☵5〕─4─韓国メディアは、新元号「令和」にケチを付け日本人の感情を逆撫でして喜んでいる。~No.27No.28No.29 ③ 

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 韓国の本心は、日本との対等な友好関係などは望んではいない。
 この先幾世代でも、韓国が要求すれば謝罪と反省と賠償金を払い続ける日本を望んでいるだけである。
 それが、100年であろうと、500年であろうと、1000年であろうと、未来永劫、続けられる事を望んでいる。
 それに賛同する日本人が少なからず存在する。

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 元号とは、中華皇帝中華帝国に対する独立宣言であるり、国家と民族に対する「こうありたい」宣言である。

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 朝鮮王国は中華皇帝・中華帝国の属国として、中国帝国と同じ暦を使用し、中国皇帝から国王に即位する事を裁可してもらい、独自の貨幣を造らず中国の貨幣のみを使用し、中国語を公用語とし、中国の漢字を公用文字とした。 

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 日本は、独自の度量衡を定めた。

 朝鮮は、中華皇帝が定めた度量衡を拝領した。
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 4月1日 聯合ニュース「『令和』の『和』は日本自体を意味する言葉でもある。……『天皇制』をもとに安倍政権が日本中心のナショナリズムを強化しようとするメッセージを出したのではないかと言われる」
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 4月4日 京畿日報「『和』は、太平洋戦争を引き起こした『昭和』裕仁日王の『和』と同じである。なんだか不吉な予感を拭いきれない」
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 4月3日 韓国日報「悪化の一途を辿っている韓日関係を修復させる架け橋の役割として、明仁日王の訪韓を求める声が韓日両国から出ている」
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 4月5日 週刊東亜「太平洋戦争を起こした裕仁天皇元号が昭和だったことを考えれば、令和は『日本らしさを命じる』や『昭和時代への回帰を命じる』という意味として受け止めることもできる」
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 日本天皇は、中華皇帝とは対等な関係であり、朝鮮国王よりも上位者であった。

 日本天皇は、日王ではない。

 日本天皇は、国際外交の立ち位置としてはイギリス国王、アメリカ大統領、ローマ教皇に匹敵し、韓国大統領とは雲泥の差がある。

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 天皇や皇族が訪問してはいけない国が近隣に存在する。
 それは、韓国・北朝鮮中国共産党政府、ロシアである。
 特に、昭和天皇や皇族を殺そうとして付け狙ってキリスト教朝鮮人テロリストを国家・国民の英雄とする韓国は、行くべきではない国である。
 韓国は、大統領や政府も、国会の議長や政治家も、メディアや学者も、反日有理として日本を貶し侮辱する為に意図的に天皇と皇室を政治的に悪用している。
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 昭和天皇昭和天皇であって、裕仁天皇ではない。
 裕仁天皇と呼ぶ事は、昭和天皇の尊厳や名誉を貶す侮辱である。
 元号は、崩御された天皇の諡・諱・諡号である。
 裕仁陛下にせよ、明仁陛下にせよ、その名を公の場で言う事は、天皇に対する最大級の侮辱である。
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☵43〕─4─韓国の外交方針は、中国重視、アメリカ軽視、日本無視。~No.365No.366No.367No.368  ㉓ 

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 2019年4月16日 産経新聞「日本担当を分離 韓国外務省が再編案、中国外交を重視
 【ソウル=桜井紀雄】韓国外務省は16日までに、対日外交を担当する部署を、日中両国との外交を扱ってきた「東北アジア局」から分離し、新設する「アジア太平洋局」に移す組織再編案を公表した。東北アジア局は中国を重点的に扱うことになり、文在寅ムン・ジェイン)政権が対中外交を重視する表れといえる。一方で、対日外交の比重が縮小しかねないと懸念する声も上がっている。
 アジア太平洋局は、日本の他にインドやオーストラリアなどを担当。東南アジア諸国連合ASEAN)の10カ国との外交を担う「ASEAN局」も新設し、アジア外交を担当する組織は従来の2局から3局体制に拡充される。
 経済での対中依存が高まる中、中国に関する業務が年々増加。省内で懸案の多い日中両国に関する業務を1つの局で扱うのは限界があるとの声があった。東北アジア局はモンゴルなども扱うが、業務の大半が中国に特化されることになる。
 韓国外務省は、重要国の日中それぞれの外交を別の局が担うことで「外交力が強化される」と期待する。
 ただ、日本企業へ賠償を命じたいわゆる徴用工訴訟判決などで日韓関係が過去最悪といわれる中、「中国に比べて相対的に対日外交(の比重)が縮小されるという懸念を呼びかねない」(韓国紙、中央日報)とも指摘される。アジア太平洋局は、文大統領が「新南方政策」を掲げて関係強化を目指すインドにも重心を置かざるを得ないからだ。
 また、国連安全保障理事会の対北制裁を専門的に扱う部門を課クラスに格上げし、「輸出統制・制裁担当官」を新設する。急増する業務に対応するとともに、制裁を順守する姿勢をアピールする狙いとみられる。
 新たな体制には、法制局の審査などを経て来月中に移行される見通し。」

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 4月17日19:00 msnニュース 朝日新聞社「韓国、日本担当の部署変更 「対日外交縮小する」指摘も
 © 朝日新聞社 ソウル市中心部の光化門広場の近くに立つ韓国外交省のビル=2018年12月、武田肇撮影
 韓国外交省は17日までに、対日外交の担当部署を日中両国の外交を扱ってきた現行の「東北アジア局」から分離し、新設の「アジア太平洋局」に移す組織再編案を公表した。外交省関係者は「貿易額の約25%を占める中国の業務増大への対応」と説明しているが、国内メディアなどからは「対日外交の縮小につながる」との指摘が出ている。
 再編は5月に行われる予定。韓国外交省は「(地域の重要国家である日中を別々の局が担当することで)外交関係が強化される契機になると期待する」とのコメントを発表した。
 アジア太平洋局は、日本の他にオーストラリアとインドなどを担当。東北アジア局は中国のほか、モンゴルや香港・台湾を担当するが業務の大半が中国関係となる。ほかに東南アジア諸国連合ASEAN)10カ国の外交を担う「ASEAN局」も新設される。」
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🏹51〕─2─倭寇の人身売買は貴重な労働力確保であった。日中朝を席巻した海賊集団の謎。〜No.162 

