👪29〕─3─今の日本人を生きづらくさせている「抑圧」の正体。〜No.141 

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 2023年5月30日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「今の日本人を生きづらくさせている「抑圧」の正体 なぜ人は他人の話を自分ごとにしてしまうのか
 尹 雄大
 人の話を聞いている時に無意識に相手のことをジャッジしてしまうのはなぜなのか(写真:kou/PIXTA
 © 東洋経済オンライン
 「わかりやすく話そう」を重視した結果、私たちの話はただの「情報のやりとり」に陥っていないだろうか? 共感して聞くことを重視した結果、私たちは相手の話に自分を投影しているだけで、ちゃんと相手を理解しようとする姿勢を忘れていないだろうか──。
そんな疑問から、「本当の言葉」を大切にしている人たちに話を聞き、コミュニケーションを考え直す書籍、『聞くこと、話すこと。 人が本当のことを口にするとき』。本稿では同書より、私たちが人の話を聞くとき、無意識にその人や話を「ジャッジ」してしまうことについて考察します。
 人の話を客観的に聞くことはできるのか?
 「その人の話」を「その人の話」として聞く。極めて単純でありながら、いざ取り組もうとすると難しく感じる。どうすればそれが可能かと考えて導き出されるのは「客観的に聞く」といったところだろう。冷静に、俯瞰してといった言葉をそこに付け加えることもできる。
 では、その客観的な聞き方が実際に行っているのはどういうものかと言えば、「根拠に基づいているか」や「常識に則っているか」を気にしたもので、客観とはまるで関係がない。それでは世間のいう正しさにかなっているかどうかに配慮しているに過ぎない。
 たとえばアーティストへのインタビューにおいて、なぜそう思ったのか? なぜそんな行動をしたのか? とインタビュアーが理由を尋ねても、感覚的な話に終始して問いとすれ違うような返事が多い。
 それもそのはずで、彼らは直感によって創作しているのだから、「そう思ったし、気づいたらそうなっていた」といった類いの話になる。彼らにとって大事なのは表現であって説明ではない。
 そうなると根拠を軸に話を聞くことは、こちらの常識に寄せようとしているだけで、相手の話を相手の話として聞くことからほど遠い。その隔たりを「才能の豊かさ」で括ってしまったら何も話を聞いていないのに等しい。
 「常識に則っているか」に至っては、「みんながそう言うから」といった他人任せの言い換えでしかない。話し手の目の前にいるのは私であるのに、「みんな」を持ち出して、「私」として対峙していないのだから、とても失礼な態度だと思う。
 普段から客観という語を多用するわりには、それについてずいぶんと誤解し、誤用している。主観を省けば客観的になれると思ってしまうのもそのひとつだ。でも、その発想はすぐに壁に行き当たる。なぜなら主観抜きの客観など存在しないからだ。考えるまでもなく、私の存在を抜きにして私は事物を観ることができないし、話を聞くこともできない。
 客観性はもしかしたら幽霊のような視点
 主観というものを独善で狭小なものと考えてしまうのは、私たちの自信のなさの現れだろう。そうまでして自分のものの見方を放棄して何を得ようとしているのだろう。誰ともわからない外部の視点でものを見ることを客観的で正しいと思っているとすれば、とても奇妙なことなのだが、あまりそのことを疑わない。
 私たちが信頼を寄せている客観視はもしかしたら、この世に存在しない幽霊のような視点を取ろうという試みに近いのかもしれない。
 では現実に足をつけて世界を捉えるには何が必要だろう。「いかに客観的になれるか」ではなく主観の徹底に手がかりがあるのではないだろうか。
 つまり、自分のものの見方は、どこに立って、どの角度から、どのように見ているから成り立っているのか。私の見方について省みる。これに徹した結果が客観性になり得るのかもしれない。
 自分の視点を検討するとは、自分が見ている景色は実はカメラのレンズ越しだと知るところから始まる。枠の外にも景色は広がっているにもかかわらず、私たちはある範囲を捉えることしかできない。それを狭い見方と言うこともできるけれど、ほかならない自分の目で見るとは、限界を生きることであり、それが私たちの原点であり主体性の始まりだ。
