🎍8〕─3─崇神天皇陵「驚愕の構造」。いまも生きる天皇の心と2000年前の天皇の言葉。~No.22 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 何故、数千年前に天皇家・大王家が奈良で生まれ、現代まで大王制度・天皇制度が滅びず受け継がれてきたのか。
 それは、神話を源泉とする「天皇の正統性」が日本国・日本民族の心柱として護られてきたからである。
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 2024年5月24日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「この水は「はるか未来の民」をも思うなのかもしれない…なんと「2000年もの間」田をうるおしてきた崇神天皇陵「驚愕の構造」
 あの時代になぜそんな技術が!? 
 ピラミッドやストーンヘンジ兵馬俑三内丸山遺跡五重塔に隠された、現代人もびっくりの「驚異のウルトラテクノロジー」はなぜ、どのように可能だったのか? 
 現代のハイテクを知り尽くす実験物理学者・志村史夫さん(ノースカロライナ州立大学終身教授)による、ブルーバックスを代表するロング&ベストセラー「現代科学で読み解く技術史ミステリー」シリーズの最新刊、『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』と『古代世界の超技術〈改訂新版〉』が同時刊行され、続々と増刷されています! 
 【画像】崇神天皇陵の手前の山辺道を右折すると…あまたの古墳に彩られた古代の道
 国内・海外のさまざまな遺跡を直接訪れ、そこに隠された「古代の超技術」を“自らの目”で探求してきた志村さんが、今春訪れたのが「やまのべのみち」です。
 古の天皇の陵墓(古墳)をはじめ、さまざまな事跡・遺跡に次々と遭遇できる「やまのべのみち」は、日本の古代、すなわち『古事記』や『日本書紀』、『萬葉集』の時代を実際に体感できる最良の場所とも言われます。
 前編では、「やまのべのみち」の途上で出会う「前方後円墳」の構造と機能の謎を解き明かします! 
 「古代の超技術」の謎を解く
 本稿のテーマとなる山辺道の南北の分岐点に位置する石上神宮(写真・ kazu_m49)
 私が古代世界史に興味をもったきっかけは、小学生の頃に『少年少女世界の歴史 第一巻 古代文明のあけぼの』(あかね書房)という本を読んだことだった。エジプトの大ピラミッドをはじめとする巨大な石造古代遺跡に圧倒された。
 また、中学校の修学旅行で奈良を訪れ、法隆寺五重塔薬師寺東塔、東大寺大仏殿などの古代木造建築物を見たとき、私はすっかり古代日本史の虜(とりこ)になった。そのとき私を魅了したのは、単純に、それら巨大な、美しい形の「物」であった。
 “おとな”になってからは、私自身が長年、半導体エレクトロニクスという現代の最先端技術分野の研究に従事したこともあり、私の「古代史」に対する興味は「コンピュータも大型クレーンもない時代に、なぜあれだけ大きな、高い建築物を精巧に造ることができたのか」という「謎」、具体的には「古代の超技術」に移った。
 幸いにも、この約40年間で、国内外の多くの古代遺跡や古代建造物を訪ね、自分の目で見て、私が抱いた「古代の超技術」の「謎」の多くを、自分なりに解明できた。
 その「謎解き」を縷々(るる)述べたのが、私自身の幼時からの読書、勉強、研究・道楽、思索、総じて「人間論」の「集大成」ともいうべき、昨年12月に上梓した『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』『古代世界の超技術〈改訂新版〉』(講談社ブルーバックス)である。
 日本古代史上の重要人物たち
 私の「古代史」への興味は「物」から「技術」へ、そしていま「人」、つまり日本古代史上の重要人物にかかわる史実と物語へと移っている。
 特に2~7世紀、『魏志倭人伝』や『記紀』(古事記日本書紀)、『萬葉集』の時代の「人」を中心とする日本古代史は面白い。私はすでに、この時代にかかわる小説を含む100冊以上の本を読んでいるが、「日本国創成期」の重要人物、史実・推測に対する興味は尽きることがない。
