🏹26〕─1─「日本の海賊」を研究するフランス人ダミアン・プラダン氏。前期倭寇。~No.82No.83No.84 

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 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
 前期倭寇では、蒙古襲来で被害を受けた日本人が海賊となっていた。
 日本人海賊には、中国や高麗(朝鮮)に対する復讐権・報復権を持っている。
 後期倭寇では、中国人・高麗人・オランダ人が海賊となっていて、日本人は10人に1人か2人であった。
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 2024年4月26日 MicrosoftStartニュース COURRIER JAPON「なぜ「日本の海賊」を研究しようと思ったのですか? | フランス人倭寇研究者に聞く
 コロナ禍により中断していた、クーリエ・ジャポンの人気シリーズ企画が帰ってきた。「渋沢・クローデル賞」フランス側受賞者へのインタビューだ。
 【画像】「日本の海賊」を研究するフランス人ダミアン・プラダン氏
 今回は、前期倭寇に関する博士論文で第39回(2022年)渋沢・クローデル賞を受賞した歴史学者のダミアン・プラダン氏に、2年遅れの受賞記念講演会があった日仏会館で聞いた。
──フランスのどちらで生まれ育ったのですか。
 フランスの南部にアルビという都市がありますが、そこから車で15分くらいのラバスティード-ガボスという、人口400人ほどの田舎で生まれ育ちましたので、けっこうな田舎者です。
 そんな環境でしたので、家族も周りの人も、極東に関する知識はあまりないというか、日本と中国の区別もつかないレベルでした。高校で日本について習ったことはありましたが、本当に関心を持っていたとは言えません。
 高校3年生のとき、アルビの書店で『日本語のまねきねこ』という日本語の教科書を見つけ、「面白そうだな」と買いました。最初は独学で、やがて日本の大学で学ぶことになりました。そもそもは日本語という言語に魅力を感じて始めた勉強だったんです。
 なぜ「日本の海賊」を研究しようと思ったのですか? | フランス人倭寇研究者に聞く
 © COURRIER JAPON 提供
 日韓の歴史を結ぶテーマを探して、倭寇にたどり着いたというダミアン・プラダン氏 
──その後、歴史の研究者を志されたわけですが、何か決定的な本との出会いがあったりしたのですか。
 いろいろな本を読んで歴史への好奇心が出てきたのですが、そのなかで印象深かったのが修士課程に入ってから読んだオリヴィエ・シャピュイの著作『海においても、空においても』(1999年、未邦訳)です。
 日本の歴史とはまったく関係ない内容で、ボータン-ボープレという水路測量技師を紹介する本です。この人物はあまり有名ではないですが、18世紀末から19世紀初頭にかけて地図の作成法を編み出し、その分野では大きな影響を残しました。
 その技師のことを紹介する前に、技術の歴史がこの本に書かれていたのです。たとえば航海のときに緯度や経度をどうやって測ってきたか。どんな道具や方法を使っていたのか。その道具や方法は、どう変化していったのか。そういったことが詳しく説明されていました。
 それを読んだとき、「ああ、1冊の本にこんなに多くの知識を盛り込めるのか」と感銘を受け、私もいつかこのような立派な本を書きたいと思ったのです。
 倭寇を研究することになったいきさつ
──なぜ倭寇を研究しようと思ったのですか。
 学部を卒業して日本学の修士課程に進もうとしたとき、すでに修士論文は日本の歴史で書くと決めていました。ただ、日本だけでなくて、韓国についても知りたい、勉強したいと思っていたんです。
 それで日韓という二国の歴史を結ぶテーマがあればいいと思って、当時の先生に訊きました。先生はそういった分野の専門家ではなく、あまり知識がなかったので「それなら豊臣秀吉朝鮮出兵か、倭寇ではないですか」と言われました。
