☲21〕─3・B─パプアニューギニアの老人は「日本兵とたくさん遊んで楽しかった」と語った。~No.69 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ニューギニア攻防戦では、東西ニューギニアで日本軍18万人以上、豪軍8千人、米軍1万4千人の戦死者、戦病死者を出し、また現地人にも多くの犠牲者を出した。さらに、日本軍の中には、台湾高砂族による高砂義勇兵や朝鮮志願兵、チャンドラ・ボース支援のインド兵やインドネシア人兵のほか、漁船ととも徴用され戦死した本土の漁師がいた事も忘れてはならない。
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2018-04-11
🍙21〗─4─昭和16年6月 戦争回避を目的とした幻の「ニューギニア島日本売却」提案。~No.101No.102No.103・ @ 
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 2024年4月24日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「「日本兵とたくさん遊んで楽しかった」パプアニューギニアの老人からそう聞かされて、社会学者が戸惑った理由
 大野 哲也
 © PRESIDENT Online
 社会学とはどのような学問なのか。桃山学院大学大野哲也教授は「社会学では『従来とは異なる視点』で対象を捉える。例えば『戦争は100%悲惨だ』という前提をいったん留保して、『なぜ私は、戦争は100%悲惨だと思っているのか』と自問自答するのが社会学的思考法だ」という――。
 ※本稿は、大野哲也『大学1冊目の教科書 社会学が面白いほどわかる本』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
 1988年から2年間、パプアニューギニアで暮らしていた
 今からさかのぼること三十数年、1988年から90年にかけての2年1カ月間、大洋州に浮かぶ島国パプアニューギニアで暮らしていた。当時この国は「地球最後の秘境」と呼ばれ、日本社会で生きてきた者にとってはまさに異文化、毎日が驚きの連続だった。
 この国は第二次世界大戦時に激戦が繰り広げられた場所で、多くの日本兵が命を散らした悲惨な記憶の場でもあった。15万の兵士が送られ、12万8000人が命を落としたといわれている。大半は銃弾ではなく、食糧不足による飢えと、蚊を媒介にして罹るマラリアによって倒れたのだった。
 日本にとっては凄惨な歴史を有する国だが、住んでいた頃は、そのような面影はところどころに転がるように放置されている朽ち果てた戦闘機や軍事車両にみることができる程度であり、そこに暮らす人たちも戦争のことを話題にすることはまったくなかった。
 異国の地で「ニホンジンですか」と話しかけられる
 ただ、一度だけ面白い経験をした。仕事でラバウル島に行った時のこと、町を散策していると一人の老人がふらりと近づいてきた。自分たちとは肌の色や髪の毛の質がまったく違うアジアの人間をみつけて、興味と好奇心がむくむくと湧き上がってきたのかもしれない。
 おじいさんは出し抜けにこういった。「ニホンジンですか」。見知らぬ「外国人」がたどたどしくも正確な日本語を突然話したのでびっくりしたが、ともあれ、戸惑いつつ「そうです」と日本語で答えた。そうすると「おーっ」と歓声をあげて、満面の笑みをたたえながら「もしもしカメよ、カメさんよ」といきなり歌い出した。そして完全な歌詞と発音とメロディーで一番を歌い終えるとまたもや唐突に「タナカさんは元気ですか」といった。
 頭のなかが「?」マークでいっぱいになった私に彼が語ったところによると、その真相はこうだった。
 「第二次世界大戦中に日本兵がたくさんやってきた」
 「彼らは、当時、子どもだった私とよく遊んでくれた」
 「タナカという人に日本語を教えてもらった」
 「その時に“もしもしカメよ”の歌も教えてくれた」
 「タナカはとてもよい人だった」
 「彼は元気か?」
 戦争には「悲惨」以外の見方がある
 戦争に関して誰かがなにかを語り、メディアが伝えるときには、いかに残忍で悲惨で浅はかな行為であるかが強調される。「日本は唯一の被爆国」という言葉や、夏の高校野球のテレビ中継でかならず放送される8月15日の終戦記念日の黙祷などは、そのような集団的心象を象徴している。この姿勢は絶対的に正しい。「破壊と殺戮はよい行為だ」「どんどんするべきだ」とは誰も思わない。武力攻撃は人間性の否定と冒瀆であり、モノと自然と命の蕩尽であり、愚の骨頂である。
 だが個人の記憶レベルになると、戦時の楽しい記憶がよみがえることがある。微笑みながら「もしもしカメよ」と口ずさみ、歌を教えてくれた兵士タナカの今を気遣う心持ちは、自分とはなんの関係もない、いわばとばっちりともいえる交戦をけっして喜んではいないものの、非日常のなかの日常の一場面では、子ども心に楽しさがあったことの証左である。