 日本の古代、つまり『記紀』や『萬葉集』の時代を実見・体感できる最良の場所が「やまのべのみち」である。「やまのべのみち」については、「山の辺の道」「山ノ辺ノ道」「山辺の道」など、いくつかの書き方があるが、本稿では『古事記』にならい「山辺道」と表記する。
 南北2つのルート
 図1 山辺道(南ルート)
 いま、奈良県桜井市の桜井駅(JR西日本・桜井線[愛称:万葉まほろば線]、近鉄大阪線)から大神(おおみわ)神社、景行(けいこう)天皇陵、崇神(すじん)天皇陵、石上(いそのかみ)神宮などを経て、天理駅にいたる約16kmの山辺道は「ハイキングコース」として人気があるらしいが、私のような古代史好きの者は、歴史上の人物や事跡・遺跡に次々と遭遇できることに終始、胸をときめかせながら歩くことになる。
 じつは、上記のコースは、一般に「山の辺の道・南ルート」とよばれるものであり、『山の辺の道の遺跡を訪ねて』(天理市教育委員会、2004)によれば、これとは別に、石上神宮以北、布留(ふる)遺跡、石上大塚古墳などを経て櫟本(いちのもと)駅にいたる約7kmの「山の辺の道・北ルート」がある。
 また、「山辺道」の定義も複数あるが、本稿では図1に示す「南ルート」を「山辺道」として扱うことにする。
 「コフトモ」との散策
 私は、桜が満開のうららかな春の日、同好の「コフトモ(古墳友だち)」3人と桜井駅から天理駅まで、適宜「寄り道」をしながら散策した。
 地図では約16kmとなっているが、実際に歩いた距離は約27km、ほぼ中間点の天理市トレイルセンターでの昼食時間を含み、約10時間の「古代史散歩」だった。
 大和桜井に生まれ育った日本古典の泰斗・保田與重郎(やすだ・よじゅうろう/1910~1981)は、

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 〈今いふ山ノ邊ノ道は、勝地大和の中でも、春はことにうるはしい道である。三輪から狭井の址、玄賓庵、檜原社の前をへて、丘を上り下りする。穴師、巻向あたりの桃の花蔭の赤埴の畑道は、色も眺めも大和第一と私は自分では信じ、人にすすめて同意を得ることが多い。しかもこの道が、わが國の「歴史時代」の曙光に照らされた道であつたといふ民族の歴史の意味を、その春陽桃花の下を歩きつつ、詠嘆をこめて思ひ出すことであつた。それは山ノ邊ノ道を舞薹とし、道邊の諸々を歌枕とした、「萬葉集」の数々のうたを思ふよりも、はるかに身につまるものであつた〉

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 と書いているが(参考図書1)、われわれはまさに、うるわしき春の日、「春陽桃花の下」を「わが國の『歴史時代』の曙光に照らされた道であつたといふ民族の歴史」を想いながら山辺道を歩いたのであった。
 古代日本の原風景
 古代の山辺道は、「今の櫻井市に敷島といふ地名が、初瀬(ハセ)川と粟原(オオバラ)川に挟つた平野の一ケ所にある。古名で海石榴市(ツバイチ)、今の金屋の対岸である。このあたりから、三輪山の麓を通り、巻向(マキムク)、穴師(アナシ)から、渋谷(シブタニ)、釜ノ口をへて、北の端は、石ノ上(イソノカミ)の近く勾田(マガタ)といふあたりまで」(参考図書1)の幅約2m足らずの小道であったらしい。
 現在の山辺道も、原風景の「幅約2m足らずの小道」であることに変わりはないが、前述のように、桜井駅~天理駅の約16kmの「古代史」を堪能できるハイキングコースとなっている。古代の奈良盆地は沼地や湿地が多く、これらを避けて、山林、集落、田畑の間を縫うように三輪山龍王山などの山裾に沿って造られた道であるため、曲がりくねったところが多い。
 ともあれ、山辺道の沿道には平等寺大神神社、狭井(さい)神社、檜原(ひばら)神社、景行天皇陵(渋谷向山古墳)、崇神天皇陵(行燈山古墳)、櫛山(くしやま)古墳、長岳寺、石上神社などの多くの神社や古墳があり(図1)、当時の古代国家の中枢がここにあったこと、山辺道が文化交流の重要な幹線道路であったことがわかる。
 人と神々の間
 前掲の保田與重郎にいわせれば、桜井市は「國の根源の地」であり「大和の磯城島(シキシマ)を中央にした巻向(マキムク)、三輪、磯城、泊瀬(ハツセ)、磐余(イハレ)からなる國の初めの土地」なのである。
 山辺道とともに「最古の官道」として知られる「磐余道(いわれのみち)」は、「一段と古い時代、まだ人と神々との間の遠くなかつた日の道」である。
