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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
平安貴族が好んだ読み物は、中国や朝鮮のような勇ましい政治談義ではなく、女々しいような恋愛であった。
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日本の女流作家
・清少納言…随筆『枕草子』
・紫式部…長編小説『源氏物語』
・和泉式部…日記文学『和泉式部日記』
・菅原孝標の女…日記文学『更級日記』
当時の日本は、中国化を拒否し正統派儒教に毒されていなかった為に、中国や朝鮮に比べて女性はやや自由で読み書きもできた。
キリスト教世界に比べても、待遇は良い方であった。。
正統派儒教は、偏狭的女性蔑視で女性を男の所有物として扱い、妻が死んでも家族の一員とは認めず別姓のまま葬った。
神道価値観と正統派儒教価値観では、女性観は正反対である。
日本文学である和歌や小説の主要テーマは、中国や朝鮮とは異なり男女の恋愛・色恋であった。
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日本の古典文学や古典芸能そして民族宗教は、皇室と共にある。
皇室と切り離したところに、日本文化は存在しない。
皇室を否定したとき、日本文化全てが消滅する。
日本皇室を否定する事は、日本文化を無価値と切り捨て、歴史上から抹消する事である。
日本の民族主義・ナショナリズムの核は、日本皇室である。
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日本では、名も無き、身分卑しい庶民でも和歌を詠んでいた。
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江口晃一(書評『本当はエロかった昔の日本』大塚ひかり)「『枕草子』や『徒然草』を学生時代に教科書でかじり、古典嫌いになった人でも興味が湧く一冊。古典から透けて見えるのは高尚さでも昔の人の気品の高さでもなく、日本人のエロに対する大らかさであるというのが本書の趣旨だ。
『大和物語』や『うつほ物語』をひもとけば、世話女房よりも育児を放棄した、貞節が緩い母が理想として描かれている。日本社会は古来、母から娘へ財産が継承される母系社会で、女性は『より良い男』を惹きつけることが重視されたからだ。『エロい女がエラい』のであり、その究極である貴族の性愛サロンを描いた『源氏物語』は愛欲にまみれ、不倫が日常茶飯事の世界にある。
性愛を重視する日本人像を映し出す一方、エロの弾圧も指摘する。西洋化に突き進んだ明治期や戦時下は古典やエロの規制を免れなかった。現在もエロを取り巻く環境は厳しく、東京五輪を見据えた浄化運動も始まる。古典も対岸の火事でないのだが、『美しい日本』を世界に訴えたいならば、伝統文芸に脈々と伝わるエロのパワーを見直すのも一考では」((2016年2月12日号 サンデー毎日)
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8世紀後半 唐王朝は、安禄山の乱以来、地方勢力の力が強まり、中央の統治能力が弱まった。
9世紀 唐王朝は、凋落一途の帝国の威信を取り戻す為に、厳格な上下秩序を重視する儒教の復興に取り組み、仏の前では皆平等を説く仏教を弾圧した。
これ以降、仏教は儒教社会を破壊する邪悪な宗教とされた。
内向きな仏教徒は、争いを嫌って、弾圧を逃れる様に地方に、山林奥地に逃げた。
外向きな仏教とは、信仰を守る為に、弾圧する権力に対して武器をとって抵抗した。
だが。全体的に見て、中国仏教は衰退して行った。
日本は、一君独裁と王朝交代を正当化する儒教を嫌い、一君万民の平等思想を説く仏教を好んだ。
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唐の海賊は、朝鮮人を捕ら奴隷として売りさばく為に朝鮮半島沿岸を荒らし回っていた。 統一新羅は、中国人海賊を取り締まる為に水軍を強化した。
828年 興徳王は、金祐徴(後の神武王)を侍中に任命し、唐の軍中少将に任用された弓福(張保皐・チョンポゴ)を青海太守に抜擢して兵卒約1万人を与えて派遣した。
