🎍46〕─3・②─戦う貴族は武者貴族となって日本を侵略者から守っていた。藤原隆家と刀伊の入寇。~No.146 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年11月30日 YAHOO!JAPANニュース 華盛頓Webライター「刀伊の入寇、その記録の一幕!海賊と侵攻に揺れた日本の沿岸
 古代の日本を襲った暗雲の一つに、「刀伊の入寇」という一連の事件があります。
 11世紀初頭、対馬壱岐、さらには九州沿岸の地は、女真族を主体とする賊徒の襲撃によって、血と炎に染まりました。
 そこには、北東アジアの複雑な国際情勢が絡み合い、歴史の波間に揺れる日本の姿が見て取れます。
 まず物語は、遙かなる北の地から始まります。
 926年、契丹渤海を滅ぼしたことで、女真族をはじめとする北方民族たちの交易ルートが断たれ、生活の糧を求めた彼らの視線は次第に南へと向けられるようになりました。
 1019年、刀伊と呼ばれる女真系の集団が、賊船50隻に約3000人を乗せ、対馬へと襲来したのは、そんな時代背景の中の出来事でした。
 対馬は突如訪れた惨劇に翻弄されます。
 殺戮、放火、略奪、そして人々の拉致。記録によれば、36人が命を落とし、346人もの住民が賊の手に連れ去られました。
 時の国司対馬守遠晴は何とか島を脱出し、大宰府にその窮状を訴えますが、対馬の傷は深く、住民たちの嘆きは海を越えても届かないほどに重いものでした。
 賊徒たちは次に壱岐へとその手を伸ばします。壱岐守藤原理忠は果敢にも147名の兵を率いて迎撃に出ますが、圧倒的な人数差に歯が立たず、壮烈な戦死を遂げたのです。
 彼の奮闘が光る一方で、壱岐嶋分寺の僧侶たちが繰り広げた抵抗劇もまた特筆に値します。
 常覚という僧侶が率いる住民と僧侶たちは、三度までも賊徒を撃退するものの、ついには寺は陥落。
 炎に包まれた寺とともに、多くの命が消え、残されたのはわずか35名の生存者だけでした。
 やがて、刀伊の魔手は九州本土にも及びます。
 筑前国肥前国を襲い、博多の警固所へと迫った彼らを迎え撃ったのが、大宰府藤原隆家です。
 隆家は文官でありながら、武器を手に持ち、兵を率いて奮戦します。
 彼の采配のもと、博多での上陸を阻止することに成功した日本側は、ついに賊徒を高麗へと追いやることに成功しました。
 しかし、物語はこれで終わりません。
 賊徒が逃れた高麗の地で、日本人捕虜たちが救出されるという意外な結末が待っていました。
 300名近い捕虜が高麗軍によって助け出され、丁重に扱われた末、日本へと送り返されたのです。
 高麗による手厚いもてなしは、善意であったにせよ、日本側の警戒心を煽る結果となりました。
 「新羅が改名したに過ぎない国に、どこまで信用を置けるのか?」という疑念は、大宰府の報告書にも記されています。
 二週間にわたる戦闘と混乱の中で、364名が命を落とし、1280名が拉致されました。
 壱岐では島民のほとんどが姿を消し、対馬でも住民の生活は壊滅的な打撃を受けました。
 一方で、この事件がもたらしたのは、単なる悲劇だけではありません。
 国内の防衛意識が高まり、大宰府を中心に、武士や文官たちが連携して国を守る姿勢が示されたのです。
 この事件は、遠く北の海を起点に、交易路の変遷、民族の興亡、そして異国の波が日本の海岸に押し寄せたことを物語っています。
 刀伊の入寇は、日本の歴史に刻まれた忘れがたい傷跡であると同時に、国際情勢の変化に直面した古代日本の姿を映し出す鏡でもあるのです。
 参考文献
 関幸彦(2021)『刀伊の入寇 最大の対外危機』中央公論新社
 華盛頓
 Webライター
 歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。
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 対馬壱岐・北九州の武士団は、大陸・朝鮮の日本侵略に対して軍事力を行使して天皇・日本国・日本人を守る為に組織された。
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 1419年 応永の外寇李氏朝鮮軍による対馬侵略。
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 日本人が朝鮮人を蔑視し差別するのには、正当な理由があった。
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 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
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 エセ保守系リベラル左派系メディアと教育が教えている武装放棄の憲法9条では、大陸や半島の日本侵略を阻止できないし、侵略者と酒を酌み交わすほどの友人になる事は日本人を犠牲にする事である。
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 オランダ調査会社は2021年に国際世論調査を発表「国の為に戦うか?」、日本人は13.2%で79カ国中最低だった。
 「僕らは〝在日日本人〟でありたい。日本危機の時はさっさと亡命する」
 寸土を失う者は全土を失う。
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2024-07-27
💍47)─1─17~19歳「皇室に関心ない」55%でさらに増加している。〜No.161 
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 2024年9月9日 MicrosoftStartニュース 婦人公論.jp「『光る君へ』で竜星涼さん演じる藤原隆家はのちに日本を守った英雄に…あの道長が苦手とした<闘う貴族>隆家とは何者か【2024年上半期BEST】
 関幸彦
 2024年上半期(1月~6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年5月15日)

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 花山院に矢を放った伊周・隆家兄弟は「左遷」。左遷先で彼らがどんな扱いを受けたかというと…
 『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマでは藤原道長と伊周の権力争いが描かれましたが、伊周の弟・隆家が花山院に矢を放った「長徳の変」をきっかけに、兄弟は力を失っていきます。しかしその隆家、実は日本を救った英雄と言われているのはご存じでしょうか? 道長の全盛期、九州へ異民族が襲来。老人・子供は殺害、壮年男女が捕虜として連れ去られて牛馬は斬食されました。特に対馬壱岐は壊滅状態に…。突如瀕した国家の危機に対応、外敵を撃退したのが隆家だったのです。歴史学者・関幸彦先生の著書『刀伊の入寇』よりその一部を紹介します。