 このように日本の古代史が詰まった山辺道であり、興味深いことは尽きないのではあるが、本稿は、拙著『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』第2章で縷々述べた「古墳」を主役にした話題に絞ることにする。
 山辺道の出発点
 写真1 佛教伝来之地碑(撮影:柳澤万里枝)
 桜井駅から30分ほど歩き、初瀬川(大和川)を超えたところに金屋河川敷公園がある。このあたりが、昔、中国大陸、朝鮮半島からの船が難波津(大阪)から大和川をさかのぼって到着し、多くの使者や物品が上陸した海柘榴市(つばいち)で、山辺道の出発点である。
 第29代欽明(きんめい)天皇(在位539? ~571)の時代、この地域一帯は磯城島金刺宮(しきしまかなさしのみや)が置かれ、外国との交流も盛んで「複雑な國際情勢下の帝都」(参考図書1)だった。
 そのようななか、552年、百済からの使者がこの地に上陸し、佛教を伝えたといわれ、いま、その地に「佛教傳来之地碑」(写真1)が建てられている(1997年7月「日本文化の源流桜井を展く会」建立)。
 東大寺・平岡定海(ひらおか・じょうかい)別当揮毫(きごう)の迫力ある文字が深く刻まれた、高さ3.8mの堂々たる石碑である。
 「佛教の伝来」は、単に佛教という宗教(あるいは思想)の伝来を意味するものではない。当時の中国・朝鮮半島の最先端技術の伝来・移植をもたらし、以後の日本古代国家の革新的発展をもたらすことになる。
 そして、「乙巳(いっし)の変」「大化の改新」(いずれも645年)とよばれる日本古代史上最大の「事件」を経て、日本が「律令国家」への道を驀進することになったのは周知のとおりである。
 「前方後円墳」という呼称への疑問
 写真2 山辺道沿いの三古墳(参考図書2より一部改変、写真提供:梅原章一氏)
 海柘榴市の「佛教傳来之地碑」から3時間ほど歩くと景行天皇陵(渋谷向山古墳)にいたり、そこからさらに20分ほどで崇神天皇陵(行燈山古墳)に着く(図1参照)。
 ちなみに、『古事記崇神天皇条に「(崇神の)御墓は山辺道の勾の岡の辺にあり」と書かれ、また景行天皇条に「(景行の)御墓は山辺道の上にあり」と書かれているので、山辺道が両天皇陵の設営以前から存在していたことは明らかであり、これが文献上「山辺道」の初出である。
 第12代景行天皇(在位71? ~130? )、第10代崇神天皇(在位前97? ~前30? )いずれの陵(みささぎ)も、巨大な「前方後円墳」である(写真2)。
 このような形の陵を「前方後円墳」とよぶのは、江戸時代後期の尊王論者・蒲生君平(がもう・くんぺい)が『山稜志(さんりょうし)』で「前方後円」という言葉を使って以来の“悪習”であり、私は拙著『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』第2章で、「前方後円墳」なる呼称はまったく論理的ではなく、「方形部合体型円墳」とよぶべきであるということを論証した。
 ここでは、その詳細を繰り返さないが(興味のある方は『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』をご参照いただきたい)、多くの読者が違和感を覚えるであろうことを覚悟のうえで、以後、「方形部合体型円墳」という言葉を使うことにする。
 古墳の構造に秘められた「意味」
 円墳部に主被葬者を入れた石室・石棺などがあることから明らかなように、「前方後円墳」はあくまでも「円墳」である。
 方形部は、その円墳に合体したものであり、関連する祭祀の場としての「目的」をもっていたであろうが、それだけの意味ではなかったのである。
 巨大な方形部合体型円墳は、ほぼ例外なく周濠をともなっているが(写真2)、それは水田耕作に不可欠な灌漑用水を安定的に供給する「溜池」の役割を果たしていた。
 周濠の容積を大きくすればするほど開拓可能な水田の面積が増し、結果的に稲の収穫量が増える。周濠の容積が拡大するということは、墳丘を造るための盛り土の量が増すということであり、結果的に、より大きな方形部合体型円墳の築造へとつながる。
 方形部の規模(幅、長さ、高さ)は陵の周濠の容積に比例し、それは、繰り返しになるが、水田の面積、稲の収穫量に比例するのである。
