☷8〕─3・C─韓国の核武装議論は核保有軍事国家(軍国韓国)への一歩である。~No.22 

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 韓国の武器輸出は軍国主義政策の一環である。
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 2023年1月31日17:00 YAHOO!JAPANニュース 夕刊フジ「韓国「核武装」議論、日本ではマスコミさえもスルー 軍事的威嚇を受け続ける日本は大丈夫なのか 米シンクタンク提言「日米韓+英仏『多国間の核の傘』」 
 岸田文雄首相(矢島康弘撮影)
 【ニュースの核心】
 岸田文雄首相は施政方針演説(23日)で、「『核兵器のない世界』に向け、国際的な取り組みを主導する」と訴えたが、韓国では「核武装」を求める議論が高まっている。北朝鮮の核・ミサイルの脅威を受けた、安全保障の見直しの一環という。中国とロシア、北朝鮮という3つの核保有国に囲まれ、軍事的威嚇を受け続けている日本は大丈夫なのか。安倍晋三元首相は生前、「核抑止の議論」を主張していたが、岸田政権下では議論が深まる様子はない。ジャーナリストの長谷川幸洋氏は、「核の脅威」に対する日本と韓国の決定的な違いと、米国の現実的な姿勢に迫った。
 【写真】北朝鮮による弾道ミサイル「火星12」の発射実験
 米国の有力シンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)」が19日、韓国に「米国の核兵器を再配備する可能性を検討すべきだ」という提言をまとめた。ジョー・バイデン政権は「朝鮮半島の非核化」を目指す方針を変えていないが、緊張が高まる半島情勢を受けて、近い将来、韓国と事実上の「核共有(シェアリング)」に方針を転換する可能性が出てきた。
 私は先週のコラムで、岸田首相が日米首脳会談で核抑止問題を「素通りした」件を厳しく批判すると同時に、韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が11日、政府内の会議で「核武装を検討する」と述べた発言を紹介した。
 日本のマスコミはなぜか、この尹発言を報じていない。
 「核廃絶」を至上命題に掲げる広島出身の岸田首相が核問題を棚上げしているのは、首相としては当然だとしても、マスコミさえも「韓国の核武装」に目をつぶっているのは、日本の深刻な「平和ボケ」を象徴しているように見える。米国では当然、報じられた。
 そんな矢先、CSISが韓国への米国核再配備の必要性を訴えた。「北朝鮮政策と拡大抑止」と題された報告書は全30ページ。ジョン・ヘイムリ所長と、ハーバード大学ジョセフ・ナイ教授が共同議長を務めた。
 それによれば、ロシアによるウクライナの侵攻は、韓国に大きな衝撃を与え、核実験とミサイル発射を繰り返す北朝鮮の脅威と「自国の脆弱(ぜいじゃく)性に対する懸念を深めた」と指摘した。韓国は、米国に新政権が誕生すれば「米軍撤退話が再燃しかねない」とも心配している。
 そのうえで、「現在の情勢下では、米国は韓国に戦術核を再配備すべきではなく、核共有も認めるべきではない」と指摘した。あくまで「現在の情勢下では」という条件付きである。
 将来はどうかといえば、報告書の本論部分で、韓国が抱いている懸念を払拭するためには、広報活動や日米韓3極の対話と作戦共有などと並んで、「米軍の戦術核を将来、再配備する可能性に備えた枠組み作りが必要」と明記した。
 慎重な言い方をしているが、一言で言えば、提言は「いま再配備は必要ない」が、「近い将来、米国核の再配備を検討すべし」と訴えているのだ。提言は具体的に「戦術核の保管場所の選択」や「安全対策」「米韓両軍の合同訓練」「数年後の完成を目指した保管施設の建設」にも踏み込んでいる。
 日本については、「(日本も)拡大抑止の信頼性に対する懸念を共有している」としたうえで「日米韓の3カ国によるNATO北大西洋条約機構)のような核使用立案グループを検討すべきだ」と記した。
 それだけではない。
 将来は日米韓に英国とフランスを加えた、「多国間の核の傘」創設も提言した。もしも、実現すれば、事実上「NATOの太平洋への拡大」に匹敵するような大胆な構想である。
 CSISがこうした提言をまとめた背景には、韓国民の間で「独自の核開発論」が高まっている事情がある。米シンクタンクがロシアによるウクライナ侵攻後の昨年2月に実施した世論調査では、核武装をめぐって「韓国の独自核開発」に対する賛成が67%の多数を占め、「米国核の再配備」への賛成は、わずか9%にとどまった。提言は韓国が独自開発に動く前に、先手を打った形でもある。
 岸田政権は、果たして激動する世界に対応できるのか。
長谷川幸洋(はせがわ・ゆきひろ) ジャーナリスト。1953年、千葉県生まれ。慶大経済卒、ジョンズホプキンス大学大学院(SAIS)修了。政治や経済、外交・安全保障の問題について、独自情報に基づく解説に定評がある。政府の規制改革会議委員などの公職も務めた。著書『日本国の正体 政治家・官僚・メディア―本当の権力者は誰か』(講談社)で山本七平賞受賞。ユーチューブで「長谷川幸洋高橋洋一のNEWSチャンネル」、ニコ生で「長谷川幸洋Tonight」を配信中。
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☷24〕─1─尹錫悦大統領の「無差別テロリストの精神」称賛は敵天皇反日宣言である。~No.67No.68 

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 キリスト教朝鮮人テロリストは、日本人の共産主義者無政府主義者テロリストと同様に昭和天皇と皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
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 2022年8月18日11:00 YAHOO!JAPANニュース「なぜ日本のマスコミは伝えなかった 韓国・尹大統領が「無差別テロリストの精神」を称賛 日本人2人が死亡した上海爆弾テロ事件
 尹大統領(写真)は「光復節」の演説で、「尹奉吉の独立精神」を称賛した=15日、ソウル(共同
 日本のマスコミは、なぜ伝えなかったのだろうか。韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が、光復節(8月15日)の記念演説の冒頭で述べたことを―。尹大統領は、1932年の上海爆弾テロ事件の実行犯である「尹奉吉(ユン・ボンギル)の独立精神」を称賛したのだ。
 このテロ事件では、日本人2人が死亡し、5人が重傷を負っている。
 尹大統領は、独立運動を「自由を求める精神に基づく」と規定して、「(独立運動は)韓国で現在も進行中」と述べた。そのうえで、「日本はともに力を合わせて進むべき隣人です」と。
 こうした論理の組み立てを知れば、光復節演説に共感する日本人はほとんどいないだろう。
 尹大統領は2021年6月、大統領選挙出馬を宣言する場所として、ソウル市内にある尹奉吉記念館を選んだ。父親(=元延世大学教授)は尹奉吉奉祝会の役員を務めた。
 同姓・同族の英雄なら、無批判に信奉する韓国人はとても多い。しかし、尹大統領と尹奉吉は同じ「尹」姓でも、本貫(=伝説上の発祥地)が違う。別の家系だ。尹錫悦父子の「尹奉吉への入れ込み」は異様であり、その理由は謎だ。
 安重根(アン・ジュングン)は、伊藤博文1人を狙った。尹奉吉天長節天皇誕生日)の祝典の演壇にいた多数の民間人も死傷させた。まさしく「無差別爆弾テロ」の実行犯だ。
 安重根は一応、『東洋平和論』なる外国勢力の分析と対処を考えた論文を残した(これも思い違いした箇所が多いが)。しかし、尹奉吉には著作もないし、今日に語り継がれるような名言もない。
 そうした人物の「精神」とは何なのか。「日帝に無差別爆弾テロをした」ことだけではないか。
 その「精神」を、検事出身の大統領が公式の演説で称揚するとは、理解しがたい。日本のマスコミが、その発言を伝えなかったことも理解できない。
 もしかしたら、尹大統領は「新たな尹史観」の定立化を目指しているのかもしれない。
 前任の文在寅ムン・ジェイン)氏は、産業化勢力(財閥)を「名前を変えた親日派」と規定し、「新たな主流」が彼らにとって代わるのは「歴史の正統性」だとする〝韓国型唯物史観〟を展開した。
 これに対して、尹大統領は記念演説で、「自由民主主義の土台である経済成長と産業化を成し遂げる」勢力を、「現在も進行中の独立運動」の一翼に位置付けた。文在寅史観に対する明確なアンチテーゼの提出だ。
 そうしたこともあろう。さらには慰安婦問題に何らの言及がなかったことに、韓国の左翼陣営は「尹非難」の姿勢を強めている。
 尹氏が「もはや慰安婦問題は語る価値がない」との信念をもって、あえて言及せず、粛々と15年慰安婦合意の復活を進めるのなら、それは日本として歓迎すべきことだ。
 しかし、そうではなさそうだ。
 別の発言を見れば、尹錫悦グループは依然として「歴史問題の解決の前提は、日本の謝罪」とする立場を崩していないからだ。
 もう一つの歴史問題である徴用は、現金化実行の日限が刻々と迫っている。韓国最高裁が政府の意見を聞き入れて控訴棄却の日取りを伸ばすとしても、時間的には切迫している。
 尹大統領が光復節の演説で、この問題にまったく触れなかったのはなぜか。訪韓した米下院議長と会談しなかったのと同様に、「勇気があるか、ないか」の問題だろう。
