🎍46〕─2─刀伊の侵略、老人子供は虐殺され壮年の男女は強制連行された。藤原道長と後一条天皇。~No.145 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 平安時代は、現代以上にブラック社会であり内憂外患の時代であった。
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 刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、女真の一派とみられる集団を主体とした海賊が壱岐対馬を襲い、更に九州に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。
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 第68代後一条天皇 (10歳)
 藤原道長 (53歳)
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 現代日本人は、昔の日本人とは違って、日本国・日本天皇日本民族を侵略者から命を犠牲にして守る気はない。
 守る為に戦わないと決めているのは、メディアや教育に影響力を持つエセ保守とリベラル左派である。
 彼等は、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力がない為に歴史が理解できない、つまりグローバルな知識はあるがナショナルの教養がない。
 現代日本で戦争をしてでも日本を守ろうという日本人は、12%しかいない。
 現代日本には、文化の貴族はもちろん軍事の武士・サムライや生産・消費の庶民さえいない、住んでいるのは「覚悟なき日本人」だけである。
 現代の日本は、戦争を考えなければ戦争は起きないという「悪しき言霊信仰」による同調圧力で支配されている。
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 エセ保守やリベラル左派は、和心を持たず和歌の素養もない為に、藤原道長「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月(もちづき)の かけたることも なしと思へば」を単純なマルクス主義階級闘争史観で読み解いている。
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 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
 朝鮮の日本侵略。
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2024-01-21
🎍49〕─3─仁和大地震と仁和大洪水。東西同時多発の南海トラフ巨大地震天皇の祈り。~No.155 
2024-01-20
🎍49〕─2─ 清和天皇の被災者救済の為の「減税」。宗叡と神仏習合貞観地震。~No.155 
2021-09-25
🎍49〕─1─1000年前「未知の巨大地震」が発生か、九十九里浜に大津波の跡。~No.153 
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 平安時代の総人口は、644万人~1,000万人。
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 NHKオンデマンド
 英雄たちの選択 暴れん坊公家 平安朝を救う ~藤原隆家 刀伊の入寇事件~
 藤原道長が我が世の春を謳歌していた平安時代中期、九州に異民族が襲来する大事件が起きた。「刀伊の入寇」と呼ばれる事件だ。200年後の蒙古襲来と同じく対馬壱岐は壊滅。老人子どもは殺され壮年の男女は拉致された。刀伊はさらに九州・博多に襲来。この危機に立ち向かったのは、かつて藤原道長のライバルでもあった大宰府の長官・藤原隆家。だが常備軍はなく、都からの援軍も期待できない。隆家はいかに外敵を撃退したのか?
 司会
 磯田道史杉浦友紀
 出演
 関幸彦 、冲方丁 、山口真由
 語り
 松重豊
 2023年10月25日放送
 (C)NHK
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 2024年1月21日 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「娘3人は天皇の后に 「引退」した直後に異国船襲来 勝ち抜けた藤原道長に残った「不安」
 紫式部日記絵巻(模本)、出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-8375?locale=ja
