🗾8〕─3─科学的根拠、日本人の起源は雑多な血の混入(コンタミネーション)であった。〜No.40 

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 日本民族は、混血の雑種であって純血種ではなかった。
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 2024年4月14日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「縄文人弥生人で分けられない「日本人のルーツ」 祖先はいつ、どうやって日本列島へやってきた?
 日本人は、どこからやってきたのでしょうか(写真:Ziyuuichi Tomowo/PIXTA
 「えっ?  最初の人類はアウストラロピテクスじゃないの?」。あなたの教養は30年前の常識のままかもしれません。
 【イラストで見る】核ゲノムの都道府県別SNP解析
 2022年のノーベル医学生理学賞受賞で注目が集まっている進化人類学。急速に発展するこの分野の最新成果をまとめた『人類の起源』(中公新書)の著者、篠田謙一国立科学博物館長が監修を務め、同書のエッセンスを豊富なイラストで伝える『図解版 人類の起源』より、一部抜粋・編集してお届けします。
■日本人の起源はどうなのか
 ゲノム研究の発展以前は、日本人の起源も発掘された人骨の形態をもとに研究され、日本列島集団には2つの大きな特徴があると考えられてきました。
 1つ目は、縄文時代弥生時代という時代が異なる人骨の間の明確に認識できる違い。2つ目は、北海道のアイヌ集団と、琉球列島集団、本州・四国・九州を中心とした本土日本人という3つの集団に姿形に区別しうる特徴があることです。
 このような違いを説明する原理として、「二重構造モデル」という学説が定説とされてきました。
 この学説は、旧石器時代に東南アジアなどから日本列島に進出した集団が縄文人となり、やがて列島に入らず北上した新石器時代の北東アジア人が渡来系弥生人となってやってきたという説です。
 しかし、近年のゲノム分析により、二重構造モデルでは説明できない事実が明らかになっています。
■「二重構造モデル」の限界
 「二重構造モデル」は、旧石器時代に東南アジアなどから日本列島に進入した集団を基層集団(縄文人)とし、その後、新石器時代に北東アジアから朝鮮半島経由で渡来した集団(弥生人)が入ってきたという単一的な視点が特徴です。
 縄文人弥生人という枠
 「二重構造モデル」では、東南アジア由来の旧石器人が縄文人になり、列島に入らず北上した集団は、寒冷地適応を受けて形質を変化させ、北東アジアの新石器人になったとされています。
 弥生時代になり、この集団の中から北部九州に稲作をもたらす渡来系弥生人が現れ、稲作が入らなかった北海道や、北部九州から2000年遅れて稲作が始まった琉球列島では縄文人の遺伝的特徴が強く残ることになり、それが両者の見た目の類似性を生んだと考えられています。
 つまり、縄文人弥生人の違いは、集団の由来が異なることに起因するという単一的な視点で説明しているのです。
 地域ごとに集団形成の過程が異なる! 
 地域別に現代日本人のゲノムを比べると、北海道のアイヌ集団、沖縄集団、本州・四国・九州のいわゆる本土日本人の間で違いが見られます。それは、地域ごとに異なる歴史があり、集団成立にも異なるプロセスがあることを示しています。
 「地域」という視点の重要性
 下の図は、都道府県別の核ゲノムSNP解析を表したもので、近畿・四国などの本土日本の「へそ」の部分と、九州や東北の間に違いが見えます(※外部配信先ではイラストを閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください)。
 畿内(きだい)を中心とした地域では、渡来系集団の遺伝的な影響が強く、周辺域では縄文人の遺伝的な影響が強く残っており、それを敷衍(ふえん)して、北海道と琉球列島では縄文系の比率が高いはずだと考えるのが二重構造モデル。
 しかし、「縄文人」や「弥生人」といった枠が先にあり、地域ごとの歴史や集団の成立過程を考える発想がありません。
ホモ・サピエンスはいつ日本へ? 
 3つの異なる文化系統
 日本列島にホモ・サピエンスがやってきたのは約4万年前。
 二重構造モデルでは、彼らが均一な形質の縄文人となって列島内に広がったと仮定されていますが、ゲノム解析によって、縄文人はさまざまな地域から入ってきた集団であり、地域によって遺伝的特徴が異なる集団が居住していたことがわかってきました。
 下の図は、日本列島における3つの異なる文化系統です。地域が違えば、歴史も文化も異なり、集団の成立過程にも大きな違いがあるのは自然なことといえるでしょう。
 日本列島にホモ・サピエンスが最初に進出したのは、約4万年前の後期旧石器時代旧石器時代の遺跡は日本国内に1万箇所ほど知られていますが、人骨は琉球列島を除いてほとんど見つかっておらず、旧石器時代人の実像についてはあまりわかっていません。
■海を渡ってやってきた旧石器時代
 日本列島への流入のルートとして考えられるのは主に3つ。朝鮮半島から対馬を経由してくるルート、台湾から琉球列島を渡るルート、シベリアから北海道を通るルートです。
 この時期は最終氷期に当たるため、現在より海水面が低く、本州や九州、四国、沖縄には船で渡ってきたものと考えられます。
 二重構造モデルでは、縄文人は均一な集団と考えられてきましたが、ミトコンドリアDNAの解析によると、旧石器時代にさまざまな地域から入ってきた集団で形成され、遺伝的特徴が異なる集団が居住していたようです。
 日本列島内には、旧石器時代の遺跡は1万箇所ほどありますが、人骨は琉球列島以外ではほとんど見つかっていません。沖縄本島石垣島で発見された人骨は、ミトコンドリアDNAの分析が行われ、旧石器時代人の系統などが明らかになっています。
 遺跡や沖縄の化石人骨のデータ
 琉球列島の主な旧石器時代遺跡としては、「港川遺跡」「サキタリ洞遺跡」「白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡」「山下町洞穴遺跡」などがあり、近年旧石器時代の人骨が続々と見つかっています。
 ちなみに、現在のところ琉球列島以外の旧石器時代の人骨は静岡県の根堅(ねがた)遺跡のものだけ。
 港川人以外は、まだ次世代シークエンサを使った解析は行われていませんが、ゲノム情報を得ることができれば、琉球列島の人類史の解明に新たな展開をもたらすことができるはずです。
 沖縄の旧石器人は滅んでしまった可能性も? 
 沖縄本島で発見された約2万年前の人骨「港川1号」は、次世代シークエンサを用いたミトコンドリアDNAの解析も行われています。この人物は現代人につながらずに消滅した系統であると考えられています。
 実は、琉球列島集団の現代人を対象とした大規模なゲノム解析によって、沖縄の現代人の祖先は1万5000年前より昔にさかのぼらないという結論が導かれています。
 この結果は、港川人のミトコンドリア系統が現代人につながらないとする解釈と整合性があります。
縄文人の地域差が意味するものとは? 
 形態的には比較的均一だったと考えられている縄文人ですが、ミトコンドリアDNAの系統では、明瞭な東西の地域差が認められています。旧石器時代の日本列島には、進入ルートが異なるさまざまな集団が入ってきたと考えられます。
 さまざまな地域から入ってきた集団
 縄文人ミトコンドリアDNAの代表的なハプログループは、M7aとN9bです。西日本から琉球列島に多くなるM7aは、おそらく中国大陸の南部沿岸地域から西日本に進入したとされています。
 一方、東日本から北海道の地域で多数を占めるN9bは、九州にも特殊なN9b系統が存在。そのため、N9b系統の祖先は朝鮮半島から沿海州の広い地域に散在し、それぞれ北海道経由のルートと、朝鮮半島経由のルートで日本列島に到達したと考えられます。
 現代日本人に占めるそれぞれの割合は、M7aが約7.7%でN9bが約2.1%。この割合は、その後の弥生人との混合の状況に関連があると考えられます。
 篠田 謙一 :国立科学博物館
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 4月7日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「サルからヒトへ、古代DNAが明かした人類のルーツ
 遺伝子配列の変化をさかのぼると祖先がわかる
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 篠田 謙一 : 国立科学博物館
 21世紀になり、生物の持つDNA配列を自由に読み取れるようになったことで状況は大きく変わります(写真:angkhan/PIXTA
 「えっ? 最初の人類はアウストラロピテクスじゃないの?」。あなたの教養は30年前の常識のままかもしれません。
 2022年のノーベル医学生理学賞受賞で注目が集まっている進化人類学。急速に発展するこの分野の最新成果をまとめた『人類の起源』(中公新書)の著者、篠田謙一国立科学博物館長が監修を務め、同書のエッセンスを豊富なイラストで伝える『図解版 人類の起源』より、一部抜粋・編集してお届けします。
古代DNA研究は活況のときを迎えた
 これまで私たちの祖先を探す努力は、主に化石の発見とその解釈によるものでした。しかし、21世紀になり、生物の持つDNA配列を自由に読み取れるようになったことで、状況は大きく変わります。
 2006年に高速でDNAを解析する「次世代シークエンサ」が実用化され、大量の情報を持つ核DNAの解析が可能になりました。
 これ以前の古代人のDNA分析は、技術的な制約から、母系に遺伝するミトコンドリアDNAの情報に限定されていましたが、核DNAが持つ、父母双方からの情報を得られるようになり、古代DNA研究は活況を迎えました。
 その象徴ともいえるのが、2022年、古代DNAで人類進化の謎を解明したスバンテ・ペーボ博士のノーベル生理学・医学賞の受賞です。これにより、古代DNA研究の重要性が、国際的に認められたといえるでしょう。
 人類の起源
 (『図解版 人類の起源』より/絵:代々木アニメーション学院
 研究に革命もたらす「次世代シークエンサ」
 1980年代から始まった古代DNAの分析。
 かつては母親から受け継ぐミトコンドリアDNAといった両親の一方の情報に限定されていましたが、「次世代シークエンサ」の実用化により、両親双方からの情報を分析することが可能となりました。
 大量のDNA配列を高速で解析!