 以上は、前掲の拙著『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』第2章で詳細に述べたことの要旨である。
 最も驚かされた「事実」
 上左・写真3 崇神天皇陵円墳部の周濠と斜樋(筆者撮影) 上右・写真4 崇神天皇陵周濠の底樋と斜樋(写真提供:田久保晃氏) 下・図2 崇神天皇陵と櫛山古墳の位置関係(参考:田久保晃『水田と前方後円墳』、農文協プロダクション、2018)
 今般、私が山辺道を実際に歩いて最も驚き、感動したのは、古墳周濠の水は「古墳時代」だけのものではなく、現在まで連綿と1500年以上もの間、水田耕作の灌漑用水の「溜池」として使われているのを自分の目で確かめられたことである。
 崇神天皇陵円墳部の周濠と斜樋(しゃひ)を写真3に、底樋(そこひ)と斜樋を写真4に示す。斜樋とは、堤の斜面に沿って設置し、底樋に接続する管である。
 崇神天皇陵周濠の水は、底樋と斜樋を通して、灌漑用水として周囲の水田(写真2参照)に供給されている。つまり、図2に示すように、崇神天皇陵の周濠は3つの池で構成されており、いまでも「現役」の灌漑用水溜池なのである。
 貴重な証言
 写真5櫛山古墳の周濠溜池(撮影:柳澤万里枝)
 崇神天皇陵円墳部と石畳の残る山辺道をへだてて隣接し、より山側の高い位置にある櫛山古墳にも、同様の「現役」灌漑用水溜池が見られる(写真5、図2)。
 櫛山古墳の2つの池は、江戸時代に灌漑用溜池として掘られたものといわれているが、古墳築造当時からもともとあった周濠を改修したものと考えるのが妥当であろう。櫛山古墳の南側の池には底樋があり、傾斜を利用して、現在でも崇神天皇陵の上池に水を流せるようになっている(参考図書2)。
 崇神天皇陵の西側に拡がる水田地帯の灌漑用水は、天理市の柳本(やなぎもと)水利組合によって管理されてきた。その組合長の、崇神天皇陵周濠の水がいまでも「現役」の灌漑用水であることを語る貴重な話が参考図書2に載っている。以下、要旨を引用する。

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 〈組合が管理する水田面積は約100ヘクタール、約300戸の農家が組合に加入している。もともと水利組合の水田は、崇神天皇陵とその西側500メートルほどにある黒塚古墳の周濠の水を灌漑水源としていた。奈良盆地は雨が少ない地域であるが、柳本はその2つの周濠の水のおかげで、夏場に雨が少なくても灌漑用水確保に苦労することがほとんどなかった。
 いまでは、奈良盆地のはるか南、和歌山県吉野川から分水した水が柳本の水田にも補水されるようになり、基本的に干ばつの心配はなくなった。それでも、30~40ヘクタールの水田が周濠の水をあてにしており、周濠の水は大事に利用されている〉

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 いまも生きる「2000年前の天皇の言葉」
 崇神天皇陵周濠の満々とした貯水を目の前で見た私は、崇神天皇が詔した「農は国の基本である。人民のたのみとして生きるところである。今、河内の狭山の田圃は水が少い。それでその国の農民は農を怠っている。そこで池や溝を掘って、民のなりわいを広めよう」という言葉(宇治谷孟 現代語訳『日本書紀(上)』講談社学術文庫、1988)を思い出した。
 2000年以上も前の崇神天皇の詔は、いまも生きているのである。
 ちなみに、天皇陵と治定(じじょう)されている古墳の周濠の水は、宮内庁の管理下にあるらしい。そのため、水田を灌漑したいときには、水利組合は宮内庁に周濠の水の放流を願い出て、その水の分配・管理を水利組合が行うことになっているそうである。
 すべての天皇陵正面の拝所に立てられている宮内庁管理の説明札を見れば、なるほどと合点がいく話である。

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 【参考図書】
 保田與重郎保田與重郎文庫17 長谷寺/山ノ邊の道/京あない/奈良てびき』(新学社、2001)
 田久保晃『水田と前方後円墳』(農文協プロダクション、2018)

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 古代日本の超技術〈新装改訂版〉 古代世界の超技術〈改訂新版〉

