🌋5〕─1─長野県安曇野。山中を切り開いた海神を祖とする海人族=安曇族。~No.14No.15No.16 * 

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 海人族(かいじんぞく、あまぞく)、海神族(わたつみぞく)は弥生文化前期の主力を担ったもので、航海、漁労など海上において活動し、4世紀以降は海上輸送で力をつけることとなった集団ならびに氏族である。
 語感から海人族を抽象的に海に関わる民族と誤解し、沖縄における海人(うみんちゅ)や海の民といった大洋航行を行う海洋民族だと錯覚されることもあるが、考古学的発見と魏志倭人伝を照らし合わせれば沿岸航行を行う漁労生活集団に端を発することが明白である。
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 阿曇氏(あずみうじ、安曇氏)は、「阿曇(安曇)」を氏の名とする氏族。
 海神である綿津見命を祖とする地祇系氏族。阿曇族、安曇族ともいう。
 概要
 『記紀』に登場し、『古事記』では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記され、『日本書紀』の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記されている。その他、『新撰姓氏録』では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記される。
 安曇は海人津見(あまつみ)が転訛したものとされ[要出典]、津見(つみ)は「住み」を意味する古語とする説もあり、その説だと安曇族はそのまま「海に住む人」を示す。一方、稲作を日本に持ち込み葦原中国を本拠にしたと見られることから「葦積」が転訛したとする説もある。
 歴史
 古代日本を代表する海人族で、全国の海人部を管掌した伴造として知られる有力氏族で、発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)とされる。古くから中国や朝鮮半島とも交易などを通じた奴国の王族であったとされ、神武東征後に最初の本拠地である北部九州の福岡志賀島一帯から離れ、畿内へ進出した後に、摂津国西成郡安曇江を根拠地として、全国の海人集団・海部を管掌する伴造の地位を得たと見る説がある。
 氏人として、『高橋氏文』にある崇神朝に初めて御膳を奉った大栲成吹命、『肥前国風土記』に記録される景行朝の百足足尼命、応神天皇三年紀や『筑前国風土記』に登場する大浜宿禰履中天皇即位前紀に見える阿曇浜子、舒明朝に百済へ派遣された阿曇比羅夫、斉明朝・天智朝に活動した阿曇頬垂などがいる。
 律令制の下で、宮内省に属する内膳司(天皇の食事の調理を司る)の長官(相当官位は正六位上)を務める。これは、古来より神に供される御贄(おにえ)には海産物が主に供えられた為、海人系氏族の役割とされたことに由来する。
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「北村遺跡」の解説
 北村遺跡 きたむらいせき
 長野県安曇野市にある縄文時代後期の遺跡。 1987年中央自動車道長野線の建設に伴う調査により,180体の人骨を含む土壙墓が 480発見された。配石のあるものもあり,典型的な集団墓地のあり方を示すものである。人骨はすべて屈葬。従来,縄文時代の人骨の出土は海岸地帯の貝塚にかぎられていたが,内陸部での大量の出土は,食物などさまざまな面で海岸部との比較分析を可能にした。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 安曇野市役所 
 バーチャルミュージアム 歴史
 記事ID:0068758 更新日:2021年3月1日更新 印刷ページ表示
旧石器時代
 吐中からオオツノジカの骨が発見される
縄文時代
 前 13,000 年頃 ●定住生活、土器や弓矢の使用開始
 前 5,000 年頃    安曇野に集落が出現(他谷遺跡、ほうろく屋敷遺跡ほか)
 《資料》きのうきょうあしたNo.2『安曇野の環境を考古学する』 [PDFファイル/7.54MB]
 前 2,500 年頃 明科光の北村遺跡(1987年の調査で約 300 体の縄文人骨発見)
弥生時代
 前 9 から 8 世紀 ●西日本で水田農耕の開始
 紀元前後   安曇野で農耕集落の成立(黒沢川右岸遺跡、みどりヶ丘遺跡)
           《資料》きのうきょうあしたNo.2『安曇野の環境を考古学する』 [PDFファイル/7.54MB]
 3 世紀頃     ●卑弥呼の時代
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古墳時代
 3 世紀頃     ●前方後円墳などの古墳造営が開始
 7 世紀頃 北アルプス山麓や明科潮地区で多くの古墳が造られ始める
         《資料》きのうきょうあしたNo.2『安曇野の環境を考古学する』 [PDFファイル/7.54MB]
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 関東農政局
 農村振興部水利整備課
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 1.安曇族の開発【「農」と歴史】
 山の中の盆地に海神!?
