🏹51〕─1─後期倭寇は東アジア史を動かした。バイキングと倭寇。1506年~No.159No.160No.161 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 西洋・バイキングと東洋・倭寇は、世界史レベルのダイナミズムであった。
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 倭寇は、日本人だけではなく、中国人と朝鮮人が大半であった。
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 倭寇の大頭目王直は、活動拠点を中国沿岸から日本の五島に移し、平戸に居を構えて海賊行為を行った。
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 中華帝国は、朝貢国との上下関係を絶対とし、朝廷内での席次を定める為に朝貢国を格付けした。
 朝貢国同士の直接の交際を制限し、朝貢国が力を付けない様に隣国同士を反目させ紛争を煽った。
 当然の事ながら、対等意識を持つ事を許さなかった。
 李氏朝鮮は、朝廷の席次は低かった。
 朝鮮は農業国で、産業らしい産業がなく外国に輸出できる特産品がなかった。
 朝鮮の交易は、中継交易であった。
 朝貢使に従者・馬夫として潜り込んだ商人達は、対馬交易で手に入れた日本銀を北京の質兼両替商(典当舗)で支那貨幣に両替して、両班への品物と対馬に売る白糸を購入した。 白糸は、日本銀を手に入れる為に対馬を通じて日本に売った。
 朝鮮の産業は、王族や両班の為に製品を作るが、一般庶民には目もくれなかった。
 朝鮮経済は、日本や中華とは違って貨幣流通経済ではなく、一般庶民が必要な物を市場で物々交換する古代経済であった。
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 *後期倭寇の実態 
 倭寇による朝鮮半島襲撃は493回あったとされているが、その内日本人倭寇が幾つで、非日本人倭寇が幾つかは分からない。
 倭寇に参加している日本人は、10人中1人か2人で、残りは朝鮮人か中国人であるとの報告が、朝鮮政府になされた。
 判中枢院中李順蒙「臣聞く、前朝(高麗朝)の末、倭寇興行して民聊生ぜず、然れども其の間、倭人(日本人)は1,2に過ぎずして、本国(高麗)の民仮に倭服を着して党をなし、乱を作すと」
 だが。東アジア史は、倭寇の船に1人でも日本人が乗っていれば、その海賊船は日本の海賊であると決めつけている。その日本人が、たとえ頭目ではなく、下っ端であっても同様であるとされている。
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 対馬や北九州の漁民は、中国人の元寇朝鮮人の海賊などで家族や身内が虐殺れ、大陸や半島の侵略に激怒し、復讐として高麗や明国の沿岸を荒らし回った。
 これが、前期倭寇と呼ばれている。
 記録に残っている主なものだけでも、400件あったと数えられている。
 朝鮮人の海賊による、日本人漁民の虐殺と日本人女性の強制連行と日本沿岸での略奪は正当行為とされている。
 だが。
 日本人倭寇による、殺された同胞の仇討ちと、拉致された娘の報復行為は犯罪とされた。
 現代日本の歴史は、日本の自衛権を認めないし、日本人の正当防衛も認めてはいない。
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 海賊や盗賊は、貧しいがゆえに富める者を襲って金銀財宝を奪うのではなく、職を得られず、働いても食べて行かれないがゆえに犯罪行為に走るのである。
 職をえて働いて食べて行けるのなら、誰も犯罪者にはならない。