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 志村 史夫(ノースカロライナ州立大学終身教授(Tenured Professor))
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 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
 天皇の御威光とは、庶民を「大御宝」と念う天皇の御稜威、大御心である。
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2024-05-18
🗻3〕─1・B─日本人起源の認識が変わる三重構造説。弥生時代は前後期あった。~No.5 
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 日本人の平均寿命
 縄文・旧石器時代は15歳前後。
 弥生時代は18~28歳。
 古墳時代は25歳前後。
 飛鳥・奈良時代が28~33歳。
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 日本列島の人口
 縄文時代は約27万人。
紀元前2300年から紀元前1000年までの約1000年間で、8万人まで落ち込んだ人口はおよそ8倍の60万人
 弥生時代は約60万人、
 奈良時代には500万人と順調に伸びていったが、平安時代の700万人をピーク
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 日本列島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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 日本民族人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
 つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
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 5月24日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「天皇の陵墓も例外にあらず…! じつは、古墳は「単なる権力者の墓」ではなかった。周濠構造に秘められた「古代日本人の超技術」
 志村 史夫ノースカロライナ州立大学終身教授
 あの時代になぜそんな技術が!?
 ピラミッドやストーンヘンジ兵馬俑三内丸山遺跡五重塔に隠された、現代人もびっくりの「驚異のウルトラテクノロジー」はなぜ、どのように可能だったのか?
 現代のハイテクを知り尽くす実験物理学者・志村史夫さん(ノースカロライナ州立大学終身教授)による、ブルーバックスを代表するロング&ベストセラー「現代科学で読み解く技術史ミステリー」シリーズの最新刊、『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』と『古代世界の超技術〈改訂新版〉』が同時刊行され、続々と増刷されています!
 国内・海外のさまざまな遺跡を直接訪れ、そこに隠された「古代の超技術」を“自らの目”で探求してきた志村さんが、今春訪れたのが「やまのべのみち」です。
 古の天皇の陵墓(古墳)をはじめ、さまざまな事跡・遺跡に次々と遭遇できる「やまのべのみち」は、日本の古代、すなわち『古事記』や『日本書紀』、『萬葉集』の時代を実際に体感できる最良の場所とも言われます。
 後編では、「やまのべのみち」を歩くとわかる、古墳時代と現代の意外な結びつきが明らかにされます。
 なんと、「古墳の上に建てられた住宅」がある!?
 【書影】古代日本の超技術〈新装改訂版〉
 【書影】古代世界の超技術〈改訂新版〉
 卑弥呼の墓
 崇神天皇陵の手前の山辺道を右折すると、龍王山ハイキングコースに入る。
 今回は山辺道を直進したが、ちょうど2年前の4月、山頂(586m)まで約5kmの古墳巡りを楽しんだ。少なからぬ横穴墓を探しながらの山登りハイキングである。いくつかの横穴墓には入ることができる。