 戦争をこのような視点からみたことはなかった。戦火を生き延びた父母と祖父母から断片的に聞く話は「食べるものがなくて生のドングリを食べた」「東京から着の身着のまま岡山に疎開した」などの定番化した苦労話ばかりだった。なので「楽しかった」という話はとても新鮮でインパクトがあった。30年以上も前の話なのにいまだにその光景を鮮明に再現できるのは、モノやコトを違う視点から見てみることの驚きがあまりにも強烈だったからだろう。
 社会学の本質=「違う視点でものごとをとらえる」
 字面だけをみると社会学はとても簡単そうだ。なにせ「社会」を「学ぶ」のだから、「社会について考えるのだろう」とすぐに了解してしまう。しかも対象となる「社会」はあまりにも見慣れ、聞き慣れたコトバだ。
 大学入試で面接を担当するとき、「社会学ってどんな学問だと思っていますか」と質問することがある。すると多くの受験生は胸を張って「歴史とか政治とか社会問題とかを考えることです」と答える。その声を聞くたびに、笑みを保ったまま少しがっかりする。
 核心はその部分にはないからだ。
 ではエッセンスはなにか。パプアニューギニアで出会ったあの老人が、すでに教えてくれている。彼は社会学を生きているといえるのだ。
 社会学の心髄、一番重要な部分は「従来とは異なった視点で対象を捉える」ことにある。このことをもう少し深く考えてみよう。
 「缶ジュース」はどんな形に見えるか
 あなたの目の前に一本の缶ジュースがある。まず真正面に立ってみよう。どんな形に見えるだろうか。実際は円柱だが、そうは目に映らない。シルエットだけに限定すれば長方形に見えるはずだ。それを確認したうえで、次に上方にアングルを移動させてみよう。そうするとまん丸に見える。
 これが社会学的方法論である。
 なんだか、凡庸すぎて馬鹿にされたような気分になるかもしれない。しかしこのとき頭のなかでは、相当複雑な作業をしているのだ。円柱であることがすでにわかっているモノを、その「わかっている」をいったん横に置いておいて、長方形や真円だと認識・判断するのだから。
 パプアニューギニアの老人をもう一度振り返ってみよう。彼は戦争が悲惨なことは当然ながら理解している。そのうえでそのような感情や知識をいったん留保して、戦場で経験した楽しい思い出を語ったのである。「凄惨な現場だったけれども、こういうこともあったのだよ」と。
 自分自身のことも「新たな視点」で見てみよう
 私たちは日常生活を生きる実践の蓄積によって、知らず知らずのうちに視線を据えつけてはいないだろうか。「戦争はもっとも愚かな行為」「社会から犯罪はなくすべき」「女性がスカートを穿くのはよいが、男性がスカートを穿くのはおかしい」など、「○○はこうあるべき」というような価値観や意見、見る角度を固定化してしまっている。あるいは日々を生きるプロセスで、周囲(=社会)からの影響を受けて一定の型に嵌め込まれていっている。
 老人が戦時下での楽しい思い出を語ったことに驚いたのは、私に「戦争は100%悲惨だ」という前提があったからだ。社会学的思考法は「なぜ私は、戦争は100%悲惨だと思っているのか」と自問自答することにつながっているのだ。
 思考実験としての社会学は、自分自身について一所懸命に考えることと同一だ。「あなた」の存在をいったん保留したうえで、あなた自身について考えることなのである。こうした学問は、小中高校で学ぶ知識のありようとは異なっている。そこでの勉学は基本的に、記憶することと、正しい答えを追求することに重点が置かれているからだ。
 社会学は人生を豊かにする
 あなたは自分自身をどのように捉えているだろうか。いろいろな性格や志向性や習慣があることだろう。そのような複雑怪奇な自己を、自分以外のモノやコトを経由して、いままでとは異なった立場から再考してみる。するとジュースの缶が長方形や真円に見えるように、新しい自分の姿が浮かび上がってくるに違いない。
 知的好奇心を自在に操りながら、社会について、あるいは多様な生き方を実践している人びとの意識や行為の深層に迫る。それが社会についての深い理解、人びとに対する柔軟な諒解につながっていく。チャレンジングでスリリングな知的冒険の先には、あなたなりの「よりよい社会」や「よりよい生」への扉がひらけているはずだ。
 社会学は、あなた自身の人生の可能性を広げるばかりか、生き方を彩り豊穣にしていくことだろう。これが社会学の醍醐味であり、社会学を学ぶ意味である。

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 パプアニューギニアの激戦地で日本軍兵士の戦死は、戦闘死ではなく餓死と病死の方が多かった。
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 ウィキペディア
 ニューギニアの戦い(New Guinea Campaign)は、第二次世界大戦中期以降、ニューギニア戦線において、日本軍と連合国軍との間で行われた一連の戦闘である。戦闘が非常に悲惨だったことでも知られ「ジャワは天国、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」とまで言われた。
