🎍12〕─1─日本と朝鮮半島の関係は、想像以上に活発だった古代の国際交流。〜No.32No.33No.34 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本と朝鮮の関係は、百済高句麗までで、統一新羅の中世からは断絶していた。
   ・   ・   ・   
 ヤマト王権は、親日百済から受けた恩義は百済再興戦争である白村江の戦いで返したし、知日の高句麗への恩義に報いる為に亡国の民となった高句麗の難民を受け入れた。
 日本は、古代朝鮮から受けた恩義に対して既に報いている以上、現代の韓国に恩義を感じる必要はない。
 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
 朝鮮による日本侵略。
   ・   ・   ・    
 2024年2月16日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「知っておくべき「日本と朝鮮半島の関係」 想像以上に活発だった古代の国際交流
 朝鮮半島と日本との歴史は長く、古代から想像以上に活発な交流を行っていた。どのような関係性だったか、見ていこう。
■古代に大和王権はたびたび朝鮮半島にて高句麗と戦った
 倭王武(わおうぶ/雄略天皇)が南朝宋の皇帝に送った上表文に、「昔より祖禰(そでい)自ら甲冑(かっちゅう)を貫き、山川を跋渉(ばっしょう)して寧処に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国」とある。もちろん誇張はあるにせよ、倭王武は自らの祖先にあたる大王たちが東国、西国、そして朝鮮半島へ渡って多くの国を征服したと記している。
 また『記・紀』には神功(じんぐう)皇后が住吉三神の神託に従って外征し、「三韓」(高句麗/こうくり・百済/くだら・新羅/しらぎ)を従えたとの記述がある。また『日本書紀』には倭国が「任那日本府(みまなにほんふ)」とよばれる植民地を所有していたかのような記述がある。しかしこれら『記・紀』の記述には疑わしいところがあり、そのままには受け取れない。
 奈良県天理市にある石上神宮(いそのかみじんぐう)には、七枝刀(しちしとう)という銘文の彫られた刀があり、そこには泰和4年(369年)に「百済王の世子(せいし/後継者である皇子)が倭王旨のためにこの優れた刀を贈る」といった内容が記されている。
 ただこれが百済王の世子から倭王に「献上」されたのか、「下賜」されたのか、それとも対等な関係で贈られたのか、表現があいまいなこともあって諸説があり、定まっていない。この七枝刀については、『日本書紀』にも記載があるが、少なくとも言えるのは、この刀が百済側から倭王側へ、ある政治的意図をもって贈られたものであって、これ以後(あるいはこの前後から)、倭国朝鮮半島への働きかけが積極化してくることである。
 塚口義信(つかぐちよしのぶ)氏は、367年、百済と倭との間に軍事同盟ともいうべき関係が成立したと考えている。南下する高句麗からの攻撃に苦しみ、倭国の軍事援助を必要としていた百済と、百済から鉄や大陸の先進文物の入手を期待した倭との間に、利害が一致したというのである。七枝刀は、この同盟が結ばれた記念に贈られたと考えている。有力な見解といえよう。
 現在、中国領にある高句麗広開土王(こうかいどおう/好太王)碑も、謎の多い4世紀の倭国における国際関係を知る一つの史料となる。もともと字が欠けて判読しにくい部分がある上に解読の難しい部分も多い史料であるが、414年に建立された高さ6・4mの大石碑に刻まれた貴重な銘文である。そこにはこの王の業績、戦績が高らかに語られている。この内容も額面通りには受け取れないが、ここでは倭は高句麗とたびたび戦った、手ごわい敵対勢力として描かれている。
 4世紀末という時期は、日本列島に大量の渡来人が移住してきた時期ともみられており、この時期は列島内でも内乱が勃発した可能性が指摘されていて、この内乱の背景に王権内の外交方針の違いがあったのではないかとの説(塚口義信氏)もある。『記・紀』の天皇でいえば応神天皇の時代のころから、大和王権の大陸への関わりが活発化しているのを否定できない。
 こうした動向は地方豪族にも無縁ではなかった。『日本書紀』などには地方豪族が天皇の命を受けて伽耶百済へ渡ったことを伝える伝承が多いが、古墳時代中期の古墳の副葬品から、海外に渡航した経験のある人物を埋葬したのではないかとみられる古墳が増加する。半島で製作されたとみられる金銅製の冠や装飾品、鉄剣などが、群馬県福井県熊本県などの古墳から発見されているのである。
 実際には、大王の命によって使者として渡った者ばかりでなく、自らの意思で彼の地の優れた文物と資源を求めて渡海し、帰国した者も多かったのではないだろうか。5、6世紀における豪族たちのあいだには、現在考えられている以上に、国際的な交流が行われていたものとみられるのである。
 監修・文/水谷千秋
 歴史人2023年10月号『「古代史」研究最前線!』より
   ・   ・   ・   
 ・・・ 

 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