 康保三年(九六六)、藤原道長は兼家の五男として誕生した。十五歳で「従五位下」、二十二歳で左大臣源雅信の娘倫子と結婚、翌年には源高明の娘明子を第二夫人として迎えた。倫子との間に二男四女、明子との間には四男二女を設け、そのうち彰子はのちに一条天皇、妍子は三条天皇、そして威子は後一条天皇の后となった。関白の地位で全盛を迎えつつあった長兄道隆と次兄道兼が疫病にて没し、「内覧」(関白に準じる職掌で、天皇に奏上する文書に前もって目を通す地位)の宣旨が出されたのが、道長が三十代に差し掛かった頃だ。順調な一方で、中関白家との確執もあり、人間関係に悩む日々が続いていた。関幸彦氏の新著『藤原道長紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』(朝日新書)では、政治家としての最盛期を迎えた藤原道長の二十五年間が描かれている。同著から一部を抜粋、再編集し、紹介する。
 【図】平安貴族の日々のルーティーンはこちら
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 不惑の年齢を迎えた道長にとって、四十代半ばに至るこの時期は、自身の権勢がより強固になった段階だ。紫式部の宮中への出仕は、この寛弘三年前後、式部三十六歳の頃とされる。そして道長にとっての最大の懸案ともいうべき一条天皇と彰子との間に待望の敦成親王後一条天皇)が誕生したのもこの時期のことだ(寛弘五年〈一〇〇八〉)。ついで翌年に彰子は敦良親王後朱雀天皇)を生み、外戚関係の確立に大きく前進がなされた。
 一条天皇は寛弘八年(一〇一一)六月に居貞親王三条天皇)へと譲位、没する。天皇は寛和二年(九八六)年の即位以来、二十五年の長期にわたる在位だった。この間、道隆・道兼そして道長の「三道」が関白あるいは内覧という立場で、一条朝を支えた。道隆の娘定子、そして道長の娘彰子が入内、二后並立がなされ、当該天皇のもとでコアな王朝世界が演出された。一条天皇との間は、中関白家との因縁もあり、円滑を欠いた面もあったとされる。一条天皇が定子に想いを懸けていたことは、『枕草子』その他からも知られている。当然ながら、天皇との愛の育み方が関心となったはずで、当時にあっては、年齢的にも定子に分があったことは明らかだった。
 したがって道長にとって、彰子が寛弘五年(一〇〇八)とその翌年に相ついで、二人の皇子を誕生させたことは、大きな展望となった。この寛弘期は次女の妍子が東宮居貞(三条天皇)の妃となり、これに先立ち、倫子との間に四女嬉子も誕生する。道長一家にとっては、嫡妻倫子との間にこの嬉子もふくめ、彰子(一条中宮)・妍子(三条中宮)・威子(後一条中宮)の四人の娘を得たことになる。
 当該期、花山院が四十一歳で没(寛弘五年)。その父冷泉上皇も六十二歳の長命で亡くなった。ちなみにその花山院と女性問題でもめた伊周もまた、三十七歳で亡くなった(寛弘七年〈一〇一〇〉)。道長にとって寛弘年間はその周囲の新旧勢力交替の潮目となったことになる。
■長和年間(一〇一二~一〇一六)─四十代後半
 この時期は、道長は政治的に最盛期を迎える。ただし、中関白家とは別にもう一つ“はばかる”べき案件も浮上した。当該の長和の年号は三条天皇のそれだったが、親王時代からこの天皇とはソリが合わなかったという。道長の長姉超子を母とした三条は、東宮時代が長く、即位は三十六歳だった。成人した天皇の即位は、摂関システムでの政権運営にとって、必ずしも歓迎されなかったのかもしれない。道長は妍子を三条天皇に入内させたが、三条には東宮時代の先妻せい子(せいは女へんに成)との間に、敦明親王がいた。長和元年(一〇一三)四月、妍子が入内(中宮)し、せい子立后(皇后)という二后冊立がなされた。翌年の長和二年、中宮妍子は皇女禎子内親王(陽明門院)を生む。
 「心にも あらで憂世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」―と三条天皇自らが詠じた『百人一首』でもおなじみの歌は、その妍子に向けてのものとされる。ここには眼病を患った天皇自身の憂鬱が、「夜半の月」に託されて、詠み込まれていた。長和三年二月には内裏が焼失、天皇の眼の病も重篤化する。
 ちなみに三条天皇はその幼少期、道長の父兼家の愛を受け育ったという(『大鏡』〈兼家伝〉)。冷泉天皇の皇子で、兼家の娘超子を母としたこの天皇に、兼家も大いに期待したようだ。けれども皇統が円融に移り、ついで一条天皇の長期におよぶ在位のなかで、三条の即位は遅れることになった。一条天皇治世下にあって、それを補佐する道長との“二人三脚体制”は結果として、道長三条天皇との間に微妙な関係を作り出した。
 眼病の件、さらに内裏焼失の件も重なり、三条天皇東宮時代にもうけた敦明親王(母せい子)への後継を道長に託すかたちで、後一条天皇に譲位する。四十代後半の道長にとっても、三条天皇との関係はいささか心痛だったことは疑いない。妍子との間に皇子の誕生があれば、あるいは流れが変わったかもしれないが、そうはならなかった。当時、道長に靡かず対立していた二人の公卿、右大臣実資と中納言隆家の存在も、また気になるところだった。