 手に職を付け汗水を流して重労働をして生活する事を崇高なる美徳とする日本人は、海賊や盗賊には最も向いていなかった。
 国内の農業、漁業、手工業、金融業、流通業が発達し国外との交易が行われていた島国日本では、海賊の跋扈より正規の水軍が成長していた。
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 日本は、古代から朝鮮の侵略を幾度ともなく受けていた。
 中国も、機会が許せば、日本を侵略して占領しようという意思はあった。
 両国にとって、日本は古代から仮想敵国であり、心許せる友好国ではなかった。
 友好関係などは存在せず、有効を口にするものは血も涙もない大悪党であった。
 日本人は、朝鮮人や中国人に虐殺されていた。
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 日本人には、朝鮮人や中国人に虐殺されても、復讐心からの殺害は認められていなかった。
 日本人は、朝鮮人や中国人の犯罪行為には抗議も抵抗も許されず、ただただされるがまで泣き寝入りのみが許されていた。
 朝鮮人や中国人は、日本人に対して虐殺や略奪や拉致などのあらゆる行為が、正当防衛として許されていた。
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 日本が、朝鮮や中国に近づくと不幸になった。
 特に、朝鮮に親しみを込めて行き来すると碌な事にはならなかった。
 朝鮮は、日本にとって、疫病神であり、災難の原因であった。
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 勘合貿易(1404年〜)が盛んになるや、日本人による倭寇は自然消滅した。
 「人好き」な日本人には、受けた恩義は決して忘れず子々孫々まで語り継いだが、恨みや憎しみや妬みという悪感情を長く持ち続け事ができなかった。
 相手への憎悪や嫌悪感は数年で薄れ、世代を超えて伝えるという事もなかった。
 中国や朝鮮人は、受けた恨みを決して忘れず、代々、語り継いだ。百年はおろか千年後でも、民族が生き続ける限り教訓として忘れず、相手が1人でも生き残っている限り復讐の手を緩めなかった。
 「健忘症」の日本人は、全ての事について淡泊で、嫌な事や辛い時は全て綺麗さっぱりと忘れた。
 交易して商売ができるとなると、中国人や朝鮮人から受けた残虐行為もいとも簡単に「あっさり」と忘れた。
 日本では、中国や朝鮮とは違って全ての事が風化し、歴史の彼方に消えていった。
 日本人は、倭寇から手を引き、海賊行為に参加する者はあまりいなかった。
 応永の外寇後、大陸や半島でも倭寇の活動が活発化した。
 実態は、朝鮮人や中国人らによる海賊行為であったが、公式には全て日本人の倭寇と報告された。
 これが、後期倭寇である。
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 1411〜1493年 豊後・筑後守護。大友氏の第15代当主。 15世紀中頃 豊後国 第15代当主・大友親繁は、領内で採れる硫黄を遣明船で大量に明国に輸出して莫大な利益を得ていた。
 明国は、15世紀後半に、倭寇や私貿易を取り締まる為に勘合を持たない外国船の入港を禁止した。
 大友氏は勘合符を取得できなかった為に、取り締まりが緩やかで賄賂で役人を買収できる福建沿岸の港に入港して密貿易を続けた。
 明国は、私的な交易船や密貿易船を全て国禁を破る倭寇として厳しく取り締まった。
 倭寇には二種類あって、殺戮や強奪を行う犯罪者集団としての海賊と密貿易を行う実利優先の海商である。
 日本の倭寇は、後者の方が多かった。
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 朝鮮国王・第11代 中宗(1506〜44)