 もちろん日韓の歴史は戦争だけではないですが、それしか思いつかなかったわけです。当時の私は、豊臣秀吉朝鮮出兵についての知識をある程度持っていましたが、倭寇についてはほとんど何も知らず、インターネットで検索してみたら面白そうだった。それで2008年からずっと倭寇の研究を続けています。
──海賊は船や沿岸部の町を襲撃して掠奪をする暴虐な組織ですが、大衆文化では、カリブの海賊など、反骨精神にあふれた自由で豪胆なヒーローとして肯定的に思い描かれることもあります。海賊が大衆文化の想像力を掻き立てる理由は何だとお考えですか。
 海賊がいた時代、普通の人は被害者だったわけですから、海賊のイメージは非常に悪かったです。犯罪者とみなされていました。そう考えると、おそらくロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説『宝島』(1883年)が画期的で、その影響が大きかったのではないか。
 この小説が出たときには、海賊はもういなくなっていたので、小説の読者は被害者の立場からではなく、海賊の立場から考えられるようになったのです。それでロマンチックなイメージが成り立ち、いまや海賊といえば、カリブの海賊のイメージしか出てこなくなっています。世界史をひもとけば、どんな海にも海賊がいた時期があるわけですけれどもね。
 倭寇についても、日本が抱く倭寇のイメージと、韓国や中国が抱く倭寇のイメージは、かなり違うわけです。だから海賊のイメージも国それぞれ、背後にある文化によって変わります。
 なぜ倭寇は野放しにされたのか
──日本史の教科書では、14世紀の倭寇を前期倭寇、16世紀の倭寇を後期倭寇と分けています。前期倭寇は、対馬壱岐・松浦地方・五島列島の人が中心となり、黄海東シナ海の海域を制していたとのことです。なぜ朝鮮半島、中国大陸、日本の国家は海賊を取り締まれなかったのですか。
 正確に言えば、倭寇は13世紀から存在していましたが、その多くは小規模なもので、あまり遠くに行きませんでした。前期倭寇の活動が本格的に始まるのが1350年で、1419年を境に激減しましたが、それでも15世紀半ばまで続きました。
 なぜ海賊を取り締まれなかったのか。それは当時の東アジアの政治的環境が大きく変動していたからです。中国では元朝が滅びます。朝鮮半島では高麗王朝が滅び、李氏朝鮮李朝に代わります。日本でも南北朝時代に入るわけです。
 なので、東アジアでは全体的に中央政権が自国内の問題への対処で忙しく、あえて倭寇の問題に集中して取り組む余裕はあまりなかったのです。
──倭寇の襲撃は、どのようなものだったのですか。1年に何回ほど襲撃に出かけ、日数はどれくらいかけていたのですか。
 襲撃回数は、どこに行くのかによって変わります。朝鮮半島の南海岸なら、すぐに行ったり来たりできるので、1年に何回もできます。でも、中国北部に行くとしたら、日数もかかるし、季節風を使う必要があります。なので、多くても1年に2回。通常は1年に1回しか行っていないと思います。
 1回の遠征の日数がどれくらいだったか。これはもちろん距離によって変わるわけですが、通常は数ヵ月です。15世紀前半の話になりますが、中国南部だったら、季節風を利用する必要がありますから、対馬を2月か3月に出帆し、帰ってくるのは、だいたい5月頃なので、約3ヵ月かけていた計算になります。
 その1回が終わったら、中国南部に行くのは次の年まで待たなければならない。
 朝鮮半島の場合は、ちゃんと説明してくれる史料がなくてわかりにくい部分もあるのですが、やはり数ヵ月かけていたように思えます。朝鮮半島の島々を臨時拠点としてよく使い、滞在することもあったからです。どれくらい滞在していたのかはわからないのですが、滞在が1ヵ月以上になった事例もあるようです。
 倭寇はどれくらいの規模の集団だったのか
──倭寇の船団の船舶数は何艘ほどだったのですか。
 初期の1350年代、60年代だったら、だいたい100艘ほどですが、200艘に達した事例もあります。1370年代、80年代になると、船舶数はドッと上がります。高麗側の史料によれば、1380年の倭寇船団は500艘以上だったと書かれています。これはおそらく誇張を含んだ数ですが、数百艘はあったに違いありません。