   ・   ・   ・   
 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
   ・   ・   ・   
 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
   ・   ・   ・   
 古代の朝鮮半島は4カ国による戦国時代で、日本は朝鮮半島に領地を持ち領土を守る為に戦争を繰り返していた。
 朝鮮半島の動乱を裏で暗躍していたのが、中国の歴代王朝であった。
   ・   ・   ・   
 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
   ・   ・   ・   
 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
   ・   ・   ・   
 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
 渡来人の中国人や朝鮮人には、皇室に対する畏れはなく、天皇や皇族を殺す事に罪悪感はなかった。
 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や嫌悪や差別はここから始まっている。
   ・   ・   ・   
 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
   ・   ・   ・   
 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
   ・   ・   ・   
 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
   ・   ・   ・   
 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
   ・   ・   ・   
 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
   ・   ・   ・   
 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
   ・   ・   ・   
 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
   ・   ・   ・   
 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
   ・   ・   ・   
 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
  ・  ・  
 遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。 賊は伊豆国穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
   ・   ・   ・   
 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
   ・   ・   ・   
 866(貞観8)年 山春永らの対馬侵攻計画。
 肥前基肄郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)、藤津郡領葛津貞津、高来郡擬大領大刀主、彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人と共謀し、日本国の律令制式の弩の製法を漏らし、対馬を攻撃する計画が発覚したが未遂に終わった。
 なお、この対馬襲撃計画に先立つ天安元年(857年)には、対馬島で島内の豪族が300人ほどの兵を率いて対馬守を襲撃する反乱が起きていた。
   ・   ・   ・   
 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
   ・   ・   ・   
 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
   ・   ・   ・   
 893(寛平5年) 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
 894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
   ・   ・   ・   
 997(長徳3)年 南蛮の入寇。高麗人が、対馬肥前壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。

 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
   ・   ・   ・   
 906年 延喜の新羅の賊。
   ・   ・   ・   