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 後期倭寇の東アジア人間交易は資金源確保と労働力補充であった。

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 人類や宗教の歴史は、奴隷の歴史である。

 奴隷が語られない、人類や宗教の歴史はない。

 奴隷を否定したら、人類や宗教の歴史が成り立たない。

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 産経新聞 iRONNA
 「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎
 『渡邊大門』 2018/12/09
 渡邊大門(歴史学者
 前近代(特に中世)において、人身売買が行われていたことはご存じだろうか。それは決して公に認められたものではないが、公然の秘密だったといえる。今回はその源流を探るべく、室町時代の人身売買の例を取り上げることにしよう。
 鎌倉幕府滅亡後の1336年、足利尊氏室町幕府を開くと、鎌倉幕府と同様に指針となる法令を制定した。これが『建武式目』であり、中原是円、真恵兄弟らが足利尊氏の諮問に答えた形式を採っている。
 『建武式目』は『御成敗式目』のような裁判規範でなく、むしろ政治的な方針を示したものといわれている。その点は性格が異なっているが、以後は鎌倉幕府と同様に多くの追加法が制定された。
 ただし、『建武式目』をはじめとする室町幕府の法令においては、人身売買を禁止した規定を見いだすことはできない。しかし、人身売買が行われていなかったわけではなく、関係した史料(人身売買の売券など)は残っている。
 当時、人身売買や人の略奪という行為は、よりワールドワイドな方向で展開した。奴隷は世界的に存在しており、常に売買の対象となり流通していた。イスラム世界では高度に洗練された奴隷の流通システムが構築されており、中央アジア、ロシア草原、バルカン半島、ヨーロッパ北部、アフリカ大陸北部などに広がっていたという。そして、それを媒介していたのが、イスラム商人だった。
 日本は島国であったが、海で広く世界につながっていた。そして、日本人の略奪や人身売買も東アジア社会で展開することになる。とりわけ中国や朝鮮との関係が重要である。その契機となったのが、14世紀半ば頃から猛威を振るった「倭寇(わこう)」の存在である。
 倭寇には、「日本の侵寇」あるいは「日本人の賊」という意味があり、盗賊団のようなものになろう。倭寇という文字そのものは、404年の「高句麗広開土王碑文」に初めて確認できる。その活動は、おおむね14世紀半ば頃から15世紀初頭にかけて見られるようになった。
 彼らの活動範囲は、朝鮮半島、中国大陸の沿岸や内陸および南洋方面の海域と非常に広範囲に及んでいる。当時の朝鮮人・中国人たちは、こうした日本人を含む海賊的集団を「倭寇」と呼んだのである。
 倭寇の意味するところは、時代や地域によって異なっており、その定義を厳密に行うことは難しい。ちなみに、豊臣秀吉朝鮮出兵文禄・慶長の役)や20世紀における日中戦争倭寇という言葉で表現された。そうなると、倭寇は賊に加えて、侵略者としての意味も持つことになる。
 倭寇は食料などの物資に限らず、人間までも略奪行為の対象とした。朝鮮半島や中国大陸では、倭寇により人がさらわれ、そのまま日本に連行された。こうして日本に連行された人々を被虜人(ひりょにん)と称する。以下、倭寇による人の略奪を取り上げることにしよう。
 高麗王朝史の正史『高麗史』によると、1388年6月に倭寇朝鮮半島の全羅・慶尚・揚広の三道に進攻し、多くの人々が略奪されるという甚大な被害を受けたと記す。『高麗史』の別の個所では、倭寇の船団は50艘あまりもあり、千余人を連れ去ったというのである。まさしく国家存亡の危機だったといえよう。
 事情は中国においても同じであった。『皇明太祖実録』の1373年5月の記録によると、倭寇による人の殺戮(さつりく)などが問題となっており、翌年には対策が練られている。倭寇対策として水軍を充実させ、周辺海域をパトロールさせることになったのである。当時の「大明国」が倭寇の被害に頭を悩ませている様子がうかがえる。
 『老松堂日本行録』という史料には、倭寇日本海域を席巻し、朝鮮半島や中国で人をさらっていたことが記されている。『老松堂日本行録』は応永27(1420)年に足利義持の派遣使節の回礼使として日本を訪れた、朝鮮の官僚、宋希璟(そうきけい)の日本紀行文集で、当時の西日本の社会や風俗および海賊衆を記す貴重な史料である。次に、その中の一節を挙げることにしよう。

 一人の日本人がいて、小船に乗って魚を捕まえていた。私(宋希璟)の船を見ると近づいてきて、魚を売ろうとした。私(宋希璟)が船の中を見ると、一人の僧が跪いて食料を乞うた。私(宋希璟)は食料を与えて、この僧に質問をした。僧は「私は江南台州(中国浙江省臨海市)の小旗(10名の兵を率いる下級軍人)です。一昨年、捕虜としてここに来て、剃髪して奴隷になりました。辛苦に耐えられないので、あなた(宋希璟)に従ってこの地を去ることを願います」と言うと、ぽろぽろと涙を流した。(この僧の主人である)日本人は「米をいただけるなら、すぐにでもこの僧を売りますが、あなた(宋希璟)は買いますか」と言った。私(宋希璟)は僧に「あなたはが住んでいる島の地名は何と言いますか」と質問した。僧は「私は転売されて、この日本人に従って2年になります。このように海に浮かんで住んでいるので、地名はわかりません」と答えた。