■寛仁年間(一〇一七~一〇二〇)─五十代前半
 当該年号は道長体制の完成期にあたる。「此世をば~」で知られる望月の歌が披露されたのが、寛仁二年(一〇一八)のことだった。「寛仁」は三条天皇にかわり即位した後一条天皇の年号だ。その後一条天皇に三女威子が入内、中宮となる。「望月の歌」についていえば、彰子(太皇太后一条天皇〉)、妍子(皇太后三条天皇〉)、そして威子と一家に三人の后が並び立つ栄誉を詠み込んだものだ。この歌を詠じた翌年の寛仁三年三月道長は出家する(法名行観)。道長自身の体調もさることながら、権勢の独占がもたらす運の傾きを思慮した結果だった。道長の第一線からの引退と、あたかも軌を一にするかのように、大きな出来事が道長の出家の年に勃発した。鎮西での異賊侵攻である。
 数年前から異国船の九州来着はあったものの、刀伊(女真)の来襲は、道長以下の朝堂貴族たちに衝撃を与えるものだった。ここでは異賊侵攻が、道長の晩年の時期に当たったことをおさえておきたい。出家以前、幼帝後一条の摂政の立場にあった道長は、その地位を嫡子頼通に譲り、道長以後の権力体制に道筋をつけた。
 対外的には、刀伊の入寇による海防問題はあったものの、道長体制は寛仁の段階で国内的には安定する。かつての抵抗勢力だった三条天皇はすでに寛仁元年の五月に没し、さらにその数か月後、敦明親王(母せい子)が東宮を辞することで、三条天皇系の血脈の皇位継承の芽が消えた。さらに、皇太子候補として一条天皇と定子との間に誕生した敦康親王も、寛仁二年に亡くなった。道長にとっての潜在的抵抗勢力が、政治の舞台から次々に退場していった。道長の寛仁段階は、まさにそうした時期ということができる。
 残る不安、それは来世という未知なる世界へのものだった。念願の出家に先立ち道長の信仰心は、すでに四十代半ば以降、顕著さを増しつつあった。寛弘八年(一〇一一)の金峯参詣と写経、同年の土御門第での阿弥陀仏供養、その後の寛仁元年(一〇一七)の浄妙寺詣、あるいは同三年の興福寺・春日社参詣と翌年の無量寿落慶供養など、その信仰心を伝える事例は少なくない。
 「寛仁」以降、「治安」「万寿」の二つの年号を体験した道長は、六十二歳で死去する。晩年の道長にとっての願望は、法成寺建立に向けて力を尽くすことだった。「治安」(一〇一二~二三)の段階は、倫子所生の頼通・教通が左大臣内大臣に、そして明子所生の頼宗・能信も権大納言へと就任、“御堂流”の血脈への布石がほどこされた。
 以上、道長を軸に約二十五年間にわたる足跡に「年号」を絡め、整理をほどこした。
●関幸彦(せき・ゆきひこ)
日本中世史の歴史学者。1952年生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程修了。学習院大学助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年に日本大学文理学部史学科教授就任。23年3月に退任。近著に『その後の鎌倉 抗心の記憶』(山川出版社、2018年)、『敗者たちの中世争乱 年号から読み解く』(吉川弘文館、2020年)、『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』(中公新書、2021年)、『奥羽武士団』(吉川弘文館、2022年)などがある。
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一般社団法人日本戦略研究フォーラム
 1300人拉致事件の顛末
―「刀伊の入寇」から学ぶ今日的教訓―
 .顧問・元ベトナム・ベルギー国駐箚特命全権大使 坂場三男
 日本史を勉強した人でも今から約1千年前、1019年に起こった「刀伊(とい)の入寇」を知らない人は多い。しかし、この出来事は日本史上で初めて発生した外国勢力(海賊ではあるが)による大規模な侵攻であり、日本人365人が殺害され、1300人近くが拉致されるという未曽有の大事件であった。
 時は平安時代、かの藤原道長が全盛を誇った頃の話である。10世紀頃から日本海周辺で海賊行為を繰り返していた東女真族——朝鮮半島・高麗国の北東辺境(沿海州)に住んでいた蛮族——が1019年の3~4月に賊船約50隻の大船団を組んで対馬壱岐、そして九州北部を襲ったのである。彼らは、壱岐島国司の藤原理忠を殺害した上、島民148人を殺りく、239人を拉致しており、その直前には対馬で同様の略奪・殺りく・放火をはたらいている。その上で、九州北部沿岸地域(筑前肥前)を襲い、太宰権帥・藤原隆家率いる九州武士団と約1週間に亘って大戦闘を繰り広げた末、1300人近い日本人を拉致したまま引き揚げたという。
