🎍46〕─3─道長に敗れた藤原氏、左遷先で半島からの海賊を撃退し日本を救ったが恩賞はゼロだった。~No.146 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 朝鮮の日本侵略。
 2024年の韓国大河ドラマ「高麗契丹戦争」
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 高麗は、反日敵日であった。
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 1019年9月4日 高麗使・鄭子良は、強制連行されていた日本人約100人を連れて日本領対馬に来航し、島守りに日本国への国牒を手渡した。
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 9月22日 朝廷は、高麗国牒から刀伊が女真族と判明した。
 刀伊とは、高麗が北方の蛮族・夷狄である女真族につけた蔑称である。
 高麗は、自分こそが世界で優秀な民族という自意識過剰から、日本を島国の蛮族・東夷と毛嫌いしていたが、契丹族の遼が巨大化して来た為に後方にある日本との国交を開こうと模索していた。
 高麗は、日本との国交回復交渉に利用する為に、恩を着せる様に日本人拉致者を手厚く保護し、徳を見せ付ける様に生存者がいる事を日本側に伝えた。
 国書は、太宰府を経由して京に転送された。
 太宰府に対して、外交方針が決定するまで、鄭子良ら一行に饗応して待たせる様に命じた。
 対馬島判官代・長岑諸近は、高麗に渡り10名を引き取ったが、8名が船上で病死した。
 日本に帰還できた日本人が何人なのかは、定かではない。
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 『小右記』(権大納言藤原実資)「賊は刀伊と言う事だが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐ為に自分達を派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は、高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか」
 日本は古代から、度々、新羅水軍や朝鮮人海賊の襲撃を受け、虐殺さら拉致された経験から半島を信用していなかった。
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 後一条天皇は、「高麗を信用できる相手ではない 」として、外圧をはね除けて、友好関係を持つ事を拒絶した。ただし、個人的な民間交易は制限しながら容認した。
 日本は、高麗を仮想敵国であって友好国ではないと断定して、高麗が求めた国交を拒絶した。
 大和朝廷による日本統一は急務であった。
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 第68代後一条天皇 (10歳)
 藤原道長 (53歳)
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 現代の日本史は、反宗教無神論・反天皇反民族反日イデオロギーと宗教の価値観・史観が強い。
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 2024年2月26日 YAHOO!JAPANニュース GOETHE「【刀伊の入寇道長に敗れたほうの藤原氏、左遷先で海賊から日本を救ったのに恩賞はゼロ!?
 TEXT=齊藤 颯人 SUPERVISOR=本郷 和人、本村 凌二
 藤原道長をはじめとした貴族たちが栄華を誇っていた平安の世。日本国内では大きな争いはなかったものの、海外はまったくそうではなかった。外界から、日本に侵攻してきた輩がいたのだ。これは、そんな略奪者から日本を守った英雄たちの物語。 『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』(サンクチュアリ出版)の一部を再編集してお届けする。
 【写真】ウクライナ問題はここから始まった? 「フメリニツキーの乱」を紐解く
 平和ボケする日本、世紀末的に荒れる東アジア
 日本では貴族たちが政治的にも文化的にも最盛期を迎える中、中国や朝鮮など、東アジア地域は激動の時代でした。
 当時は海を介した国際交流が盛んでしたが、情勢が悪化すると海上を暴れまわる海賊たちが出てきたのです。日本で彼らは「刀伊(とい) 」と呼ばれていました。
 日本は荒れている東アジアの国々と関わらないことでトラブルを避けようとしていましたが、ワルというのは、関わりたくないと思っても勝手に因縁をつけてくるもの。
 「オマエ、今ガンつけてただろ!」と言わんばかりの勢いで、図らずも争いに巻き込まれることになっていきます。
 左遷された、「道長じゃないほう」の藤原氏
この時期の日本では、天皇外戚天皇の母親や妻の一族)として絶大な存在感を発揮した藤原道長がこの世の春を謳歌(おうか)していました。しかし、藤原氏が栄華を極めていた裏で、藤原氏同士による内輪揉めも当然ありました。
 その中で道長に敗れた人物こそが、今回の主役・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)です。
 隆家は兄とともに道長最大のライバルとして知られ、「荒くれ者」と呼ばれるほど豪快で規格外な人物でした。