 問題は、見たものが世界のすべてだと思い込んでしまうことだ。その錯覚に気づくには、カメラをどの位置と高さと角度で構えているからその景色が見えてくるのか、を知るかにかかっている。自分にとってあまりに当たり前すぎることを改めて捉え直すのは難しい。
 だからこそ、自分の行っているジャッジのあり方を知らなくてはいけない。いわば撮った写真から「何をどのようにどこから撮っているか」の観点を探るわけだ。
 相手の話を「私の話」として聞いてしまうとき、「私」は必ずジャッジしている。相手の話に対して、「それはあなたの言い方が悪い」だとか善悪正誤をつけ、アドバイスをし、挙句の果てには「どっちもどっちじゃないか」と諭したりする。
 どれもこれも無自覚にやってしまう。つまり深く考えているわけではなく、自動的な反応として言葉を羅列している。
 自分の解釈が善悪正誤を決めている
 私たちは物事をジャッジするとき、善悪は対象に属していると思っている。相手がいいことをしたから、それを「良い」とし、悪いから「悪い」と判断したと。そうではない。
 自分の解釈が善悪正誤を決めているのだ。あなたが誰かの行いや発言に「善悪」をつけたとき、そこで明らかになるのは、あなたが長年培ってきた価値観であり信条だ。それはどのようにして身につけたのだろう。
 赤ん坊の頃は何をしても「すごいね」「よくできたね」と誉められたはずだ。いつしか「それはしてはいけない」「正しいやり方でしなさい」「そんなこともできないの」と言われるようになる。とはいえ、「それはいけない」が車道に飛び出ようとする子供を危険にさらさないための咄嗟の制止であれば、生き死にに基づいた問答無用のジャッジであるから是非は問えない。
 ところが、言葉をうまくしゃべるようになるくらいから、次第に社会の枠内での善悪にかなうかどうかで判断されるようになる。「みんなの迷惑になるから静かにしようね」とか「そんなことしていると恥ずかしいと思われるよ」といった、柔らかい物言いでありながら、身体をきっちり拘束する言葉を耳にするようになる。
 そのジャッジはそれぞれの親が身につけた考えに従っている。私たちは自分の体験を親や周囲に教わった善悪正誤の枠に従って分類するようになる。誰でも怒られるより誉められる方が嬉しい。
 そうして覚えた通りの判断をし行動するとさらに「いい子だ」と評価されるので、「これでいい。これが正しいのだ」と教わったことを信念に置き換えて、しっかりと身につけるようになる。こうした家庭の中で養われる善悪正誤のコンセプトの背景にあるのは社会や文化、ひいては歴史、風土が培った慣習だ。
 私たちの住む島では、協調性があるのは良いこととされ、独自性は自分勝手と言われがちだ。「独自性がある」のはそれ自体ではなんの問題もないはずだが、自分の考えをはっきりと口にするだけでわがままと言われることも多い。では、わがままの判断基準は何かといえば、「みんなと違うから」「みんながそう言うから」に委ねられる。
 突き詰めると、みんなとは空気のことだから、それを吸っているうちに身につくものだという期待が一方的にされている。基準はいたって曖昧なままで、そうして個性の尊重や多様性というスローガンだけが連呼されていく様子を私たちは目の当たりにしている。
 多くの人が「生きづらい」と口にするのは
 もちろん白黒はっきりさせないことの利はある。祖先が長年かけて作り上げてきた習わしには、それなりの恩恵があるはずだし、良いところはある。と同時に害があるのも確かだ。ものをはっきり言わないのは気遣いでありながら、一方で本当のことを決して言わないことでもあるように。
 そう思うと、多くの人が息苦しい、生きづらいと口にするからには、今はこれまで育んできた文化や習慣の負の面が目立つ時代になっていると言っていいのだろう。
 私たちのジャッジの基準は、生まれ育った環境、時代、社会の中で選ばざるを得なかったというような、極めて個人的な事情に基づいている。生き延びるためにそれを身につけてきた経緯がある。
 事実を事実として、起きたことを起きたままに捉えるのは、簡単であり難しい。容易であるのは、そのままを観るのはなんの努力も勇気もいらないからだ。困難であるのは、そのままを観ることができない理由が、観るわけにはいかない必然性がそれぞれの人生にはあるからだ。
 他人の話を聞く前に、自身のジャッジを形成するに至ったストーリーを知り、その顚末を最後まで聞きとり、それを手放さない限り、私たちは相手の話を聞くことができない。本当に人を尊重することはできないのだ。 
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