 この事件の顛末については、同時代の公卿・藤原実資が書き残した「小右記」という日記に詳しく記録されている。私が驚くのは、この事件に遭遇した時の朝廷(公卿)の無策振りである。殆ど何の対応もせず、全て現地任せ。自分たちは「大臣欠員騒動」という内輪の問題に明け暮れる始末である。せめて賊を撃退した九州武士団への恩賞くらいあってしかるべきだったと思うが、これも極めて不十分にしか行われていない。特に、現地で総指揮をとった最大の功労者・藤原隆家に対して何等の慰労も行われていない様子なのは理解に苦しむ。おそらく、こうした朝廷(公卿)の無策・無関心が武士団の怒りを買い、平家の台頭から鎌倉時代へとつながるその後の武士層の影響力拡大の一因になったのではないか。何人かの史家が指摘しているように、260年後の元寇が仮に(鎌倉幕府当時ではなく)この時代に起こっていたら日本はモンゴルに完全占領されていたかも知れない。
 私は、この事件は今日的教訓に満ちているように思う。昨今、東シナ海での緊張の高まりや北朝鮮の挑発的な動向に直面している我が国として、不幸にして軍事的な突発事態が発生した時に政府としてどう対応すべきなのか。第一の問題は、賊の正体が不明な中での即応のあり方である。海賊侵攻の第一報を受けた時の朝廷の判断は高麗(旧新羅勢力)が攻めてきたのではないかというものであったという。現場でも賊の正体が分からず、仮にそれが高麗の軍であれば戦闘はただちに国対国の戦争を覚悟しなければならないことになる。朝廷においては中国に誕生した新王朝・宋と良好な関係を確立したことで、対外関係を楽観視し、朝鮮半島やその北の沿海州の政治・安全保障情勢への的確な情報収集・分析が出来ていなかった。第二の問題は、万が一外敵の大規模な侵攻を受けた場合の対応策について事前の検討と現場への支持、安全への備えなどが全くなされていなかったと思われることである。少なくとも、白村江の戦い(663年)の後に臨戦の備えをとった天智・天武天皇期のような防衛体制は全く取られていなかった。第三に、事件発生後、政府による問題の重要性把握と迅速な対応策指示がなされていないことも指摘しなければならない。勿論、平安時代の当時は情報伝達手段に大きな制約があり、第一報が都に到達した頃には現場での戦いは既に終わっていたようだが、朝廷としては「終わっていた」ことを知らなかった状況下で如何なる指示を出したのかは厳しく問われねばならない。実際には戦闘状態に入っていた現場では何の役にも立たないような形式主義的な訓令を発出しただけだった。長らく続いた平和の中で、多くの公卿たちに「国を守る」という防衛意識が完全に欠落していたとしか思えない。今日、私たちが置かれている状況に照らすとき、何とも教訓に満ちた話ではないか。
 最後に、事件の後日譚になるが、日本から引き揚げた海賊団はその後朝鮮半島南部、更には北部に移動して同じような海賊行為を繰り返している。しかし、高麗の大軍によって撃退され、その際に拉致された日本人の多く(約300人)が現場海域で保護され、日本に無事送還されている。残念なのは朝廷側がこの事実を知りながら高麗側の悪しき意図を疑い何らの返礼もしていないことである。僅かの救いは現場の指揮官だった藤原隆家が独自の判断で拉致被害者を送還して来てくれた高麗使節の労をねぎらい少なくない金品を渡して友好的な行為への感謝の気持ちを伝えたらしいことである。
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 九州大学付属図書館
刀伊の入寇~九州を襲った異民族~: 刀伊の入寇の発生
 平安時代に九州北部で発生した「刀伊の入寇」に関して、地図などを加えてアジアの視点から紹介します。なお、本ガイドでは月日を旧暦で表記しています。
 はじめに
 刀伊の入寇の発生
 九州北部での戦闘
 連れ去られた人々
 刀伊(女真)の活動
 おわりに
 京都への情報伝達
 1019年4月17日に、京都の藤原実資(ふじわらのさねすけ)のもとに2通の手紙が到着しました。
 その手紙の送り主は当時、大宰府に赴任していた藤原隆家(ふじわらのたかいえ)からで、日付はそれぞれ4月7日と4月8日でした。受け取った藤原実資は自身の日記である『小右記』に、刀伊の来襲を伝える部分を引用して書き残しています。
 「刀伊国の人が、50余艘で対馬島にやってきて殺人や放火した。要衝の地を警備し、兵船を派遣した。」
 「異国船(=刀伊の船)が乃古嶋(能古島)に到着した。」
 (『小右記』寛仁3年(1019年)4月17日条)
 現在ならば新幹線で数時間で着いてしまう京都ですが、当時はおよそ10日ほどかかって、手紙が都へ伝えられています。この手紙によって、はじめて刀伊の来襲が都に伝えられました。
 刀伊の正体
 日本側に残された史料では、日本を襲撃した主体を一貫して「刀伊」(とい)と表現しています。
 この刀伊の正体は、中国の満州地方を中心に居住していた「女真族」のことを指しています。
 ただし、日本側が「刀伊」の正体を「女真族」であると見破っていたのかは定かではありません。