 この男は「僧」と称されているが、「剃髪して奴隷になった」とあるので、頭を剃(そ)る行為が奴隷を意味していたと考えられる。あえて剃髪して異形にすることにより、普通の人と違うことを際立たせ、奴隷であることを視覚化させたのである。要するに剃髪した風貌が僧に似ていたので、仮に宋希璟は僧と呼んだのであろう。この男は連れ去られたのちも、転売されて今の主人に従ったらしい。
 この男は故郷の中国にいたときに倭寇によって連れ去られ、売買されたのであろう。場所は、対馬と推定されている。男は慣れない漁業に従事し、食料にも事欠くありさまだったようだ。遠い異国のことでもあり、心情を察するところである。では、なぜ倭寇は中国や朝鮮から人々を連れ去ったのだろうか。
 日本において南北朝の乱が始まると、それが約半世紀という極めて長期間に及んだ。とりわけ九州においても各地で戦いが繰り広げられ、著しい内乱状態に陥った。当然、農地は荒れ果て収穫が困難となり、食料が不足したに違いない。戦争時における、食料などの略奪も問題になったと考えられる。
 そうなると田畑を耕作する人間は国内で調達することが困難になるので、必然的に国外に求めざるを得なくなった。九州では農業従事者の慢性的な不足があったため、捕らえた朝鮮人や中国人を売却し、農作業に従事させていたのである。対馬朝鮮半島に近いこともあり、人身売買が盛んに行われていたという。こうして日本国内における労働力の不足は、中国や朝鮮の人々によって補われた。
 もちろん、彼らが従事したのは農業だけでない。それらを挙げると、牧畜、漁業、材木の運搬などが主たる業種である。いずれも過酷な肉体労働であり、まさしく奴隷が家畜同様に使役された物悲しさを語ることである。
 しかし、近年では以上のような肉体労働だけでなく、さまざまな職種に就いていたことが指摘されている。
 一つは通訳である。当時の公用語が中国語とみなされていたことから、通訳はほぼ中国人に限定されていた。中国語の読み書きがある程度できる者は、奴隷として日本に連れ去られ、日本語も堪能になると通訳を任された。通訳になると、先述した厳しい肉体労働から解放された。なお、対馬壱岐、北九州では、日本人でも朝鮮語に通じた者がいたと推測されており、朝鮮語の通訳は必要でなかったと考えられている。
 もう一つは、中国や朝鮮などの案内人として従事させることである。倭寇が中国や朝鮮に上陸する際、地理に不案内なため、どうしても土地に詳しい者が必要であった。いうなれば、倭寇の手先ということだ。皮肉にも被虜人が、倭寇の手助けをし、新たな被虜人を生み出すことになった。案内人としての職務については、中国人、朝鮮人とも行っていたようである。
 謡曲に『唐船』というものがある。九州・箱崎の某(なにがし)なる者が、唐土との船争いの際、官人の祖慶(そけい)を捕らえた。祖慶は13年もの間、牛馬の飼育に使役され、肉体労働を強要されたのである。祖慶は、唐土に2人の子供を残していた。2人は父を慕い、連れ帰ろうとして日本に渡海した。祖慶は日本で結婚し2人の子供がいたが、実子との再会に大いに喜んだ。
 2人の子供は箱崎の某の許可を得て、父を連れて帰ろうとしたが、日本の子供が別れを悲しんで引き留める。思い余った祖慶は海に身を投げようとするが、箱崎の某は日本の子供も唐土へ連れて帰ることを許した。
 ここで重要なのは、祖慶が自由の身になっても、その子供たちは主人の奴隷ということに変わりなかったことである。父子5人は、船中で喜びの楽を奏でながら、帰国の途につくのである。この話は決して架空のものでなく、悲しい実態を反映した作品なのだろう。
 このように被虜人は、国内における貴重な労働力であるとともに、倭寇の活動を支える存在であったといえるのである。当時、人身売買は各国で行われており、それは日本でも同じだったのだ。
 そして中国人や朝鮮人の売買は1回で完結するのではなく、さらに転売が伴った。転売された人物としては、魏天(ぎてん)なる者が存在する(以下『老松堂日本行録』)。魏天の生没年は不明であるが、中国の明で誕生し、のちに倭寇によって捕らえられ、被虜人として日本に連行された。その後、魏天は転売を繰り返され、朝鮮→日本→明→日本と移動した。最後は明への帰国を成し遂げ、洪武帝によって日本に派遣された。立場上は日本語を理解していたので、通訳ということになろう。
 再度訪れた日本では、室町幕府の三代将軍・足利義満の寵(ちょう)を受け、京都に居を構えたという。応永27(1420)年には、宋希璟と四代将軍・義持との会見の実現に大いに貢献した。皮肉にも魏天は、被虜人としての生活や日本語の取得が役立ったということになる。魏天は幼少時は被虜人となり、不幸であったかもしれないが、晩年は恵まれており幸運な部類に属するであろう。
 被虜人は、遠く当時の琉球にも転売されたようである。14世紀の終わり頃、琉球の中山王察度は4回に渡り朝鮮に被虜人を送還している。1416年、朝鮮国王・太宗も使節琉球に派遣して、被虜人を帰国させた。おおむね被虜人は、九州を中心にして、東は京都、南は琉球まで転売され、存在したようだ。15世紀後半の京都・建仁寺の禅居庵には、浙江省温州で被虜人になった人物が住んでいた。
 女性の被虜人の場合は、日本人男性の妻になった例もあるという。また、中には性的な労働に従事させられた者もあったと推測されている。
 以上のように、朝鮮や中国から連行された被虜人は、西日本を中心にして繰り返し転売されることになった。しかし、14世紀の終わり頃になると、朝鮮は日本との通交を積極的に推し進め、被虜人の送還を歓迎した。朝鮮との通交を希望する者は、被虜人の送還を進めた。この動きは15世紀初頭まで続くが、朝鮮の倭寇懐柔策により被虜人の供給が激減したため、以後はあまり見られなくなったという。
 倭寇が朝鮮・中国で猛威を振るい、人々を略奪したことを述べてきたが、逆のパターンがあったことにも注意すべきである。朝鮮では報復措置として、日本人を捕らえて奴隷とし、使役あるいは売買したことが知られている。
 そもそも李氏朝鮮には、法律上で奴隷の売買が許されており、世襲的な奴婢(ぬひ)が存在していた。14世紀の終わり頃、奴婢の売買は盛んに行われていたが、その価値は牛馬よりも劣っていたといわれている。日本よりも悲惨な現状にあった。しかし、次第に奴婢の売買は制限が加えられるようになり、15世紀の終わり頃には事実上の禁止となったという。
 『李朝世宗実録』によると、1429年に朴瑞生(ぼくずいせい)が日本通信使として来日し、帰国後に倭寇に拉致された被虜人のこと、そして日本における人身売買について報告を行っている。その中で注目すべきは、日本人が朝鮮人や中国人を奴隷として売買していたことに加え、朝鮮人も捕らえた日本人を奴隷として売買していた事実が報告されていることだ。
 朝鮮人が日本人奴隷を使役していた事実は、1408年の『李朝太宗実録』で確認することができる。この記録によると、日本国王足利義持が派遣した船の中に、当時、朝鮮人のもとで労働に従事していた日本人女性が逃げ込んだという。この日本人女性が、いかなる経緯で朝鮮人に捕らえられたのかは明らかでない。これにより、朝鮮人のもとで日本人奴隷が存在していたことが明白になった。
 その後の顛末(てんまつ)はどうなったのであろうか。朝鮮サイドでは府使を遣わし、日本の船に逃亡した日本人女性を返還するよう求めた。奴隷は主人の所有物なので、ある意味で当然の要求といえるかもしれない。しかし、日本サイドの使者は、「日本に私賤はいない」と突っぱねて返還を拒否した。そのような経緯を踏まえて、太宗は日本人奴隷の売買を禁止する法令を発布したのである。
 一説によると、当時の朝鮮における奴隷の割合は、相当に高かったという。太宗がいかなる理由で、日本人奴隷の売買を禁止したのかは不明であるが、仮に朝鮮で普通の人の売買を禁止しているならば、日本の「私賤はいない」という主張に従って、措置をしたのかもしれない。日本人女性が奴隷でないならば、返還するのが筋だからである。
 このように、15世紀の日本において人身売買が国の枠を超えて行われたことは、非常に興味深いところである。次回以降は、さらに人身売買や奴隷の詳細を明らかにしていこう。
 《主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)》
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✲57〕─2─天武天皇。伊勢神宮。式年遷宮。〜No.183         