 「正義感あふれる優秀な検事」だった人物が、「暗愚の政治家」の烙印(らくいん)を押される日は近いのかもしれない。 (ジャーナリスト・室谷克実)
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2018-10-04
☲10〕─1─昭和天皇爆殺テロ失敗、警視庁前桜田門爆弾テロと第一次上海事変。昭和7年1月~No.21 @ 
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 韓国は、キリスト教原理主義テロリストが建国した敵天皇敵日国家であった。
 北朝鮮は、共産主義者無政府主義者テロリストが建国した敵天皇敵日国家であった。
 歴史的事実として、日本は被害者であり、朝鮮と中国は加害者であった。
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 韓国・北朝鮮中国共産党政府に味方する日本人リベラル左派全体主義者の正体とは、グローバリズムマルキシズムであり、戦後民主主義教育で優秀な成績を取った国家・社会の頂点に登り詰めた超エリート層の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達である。
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 歴史を教訓とするなら、日本と朝鮮・朝鮮、中国とは和解などありえない。
 韓国の保守派とは、反日派敵日派であって親日派知日派ではない。
 韓国が日本と和解できる日本とは、日本天皇日本民族ではなく日本人である。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国、韓国・北朝鮮
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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 大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、第32代崇峻天皇を暗殺した。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
 894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
 『韓国人に不都合な半島の歴史』 著者 拳骨たくみ「太宰府が4月16日に送った報告書が『朝野群載』(巻20)に記載されている。
 その記述によると、彼らは畠を食いつくし、馬や牛、犬の肉まで食べたという。年寄りから子供らはみな惨殺され、壮年の男女400~500人は船に乗せられ拉致された。
 ……
 高麗海軍による攻撃を受ける最中、賊たちは日本人捕虜たちを殺したり、す巻きにして海に投げ込んだりした。
 高麗は日本人を救出し、300人余りが助かったと生存者の供述書に書かれているが、この時点で拉致された人々の80%近くが死亡していることがわかる。
 ……
 一方の日本は、高麗に対して不信の念を強くしていた。
 権大納言藤原実資は、『賊は刀伊ということだが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐために自分たちを派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか』との見解を示した(『小右記』)。
 この不信感には先述したように、かつて新羅による海賊行為がしばしば見受けられたことで、裏で高麗が糸をひいているのではないかと考えられたからに他ならない。
 これらの事例からも、日本が韓国を古来から尊敬していたなどという話は、まったくの架空であることがわかるだろう。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
 捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
 李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
 この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
 朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
 歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
 朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
 日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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 1405年~1433年 明の永楽帝イスラム教徒で宦官の鄭和は、大艦隊を率いて南海遠征を行った。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
 朝鮮軍、227隻、1万7,285人。
 島民114人を虐殺し、民家1,939戸を焼いた。
 対馬守護代宗貞盛は反撃し、朝鮮軍2,500人(一説では3,700人)を撃ち取り、日本側の戦死者は123人。
 朝鮮軍は、台風を恐れて全軍撤退し、事実上の敗走であった。
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 1428年 世宗大王は、日本からコメ作りや水車の製造など多くの事を学んだ。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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 大正13(1924)年1月5日 朝鮮人テロリスト集団の義烈団による二重橋爆弾事件。
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 昭和6(1931)年9月18日 満州事変。
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 昭和7(1932)年1月8日 桜田門事件。上海系朝鮮人テロリストによる昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件。
 1月28日(~5月) 第一次上海事変勃発。
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 5月 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 イギリス、イタリア、ベルギーなど西洋諸国の各国の共産党は、自国の王室を人民の敵とは認めず、それ故に一度も「王室打倒」とは叫ばなかったし、ソ連・国際共産主義勢力も命じなかったし求めなかった。
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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🦉7〕─1─日本民族の遺伝子には珍奇な「不安、恐れ、気弱」が含まれている。~No.14No.15No16 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本人が、東アジアで生きてこれたのは日本民族が持っていた特殊で特別な遺伝子の御陰である。
 日本民族の遺伝子とは、数万年前の旧石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)の祖先から直系子孫として受け継いだDNAである。
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 2023年1月19日号 週刊新潮脳科学者・中野信子さんが見たセメントの底力
 セメント協会理事 増田浩氏 対談
 …… 
 日本人を生き延ばせた不安能力
 中野 日本は地球の総陸地面積の1%ぐらいですね。そこに20%の災害が集中しているという大変な国です。その災害に耐えうる資質は何か。実は不安になりやすい性質の方が耐えやすいんだということを、日本人の遺伝子プールの特殊性を見ていると摘出できそうだ、というのがおもしろいと思うんですね。先々、こういうことが起こるかもしれないから、あらかじめこんな準備をしておこうと。別に電車が1分以上遅れたって、人は死なないかもしれないけど、やはりあってはならないことで、事故のようなものなんだというこを言っていくことが私たちの武器だったと思ういつもと違うこと思うんですね。いつもと違うことが起きた。もしかしたら大きな事故の前ぶれかもしれないから気をつけようね、ということの価値が私たち高かったんだと思うんです。
 不安になりやすい遺伝子と、そうでない遺伝子というのがあって、不安になりやすい遺伝子の持ち主というのが、どういう割合で入っているのか。ざっくり言うと、日本人の97%の人が不安になりやすい遺伝子を持っているんですね。こんあ国、他にないですね。アメリカだと7割切るぐらい。移民の国ですから、あまり不安になっていては、生きていけないわけです。明日は明日の風が吹くという人でないと生き残れない国だったんだと思うんですね。でも、日本は明日何が起こってもいいように準備しておかないと、そういう国なんです。そこでその社会インフラを支える仕事ということの意味はすごく大きいと思います。