 その証拠に、当初、日本の朝廷は襲撃の主体を当時、朝鮮半島にあった高麗王朝ではないかと疑っていました。
 日本側が女真族のことを「刀伊」(とい)と表現していた理由としては、朝鮮半島の言葉で夷狄(野蛮な民族)を意味する「되」(トゥエ)に日本側が漢字をあてたものと考えられています。
 (画像はgoogle earthを使用。)
 女真族は当時、部族ごとに分かれており、中国や朝鮮半島と関係をもちつつ生活していました。ただし、この後に1部族である完顔部(ワンヤンブ)の阿骨打(アグダ)によって統一が進められ、中国の北宋を倒して金王朝(1115~1234)を建国します。
 「女真」という言葉自体、10世紀ごろの歴史資料にすでに記されていて、それ以前より満州地方に居住していた民族の子孫であると考えられています。
 また、このあと17世紀に清王朝(1616~1912)を建国した満州族女真族と同じ系列にあたります。
 さらに、1392年に高麗王朝の次の王朝である朝鮮王朝を建国した李成桂女真族出身であったと主張する研究者もいます。
 中国の明王朝時代に作成された『三才図会』に描かれた女真族
 対馬壱岐への来襲
 藤原隆家の手紙からも分かるように、刀伊が最初に来襲したのは対馬島でした。そのあと、刀伊は対馬島から南下し、壱岐島を襲撃し、さらに九州北部沿岸まで到達します。
 対馬島壱岐島での詳細な戦闘の様子は伝わっていませんが、『小右記』には、「対馬島では、銀の鉱山が焼き払われたということである。殺害された人が18人。連れ去られた人は116人である」(『小右記』寛仁3年(1019年)6月29日条)、というように被害の状況が記載されています。
 さらに、壱岐島では148人が殺害され、239人が連れていかれました。壱岐島の被害は甚大で、国司である藤原理忠も殺害され、刀伊が去った後、壱岐島に残っていた人は35人に過ぎなかったという記録も残されています。
 刀伊の動きを赤線で図示すると以下のようになります。
 (画像はgoogle earthを使用。)
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  2023年7月19日 読売新聞オンライン「平安時代最大の対外危機「刀伊の入寇」…平和ボケの朝廷に代わり、力を発揮した「さがな者」藤原隆家
 編集委員 丸山淳一
 来年放送予定の大河ドラマ『光る君へ』に出演予定だった永山 絢斗けんと 被告が、乾燥大麻を所持した疑いで逮捕・起訴され、ドラマへの出演を辞退した。『光る君へ』は主人公の紫式部(生没年不詳)を吉高由里子さん、当時の最高権力者で式部の『源氏物語』の執筆をバックアップした藤原道長(966~1028)を柄本佑さんが演じ、永山被告は道長の 甥おい 、藤原隆家(979~1044)を演じることが決まっていた。
 奮戦する藤原隆家(『愛国物語』国立国会図書館蔵)
 大河ドラマでは過去にも違法薬物の所持や使用が発覚し、主要な配役が降板して撮り直しなどを行っている。ドラマは既に5月下旬にクランクインしているが、永山被告はまだ撮影には入っていなかったというから、交代は当然だろう。永山被告が演じることになっていた隆家は、「天下のさがな者」(たちが悪い不良)の異名を持つ一方で、今から約1000年前、外敵の大規模な侵略を受けた九州北部で奮戦し、平安時代最大の対外危機を乗り切る立役者となっている。ボンボンの貴公子とはほど遠い、気骨と統率力を兼ね備えた武人だったのだ。
 九州北部に謎の武装集団が襲来、暴虐の限り尽くす
 「 刀伊(とい )の 入寇(にゅうこう) 」と呼ばれる異賊の侵攻は、寛仁3年(1019年)3月28日、対馬壱岐から始まった。50余隻の船団に乗って武装した賊が突然、島に押し寄せ、老人や子供は殺し、成人を捕らえて拉致し、家を焼き、家畜を食べた。 大宰権帥(だざいのごんのそち・大宰府の長官代理)だった隆家は刀伊軍迎撃の総指揮官となり、 大宰大監(だざいのだいげん・大宰府の局長)だった 大蔵種材(おおくらのたねき・生没年不明)らとともに九州の豪族らを指揮し、賊を撃退している。
 ちなみに「刀伊」とは高麗(当時の朝鮮)の人々が、賊を「東の 夷狄(いてき・野蛮人)」、つまり「 東夷(とうい) 」と呼んでいたのに日本の文字をあてたもの。賊徒の正体はもともと東部満州に住む 女真(じょしん) 人の海賊集団だったのだが、それが判明するのは賊が去った後だった。暴虐の限りを尽くす正体不明の大軍を前に、太宰府軍は当初、苦戦を強いられた。
 対馬では島民18人が殺され、116人が拉致され、牛馬199匹が食い殺された。壱岐では 壱岐守(いきのかみ・首長)の藤原 理(忠まさただ・?~1019)が防戦したが、理忠を含む148人が殺され、239人が拉致されて、生き残った島民は35人だけだったという。
 博多湾に浮かぶ能古島。刀伊が出撃拠点にしたと伝えられる。左奥に福岡市の中心街が広がる
 刀伊の襲来を受けた筥崎宮の楼門には「敵国降伏」の扁額が。掲げられたのは鎌倉時代元寇以降とされる