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 伊勢神宮
 式年遷宮
 国家神道
 日本仏教。
 道教を取り入れた。

 儒教を敬して遠ざけた。
 陸奥国蝦夷の先に蝦夷地のアイヌ
 奄美大島の先に琉球琉球人。。
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 ウィキペディア
 伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。なお「伊勢神宮」とは通称であり、正式名称は地名の付かない「神宫(じんぐう)」。他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。神社本庁の本宗(ほんそう)である。
 二十二社(上七社)の一社。また、神階が授与されたことのない神社の一つ。古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟のひとつとされた。明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、全ての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。
 
 歴史
 概史
 古代
 皇室の氏神として、天皇以外の奉幣は禁止された(私幣禁断)。天武天皇の時代に斎宮が制度化され、『扶桑略記』によれば天武天皇の皇女である大伯皇女が初代とされる。

 式年遷宮
 詳細は「神宮式年遷宮」を参照
 記録によれば神宮式年遷宮は、飛鳥時代天武天皇が定め、持統天皇4年(690年)に第1回が行われた。その後、戦国時代の120年以上に及ぶ中断や幾度かの延期などはあったものの、平成25年(2013年)の第62回式年遷宮まで、およそ1300年間行われている。

 年表
 遷宮に関しては「神宮式年遷宮」を参照。西暦の年月日はユリウス暦によるが、「1871年7月1日」はグレゴリオ暦。年と月の西暦との対応はおおよその目安である。
 天武天皇14年(685年) : 式年遷宮の制を制定。
 持統天皇4年(690年) : 第1回内宮式年遷宮
 持統天皇6年(692年) : 第1回外宮式年遷宮

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 天武天皇(? - 686年10月1日(朱鳥元年9月9日))は、7世紀後半の日本の第40代天皇(在位:673年3月20日天武天皇2年2月27日) - 686年10月1日(朱鳥元年9月9日))。
 
 概要
 舒明天皇皇極天皇斉明天皇)の子として生まれた。中大兄皇子にとっては両親を同じくする弟にあたるとされる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。
天智天皇の死後、672年に壬申の乱大友皇子弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される。文化的には白鳳文化の時代である。
 天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。
 道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇とも言われる。

 天武朝の政策
 外交
 天武朝の朝廷は低姿勢をとる新羅と使者をやりとりし、文化を摂取する一方で、唐には使者を遣わさず、大国としての体面を繕った。この時代には西方海上済州島にあった耽羅からも使節が来た。11年(682年)7月25日には南西諸島の多禰(種子島)、掖玖(屋久島)、阿麻弥(奄美大島)の人に禄が下された。東北では11年(682年)3月2日に陸奥国蝦夷に冠位を授け、4月22日には越の蝦夷伊高岐那に評を建てることを認めた。
 天智天皇との対比で、天武天皇は親百済的だった前代と異なり親新羅外交をとったと評される。ただ、国内的には新羅系の渡来人を優遇したわけではなく、百済系の人を冷遇したわけでもない。天武天皇2年(673年)閏6月6日の沙宅昭明、3年(674年)1月10日の百済王昌成への贈位、14年(685年)10月4日の百済僧常輝への封戸30戸など、百済人への恩典は多い。朝鮮半島から帰化した人には元年(672年)から10年(681年)まで課税を免除し、10年後の8月10日には入国時に子供だった者にも免除を広げた。

 文化政策
 天武天皇は古来の伝統的な文芸・伝承を掘り起こすことに力を入れた。外来のものが排斥されたわけではないが、以前と以後の諸天皇の事業と比べると、土着文化の掘り起こしと整頓に向けた努力が著しい。天武天皇壬申の乱に敗れていれば、『古事記』『万葉集』に代表されるような土着的な文化は、『日本書紀』『懐風藻』に代表されるような中国風の文化に侵食され、あるいは伝わらないまま終わっていたかもしれないとさえ言われる。
 君主の号を天皇とした始めは、天武天皇であるとの説が有力である。資料的には推古天皇の代の天皇号も複数あるが、それでは中国で天皇号を君主に用いた時期より前になること、個々の資料の性格に疑いがはさまれることにより、天武朝まで下げる。
 天武天皇は民間習俗を積極的にとりこみ、それを国家的祭祀とした。五節の舞がその確実な例であり、新嘗祭を国家的祭祀に高め、特に大嘗祭を設けたのも、天武天皇であろうと言われる。現代の歴史学者の多くが、後述する神道の祭祀も含め、後代に伝統として伝えられた主要な宮廷儀式の多くが、天武天皇によって創始されたか大成されたと推測している。
 天武天皇4年(675年)2月9日には畿内とその周辺から歌が上手な男女、侏儒、伎人を宮廷に集めるよう命じ、4月23日に彼ら才芸者に禄を与えた。14年(685年)9月15日には優れた歌と笛を子孫に伝えるよう命じ、15年(686年)1月18日には俳優と歌人に褒賞を与えた。
 天皇は、10年(681年)3月17日に親王、臣下多数に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出した。後に完成した『日本書紀』編纂事業の開始と言われる。また、稗田阿礼に帝皇日継と先代旧辞帝紀旧辞)を詠み習わせた。後に筆録されて『古事記』となる。いずれも完成は天皇の没後になったが、これらが日本に現存する最古の史書である。二書を並行させた意図には定説がないが、内容は天皇家の支配を正当化する点で共通する。長大な漢文で、一貫性を犠牲にして多数の説を併記した『日本書紀』が合議・分担で編纂されたのに対し、短く首尾一貫した『古事記』のほうに天武個人の意志がかなり入った可能性が指摘される。
 天武天皇は、本人が天文に長じており、天武天皇4年(675年)1月5日に日本初の占星台(天文台)を建てさせた。