 しかし道長に敗れると眼病を患い、どん底の状態で大宰府(だざいふ/現在の福岡県太宰府市)への赴任が決まりました。大宰府は日本と東アジアの玄関口として重要な場所でしたが、都から大宰府へ向かえば「下向(げこう/都から田舎へ下る)」と言われた時代。控えめに言っても「左遷」でしかなく、出世の望みは絶たれたといってよいでしょう。
 道長に敗れた没落貴族=隆家として、歴史に名を刻まれていたかもしれませんが、運命とは不思議なもので、隆家の名がこうして語り継がれる原因となった事件は、大宰府赴任後に発生しました。それが、刀伊たちの侵略事件だったのです。
 刀伊、九州を襲撃する
 隆家が大宰府へ向かってから約4年後の1019年3月28日。突如衝撃的な事件が起きます。刀伊のものとみられる海賊船約50艘が、対馬壱岐をいきなり襲撃したのです。刀伊は殺人や放火、略奪を行い、対馬では18人、壱岐では現地の守備を指揮した司令官を含め148人が殺害されるなど、甚大な被害が出ました。
 何とか生き延びた人から隆家のもとに連絡が届いたのが4月7日。
 「これは大変なことになった……」。隆家はそう感じたはずです。というのも、日本の領土が外国からこれほど大規模な襲撃を受けたケースはほとんどありませんでした。つまり、隆家はもちろんのこと、この時代に刀伊の入寇レベルの侵略者との戦争を経験したことのある指揮官などいなかったのです。
 加えて、敵の行動は迅速でした。大宰府に第一報が入った時点で刀伊は筑前の国怡土郡(ちくぜんのくにいとぐん/現在の福岡県福岡市西部と糸島市の一部)に上陸し、49人を殺害します。
 まさしく「前例のない事態」を前に、数年前まで都で戦争と無縁の生活を送っていた隆家。そんな隆家が現場を指揮していくことになるのでした。
 国の危機に集まった精鋭たち
 刀伊があらわれてから11日。4月8日には筑前国那賀郡能古島(なかぐんのこのしま/現在の福岡県福岡市沿岸にある島)が襲撃されます。このとき、隆家は「海賊船の速度はハヤブサのようで、とても戦えない!」と都へ書き送っています。
 能古島は間もなく落とされますが、隆家はただオロオロしていたのではありません。島からほど近い博多警固所(けいごしょ/当時の防衛施設)に大宰府や現地近くの実力者たちを総動員します。
 この部隊にはさまざまな人がおり、武勇で鳴らした大蔵の種材(おおくらのたねき)という70歳を超えた大ベテランも参加しているなど、国の危機を敏感に感じとった精鋭たちが集まっていました。
 9日、ついに本土である博多へと来襲した刀伊に対し、日本側は防戦に努めました。矢を主力として十数名の刀伊を討ち取り、粘り強く戦います。結果的に初めての撃退に成功し、拉致されて船に乗せられていた対馬壱岐の人々も救ったと伝わります。
 11日には日本側の防御態勢が盤石となり、優秀な兵たちを配置できるようになりました。そのため、翌12日の襲撃では刀伊を40人ほど討ち取ることに成功。大ベテランの種材らが活躍して、逆に逃げる刀伊を追っていったという逆転劇を見せました。
 猛攻を受けた刀伊は作戦を変更し、13日は肥前の国(ひぜんのくに)松浦郡(現在の佐賀県唐津市から長崎県佐世保市付近)から上陸します。現地では略奪を行いましたが、情報がしっかりと伝わっていたのでしょう。守備隊が刀伊数十人を討ち取り、撃退しました。
 こうして相次ぐ敗戦を受け、刀伊は日本への侵攻をあきらめ撤退します。外国の侵略という最大の危機は、隆家とその司令のもとに集まった実力者たちによって防がれたのです。
 しかし、まったく注目されなかった隆家の功績
 隆家たちの大活躍。朝廷も彼らをさぞ評価したことでしょう……と思いきや、そうではありませんでした。
 中央政府の対応はとにかく遅く、そもそも、刀伊入寇の知らせが都に届いたのは17日のことです。この時点で危機は去っていたのですが、彼らは「神頼み」(儀式)によって対策を講じたのち、27日にようやく派兵準備に取りかかったと言われています。
 さらに、日本を守った隆家を含む戦士たちへの恩賞はほぼゼロ。当時、都でも刀伊の入寇は大いに恐れられたのですが、いったん危機が去ってしまうと喉元過ぎればなんとやら。貴族たちは刀伊の入寇に興味を失ったのです。
 それどころか朝廷では「私たちの指示が届く前に無断で行動した隆家たちに恩賞を与えていいのか?」と命令無視の是非が主に論じられ、恩賞がほとんど与えられませんでした。「前例主義」と「現場軽視」は平安時代から始まっていたことだったようです。
 ただし、近年では刀伊の入寇が「古代日本最大の異敵(いてき)侵略事件」だったとして、危機を乗り越えた隆家たちの再評価が進んでいます。朝廷に評価されなかったぶん、せめて私たちが彼らの雄姿を語り継ぎたいものです。
 "前例のない事態に必要なのは現場のスピードと結束。対応の早さこそが力となる。"
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 ウィキペディア
 契丹の高麗侵攻は、当時中国大陸の北部を支配していた契丹(遼)による5度にわたり行われた、今の朝鮮半島にあった高麗王朝への侵攻である。
 概要
 993年、契丹鴨緑江以南の高句麗の故地を獲得するためにはじめて高麗に進攻した。994年、高麗は使を遣わして契丹に赴き、契丹の正朔(契丹の統治に服従する)をおこなうことを告げた。その後、顕宗元年(1010年)に至る時期に、高麗は契丹に方物を献じ、契丹語を習い、婚を請い、幣を納め、冊封を乞い、生辰を賀するなどの修好をおこなった。『高麗史』は、この時代の歴史記述において、契丹皇帝を「契丹主」と記している。