 生物が持つDNAは、G(グアニン)、A(アデニン)、T(チミン)、C(シトシン)という4種の「塩基」から構成され、ヒトでは細胞の核とミトコンドリアの中に収まっています。
 子どもは、両親から半分ずつの遺伝子を受け継ぐわけですが、それには母から子どもへ直接受け継がれるミトコンドリアDNA、父から息子だけに継承されるY染色体という例外もあります。
 ヒトが持つDNAの膨大な情報を「次世代シークエンサ」が高速で解析することで、これまで不明とされていた系統関係も明らかになってきています。
 古代ゲノムが解明する人類のルーツ
 DNAは、細胞の入れ替わりのたびに配列をコピーしていきますが、突然変異を起こして少しずつ変化します。
 他人と比べると、1000文字に1つ程度の割合で異なっているとされています。これをSNP(一塩基多型)といい、交配によって子孫に受け継がれていくため、この性質を利用すると、集団成立の歴史を推測することができます。
 また、遺伝子の働きを読み解くことで、自然環境や病などに適応したプロセスも解明することができます。このように古代ゲノムの分析によって、化石の形態ではわからなかった多くのことが判明しているのです。
 古代DNAの研究で明らかになった人類の系統関係を解説していく前に、あらためて基本的な知識や用語を整理。ゲノムやDNA、遺伝子など、読み進むうえで最低限必要なものに限定して簡単に解説します。
 「ゲノム」はヒトのカラダをつくる全体の設計図
 「遺伝子」は、私たちのカラダを構成しているさまざまなタンパク質の構造や、それらがつくられるタイミングなどを記述している設計図。
 ヒトは2万2000種類ほどの遺伝子を持っており、その情報をもとに日々の生活を可能にしています。つまり、人体を構成する個別のパーツや働きを担っています。「DNA」は、その設計図を書くための文字といえます。
 そして、「ゲノム」とはヒトひとりを構成する最小限の遺伝子のセットであり、ひとりの個体をつくるための全体の設計図になります。
 ミトコンドリアDNAの系統解析
 ミトコンドリアY染色体のDNA配列の変化をさかのぼっていくと、祖先までのルートをたどることができますが、これを系統解析といいます。
 そして、個人が持つこれらのDNA配列を「ハプロタイプ」と呼び、ある程度さかのぼると祖先が同じになるハプロタイプをまとめて「ハプログループ」といいます。
 下の図は、ミトコンドリアDNAのハプログループの系統図。人類共通の祖先はLであり、アフリカ集団のL3からアジアやヨーロッパなど世界に展開するMとNというふたつのグループが生まれているのがわかります(※外部配信先ではイラストを閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください。
 人類の起源
 (『図解版 人類の起源』より/絵:代々木アニメーション学院
 DNA分析で祖先をめぐる新たな展開
 現在のところ、DNAが解析された最も古い人類化石は、スペインの「シマ・デ・ロス・ウエソス洞窟」で発見された人骨です。
 1976年以降、28体分の人骨が発見されていますが、当初は60万年前のものとされ、形態的に約30万年前にヨーロッパに登場する「ネアンデルタール人」に似た特徴があることから、その前に生存していた旧人「ホモ・ハイデルベルゲンシス」の仲間ではないかと考えられていました。
 しかし、2016年にこの人骨のDNA分析が成功し、年代が43万年前のものと訂正されたことで、ネアンデルタール人の直接の祖先と考えられるようになったのですが、分析の結果はそれほど単純なものではありませんでした。
 驚くべきことに、「デニソワ人」という新たな人類との関係性が浮上。ホモ・サピエンスを含めた3者による意外な関連が判明することになったのです。
 最古のヒトゲノムを発見
 「シマ・デ・ロス・ウエソス洞窟」で発見された人骨群は、縦穴の地下13mの地点から出土。このような安定した環境に置かれていたこともDNAの長期保存を助け、最古のヒトゲノムの解析を可能にしました。
 ネアンデルタール人の特徴を持つ直接の祖先?
 「ネアンデルタール人」は、ヨーロッパや西アジアで生存した最も有名な化石人類です。成人の推定身長は150~175cm、体重は64~82kgというがっちりした体型をしており、脳容積は1200~1750mLと推定されています。頭部は、眉の部分がひさしのように飛び出し、前に突き出た鼻や太い頰骨が特徴です。
 シマ・デ・ロス・ウエソス洞窟で出土した人骨には、これらの特徴が見られ、年代からもネアンデルタール人の直接の祖先だと考えられています。
 DNA分析で明らかになった第三者との関係
 シマ・デ・ロス・ウエソス洞窟の人骨は、DNA分析により43万年前の初期ネアンデルタール人のものと考えられましたが、さらにDNAによってその存在が初めて明らかになった「デニソワ人」と、ホモ・サピエンスとの関係性が明らかに。
 約64万年前にまずサピエンス種が3者の共通の祖先から分岐し、さらに43万年より前にデニソワ人とネアンデルタール人が分岐したことがわかりました。そして、この3者は長期にわたって交雑していた可能性も判明したのです。
 Colum コンタミネーション問題とは?
 古代試料に残されたDNAはわずかで、これらの試料を増幅して分析を行いますが、このときに問題となるのが、現代人のDNAの混入(コンタミネーション)です。
 最初は、この問題に注意が払われることは稀でしたが、近年はDNA分析を前提とした発掘が行われ、混入を防ぐための慎重な措置が取られています。
 ネアンデルタール人の化石が発見された19世紀以降、彼らが私たちの祖先なのか、共通の祖先から派生した親戚なのか、論争が繰り広げられてきましたが、1997年に発表されたネアンデルタール人ミトコンドリアDNAの研究によって一応の決着を見ました。
 この研究では、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスと70万~50万年前に分岐した親戚であるとされました。
また、ホモ・サピエンスの中にネアンデルタール人由来のミトコンドリアDNAがなかったことから、21世紀の初め頃は、彼らはサピエンス種と交わることなく絶滅したと考えられていました。
 しかし、この結果は「次世代シークエンサ」による核ゲノム解析が可能になったことで、覆されることになります。2010年の研究で、ネアンデルタール人のDNAが現代人のDNAに流入していることが判明したのです。
 ネアンデルタール人とサピエンス種
 ネアンデルタール人ホモ・サピエンスが分岐して以来交雑がないということであれば、両者が共有するDNAの変異はすべての現代人の集団で等しくなるはずです。
 そうならないのは、サピエンス種の出アフリカ以後も交雑があったということ示しています。
 超有名な化石人類「ネアンデルタール人
 ひさしのように大きく前に突き出た眉に、がっちりした体格で知られる「ネアンデルタール人」。2010年の研究で、サハラ以南のアフリカ人を除く、アジアとヨーロッパの現代人のDNAに約2.5%の割合でネアンデルタール人のDNAが流入していることがわかりました。
 ホモ・サピエンスと分岐したのちに交雑がなかったとすれば、アフリカの集団も等しくDNAに痕跡が残るはずで、そうならないということは、サピエンス種の出アフリカ後に交雑があったことを示しています。
 人類の起源
 (『図解版 人類の起源』より/絵:代々木アニメーション学院
 ネアンデルタール人と交雑していたサピエンス集団がいた!