中信平の標高は500~800m。この山中の盆地を開発したのが古代日本を代表する海人族(あまぞく)・安曇(あづみ)氏であると聞けば、誰もが驚くでしょう。安曇氏の本拠地は北九州の志賀島(しかのしま)一帯。白村江(はくすきのえ)の戦いを指揮した安曇比羅夫(あずみのひらふ)など水軍の指揮官を勤め、大和朝廷では高い地位にありました。「アヅミは、阿曇、安曇、厚見、厚海、渥美、阿積などと表記され、その足跡は瀬戸内海を経由して阿波、淡路、播磨、摂津、河内、近江もおよび、琵琶湖の西側には安曇川の地名を残している」(谷川健一『日本の地名』)。
信濃(しなの)の大社として名高い穂高神社(ほたかじんじゃ)は、この安曇氏の祖神である海神「穂高見命(ほたかみのみこと)」を祀っており、今でも同神社の祭日には何艘もの船がくりだしお互いにぶつけあう豪壮な行事を見ることができます。その昔“天智元年に水軍を率いて百済(くだら)救援に向かった祈りの様子を表したものが始まりである”とも伝えられています。
安曇族がこの地へ来た時代は7世紀頃とされています。その理由については、大和朝廷の任を受けた蝦夷(えぞ)征伐であるとも、また、越国(こしのくに)の制圧のためとも推測されていますが、決定的なことは不明です。
いずれにせよ、当時の大和政権の制覇とは、他の部族を制圧し稲作によって年貢を納めさせること(渡来系弥生人による稲作社会の形成)を意味していたので、安曇族がこの地に定着したことは、稲作文化の伝播という意味でも充分に意味があったことになります。
では、それ以前に、この地に住んでいた部族はいなかったのでしょうか?
 八面大王の伝説が意味するもの
いないどころか、この地からはたくさんの遺跡や古墳が見つかっています。まず、梓川(あずさがわ)右岸には縄文時代では、唐沢(からさわ)遺跡や三夜塚遺跡(山形村)、熊久保(くまくぼ)遺跡(朝日村)、葦原(あしはら)遺跡(波田町)など。弥生時代になると、扇状地末端の湿地帯に集落が営まれたらしく、三の宮、こぶし畑、境窪遺跡(いずれも松本市)などがあります。また、古墳は穴観音古墳、殿村古墳(横穴式)などが山形村で調査され、松本市新村でも13基の横穴式古墳が発見されています。
左岸の安曇野(あずみの)でも縄文前期から中期にかけての遺跡が、烏川(からすがわ)、黒沢川(くろさわがわ)など水の得やすい扇頂部、扇端部などから出土しており、弥生式 土器も烏川扇状地の末端部でおびただしく出土しています。古墳は、山の山麓部分、ちょうど左岸幹線-穂高幹線水路に沿うように分布しています。中でも有名なのは有明古墳群こと「魏石鬼岩屋(ぎしきのいわや)」。魏石鬼とは有明山(ありあけやま)の麓で勢力を持っていた八面大王(はちめんだいおう)という「鬼」であり、伝説では坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に成敗されたことになっています。しかし、合戦沢、耳塚、立塚、矢村など伝説に関わる生々しい地名も残っており、おそらくは大和朝廷の先兵である安曇族の侵入に対して最後まで抵抗した部族 だったのでしょう。伝説上は「鬼」ですが、地元では英雄視する声もあります。いずれにせよ八面大王の戦いの頃、この盆地は大和政権の勢力下に入り、稲作が盛んになっていったと思われます。
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 さらに詳しく 安曇氏
安曇野(あずみの)を拓いたという安曇氏の起源は非常に古く、古事記には安曇族の祖先神は「綿津見命(わだつみのみこと)」とその子の「穂高見命(ほたかみのみこと)」であると書かれています。旧穂高町は安曇族の祖先神を地名としていることになります。
彼らの分布は、北九州、鳥取、大阪、京都、滋賀、愛知、岐阜、群馬、長野と広範囲にわたっており、「アツミ」や「アズミ」の地名を残しています。その北限が安曇野ということになります。
博多湾(はかたわん)の志賀島(しかのしま)には海神を祀った志賀海神社(しかうみじんじゃ)が現存し、全国の綿津見神社(わたつみじんじゃ)の総本宮となっており、安曇氏の発祥地とされています。神職は今も阿曇氏が受け継いでいます。
彼らはすぐれた航海術と稲作技術を持ち、古代の海人族の中でも最も有力な氏族でした。連(むらじ)という高い身分を大和朝廷から受け、中国や朝鮮にもたびたび渡っていたとも言われており、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いでは、安曇比羅夫(あずみのひらふ)が大軍を率いて朝鮮にわたり、陣頭指揮にあたっています。
また、788年には宮中の食事を司る長官奉膳(ぶんぜ)の地位についていることからも、安曇氏は大和朝廷を支えた有力氏族であったことがうかがえます。
彼らがなぜこんな北の山国へ来て住み着いたのか、またどんなルートでたどり着いたのかよく分かっていませんが、おそらくは蝦夷(えぞ)の征伐が目的であり、ルートとしては、
 北九州から日本海→姫川谷(青木湖から糸魚川に流れる川)から来たという北陸道
 北九州から瀬戸内海・大阪(安曇江)経由の東山道
 北九州から瀬戸内海→渥美半島(安曇族の開拓地)→天竜川を上った天竜川筋説
 などがありますが、定かではありません。
安曇野へは4~5世紀に入ったという説もあります。その時代によりここを開拓した理由も異なってくるはずですが、今となっては謎のままです。しかし、安曇野という地名、あるいは穂高神社(ほたかじんじゃ)の存在だけでも大きな文化財を残したとも言えるでしょう。