 動物保護
 天武4年4月17日(675年5月19日)に、狩猟・漁獲の方法を制限し、牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁止した。しかし、これらの動物の肉食は、稲作期間に相当する4月から9月に限って禁じられただけであり、農閑期である10月から翌年3月までは禁止されていない。また、当時の都で牛馬の肉が食べられていたことは、骨に残った痕跡からも確認されている。加えて、当時の狩猟の主な対象であり、また、稲作の害獣と見なされた鹿と猪については、狩猟方法に規制をかけただけであり、肉食は禁じられていない。これは、肉食の全面的な禁止を目的としたものではなく、律令国家を運営していく上での税収の安定的な確保の為に稲作を促進する観点から、ウシやウマなど稲作に役に立つ動物の保護を目的とした法令と見なすべきである。しかし、律令国家体制の下で、貨幣になり得るものとしての米の神聖さが一層強調され、稲作の促進の為の動物の保護と肉食の制限・禁止を目的とした、類似した内容の法令は後の時代にも繰り返された。その結果として、日本人は、しだいに肉食そのものを稲作に害をもたらす穢れと見なし、表向きは遠ざかるようになっていった。

 宗教政策
 神道
 天武天皇は日本古来の神の祭りを重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げた。神道の振興は、外来文化の浸透に対抗する日本の民族意識を高揚させるためであったと説かれる。だがその努力は各地の伝統的な祭祀をそのまま保存することではなく、天照大神を祖とする天皇家との関係に各地の神を位置づけ、体系化して取り込むことにあり、究極的には天皇権力の強化に向けられていた。それぞれの地元で祀られていた各地の神社・祭祀は保護と引き換えに国家の管理に服し、古代の国家神道が形成された。
 その際、天武天皇伊勢神宮を特別に重視し、この神社が日本の最高の神社とされる道筋をつけた。壬申の乱のとき、挙兵して伊勢に入った大海人皇子は、迹太川のほとりで天照大神を望拝した。具体的には伊勢神宮の方角を拝んだことを意味すると考えられている。即位後の天皇は、娘の大来皇女伊勢神宮に送り、斎王として仕えさせた。4年2月13日には娘の十市皇女天智天皇の娘阿閉皇女(元明天皇)が伊勢神宮に参詣した。伊勢神宮式年遷宮開始年については天武天皇14年(685年)と持統天皇2年(688年)の二通りの本があるが、いずれにせよ天武天皇の発意であろう。また、伊勢神宮五十鈴川沿いの現在地に建てたのは天武天皇で、それ以前は宮川上流の滝原宮にあったと推定されている。
 そもそも天照大神という神を造り出したのが天武天皇であるという説もある。無から創作したというのではなく、伊勢地方で祀られていた太陽神を、天皇家が祀っていた神と合体させて天照大神としたという説である。これについてはタカミムスヒが旧来の皇祖神で、天武天皇がアマテラスに取り替えたという説もある。斎王は、雄略天皇から推古天皇のときまであったと『日本書紀』『古事記』に記されているが、これについても実は大来皇女が最初なのだとする説がある。
 他に、天武天皇3年(674年)8月3日には石上神宮忍壁皇子を遣わして神宝を磨かせた。天武天皇4年(675年)4月10日には、竜田の風神を祀るために美濃王らを、広瀬の大忌神を祀るために、間人大蓋らを遣わした。後世まで両神を祀るために勅使が遣わされる初めとされる。この年1月23日に諸々の社を祭ったのを、祈年祭の始まりとみる説もある。

 仏教
 天皇の仏教保護も手厚いものがあった。即位前には出家して吉野に退いた経歴を持つ。即位後、2年(673年)3月に川原寺で一切経書写の事業を起こした。5年(676年)には使者を全国に派遣して『金光明経』と『仁王経』を説かせ、8年(679年)には倭京の24寺と宮中で『金光明経』を説かせた。『金光明経』は、国王が天の子であり、生まれたときから守護され、人民を統治する資格を得ていると記すもので、天照大神の裔による現人神思想と軌を一にするものであった。本人・家族の救済ではなく、護国を目的とした事業である。
 天武天皇2年(673年)12月17日に、美濃王と紀訶多麻呂を造高市大寺司に任命し、百済大寺を高市に移して高市大寺とした。9年(680年)11月12日に皇后の病気に際して薬師寺建立を祈願し、自らの病に際しても様々に仏教に頼って快癒を願った。
 天武天皇14年(685年)3月27日には、家ごとに仏舎を作って礼拝供養せよという詔を下した。「家」がどの程度の人数の単位なのかは不明で、有力豪族ごとに一つと解する説のほかに、「諸国の家」を国衙と解して国ごとに一つと解したりする説があるが、仏教を広めようとしたのは間違いない。この時期まで畿内を除く地方に寺院は少なかったが、天武・持統朝には全国で氏寺が盛んに造営された。遺跡から出る瓦からは、中央の少数の寺院が地域を分担して建設を指導したことがうかがわれ、政策的な後押しが想定できる。
 天武天皇の仏教保護は、反面、僧尼に寺院にこもって天皇や国家のための祈祷に専念することを求め、仏教を国家に従属させようとするものでもあった。国家神道に対応する国家仏教である。天武天皇4年(675年)に諸寺に与えられていた山林・池を取り上げ、8年(679年)には食封を見直して寺院の収入を国家が決定することにした。中央統制機関としては、推古朝に設けられ十師によって廃止された僧正・僧都を復活して僧綱制を整えた。加えて天武朝では僧尼の威儀・服装まで規制し、すべての寺院と僧侶を国家の統制下に置こうとするころまで国家統制が強まった。
 天皇の仏教理解、姿勢については、現世利益を求めた皮相的なものと説かれることがある。天皇が命じて読ませたのは護国の経典で、個人の救済が重視されたようには見えない。天皇個人が仏教に求めたのは、皇后と自身の病気治癒で、仏教の自我否定や利他の思想を実践しようとするものではなかった。