 ヨーロッパ人と東アジア人を比較すると、東アジア人のほうがわずかに多くネアンデルタール人のDNAを受け継いでいます。これは、ホモ・サピエンスが世界に拡散する初期の段階で、いくつかの集団に分かれて広がっていったことを示しています。
 その中の1つがネアンデルタール人と交雑して世界に広がり、一方、交雑していない集団もヨーロッパの集団形成に関与したものと考えられます。いずれにせよ、ネアンデルタール人は間違いなく私たちの隠れた祖先なのです。
 ゲノムで解明「ネアンデルタール人の生活」
 高い精度でゲノムが解析されたネアンデルタール人は、シベリア西部のデニソワ洞窟とチャギルスカヤ洞窟、クロアチアのヴィンデジャ洞窟から出土した3体。これらに加え、各地で得た複数のデータから集団形成の様子などが明らかになりました。
 ネアンデルタール人の集団形成
 下の図は、古代ゲノムの解析が行われている主なネアンデルタール人の遺跡です。これらから得たゲノムデータを解析することで、ネアンデルタール人の集団の構造や、分化の様子も再現されるようになりました。
 人類の起源
 (『図解版 人類の起源』より/絵:代々木アニメーション学院
 例えば、チャギルスカヤ洞窟(8万年前)のネアンデルタール人のゲノムは、地理的に近いデニソワ洞窟(11万年前)より、ヨーロッパのヴィンデジャ洞窟のネアンデルタール人に近く、この事実から彼らは11万~8万年前に西ヨーロッパから東へ移動した集団の子孫であることがわかります。
 『ビジネス教養・超速アップデート-図解版 人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』(中央公論新社)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします
 東西で異なる婚姻形態が判明!?
 ゲノムの解析によって拡散の様子も明らかに。
 ネアンデルタール人の共通の祖先から、まずデニソワ洞窟の集団が分離し、さらにチャギルスカヤ洞窟の系統が東へ移動、その後ヨーロッパに残った系統からヴィンデジャ洞窟や他の西ヨーロッパの系統が生まれたと考えられています。
 また、東のグループは60人以下の少人数での婚姻(近親交配)をしていたことが判明。西の集団には見られないため、東の集団は人数が減り、近親婚を繰り返したことで消滅したと考えられています。
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 篠田 謙一 国立科学博物館
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🗾14〕─4─アニメを通して語り継ぐ「日本人と海との関わり」。~No.70 

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 2024年4月15日 YAHOO!JAPANニュース アニメージュプラス「【海ノ民話】アニメを通して語り継ぐ「日本人と海との関わり」
 ▲(左から)勝木友香さん、久保華誉さん、海野光行氏、永井紗耶子さん、加納さん。
 日本財団「海と日本プロジェクト」の一環として一般社団法人日本昔ばなし協会が推進する「海ノ民話のまちプロジェクト」では、日本各地に伝わる海にまつわる民話を、2018年のスタートから2022年までの5年間で実に42本もアニメ化してきた。
3月24日(日)に2023年に新たに制作された25本の「海ノ民話アニメーション」の上 映会が開かれたが、続く25日(月)には各会の有識者による「公開シンポジウム『海ノ民話』から学ぶもの ~作家・芸人・学者の視点から~」も東京・文藝春秋ホールにて開催された。
 【関連画像】シンポジウムの様子や作品ビジュアルを見る(写真12点)
 “次世代へ豊かで美しい海を引き継ぐために、海を介して人と人がつながる” というスローガンを掲げる「海と日本プロジェクト」の一環として制作されているのが「海ノ民話」アニメーション。自然との調和や、生活の知恵や教訓など、時代を超えて語り継がれてきた、日本に生きる人と海との関わりを、さらに次世代へとつなげていくという壮大なプロジェクトだ。
 そうした「海ノ民話」について、プロジェクトの舵取りを担う公益財団法人 日本財団 常務理事の海野光行氏に加え、各界からの有識者を招いて様々な視点から議論を交わそうというのがこのシンポジウムの主眼だ。
 パネリストとして登壇したのは、小説家の永井紗耶子さん、お笑いコンビ「Aマッソ」の加納さん、日本昔話学会委員の久保華誉さん。司会は放送作家・脚本家の勝木友香さんが務めた。
◆パネリストプロフィール◆
 久保華誉さん
 日本昔話学会委員/1975年生まれ、静岡県出身。主な著書に『なぜ炭治郎は鬼の死を悼むのか―昔話で読み解く『鬼滅の刃』の謎』(草思社、2023年)、『日本における外国昔話の受容と変容―和製グリムの世界』(三弥井書店、2009年)などがある。
 永井紗耶子さん
 小説家/1977年生まれ、神奈川県出身。新聞記者、フリーランスライターを経て2010年『絡繰り心中』で小学館文庫小説賞を受賞し、作家デビュー。2023年『木挽町のあだ討ち』で第169回直木賞を受賞。
 加納さん
 芸人/1989年生まれ、大阪府出身。ワタナベエンターテインメント所属。2010年、幼馴染のむらきゃみとともにお笑いコンビ「Aマッソ」を結成、ネタ作りを担当。テレビやラジオなどでも活躍するほか執筆活動などマルチな才能を発揮する。
 シンポジウムは「現代人と海との距離感について」「海ノ民話が持つ価値について」「民話が持つ時代性と普遍性について」「海ノ民話をどのような表現媒体で伝えていくか」「海ノ民話の活用法と文化的価値について」という5つのテーマで進行した。
 冒頭では海野氏より、全国に伝わる民話は約2000あると言われており、そのうちの約2割が海にまつわるものだが、資料が散逸したり語り部が減ったことによってその存続が危ぶまれる中、受け継がれてきた「海ノ民話」を次世代へと継承することがプロジェクトの主眼であるとの説明があった。
 続いて、パネリストそれぞれが印象に残った作品をセレクト。永井さんは「輪郭線が淡くて蛇たちの動きも可愛らしい」と『虻が島の大蛇』(富山県 氷見市/2022年度)、「螺鈿のような幻想的な絵柄で統一された芸術的作品」と『海の姫宮の旅』(山口県 岩国市/2022年度)の2作品を挙げていた。
 『ゼンパはん』(徳島県 小松島市/2021年度)を選んだ久保さんは「海坊主と主人公のゼンパはんとの問答が昔話らしい語り口で楽しかった」とその理由を語った。
 加納さんが選んだのは『お屋敷になったクジラ』(和歌山県 串本町/2020年度)。「捕ったクジラが木材になるという、昔話らしい飛躍があるのが面白い」と芸人ならではの視点を披露した。
 また、司会の勝木さんも気になった作品を2つピックアップ。『おたるがした』(愛媛県 松山市/2019年度)には「どんな境遇に陥っても人間には立ち上がる力があるということが感じられる」と、民話から得られる「学び」に注目していた。さらに、『海に沈んだ鬼』(高知県 中土佐町/2023年度)については、「自然の脅威と人間の無力さが感じられ、人間を救うために身を投げ出す鬼の自己犠牲の精神にも感銘を受けた」と語った。
 さらに、実際に会場で『神割り岩』(宮城県 南三陸町/2023年度)の上映も行われた。
 多岐にわたるテーマについて小説家、芸人、民話研究者というそれぞれの視点からの鋭い意見が次々と飛び出したシンポジウムは意義深いものとなった。2018年にスタートした「海ノ民話のまちプロジェクト」は今年で7年目を迎える。これまでに制作されたアニメーションは67作品、ほとんどの都道府県をカバーしており、興味深いのは長野県や山梨県など内陸で「海がない」県にも「海ノ民話」は伝わっているのだ。それはつまり、日本人にとって海からの恵みがどれだけ重要なものであったかということを物語っている。
 それはまた、日本人の心の奥底には共有されるひとつのルーツとして「海」というものが存在している、と言い換えることもできるだろう。そうした伝承をアニメーションという形で語り直し、また各地の名産品とのコラボなどで文化振興や町おこしなどにもつながっていく「海ノ民話」には、まだまだ大きなポテンシャルが秘められている。
今回はシンポジウムの中で話題に上ったいくつかの作品を場面写真とともに紹介したが、これ以外にも数多くの魅力的な作品が揃っているので、興味を持った方はぜひ観てほしい。
 (C)2018-2023 一般社団法人日本昔ばなし
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🏹68〕─2─日本はどのように「中国から学び」、「中国から離れた」のか。~No.218 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本民族は、国際言語である中国語を学んだが民族言語である日本語にこだわり中国語を拒否した。
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 日本と朝鮮は違っていた。
 日本は世界から孤立の道を選んだ。
 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではなかった。
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 2024年4月13日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「日本はどのように「中国から学び」、「中国から離れた」のか
 松岡 正剛
 日本はどのように「中国から学び」、「中国から離れた」のか
 © 現代ビジネス 提供
 日本文化はハイコンテキストである。
 一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する!