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 藤原道長と隆家
 そもそも刀伊の入寇とは…
 藤原道長が栄華の絶頂にあった1019年、対馬壱岐と北九州沿岸が突如、外敵に襲われた。東アジアの秩序が揺らぐ状況下、中国東北部女真族(刀伊)が海賊化し、朝鮮半島を経て日本に侵攻したのだ。
 道長の甥で大宰府在任の藤原隆家は、有力武者を統率して奮闘。刀伊を撃退するも死傷者・拉致被害者は多数に上った。
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 刀伊(女真)が来襲した寛仁の時期、京都は藤原道長の時代だった。刀伊の侵攻にさいし、大宰権帥大宰府の次官で、実質上の長官)として迎撃の指揮をとったのは中関白家(道長の兄道隆の家系)の隆家だった。
 隆家にとって叔父道長はライバルだった。年齢にして十余歳の差がある。
 隆家が九州下向したのは長和3年(1014)のことだった。当時36歳(数え年。以下同)。眼病を患っており、宋人の名医の診察を受ける目的もあった。三条天皇在位中のことで、刀伊の事件はそれから5年後のことだった。
 「乱暴者・無鉄砲者」と評されて
 「世の中のさがな者」とも評された隆家は、道長が最も苦手とした相手だった。「さがな者」は、漢字を当てるなら「性無者」で、規格からはずれた乱暴者・無鉄砲者というほどの意味だ。
 『刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』(著:関幸彦/中公新書
 © 婦人公論.jp
 兄の伊周とともに本来は中関白家の嫡流に近い立場とされた。しかし父道隆が長徳元年(995)に死去、その勢力が失速する。
 隆家の兄伊周と道長の確執はよく知られており、それが朝廷内部での政治権力の帰趨に影響を与えた。
 ちなみに隆家らの母は『百人一首』にも登場する高階貴子で、姉は一条天皇に入内、その寵を得た定子である。
 定子に仕えた清少納言の『枕草子』にも隆家のことがしばしば登場する。隆家の規格外の行動については、いろいろとエピソードも少なくない。貴族ながら武勇の人としても知られた。
 稀有な「闘う貴族」として
 風狂の人花山院との確執も有名だ。
 伊周と花山院との間で女性(藤原為光の娘)をめぐるトラブルがあり、兄伊周に与した隆家は院を威嚇、誤射の不祥事を起こしている。
 伊周・隆家兄弟はそのため流罪となった。『栄華物語』『大鏡』などにも散見される出来事だった。刀伊事件の十数年前のことである。
 刀伊の来襲にさいし、「帥、軍ヲ率ヒ警固所ニ到リ合戦ス」(『小右記』)とあるのも剛直さの表れだった。
 貴族たる隆家自身が警固所近辺で戦うことは、稀有のことだった。このような規格外の行動力のためだろうか、後世には隆家を流祖と仰ぐ武士団も少なくない。
 闘う姿勢を保持する隆家の行動は、わが国の外交の危機に大いに役立ったようだ。
 *本稿は、『刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』の一部を再編集したものです。
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 古代の日本は、難民を無条件で受け入れる移民大国であった。
 平安時代鎖国政策で、中国や朝鮮との国交を断ち友好・善隣を拒否し、移民や難民の受け入れを拒絶し、大陸や半島との自由な往来を禁止した。
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 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
 古代から、日本は朝鮮や中国の軍事侵略という脅威に晒されていた。
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 戦争には、必要な戦争、正しい戦争、正義の戦争、敵を殺して勝たねばならない戦争がある。
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 現代日本歴史教育平和教育として、日本の海外の敵、朝廷の国内の敵を討ち滅ぼす戦争を悪として教えないどころか、否定し、歴史の闇に葬っている。
 エセ保守やリベラル左派は、人殺しにならない為に敵を殺すぐらいなら敵に殺された方が良いと。
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 現代の歴史教育は、天皇の日本統一を否定し、朝敵として滅ぼされ土蜘蛛・鬼として忌み嫌われた「まつろわぬ民」に同情している。
 天皇への忠誠心と日本国への愛国心を誓った帰化人の存在を抹殺し、忠誠心と愛国心を拒絶した渡来人を歴史にとどめている。
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 592年 渡来人(外国人移民)は第32代崇峻天皇を暗殺した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内戦に発展しなかった。
 各地の反天皇反王朝勢力も帰化人の暴動を好機として内乱を起こさなかった為に、日本は分裂を免れた。
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 遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。 賊は伊豆国穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
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 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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 866(貞観8)年 山春永らの対馬侵攻計画。
 肥前基肄郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)、藤津郡領葛津貞津、高来郡擬大領大刀主、彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人と共謀し、日本国の律令制式の弩の製法を漏らし、対馬を攻撃する計画が発覚したが未遂に終わった。
 なお、この対馬襲撃計画に先立つ天安元年(857年)には、対馬島で島内の豪族が300人ほどの兵を率いて対馬守を襲撃する反乱が起きていた。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年) 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
 894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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 997(長徳3)年 南蛮の入寇。高麗人が、対馬肥前壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。

 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
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 1093年 「海賊船」を拿捕し真珠、水銀、硫黄、法螺などの貨物を接収し宋人と日本人の乗員を奴隷にした、と記録している。これらはすべて日宋交易における日本産の有力な交易物なので「海賊船」として拿捕したというのは単なる口実だとも考えられる。
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