金祐徴と張保皐は、国を救うには無能な国王・閔哀王を排除する必要があると密議を重ねた。
張保皐は、鄭年に兵5,000人を預けて都に派遣して、閔哀王を殺害し、その首謀者として王族の金明と金陽に罪な擦り付けて殺した。
都は、殺戮の巷と化した。
金祐徴は、張保皐の軍事力を後ろ盾として国王となった。神武王である。
張保皐は都に呼ばれて宰相となり、鄭年は鎮海太守に抜擢された。
神武王は、張保皐の権勢が増大する事が疎ましくなり、反張保皐派・閻長将軍の讒言を受け入れて誅殺する事を決めた。
張保皐も、神武王の心変わりに対して身の安全に不安を抱き、いっその事、王を殺して自分が国王になるうとして叛乱を計画した。
神武王は、唐の将軍でもある張保皐が唐と組んで新羅王家を滅ぼし、易姓革命を行って新たな国王になる事を恐れた。
朝鮮も、中国も、日本とは違って万世一系ではなく、弱肉強食の非情な世界として、天命を受けた実力者が大虐殺の末に自由に王朝を開いた。
閻長は、王命を受け、謀を以て張保皐を暗殺し、張保皐一派を粛清した。
だが、張保皐の叛乱は冤罪だったとも言われている。
いずれにしても、歴代の朝鮮王朝は日本とは違って陰険な政争が付きものであった。
そして、敗者は例がなくの家族諸共に皆殺しに合うか奴隷身分に落とされた。
日本とは違って、敗者の復権は有り得なかった。
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*日本を朝鮮化しようとした反天皇反日派渡来人の謀略と反乱
824年 第53代淳和天皇は、神代から続く万世一系の男系天皇制度(国體)を守り、外圧・外国勢力の介入による国家崩壊の内戦を回避し、大陸の侵略を防ぐ為に新たな新羅系渡来人の移民を禁止した。
淳和天皇は、朝鮮系渡来人等の内戦を恐れて、勅を出して一回目の鎖国を宣言した。
全ての渡来人が、日本の発展に貢献したわけではない。
842年7月 第54代仁明天皇。承和の変。北家の藤原良房は、藤原氏の天下を確固たるもにする為に有力氏族の排除を画策した。名門の橘逸勢と伴健岑を謀反の罪で捕縛し、拷問にかけ、流罪にした。
橘逸勢は、伊豆への護送中に、無実の罪を着せた藤原氏を恨んで死亡した。
藤原氏は、橘逸勢が怨霊・鬼となって仕返しに来る事を恐れ、祟る神として橘神社に祀った。
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845年 アラブ人イブン・クルダドビーは、「新羅は黄金の国である」と紹介する『王国と道路綜覧』を編纂した。
「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王達が支配している」
日本の朝鮮半島侵攻は、任那の倭人と協力して金と鉄を求めたものである。
古代の歴代王朝は、大軍を渡海する海軍力を認め、倭国を強国と見なし、倭国王に朝鮮半島を統治する将軍職を与えた。
アラビア商人は、中国や日本そして朝鮮を旅しながら商売をしていた。
4月(〜8月) 会昌の廃仏。第15代皇帝武宗は、道教を保護し、教団が肥大化した仏教と長安を中心に信者を増やし始めた「唐代三夷教」(マニ教・ゾロアスター教・ネストリウス派キリスト教)の弾圧を行った。
儒教は、仏教を、天帝の宗教的権威と皇帝の政治的権力を否定する反体制的革命宗教であるとして告発した。
中国において、普遍宗教の仏教は弾圧され、山野に隠れ住んで信仰を守った。
仏教は、時折反乱を起こし、時には王朝を滅ぼしていた。
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831年には、国内の反天皇派半島系渡来人勢力との接触を遮断するべく、新羅商人との私的交易の取り締まり強化を九州の太宰府に厳命した。
自意識過剰な新羅商人は、日本が中国商人との交易を制限もせず維持している事に激怒して、自己防衛的に日本国内の反天皇勢力に急接近した。
日本は、894年の遣唐使廃止まで、「政経分離」の原則(政冷経熱)に従って中国・朝鮮との交易を続けていた。
半島系渡来人は、天皇・日本に強要された「賤なる身分」から解放される為に、