 *本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
 漢に学び、漢から離れる
 ここでは、いくつもの日本のコンセプトが「和漢の境」をまたぐことによって成立してきたという顛末を話したいと思います。
 和漢の境をまたぐとは、中国(漢)と日本(和)の交流が融合しつつ、しだいに日本独自の表現様式や認知様式や、さらには中世や近世で独特の価値観をつくっていったということです。
 これはおおざっぱには、次のようなことを意味しています。アジア社会では長らく中国が発するものをグローバルスタンダードとしての規範にしてきたのですが、そのグローバルスタンダードに学んだ日本が、奈良朝の『古事記』や『万葉集』の表記や表現において、一挙にローカルな趣向を打ち出し、ついに「仮名」の出現によって、まさにまったく新たな「グローカルな文化様式」や「クレオールな文化様式」を誕生させたということです。しかも、その後はこれを徹底して磨いていった。何を磨いたかというとクレオールな「和漢の境」を磨いていったのです。
 なぜ、このようなことをしたのか。なぜそんなことが可能になったのか。たんに知恵に富んでいたわけではないのです。
 二、三の例で説明します。
 たとえば禅宗は中国からやってきたもので、鎌倉時代には栄西道元はじっさいに中国に行って修行もしています。しかし、日本に入って各地に禅寺が造営されるようになると、その一角に「枯山水」という岩組みや白砂の庭が出現します。竜安寺大徳寺が有名ですが、このような庭は中国にはないものです。
 中国の庭園(園林と総称します)は植物も石もわんさとあります。日本の禅庭は最小限の石と植栽だけでつくられ、枯山水にいたっては水を使わずに石だけで水の流れを表現します。つまり引き算がおこっているのです。
 お茶も中国からやってきたものでした。栄西が『喫茶養生記』でその由来を綴っている。しかし日本では、最初こそ中国の喫茶習慣をまねていたのですが、やがて「草庵の茶」という侘び茶の風味や所作に転化していきました。
 またそのための茶室を独特の風情でつくりあげた。身ひとつが出入りできるだけの小さな躙口を設け、最小のサイズの床の間をしつらえた。部屋の大きさも広間から四畳半へ、三帖台目へ、さらには二帖台目というふうになっていく。こんなことも中国の喫茶にはありません。ここにも引き算がおこっているのです。
 侘び茶や草庵の茶に傾いた村田珠光は、短いながらもとても重要な『心の文』という覚え書のなかで、そうした心を「和漢の境をまぎらかす」と述べました。たいへん画期的なテーゼでした。
 古来、日本には中国からさまざまな建具が入ってきました。衝立や板戸です。たいていは頑丈な木でできているのですが、日本はそこから軽い「襖」や「障子」を工夫した。桟を残して和紙をあてがったのです。これらは1970年代以降の日本の技術シーンで流行した「軽薄短小」のハシリです。
 このように、日本は「漢」に学んで漢を離れ、「和」を仕込んで和漢の境に遊ぶようになったのです。
 *
 さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。
 関連するビデオ: 初の日米比首脳会議 中国の行動に「深刻な懸念」 連携強化へ (テレ朝news)
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 2024年4月12日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「「日本の文明」に圧倒的な衝撃を与えた「3つ目の黒船」の正体…史上「最初で最大」の文明的事件
 松岡 正剛
 © 現代ビジネス 提供
 日本文化はハイコンテキストである。
 一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する!
 *本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
 史上最初で最大の文明的事件
 日本という国を理解するためには、この国が地震や火山噴火に見舞われやすい列島であることを意識しておく必要があります。いつどんな自然災害に見舞われるかわからない。近代日本の最初のユニークな科学者となった寺田寅彦が真っ先に地震学にとりくんだのも、そのせいでした。日本はフラジャイル(壊れやすい)・アイランドなのです。
しかも木と紙でできあがった日本の家屋は、火事になりやすい。燃えればあっというまに灰燼に帰します。すべては「仮の世」だという認識さえ生まれました。けれども、それゆえに再生可能でもあるのです。こうして復原することは日本にとっては大事な創造行為になったのです。熊本城の破損や首里城の炎上は心を痛める出来事でしたが、その復原こそは多くの人々の願いとなった。そのため「写し」をつくるという美意識が発達します。
 ひるがえって、日本列島は2000万年前まではユーラシア大陸の一部でした。それが地質学でいうところのプレートテクトニクスなどの地殻変動によって、アジア大陸の縁の部分が東西に離れ、そこに海水が浸入することで日本海ができて大陸と分断され、日本列島ができあがったと考えられています。
 このような成り立ちをもつゆえに、日本列島が縄文時代の終わり頃まで長らく大陸と孤絶していたという事実には、きわめて重いものがあります。日本海が大陸と日本を隔てていたということが、和漢をまたいだ日本の成り立ちにとって、きわめて大きいのです。
 その孤立した島に、遅くとも約3000年前の縄文時代後期までには稲作が、紀元前4~前3世紀には鉄が、4世紀後半には漢字が、いずれも日本海を越えて大陸からもたらされることになったという話を、『日本文化の核心』第1講でしておきました。「稲・鉄・漢字」という黒船の到来です。
 とりわけ最後にやってきた漢字のインパクトは絶大でした。日本人が最初に漢字と遭遇したのは、筑前国(現在の福岡県北西部)の志賀島から出土した、あの「漢委奴国王」という金印であり、銅鏡に刻印された呪文のような漢字群でした。
 これを初めて見た日本人(倭人)たちはそれが何を意味しているかなどまったくわからなかったにちがいありません。しかし中国は当時のグローバルスタンダードの機軸国であったので(このグローバルスタンダードを「華夷秩序」といいます)、日本人はすなおにこの未知のプロトコルを採り入れることを決めた。
 ところが、最初こそ漢文のままに漢字を認識し、学習していったのですが、途中から変わってきた。日本人はその当時ですでに1万〜2万種類もあった漢字を、中国のもともとの発音に倣って読むだけではなく、縄文時代からずっと喋っていた自分たちのオラル・コミュニケーションの発話性に合わせて、それをかぶせるように読み下してしまったのです。
 私はこれは日本史上、最初で最大の文化事件だったと思っています。日本文明という見方をするなら、最も大きな文明的事件だったでしょう。ただ輸入したのではなく、日本人はこれを劇的な方法で編集した。
 中国語学習ムーブメント
 漢字の束を最初に日本(倭国)に持ってきたのは、百済からの使者たちでした。
 応神天皇の時代だから4世紀末か5世紀初頭でしょう。阿直岐が数冊の経典を持ってきた。当時の日本は百済と同盟関係になるほどに親交を深めていました。
 阿直岐の来朝からまもなく、天皇の皇子だった菟道稚郎子がこの漢字に関心をもち、阿直岐を師と仰いで読み書きを習いはじめました。これを見た応神天皇が、宮廷で交わしている言葉を文字であらわすことに重大な将来的意義があると感じて、阿直岐に「あなたに勝る博士はおられるか」と尋ねたところ、「王仁という秀れた者がいる」と言います。さっそく使者を百済に遣わしてみると、王仁が辰孫王とともにやってきた。
 このとき『論語』『千字文』あわせて11巻の書物を持ってきた。この『千字文』というのは、たいへんよくできた漢字の読み書きの学習テキストです。私も父に教えられて書の手習いがてら、いろいろ学びました。
 王仁は「書首」の始祖となります。その後も継体天皇7年のときに来朝した五経博士の段楊爾、継体10年のときの漢高安茂、欽明15年のときの王柳貴というふうに、何人もの王仁の後継者が日本に来ました。
 このことは、見慣れない「文字」とともに「中国儒教の言葉」がやってきたことを意味します。そうして朝廷に中国語の読み書きができる人材がいよいよ出現してきたのです。
 それなら、こうした外国語学習ムーブメントが日本の中に少しずつ広まって、みんなが英会話を習いたくなるように、やがて中国語に堪能な日本人(倭人)がふえていくはずです。