 山頂に達する頃にはかなりの汗をかくが、そこは箸墓(はしはか)古墳、大和三山耳成山(みみなしやま)、畝傍山(うねびやま)、香具山(かぐやま)を眼下に、そして二上山(にじょうさん)、葛城山(かつらぎさん)を眺望できる絶景スポットである(写真6、図1)。
 【写真】龍王山頂上(586m)からの眺望写真6 龍王山頂上(586m)からの眺望(撮影:柳澤万里枝)
 眼下に横たわる箸墓古墳(写真6右下)は3世紀中期~末期、古墳時代の幕開けを告げる全長276m、高さ30mの巨大な方形部合体型円墳である。
 宮内庁により、第7代孝霊(こうれい)天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の陵墓と治定されているが、近隣の纏向(まきむく)遺跡の規模や出土品などから、私は『魏志倭人伝』に登場する女王・卑弥呼の墓であろうという説に賛成したい。
 【地図】 山の辺の道図1 山辺道(南ルート)
 最大規模の「都市的集落」
 考古学の調査・研究によれば、箸墓古墳の造営当時、纏向地域には国内最大規模の都市的性格をもった集落があったとされている。図3に示されるように、この地域は緩斜面を下る「河道」からの用水が豊富で、水田耕作に適した土地であった(参考図書2)。
 【図】古墳時代前期の纏向地域復元図図3 古墳時代前期の纏向地域復元図(提供:田久保晃氏)
 すでに述べたように、水田稲作にとって最も重要なのは、いうまでもなく、水の安定的確保であるが、天候に左右される「自然の水」に頼らないためには灌漑用水が必要である。
 具体的には、溜池と灌漑用水路である。水田の広さは溜池の容積、つまり貯水量に比例するだろう。
 稲の増産を可能にした土木技術
 一般的には、図4(a)に示すように、水は川から用水路を経て水田に供給されるが、このままでは、水量は天候に依存する川の水量に頼らなければならない。
 ところが、図4(b)に示すように、古墳周濠を「溜池」として利用すれば、水田への水の安定的供給が可能になる。
 【図】古墳周濠を利用した用水供給システム図4 古墳周濠を利用した用水供給システム(田久保晃『水田と前方後円墳』[農文協プロダクション、2018]を参考に作成)
纏向の人々は、川に井堰(いせき)を設けて取水し、古墳周濠へと導水して、干ばつに備えて貯水した(参考図書2)。
 古墳周濠の容積を大きくすればするほど開拓可能な水田の面積が増し、結果的に稲の収穫量が増す。古墳周濠の容積は、古墳の数と規模に比例する。実際、図3に示されるように、纏向地域には少なからぬ古墳が存在する。
 ヤマト政権の王墓
 翌日も天気に恵まれ、奈良盆地北にある、佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群(図5)東側のウワナベ、コナベ、ヒシアゲ古墳(写真7)を散策した。
 【図5・写真】奈良盆地の主要古墳とウワナベ・コナベ・ヒシアゲ古墳左・図5 奈良盆地の主要古墳(出典:田久保晃『水田と前方後円墳農文協プロダクション、2018) 右・写真7 ウワナベ・コナベ・ヒシアゲ古墳(国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)
 上図「奈良盆地の主要古墳」の拡大画像表示
 佐紀盾列古墳群は、古墳時代前期から中期にかけてのヤマト政権の王墓を多く含む古墳群である。
 水の支配者
 ウワナベ古墳は5世紀中頃に造られたとされる全長約270mの、コナベ古墳も全長200m超の巨大古墳である。
 両古墳の周濠にも、満々たる水が蓄えられている(写真8、写真9)。
 【写真】ウワナベ古墳とコナベ写真の周濠上:写真8 ウワナベ古墳の周濠 下:写真9 コナベ古墳の周濠(撮影:いずれも柳澤万里枝)
 「水の支配者が生産の支配者である」という考え方から、古墳周濠と灌漑の問題を「畿内古墳立地の一考察」という論文で取り上げた伊達宗泰は、「ウワナベ・コナベの周濠の水は現在でも70ヘクタールの水田をうるおし、しかも中世文書にもその利用の記録が発見される。大仙陵(仁徳陵)にいたっては117ヘクタールにおよぶ水田の水を供給している。」と書いている(参考図書3)。