西国では。男系天皇支配を打倒して、日本の実権を手に入れようとの野心を持つ大王家・天皇家より古い筑紫・出雲・吉備・近畿・薩摩・大隅など各地の有力氏族を経済支援した。
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834年 東国に於いて。日本の百姓は、傲慢に日本人を見下し、平気で嘘を付き騙し、当然の権利として人の物を盗み、人を傷つけても反省せず、恥じない新羅人移民に激怒して、新羅人移住部落を襲撃した。
地方に定住した新羅系渡来人達は、自己防衛として武装して朝廷への年貢を強奪し、役所を襲って暴れ回っていた。
日本人百姓は、朝鮮人盗賊団の襲撃に備えて武装し、現代日本人が嫌う日本独自の「ムラ共同体」を形成した。
関東武士団は、武装百姓から起こり、天皇家の血をひく軍事貴族をムラの頭とする事で格式を得た。
武士・サムライは、高句麗の「士武郎(サムラン)」とも新羅の「花郎(ファラン)」とも無縁であり、朝鮮の「サウラビ(戦う男)」とは全く関係ない。
当然。剣道は、日本古来の武道であり、朝鮮とは接点が全くない。
武士道や相撲も、また、朝鮮とは関係ない。
朝鮮を起源とした古典文化伝統は、ほんの極少数であり、大半が日本に誕生したものである。
大和朝廷は、祭祀王・天皇への忠誠を拒否し神国・日本に叛逆する武装した朝鮮系移民集団を討伐する為に、在地の武装集団を動員した。
東国平定戦とは、日本からの独立して朝鮮系王国を樹立しようとする朝鮮系移民との戦いであった。
半島系渡来人は、天皇支配を打倒する為に朝鮮人反乱者を助け、官軍と戦った。
半島系帰化人は、天皇支配を確立する為に官軍に味方して、朝鮮人反乱者と戦った。
日本人は、日本天皇を守ってくれた半島系帰化人には感謝すべきであるが、日本国に反逆し日本天皇を殺そうとした半島系渡来人には感謝する必要はない。
半島系帰化人とは、親日派の百済人、高句麗人、韃靼人たちであった。
半島系渡来人とは、反日派の新羅人や高麗人や朝鮮人たちである。
関東に住み着いた高麗人とは、親日派高句麗人の子孫で、日本天皇に忠誠を誓った関東武士の祖先である。
関東には、親日派半島系帰化人の神社が数多く残り、現在でも信仰の対象となっている。
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836年 日本は、久しぶりに遣唐使を再開するに当たり、新羅に対して遣唐使が難破した際の保護と支援を要請する為に、遣新羅使を送った。
遣新羅使の紀三津は、日本国内での新羅系移民の暴動と対馬・北九州地方への新羅海賊の襲撃に怒りを覚え、新羅は日本に朝貢し人質を差し出していた下位国と見下していた。
新羅国王は、紀三津の尊大さに激怒し、自国民の犯罪行為を謝罪するどころか尊大な書簡を遣新羅使に渡した。
「紀三津の傲慢の罪を許し、新羅の度量の広さを示す」
大和朝廷は、新羅人の犯罪行為を糾弾せず不問に付し、国際信義として礼をもって使者を送ったのに、威圧的な書簡を送り付ける新羅の傲慢を後世に残す為に、『続日本後紀』に手紙の全文を記載した。
日本は、事実をそのまま包み隠さず残す事に腐心した。
朝鮮は、自分に都合の悪い事実を抹消し、自分に都合の良い様に事実を歪曲し改竄し捏造して残した。ゆえに、朝鮮史には真実は限りなく少ない。
遣唐使の一行は約500人で、長安に入京できたのは約40人のみであった。
唐王朝は、遣唐使の2年間の滞在費を負担した。
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842年 文室宮田麻呂は、新羅商人から品物を没収した。
大和の有力貴族は、太宰の地方官吏を通じて新羅と私貿易を行っていた。
かって。張保皐は、唐から新羅に帰国して、中国で新羅人が奴隷として売買されていると報告した。
新羅は、唐における奴隷貿易を破壊すべく、張保皐を将軍に任命して1万人の兵を与えて中国人海賊を討伐させた。
張保皐は、全羅道沿岸を拠点として新羅国王の命令を聞かず半独立政権を樹立し、日本・唐・イスラム商人と交易して勢力を拡大した。
朝廷は、文室宮田麻呂に謀反の疑いがあるとの嘘の告発を信じて処刑した。
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8月15日 大和朝廷は、太宰大弐の藤原衞の「新羅人の入国を今後は一切禁止したい」という上奏文を審議した。