 実際、たしかにそういうリテラシーの持ち主はふえたのですが(貴族階級や僧侶に)、だとすれば今日の日本人が英会話をし、英語そのままの読み書きができるのと同じように、多くの日本人が中国語の会話をするようになって当然だったのですが、そうはならなかった。
 中国語をそのまま使っていくのではなく、漢字を日本語に合わせて使ったり日本語的な漢文をつくりだしたりした。まさに文明的な転換がおこったのです。
 *
 さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。
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🗻4〕─3・C─古墳の数は約16万基。日本が誇る古墳文化と巨大な古墳。~No.13 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2024年4月11日8:32 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「古墳の数は16万基、コンビニの約3倍! 日本が誇る「巨大な古墳」ができるまでの14プロセス
 コンビニ店数の約3倍近い数、約16万基もの古墳が国内に存在するのをご存じだろうか。日本が誇る古墳文化の楽しみ方を、その種類から造営方法まで、古墳見学を楽しむハウツーを5回にわたって伝授する。第1回は「古墳ができるまで」。
 【徹底解剖】古墳の作り方の14プロセス
■世界的にも特異な形状と規模
 土製建造物の技術の到達点
 エジプト・ギザのピラミッドや中国の始皇帝陵とよく比較される古代権力者の墓が日本最大の古墳・大山(仁徳陵)古墳である。
 墳長は486mで、航空写真で見て初めて鍵穴のような形の全体像を見ることができる巨大さだ。
 この大山古墳は、巨大古墳が相次いで築かれた古墳時代中期前半の築造だが、古墳時代初期でも墳長280mもの巨大な箸墓古墳が築造されていた。
 いったい、これほどに大規模な埋葬施設はなぜ築かれたのか。そもそも古代人はいかにして、この途方もない大きさの古墳を築き上げたのか。
 それは文献にはいっさい記されていないが、調査成果や出土品などからおおよそ推定できる。
 何事もそうだが、古墳の築造も、まず建設地を決めることから始まる。
冒頭に挙げた大山古墳は、堺の港付近の台地端部に造られているが、これは海から来る人々に、その威容を見せつけるためであった。
 場所が決まれば、地面に杭や縄で測量し設計図を描いた。広大な古墳築造には木の伐採もかなり多く行われただろう。
 それが終わると、次に土を掘って墳丘の土台などから土を盛り上げていく。土を固め石室を造ればほぼ完成だ。ただ、まさに言うは易し、その完成には小さいものでも数年、長大な前方後円墳なら数十年かかったとみられる。
■古墳ができるまで
 現代のような大型機械やトラックのない時代、古墳のような大規模なものをつくるのは困難であった。古代人がどのような技術で、どれほどの人手や予算で古墳を築造したのか。文献史料はなく、実地の調査や出土品などをもとに考えるしかない。また、文化的な影響を受けたと思われる中国や朝鮮半島との比較からも、ある程度は類推することが可能である。
1 古墳を設計する
 建物を造る場合、実際より小さな模型を作成して完成イメージを共有する。それと同様のことが古墳でも行われていたはずだ。
2 用地を選定
 古墳は被葬者の権力を示すものであるため、多くの人に見てもらえる山や丘など、人々が往来する交通の要衡が選ばれた。
3 予定地の木を伐採
 木の伐採は広範囲におよび森林を伐採して用地を確保する。大山古墳など全長数百m規模のものは多くの森林が伐採されただろう。
4 用地をならす
 伐採が終わると、今度は地面・基盤をならして整える。巨大な古墳ともなれば固い地盤であることも用地選定の絶対的な条件だった。
5 測量を開始
 最初の設計図をもとに、杭と縄を用いて測量したと思われる。これが終わると設計図を地面にも正確に描いていく。
6 地面に設計図を描く
 手の指や足の歩幅など人間の体を使って測る身度尺、水田などを方形に区画した方格地割の技術などが用いられたと考えられる。
7 周囲の土を掘る
 地面に描いた設計図に沿って、古墳の周囲を掘削し、掘り下げることで空堀や濠になる。また掘った土で盛り土を確保できる。
8 土を盛り上げる
 掘削して得られた土を古墳内面に盛土する。採土場である濠から網状編んだモッコに土を入れオウコ(天秤棒)で担いで運んだ。
9 盛土を固める
 盛土は最初に周囲に溝を掘り、その外側を土手状に高くして土で埋めてから固め、それを何度も繰り返して高くしていく。
10 石を運ぶ
 古墳の斜面は、むき出しではなく、石が葺かれていた(葺石)。そのための石が河原や石切り場、石材置き場から運ばれた。
11 葺石を葺く
 各斜面に葺石がはめ込まれることで古墳表面が石に覆われ、雨水からも保護された。装飾が施されていったと思われる。
12 石棺を造る
 石棺は輸送中に傷つくことがあるため、ある程度完成させてから、現場近くで石工が最後に仕上げていたとみられる。
13 石室を造る
 墳丘内に石室を造る。石棺を安置する玄室までの羨道(通路)が、石棺より狭い場合は、玄室内に石材を運び入れて石棺を造った。
14 完成
 石室内部の装飾を行い、墳丘上に埴輪などを並べて完成となる。こうして、埋葬の日に備えられたとみられる。
 監修/広瀬和雄(ひろせ・かずお)1947年京都市生まれ。同志社大学商学部を卒業。現在、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。主な著書に『前方後円墳の世界』(岩波新書)、『前方後円墳国家』(中公文庫)、『古墳時代像を再考する』(同成社)、『前方後円墳とはなにか』(中公叢書)ほか多数。
 上永哲矢
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 8月12日8:31 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「天皇にだけ許された前方後円墳から下位のリーダーも入った円墳まで 古墳の「形」と「大きさ」の謎
 ※「古墳時代の研究 7」都出比呂志「墳丘の形式」を元に作成(イラスト/蓬生雄司)
 日本にはコンビニ店数の約3倍近い数、約16万基もの古墳が存在する。日本が誇る古墳文化の楽しみ方を、
 その種類から造営方法まで、古墳見学を楽しむハウツーを5回にわたって伝授する。 第2回は「古墳の形」について。
 【図解】大きな前方後円墳天皇にだけ許されていた
■時代に応じて変化・進化
 形や大きさの法則性を探る
 ひと口に古墳といっても、その形には様々なものがある。大きくは「前方後円墳」「前方後方墳」「円墳」「方墳」の4つに分けることができる。その大きさや形状は、埋葬された人(被葬者)の階層によって決められていた。
 たとえば、多くの人に馴染みの深い「前方後円墳」は古墳の最上位に位置する。上から見れば鍵穴のような形をしていて、大王やその一族および、大和政権と密接な関係を持つ有力な首長が埋葬されたと考えられる。3世紀中頃に成立した形で、7世紀初め頃までの約350年間に造られた。前方後円墳は全国に約4700基あるが、被葬者の位によって大きさにも差があり、大山古墳のような巨大な規模のものは大王(天皇)のみに築造が許されていた。
 それに次ぐクラスの墳形が「前方後方墳」で、形状は「前方後円墳」に似ているが、後部も方形・台形に造られたという点で違いがある。こちらも各地の首長層に造られたと考えられるが、中央政権(大和政権)からの格付けは、前方後円墳の下位であったとみられる。その数は全国で約500基と比較的に少ない。造られたのが主に3世紀から4世紀末頃までに限定されていることもその理由だろう。
 それらに比べ「円墳」や「方墳」などは下位に属する古墳であるだけに数も多い。古墳は全国に約16万基あるといわれるが、9割を占めるのが「円墳」だ。その理由は、首長層(各地の政治的リーダー)の下位の中間層にまで、造墓が及んだ政治的理由に基づく。7世紀後半になっても築造が続いた。サイズは小型のものが多いが、埼玉県にある丸墓山古墳のような大規模なものも存在する。
「方墳」は5~6世紀の大王墓など巨大前方後円墳に付随したものも多く、7世紀になると大型のものが多くなる。それは「前方後円墳」の築造が終わりを迎えた時期でもあり、代わって大王や有力首長の墓として方墳が築かれたためだ。大阪府にある春日向山(用明陵)、蘇我馬子の墓と推定される石舞台古墳奈良県)などが有名である。
 古墳のランクとは?