 増田 日本人ってそうですよね。常に何が起こりそうなことを準備しとかないと心配で、だからお金あるんだけど、100まで生きるかもしれないから、とっておかなきゃ、みたいな。
 中野 そうですよね。心配する能力とでも言いますか。災害によっておそらく抽出されてきたであろう不安能力というものが、作る製品のクオリティの高さになっていたり。……」
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 民族ごとに特有の遺伝子を持っていて、その遺伝子から日本民族は中国民族(漢民族)・朝鮮民族韓民族とは全然違う。
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 同じ日本人といっても、江戸以前と明治以降とバブル崩壊後では別人のような日本人である。
 そして、反宗教無神論・反天皇反民族反日本人を標榜するリベラル左派日本人は、中国化、韓国化・朝鮮化して日本民族遺伝子は薄いか持っていない。
 そうした日本人が増えている。
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 同時多発的に頻発する複合災害多発地帯の日本列島で生きる日本人と中国人、韓国人・朝鮮人の違いは、遺伝子にあった。
   ・   ・   ・   
 日本民族は遺伝子から喜怒哀楽がハッキリしていたが、不機嫌な日本人、キレる若者はもちろんキレる老人、暴走シニア、暴力シニア、凶暴シニアは少なかった。
   ・   ・   ・   
 1月19日号 週刊新潮「変見自在  高山正之
 韓国人化
 日本に逗留中のキプリングは今でいう震度5弱ほどの地震に遭った。
 床も壁も天井も踊り出し、死ぬ思いで表に這い出したら、その家の女たちが『とっくに終わっていますよ』とにこにこ笑っていた。
 『日本人は最後の審判すら笑って通るのだろう』がキプリングの感想だった。
 下田に来たプチャーチン安政の大津波に遭った。彼のディアナ号はあの港の中をぐるぐる42回も回されて大破した。
 風が吹けば江戸の半分が焼ける大火を生み、長雨が続けば鉄砲水か、下手すれば川が氾濫して村ごと消えてなくなる。
 地震も噴火も台風もない白人世界から来たら日本はまるでリバイアサンの巣窟に見えたかもしれない。
 しかしキプリングが見たように日本人はどんな災害も笑顔で受け入れる。
 エドワード・モースは大火に遭った人々が笑いながら町の再建に力を合わせる姿を記録している。
 後にスイス大統領となるエメ・アンベールは維新前の日本に来ている。
 母国と違って女の子も一緒に読み書きを習っているのに驚いたが、もっと驚いたのが子供たちが最初に習ういろは歌だった。
 色に匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常にならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず
 こんな小さいころから世の無常と死を教え、身勝手な夢に酔うことなく心安らかになれと諭す。
 日本人の心にそれが根付いているのをモースはたまたま大火の焼け跡で垣間見たことになる。
 世界も3・11大震災のときにそれを目撃した。
 救援物資を届けられた被災者が『私たちはいいからもっと困っている人に』と固辞する姿だ。
 『救援物資』とは世界では『我先に略奪するもの』を意味する。トルコの山奥でクルド人難民にトラック1台の救援物資が届いた現場を見たことがある。
 群衆が我勝ちに荷台によじ登り、トルコ兵が銃の台尻で殴りつけ、空砲まで撃つが誰もひるまなかった。
 その日本人は今もいろは歌の心を持っているのか。
 この国はいつも火山が噴火してきた。阿蘇雲仙普賢岳有珠山も。
 御嶽山も噴火して、登山客63人が犠牲になった。山もまた無常だった。
 ただ犠牲者の家族は無常を拒んだ。火山警報を出さなかった気象庁に責任がある、4億円の賠償を払えと訴えた。
 一審は訴えを却下した。世は無常だと。
 この裁判と前後して東電福島の被災住民が『国が原発政策を導入し、加えて大津波を予測したのに東電に防波堤を作れと命じなかった』から一人当たり3,000万円を払えと訴えた。
 最高裁は国が原発導入を決めたことは認め、だから『無答責』と答えた。
 これが世界の通念なのに日本では敗戦利得者の南原繁がGHQに阿って国家賠償法を成立させた。
 それが殺人鬼にも悪用されたが、やっと最高裁が正気付いたことになる。
 何でも国にたかろうとするなというわけだ。
 二点目の防波堤も、仮に予測に従って作ったところで『あの津波は(人知を)遙かに超えた規模で被害は免れなかった』と。
 人間が津波を予測しコントロールできると思うこと自体が尊大だ。いろは歌にある大自然に対する畏敬の念を忘れた思い上がりだと判示した。
 東電福島事故の被害者は確かに耐え難い苦痛を嘗めてきた。だから東電は莫大な賠償を支払い、全国民も所得税の2%増額を負担し、国も特別会計を組んで支援は11年を超えた。
 それでも国民に感謝するでなし、津波まで国の責任と言い張る。
 最高裁の判決からまもなく産経新聞にソウル発の黒田勝弘のコラムが載った。
 『日本では自然災害は天災だが韓国では災難はすべて人災にしたがる』
 だから旱魃を恐れる王様は毎日雨乞いし、今の大統領は船の転覆にも責任を問われる。
 日本人もあちらさんににてきたのかもしらん。」
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🛶19〕─1─北海道大学教員の「アイヌは先住民族ではない」発言が差別として潰される。~No.59No.60No.61 

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 現代のアイヌ民族と古代の蝦夷(えみし)とは違う。
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 2023年1月24日21:03 YAHOO!JAPANニュース HBCニュース北海道「アイヌ民族めぐる不適切な投稿…批判を受けた北海道大学教授「侮辱する意図はなかったが反省している」
 北海道大学の教員が、SNSでアイヌ民族に関する不適切な投稿をしていた問題で、投稿した教員が、HBCの取材に答え、「侮辱する意図はなかったが反省している」と話しました。
 【写真を見る】アイヌ民族めぐる不適切な投稿…批判を受けた北海道大学教授「侮辱する意図はなかったが反省している」
 問題となったのは、去年9月から10月にかけてツイッターへの投稿で、「アイヌ先住民族ではないことは確かです」「まず民族と言えるのかも、徹底的にしらべたい」などと、北海道大学の男性教授の実名のアカウントでつぶやかれました。
 今月11日、ヘイトスピーチに反対する市民団体がこのツイートを見つけました。「アイヌとしての存在、人間としての存在そのものを、抹消する差別的な言説であると私は思う。民族であること、先住民族であることを否定するということが」と、市民団体・クラックノースの青木陽子さんは訴えます。
 2008年、アイヌ民族先住民族とすることを求める決議が国会で採択されました。
 国は、アイヌ民族を日本の先住民族と位置づけています。
 クラックノースの青木陽子さんは「私たちは政府の見解と違うから批判しているわけではく、歴史的事実と違うから批判している。(投稿は)アイヌの人々の、人間としての存在を傷つけ、抹消するという言説だ」と批判します。
 市民団体は、12日に北大に対して指摘を行い、その後、申し入れ書を提出。男性教授にはアイヌ民族への謝罪を求め、北大に対しては大学としての見解と教授の処分について問いました。
 これを受け、20日、北大の寳金清博(ほうきん・きよひろ)学長は、ホームページで次のようなコメントを発表しました。
 (北大のコメント・一部抜粋)
 「本学教員がSNSにおいて、本学とは関係のない個人的な見解としながらも、先住民族であるアイヌ民族をはじめとする民族的マイノリティに関する不適切な発言や、排外主義的な発言を繰り返していたことを把握いたしました」
 北大は、発言は「不適切」で「誠に遺憾」だとして、男性教授に多様性を受け入れることへの理解や社会的責任を自覚するよう指導したということです。
 男性教授は、ツイッターのアカウントを削除しました。
 HBCは、24日、投稿した男性教授を直接取材しました。男性教授は「いろいろな本を読むなどした中で、自分なりに理解したことだった。ヘイトや、侮辱する意図はなかったが、反省はしている」と話しました。
 アイヌ民族の権利回復に取り組む「コタンの会」代表の清水裕二(しみず・ゆうじ)さんは、「北海道の歴史を考えもしないで大学教授になっていることは驚きだ」と述べました。
 清水さんは、自身も、学校や職場で差別を受けた経験についても語ります。
 「小学生の頃、友達としゃべっていて、『あ、犬がきた』と言われた、後ろを振り向いたが犬は見えない、友達は笑いながら遠くへ行った。家に帰っておふくろに話したら、おふくろは気を狂ったようにして怒った。おふくろの言葉を今でも思い出す、泣けてくるよ。先住民族としてのアイヌがいた、そこに、君たちの何世代か前の連中が入ってきて勝手にアイヌを追い出したのが実態だろう、以後、アイヌは悲惨な歴史を踏まえてきているんだよ、その状況を理解も考えもしない」「私は、すべての北海道民に、自ら北海道に住んでいるということを自覚するのであれば、北海道の歴史、先住民族アイヌがどんなつらい思いをしていたか考えてほしい」
