢を見ていての感想である。
 また、何だか安心するのは、朝廷(つまり天皇)や摂関などの上級貴族も、疫病などの危機に直面すると、下級官人や庶民と同じような対応をおこなうということである。人間の心性の本質には、じつは身分の差は案外にないということを実感させられる。
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