 1390年を過ぎてから、船団の船舶数が減りますが、これは倭寇の船が変わったことと関係しています。倭寇は最初の頃、乗組員が10~20人の小さな船を使っていたのですが、1390年代から15世紀にかけて50~60人が乗れる船を使うようになった。100人乗る船もありました。
 だから船舶数が数十艘でも、人数はそんなに変わらなかったのです。2000~5000人の集団に該当するでしょう。当時の倭寇は、かなりの武力を持っていました。
 倭寇という言葉はいろいろなものを指すのに使われていますが、私自身はあまり使いません。使うなら、大きな船団を組織した海賊だけに限定すべきだと考えています。
 1~2艘の小さな船に乗った10~20人の盗賊は、どの時代にもずっといたわけですね。それも倭寇だと書く歴史家もいますが、私はやはりそのふたつを混同してはいけないと考えます。発生メカニズムが完全に違いますので、できれば別々の言葉、別々の歴史現象として扱う必要があります。
──襲撃の標的はどのように選んでいたのですか。
 風向きも標的を決める要素のひとつだったように思えますが、おそらく最も豊かな地域を狙ったり、防御設備や軍艦があまりない場所を探したりしていたのではないでしょうか。
 もちろん時期によっても襲撃の標的は変わります。倭寇が強い時期は、軍艦があっても、それをものともせずに軍艦と戦うわけです。でも、倭寇が弱い時期は、軍艦を避けて、ほかの地方に行ったりします。70年間の話ですから、いろんな場合があり、倭寇の活動も変化しています。
 倭寇が内陸まで攻め入ったかどうかも、時代ごとに変わります。1370年代と80年代は前期倭寇の最盛期であり、この時期には、おもに朝鮮半島で川を遡って、陸のかなり奥まで入っています。川を遡って上陸したあと、さらに遠くまで入っていったこともありました。
 たとえば1380年代の前半、高麗が最も弱かった時期には、海岸から100キロ以上も陸を進んでいる事例もあります。ただ、それは一時期のことに過ぎず、その前と後は、そこまで深入りはしていませんでした。
 前期倭寇が奪っていたもの
──前期倭寇は何を戦利品として掠奪していたのですか。1回の遠征で、いまの日本円に換算して何円相当の戦利品を得ていたのか、わかりますか。
 残念ながら、そこまではわかりません。私もユーロ換算でいくらになるのか知りたいです。ただ、史料で倭寇が奪ったものとして最も頻繁に出てくるのは、米などの穀物と奴隷です。
 それが倭寇にとって重要な戦利品だったこともあるのですが、なぜこのふたつが史料にいつも出てくるのか。それは史料を作成したのが、高麗の政府や中国の中央政権だったこととも関係しています。
 中央政権にとって何が最も重要かといえば、それは政府の収入であり、当時は穀物が税金の代わりだったのです。また、その穀物を生産するのは誰かといえば、それは人です。ですから人々の拉致にも敏感であり、それを書き留めていたわけです。
 倭寇は、価値がありそうなものは全部、獲っていったように思えます。仏像やお経、陶磁器だけでなく、お寺の鐘など、手に入るものを全部、日本に持ち帰ったのです。それがどれくらいの価値だったか。それがなぜわからないかというと、合計でどれくらいの量を持ってきたのかがわからないからです。
 加えて中世の日本では、ものの値段がかなり上下しました。たとえば飢饉になれば、穀物の値段は上がりますが、その一方で(穀物を食べる)奴隷の値段は逆に下がります。ですから、価値の計算はほぼ不可能なのです。
 たとえば1375年に鎌倉で高麗の鐘が十貫文で売られた話が史料に出てきます。ただ、これは額が低いように思えますし、それが大きな鐘だったのか、小さい鐘だったのかも知りえません。ひとつのデータポイントとしては面白いですが、そこから全体を計算するのは無理です。
──倭寇が連れ去った人の数の推算も難しいですか。
 それも難しいです。奴隷として連れ去った人の数は、合計すると数万人以上だったはずです。10万人を超えるかもしれません。しかし、そこも全体的には知ることができません。(続く)