 ツイートを指摘した市民団体、クラックノースは、男性教授への申し入れ書の中で、ツイッターアカウント上でアイヌ民族に真摯に謝罪するよう求めています。
 クラックノース青木陽子さん「個人として、しっかり責任をとったうえで、再発防止の仕組みを作ることが大切だと思う」と訴えます。
 北大は、教授への処分について「今後適切に判断する」としています。」
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 アイヌ民族は、旧石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)にシベリア・沿海州樺太北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島などオホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化人が南下してきて、混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
 アイヌ人は住んでいる島・地域によって幾つかに枝分かれして、それぞれ他の人種・民族と乱婚を繰り返し混血度を濃くして独自の微妙に違う生活スタイルで生きてきた。
 蝦夷地・北方領土アイヌ樺太アイヌ、千島列島アイヌカムチャツカ半島アイヌ、その他。
 アイヌ民族アイヌ人は、中国人・黄河系漢族、朝鮮人、ロシア人とは血のつながりが薄い無縁に近い人々である。
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 アイヌ民族が、北海道(エゾ)に住んでいた先住民であるのなら、日本民族は日本土人として日本列島に住んでいた先住民であり、琉球民族琉球群島に住んでいた先住民でる。
 そして、アイヌ民族日本民族琉球民族は、数万年前に絶海の孤島に流れ着き住み着いた南方系海の民・旧石器人(ヤポネシア人)の子孫であり、森の民・縄文人の子孫である。
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 マイノリティ・ファシズムは、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズムから教育現場での言語弾圧・思想弾圧として研究の自由や表現の自由を潰している。
 マイノリティ・ファシズムが主張する科学とは、薄っぺらなエセ科学エビデンスなどない。
 マイノリティ・ファシズムは、日本を動かしている超エリート層である高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達に広がっている。
 マルキシズム信奉者である彼らには観念主義者・教条主義者として、民族的な歴史力・伝統力・文化力・歴史力そして宗教力・神話力などない。
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 人類の誕生と大移動は運命である。
 日本人の祖先はアフリカのサルであるは宿命である。
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 約258万年前から約1万1700年前 更新世新生代第四紀の前半。
 600万年前~700万年前 人類(ヒト属)の祖先はチンパンジーボノボの祖先である類人猿から別れて進化していき、幾つかの人類種が枝分かれするが一つの系統を残して全て絶滅した。
 100万前 ホモ・エレクトスが陸伝いに日本列島に歩いてきて住み着いた。
 10万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカで誕生し、世界中に移住していった。
 3万5000年から3万年前以後 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)=旧石器人(ヤポネシア人)は日本列島にたどり着き、上陸した、漂着した、流れ着いた。
 縄文時代 1万2000年~2000年前。縄文人(日本土人)。
 数千年前 揚子江流域民である弥生系渡来人が山東半島から朝鮮半島を経由し、続いて中国旧満州地方に住んでいた古墳系帰化人が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してきた。
 この時点では、まだ日本民族(和人)・琉球民族アイヌ民族は生まれていない。
   ・   ・   ・   
 日本土人である縄文人(日本土人)は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部太平洋沿岸まで、西は朝鮮半島南部、日本海縄文人の海)を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
 縄文人は、手漕ぎ丸木舟で北米大陸の太平洋沿岸まで移動していた。
 中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と偏見を持って軽蔑し差別していた。
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 日本文明は、揚子江流域(江南地域)にあった漁労農耕の温和で平和志向の長江文明の後継文明であって、黄河流域で軍事優先で栄えたの領土拡大・侵略志向の好戦的黄河文明の亜流文明ではなかった。
 朝鮮文化は、黄河文明の亜流であった。
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 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
 数万年続いた日本列島の旧石器時代縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
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 日本民族琉球民族アイヌ民族は、旧石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
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 日本民族は、旧石器人(南方東南アジア系ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(南方揚子江系渡来人)、古墳人(北方満州帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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 琉球民族は、旧石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)に揚子江流域・東南アジアから渡って来た人々と混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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 多種多様な人種、民族との乱婚による混血度・雑種性が、最も濃密なのが日本民族で、次ぎに濃いのが琉球民族で、最も薄いのがアイヌ民族である。
 同一の縄文人から分かれた日本民族琉球民族アイヌ民族の違いは、この「乱婚による混血度・雑種性」の濃度にある。
 例えるなら真珠で、アコヤ貝の体内に取り込まれた砂粒などの異物(日本列島の土人である縄文人)に貝が分泌する独自の炭酸カルシウムでホワイトオパールにも、ブラックオパールにも、偏光色オパールにもなる。
 さしずめ、日本民族は偏光色オパールであり、ホワイトオパール琉球民族であり、ブラックオパールアイヌ民族である。
 そこには、漢族中国人や半島系朝鮮人は含まれていない。
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🎌15〕─1─閉ざされた皇室は外国人天皇・一般人天皇・無民族神話天皇を排除してきた。~No.106No.107No.108 

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 2023年1月16日 YAHOO!JAPANニュース 週刊SPA!「皇室を皇室たらしめる「越えてはならない一線」/倉山満
 (日刊SPA!
―[言論ストロングスタイル]―
 日本が滅びないために守るべき価値とは……
 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 さて、’23年は何月から景気が悪くなるかの議論はあっても、景気が良くなるとの見立てが無い。私も微力を尽くしたつもりだが……。しかし、それで国が滅びる訳でも、国民が死に絶える訳でもない。守るべきを守れば、何度でもやり直せる。日本が滅びなければ、どんなに苦しくとも、なんとでもなる。日本人は敗戦からでも立ち直ったのだから。
 では、守るべき価値とは何か。
 皇室である。皇室が続いているとは、日本が続いていることである。では、名前が「天皇」「皇室」であれば、なんでもいいのか。
 皇室を皇室たらしめる越えてはならない一線
 たとえば、「外国人天皇制」でも、天皇が残れば良いのか。ロシアはかの国の皇室と何の血縁も無い女帝を立てたことがある。エカテリーナだ。今のスウェーデン王室は、ナポレオンの部下の将軍の子孫であり、グスタフ・アドルフやカール10世とは何の関係もない。真似をするか?
