🏹15〕─1─高麗と朝鮮は、人口減少のモンゴル族、漢族、満州族にとって人的資源の草刈場であった。~No.41No.42No.43 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 東アジアでは、漢族の明、モンゴル族の元、満州族の清、高麗人と朝鮮人達による奴隷確保の為の襲撃事件は絶えなかった。
 後期倭寇の残虐行為は、日本には無関係であった。
 歴史認識において、倭寇による沿岸襲撃による虐殺や略奪と言う証言は、漢族、高麗人・朝鮮人達らが起こした襲撃戦を誤魔化す為であった。
 凶悪な日本人倭寇による襲撃は、日本人悪人説を広める為に作られた冤罪である。
 日本国内には、外国人を誘拐して奴隷にした歴史はない。
 むしろ、反日派の統一新羅や高麗そして李氏朝鮮は、たびたび日本を侵略し虐殺を行い、多くの日本人を強制連行して中国人に奴隷として売っていた。
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 2016年8月号 WiLL「預言者の時代 古田博司
 油断していると『奴隷』にされる
 シベリア抑留は敗戦奴隷だ
 前回、ユダヤ教の律法の面白さについて語ったが、次は律法の優しさについて語ろうと思う。キーワードは、寄留民(きりゅうみん)、寡婦(かふ)、孤児、奴隷である。律法は彼らに対して本当に優しいのだ。でも、日本人には『奴隷』のことがよく分からないので、ここから話を始めようと思う。 
 まず、なぜ奴隷が分からないのか。分からないということ自体が、分からないかもしれないから、事例を挙げれば、『シベリア抑留』というのはまぎれもなく敗戦奴隷である。
 ロシア人が、敗戦国の人間を『捕囚(ほしゅう)』として連行し、奴隷として働かせるという、歴史的な個性を20世紀まで温存していた証拠である。ロシア人はスラブびとたる農耕スキタイの末裔(まつえい)だが、ギリシア時代に彼らの言葉スラブが奴隷(slave)を意味するようになった。彼らと奴隷制との因縁は深い。
 ……
 東洋にあった拉致奴隷コロニー
 ……
 ここで敗戦奴隷とは別に拉致奴隷というものがることを告げなければならない。
 拉致奴隷は、東アジアでは頻繁に起こり記録されるので、少し開設しておこう。
 まず有名なのは、モンゴルによる高麗人の拉致である。1231年から1259年まで、30年近く続いたモンゴルの朝鮮半島攻略により、大量の高麗人が満州に連れ出された。モンゴル人の征服は、勧告し降伏すれば安堵して人頭税を取るが、降伏しなければ皆殺しというのが普通である。だが、高麗はちがった。
 おそらくシナ遠征のため、こちらを先に撃ってから満州に拠点を築くという、長丁場を見越したものだったのだろう。オゴタイ汗は、高麗人を遼河デルタの遼陽と瀋陽に居住させ、高麗人のコロニーを作ることから始めたのである。後に元寇の際、モンゴル軍の日本侵攻を指揮した副司令官の洪茶丘(こうさきゅう)は、遼陽生まれの高麗人二世だった。
 当初連行された高麗人は、屯田兵農奴、家内奴隷などにされたものと思われるが、約50年を経て14世紀に入る頃には、モンゴル人と高麗人のハーフの王イジルバハ(後に高麗史で忠宣王と諡された)が瀋陽王に封じられ、満州の高麗人コロニーの王になるまでに発展した。そして39度線以北には遼陽行省が置かれ、以南の高麗国と朝鮮半島政治を二分するようになったのである。……
 元が明に替わると、高麗も李朝に替わった。明はモンゴルを北方におしやり、満州の遼陽を占領するのが、15世紀にはそのモンゴル人に押されて満州人が南下を始めた。鴨禄江側に移住したものを明が安堵した。これを建州衛(けんしゅうえい)という。豆満江側に集まったものを建州左衛(けんしゅうさえい)とした。これより満州族李朝との確執が始まるのである。
 満州人は遊牧民のモンゴル人とは異なり、進んだ狩猟民だった。銀を掘り、高麗人参を採り、松の実・きのこ・キクラゲ・川真珠を取る一方、農地をもち、拉致してきた明人や朝鮮人農奴として使役した。広大な満州の地に張りつくように、砦のごとき屋敷群を築き、ときには移動した。朝鮮の役時、豆満江を越えて満州に潜入した加藤清正が、『甲賀者の砦』のようだと記している。
 明や李朝の記録には、満州人に拉致された朝鮮人や明人の記録が多々残されている。たとえば、1425年の閭延(りょうえん)事件。建州衛の400騎が突如鴨禄江を渡り、満浦鎮(まんほちん)上流の平安北道を襲った。民26人が農奴に引かれたが、江界節度使朴楚(ぼくそ)が追撃し取り戻した。1442年には、ウリャンハイ部族の満州人1,000騎が山海関、東方の屯田村に侵寇し、明人男女180名を掠(かす)め去った。明は、山海関から開源まで土塁と柵を立て、満州人の侵攻を防げべく七百余里の『遼東辺墻』の構築を進めた。
 いやでも『奴隷』を理解しよう
 1461年には毛憐衛(もうれんえい)のボルハンの親族と称する趙三波(ちょうさんは)が朝鮮、義州対岸の黔同島(けんどうじま)を襲い、男女138名、馬37匹、牛125頭を奪い去った。李朝は明朝に奪還命令を下してくれと願い出たが、逆に明は李朝を問責した。結局、李朝が会寧付近のボルハン一族を誅殺した報復だった。
 このように切りがないので、三例だけで止めることにする。つまり東洋では、シナ、朝鮮、満蒙の襲撃戦は歴史上常態であり、ゆえに拉致奴隷は絶え間がなかったのである。
 この悪しき伝統を今に引きずる現代版拉致奴隷が、北朝鮮の『日本人拉致問題』を含む外国人拉致であり、韓国の日本に対する濡れ衣である『従軍慰安婦性奴隷説』であることは論を俟(ま)たない。近代的な人権概念のない北朝鮮では、李朝朝鮮人満州人に狩られたように外国人を狩った。同じく人権概念のひよわな韓国でも、戦時中の日本軍相手のキャンプ・フォロワーが貧しさゆえの売春婦であったことを忘れ、彼らを強制的に連行された性の奴隷であると決めつけたのであった。でも、世界史ではたしかに、『女奴隷は売淫または家事に用いられた』(マックス・ウェーバー『古代社会経済史』東洋経済新報社、1973年 34頁)のだった。
 ……
 日本人には『奴隷』がどうもピンと来ない。」


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