 博多・天神にある警固神社。社名は博多警固所の跡地に移築されたことにちなむとされる
 刀伊軍は4月7日、筑前(福岡県)沿岸の 怡土(いと) 、志摩、 早良(さわら) 郡に侵攻する。8日には博多湾に浮かぶ 能古島(のこのしま) を攻略して拠点とし、9日には博多に出撃した。博多では防衛拠点の警固所を襲撃し、 筥崎宮(はこざきぐう) を焼こうとしたが、種材の奮闘で失敗している。刀伊軍は大宰府軍が放つ 鏑矢(かぶらや) の音に動揺して引き揚げたという。
 10、11日は「神仏の加護」を思わせる猛烈な北風が吹き、刀伊軍は能古島から出撃できなかった。大宰府はこの2日間で兵船38隻を追加し、九州北部沿岸に精兵を配置して迎撃態勢を整えた。刀伊軍は12日夕に志摩郡沿岸を襲うが、増強された大宰府軍に撃退され、13日には肥前 松浦(まつら) 郡に侵攻したが、弓矢で数十人が倒されて、ついに九州北部沿岸から撤退した。
 ほぼ半月にわたる侵攻で日本人364人が殺害され、1300人近くが拉致され、牛馬の被害は380匹に達した。拉致は奴隷として売りさばくために行われたが、船内で病気になったり、より丈夫そうな人を拉致できたりすると海に投げ捨てられたという。九州から高麗に戻った刀伊軍は高麗軍にせん滅され、拉致された日本人は高麗が日本に送還してくれたが、帰国できたのは約300人しかいなかった。
 被害報告はなぜ「賢人右府」実資にも送られたのか
 刀伊の入寇の詳しい経緯が残っているのは、「 賢人右府(けんじんうふ) 」と呼ばれた藤原 実資(さねすけ・957~1046)の日記『 小右記(しょうゆうき )』に書き残されているからだ。隆家は賊の侵攻を飛脚便で朝廷に報告するとともに、実資に私信で経緯を伝えている。『小右記』には、刀伊軍に拉致されて脱出し、同時に拉致された妻子を探して高麗に渡った対馬の地方官や、拉致された後、生きたまま海に投げ捨てられ、高麗の船に助けられた女性2人の 申文もうしぶみ が全文筆写されている。
 朝廷は賊が高麗人ではなく、海賊となった女真人であること、解放された拉致被害者300人が帰国を待っていることを、この申文でようやく知ることになる。これほど重要な情報は当然、朝廷にも報告されていたはずだが、隆家がわざわざ実資にも申文を添えたのは、朝廷の危機管理能力に疑念を抱いていたからではないか。
 権力争いに敗れた「中関白家」 道長は「わが世の春」
 藤原道長
 刀伊軍が襲来した時、朝廷では道長が権力の絶頂にいた。刀伊軍が対馬を襲った半年前の寛仁2年(1018年)10月16日、道長は有名な「望月の歌」を詠んでいる。
 この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば
 この歌が詠まれた経緯や解釈をめぐっては、以前、このコラムでも取り上げた( こちら )が、この歌を書き留めているのも『小右記』だ。実資は宴席で「望月の歌」への返歌を求められたが、辞退している。『光る君へ』では秋山竜次さんが演じる実資は、故実有職に詳しい当代一流の知識人で、道長に意見することも辞さない気骨のある人だった。
 一方の隆家は、摂政・関白も輩出した 中関白家(なかのかんぱくけ)の出身。中関白家は 熾烈しれつ な権力争いの末に道長に敗れた経緯がある。隆家が大宰権帥になったのは、目を患って九州にいた宋(中国)の名医の診療を受けるためだったが、事実上の左遷でもあった。
 道長刀伊の入寇の直前に出家しているが、関白となった息子の藤原 頼通(よりみち・992~1074)を後見して朝廷の実権を握っていた。実資は中関白家の出身ではないが、反道長という立場では一致しており、権力に 媚(こ) びない点でも、隆家とはウマが合った。朝廷の対応に不信があれば、道長に媚びない実資を頼るのは自然な成り行きだったといえる。
 ちなみに『光る君へ』の主人公、紫式部道長の娘の藤原 彰(子しょうし・988~1074)に仕え、『枕草子』の作者、清少納言(生没年不明)は隆家の姉、藤原 定子(ていし・977~1001)に仕えている。道長と中関白家の対立を反映してか、紫式部清少納言を酷評している。『光る君へ』では彰子を見上愛さん、定子を高畑充希さん、清少納言ファーストサマーウイカさんがそれぞれ演じる。どんな女の戦いが描かれるのだろう。
 一報が届いた翌日に開かれた朝議、まるでなかった危機意識
 隆家の懸念通り、正体不明の賊の侵攻という平安時代最大の対外危機に対する朝廷(中央政府)の対応は「平和ボケ」としか思えないものだった。隆家からの飛脚便で一報が京に届いたのは4月17日。実資は道長と意見調整し、18日に開かれる朝廷の対策会議( 陣定じんのさだめ )に臨もうとしたが、 参内(さんだい) すると朝議はすでに終了していた。今なら主要メンバーがいないのに国家安全保障会議(NSC)を開いてしまうようなものだ。そもそも一報が届いた当日に何も対応しないところからしておかしい。