 あるいは、「選挙天皇制」をやるか。天皇を国民の人気投票で選ぶ。それは名前が天皇でも、中身は大統領だ。それとも「公募天皇制」でも良いか。などなど、皇室には越えてはならない一線がある。
 では、皇室を皇室たらしめるのは、何か。
 皇室の本質とは「三種の神器」でも「祈り」でもない
 良く言われるのが、「三種の神器」である。「玉体よりも三種の神器の方が大事だ」と言う人もいる。しかし、三種の神器を欠いた天皇は何人もいる。そもそも、その一つの草薙剣源平合戦の際に壇ノ浦に沈んだ。
 天皇の本質は「祈り」にあるとする論者もいる。しかし、祈っていない天皇は何人もいる。幼帝は祈れないし、数え歳2歳で即位された第79代六条天皇などは、大嘗祭で泣き出してしまったほどだ。幼帝は歴代で34人。その内4人は、幼い内に践祚(せんそ)し、幼い内に退位されている。明らかに祈っていない。また、祈りたくても儀式が途絶えて祈れなかった天皇も何人もいる。
 三種の神器も祈りも大事だが、絶対ではない。第102代後花園天皇は9歳で即位された幼帝であり、在位中に三種の神器を盗まれている。しかし、学識に優れ信望厚く、応仁の乱に至る室町の大動乱の中で民との絆を繫ぎ、その正統性を疑う者など誰もいなかった。
皇室の伝統とは皇位の男系継承である
 だからと言って、歴代天皇の全員が人格者で能力に優れているから、天皇を守るにふさわしい訳でもない。その逆の天皇も何人もいた。
 一時は、「天皇」号の伝統すら失われた。平安後期から中世・近世の天皇は「〇〇院」と呼ばれていた。「白河院」「鳥羽院」のように。天皇号を復活させたのは、江戸後期の第119代光格天皇である。「天皇」の名前すら絶対ではない。そもそも、古代の天皇が「〇〇天皇」と呼ばれていたはずがない。
 変わらず続いている伝統こそ、皇室の本質である。では、一度の例外が無く続いている伝統とは何か。皇位の男系継承である。
 皇位の男系継承とは、一般人の男を皇族にしないこと
「男系継承など、そんな言葉があったのか」という批判もあるが、ならば「女系」などという言葉もない。「女系天皇」「女系容認」という言葉が出て、仮に皇室の伝統を示す言葉として「男系」という言葉が出てきただけである。
 皇位の男系継承とは、一般人の男を皇族にしないことである。歴代天皇は父親の父親……をたどれば、必ず神武天皇に至る。皇族は神様の子孫なのだ。
 ちなみにその神武天皇の祖母である皇祖神アマテラスは女性ではないかと言う人があり、女系継承が日本の伝統だとする論に使われる。しかし、神話によれば神武天皇の父はアメノオシホミミ、祖父はスサノオ。男系継承されている。アマテラスとスサノオ姉弟婚で、父母はイザナギイザナミ。そもそも、神話を理由に人間界で続いてきた伝統を変えるのもいかがな姿勢かと思うが。
 皇室の尊さを語るのに「Y」も「染色体」も「遺伝子」も不要だ
 一般人を皇室に入れない伝統を守るべしとする男系継承論者にも、先例を乗り越えて女系継承容認に踏み込むべきだとする女系論者、双方に愚か者も利口もいる。
 私は男系継承論者だが、「三種の神器が大事なので天皇個人はないがしろにして良い」「天皇など黙って祈っていろ」と暴言を吐く人々には辟易している。頭を抱えるのは、「歴代天皇神武天皇Y染色体遺伝子を受け継いでいるから尊いのだ」などと言い出す人々だ。女帝にY染色体遺伝子があるのか。皇室の尊さを語るのに「Y」も「染色体」も「遺伝子」も不要だ。
 私は、皇室の尊さは、ご存在そのものだと考える。絶対子供が生まれる技術がある訳でもないのに、その時代ごとに皇室を守りたい人々の意思が勝ち、続いてきた。そうした中で、幾多の風雪に耐えて、変わらぬ姿を続けてきた。
あらゆる権力者が乗り越えられなかった皇室の掟
 皇室における掟は先例である。先例の積み重ねが伝統である。あらゆる権力者が乗り越えられなかった掟が、皇位の男系継承だ。どの先例に従うかを議論すべきだ。
 皇室の長い歴史において、皇室に入り込もうとした一般人が二人いる。
 一人は、奈良時代弓削道鏡。第48代称徳天皇に取り入り、宇佐八幡宮から「次の天皇道鏡にせよ」との神託を得る。しかし和気清麻呂が神託を改めて確認すると「我が国は君臣の別がある」との正しいお告げが下った。単純な手口は、あっさり破られた。
 30年かけて近づいていった足利義満でさえも……
 もう一人は、室町幕府三代将軍足利義満。義満は皇室の先例を熟知し、徹底的に隙を突いた。皇室における先例は杓子定規に再現するのではなく、大枠を守りつつ「准じる」形で時代に合わせていく。義満も大枠では先例を守りつつ、徐々に皇室に入り込むべく30年かけて近づいていった。自らが法皇のように振舞い、妻を准母に立て、息子を親王の儀式で元服させ、あと一方で息子を天皇の位に就ける寸前まで迫ったところで、急死した。義満の手口は巧妙で、妻を准母に立てる際、二つの先例を立てて「不吉だ」と言い切った。本当は不吉でもなんでもない先例がもう一つあったのに。
 女系論にも、道鏡的手口と、義満的な手口がある。道鏡的な女系論とは、「男女平等だから女系にしよう」「外国が女系天皇だから世界の潮流に合わせよう」式の単細胞な主張だ。「関係ない」「お前が合わせろ」で終わりである。一方、女系論の中にも博識な論者が少なくない。
 先例を熟知して蹂躙する手口、機会があれば公開しよう。
―[言論ストロングスタイル]―
 【倉山 満】
 ’73年、香川県生まれ。憲政史研究者。救国シンクタンク理事長兼所長。中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中より国士舘大学日本政教研究所非常勤職員を務め、’15年まで日本国憲法を教える。ネット放送局「チャンネルくらら」などを主宰し、「倉山塾」では塾長として、大日本帝国憲法や日本近現代史、政治外交についてなど幅広く学びの場を提供している。主著にベストセラーになった『嘘だらけシリーズ』や、『13歳からの「くにまもり」』を代表とする保守五部作(すべて扶桑社刊)などがある。『沈鬱の平成政治史』が発売中
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🎍37〕─1─日本密教は政治権力と結びついて国家宗教となった。〜No.117No.118 

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 日本は、仏教立国であった。
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 2022年12月13日 YAHOO!JAPANニュース「シリーズ「日本の仏教」
 第3回:国家運営の任務を帯びた日本の初期仏教
 佐々木 閑 【Profile】
 6世紀、日本は国家プロジェクトとして仏教を導入することにした。しかしその達成には、大きな困難が立ちはだかっていた。シリーズ「日本の仏教」の第3回では、中国仏教がどのような形で日本に取り入れられたのかを解説する。
 仏教は中国文化圏メンバーの証し
 6世紀、日本はすでに1つの国家としての自覚を持ち始めるようになっていた。中央政府内では、国家運営に関して、中国文化圏の一員となって生きていくのか、それとも外国からの影響を排除して日本独自のやり方で運営していくのかで争い、武力衝突が起きていた。この政争は前者が勝利を収め、以後、積極的に中国文化を取り入れ、中国に倣った国家運営を行っていくことになる。
 その際、日本が中国文化圏に加わることを外交的に示すための手段として着目されたのが仏教である。中国と同じ仏教国になることで、日本は中国文化圏の正当なるメンバーだと示すことができると国家の要人たちは考えた。そこで、国家プロジェクトとして仏教を導入することにしたのである。
 ここで、当時の中国における仏教の状況を説明しておく。1、2世紀以来、さまざまな仏教の教義がシルクロードを通って中国に入ってきており、それらのうちのどの教義を「真のブッダの教え」として選択するかによって、大乗仏教系の多種多様な宗派が生まれていた。そして6世紀頃になると、そういった異なる複数の教えを連結して1つにまとめる動きが顕著になってくる。それぞれの仏教の教義を全て受け入れながら、それらの教えに説かれた論理を整理して、広大な仏教世界を総括的に理解しようとしたのである。その代表が大乗仏教の宗派の一つ「天台宗」だった。この教えは最澄(767〜822)によって9世紀に日本に伝えられ、日本仏教のさまざまな宗派を生み出すことになるのだが、その話は別の機会に解説する。