 古墳の大小の差と形状は一見、無作為にも見えるが、実際は被葬者の位や大和政権との距離に応じ築かれるものが決まっていた。大和政権が君臨した畿内の一部では前方後円墳を頂点とした墓制が敷かれ、全国に広まった。
 監修/広瀬和雄(ひろせ・かずお)1947年京都市生まれ。同志社大学商学部を卒業。現在、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。主な著書に『前方後円墳の世界』(岩波新書)、『前方後円墳国家』(中公文庫)、『古墳時代像を再考する』(同成社)、『前方後円墳とはなにか』(中公叢書)ほか多数。
 上永哲矢
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 4月13日 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「仁徳天皇凌はクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵に匹敵する! 「前方後円墳」大きさランキング
 日本にはコンビニ店数の約3倍近い数、約16万基もの古墳が存在する。日本が誇る古墳文化の楽しみ方を、その種類から造営方法まで、古墳見学を楽しむハウツーを6回にわたって伝授する。第3回は古墳を代表する形といえばこれ「前方後円墳」について。
 【図解】こんなに大きい!仁徳天皇
■より大規模に墳丘を高くして
 権力の象徴となっていった
 古墳のなかで最上位に位置する「前方後円墳」の特徴は、やはり、その大きさと独特の形状である。 
 墳長は大山古墳(大阪府)の486m、誉田御廟山古墳大阪府)の425mが2トップ。それ以外に300mを超えるものが上石津ミサンザイ古墳(大阪府)、造山古墳(岡山県)、河内大塚古墳(大阪府)など西日本に6基あり、200mを超えるものを含めると合計39基。200m以上の古墳はいずれも前方後円墳に限られる。
 きれいな鍵穴の形の古墳もあれば方形部がやや細めや太めに造られるなど、築かれた時代の流行が認められる。たとえば3世紀の箸墓古墳奈良県)は、被葬者が埋葬された後円部より前方部が細く、前方部の頂から後円部の方向に向かって緩やかなスロープを描く。
 同じ奈良県でも、その少し後、3世紀後半の西殿塚古墳は後円部の最上段がやや高く、4世紀の行燈山古墳、渋谷向山古墳は突出して墳丘の最上段が高くなっている。また5世紀前半には前方部の幅が後円部の直径を超えるものが現れた。古墳時代中期に向け、全体的に巨大化していったのも、被葬者の権力を示すための動きとみられる。
 後円部で注目すべきは、墳丘上に設けられた方形の区画である。周囲を円筒埴輪で方形に囲み、さらに墳丘頂上の周囲にも円形に円筒埴輪を置いた。円形は神々の住まう天、方形は人々の住まう地を表すと考えられ、被葬者が統べていた共同体の再現および、土地の豊作と繁栄を願ったと考えられる。
 ただ、この前方後円墳は7世紀初めになると築かれなくなり、用明天皇聖徳太子の父)の頃以降、大王の古墳も方墳に変わる。聖徳太子が主導した天皇を中心とした中央集権国家体制が指向された時期に重なり、前方後円墳を権力の象徴とする体制が転換されたと推測される。
■三大陵墓の比較
 世界三大墳墓の一つに数えられる大山古墳。高さではピラミッドが世界一だが、全長で比べると230mのピラミッド、350mの始皇帝陵を上回る。
 比較すると大山古墳の巨大さがわかる。
 監修/広瀬和雄
 ひろせ・かずお 1947年京都市生まれ。同志社大学商学部を卒業。現在、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。主な著書に『前方後円墳の世界』(岩波新書)、『前方後円墳国家』(中公文庫)、『古墳時代像を再考する』(同成社)、『前方後円墳とはなにか』(中公叢書)ほか多数。
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🗾12〕─4・B─沖縄の普天満宮洞窟に約3万2000年~1万8000年前のたき火跡。~No.61 

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 日本民族の祖先の一系統は、東南アジア・揚子江流域・台湾から沖縄を経て日本に辿り着いていた。
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 2024年4月12日 YAHOO!JAPANニュース 琉球新報普天満宮洞窟に約3万2000年~1万8000年前のたき火跡 県内最古級の人類活動痕跡 沖縄
 普天満宮本殿背後にある洞穴遺跡から出土した人骨や石灰岩、灰の塊など=12日、宜野湾市沖縄国際大学
 沖縄国際大学考古学研究室は12日、宜野湾市普天満宮本殿背後にある洞穴遺跡の発掘調査で、約3万2000年~1万8000年前の旧石器時代(後期更新世)の炉(たき火)跡が確認されたと発表した。
 【写真】県内最古級のたき火跡
 調査では、焼けた礫(れき)や透明度のある結晶質石灰岩なども出土したほか、約1万1000年前の人骨片も確認した。同研究室の新里貴之准教授は「県内でも最古級の人類の活動痕跡が見つかった。沖縄の人類史を考える上で極めて重要な遺跡」だとし、継続的な調査に意欲を見せた。
 同研究室は2022年度から普天満宮洞穴内の発掘調査を実施しており、これまで貝塚時代前期(縄文時代)の文化まで確認していた。23年度にさらに下層を調査したところ、今回の発見に至った。
 同研究室は普天満宮洞穴について、南城市のサキタリ洞遺跡、石垣島白保竿根田原洞穴遺跡、徳之島下原洞穴遺跡、山下町洞穴遺跡とともに、約3~2万年前の旧石器時代を代表する遺跡の一つであると指摘。琉球列島における人類の起源の研究に資する遺跡であることが判明したと強調した。
 普天満宮は尚賢王(1644年頃)が参詣したとされる由緒ある神社で、琉球八社の一つとされている。1991年には宜野湾市指定文化財「名勝」に登録された。
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 人類の誕生と大移動は運命である。
 日本人の祖先はアフリカのサルであるは宿命である。
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 約258万年前から約1万1700年前 更新世新生代第四紀の前半。
 600万年前~700万年前 人類(ヒト属)の祖先はチンパンジーボノボの祖先である類人猿から別れて進化していき、幾つかの人類種が枝分かれするが一つの系統を残して全て絶滅した。
 100万前 ホモ・エレクトスが陸伝いに日本列島に歩いてきて住み着いた。
 10万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカで誕生し、世界中に移住していった。
 3万5000年から3万年前以後 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)=旧石器人(ヤポネシア人)は日本列島にたどり着き、上陸した、漂着した、流れ着いた。
 縄文時代 1万2000年~2000年前。縄文人(日本土人)。
 数千年前 揚子江流域民である弥生系渡来人が山東半島から朝鮮半島を経由し、続いて中国旧満州地方に住んでいた古墳系帰化人が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してきた。
 この時点では、まだ日本民族(和人)・琉球民族アイヌ民族は生まれていない。
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 日本土人である縄文人(日本土人)は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部太平洋沿岸まで、西は朝鮮半島南部、日本海縄文人の海)を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
 縄文人は、手漕ぎ丸木舟で北米大陸の太平洋沿岸まで移動していた。
 中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と偏見を持って軽蔑し差別していた。
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 日本文明は、揚子江流域(江南地域)にあった漁労農耕の温和で平和志向の長江文明の後継文明であって、黄河流域で軍事優先で栄えたの領土拡大・侵略志向の好戦的黄河文明の亜流文明ではなかった。
 朝鮮文化は、黄河文明の亜流であった。
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 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
 数万年続いた日本列島の旧石器時代縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
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 旧石器人(ヤポネシア人)は、南方系海の民であった。
 縄文人(日本土人)は、森の民であった。
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 日本民族琉球民族アイヌ民族は、旧石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
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 日本民族は、旧石器人(南方東南アジア系ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(南方揚子江系渡来人)、古墳人(北方満州帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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 アイヌ民族は、旧石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)にシベリア・沿海州樺太北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島などオホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化人が南下してきて、混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
 アイヌ人は住んでいる島・地域によって幾つかに枝分かれして、それぞれ他の人種・民族と乱婚を繰り返し混血度を濃くして独自の微妙に違う生活スタイルで生きてきた。
 蝦夷地・北方領土アイヌ樺太アイヌ、千島列島アイヌカムチャツカ半島アイヌ、その他。
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 琉球民族は、旧石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)に揚子江流域・東南アジアから渡って来た人々と混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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 多種多様な人種、民族との乱婚による混血度・雑種性が、最も濃密なのが日本民族で、次ぎに濃いのが琉球民族で、最も薄いのがアイヌ民族である。
 同一の縄文人から分かれた日本民族琉球民族アイヌ民族の違いは、この「乱婚による混血度・雑種性」の濃度にある。
 例えるなら真珠で、アコヤ貝の体内に取り込まれた砂粒などの異物(日本列島の土人である縄文人)に貝が分泌する独自の炭酸カルシウムでホワイトオパールにも、ブラックオパールにも、偏光色オパールにもなる。
 さしずめ、日本民族は偏光色オパールであり、ホワイトオパール琉球民族であり、ブラックオパールアイヌ民族である。
 そこには、漢族中国人や半島系朝鮮人は含まれていない。
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🏹68〕─1─古代から日本には何度も黒船が来た。「稲・鉄・漢字」という黒船。~No.217 

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 日本列島はユーラシア大陸の東の最果てにあり、人が辿り着いた辺境である。
 世界各地から文化と宗教、知識と技術は、海に囲まれた閉塞空間の日本に流れ込み、砂漠の水のように日本全土に染みこみ、その混沌とした状態の中から数万年前の旧石器時代縄文時代、数千年前の弥生時代古墳時代の時を経て生まれ出たのが日本文化で、その文化からヤマト王権=日本天皇、日本国、日本民族、日本神道が誕生した。
 日本文化は混沌とした泥沼文化で、混沌とは腐葉土である。
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 日本列島は、国生み神話の「おのころじま」である。
 記紀神話における「天地初発之時」はそういう意味である。
 「天地初発之時」とは「天(あめ)地(つち)初(はじめて)発(ひらけし)時(とき)」と読み、「天と地が初めて分かれたとき」という意味。
 「天(あめ)」とは虚空(そら)の上にある場所をあらわし、「地(つち)」とは地上のことをあらわしている。
 「天地初発」を言い換えると「天地開闢(てんちかいびゃく)」となる。
 日本は、数万年前の土着神話でできている。
 それは特種で特異ではあったが、取り立てて優秀と言うわけではなく、自慢して誇るほどの事でもない。
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 人類史から見れば、日本民族は日本列島で生きてきた「日本土人」である。
 日本は、世界の中心ではなく、地の果て、地が尽きる渚、生と死の境界線である。
 日本は世界を理解できるが、世界は日本を理解できない。
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 日本民族は、日本列島に流れ着いた異人種異民族が乱婚を繰り返して生まれた血が汚れた混血の雑種民族である。 
   ・   ・   ・   
 2024年4月11日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」
 日本文化はハイコンテキストである。
 一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する! 