 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
   ・   ・   ・   
 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
   ・   ・   ・   
 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
 『韓国人に不都合な半島の歴史』 著者 拳骨たくみ「太宰府が4月16日に送った報告書が『朝野群載』(巻20)に記載されている。
 その記述によると、彼らは畠を食いつくし、馬や牛、犬の肉まで食べたという。年寄りから子供らはみな惨殺され、壮年の男女400~500人は船に乗せられ拉致された。
 ……
 高麗海軍による攻撃を受ける最中、賊たちは日本人捕虜たちを殺したり、す巻きにして海に投げ込んだりした。
 高麗は日本人を救出し、300人余りが助かったと生存者の供述書に書かれているが、この時点で拉致された人々の80%近くが死亡していることがわかる。
 ……
 一方の日本は、高麗に対して不信の念を強くしていた。
 権大納言藤原実資は、『賊は刀伊ということだが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐために自分たちを派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか』との見解を示した(『小右記』)。
 この不信感には先述したように、かつて新羅による海賊行為がしばしば見受けられたことで、裏で高麗が糸をひいているのではないかと考えられたからに他ならない。
 これらの事例からも、日本が韓国を古来から尊敬していたなどという話は、まったくの架空であることがわかるだろう。
  ・  ・  
 日本の朝廷は、中国同様に高麗との正式な国交を拒否した。
  ・  ・  
 ウィキペディア
 刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、女真の一派とみられる集団を主体とした海賊が壱岐対馬を襲い、更に九州に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。
 経緯
 日本沿岸での海賊行為頻発
 9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前筑後肥前、肥後、薩摩の九州沿岸である。

 藤原隆家と九州武士団
 藤原隆家は中関白家出身の公卿であり、眼病[注釈 3]治療のために大宰権帥を拝命して大宰府に出向していた。専門の武官ではなかったが、撃退の総指揮官として活躍したことで武名を挙げることとなった。
 九州武士団および、東国から派遣された武士団のうち、討伐に活躍したと記録に見える主な者として、大蔵種材・光弘、藤原明範・助高・友近・致孝、平致行(致光?)、平為賢(為方・大掾為賢・伊佐為賢)・為忠(為宗)、財部弘近・弘延、紀重方、文屋恵光(忠光)、多治久明、源知、僧常覚らがいるが、寄せ集めに近いものであったといわれる。源知はのちの松浦党の先祖の1人とみられ、その地で賊を討って最終的に逃亡させる活躍をした。
 なお、中世の大豪族菊池氏は藤原隆家の子孫と伝えているが、石井進は在地官人の大宰少弐藤原蔵規という人物が実は先祖だったろう、との見解を示している。
 九州・東国武士団は鎮西平氏とも呼ばれ、このうち伊佐為賢(平為賢)が肥前国鹿島藤津荘に土着し肥前伊佐氏となった。薩摩平氏はその後裔と称している。
  ・  ・  
 一般社団法人日本戦略研究フォーラム
 1300人拉致事件の顛末
 ―「刀伊の入寇」から学ぶ今日的教訓―
 .顧問・元ベトナム・ベルギー国駐箚特命全権大使 坂場三男
 日本史を勉強した人でも今から約1千年前、1019年に起こった「刀伊(とい)の入寇」を知らない人は多い。しかし、この出来事は日本史上で初めて発生した外国勢力(海賊ではあるが)による大規模な侵攻であり、日本人365人が殺害され、1300人近くが拉致されるという未曽有の大事件であった。
 ……
 長らく続いた平和の中で、多くの公卿たちに「国を守る」という防衛意識が完全に欠落していたとしか思えない。今日、私たちが置かれている状況に照らすとき、何とも教訓に満ちた話ではないか。
  ・  ・  
 世界史の窓
 「刀伊の入寇
 刀伊は筑前の国にも上陸し、北九州沿岸一帯を荒らした。太宰権帥であった藤原隆家(関白藤原道隆の子であったが、道長と対立し一時出雲に流されていた。この時は自ら望んで太宰府に赴任していた)は、地方豪族の武士団を率いて撃退することに成功した。刀伊の船は帰路、高麗の水軍によって壊滅させられ、連行された日本人捕虜200余名が救出された。
 (引用)当時の日本では、刀伊が旧渤海の故地に住むツングース系の女真人であることを、だれも知らなかった。政府は、襲来が高麗と無関係であるのを知ったが、高麗への警戒をゆるめなかった。また高麗が、捕虜にされた日本人を送還してくれても、なんら報いることをしなかった。公卿たちは、事件の認識と処理において、まことに鈍感で冷淡であった。<大江一道『地域からの世界史18・日本』朝日新聞社 p.83>