 中宗は、家臣達によって国王に推戴された為に政治力がなく、勲旧派と土林派による党派抗争や外戚と王族と役人による権力争いが繰り返され、敗れた者は処刑されるか奴婢の身分に落とされた。
 身分制度が厳格な儒教は、下位の者が上位の者を侵すという下剋上を忌避した為に、奴婢の身分に落とされた者はその家族諸共に一生涯奴婢とされ、決してもとの両班る事はあり得なかった。
 この時代に、医女で有名なチャングムがいた。
 両班は、男尊女卑の儒教価値観を神聖不可侵の規範としたため、結婚した女性を死ぬまで家の中に軟禁状態に置いて余程の様が用件がない限り家から一歩の出さなかったし、家族以外の男性とも会わせなかった。
 儒教は、女性の人権を一切認めてはいなかった。
 また。儒教は働く事を蔑視していた為に、医師は僧侶や呪術師などと同じ扱いとして地位が低かった。
 人間不信の権力者は、医者が政敵から賄賂を貰って毒を盛るか分からないとして医師を疑っていた。
 中国も朝鮮も、人という者を信用していなかった為に、医師や料理人などを個人的に抱えていた。
 お抱え医師は、身分が低い為に自分より下位の人間を馬鹿にして、金のない者は見なかった。
 つまり。東アジアの医術は、完全なる金儲けの算術であって人命を救う仁術ではなかった。
 残念ながら、日本にもその傾向はあった。
 つまりは、韓流歴史ドラマの「宮廷女官チャングムの誓い」は9割近くが嘘である。
 朝鮮には服を染める染料が不足し、輸入するには高価で王侯貴族や裕福な両班以外に手に入れられなかった。
 中華皇帝からの勅使を迎える王族や政府高官及び両班は、色付きのチマチョゴリを着ていたが、庶民はもちろん下級役人や貧困両班さえも見窄らしい白のチマチョゴリを着ていた。
 朝鮮には原料となるものがない為に、チマチョゴリは、和服やチャイナ服に比べて色彩も図柄もなかった。
 日本では、衣服が生活習慣や仕事別によって個別に求められた為に、着物の種類も豊富であった。
 朝鮮は、衣服の需要が少なく、種類も多くなかった
 陶器の顔料もなかった為に、日本や中国のような絵付け陶器が造れず白磁しかなかった。
 朝鮮文化と江戸文化の違いは、経済の豊かさが原因であった。
 朝鮮経済は、物々交換の原始経済で貨幣経済が発達せず、品物が半島全土にくまなく行き渡ることがない為に人の往き来も少なく、街道の整備が成されなかった。
 日本経済は、貨幣取引が行われ、商品は日本全国に運ばれて盛んであった。
 ヒト・モノ・カネの流動性が高かった為に、街道の整備や近海航路の開拓が行われていた。
 江戸時代の交通・運輸網は、政治的・軍事的・宗教的を抜きにした純然たる民間需要に於いて世界一であった。
 儒教が、商工業は卑賤の人間がすることとして差別した為に、経済的活力が生まれず、生活の安定とゆとりが生まず精神的豊かさとしての文化が発展しなかった。
 江戸の冨は、広く百姓や町人に行き渡って貧富の格差は小さかった。
 朝鮮の冨は、一部の支配層に独占され貧富の格差が大きかった。
 経済の安定と文化の爛熟を迎えた江戸時代。
 サムライは、見栄を張って「バサラ」に憧れて派手に見得を切った。
 町奴は、バサラ・サムライに対抗して野暮を嫌って粋に構えて男伊達を競った。
 教養ある文化的な町衆は、上品な風雅、風流と清涼なワビ、サビに酔いしれた。
 日本の文化性は多様性に富み、生活の中に溶け込んで豊かな情緒を生み出していた。
 バサラ、粋、男伊達、雅、風雅、風流、ワビ、サビといった精神性は日本独自のモノであって、朝鮮とは関係なく、宗主国・中華の物真似しかしない朝鮮には無縁であった。
 つまり、日本は開放的で朝鮮は閉鎖的であり、日本は独創性であり朝鮮は模倣でしかなかった。
 1510年 三浦の乱。日本人商人は、朝鮮領内の自由な移動と民間商人との自由な商売が禁止され、釜山、蔚山、熊川の三ヵ所に築いた日本館で御用商人とのみ交易していた。