 道教
 天皇の宗教観には道教の要素が色濃く出ている。「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神、つまり仙人の上位にいる存在であったとの説がある。八色の姓の最上位は真人であり、天皇自身の和風諡号は天渟中原瀛真人という。瀛州は東海に浮かぶ神山の一つ、真人は仙人の上位階級で、天皇道教最高神である。天皇が得意だった天文遁甲は、道教的な技能である。葬られた八角墳は、東西南北に北東・北西・南東・南西を加えた八紘を指すもので、これも道教的な方角観である。
 道教への関心は天武天皇だけのものではなく、母の斉明天皇に顕著であり、天武没後も続く。天武天皇の、そして日本の道教は、神道と分かちがたく融合しており、独立には存在していない。影響をどこまで大きく評価するかは見方が分かれる。

 年譜
 天智天皇7年(668年) 天智天皇の皇太弟に立てられたとされる(否定する説もある)。
 天智天皇10年(671年) 重病の天智天皇に後事を託されるも固辞し、出家して吉野に移る。
 弘文天皇元年(672年) 壬申の乱天智天皇の息子である大友皇子弘文天皇)を破る。
 弘文天皇2年(673年) 飛鳥浄御原宮にて即位する。
 天武天皇4年(675年) 部曲を廃止する。占星台を設置する。
 天武天皇5年(676年) 陰陽寮を設置する。
 天武天皇7年(678年) 官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定める。
 天武天皇8年(679年) 吉野に行幸する。皇后、草壁皇子らに皇位継承争いを起こさないよう誓わせる(吉野の盟約)。
 天武天皇9年(680年) 皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため薬師寺の建立を命じる。
 天武天皇10年(681年) 飛鳥浄御原宮律令の制定を命じる。草壁皇子を皇太子に立てる。
 天武天皇11年(682年) 匍匐礼を廃し、立礼にすることを命じる。
 天武天皇12年(683年) 富本銭の発行。
 天武天皇13年(684年) 八色の姓を定める。
 天武天皇14年(685年) 冠位四十八階を制定する。
 朱鳥元年(686年) 崩御

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☵41〕─5─韓国系アメリカ人ギャング団は在韓米兵を“捨て駒”に覚醒剤を密輸していた。〜No.342No.343No.344No.345 * ㉒ 