 続編では、前期倭寇と日本の大名とのつながりから、言語学習の秘訣、漫画『ワンピース』の話まで、縦横無尽にプラダン氏が語る。
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 4月26日 MicrosoftStartニュース クーリエ・ジャポンクーリエ・ジャポン「フランス人倭寇研究者に聞く
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 フランスではいつも『ワンピース』のことを訊かれるというダミアン・プラダン氏 
 フランス人倭寇研究者インタビュー
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 倭寇の恩恵を受けた大名はいたのか
──日本の守護大名は、倭寇の活動の恩恵を受けていたのですか。
 これは学会では議論になっている点です。結論から言うと、私は大宰府を拠点にしていた少弐氏(しょうにし)と、その家来だった対馬の宗氏(そうし)が大きな役割を果たした説を支持しています。彼らが倭寇の活動から莫大な利益を得ていたように見えます。
 たとえば高麗と往来していた船に、高麗公事(こうらいくじ)という税を課していたことが史料からわかります。公事とは税のことです。それから唐人、つまり奴隷にも特別な税を課していました。つまり、倭寇の活動に税を課していたわけです。
 さらに、倭寇が持ってきた品物が少弐氏の元に流れる傾向があったように見えます。なので、おそらく倭寇の活動がもたらした経済効果は、少弐氏や宗氏にとって、とても重要だったと考えています。
 韓国の李領(イ・ヨン)などの歴史家は、倭寇が本格的に始まった1350年が観応の擾乱(1349〜52年、室町幕府の内部抗争が全国的な争乱に発展)の始まりと重なることに着目し、少弐氏が自分たちの軍事活動を支えるための兵糧米を高麗からとってこいと倭寇に命令を出した可能性が高いという説を唱えています。
 残念ながら明確な史料がないので、はっきりとは言い切れないですが、この説が当たっている確率が高いと私は考えています。
 「渋沢・クローデル賞」受賞記念講演をするダミアン・プラダン氏 Photo: Yuki Fukaya / COURRiER Japon
 前期倭寇頭目たち
──早田左衛門大郎(そうださえもんたろう)や阿只抜都(あきばつ)といった前期倭寇頭目については、どれくらいのことがわかっているのですか。
 阿只抜都は、韓国語ではアギバルドと読みますが、この人物のことはほとんど何もわかりません。彼が登場する史料は全部、1380年の荒山(こうざん)の戦いに関する史料です。この荒山の戦いで、後に朝鮮王朝(李朝)を樹立する李成桂(イ・ソンゲ)がアギバルドと戦ったことになっています。
 つまり、アギバルドは李成桂に関する史料、もっと言うなら李成桂の伝説にしか出てこない人物だとも言えます。この史料は、李成桂の継承者が、自分たちが樹立した新王朝を正当化するために作ったものです。李成桂の活動についても、まったくの創作とは言いませんが、美化されているのは事実です。
 そこにはアギバルドという15~16歳の勇気のある若い武士がいたが、最後は李成桂によって討ち取られたといった話が書かれていて、アギバルドは李成桂の引き立て役に終始しています。そんな信憑性の低い史料ですから、アギバルドについて正確なことは何もわかりません。
 そもそもアギバルドは、日本人の名前ではありません。アギは韓国語で「赤ちゃん」の意味で、バルドは、モンゴル語で「勇気のある武士」を意味する言葉に由来します。英語風に言うなら「ベイビー・ウォリアー」といったあだ名でしかありません。
 一方、早田左衛門大郎には、かなりの情報があります。史料に最初に登場するのは1396年です。その年、彼は倭寇の大船団を率いて朝鮮の島に上陸し、朝鮮側に「私たちは降伏したい」と伝えて連絡をとり、交渉の末、朝鮮王朝のために働くようになりました。
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