 朝鮮側は、日本人を倭寇の一味と見なして、日本との交易を制限していた。
 それ以上に、応永の外寇に対する報復を恐れ、国内状況を探索される事を極度に警戒していた。
 度重なる倭寇の襲撃に激怒した朝鮮人官憲は、日本人居留民を倭寇と決め付けて殺害した。
 日本館に軟禁状態に置かれて商売をしていた日本人数千人は、小中華思想で日本人を差別し見下す朝鮮人への不満から、守令の李友会を殺害して暴動を起こした。
 朝鮮軍は、日本人暴徒を鎮圧した。
 商才に長けた日本人商人の多くは、南蛮貿易や明交易に比べて利益の乏しい朝鮮交易に見切りを付けて帰国し、日本館は釜山1ヵ所となった。
 日本人商人の行動はさらに制限され、厳しい監視下で交易が細々と続けられていた。
 日本にとって、朝鮮は明国や南蛮に比べて魅力が乏しく、如何なる面でも学ぶ所も得る所も少なくなっていた。
 琉球王・尚真王は、明国の進んだ学問や制度を学ぶ為に官費留学制度を始め、北京の国子監に4名を留学させ、帰国後は国政の重責を与えた。だが、官費留学生は中国系琉球人が独占し、日本系琉球人は任命されなかった。
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 1534年5月10日 琉球人は水先案内人として、明国の使者を琉球王国に導くために尖閣諸島を目印としていた。
 琉球王国は、海洋交易国として、北は日本や朝鮮から南はタイやフィリピンに至るまで交易船を送っていた。
 明国は、大陸国として、海禁陸禁の鎖国政策を取り、許可した中国人商人以外の海外渡航を禁止し、国禁を破った者は海賊・倭寇として処刑していた。
 大陸人である中国人にとって、大地を馬で疾走する事には関心があったが、海には興味が無かった。
 中華帝国は、人が歩いて行ける西・北・南に軍隊を派遣して侵略を繰り替えしていたが、海の外に出兵して侵略したのは元のフビライ皇帝と明の永楽帝だけである。
 尖閣諸島は、海洋国家・琉球の重要な交易路の目印であって、大陸帝国・中国とは縁もゆかりもない。
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 1544年 蛇梁倭変。倭寇約20隻が、慶尚道蛇梁鎮を襲撃した。
 日本側は、朝鮮との紛争に発展する事を恐れて、直ぐさま講和を求める使者を朝鮮に送った。
 朝鮮の大半の儒学者は、教養なき野蛮な夷狄である倭人と講和を結ぶ事は国の穢れになるとして猛反対し、寧ろ倭賊を懲らしめ正義を以て正道を示すべきであると訴えた。
 極少数の儒学者は、蛮族の倭賊が悪さを反省して許しを求めてきたのであれば、威徳として受けてやるのが君主の道であると主張した。
 朝鮮人儒学者は、小中華主義から、日本への敵愾心を隠す事なく露わにして、日本人を口汚く罵り悪態を付き、決して褒めもしなければ友好を説く者は少なかった。
 姜𦫿(きょうこう)『看羊録』や申荕(しんけい)等は、反日派の代表である。
 親日派としては、李?光(りさいこう)や李?(りよく)、安鼎福(あんていふく)、安愼徽(あんしんき)、玄徳潤、尹秉弼(いんへいひつ)等がいた。
 親日派は、素直に日本の良い所は良いと認め、朝鮮に無い所で謙虚になって学ぶべきであると訴えた。
 だが、親日派は出世せず、中央から追放的に地方に左遷されていた。
 朝鮮国王は、中国からの勅使を、臣下の証しである赤い衣を着て出迎えた。
 朝鮮に於いて「赤」色は、中国に対する二心無き、忠実な「赤心」の証しであった。
 表向きは国王とされていたが、実質は一地方長官に過ぎず、王廟も控えめに王侯ではなく諸侯並に建設していた。
 朝鮮では、絶対忠誠として、中華皇帝の色である「黄」色を使う事はなかった。
 朝鮮人儒学者の多くは、中国人に憧れ、朝鮮人を夷狄と軽蔑し、自分の祖先は中国の偉人賢人であると勝手に家系図に書き加えていた。