 概要
 太平洋戦争開始後間もない1942年1月、日本の大本営は「ニューギニアおよびソロモン群島の要地の攻略を企画する」と決定し、ニューギニアについては「ラエ、サラモア攻略後なしうればポートモレスビーを攻略する」とした。この決定により1942年3月8日、日本軍は東部ニューギニアのラエ、サラモアに上陸し占領した。 これがニューギニアの戦いの始まりであり、ダグラス・マッカーサー大将が率いる連合軍との間で1945年8月15日の終戦まで戦いが続けられた。連合軍の優勢な戦力の前に日本軍は次第に制海権・制空権を失って補給が途絶し、将兵は飢餓や過酷な自然環境とも戦わねばならなかった。ニューギニアに上陸した20万名の日本軍将兵のうち、生還者は2万名に過ぎなかった。また台湾高砂族による高砂義勇兵や朝鮮志願兵、チャンドラ・ボース支援のインド兵やインドネシア人兵補も戦闘に参加している。

 戦場の環境
 自然環境
 今日に伝わるパプアニューギニアの伝統文化
 ニューギニアにおける戦いは過酷な自然環境との戦いでもあった。日本兵の死因の多くは直接の戦闘によるものでなく、マラリアアメーバ赤痢デング熱、腸チフスなどの熱帯性の感染症と飢餓による栄養失調と餓死であった。戦時中に日本で上映されたニュース映画『日本ニュース』の中ではニューギニアの自然環境を「千古斧鉞(せんこふえつ)を知らざる樹海(第194号)」「瘴癘(しょうれい)の暗黒地帯(第203号)」「悪疫瘴癘(しょうれい)の蛮地(第210号)」と述べている。自然環境との戦いには連合軍も苦しめられ、マラリアを媒介するハマダラカの駆除にDDTが活用された。ジャングルにおける行軍では方向感覚を失った部隊が同じところを回ることが少なくなかった。これは人間が左へ、左へと進む習性を持つためであり、誘導員か方位磁石(日本軍一般兵士には支給されていない)が不可欠であった。また、ワニなどの動物に食べられる者もいた。
 原地民
 ニューギニアの原住民は日本軍と連合軍の双方から過酷な仕事を命じられながら忠実に物資の輸送や道案内を行い、負傷者の面倒見に一役買った。また、両軍のスパイや民兵として活躍する者もいた。中には逃亡する現地人もいたものの、日本軍から「まじめで忠実」と賞賛され、連合軍からも黒い天使(Fuzzy Wuzzy Angels)と呼ばれた。ただし、現地人は食料よりタバコを欲しがるということで、日本軍では訓練された台湾の高砂族(詳細は高砂義勇隊を参照)に対する評価の方が高いケースもある。
 戦争末期に日本軍が分散自活の体制に入ると、原住民の中には連合軍と通じて日本兵を襲撃する者も現れた。ジャングルでの行動に慣れた原住民に対して、衰弱し少人数に分散した日本兵はなすすべもなかった。一方で、食糧採取などにおける原住民の協力なしには、日本兵の多くは生きながらえることはできなかったであろうことも事実である。

 結果
 ほとんどをジャングルに覆われた未開で広大なニューギニア島の戦いで大きな役割を果たしたのは航空機であった。大型の輸送機を持たない日本軍は兵員や物資の輸送を海上輸送に頼ったが、その海上輸送を確保するためには制空権が必須であった。日本軍は主に陸軍がニューギニアの航空戦を担い、新鋭の三式戦闘機など多くの機材と人員を投入したが、制空権はおおむね次のように推移した。
 1942年4月まで:日本側が制空権を掌握
 1942年8月まで:制空権は伯仲
 1942年9月以降:連合軍がブナ方面での制空権を掌握し、その制空権は逐次西方に拡大
 航空戦力は初期においては拮抗していたが、次第に
 航空機の数
 航空機の性能(戦闘機は1943年秋以降、爆撃機は最初から)
 搭乗員の数、技量、士気、健康管理
 飛行場の建設能力(建設機械と資材)
 レーダー
 の面でいずれも連合軍側が優位になり、これがニューギニアの戦いの結果に決定的役割を果たすことになった。
 ニューギニアの戦いにおいてダグラス・マッカーサーはしばしば最前線に出て将兵を激励し、また大胆な飛び石作戦を実施するなど優れた指導力を発揮した。1944年4月にホーランジアへ司令部を進めたマッカーサーはそこからフィリピン奪還作戦を指揮し、10月20日にレイテ島への帰還を果たした。戦いの焦点はフィリピン、硫黄島、沖縄へと移り、ニューギニアは次第に戦略的価値を失っていった。
 東部ニューギニア戦線に投入された第18軍将兵は16万名、西部ニューギニアも含めると日本軍は20万名以上が戦いに参加した。そのうち生きて内地の土を踏んだ者は2万名に過ぎなかった。犠牲者には徴用船でニューギニアへ赴いた船員たちなど軍属や民間人、シンガポールの戦いで降伏したインド人捕虜も含まれ、正確な全貌は不明である。連合軍の戦死者もオーストラリア軍8,000名、アメリカ軍4,000名に上った。現地人の犠牲者数は明らかではないが4万人から5万人とも推定されている。このような状況から帰還兵達は「ジャワの天国、ビルマの地獄、生きて帰れぬニューギニア」と評したという。

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