 【写真】外国人が見抜いた「日本」を「変な国」にさせている「3つの原因」
 *本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
 「稲・鉄・漢字」という黒船
 最初に、日本の歴史を大きく理解するにあたっては、日本には「何度も黒船が来た」と見るのがいいと言っておきたいと思います。そう見たほうが日本をつかめるし、また、そう見ないと日本がわからないことが多い。
 ペリーの黒船以外にもイギリス艦船やプチャーチンのロシア艦船も来ていたのですが、それだけではなく鉄砲の伝来も、何度かにわたるキリスト教の宣教師たちの到来も黒船でした。それ以前はどうかといえば、もちろん元朝による蒙古襲来もそうですが、禅やお茶や朱子学(宋学)や『本草綱目』といった博物全書なども、日本人をびっくりさせた黒船だったのです。黒船だったというのは、それらはグローバライザーだったということです。
 もっと前なら、当然、仏教や建造技術や儒教の到来が日本を変えた。では、さらにその前の「最初の一撃」は何だったのか。
 原始古代の日本に来た黒船はなんといっても「稲・鉄・漢字」です。この三点セットがほぼ連続してやってきた。約1万年にわたった自給自適の縄文時代のあと、中国から稲と鉄と漢字が入ってきて日本を一変させたのです。紀元ゼロ年をまたぐ200~300年間のこと、弥生時代前後の大事件でした。
 なぜ「稲・鉄・漢字」が黒船だったのかを理解するには、その前の縄文時代の社会文化のことを少しは知らなければなりません。
 日本列島がアジア大陸から切り離されたのは約2000万年前のこと、現在の列島のかたちが定着したのは300万年前でした。地質学では「島嶼列島」と言い、その形状が枝に小さな花を点々とつけているようなので「花綵列島」とも言われてきました。私は、日本列島がアジア大陸という大きな扉にくっついた把手のようにも見えるので「把手列島」とも呼んでいます。
 15万年前の日本にはマンモスやナウマン象やトラが跋扈していましたが、1万年前にはすっかりいなくなっています。この15万年前と1万年前のあいだに、日本列島にヒトが住みはじめたのです。気候や照葉樹林の植生がよく、水がおいしかったのだろうと思います。おそらく3万年前には定住がはじまっていた。いわゆる縄文人です。
 縄文土器は約1万2000年前に出現します。最初は早期の隆線文土器というもので、そのあと前期・中期・後期・晩期と変化した。
 前期では円筒や底が平らなものがあらわれ、屈葬や耳飾りが流行します。中期は大集落や大型住居が登場し、土器に蛇文があらわれ、性神が崇められました。アニミズムが広まっていったのです。岡本太郎を驚かせた火焔土器は中期の長野県や新潟県に集中しています。
 後期の縄文人は協業や分業をはじめます。共同墓地、環状列石(ストーンサークル)が登場し、呪術用具がさかんにつくられた。晩期になると人々は文身をほどこして、体や顔を飾りました。文身とはイレズミのこと、「文」とはアヤをつけるという意味です。また、雑穀を育てて収穫し、煮たり搗いたりして食用にした。
 縄文社会には「縄文語」ともいうべき言葉によるコミュニケーションがありました。これは「原日本語」にあたるもので、もっぱら話し言葉に頼っていただけで、文字はありません。読み書きする文字がなかったのです。日本人は長らく話し言葉によるオラル・コミュニケーションだけに頼ってきたのです。そのぶん縄文などの文様や模様が、つまりは「文」が重要だったわけです。
 こういう縄文社会に「稲」と「鉄」と、そしてやや遅れて「漢字」がやってきた。強力なものたちでした。つまりグローバライザーとしての黒船でした。日本はここから一途で多様な国をめざします。
 松岡 正剛
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 2023年7月11日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「明治時代、日本に来た外国人たちが「驚愕」した「日本の文化」の凄さ
 松岡 正剛
 日本文化はハイコンテキストで、一見、分かりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……、この国の「深い魅力」を解読する!
 *本記事は松岡 正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
 発見された日本美
 こんなふうに、明治の「学び」は欧米主義一辺倒だったのですが、一方、意外なこともおこりました。ハーンやフェノロサやコンドルのように、日本の実情を取材にきた作家、日本に欧米の美術や建築を教えにきたお雇い外国人が、初めて見る日本の文化に驚きの目を見張ったのです。そして、この目を見張るほどの文化を欧米のロジックやテクノロジーが壊してしまうのではないかと心配した。
 ラフカディオ・ハーンは松江で日本人の小泉節子と結婚し、日清戦争日露戦争のあいだの明治二九年(一八九六)に日本国籍をとり、小泉八雲として日本のしきたりや昔話を英文にするためペンをとりました。『日本の面影』『心』『怪談』は傑作です。アーネスト・フェノロサハーバート・スペンサー社会進化論をひっさげて来日した俊英の学者でしたが、日本の仏像や日本絵画を見てびっくりし、岡倉天心とともに日本人が誇るべきはそういう日本独特のアートだと考えました。天心は『茶の本』『日本の目覚め』『東洋の覚醒』などを書き、欧米のリクツでは日本文化の精髄は説明できないと強調した。
 丸の内に煉瓦街を出現させた建築家のジョサイア・コンドルは、片山東熊(赤坂離宮東京国立博物館表慶館など)や辰野金吾日本銀行・東京駅・奈良ホテルなど)らを育て、かれらに洋風建築の精髄を教えるわけですが、自身は日本の絵画や三味線音楽に痺れ(端唄や小唄!)、河鍋暁斎日本画を学んだり、都々逸の本を英語で出版したりしたのです。
 ハーンやフェノロサやコンドルが見いだした日本の美は生活の中に生きていたり、徒弟的に師から弟子に伝えられたりしてきた技法やセンスにもとづくもので、教育的に継承されてきたものではありません。「生」と「技」と「美」がつながっていたのです。かれらはそこに感動したのです。
 浮世絵がたいそう特異な表現力の賜物として評価された
 それまで外国にあまり知られていなかった浮世絵が注目され、大量に海外流出してジャポニズムとして話題になっていったのもこの時期です。浮世絵も日本人には美術価値よりも江戸社会の風景や風俗を写したものとみられていたにすぎなかったのが、外国人にはたいそう特異な表現力の賜物として評価されたのでした。
 しかしながら政府が学校の先生や生徒にもたらそうとしたものは、日本人がたいせつにしてきた「生と技と美」のつながりを解釈できる能力の提供ではなかったのです。少なくとも「学制」としてはそういうことをほとんど重視しなかった。かわりに明治近代の学制が強調したのは何だったのか。「教育勅語」でした。これからの日本人が大日本帝国の国民(臣民)として守るべき歴史観と道徳観を公式見解にしたような勅語です。
 さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。
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 2023年7月12日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「外国人が見抜いた「日本」を「変な国」にさせている「3つの原因」
 日本文化の核心
 松岡 正剛
 日本文化はハイコンテキストで、一見、分かりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……、この国の「深い魅力」を解読する!