 朝議では後述する外敵襲来の前例にならって、大宰府に賊徒の討伐や要害の警固を命じ、外敵退散の神仏 祈祷(きとう)を行うことなどを決めたが、みな当然のことばかり。飛脚便に天皇への言上を意味する「 奏(そう)」の文字がないことが問題になるなど、出席者に危機意識がまるでないことがわかる。20日の朝議では大宰府からの追加情報が来ないことに不満の声が出されたが、道長は22日の賀茂祭の桟敷見物を予定通り行うことを決めている。
 刀伊軍が去ったことが伝えられえた25日以降も、賊の特定や拉致者の救出など、やらなければいけないことはあったはずだが、天皇への報告が奏上者の 物忌(ものいみ)で延期されたり、参内した公卿の数が少なく朝議が開けなかったりして、対応はほとんど進まない。
 大宰府政庁跡
 刀伊軍を撃退した大宰府の武人に対する勲功についても、「賊の討伐を命じた18日にはすでに敵は退散しており、ほうびを出す必要はない」という信じられない意見が出された。さすがに実資が「もし賞を与えなければ、今後(外敵に対し)奮戦する者はいなくなる」と異を唱えて種材らにほうびが出た。
 こう記すと、「さすが実資」と言いたくなるが、高麗に渡り、賊の正体について詳しく報告した対馬の地方官については、実資も「役人なのに無断で出国した罪を問うべき」という意見に賛同している。『小右記』からは、実資がこの時期、辞任する左大臣の藤原 顕光(あきみつ・944~1021)の後任を巡る駆け引きに明け暮れていた(大臣欠員騒動)こともうかがえる。平安貴族の「国を守る」という防衛意識は、この程度のものだったのだ。
 武器情報の流出、国境警備丸投げ…平安時代の防衛策は穴だらけ
 刀伊軍の襲来は確かに突然だったが、外敵の襲来は平安時代以降も相次いでいた。朝廷も何も対応しなかったわけではない。だが、平安中期には律令制が崩れ、 防人(さきもり)に国境を守らせる防衛策もとられなくなる。
 当初は 新羅(しらぎ )などから賊が来るたびに 蝦夷(えみし)征討で捕らえた捕虜( 俘囚ふしゅう )を九州沿岸の警固に回すなどの措置がとられたが、次第に過去の蝦夷征討や内乱鎮圧で功績をあげた公卿を対馬や九州北部の警備にあてるようになる。有能な武官の抜擢といえば聞こえはいいが、要するに兵力を持つ武官に国境警備を丸投げしたわけで、 小野春風(おののはるかぜ・生没年不明)や 文室善友(ぶんやのよしとも・同)はその代表といえる。
 この間には威力がある日本製の「 弩弓(どきゅう)」の設計が外部に漏れる防衛スパイ事件も発覚している。防衛政策全体の緩みが外敵を呼び込む一因になったことは否めない。
 対馬守として新羅の入寇対策を担った小野春風。手入れしているのが「弩」だ(『前賢故実 巻第4』国立国会図書館蔵)
 寛平の入寇で賊を迎え撃つ文屋善友。弩が威力を発揮したと伝わる(『皇民修身鑑高等科用巻之2』国立国会図書館蔵)
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 web中公新書
 2022 03/17 著者に聞く
 『刀伊の入寇』/関幸彦インタビュー
 「この世をばわが世とぞ思ふ」に始まる有名な望月の歌が詠まれたのは、千年ちょっと前の1018年。藤原道長は3人の娘を次々に天皇や皇太子の后とし、得意の絶頂にあった。だがその翌年、驚くべき事件が起こる。中国大陸に住む女真族(刀伊)が海賊化し、朝鮮半島を経由して対馬壱岐、北九州沿岸に侵攻したのである。教科書での扱いは小さいこの事件について、『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』を著した関幸彦さんに話を聞いた。
――先生のご専門は。
 関:日本の中世前期を勉強しています。平安時代から鎌倉時代にかけてです。かつては中世といえば鎌倉時代からというイメージでしたが、中世は平安後期あたりから始まるという理解が主流となりました。高校の教科書などでも11世紀後半を起点とする院政期が中世の入口と書かれています。そうした時代、武士がどのように誕生したかについて興味を持っています。
――執筆依頼を受けてどのように感じましたか。
 関:刀伊の入寇には以前から関心があり、論文も何本か書きましたが、一冊の本となると、はたして書けるのか不安でした。『小右記』(藤原実資の日記)その他、若干の史料しかこの異賊侵攻事件については触れておらず、相当の苦労が予想されました。新書に限らず、刀伊の入寇を主題とする著作は出ていないようです。
 直木賞作家・葉室麟さんが『刀伊入寇』という作品を書いていることは知っていましたが、あえて読みませんでした。小説に感化されてしまい、先入観を持って執筆に着手するのはよくないと思ったのです。
――事件が起きた1019年というと、日本はどのような状況でしたか。
