🗻4〕─3・A─「空白の4世紀」古墳群。ヤマト王権と豪族の抗争が原因か。ヤマト大王による日本統一。~No.13 

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 ヤマト王権による日本統一は、東アジアの地政学から見て当然の事であった、
 もし、ヤマト王権による日本統一がなければ日本は朝鮮半島の諸王朝の一王家か中国の領土になっていたが、それを望む日本人が存在する。
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 2023年10月7日 YAHOO!JAPANニュース 産経新聞「古都北部に点在する「空白の4世紀」古墳群 ヤマト王権と豪族の抗争が原因か
 平城宮跡の北側に広がる佐紀古墳群=奈良市
 4世紀から5世紀にかけて築造された大型前方後円墳が集中する奈良盆地北部の佐紀古墳群。それ以前のヤマト王権の墓域は盆地の東南部にあったが、なぜ場所が移されたのか。研究者たちはさまざまな手がかりから、中国の史書に記述がない「空白の4世紀」の解明に挑んでいる。
 【写真】佐紀古墳群の北側を流れる木津川。古代から交通の要衝だった
■200メートル超古墳8基
 奈良時代の8世紀に宮殿や役所が並んだ平城宮跡から北西へ進み、集落が途切れると森が現れる。その中に、佐紀古墳群で最古となる4世紀中頃築造の佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳はある。
 全長約210メートルの前方後円墳で、宮内庁が第11代垂仁天皇の皇后、日葉酢媛(ひばすひめ)陵に治定。日本書紀では、殉死の風習に天皇が心を痛め、野見宿禰(のみのすくね)の進言によって人に代わり初めて埴輪(はにわ)を並べたのが日葉酢媛の墓と伝えられている。
 佐紀陵山古墳の北西には五社神(ごさし)古墳(神功皇后陵)、東約1キロに5世紀のヒシャゲ古墳(磐之媛(いわのひめ)陵)、その周辺にウワナベ古墳(陵墓参考地)などが並ぶ。平城宮跡南側の宝来山古墳(垂仁天皇陵)を含め200メートル超の前方後円墳は7基を数え、現在は円墳のような市庭古墳(平城天皇陵)ももとは前方後円墳で、平城宮建設に伴い削平されたと推測されている。
 これら佐紀古墳群は、王権の大王墓が集まるとされる国内有数の古墳群だ。
■3次元データ作成
 奈良市教育委員会主務の村瀬陸さんと奈良文化財研究所アソシエイトフェローの柴原聡一郎さんは今年2月、佐紀古墳群の3次元測量を行った。
 佐紀古墳群の多くは宮内庁が陵墓などとして立ち入りを禁じているため情報は限られていたが、新たなデータにより各古墳の詳細な構造が分かった。
 中国の史書は日本について3世紀は卑弥呼(ひみこ)、5世紀は倭(わ)の五王について記すが4世紀は空白で、考古学的な調査・研究でしか迫ることができない。
 3~4世紀は初期ヤマト王権の領域があったとされる奈良盆地東南部に卑弥呼の墓とも言われる箸墓(はしはか)古墳など纒向(まきむく)・大和(おおやまと)・柳本古墳群、5世紀前後には外交に有利な大阪に百舌鳥(もず)・古市古墳群が築かれた。その間に盆地北端に古墳群が築かれた理由は何なのか。
 柴原さんは「佐紀古墳群の解明が進めば謎の世紀に迫ることができる」と説明し、データの解析を進める。
■木津川近い交通要衝
 「丘陵を越えると木津川があり、物資が運ばれた川とつながる位置に古墳群が営まれた意味は大きい。佐紀で古墳造営が100年続いたのはそれを担った勢力が水運による経済基盤に支えられたためだろう」
 そう指摘するのは今尾文昭・関西大非常勤講師(考古学)だ。奈良時代平城京への物資は伊賀山中から淀川へと流れる木津川を通じて運ばれた。佐紀がそんな物流の要衝となったのは、古墳時代にさかのぼると推測。
 奈良盆地東南部から大和川を通じて河内へとつながる王権中枢の勢力とともに、佐紀から木津川を介して伊賀や近江へと展開し連携する勢力が存在したと考えられるという。
 さらに奈良市教委の村瀬さんは国内最大の鉄剣「蛇行剣」が出土した奈良市西部の富雄丸山古墳(4世紀中頃)の存在に注目し、「王権は当時、北とともに生駒山を越える西へのルートも押さえた」と話す。
■木材生産のワニ氏
 一方、橿原考古学研究所付属博物館の青柳泰介・学芸副主幹(考古学)は「佐紀古墳群付近を巡りヤマト王権と豪族、ワニ氏(和珥、丸邇)にせめぎ合いがあった」と考える。
 ワニ氏は天皇家と姻戚関係を多く結んだとされる謎の有力氏族だ。青柳さんは本拠地に近い奈良市田原地区で行った発掘調査で製材の痕跡を確認したことから、当時需要が高まったヒノキなどの木材をこの地で生産し、木津川を通じて運搬したと推測。「ワニ氏は木材生産と流通を掌握して勢力を拡大した」とした上でこう指摘する。
 「盆地東縁が領域だったワニ氏は木材運搬のため木津川から佐紀東側(ウワナベ越え)を経て盆地に入るルートを押さえたので、ヤマト王権は周辺地域を独占されないよう、佐紀西側から古墳を造って牽制(けんせい)したのではないか」(岩口利一)
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