🗻7〕─1─中国人はなぜ契約を破り嘘をつくのか。宗族制度。一族中心主義。実利中心主義。〜No.25 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2021年3月号 Hanada「知己知彼 石平
 中国人はなぜ契約を破り嘘をつくのか
 前回の本稿では、中国伝統の宗族制度に由来する『一族中心主義』に考察のメスをいれ、それが現代の中国社会を支配する普遍的な行動原理の一つであると結論づけた。遠い昔から現代に至るまで、大半の中国人は善悪の判断を行うのに際しては家族あるいは一族の利得を判断基準にして、自分の家族もしくは一族にとって利得のあることはすなわち『善』だと思っているわけだ。たとえ汚職や詐欺のような、社会にとって『悪』であるはずの行為であっても、家族・一族に利益をもたらすものであれば、『悪』であるとは全然思わない。むしろ、家族全員が揃ってこのような悪事を平気で働くのである。
 このよな悪(あ)しき『一族中心主義』と並んで、実は多くの中国人を動かすのにもう一つの伝統の行動原理がある。私はそれを実利中心主義』と呼んでいる。要するに大半の中国人は人との付き合い方を決める際、自分と自分の家族や一族にとっての『実利』を最大の基準にして、それに基づいて行動するのである。
 ビジネスの世界で大切にされている契約遵守の話を例に出してみよう。中国とのビジネスの現場では、日本企業の担当者やビジネスマンの口から『中国人はちゃんと契約を守らない』との苦情がよく聞かされる。おのような苦情が数多く上がってくるには当然、中国企業や中国人による契約違反が現場ではよく起きている、という嘆かわしい実態があるからであろう。しかし良く考えてみれば、中国企業や中国人は別に何時でもどこでも誰でも契約を破っているわけではない。もしそうであれば、中国とのビジネスはそもそも成り立たない。実際、多くの日本企業が日常的に中国企業や中国のビジネスマンと莫大な取引をしているから、日中間で交(か)わされている契約の多くは普段は守られているとみてよい。
 ならば、ここに一つの重要な問題が出てくる。中国企業あるいは中国人は、一体どういう時に契約を守り、どういう時に契約を破るのか、という問題である。おの答えに対する答えは実は簡単である。つまり中国企業と中国人は、相手との契約を守ったほうが自分の利得になると判断した時はそれをきちんと守り、契約を破ったほうが利得になると思った時はいとも簡単に破る、ということである。
 つまり中国人一般には、『契約自体はまず守るべきである』『契約は利得とは関係なく破ってはならない』という精神も観念もない、彼らはほとんどの場合、利得という判断基準でその態度決めるのである。
 嘘をつくことに関しても同じである。日本ではよく、『中国人はいつも嘘をつく』という話を聞かされるが、ある意味それは事実である。中国出身者である筆者自身も、かつての同胞たちにから嘘をつかれたことは山ほどある。しかしだからと言って、中国人は別に生まれつき嘘つきであって何時でもどこでも誰でも嘘をついているわけではない。契約遵守の話と同様で、中国人は普通、利得があるかどうかで嘘をつくかどうかを判断している。嘘をつかないほうが利益になるなら、あるいは嘘をついても利得にならないなら、彼らはあえて嘘をつくことはしないが、嘘をついたほうが利得になると判断した時、大半の中国人は何の後ろめたさもなく平気な顔をして嘘をつくのである。
 こうしてみると分かるように、中国人の判断基準は利得があるかどうかであって、それはすなわち、中国社会の行動原理の一つである『実利中心主義』の最大のポイントである。 ここで非常に重要なのは、『契約は守るべし』『嘘をついてはならい』というような絶対的な道徳倫理が中国社会には徹底的に欠如しているということである。中国人にとって、絶対の善もなければ絶対の悪もない。全ては利得次第であって実利が中心なのである。
 このような実利中心主義の行動原理は一体どこから生まれたのかというと、おそらく、中国社会の古来から宗教観念と大いに関係があるだろう。
 西洋の場合、神様によって『絶対善』が決められているキリスト教の善悪観がある。日本の場合は神道の重んじる『清き明(あか)き心』が社会に浸透している。大半の日本人は嘘や契約を破ることを『汚いこと』だと思い、それを本心からやりたくはないと考えるだろう。
 しかし中国の場合、内面から人々と行動を規制するような『絶対善』や『神様の命令』を唱える宗教もなければ、『心の綺麗さ』を大事にする文化もない。だから人間たちは昔からやりたい放題、自分とその一族にとっての利得さえあれば、顔色一つ変えることなく契約を破り、そして嘘を散々とつくのである。
 中国政府や中国企業や中国人と交渉をするときは『実利中心主義』を肝(きも)に銘じて気をつけたほうがよい。あるいは交渉を持たなくて済むのであれが、最初からかかわらないほうがとい、というこよである。」
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 ウィキペディア
 宗族(そうぞく、しゅうぞく)とは、父系同族集団のこと。古代東アジア法とローマ法に存在した。
 中国・東アジア
 同姓不婚の原則に立ち、女系は含まない。
 中国では早くから戸(こ)と呼ばれる単位の小家族が一般化し、この戸の把握(戸籍作成)が王朝の政治経済力の源泉となったが、土地を集積して地主として成長した豪族は集積した資産の散逸を防ごうとしたこともあって同族間の結合が強く、漢・六朝の豪族勢力は、郷里における累代同居の形をとった。
 累代同居は中国では美風と考えられ、義門(義理堅い一族)として表彰されることがある。よく引用される例としては、唐初の張公芸の一家で、九代前からずっと一族が同居を続けてきた。天子の高宗がその家を訪ね、どうすれば多数の一族が同居しておられるか問うたところ、彼は黙って「忍」という字を百あまり書いて呈上したという。
 隋・唐ではこの結合は弱まったが、唐末に名族と呼ばれた門閥貴族が没落した後、新興地主ができるだけ没落を防ぐための相互扶助手段として宗族を強化した。族長のもとに族譜を有し、宗祠を設け、族産をおくものが多く、特に華中・華南に普及した。宗族という言葉や理念は儒教体制が浸透した朝鮮半島ベトナムにも伝わって、定着している。逆に日本では氏姓社会が比較的維持されたまま、儒教体制を取り入れたために宗族制は形成されずに中国や朝鮮半島とは異なる儒教観・家族観が形成されることとなる。
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 同じ一族中心主義といっても、日本の血族制度と中国・朝鮮の宗族制度は全然違う。
 日本の血族制度は、祖先神・氏神からの直系の正統な血筋が根本的にある。
 中国・朝鮮の宗族制度は、宗族を起こした初代と、正史に偉業を成して名が残る偉大な祖先が崇拝対象である。
 儒教が支配した中国や朝鮮には、信仰宗教としての神や仏はなかった。
 日本と中国・朝鮮の違いは、儒教価値観の違いである。
 儒教と言っても、日本の儒教と中国・朝鮮の儒教は違う。
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