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 韓国内には、反天皇反日反米親北朝鮮親中国共産党の従北勢力が深く根を張っている。
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 2017年4月16日 産経ニュース「【今週の注目記事】韓国の「仁義なき犯罪」 米兵を“捨て駒”に覚醒剤を密輸 国の護りを裏切るカンナム・スタイル
 米海軍の空母カール・ビンソン。予定を変更して西太平洋、つまり朝鮮半島周辺に展開する予定だ(ロイター)
 韓国で「仁義なき犯罪」が明らかになった。米兵をそそのかして利用し、覚醒剤4・1キロ(130億ウォン=約13億円分)を米国から韓国へ密輸入しようとした韓国系犯罪組織が摘発されたのだ。北朝鮮の軍事的脅威から韓国を守るため駐留している“守護神”の米軍兵士さえも犯罪に巻き込み利用する信じがたい行為に、米国はどう対応するのか。(岡田敏彦)
 13万6600回
 犯行の詳細は米軍準機関紙スターズ・アンド・ストライプス(電子版)や韓国各紙が3月中旬に一斉に報じた。韓国各紙によると、犯行が行われたのは昨年12月。首都ソウル近くの仁川(インチョン)空港に、在韓米軍兵士向けの軍事郵便物が到着した。
 税関で検査したところ、朝食用のシリアルが10箱詰められており、そのうち3箱から、ビニール袋にたっぷり詰められた覚醒剤メタンフェタミン)が見つかった。その重量は計4・1キロ、末端価格で13億円分という希に見る量だった。
 地元韓国の水原地検平沢支庁刑事2部長のカン・スサンナ検察官は、スターズ・アンド・ストライプス紙の取材に「これは米軍事郵便を(悪用し)摘発された薬物量では過去最大だ」と話したという。通常の一回投与量は約0・03グラムで、摘発された4・1キロは13万6600回分にものぼる。韓国の犯罪組織の手に渡れば、麻薬汚染が広がるのは間違いない。
 この荷物の受け取り人として荷物に表記されていた在韓米軍K−2(ハンフリーズ)基地所属の米兵(19)は、同僚兵士のA一等兵(19)に頼まれて受け取りの住所と名前を貸しただけだと主張。韓国検察に加え米軍捜査隊(CID)、米司法省麻薬捜査局(DEA)などが捜査に乗り出し、A一等兵に事情を聞くなどした結果、犯行の全容がほぼ明らかになった。
 在米韓国マフィア
 調べによると、犯罪グループの主犯格は米国カリフォルニアに住む34歳の在米韓国系の人物で、覚醒剤メタンフェタミン)4・1キロを韓国へ密輸することを計画。ただし、普通の郵便で送っては税関検査で中身を調べられるため、特別な“仲間”を用意した。それが在韓米軍所属兵士のA一等兵だった。
 主に米軍兵士だけが利用できる米軍軍事郵便は、通常の郵便よりも税関での検査が比較的に緩いと韓国内ではみられている。韓国税関職員は忙しい業務のなかで「米軍の荷物なら大丈夫だろう」と信用しているからだ。実際、税関職員は一定の時間帯に在韓米軍の軍事郵便局を訪問し検査するだけで、100%の検査ではないと韓国紙の中部日報(電子版)などは指摘する。組織はこうした「米軍への信用」を悪用しようとしたが、今回は“運悪く”発覚したというのだ。
 またカン検察官は地元テレビの取材に対し、犯行の悪質な計画性を示唆している。
 というのも、軽くて1箱のサイズが大きいシリアルを10箱も詰めた段ボール箱は「箱の体積が大きかった。X線検査を困難とするためではないか」と指摘するのだ。
 検査機器の受け入れ枠のサイズを超えていれば、本来なら箱を開け中身を出してX線検査機に通すこととなる。そこで税関職員が「面倒だ。検査しなくてもケンチャナヨ(大丈夫、気にするな)」となることを狙ったというのだ。
 カンナム・スタイル
 捜査当局では主犯格の男が韓国内で直接、在韓米兵士をそそのかしたわけではなく、韓国内にも仲間がいたことを突き止めた。韓国通信社の聯合ニュースによると、共犯者は、米国に住む移民2世が2人(主犯格を含む)。さらに韓国系移民で、「米国でさまざまな犯罪を犯し」て、米国から国外追放されていた4人が犯行に関わっていたことがわかった。地元紙の京郷新聞(電子版)によると、この6人はすべて20〜30代の韓国系移民2世だという。
 一味のアジトはソウルの江南(カンナム)区にあり、捜索したところメタンフェタミン89・6グラムとコカイン11グラムが見つかった。江南区朴槿恵(パク・クネ)前大統領の自宅(同区三成洞)もある高級住宅街として喧伝されているが、実際には高級なのは一部地域だけで、不法占拠のスラム街「開浦洞(ケポドン)九龍村(ケリョンマウル)」など貧民窟が複数ある。麻薬取引などの犯罪には地理的に便利だった可能性もある。
 結局、A一等兵は逮捕、起訴され、軍事郵便の住所と名義を貸した兵士は在宅起訴。韓国系犯罪グループは2人が逮捕されたが、4人は逃亡し、国際刑事警察機構(ICPO)に指名手配された。
 ドラゴンファミリー
 今回、在韓米軍側で摘発された兵士2人については、その素性などは明らかにされておらず、2人も韓国系移民2世だったかどうかは報道されていない。しかし中央日報(電子版)など現地メディアは数年前から在韓米軍内にいる「韓国系ギャング団」の存在を指摘している。
 こうした報道によると、米連邦捜査局FBI)は米軍内に韓国系移民で構成されたギャング団「コリアン ドラゴン ファミリー」があると認識している。米国に居住し、ギャング生活から抜け出すため米軍に志願入隊する者もいるが、「武器や麻薬の密輸を容易にできるよう、意図的に入隊するものもいる」という。さらに「軍で得た戦闘知識や銃の知識を、除隊後に再びギャングとなっていかす」というから始末に悪い。
誰が国を守るのか
 それにしても、犯行が行われた昨年12月といえば朴氏の大統領弾劾や北朝鮮弾道ミサイル発射などで韓国の安全保障が危機にさらされていた。そんななかで、韓国の「守りの要」である米軍兵士を麻薬犯罪に巻き込むなど、韓国民にとっても言語道断の行為といえる。
 本来、国を守るべき韓国軍は、その指揮権を米軍に“献上”している。朝鮮戦争(1950〜53)で韓国軍は敵前逃亡を繰り返したあげく総崩れとなり、兵士がどこにいるのか、そもそも部隊が存在しているのかもわからない状態となった。
 米軍から「自国(韓国)の軍隊を逃げずに戦うよう統率しなさい」と求められた韓国初代大統領の李承晩は、連合軍総司令官のマッカーサーに対し「指揮権一切を移譲することをうれしく思う」「韓国軍は、あなたの指揮下で服務することを光栄に思う」などの卑屈な言葉を並べて指揮権を一任。以降、韓国軍の実質的な指揮権である戦時作戦統制権は米軍(国連軍)にある。
 アフリカ南部の国家ジンバブエが2015年、ハイパーインフレのため自国通貨の発行を停止して世界中の話題となったが、自国軍を指揮命令する権利は、通貨発行権や税の徴収権などと同様に独立国家の極めて重要な権利だ。その権利を韓国は自ら手放し、約70年任せたまま、現在に至るのだ。近年は北朝鮮の核開発、そして今月には米軍のシリアへの攻撃により、朝鮮半島周辺の情勢は緊迫化している。
 そんななかでの麻薬犯罪。米軍の立場で見れば、自国の物流システムを悪用され、自国の兵士が犯罪の片棒を担がされた状態だ。韓国を守るモチベーションをどう保つのか…。しかも過去同様「卑屈にお願い」しようにも、大統領はいないのだ。(4月11日掲載)」