 日本が仏教導入を決定した時点で、中国生まれの新式仏教である「禅宗」はまだ目立った活動をしておらず、また、インドにおける仏教の最終形態である「密教」も本格的には中国に伝わっていなかった。禅や密教が中国で隆盛を誇るのはもう少し後のことであり、その後の日本仏教の流れに重大な影響を与えるのだが、そのことも後の回で述べる。
 困難を極めたサンガの輸入
 前述したように、6世紀、日本は国家プロジェクトとして仏教を導入することにした。では、「国家が正式に仏教を導入する」とは一体何を意味するのか。仏教は「仏法僧(ぶっぽうそう)」と呼ばれる3つの要素で構成されるのが伝統的な定則である。「仏」はブッダ、「法」はブッダの教えであるダルマ(法)、「僧」はブッダの教えに従って暮らす僧侶の組織であるサンガ。日本が仏教を導入するというのは、これら3要素を大陸から日本へ輸入することを意味する。全てが日本に入った時、日本は仏教国になったと見なされるのである。
 最初の2つ、ブッダ(仏)と、ブッダの教え(法)の輸入は簡単である。仏は仏像であり、法は経典であるから、それらを船に乗せて日本に運んでくればそれで完了である。しかし3番目のサンガの輸入は困難を極めた。サンガとは僧侶たちが作る組織である。「日本にサンガを輸入する」とは、大陸から多くの僧侶を船で日本に連れてくることを意味するからだ。
 釈迦牟尼(しゃかむに)が制定した戒律を収めた「律蔵」の規則によれば、サンガを形成するための最低人数は4人と決められている。男性4人以上で男性サンガ、女性4人以上で女性サンガとなる。しかし別の規則によって、「一般人が出家して僧侶となるためには、10人以上の僧侶の許可が必要」とされている。そのため日本でサンガを永続的に維持していくためには、律蔵に通じた10人以上の僧侶を極めて危険な船旅によって大陸から連れてこなければならない。日本が正式な仏教国にはなるための、大変に困難な課題であった。
 鑑真と弟子の到着で正式な仏教国に
 日本への仏教の導入に力を尽くした人物は聖徳太子(574〜662)であるが、彼の時代にはまだサンガを輸入することはできなかった。輸入できたのは仏像と経典だけであった。その後、日本各地に多くの寺院が建立され、国家安泰のためのさまざまな仏教儀礼も執り行われたが、正式なサンガはその後も長く導入されないままであった。この最後の難問が解決し、日本が正式な仏教国になったのは754年である。
 当時、中国において名声高かった鑑真(688〜763)が日本からの要請に応え、布教の志に燃え、日本へ渡る決心をした。戒律の研究と実践を行う「律宗」の専門家であると同時に、さまざまな仏教思想を会得した高僧でもあった彼には大勢の弟子がいたので、10人以上の僧侶を連れてくることも十分可能であった。しかし不運なことに鑑真と弟子たちの渡航計画は、難破などの災難に何度も見舞われ、5回目の試みでようやく日本に到着することができた。その時には彼は盲目となっていた。
 奈良にあった大和朝廷は、鑑真一行を国賓(こくひん)として迎えた。そして鑑真ら10人を越える僧侶たちが儀式の取り仕切り役となって、次々と日本人を仏教の僧侶にしていった。日本に正式なサンガが誕生した瞬間であり、日本が正式な仏教国になった瞬間でもあった。
 国家宗教としてスタート
 しかしこの後に続く朝廷の態度は、必ずしも鑑真の意向に沿うものではなかった。日本側が望んでいたのは、正式な仏教国になるための要件としてのサンガの輸入であり、その最初の出発点となる10人以上の僧侶の来日であった。この要件をクリアして正式な僧侶を自家生産できるようになれば、あとは仏教を国家運営の手段として利用するのが彼らの意向だったのである。
 そのため、当然ながら、仏教導入以前から日本で広く信仰されていた神々はそのまま信仰の対象として容認され、仏教に取って代わられることはなかった。日本古来の神々と、新たに大陸から入ってきた仏が共に信仰の対象として受容されたことで、やがて両者は融合した。その結果、「同じ超越的存在が異なる姿でこの世に現れている」といった日本独自の宗教観を生み出すこととなった。この「神仏習合」という宗教観は現在の日本社会においても根強く残っている。神道と仏教の双方を、違和感なく受け入れる感覚である。
 鑑真は、自分たちが礎となって日本全土に仏教が広がることを期待して来日した。しかし朝廷が望んでいたのは、国家の運営に役立つ、権力機構の一翼を担う仏教であった。こうした使命を帯びた僧侶は、国家の安泰を祈願する公式呪術師であり、大陸との文化交流を担う外交官でもあった。
 国家公務員にも似た立場の僧侶が、自分たちだけでサンガをつくり、律蔵に基づく自治組織を持つことなど許されるはずがない。つまり釈迦牟尼の説いた、「サンガの中で修行生活を送ることによって自己を変革する」という理念は全く理解されなかった。さらに僧侶の側に新たな僧侶を認定する権利はなく、その認定権は国家が持っていた。僧侶の日常は、律蔵ではなく、国家の法律によって規制されたのである。奈良に根を下ろした日本最初の仏教は、国家によって運営される、国家のための宗教であった。ここが日本仏教の出発点である。次回はこうした日本仏教がどのように変容していくのかを見ていく。
 バナー画像=中国江蘇省揚州市の大明寺(だいめいじ)鑑真記念堂に安置された鑑真像。記念堂は鑑真逝去1200年を記念して、日本の唐招提寺金堂を参照して設計された(PIXTA)」
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 2023年1月18日 シリーズ「日本の仏教」 第4回:権力と結びついた日本の密教
 佐々木 閑
 8世紀末から9世紀初頭、中国から日本に密教がもたらされた。それ以降、天台宗真言宗の二大密教が貴族社会の権力構造の下で対立しながら併存していくことになる。第4回は、日本の密教について解説する。
 仏教全体を統合する思想体系の欠如
 四国霊場71番札所「弥谷寺(いやだにじ)」の空海像(PIXTA
 8世紀中頃(奈良時代)、日本は仏像、経典、修行のための組織であるサンガという三要素、すなわち仏法僧(ぶっぽうそう)を形式上導入することに成功し、正式な仏教国になった。しかしそれは、釈迦牟尼(しゃかむに)が創成した本来の仏教が日本に取り入れられたという意味ではない。大乗仏教で生み出された多くのブッダたちは、日本の在来の神々と同じような神秘的呪力(じゅりょく)を持った崇拝の対象であり、僧侶はそういったブッダたちの威力を引き出すための呪術儀礼執行者として重んじられていたのである。そこには、自己の煩悩を断ちきるために、サンガの中で修行に励む本来の僧侶の姿は見られない。
 奈良の朝廷は、国家鎮護に効力を発揮する、仏教の呪術的な力を広く世にアピールするために、学問の場を設け、僧侶たちに仏教を学ばせた。そこでは、さまざまな仏教哲学や戒律などが6分野の宗派に分けてそれぞれ個別に教授され、それらの難解な教義を学ぶことが、僧侶としての特殊能力を保持する証しになると考えられたのである。6分野とは三論(さんろん)、成実(じょうじつ)、法相(ほっそう)、倶舎(くしゃ)、華厳(けごん)、律であり,後にこれらは「南都六宗」と総称されるようになった。
 しかしそれらはあくまで国家が認定する資格取得カリキュラムのようなものであって,仏教全体を包括的に理解できるような総合的教育システムではなかった。この時期日本には,仏教全体を俯瞰(ふかん)し,その全体を一挙に把握できるような思想体系は存在していなかったのである。
 法華経(ほけきょう)を頂点にあらゆる経典を階層化
 このような状況が続く中、8世紀末から9世紀初頭、日本の首都が奈良から京都へと移ったちょうどその時期、仏教の核心を表す(と当時受け取られた)2種類の仏教思想が同時に中国から日本にもたらされた。1つは最澄(767~822)が持ち帰った天台宗の教え、もう1つは空海(774~835)が持ち帰った真言宗の教えである。この2種類の教えが、その後の日本仏教の基盤となる。