 たとえば写真2のような、大古墳の周囲に広がる水田を目の当たりにすれば、拙著『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』第2章で詳細に述べた方形部合体型円墳(「前方後円墳」)の方形部ー周濠ー水田との関係が明らかになり、ヤマト政権の拡大、方形部合体型円墳の巨大化と全国的波及の理由がすっきりと理解できるのである。
 コナベ古墳の北東の位置に隣接するヒシアゲ古墳に水が蓄えられた周濠は見られないが、航空写真(写真7)から、周濠の痕跡は明らかである。
 日本列島の長い歴史の中で、九州から東北南部にかけて、水稲耕作がはじまった時期と「古墳時代」が一致することは歴史的事実であるが、その「一致」の理由がよく理解できる。
 伝説的な嫉妬深さ
 ところで、ヒシアゲ古墳の被葬者は、宮内庁により第16代仁徳(にんとく)皇后・磐之媛命(いわのひめのみこと)と治定されている。
 ヒシアゲ古墳の全長219mという規模は、皇后陵としては破格の大きさに思えるが、それは、磐之媛命が第17代履中(りちゅう)天皇、第18代反正(はんぜい)天皇、第19代允恭(いんぎょう)天皇の母であることと、伝説的な嫉妬深さに関係することなのだろうか。
 磐之媛命に関しては、『古事記仁徳天皇条に
 {その太后石之日売命(いわのひめのみこと)、甚(いと)多く嫉妬(ねた)みたまひき。故、天皇の使はせる妾(みめ)は、宮の中に得臨(えゆ)かず、言立てば、足もあがかに嫉妬みたまひき}
 という記述が見られるように、嫉妬深い人物として知られる。
 そのさまから他の妾が宮殿に会いに行けず、仁徳天皇は自身が宮殿を離れたときか、磐之媛命が宮殿から出かけたときに妾たちを迎え入れるしかなかったという。
 日本古代史がもつ「2つの面白さ」
 『古事記』はまた、仁徳は黒日売(くろひめ)という美女を見初めたが、黒日売は磐之媛命の嫉妬を怖れて国に帰ったという話も伝えている。『日本書紀』には、仁徳が女官の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を気に入ったが、磐之媛の嫉妬が強くて召し上げられないと嘆く話が出てくる。
 ことの真偽はともかく、磐之媛命の嫉妬深さについては『記紀』が何度も述べていることであり、それがヒシアゲ古墳の、皇后陵としては破格の大きさと関係しているのは間違いないだろう。このようなことを考えると、私は「日本古代史」の史実の面白さに加え、文学的面白さを感じるのである。
 「渡来亀」発見!?
 佐紀盾列古墳群では、他にも面白い体験をした。
 コナベ古墳の周濠に、たくさんの亀が生息しているのを見つけたのである(写真10)。
 【写真】コナベ古墳周濠の亀写真10 コナベ古墳周濠の亀(撮影:筆者)
おそらく鯉などの魚も生息しているのだろうが、このあたりの地層が粘土質のためなのか、水が濁っていて見ることができない。私が訪れたのは、まさにうららかな春の日であり、亀たちは仲間とともに甲羅干しに出てきたものと思われる。
 昔から「鶴は千年、亀は万年」といわれるので、コナベ古墳周濠の亀たちは古墳築造当時から生息していると思いたい。しかし、いくら「亀は万年」の亀でも、実際にはそんなに長生きできないから、私は勝手に、少なくとも古墳築造当時に生息していた亀(百済から渡来した帰化亀?)の子孫ではないかと空想した。
 もちろん、科学的、生物学的根拠はまったくないが、「そう」思うと、古墳周濠が現役の灌漑施設になっていることに加え、古墳にいっそうの親しみが湧くのではないか。
 古墳時代の先祖から伝わる亀たちの「昔話」を聴きたいものだ。
 「古墳と暮らす」現代人
 閑話休題
 ちょうど昼過ぎ、山辺道のほぼ中間点にあり、美しい眺望が楽しめる開放的なデッキも設置されている天理市トレイルセンターに到着。早速、格別の味の生ビールで乾いた喉を潤し、空いた腹を満たし、山辺道後半に向けて英気を養った。
 天理市トレイルセンターは、食事や休息の場であるだけでなく、東殿塚(ひがしとのづか)古墳出土の船の精巧な線刻画で知られる鰭付楕円筒埴輪(ひれつきだえんとうはにわ)のレプリカや、古代の奈良盆地ジオラマなどを展示した文化施設でもある。また、前述の保田與重郎が郷里の“大和”に捧げた業績が紹介されている。
 同センターを出発して天理市に入ると、「古墳のようす」は一変する。
 古墳が現代人の日常生活に溶け込んでおり、現代人が古墳と暮らしているのである。
寺の境内に古墳が!