   ・   ・   ・   
 世界大百科事典内の刀伊の入寇の言及
 【平安時代】より
 …中国からは高級織物や書籍などが輸入され,日本の貴族の間に珍重されたが,とくに大量に輸入された宋銭は全国に流通し,商業・経済の発達に大きな役割を果たした。 こうして10世紀後半以降,おおむね平穏な対外関係を保っていた間に,突発的に起きたのが,1019年(寛仁3)の刀伊(とい)の入寇である。これは遼の支配下にあった女真族の一部族が壱岐対馬を襲い,北九州にも上陸して寇掠した事件であるが,大宰権帥藤原隆家をはじめ,在地豪族の奮戦によって,短時日の間に撃退することができた。…
 ※「刀伊の入寇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
 出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
   ・   ・   ・   
 1093年 「海賊船」を拿捕し真珠、水銀、硫黄、法螺などの貨物を接収し宋人と日本人の乗員を奴隷にした、と記録している。これらはすべて日宋交易における日本産の有力な交易物なので「海賊船」として拿捕したというのは単なる口実だとも考えられる。
   ・   ・   ・   
 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
 捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
  ・  ・  
 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
   ・   ・   ・   
 1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
 李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
 この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
 朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
 歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
 朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
 日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
   ・   ・   ・   
 1405年~1433年 明の永楽帝イスラム教徒で宦官の鄭和は、大艦隊を率いて南海遠征を行い、相手が弱いと見れば侵略して財宝を強奪した。
 世界の常識では、船団は海賊行為をおこない、敵対国の商船を襲撃していた。
 明国大艦隊は、目の前の日本を無視して東南アジア・中東に向かった。
  ・  ・  
 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
 朝鮮軍、227隻、1万7,285人。
 島民114人を虐殺し、民家1,939戸を焼いた。
 対馬守護代宗貞盛は700騎を率いて反撃し、朝鮮軍2,500人(一説では3,700人)を撃ち取り、日本側の戦死者は123人であった。。
 朝鮮軍は、台風を恐れて全軍撤退し、事実上の敗走であった。
 日本武士団700騎 vs. 朝鮮軍1万7,285人。
 日本の大勝利。
  ・  ・  
 ウィキペディア
 応永の外寇(おうえいのがいこう)は、室町時代の応永26年(1419年)に起きた李氏朝鮮による対馬への侵攻を指す。糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征(朝: 기해동정)と言われる。
 当時足利義持室町幕府の将軍)が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている。 朝鮮軍は227隻の船に1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、宗貞盛の抵抗により、朴弘信、朴茂陽、金該、金熹ら4人の将校が戦死し、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死し、朝鮮軍は動揺して逃走したが船に火を掛けられて大敗を喫した。朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほど戦果は不充分であったが結局実現しなかった。この外征以降、宗貞盛に日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされた。その後、宗貞盛李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮への通交権は宗氏にほぼ独占されるようになった。

 対馬再征計画
