🗻4〕─3・C─古墳の数は約16万基。日本が誇る古墳文化と巨大な古墳。~No.13 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2024年4月11日8:32 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「古墳の数は16万基、コンビニの約3倍! 日本が誇る「巨大な古墳」ができるまでの14プロセス
 コンビニ店数の約3倍近い数、約16万基もの古墳が国内に存在するのをご存じだろうか。日本が誇る古墳文化の楽しみ方を、その種類から造営方法まで、古墳見学を楽しむハウツーを5回にわたって伝授する。第1回は「古墳ができるまで」。
 【徹底解剖】古墳の作り方の14プロセス
■世界的にも特異な形状と規模
 土製建造物の技術の到達点
 エジプト・ギザのピラミッドや中国の始皇帝陵とよく比較される古代権力者の墓が日本最大の古墳・大山(仁徳陵)古墳である。
 墳長は486mで、航空写真で見て初めて鍵穴のような形の全体像を見ることができる巨大さだ。
 この大山古墳は、巨大古墳が相次いで築かれた古墳時代中期前半の築造だが、古墳時代初期でも墳長280mもの巨大な箸墓古墳が築造されていた。
 いったい、これほどに大規模な埋葬施設はなぜ築かれたのか。そもそも古代人はいかにして、この途方もない大きさの古墳を築き上げたのか。
 それは文献にはいっさい記されていないが、調査成果や出土品などからおおよそ推定できる。
 何事もそうだが、古墳の築造も、まず建設地を決めることから始まる。
冒頭に挙げた大山古墳は、堺の港付近の台地端部に造られているが、これは海から来る人々に、その威容を見せつけるためであった。
 場所が決まれば、地面に杭や縄で測量し設計図を描いた。広大な古墳築造には木の伐採もかなり多く行われただろう。
 それが終わると、次に土を掘って墳丘の土台などから土を盛り上げていく。土を固め石室を造ればほぼ完成だ。ただ、まさに言うは易し、その完成には小さいものでも数年、長大な前方後円墳なら数十年かかったとみられる。
■古墳ができるまで
 現代のような大型機械やトラックのない時代、古墳のような大規模なものをつくるのは困難であった。古代人がどのような技術で、どれほどの人手や予算で古墳を築造したのか。文献史料はなく、実地の調査や出土品などをもとに考えるしかない。また、文化的な影響を受けたと思われる中国や朝鮮半島との比較からも、ある程度は類推することが可能である。
1 古墳を設計する
 建物を造る場合、実際より小さな模型を作成して完成イメージを共有する。それと同様のことが古墳でも行われていたはずだ。
2 用地を選定
 古墳は被葬者の権力を示すものであるため、多くの人に見てもらえる山や丘など、人々が往来する交通の要衡が選ばれた。
3 予定地の木を伐採
 木の伐採は広範囲におよび森林を伐採して用地を確保する。大山古墳など全長数百m規模のものは多くの森林が伐採されただろう。
4 用地をならす
 伐採が終わると、今度は地面・基盤をならして整える。巨大な古墳ともなれば固い地盤であることも用地選定の絶対的な条件だった。
5 測量を開始
 最初の設計図をもとに、杭と縄を用いて測量したと思われる。これが終わると設計図を地面にも正確に描いていく。
6 地面に設計図を描く
 手の指や足の歩幅など人間の体を使って測る身度尺、水田などを方形に区画した方格地割の技術などが用いられたと考えられる。
7 周囲の土を掘る
 地面に描いた設計図に沿って、古墳の周囲を掘削し、掘り下げることで空堀や濠になる。また掘った土で盛り土を確保できる。
8 土を盛り上げる
 掘削して得られた土を古墳内面に盛土する。採土場である濠から網状編んだモッコに土を入れオウコ(天秤棒)で担いで運んだ。
9 盛土を固める
 盛土は最初に周囲に溝を掘り、その外側を土手状に高くして土で埋めてから固め、それを何度も繰り返して高くしていく。
10 石を運ぶ
 古墳の斜面は、むき出しではなく、石が葺かれていた(葺石)。そのための石が河原や石切り場、石材置き場から運ばれた。
11 葺石を葺く
 各斜面に葺石がはめ込まれることで古墳表面が石に覆われ、雨水からも保護された。装飾が施されていったと思われる。
12 石棺を造る
 石棺は輸送中に傷つくことがあるため、ある程度完成させてから、現場近くで石工が最後に仕上げていたとみられる。
13 石室を造る
 墳丘内に石室を造る。石棺を安置する玄室までの羨道(通路)が、石棺より狭い場合は、玄室内に石材を運び入れて石棺を造った。
14 完成
 石室内部の装飾を行い、墳丘上に埴輪などを並べて完成となる。こうして、埋葬の日に備えられたとみられる。
 監修/広瀬和雄(ひろせ・かずお)1947年京都市生まれ。同志社大学商学部を卒業。現在、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。主な著書に『前方後円墳の世界』(岩波新書)、『前方後円墳国家』(中公文庫)、『古墳時代像を再考する』(同成社)、『前方後円墳とはなにか』(中公叢書)ほか多数。
 上永哲矢
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 8月12日8:31 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「天皇にだけ許された前方後円墳から下位のリーダーも入った円墳まで 古墳の「形」と「大きさ」の謎
 ※「古墳時代の研究 7」都出比呂志「墳丘の形式」を元に作成(イラスト/蓬生雄司)
 日本にはコンビニ店数の約3倍近い数、約16万基もの古墳が存在する。日本が誇る古墳文化の楽しみ方を、
 その種類から造営方法まで、古墳見学を楽しむハウツーを5回にわたって伝授する。 第2回は「古墳の形」について。
 【図解】大きな前方後円墳天皇にだけ許されていた
■時代に応じて変化・進化