 ほどなく、4世紀前期の全長110mの燈籠山(とうろうやま)古墳に出合うのだが、この古墳は念仏寺の境内にあり、いまは本堂背後の広大な“現代の墓地”になっている(写真11)。
 もし、そこに「燈籠山古墳」という看板(写真12)がなければ、誰も古墳だとは思わないだろう。
 【写真】燈籠山古墳とす看板上:写真11 “現代の墓地”燈籠山古墳 下:写真12 燈籠山古墳を示す看板(写真:いずれも『燈籠山古墳』天理市中山町の前方後円墳より
また、明らかに古墳の上につくられたと思われる畑もところどころに見られるが、これらを目にして、ここがもともとは古墳であったと思う人はいないだろう。
 古墳の上に建てられた住宅
 天理市山辺道沿いの萱生(がよう)町、竹之内町には、写真13のような環濠集落が見られるが、これらの環濠は明らかに古墳周濠を利用したものであろう。つまり、「環濠集落」の集落は古墳の上にあるということだ。
 【写真】萱生環濠集落写真13 萱生環濠集落(gettyimages)
 古墳の「霊」を供養する
 本来は神聖な場所であるべき古墳(墳墓)の上に墓地や畑や集落がつくられていることに、私は眉を顰(ひそ)めるのであるが、萱生町環濠集落からほどなくのところにある天満宮の境内に、ひっそりと立つ「古墳霊供養塔」を見つけ、ほっとした気持ちになった(写真14)。
 写真14 古墳霊供養塔(筆者撮影)
 これは「古墳被葬者」を供養するのではなく、古墳の「霊」を供養するものである。背面に「昭和五十五年九月建立、有志一同」と刻まれている。私は、「古墳霊供養塔」と、それを建立した「有志一同」に深く頭を下げた。
 古墳の頂上にて
 その後、夜都岐(やつぎ)神社や内山永久寺跡、石上神社を経て、天理高等学校の敷地内にある西山古墳に達した。
 西山古墳の築造時期は、古墳時代前期の4世紀と考えられている。周濠は埋め立てられており、地形改変が行われているために元の形状がはっきりしないが、現状では「前方後方墳」と見られる。
 この西山古墳は樹木に覆われていないため、高さおよそ16mの頂上まで登ることができる(写真15)。
 【写真】西山古墳写真15 西山古墳(撮影:柳澤万里枝)
 西山古墳の頂上で、われわれ「コフトモ」は達成感と開放感に浸りながら、およそ10時間にわたる、現代の山辺道を歩く「古代史散歩」を終えた。
 山辺道がたどった「道」
 さて、古代の山辺道は、歴史の変遷の中で、どのような道をたどったのであろうか。現代人の私としては興味深いところである。
 大和、山辺道をこよなく愛した保田與重郎の言葉(参考図書1)を引用して、山辺道に想いを馳せたい。
 {〈欽明天皇敏達天皇ののち、都は櫻井をへて飛鳥にうつり、山ノ邊ノ道は國史の幹線から没しきる。(中略)
 都が櫻井(磐余)をへて飛鳥地帯へ移つてからは、山ノ邊ノ道はその名さえ忘れされた。つばいちが繫栄し、街路樹といふものが植えられてゐたといふことは、「萬葉集」にみえてゐる。
 今日の山ノ邊ノ道は、大和の國中でも、一番ものしづかで、人情も平常のやうにうけとる。奈良から櫻井へ通る鐵道の沿線が、大和國原では一番温雅なやうだ。その沿線、櫻井から丹波市までの間の車窓から見てゐると、好ましい形をした、はつきりと大古墳とわかるものが三十数箇あつた。しかしこの線路に沿ひ、山べにかかつて列つてゐる村落と、平地たちつづく村は、どの一つをとつも、最もすぐれた總合藝術品でないものはない。大和に残る數千年来の遺物は、その時代時代のわが民族の最高藝術ならぬものはないが、この村々の總合藝術としての美しさ立派さは、天平や推古白鳳の一流作品に何ら劣らぬのである〉}
 * 
 本稿を閉じるにあたり、山辺道についての綿密・周到な事前準備、当日の詳細なガイドをしていただいた本居宣長記念館・吉田悦之名誉館長、貴重な資料を快く提供していただいた田久保晃氏に心から感謝申し上げたい。田久保氏は、数ある古代史書の中で、私が「破格の名著」と絶賛する『水田と前方後円墳』の著者である。
 【参考図書】
 保田與重郎保田與重郎文庫17 長谷寺/山ノ邊の道/京あない/奈良てびき』(新学社、2001)
 田久保晃『水田と前方後円墳』(農文協プロダクション、2018)
 伊達宗泰『大和考古学散歩』(学生社、1968)
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