「新羅は以前から日本に朝貢してきたにもか関わらず、旧例に従わず、常に邪な心を抱いて、贈り物を献上せず、貿易にかこつけて我が国の状況を探っている。不慮の事態が発生したら、どの様に凶事を防げば良いのか」
朝廷は、新羅人が帰化を求めて来日しても漂着者として扱い、如何なる理由があろうとも例外なく半島に送り返すと決定した。
「天皇の徳が遠方にまで届き、蛮族が帰化してきた際に、全ての入国を禁止するのは不仁であろう。食糧を与えて送り返すべきであろう。商人が来た場合は、商品の自由交易を許し、取引が終われば即刻、退去させれば良い」(『類緊三代格』)
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843年 前筑前守の反乱。870年 太宰府少弐藤原元利麻呂は、新羅国王と共謀して反乱を起こした。その他。
瀬戸内海では。海上を荒らし回る凶悪な非日本人海賊集団と反天皇勢力を、新羅王国と協力してヒト・モノ・カネの軍事支援をした。反天皇派の海賊は、西日本から朝廷に納める物品を運搬する官船を襲撃して強奪した。
京畿地方では。遅れて渡来した為に、優遇されることなく不遇を強要され、下等と軽蔑する日本人から差別されて不平不満を募らせている最下層の渡来人集団(後の部落民)を煽った。
日本に敵意を持つ貧しい渡来人らは、凶悪な犯罪事件を続発させ、治安を悪化させた。
898年と899年に、大規模な反天皇の武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
京では。天皇の権威を失墜させ朝廷内の不和を増大させる為に、藤原氏やその他の有力氏族に接近して権力闘争を煽った。自分こそ賢く優秀だと思い込んでいる自意識過剰な野心家ほど、洗脳し易く、金・利益で操り易かった。
謀略や陰謀において、物事を単純明快に分析し理解する日本人には、戦略戦術を極め権謀術数に長けた渡来人には歯が立たなかった。
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810年 藤原薬子の変。866年 応天門の変。969年 安和の変。その他。
東国では。今もって朝鮮への帰属意識が強い渡来系騎馬武装集団や、かって天皇軍に滅ぼさせた地元各王朝の残党に、大和への反乱を起こさた。
845年 唐の武宗皇帝は、土着信仰とも言える道教を保護の為に外来宗教の弾圧を行った。
景教は、天帝に基ずく皇帝権威を破壊する邪教とされ弾圧され、中国から消滅した。
中国は、神の国や絶対神の正義といった普遍的価値観を教える宗教を社会の害悪として弾圧した。
847年 天台宗の比叡山延暦寺は、最澄没後、諸祈願に密教を利用する事が流行するや教義に密教を取り入れた。
最澄の弟子である円仁(慈覚大師)は、唐の仏教弾圧を逃れて帰国して比叡山に戻り密教を始めた。台密の始まりである。
後の和食の食材となる野菜や調味料は、日本人や外国人の仏教僧らによって唐から日本にもたらされた。
858年 円珍は、密教を学んで帰国し、859年に琵琶湖の東岸にある三井寺(円城寺園城寺)を再建して延暦寺の別院とした。
延暦寺の学僧や大衆は、円仁の教えを支持する派と円珍に従う派に分裂した。
宗教は特に、教義を新たな視点から解釈する高僧の出現によって分裂し、新たな教義を信奉する者と旧来の教義を信奉する者で真贋論争が起き、こじれると流血の惨事を引き起こした。
世界史において、絶対譲れない教義や異なる解釈を認めて共存できないという絶対価値観を有する限り、宗教対立や宗教紛争から宗教戦争に暴走し易いという事は宗教史の常識である。
864年 富士山貞観大噴火。富士五湖と青木ヶ原の樹海が誕生した。
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862年 高岳親王は、遣唐使として唐に渡り、囲碁の名手と対局して相手を苦しめ互角に渡り合って敗れた。
唐は、野蛮で文化度が低いと軽蔑していた日本が急速に多方面で力を付けて来た事を認めた。
863年5月5日 学問の神様(舎人親王)を祭る藤森神社で、現代に続いている「深草貞観の祭り」が始まった。