 天台宗は中国で生まれた、当時最先端の宗派である。紀元後1世紀以来、インドから次々と中国にもたらされた多種多様な仏教思想を全て受け入れながら、それらの間に複雑な論理的関係性を設定して、広大な仏教世界を一括して理解しようとする宗派である。もちろんそういった多様な仏教思想は本来、インドで異なる時代に異なる人々が個別に生み出してきたものであるから、1つに統括すべきものではない。しかし天台宗はそれらを、さまざまな理論を駆使して1つにまとめようとするのである。そしてその頂点に『法華経』を置く。すなわち天台宗は、『法華経』を最上位に置き、あらゆる経典を階層的に位置づける作業によって生み出された中国独自の宗派なのである。
 最澄によってこの宗派が本格的に紹介されると、日本の仏教界はこれを大いに歓迎した。今まで断片的にしか見えていなかった仏教が、1つの体系として理解できるようになったからである。
 最高位の思想としての魅力
 ところがその直後、空海によって真言宗の教えがもたらされた。これは天台宗のような異なる教えの集積ではなく、インドにおける仏教の変遷過程の最終段階として現れた、「密教」と呼ばれる単一の教えであった。「先に存在している思想を踏まえた上で、それを包含する、より上位の思想を案出する」という活動の繰り返しによって発展してきた仏教史の、最終段階として生み出された密教は、それまでのあらゆる仏教思想の頂点に立つべき、最高位の神秘力を持つ仏教だという自負を持っていた。
 外部に救済者のいないこの世界で、自己の努力によって自己改革を目指した釈迦の教えは、その後の大乗仏教において次第に神秘性を帯びるようになり、最終段階の密教において、「宇宙的エネルギーとのつながりを自覚し、それと一体化することで仏陀になる」という、ほぼヒンズー教の教えと変わらないところにまで変貌したのである。この密教の奥義は、特定の限られた人にだけ伝授される神秘主義的な教えであり、宇宙エネルギーとの一体化の体験も、言葉で広く伝えることはできないとされた。
 空海はそうした密教を、確固とした一つの体系として丸ごと日本に持ち帰ってきた。仏教を神秘的な呪術宗教として取り入れていた日本の仏教界にとって、空海密教は最も深淵(しんえん)で効力のあるものであり、さまざまな教えを理論的につないで一体化して見せる天台宗よりも、強固で、揺るぎないものに見えた。最澄の弟子たちもそのことは十分理解していたので、自分たち天台宗の教義にも、最新の密教の教えを上乗せして、全体を密教的な色合いで覆っていったのである。
 こうして日本には、異なる教えの集合体を密教的感覚で薄く覆った天台宗と、仏教史の最終段階としての密教をそのまま単一で伝える真言宗の、2つの異なる密教が並び立つことになったのである。
 天台宗
 宗祖 最澄
 総本山 比叡山延暦寺京都市滋賀県大津市
 教え 法華経を最高位に置き、あらゆる経典を階層的に位置づける
 真言宗
 宗祖 空海
 総本山 高野山金剛峯寺和歌山県
 教え 仏教の変遷過程の最終段階。宇宙的エネルギーとのつながりを自覚
 崇高な少数と一般大衆の二極構造
 ここで注意しておかねばならないのは、この時代の日本人に「仏教思想は時代とともに変容してきた」という認識はなかったという点である。中国から伝えられる仏教経典は全てブッダの言葉であるから、その全てが正統なる仏教の教えであることは間違いないのだが、しかしそこには深浅の違いがあると日本人は考えた。「どれもブッダの言葉ではあるが、その中で本当にブッダがわれわれに言いたかったのはどれか」との問いに対して、天台宗は(密教的に解釈した)『法華経』であると言い、真言宗は『大日経』や『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』などの密教経典そのものであると言ったのである。「長い仏教史の最終段階で現れた、最も新しい思想が密教だ」などという歴史的視点がなかったことはくれぐれも留意しておく必要がある。
 密教が持つ特徴の一つは「権威重視の傾向」である。誰もが根源的宇宙エネルギーとの一体化によってブッダになることができるとは言っても、その「根源的宇宙エネルギーとの一体化」は、特殊な資質を持つ者や、人並み外れた修行を積んだ者だけに許される特別な活動であった。それゆえ一般民衆は、その特別な人たちにお願いして、現世的な利益(りやく)を与えてもらわねばならない。密教によれば、この世には「生き仏」とも言うべき崇高な少数の人たち=宇宙エネルギーとの一体化を果たした修行者と、その崇高な人たちにお願いして幸福を与えてもらう一般民衆の2種類の人間がいるという、階層構造の上に成り立っているのである。この独特の構造は、宗教的身分制(カースト制)を認めるヒンズー教の影響を受けて成立したことからすると当然のことである。
 その後に多様化する日本の仏教宗派も、皆多かれ少なかれ、密教の持つこうした特殊な様相の影響を受けていく。そのためどの宗派も、「特別な資質、資格を持つ人(あるいはそういう人たちの系譜)」と、「そういった人たちからの利益を期待して信奉する一般人」といった構造を含むようになった。第2次世界大戦中、日本の仏教諸派がこぞって天皇ブッダと同等の権威を認め、戦争遂行に協力した事実は、そういった仏教観が表現された典型的な例である。
 貴族社会を支えた二大密教
 8世紀以降、日本の仏教界は、天台宗真言宗の2派を中心にして動いていく。どちらも権威性を重んじるという特性を持っていたので、当然ながら天皇を中心とした国家権力とのつながりに重点を置いた。言ってみれば、天台宗真言宗が、天皇を引き込むための綱引きを続けたのである。その際,旧来の奈良仏教の多くは,京都に拠点を置く天台宗が奈良の仏教を軽視したことに反発して、真言宗側についた。
 こうして日本の仏教は、天台宗真言宗の二大密教が、天皇を中心とした貴族制社会の権力構造の下で対立しながら併存する状況になった。この段階の仏教の要点は以下のとおり。
 1.律蔵にもとづいて運営されるサンガは存在せず、僧侶の生活を厳密に規定する規則は存在しなかった。これは現代に至るまで続いている特性である。
 2.思想的には大乗仏教を継承しているが、特別な資質、資格を持つ人(あるいはそういう人たちの系譜)と、そうでない一般人との間に差別を認める、密教の構造が基本となっていた。
 3.権力との結びつきを志向した。
 300年間はこうした状況が続くが、その後、権力基盤が貴族から武士、あるいは一般民衆へと移り変わるのにつれて、この構造も次第に変化し、多様な仏教世界が生み出されていくことになる。それは次回以降に述べることにする。
 【Profile】
 佐々木 閑
 花園大学文学部特任教授。1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科・文学部哲学科を卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。カリフォルニア大学留学を経て花園大学教授に。定年退職後、現職。専門はインド仏教学。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版、1999年)、『インド仏教変移論』(同、2000年)、『犀の角たち』(同、2006年)、『般若心経』(NHK出版、2014年)、『大乗仏教』(同、2019年)、『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人、2021年)など。YouTubeチャンネルShizuka Sasakiで仏教解説の動画を配信中。
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👪37〕─1─スマホ脳。使い過ぎで学力が破壊され脳を壊す危険性。~No.108 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2021年1月19日 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「見直したい「スマホの使い方」 ジョブズが子どもにデジタル機器を与えないのはなぜ?