 だが。中国は朝鮮をくだらない夷狄と差別し、中華皇帝の勅使は朝鮮人を顎で使って辱めて満足していた。
 朝鮮は、中国人になり切ろうとして、無条件で中国を受け入れていた。
 日本は、日本人であろうとして、制限して中国と朝鮮を遠ざけていた。
 中国各王朝は、儒教的前例にならって、朝鮮を中華の領土とせず、朝鮮人の中原への流入を制限した。
 朝鮮にとって、憧憬する儒教国家中国から嫌われ差別される鬱積を、神道・仏教・儒教混合国家日本に向け儒教なき野蛮国と貶しに貶して晴らしていた。
 儒教価値観を持つ朝鮮人教養人の感情の奥底に、偉大な中国人に生まれ変りたくてもできない、切なくやるせない絶望感が潜み、その中国への怨恨感情が心に虚無感を生んだ。
 心の絶望と虚無から、世界とは意味が無い、人生とは意味が無い、この世に価値がないとの厭世観に囚われた。
 呑気に構えて几帳面に細々した事を嫌いあくせくと働く事を厭い、人生をあるがままに受け入れ、感情を制限する事なく露わにし、推理し創造力をもって明日を切り開く事をせず、自分本位の欲望を叶える為に嘘も付き、他人を騙し、泣き叫びながら暴走した。
 そして、激しい反日感情を心の内に?き立て、見境無く増幅させた。
 朝鮮の小中華主義や事大主義は、中国に恋い焦がれながら叶えられない片思いの悲嘆の表れである。
 朝鮮人の「恨」とは、果たせない中国への恋慕の情である。
 朝鮮人が中国人と婚姻して吸収されて「恨」を満たさない限り、朝鮮半島での反日感情は消滅しない。
 欲望による暴走が、国内に向かえば不毛な党派抗争となり、国外に向かえば半狂乱の反日となった。
 ゆえに、朝鮮から反日感情は消える事が無く、真の友好関係は決して生まれない。
 10月 『朝鮮王朝実録』に、国王の中宗を診察した女医(『宮廷女官チャングムの誓い』のモデル)の記述がある。
 当時の朝鮮医術は、中国医術の亜流として、中国渡来の高価な薬草を使わない祈祷による「呪い医術」であったと言われている。
 高額な中国医術による治療が受けられるのは、王族や裕福な両班など極一部の特権階級であり、中級以下の両班や一般庶民は受ける事ができなかった。
 身分差別の激しい朝鮮では、庶民は虫けらのように扱われ、王族や両班は庶民の生き死にには興味がなくよって助けようという気持ちもなかった。
 さらに。女性蔑視と年齢差別から、女子供の地位はさらに低くかった。
 夫が先に死亡した時、妻は殉死が強要され、殉死した妻は「貞婦」として称賛された。
 だが。殉死を拒否して生き残れば、「悪女」「毒婦」「情無き未亡人」として社会から抹殺され、家族からも爪弾きにされ相手にされなかった。
 日本人の平均寿命が30歳代であった時、朝鮮では約20歳代で短命であった。
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 仁宗(1544〜45)。明宗(1545〜67)。
 1547年 朱?(しゅがん)は、中国東南沿岸部にあった倭寇の根拠地を攻撃して壊滅させた。
 明国政府は、朱?を無実の罪で糾弾して自殺に追い込んだ。
 倭寇の大頭目王直は、部下2,000人以上を擁し、活動拠点を中国沿岸から日本の五島に移して、平戸に居を構えた。
 『潮中雑記』「各賊、ついに2千余の徒を糾集し、その内2百余人が髪を剃って、偽って倭人を装っている」
 王直は、日本の石見銀山で採掘した銀を中国に密輸し、明国高官に多額の賄賂を送っていた。
 倭寇と結託して私腹を肥やす高官は、個人的に国禁を破って行動している為に、権力を失って左遷されると賄賂を送っていた倭寇は討伐された。
 明国官憲は、祖法を守る為に倭寇の取り締まりを強化した。