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日米同盟の制度化 -発展と深化の歴史過程-

日米同盟の制度化 -発展と深化の歴史過程-


☵12〕─1─韓国メディアは、 日本の新紙幣1万円札の渋沢栄一は収奪の主役と激しく非難した。~No.74No.75No.76 

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 2019年4月9日 msnニュース KYODO 共同通信社渋沢栄一の新1万円札採用を批判 韓国メディア「収奪の主役」
 【ソウル共同】日本政府が新1万円札に実業家渋沢栄一肖像画を採用すると発表したことを受け、韓国メディアは9日、渋沢が「日本の帝国主義時代に朝鮮半島の経済を奪い取った主役だった」と強調した。
 聯合ニュースは、渋沢が設立した第一銀行が大韓帝国時代の1902~04年に朝鮮半島で発行した紙幣にも渋沢の肖像画が使われたとし、「朝鮮半島の初めての近代的な紙幣に登場し、韓国に恥辱を抱かせた」と主張した。
 KBSテレビも、朝鮮半島の収奪の歴史を象徴する人物の肖像を採用するのは「過去の歴史を否定する安倍政権の歴史修正主義が反映された可能性がある」との見方を伝えた。」
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 4月9日01:14 産経新聞「紙幣 20年ぶりに刷新へ 一万円札に渋沢栄一
 新紙幣について会見する麻生太郎副総理兼財務相=9日午前、東京都千代田区財務省(宮崎瑞穂撮影)
 政府が一万円などの紙幣を20年ぶりに刷新する方針を固めたことが8日、分かった。新札の肖像画には、一万円札が「資本主義の父」と呼ばれた実業家の渋沢栄一、五千円札は津田塾大創始者の津田梅子、千円札は「近代日本医学の父」といわれる医学博士の北里柴三郎の起用を検討している。早ければ9日にも麻生太郎副総理兼財務相が発表する。」
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 4月9日12:38 産経WEST「新紙幣に採用 3人はどんな人?
 ■日本の資本主義の父
 一万円札の肖像画に選ばれた渋沢栄一は「日本の資本主義の父」と呼ばれる人物だ。天保11(1840)年、現在の埼玉県深谷市の農家に生まれた。幕末に幕臣として仕え、明治維新後は新政府で働いた後、実業界に転じ、明治6(1873)年に設立された「第一国立銀行(現みずほ銀行)」など約500の企業の設立や運営に関わった。紙幣や国債などへの紙需要を見込み、国内で初めての製造会社として現在の王子製紙の創立にも参画した。関西でも「第三十二国立銀行(現三井住友銀行)」や東洋紡大阪ガスの設立に携わった。
 ■現津田塾大を創立
 五千円札の顔になる津田梅子は明治4(1871)年、政府が欧米派遣した「岩倉使節団」に6歳で加わった。日本で最年少の女子留学生5人のうちの1人とされ、帰国後は女子教育のための学校をつくりたいとの夢を膨らませ、家庭教師や華族女学校の教師に従事した。
 明治33(1900)年には、私立の女子高等教育機関として日本初の「女子英学塾(現津田塾大)」を創立するなどし、女子教育の先駆者としてその名を残した。
 ■破傷風の治療法開発
 千円札の顔に採用された北里柴三郎は近代医学に貢献した医学者だ。ドイツに留学して細菌学者のロベルト・コッホに師事。
 破傷風菌の純粋培養技術や血清を使った治療法を開発し、世界的に知られるようになった。
 帰国後も結核予防や細菌学研究に取り組み、大正3(1914)年には、北里大の前身となる研究所を設立したほか、慶応大医学部の創設にも尽力した。
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☵41〕─4─韓国軍兵士は性欲が旺盛である。〜No.338No.339No.340No.341 * 


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 日本人と韓国人・朝鮮人は、性格は正反対である。
 日本は、日本神道・日本仏教・日本儒教の混合による多様な価値観を社会の基盤としていた。
 韓国・朝鮮は、朱子学の正統派儒教・韓国キリスト教の絶対価値観を社会の基盤としている。
 日本人は、韓国人と比べて、生への執着心は弱く直ぐに諦め、性欲も快楽的肉体的ではなく情緒的精神的が強く淡白である。
 現代の韓国は、昔の朝鮮とあまり変わってはいない。
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 2017年4月2月 産経WEST「【世界ミニナビ】韓国軍幹部、乱れる“風紀”…高額「出張マッサージ」に売春斡旋、国民の怒り沸騰
 米海兵隊と合同演習の合間に雪を投げる韓国軍海兵隊員ら(AP)
 韓国でこのほど、通常の3倍もの料金で「出張マッサージ」を受けたとして、軍幹部が憲兵隊(軍警察)の事情聴取を受ける事態となり、韓国内で改めて兵士の倫理意識や規範意識が問題となっている。この軍幹部は“性行為疑惑”は否定しているというが、韓国のインターネットユーザーを中心に、その主張を信じる向きはすくないようで…。
 発端は売春捜査
 韓国ケーブルテレビ「チャンネルA」などによると、軍警察の聴取を受けたのは、防衛事業庁所属の准将。昨年6月に慶尚南道で出張マッサージを申し込み、15万ウォン(約1万5千円)を払っていたことが今年3月中旬に判明した。韓国での一般的なマッサージ料金より3倍近い額で、あきらかに売買春だと軍警察は判断しているという。
 この問題が明らかになった発端は、「出張マッサージに偽装して売春を行う会社がある」との情報を地元警察がつかみ、捜査を始めたことによる。この捜査過程で、警察は利用客の帳簿や電話の通話履歴を入手。韓国紙「京郷新聞」などによると、警察がこうした証拠物品を調べた結果、この准将のほかにも複数の軍人が利用していたこともわかった。
 沸騰するネットユーザー
 一方で准将は、軍警察に対し「マッサージは受けたが性行為はしなかった」と容疑を否認した。これが韓国のネットユーザー間で話題となり「なぜ見え透いた嘘をつくのか」と“炎上”する羽目に。 
 客観的にみれば、汚職でも職権乱用でもない個人の犯罪だが、それでも世論が沸騰するのは理由がある。現在の韓国は「軍の風紀の乱れ」が国民の目に余る状態となっているのだ。
 昨年10月22日には、韓国軍の情報機関である国軍機務司令部の少佐(当時44)が売春を斡旋した疑いでソウル西大門警察署に逮捕された。現地紙の韓国日報や毎日経済によると、この少佐は韓国版の出会い系サイトを通して女性4人に売春をさせていたという。
 情報機関員としての知識と経験を生かしたのか、携帯電話3台を駆使して手広く“商売”を行い、1回の売春で女性が得た25万ウォン(約2万5千円)のうち、紹介料名目で5万ウォン(約5千円)をピンハネしていた。
 軍警察が捜査したところ、軍の勤務よりも女衒(ぜげん)に熱心だったこの少佐は最終的に1200回の売春斡旋をしていたという。ちなみにこの少佐の言い訳は「妻が脳腫瘍の末期患者で、手術費を調達するためにした」だった。韓国ネットユーザーの間で大炎上したのは言うまでもない。
 軍人のタマゴも
 さらに今年2月下旬には、陸軍士官学校の4年生の生徒3人が買春容疑で退校処分となった。問題が発覚した理由は、士官学校の生徒の一人が匿名で「生徒隊長と会話」と名付けられた軍の内部接続専用サイトに「生徒3人が外泊中に逸脱行為をした」などと書き込んだこと。この“密告”で3人は卒業式を翌日に控えて退校処分となったことから、韓国通信社の聯合ニュースまでが報じる事態となった。
 上は将軍から、下は軍人のタマゴまで…。北朝鮮が核実験を繰り返し弾道ミサイルを次々と試射している状況下で、韓国軍の緊張感のなさにはほかならぬ韓国国民が最も怒り心頭のようだ。」

 

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