摂政・藤原良房が、清和天皇の勅を奉じて始められた祭りであった。
日本の伝統的祭りは、その時代の歴代天皇に由来するものが大半で、天皇と日本の祭りは切り離せない。
天皇と祭りから切り離すと、日本の祭りの全てが執り行えなくなる。
反天皇派日本人は、それが目的で天皇制度を廃止しようとしている。
777〜978年成立の『太平廣記』
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869年 祇園祭りの始まり。京の都に疫病が流行した為に、当時の国の数だけ大内裏の神泉苑に矛(鉾)を立て、悪疫退散の御霊会を行った。
インド・祇園精舎の守護神でもある仏教系の牛頭天王を祀る祇園社(現・八坂神社)から御祭神を神輿に乗せて祭場まで運び、矛の先で悪疫・怨霊退散の悪霊鎮めの祭りを行った。
後に、素戔嗚尊と牛頭大王が一体視されて、八坂神社の祭神となった。
祇園祭は町衆の祭りとなり、秀吉の時代に京の町衆の財力が豊かになって豪華絢爛な祭りとなった。
京の町衆は、日本文化の中心という気負いから、奈良時代の古代芸術と空海等が中国からもたらした唐風芸術とキリシタンがもたらした南蛮芸術を混合し、他に類例のない独自の芸術を創り出した。
京の都は、奇抜な芸術と独創的な技術を生み出す文化技術の最先端都市であった。
5月26日 東北地方。貞観大地震。 M8.5程度。陸奥国で大地震が起き、大津波が各地を襲って甚大なる被害が発生した。
6月 貞観の入寇。新羅海賊船2隻が、博多に上陸して貢調船を襲撃し、年貢を掠奪して逃走した。
7月 肥後国で地震が起き、多くの犠牲者が出た。
10月13日 清和天皇は、「陸奧の国震災賑恤(しんじゅつ)の詔」を発し、困窮者の救済と死者の埋葬と被害者の大きい物には租税や労役の免除、そして天災が起きるのは自分に徳が足りないからである恥じた。
祭祀王として、国家の安全と国民の安寧を願って天神地祇に祈った。
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870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
大和朝廷は、新羅が日本国内に勢力拡大する為に貴族の私貿易を利用している事に警戒した。
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878年9月29日夜 元慶関東地震。M7.4程度。
歴史書『日本三代実録』「9月29日夜、京都で地震を感じた。この日、関東地方で大きな地震があり、特に相模国と武蔵国で揺れが激しかった」「官庁も民家も無事な建物は一つもなかった。余震が5、6日続き、圧死者は数え切れないほどだった」
9年前の869年に発生した貞観地震(M8.4)によって誘発された地震と言われている。
{2016年10月5日 産経ニュース「【温故地震】元慶の関東地震(878年)都司嘉宣
奈良県・薬師寺の薬師三尊像(同寺提供)
座った仏像を壊した強い揺れ
平安時代初期の元慶(がんぎょう)2(878)年9月29日夜、関東地方を強い地震が襲った。京都の朝廷の命令で編纂(へんさん)された当時の歴史書「日本三代実録」には、こう記されている。
「9月29日夜、京都で地震を感じた。この日、関東地方で大きな地震があり、特に相模国と武蔵国で揺れが激しかった」
相模国と武蔵国は、現在の東京都、神奈川県、埼玉県を合わせた範囲に相当する。その被害については「官庁も民家も無事な建物は一つもなかった。余震が5、6日続き、圧死者は数え切れないほどだった」などと記されている。
実録は、こんな被害も書き留めている。「相模国の国分寺にあった金色の薬師丈六(じょうろく)像と、脇侍(わきじ)の菩薩像2体が地震の揺れで完全に破壊されてしまった」
相模国の国分寺は神奈川県海老名市にあった。「丈六」は背の高さが一丈六尺(4・8メートル)の仏像のこと。これは立像の場合で、座像なら半分の高さ2・4メートルになる。
これらはいったい、どんな仏像だったのか。仏像は厳格な決まり事にのっとって作られており、同じ名前のものは、寸法も形状もまったく同じになる。そして同じ「金色薬師丈六像、脇侍菩薩像二体」という名前の仏像が、奈良市の薬師寺に薬師三尊像として現存している。