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 1555年の達梁倭変も1553〜56年の嘉靖大倭寇も、日本人は極少人数で、大半が倭寇に化けた中国人や朝鮮人であった。
 偽日本人である彼等は、血も涙もない獣の様に残虐で、女子供にさえ容赦なく、至る所で虐殺と略奪を行った。
 強制連行された女性や子供は、人手不足の中国に奴隷として売られ、その後の生死は不明である。
 この時代の倭寇は、日本人ではなく、朝鮮人であり、中国人であった。
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 1557年 王直が、征倭総督胡宗憲の謀略で誅殺されるや、その配下であった江蘇・浙江系倭寇は衰退した。
 替わって、福建・広東系倭寇が各地を荒らし回り、揚子江を上って南京など内陸部を襲った。
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 宣祖(1567〜1608)
 1562年8月 戚継光は、福建系倭寇の討伐の為に現地に着任して、地元民を味方に付け為に腐敗した貪官汚吏を排除して慰撫し、倭寇に従ったとして罪に問われていた物を赦免した。
 征倭軍は、各地にある倭寇の拠点を攻撃して、奴隷として売られそうになっていた男女数百人を解放した。
 「29夷を生け捕りにし、首348級を上げた」
 倭寇の構成員の大半が、福建省の住人であったからである。
 「語言が倭と異なる事がない」
 裏で郷紳や豪商ら地元の有力者が、倭寇と手を組んでいた為に討伐は思う様に進まず、新手の倭寇が出現して暴れ回った。
 倭寇の構成員は、中国人、朝鮮人、日本人、東南アジア人、ポルトガル人、スペイン人、オランダ人、アラビア人、アフリカ人と出身地は様々であった。
 戚継光は、新たな征倭軍を福建省ではなく浙江省で組織した。
 中国は、省が違うと言語や文化が異なり、隣接省との仲が悪かった。
 新たな征倭軍は、倭寇と支援する福建省民に対して容赦ない攻撃を加えた。
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 1567年 明国皇帝隆慶帝は、倭寇の猛威を鎮めるべく海禁策を止め、朝貢貿易を緩和して、商人や漁民による自由貿易を認めた。
 倭寇の実態が中国ではなく日本にあるという虚偽を貫く為に、日本との交易は許可せず、中国人の日本渡航も禁止した。
 地方官に対して、中国人が被害者であると言う立場を植え付ける為に、日本人が倭寇となって各地を荒らし回り残虐行為を行っているとの偽報告書を提出させた。
 中国の歴史書の大半が、時の権力者によって捏造され改竄されていた。つまり、真実は限りなく薄く、信頼に足る物ではなかった。
 光海君(1608〜23)
 1571年 モンゴル軍は、中国の物資を得る為にたびたび国境を越えて侵略していた。 モンゴルの侵略を防ぐ為に、モンゴルのアルタイ・ハーンと和議を結んで交易場を開設して自由交易を認めた。
 明国は、領土拡大の野心を持たない周辺諸国との平和共存の為に、朝貢冊封体制を緩めて自由貿易を容認した。
 『明史』「大てい、真倭は10の3、倭に従う者は10の7,戦うにはそこで掠めた人を軍の先鋒にする」「1〜2の真倭を拘引して酋首とし、自ら髪を剃って、これに従う」
 中国人が犯罪を犯す時、日本人の様に日本人と名乗らず、変装できるとみるや他人に成り済まして犯罪を犯す。変装する相手は、たいてい日本人で或る。
 大抵の場合、お人好しの日本人では、犯罪者が日本人なのか中国人なのか朝鮮人なのか判らない。同様に、白人であれば、アメリカ人かユダヤ人かロシア人かスペイン人かも見分けが付かない。 
 1589年 女真族ヌルハチは、建州女真の盟主となり、全ての女真族を統一した。
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