 7月9日(7月31日)に、対馬へ向けて出港し再攻撃することが提案されたが、兵の士気がすでに落ち、船の装備が破損し、風も強くなっていたことから得策ではないとして、台風が静まることを待ってから軍隊を整えて再遠征しても遅くはないとしたが、結局実現はしなかった
  ・  ・  
 凡人は歴史に学ぶ
 応永の外寇
 室町幕府の3代将軍・足利義満は甚だしく公家化しましたが、その子の4代将軍・義持は、わずか9歳で後を継いだものの、長じて将軍として活動するようになると、父とは反対のことをしました。義満が生前に望んでいた「太上法皇」の尊号が、朝廷からわざわざ下されたとき、義持はそれを辞退し、義満夫人の葬式も簡素に行い、義満の自慢だった政務中枢の北山第も、鹿苑寺金閣)を除いてすべて取り壊しました。
 また、義満が開始した明との貿易も、義持は日本にとって屈辱外交だと考え、冊封関係を否定。そのため、1411年(応永18年)にやって来た明の使者を兵庫の港から帰してしまい、入洛させなかったのです。武家の原理に戻ろうとした義持は、父の外交政策も根本的に否定し、保守的・国粋的に徹しようとしたのです。また、勢力を盛り返そうとする守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回り、比較的安定した政権を築き上げました。
 そして1419年(応永26年)6月、「応永の外寇」なる事件が勃発します。朝鮮の将軍・柳廷顕(りゅうていけん)、李従茂(りじゅうも)らが、蒙古兵とともに(蒙古兵は誤認とする説が強い)、兵船1300余艘を率いて対馬に襲来したのです。九州と対馬の諸豪族たちとの間で壮絶な戦闘となりましたが、最後は日本軍が大勝利し、その後、朝鮮は日本襲撃を断念します。
 この知らせを受けて驚愕したのが幕府です。日明関係がよろしくなかった時ですから、すわっ、元寇の再来かと思い慌てふためきました。義持も石清水八幡宮に参籠して無事を祈願しました。このとき、風もないのに八幡若宮の鳥居が倒れ、義持を仰天させたといいます。
 しかし、実際のところは、元寇のような大層なものではありませんでした。朝鮮の太宗が、当時の倭寇による掠奪の激しさに閉口し、倭寇の本拠地と思われる対馬を攻撃したのであって、元寇のときのように日本を征服しようなどという意図は全くなかったのです。
 しかし、そんなことは九州の武士にも足利将軍にも分かりません。明も預かり知らないことですから、事件の2、3週間後に国交を求めて使者を送ってきました。幕府は「ひとの国に攻撃をしかけながら、何という図々しさか」と怒り、明とは国交を断絶する旨を伝え、返事の国書を与えて帰国させたのです。その内容の一部は、次のようなものです。
 「明国の使臣が両国往来の利をしきりに説いているのに、義持がこれに応じないのは、先君義満が病に倒れた時に占ったところ、諸神の祟りであるのが明らかになったからだ。わが国は古来、外国に向かって臣と称したことはないのに、義満は暦と印を受けた。わが過ちを認めた義満は、死に臨んで永く外国との通交を絶つことを誓った。自分は神明の意にしたがい、先君の命を奉ずるのみである。昔、元兵100万が攻め寄せてきたが、神兵の援けによりこれを海の藻屑とした。今わが態度を怒り、攻め寄せるなら、迎え撃って戦わん」
 この返書をもらった明帝は、「いったい何のことやら」とずいぶん怪訝に思ったのではないでしょうか。
  ・  ・  
 1428年 世宗大王は、日本からコメ作りや水車の製造など多くの事を学んだ。
   ・   ・   ・   
 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
 後期倭寇は中世のバイキングに似たところがあった。
   ・   ・   ・   
 豊臣秀吉朝鮮出兵・唐入り。
 1792年文禄の役、1797年~98年慶長の役。 
   ・   ・   ・   
 明治43(1910)年 「韓国併合ニ関スル条約」により日本は大韓帝国を併合して自国の領土とした。
 多くの朝鮮人は反天皇反日で、その中に過激なテロリストが存在していた。  
 貧しい朝鮮半島から豊かな日本列島への朝鮮人による民族大移動。朝鮮人若者は低賃金労働者として日本人労働者から職場・仕事を奪った為に、貧困日本人の反朝鮮人感情が膨らんでいった。
 キリスト教共産主義朝鮮人テロリストは、大正デモクラシー労働争議や小作争議、社会主義運動や部落解放運動、国家主義革新運動などで混乱している日本に潜入してきた。
 大正12(1923)年9月1日 関東大震災
   ・   ・   ・   
 大正13(1924)年1月5日 朝鮮人テロリスト集団の義烈団による二重橋爆弾事件。
   ・   ・   ・   
 昭和6(1931)年9月18日 満州事変。
   ・   ・   ・   
 昭和7(1932)年1月8日 桜田門事件。上海系朝鮮人テロリストによる昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件。
           1月28日(~5月) 第一次上海事変勃発。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
   ・   ・   ・