 契丹の高麗侵攻
 戦争:契丹の高麗侵攻
 年月日:993年-1020年2月
 場所:高麗北部~中部
 結果:第一次侵攻
 外交的解決 宋との断交(名目上)、遼の年号使用、朝貢を課される。遼は高麗に女真人が割拠する江東6州の領有権を与えた。これにより高麗の勢力が鴨緑江まで伸長。
 第二次侵攻
 遼軍が首都を攻略、北部諸州や開京が占領される大被害を被った、遼軍は高麗を平定し、宋との関係を断ち切るための目的達成に失敗。遼軍は第一次の条件に加え顕宗の入朝、六州の返還を条件に兵を収めた。しかし、これは守られなかった。
 第三次侵攻
 遼軍は江東6州の奪取に失敗して退却。
 第四次侵攻
 不明
 第五次侵攻
 高麗の勝利。遼軍全滅。
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 HISTORYMAPS
 993 JAN 1 - 1019
 高麗・契丹戦争
 Korean Peninsula
 高麗・契丹戦争は、韓国の高麗王朝と、契丹主導の中国の遼王朝の間で戦われ、10世紀から11世紀にかけて、今日の中朝国境付近でいくつかの紛争が起こった。これらの戦争の背景は、668年の高句麗崩壊後の初期の領土変更と、その後の唐王朝によるギョクチュルクの追放、ウイグル人の台頭、そして建国した契丹人の出現による権力の変遷に根ざしている。唐王朝が崩壊するにつれて、契丹は力を増し、特に 926 年の契丹による渤海征服と、その後の太祖時代の高麗の北方拡大政策の後、高麗と契丹の関係は悪化した。高麗と遼王朝の間の初期の交流は、贈り物の交換など、やや友好的なものでした。しかし、993年までに、遼が80万の兵力を主張して高麗に侵攻し、緊張は公然の紛争にまでエスカレートした。軍事的な膠着状態から交渉が始まり、高麗は宋と断交し、遼に朝貢し、女真族を追放した上で領土を北の鴨緑江まで拡大するという不安定な和平が成立した。それにもかかわらず、高麗は宋との通信を維持し、北方領土を強化しました。その後、1010年に神宗皇帝率いる遼が侵攻し、遼は高麗の土地で重要な存在を維持できなかったにもかかわらず、高麗の首都は略奪され、継続的な敵対関係が続いた。1018年の3度目の大規模侵攻は、高麗のカン・カムチャン将軍が戦略的ダム放流を用いて遼軍を待ち伏せして多大な死傷者を出し、遼軍がほぼ全滅する重要な帰州の戦いで最高潮に達したときの転換点となった。永続する紛争とこの侵略中に遼が被った壊滅的な損失により、最終的に両国は 1022 年に平和条約を締結し、高麗・契丹戦争は終結し、この地域は一定期間安定しました。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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 遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。 賊は伊豆国穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
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 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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 866(貞観8)年 山春永らの対馬侵攻計画。
 肥前基肄郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)、藤津郡領葛津貞津、高来郡擬大領大刀主、彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人と共謀し、日本国の律令制式の弩の製法を漏らし、対馬を攻撃する計画が発覚したが未遂に終わった。
 なお、この対馬襲撃計画に先立つ天安元年(857年)には、対馬島で島内の豪族が300人ほどの兵を率いて対馬守を襲撃する反乱が起きていた。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年) 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
 894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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 997(長徳3)年 南蛮の入寇。高麗人が、対馬肥前壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。

 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
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 1093年 「海賊船」を拿捕し真珠、水銀、硫黄、法螺などの貨物を接収し宋人と日本人の乗員を奴隷にした、と記録している。これらはすべて日宋交易における日本産の有力な交易物なので「海賊船」として拿捕したというのは単なる口実だとも考えられる。
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