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 『スマホ脳 (新潮新書)』アンデシュ・ハンセン,久山 葉子 新潮社
 スマホは平均で1日4時間、若者の2割は7時間も使っているそうです。「スマホがないと生活が崩壊してしまう!」と思う人がいる一方で、スマホがもたらす影響を不安視している人も。子どもがいる場合は「幼いころからスマホを使わせて問題ないのだろうか?」と危惧する人もいるかもしれません。
 スティーブ・ジョブズをはじめとするIT企業のトップたちは、自分の子どもにデジタルデバイスを与えていないといいます。それはなぜなのでしょうか。
 そんな疑問に答えてくれるのが、本書『スマホ脳』です。著者のアンデシュ・ハンセン氏は、今スウェーデンでもっとも注目されているというメンタルヘルスインフルエンサーノーベル生理学・医学賞の選考委員会もある名門カロリンスカ研究所医科大学)で医学を学んだのち、現在は王家が名誉院長を務めるストックホルムの病院に精神科医として勤務しているそうです。そのかたわらで執筆活動もおこなっており、2018年に刊行された『一流の頭脳』(サンマーク出版)は世界的なベストセラーになりました。
 そんな氏の新刊となる本書は、スマホが心の健康にどのような影響を及ぼすのかを最新研究をもとに明らかにした一冊。2019年に刊行されるや、教育大国スウェーデンを震撼させるほどの社会現象になったといいます。
 ハンセン氏が本書で最初にハッキリと述べているのが、「人間の脳はデジタル社会に適応していない」ということです。人間は地球上に現れてからほとんどの時間を狩猟と採集に費やして暮らしており、今でも当時の生活様式に最適化されているため、現在の世界は私たちにとって非常に異質なものだといいます。そしてそのミスマッチが、うつ、睡眠障害、記憶力や集中力、学力の低下といったさまざまな症状を引き起こしているというのです。
 たとえば、スマホブルーライトにはメラトニンの分泌を抑える効果があり、私たちの睡眠時間を狂わせてしまったり、SNSで皆がどれほど幸せかという情報を大量に浴びると、心の平安やバランス、精神力などを司るセロトニンが影響を受けてしまい精神状態が悪くなったりといったことがあるのだとか。
 子どもについてはどうでしょうか。衝動に歯止めをかける前頭葉が発達していない子どもは、スマホを手に取りたいという欲求が我慢できず、デジタル機器がどんどんと魅惑的なものになってしまうそうです。米国小児科学会では、1歳半未満の子どもはタブレット端末やスマホ使用を制限すべきだとの警告を出しているほど。
 しかし、だからといって今さら原始人のような生活に戻ることはできません。では、スマホが引き起こすストレスと私たちはどう付き合っていけばよいのでしょうか?
 ハンセン氏が勧めているのが「身体を動かすこと」。集中力が高まり、ストレスへの耐性がつき、記憶も強化されるといいます。このほか、最終章で掲げられている「デジタル時代のアドバイス」は必見。「自分のスマホ利用時間を知ろう」「寝る直前に仕事のメールを開かない」「SNSは交流の道具と考えて」など、「スマホ脳」に陥らないための重要な提言が書かれています。
 リモートワークが増えたり、家にこもる日が続いたりして、スマホやパソコンなどのデジタルツールに触れる時間が増えた人も多いことでしょう。この機会に、本書を通してスマホとの付き合い方を今一度見直してみるのも良いかもしれません。
[文・鷺ノ宮やよい]
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 2023年 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「【スマホはどこまで脳を壊すか】使い過ぎで学力が「破壊」される驚愕の事実〈dot.〉
 東北大学加齢医学研究所の調査では、スマホで調べ物をしているときは、何もしていないときの脳活動とほとんど変わらないこともわかっている。スマホで調べたことはすぐに忘れてしまうと実感する人も多いのでは。榊先生は「脳がはたらいていないのですから、覚えていなく...
 まとまった休みができると、スマホタブレットを手にSNS、オンラインゲーム、ドラマや映画の視聴などをしているうちに何時間も経っていたという経験は、誰にでもあるはず。近年、急速に普及したインターネットを使用したこれらの習慣は、私たちの脳に悪影響を与えると指摘され始めている。「脳トレ」でおなじみの川島隆太先生率いる東北大学加齢医学研究所は、長期にわたる調査結果からその悪影響について警鐘を鳴らしてきた。同研究所助教の榊浩平先生に、海外での研究もまじえてその深刻な影響について聞いた。(2023年2月13日刊行予定『スマホはどこまで脳を壊すか』から一部抜粋・再編集)
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■「インターネット依存」とアルコール依存の類似性
 まずは、海外で行なわれた調査の結果をいくつかご紹介させていただきます。
 米国では、平均年齢約21歳の大学生1839人を対象に、代表的なSNSの一つであるFacebookの使用と学業成績の関係が調べられました。調査の対象となった学生さんは平均して1日あたり106分、Facebookを使っていました。解析の結果、Facebookをたくさん使用していた学生さんたちほど、学業の成績が低かったことを報告しています。特に、近況のアップデートを投稿したり、メッセージのやり取りをしたりする頻度が高いほど、学業成績への悪影響が見られたようです。
 中国では、平均年齢約28歳のインターネット依存傾向の高い22人の成人を対象に、認知機能の検査が実施されました。この研究の面白いところは、インターネット依存の方と、アルコール依存症の患者さんを比べて論じている点です。
 アルコールの過剰な摂取は、古くから心身の健康に悪影響を与えることがわかっています。一方で、インターネットは普及してから年月がまだ浅いため、過度に長時間使うことがどの程度危険なことなのか、詳しいことはわかっていません。そこで彼らは、既に危険性が明らかとなっているアルコール依存症と、インターネット依存を比較することで、インターネット使用の危険性を明らかにしようと試みたのです。
 解析の結果、アルコールとインターネットどちらにも依存していない健康な人と比較して、インターネット依存傾向の高い人たちは前頭前野の実行機能が低く、衝動性は高いことが報告されています。さらに驚くべきことに、インターネット依存傾向の高い人たちとアルコール依存症の患者さんの間では、成績に差が見られませんでした。
 実行機能は自分で自分をコントロールする能力を支えています。彼らの研究結果から、インターネットへ依存してしまっている人たちは、アルコール依存症の患者さんと同じ程度に、衝動的で自分をコントロールする能力が低いことがわかりました。
スマホ横目に3時間勉強しても成果は30分
 私たち東北大学加齢医学研究所では、子どもたちを対象に脳の発達に対する影響を15年以上にわたって研究してきました。子どもを対象にする理由はいくつかありますが、その一つに、子どもの脳は急激な発達の過程にあるためスマホの影響が表れやすいという点があります。
 東北大学加齢医学研究所は、2010年度より毎年、仙台市教育委員会と共同で全仙台市立小中学生約7万人を対象とした大規模調査(「学習意欲」の科学的研究に関するプロジェクト)を実施しています。本プロジェクトでは、標準学力検査で収集した学力の指標と、同時に実施したアンケート調査で収集した学習・生活習慣に関するデータを用いて、子どもたちの学習意欲や学力と関連する学習・生活習慣を科学的に明らかにすることを目指しています。
 詳しい分析結果は、『スマホはどこまで壊すか』にまとめましたが、スマホの使用時間が長くなるほど、どんどんと学力が低くなっていくことが明らかになっています。また、スマホをいじりながら3時間以上勉強をしたとしても、実質30分勉強した程度の学習効果しか得られないといった、驚くべき結果の数々も出ています。スマホが子どもたちの学力を「破壊」している、そんな恐ろしい現状が浮き彫りになってきたのです。
 ここでご紹介した研究は、子どもたちや10代後半~20代の若者を対象にしたものですが、脳の前頭前野の発達は20歳ごろでピークを迎えるため、30代以降の脳でも同等の影響があるものと危機感をもつ必要があります。
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