 関:摂関政治の時代で、かの有名な藤原道長が栄華を極めていました。紫式部清少納言といった才女たちが活躍していたのもこの頃です。いかにも「王朝」の語感がふさわしい時期ですが、他方では都で疫病がはやり、多くの犠牲者が出ました。
 ところで、藤原道長に仕えた武者、源頼光をご存じでしょうか。京都を荒らし回った鬼の一味の頭目酒呑童子」を退治したとされる人物です。もちろん酒呑童子は説話上の存在ですが、疱瘡(ほうそう)を象徴する鬼神だという説があります。全身が赤かったと言われるのは、酒を呑んだからではなく、疱瘡による発熱のためだというわけです。勇敢な武者が鬼(=疫病)を退治したという物語には、かつての人々の英雄願望が反映されているのかもしれません。
――では当時の東アジアの情勢とは。
 関:かつて東アジアの中核だった唐が滅び(907年)、周辺地域では新しい動きが現れました。朝鮮半島では新羅に代わって高麗が、満州地方では渤海に代わって契丹が誕生したのです。中国では唐の滅亡後の分裂時代を経て宋が建国されました(960年)。
 女真族の活発な動きは、こうした東アジア全体の状勢と連動していました。女真族は、中国(宋)、朝鮮(高麗)、満州地方(契丹)の3勢力に挟まれた存在だったからです。なお、「刀伊」とは高麗の人々による女真族の呼称です。
――「刀伊の入寇」と呼ばれる事件について、かいつまんで教えていただけますか。
 関:朝鮮半島で略奪を繰り返した女真族(刀伊)はその後、1019年の3月末から4月にかけて対馬壱岐、北九州沿岸を襲いました。とりわけ対馬壱岐は、老人・子供が殺害され、壮年男女が捕虜として連れ去られ、牛馬が斬食されるなど、甚大な被害をこうむりました。日本側の迎撃態勢は必ずしも充分なものではありませんでしたが、大宰府の長官だった藤原隆家の指揮のもと、現地の武者たちの奮戦もあり、女真族を撃退することができました。
 この事件について、高校教科書では1~2行程度しか触れられていません。かつては「刀伊の入寇」という用語が使われていましたが、モンゴル襲来を「元寇」と呼んだのと同様に、自国の国益を重視する意識が色濃いため、昨今の教科書ではより中立的な「刀伊事件」や「刀伊の来襲」と表記することが多いようです。本書でも本文中はおもに「刀伊事件」や「刀伊の来襲」を用い、書名は人口に膾炙している「刀伊の入寇」とさせてもらいました。
――事件において目覚ましい活躍をした藤原隆家とはどんな人物ですか。
 関:藤原道長の長兄・道隆の息子で、「闘う貴族」の代名詞のような人物です。隆家の兄の伊周(これちか)は、叔父の道長とは政治的ライバルでした。隆家もそうした関係から、道長に対抗意識を持っていたことが歴史物語『大鏡』に描かれています。
 その隆家の大宰府赴任は、刀伊の入寇の5年ほど前でした。異賊来襲の報に接するや、隆家は自ら軍勢を指揮し、博多の警固所に向かったとされます。隆家のリーダーシップは、親しい関係にあった藤原実資の『小右記』に記されています。二人は親子ほどの年齢差がありましたが、ともに道長とは距離を置いており、ウマが合ったのでしょう。『小右記』には隆家指揮下で活躍した武者たちの名も記されています。
――なぜ日本は刀伊を撃退できたのでしょうか。
 関:当時、律令時代の農民を中心とする軍団制は解体し、有名無実の状態でした。結果として、武芸に秀でた精兵が異賊の迎撃に当たったのでした。
 彼らはその出自から2つのタイプに分類できます。一つは藤原隆家ら中央貴族の護衛で九州に下向した「ヤムゴトナキ武者」で、その多くは10世紀前半の反乱(平将門の乱藤原純友の乱)を鎮圧した功臣の末裔でした。そしてもう一つは地域に根差した名士で「住人」と呼ばれた人々でした。
 要するに、有事に際して中央系の「ヤムゴトナキ武者」と地方系の「住人」から成る混成部隊がうまく機能したのです。刀伊の入寇に対する防衛戦争においては、律令国家の古代的軍制とは異なる、王朝国家の軍制のあり方が見て取れます。それは、来たるべき中世国家の軍制の前提と言えるものです。
――出版後の反響はいかがですか。
 関:東アジア状勢をふまえて日本の海防問題を論じたことで、研究者の方々から好意的な評価をいただきました。従来、対外危機といえば鎌倉後期のモンゴル襲来ばかりが強調されますが、それに先立つ刀伊の入寇の重要さを示すことができたのではないかと考えています。
――今後の取り組みのご予定は。
 関:本来の専門分野でいえば、諸国の武士団の盛衰について研究を進めています。それとは別に、最近は武家天皇の関係にも興味があります。日本の前近代における権力システムの祖型について、有益な議論を提示できればと考えています。
 関幸彦(せき・ゆきひこ)
 元日本大学教授。1952年生まれ。学習院大学文学部卒業後、同大学大学院に進む。専門分野は日本中世史。『英雄伝説の日本史』『武士の誕生』『鎌倉殿誕生』『東北の争乱と奥州合戦』『承久の乱後鳥羽院』ほか著書多数。
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