中央に座像の薬師如来像があり、向かって右に日光菩薩、左に月光(がっこう)菩薩が祭られている。今は3体とも黒い色だが、元は金色だったとされている。国分寺の仏像3体は、ほぼ同様の寸法や形状だったはずだ。実録は、こんな立派な仏像が破壊されたと伝えている。
脇侍の日光菩薩と月光菩薩は立像だから、震度5強から6弱程度で倒れ、ばらばらに壊れただろうと推測できる。しかし、中央の薬師如来像は座像だ。これが倒れて完全に破壊されるには、相当大きな揺れでなければ無理だ。震度6強から7の激しい揺れに襲われたに違いない。
ところで、この地震が起きる9年前の貞観(じょうがん)11(869)年には、三陸沖に巨大津波をもたらしたマグニチュード(M)8・4の貞観地震が起きている。その津波の浸水域は、平成23年の東日本大震災とほぼ一致しており、いずれも東北地方の日本海溝を震源に約千年間隔で起こる巨大地震の一つとされている。
元慶2年の関東地震は、貞観地震に誘発され、9年後に起きたとみられる。そして現在は、東日本大震災から4年過ぎただけだ。私たちは、まだ警戒を緩めてはならないのである。(つじ・よしのぶ 建築研究所特別客員研究員=歴史地震・津波学)」}
887年 南海トラフ。仁和大地震。M8.5程度。
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東北・奥州では。天皇・日本からの分離独立を目指す蝦夷(少数民族アイヌの祖先)と同盟を結び、独立戦争としての反乱を起こした。
780年 伊治公砦麻呂(いじのきみあざまろ)の乱。788〜802年 アテルイの乱。875年 元慶の乱。その他。
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899年 物部氏永の反乱。その他。
後の、武士の作法とされた「切腹」は東国で誕生した。西国は、切腹ではなく、入水か絞殺などの血を流さない手段をとった。
切腹は、日本人の美学ではない。
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当時の天皇の軍隊(官軍・皇軍)は、歩兵・御徒が主兵力で騎馬兵は少なかった。日本の大地は朝鮮の大地とは違って、平坦な土地が少なく、森林や河川が多かった為に馬を疾走させるには不向きな土地であった。
兵力は、唐や新羅朝鮮より少なく約20万人にすぎず、指揮官の多くは帰化系武将で有った。
日本の諺「七度の餓死に遇おうとも、一度の戦いに遇うな」の如く、農耕民族日本人は我慢強かったが兵士には向かなかった。
日本を分裂させ内部から崩壊させようとした渡来人の陰謀は、天皇に忠誠を誓う帰化人らの活躍でことごとく失敗に終わった。
渡来人らは、半島に戻る事ができずに近畿地方を中心に各地で共同体・部落を作り、天皇への忠誠を拒否し、帰化する事を嫌い、日本人との交流を制限して独自の風習で土着した。
渡来人は、反天皇派であった。
渡来人の人口が少ないうちは問題はなかったが、子孫が増え、日本人との接触する機会が増えるや問題が多発した。
高度な文化を持った部落民は、下品で粗野な日本人を野蛮人と嫌い、敵意を持って反発した。
地元の日本人は、同じ土地に住みながら、共同生活に馴染もうとせず、得体の知れない奇習を頑なに守ろうとする異質な人々を恐怖を持って、けんえんして遠ざけて差別した。
両者の亀裂は、穏やかに話し合えばわかり合えるというものではなかった。
「話し合えばわかり合える」と信じるのは、脳天気で、すべての事に理解できない無能な日本人だけである。
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奈良時代から続いてきた律令制度による中央主権体制が機能しなくなり、国制改革が行われ、藤原氏による摂関政治と荘園制による王朝時代が始まった。
最大の改革が、地方支配としての国司制度改革と一定額の徴収を国司が請け負う税制改革であった。
有力貴族は、国司として赴任するや、任期終了までに蓄財した。
唐王朝の衰退によって、唐に於ける律令体制も崩壊し始めていた。
日本には、唐から学ぶ所がなくなった。
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