 形や大きさの法則性を探る
 ひと口に古墳といっても、その形には様々なものがある。大きくは「前方後円墳」「前方後方墳」「円墳」「方墳」の4つに分けることができる。その大きさや形状は、埋葬された人(被葬者)の階層によって決められていた。
 たとえば、多くの人に馴染みの深い「前方後円墳」は古墳の最上位に位置する。上から見れば鍵穴のような形をしていて、大王やその一族および、大和政権と密接な関係を持つ有力な首長が埋葬されたと考えられる。3世紀中頃に成立した形で、7世紀初め頃までの約350年間に造られた。前方後円墳は全国に約4700基あるが、被葬者の位によって大きさにも差があり、大山古墳のような巨大な規模のものは大王(天皇)のみに築造が許されていた。
 それに次ぐクラスの墳形が「前方後方墳」で、形状は「前方後円墳」に似ているが、後部も方形・台形に造られたという点で違いがある。こちらも各地の首長層に造られたと考えられるが、中央政権(大和政権)からの格付けは、前方後円墳の下位であったとみられる。その数は全国で約500基と比較的に少ない。造られたのが主に3世紀から4世紀末頃までに限定されていることもその理由だろう。
 それらに比べ「円墳」や「方墳」などは下位に属する古墳であるだけに数も多い。古墳は全国に約16万基あるといわれるが、9割を占めるのが「円墳」だ。その理由は、首長層(各地の政治的リーダー)の下位の中間層にまで、造墓が及んだ政治的理由に基づく。7世紀後半になっても築造が続いた。サイズは小型のものが多いが、埼玉県にある丸墓山古墳のような大規模なものも存在する。
「方墳」は5~6世紀の大王墓など巨大前方後円墳に付随したものも多く、7世紀になると大型のものが多くなる。それは「前方後円墳」の築造が終わりを迎えた時期でもあり、代わって大王や有力首長の墓として方墳が築かれたためだ。大阪府にある春日向山(用明陵)、蘇我馬子の墓と推定される石舞台古墳奈良県)などが有名である。
 古墳のランクとは?
 古墳の大小の差と形状は一見、無作為にも見えるが、実際は被葬者の位や大和政権との距離に応じ築かれるものが決まっていた。大和政権が君臨した畿内の一部では前方後円墳を頂点とした墓制が敷かれ、全国に広まった。
 監修/広瀬和雄(ひろせ・かずお)1947年京都市生まれ。同志社大学商学部を卒業。現在、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。主な著書に『前方後円墳の世界』(岩波新書)、『前方後円墳国家』(中公文庫)、『古墳時代像を再考する』(同成社)、『前方後円墳とはなにか』(中公叢書)ほか多数。
 上永哲矢
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 4月13日 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「仁徳天皇凌はクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵に匹敵する! 「前方後円墳」大きさランキング
 日本にはコンビニ店数の約3倍近い数、約16万基もの古墳が存在する。日本が誇る古墳文化の楽しみ方を、その種類から造営方法まで、古墳見学を楽しむハウツーを6回にわたって伝授する。第3回は古墳を代表する形といえばこれ「前方後円墳」について。
 【図解】こんなに大きい!仁徳天皇
■より大規模に墳丘を高くして
 権力の象徴となっていった
 古墳のなかで最上位に位置する「前方後円墳」の特徴は、やはり、その大きさと独特の形状である。 
 墳長は大山古墳(大阪府)の486m、誉田御廟山古墳大阪府)の425mが2トップ。それ以外に300mを超えるものが上石津ミサンザイ古墳(大阪府)、造山古墳(岡山県)、河内大塚古墳(大阪府)など西日本に6基あり、200mを超えるものを含めると合計39基。200m以上の古墳はいずれも前方後円墳に限られる。
 きれいな鍵穴の形の古墳もあれば方形部がやや細めや太めに造られるなど、築かれた時代の流行が認められる。たとえば3世紀の箸墓古墳奈良県)は、被葬者が埋葬された後円部より前方部が細く、前方部の頂から後円部の方向に向かって緩やかなスロープを描く。
 同じ奈良県でも、その少し後、3世紀後半の西殿塚古墳は後円部の最上段がやや高く、4世紀の行燈山古墳、渋谷向山古墳は突出して墳丘の最上段が高くなっている。また5世紀前半には前方部の幅が後円部の直径を超えるものが現れた。古墳時代中期に向け、全体的に巨大化していったのも、被葬者の権力を示すための動きとみられる。
 後円部で注目すべきは、墳丘上に設けられた方形の区画である。周囲を円筒埴輪で方形に囲み、さらに墳丘頂上の周囲にも円形に円筒埴輪を置いた。円形は神々の住まう天、方形は人々の住まう地を表すと考えられ、被葬者が統べていた共同体の再現および、土地の豊作と繁栄を願ったと考えられる。
 ただ、この前方後円墳は7世紀初めになると築かれなくなり、用明天皇聖徳太子の父)の頃以降、大王の古墳も方墳に変わる。聖徳太子が主導した天皇を中心とした中央集権国家体制が指向された時期に重なり、前方後円墳を権力の象徴とする体制が転換されたと推測される。
■三大陵墓の比較
 世界三大墳墓の一つに数えられる大山古墳。高さではピラミッドが世界一だが、全長で比べると230mのピラミッド、350mの始皇帝陵を上回る。
 比較すると大山古墳の巨大さがわかる。
 監修/広瀬和雄
 ひろせ・かずお 1947年京都市生まれ。同志社大学商学部を卒業。現在、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。主な著書に『前方後円墳の世界』(岩波新書)、『前方後円墳国家』(中公文庫)、『古墳時代像を再考する』(同成社)、『前方後円墳とはなにか』(中公叢書)ほか多数。
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