 *本記事は松岡 正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
 日本を支配するフィクション
 カレル・ヴァン・ウォルフレンに『日本/権力構造の謎』(早川書房)という二冊組の本があります。ウォルフレンはオランダの新聞の極東特派員をながく務めて、「フォーリン・アフェアーズ」の一九八六~八九年の冬号に書いた「ジャパン・プロブレム」が評判になったので、これを機に本格的に日本の権力構造の歴史と現在にとりくんだジャーナリストです。
 ウォルフレンの言う「ジャパン・プロブレム」とは、八〇年代の日本に疑問をぶつけたもので、自動車をはじめとする日本の輸出品の優位がアメリカの怒りを招き、いわゆるジャパン・バッシング(日本叩き)がおこっていたとき、日本は基本姿勢を改めなかったばかりか、そのような姿勢をとることの説明をしなかったのはなぜかというところに発していました。
 ふつうなら、この反応は日本がナショナル・インタレスト(国益)を守るべき明確な意志や意図があるからだと想定できることで、そういう意志や意図があっていっこうにかまわないはずなのですが、ところが当事者間の交渉のプロセスを見ても日本研究者たちの分析によっても、どうもその意志も意図も明確ではないのです。「失礼しました、できるだけ改善しましょう」と言っているだけなのです。
 そこでウォルフレンは次のような推理をせざるをえないと考えます。それは、日本にはおそらく三つほどのフィクション(虚構)があたかも現実のようにはたらいているにちがいなく、それが日本を「変な国」にさせているのだろうというものです。
 一つ目は、日本は主権国家として最善のナショナル・インタレストの選択をしていると諸外国から思われているが、実はそのようなことができない国なのではないか。だから何かが欠如しているか、何かを粉飾してきたのではないかというものです。
 二つ目、日本は自由資本主義経済を徹底していると主張しているけれど、どこかでごまかしているか、さもなくば内側では別の経済文化行為を許していて、外側の顔と内側の顔を使い分けているのではないか。そういうふうになっていても、そのフィクションを国民が納得して許容しているのではないかというのです。
 三つ目、日本には世界中がまだ理解できていない名付けにくい体制、たとえばかつての武家制度や天皇制がそうであったような、海外からは理解しにくい体制をどこかに温存しているのではないか。しかし、もしそうだとしてもその体制について日本は自覚も説明もできていないのだろうというものです。
 この三つのフィクションが絡んで動いているだろうだなんて、ジャーナリストとしても鋭いし、日本論としてもなかなかユニークです。穿った見方だとは思いましたが、私はおもしろく読みました。
 権力が行方不明の国
 ウォルフレンは、日本には本物の権力があるのかどうかを問うた。権力構造にいいかげんなところや、不首尾なところがあるのではないかという疑問をもった。もし欧米社会でそのようなことがあれば、たちまちその権力は解体するはずです。でも、日本はそうならない。だとしたら、それはどうしてそんなふうになったのか。ずっと昔からのことなのか、それとも最近のこと、つまり敗戦後のことなのか、そこに分け入ろうとしたのです。
 日本国憲法が定めるところでは、日本は議院内閣制の民主主義国家です。主権は国民にあり、立法権は選挙で選ばれた議員によって構成された国会にあります。したがって国会は法的にはすべての決裁者であるわけですが、ウォルフレンが見るところ、日本の国会は両院ともにそうなっていない。議題はたくさん出入りしているけれど、野党は「内閣なじり」ばかり、与党は「責任のがれ」ばかりです。
 両院から委任された行政府として内閣がつくられ、そのガバメント(政府)のトップに内閣総理大臣が立つわけなので、行政権すべての決裁者は首相にあるのですが、日本の首相は自民党政治の領袖を争うだけで、国家の行政責任をまっとうするための権力を掌握もしていないし、行使もしていないというふうに、ウォルフレンには見えたのでした。
 国会と首相が国家の権力を掌握していないとすると、これに代わって権力を動かしているのは官僚か財界かということになりますが、どうもこの両者にも権力が集中していません。どこかの役所や官僚のリーダーが目立つことはなく、大半の官僚の見解は政府の見解の「下支え」か「上塗り」が多い。経団連が国家の指針に対して明確なオピニオンを発表したことなどないし、有効な助言をしているとも感じられない。おそらくボスが多すぎて、両方ともに決定的なボスをつくれないか、つくらないようにしているのです。
 国会、首相、官僚、財界が権力の中枢をつくりきっていないのに、日本のどの部門も中央集権的な組織になっているのも解せません。それぞれの団体、たとえば警察、農協、日教組日本医師会法曹界、体育界などは中央集権的にできているのに、それらが組み上がった全体としてのパワーシステム(権力構造)は、どこにも体現されていないのです。
 多少疑わしいのは自民党で、ここにパワーシステムや中央集権の秘密があるのかもしれないと、ウォルフレンは時間をかけて調べるのですが、いくら調べてみても、どうやら自民党には派閥のパワーバランスがあるだけで、あとは「利益誘導」と「集票マシーン」が動いているばかりです。予算も財務省や各省庁に握られている。
 中央集権力は中央の力が地方の末端に及ぶことでもあります。けれども日本のばあいはその「押さえ」は地方にばらまく地方交付金や「補助金」に頼っているようで、それは政治意志や権力意志ではなく「お金」なのです。
 野党は野党で、のべつ権力奪取の声はあげているものの、それは与野党の力の逆転を選挙でどう勝ちとるかというところに主眼があって、あんなに時間があるはずなのに政治哲学を磨いているとは思えない、それが証拠に国民は野党の政治哲学に賛同して投票しているようではない。また政治哲学を磨くには、あまりに政党改変をしすぎている。
 こうなってくると、残るは警察権力と自衛隊と保守的圧力団体のどこかの深部に権力中枢の発動源でもあるのかという陰謀小説のような推測になってくるのですが、そういうものがこの国でひそかに動いているとは思えません。
 たとえば日本の警察権力は各国とくらべてみてもなんら遜色がないし、犯罪発生率や不正検挙率などを見ても格段の腕前をもっています。極度に中央集権化されている度合いも国内随一のようです。もしも野心を抱く一派がクーデターをおこすとすれば、公安警察と機動隊を握っている警察権力が一番の力をもっているといえます。
 けれども日本の警察にはナショナル・インタレストに対する意志がないように思えます。好意的に見れば国内の正義と安定にはすばらしい機能を発揮しているとしても、対外的にナショナル・インタレストを守っているようには見えません。日本の評判やプレステージを高めるという意図もない。
 自衛隊はどうかといえば、こちらは日米安保体制に骨の髄までしっかり縛られていて、にっちもさっちもいかないでしょう。三島由紀夫がかすかな望みをもったことはありましたが、自衛隊の隊員にも反逆の野望はひそんではいませんでした。私は「モーニング」連載時から、かわぐちかいじの『沈黙の艦隊』(講談社漫画文庫)のファンでしたが、ああいうことはとうていおこらないのです。
 それなら他の保守的な圧力団体が何かを掌握しているのかというと、農協から神社庁まで、産業界から右翼勢力まで、政治権力をほしがっているとは思えません。自民党とボス交ができていればそれで十分なのです。これではどこからもジャパン・クーデターなど、おこりっこない。
 いったいどうなっているんだ、利権の構造ばかりが目立っているけれど、国家や権力は無用の長物なのか、そんなことはあるまいとウォルフレンは考えこみます。そこで想定できたのは次のようなことでした。
 哲学なき権力構造
 日本の権力は、それがないなどとはいえないのだから、きっと極度に非政治的なプロセスでできているのだろう。そのシステムは欧米が規定してきた権力機構のしくみではなく、すなわち議会や内閣や官僚が制度的に掌握するのではなく、複合的なアドミニストレーター(管理者)によって連関的に体現されているのだろう。そう、想定したのです。
 そうだとすると、そのしくみがパワープロセス(権力の行使過程)になっているだろうことはあきらかなので、またそのプロセスが中央集権的なプロセスになっていることもあきらかなので、それらがボディ・ポリティックス(統治の体制)としてのみ見えるようになっているということになります。そして、そう見えるような努力ばかりが尽くされているのではないかというのです。
 一言でいえば、システムなきシステム、「権力中枢の不在を補うシステム」でできあがっているのが日本だというのです。日本の権力システムは部分と部分をつなぐアドミニストレーションの鎖でできていて、いわば関節技ばかりで決められてきたのではないかというのです。
 リスポンシビリティ(行動責任)をとるけれど、アカウンタビリティ(説明責任)がとれないのは、説明する準備も哲学もないからだとも指摘した。
これはあまりにも情けない日本の実情を推定されたなと、ギクッとせざるをえないことですが、ではこの推定に代わることを日本はとりくんできましたか、たとえば大学やマスメディアはこの推定をくつがえす研究や提案をしてきましたかと、ウォルフレンは挑戦的な問いを投げかけたのです。
 以上、ウォルフレンの見方には日本人が言いにくいところを突いたという点を含めて、なかなか興味深いところがあります。このあとも『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社)、『アメリカからの「独立」が日本人を幸福にする』(実業之日本社)、『日本を追い込む5つの罠』(角川書店)といった、かなり踏みこんだというか、そうとうお節介なタイトルの本も書いています。
 辛口でユニークな視点が躍如しているように感じられますが、ここで冷静になってやや大局思想的なことを言っておくと、実はこういう論調は、海外の知識人に多いリヴィジョナリスト(日本見直し論者)がしばしば口にしてきた日本異質論に近いものです。だから、その多くの議論は欧米の定見に沿って日本社会に切り込んだだけとも言えます。
 日本が国益を軽視したことはない
 たとえば、日本はナショナル・インタレストを守る主体がいないという見方については(日本が国益を軽視したことなんてありません)、欧米がそのための主体を前面に押し出して交渉決議してきた近現代史からすれば、そういうふうに受け取られても仕方がないところですが、日本はもともと合議的だったと、最近は中長期的な外交折衝に切り替わっていると見れば、反論可能です。ただ、日本人はそのことを世界にわかりやすく説明できていなかったのです。
 さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。
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🏹23〕─3・D─何故モンゴル帝国は日本を侵略したのか。蒙古襲来と日露戦争の幾つかの類似点。~No.75 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   

 大陸世界では、現代日本人が信じている「大国の良心」や「大陸の矜持」など存在しない。
 それは、中国共産党やロシアを観れば一目瞭然である。
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 世界的侵略植民地帝国の元(モンゴル)とロシアは、辺境の小国日本との戦争ではなく日本との友好的交易を望んでいた。
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 江崎道朗「戦没学徒からの宿題
 左派系への違和感
 世界における国家、民族の興亡の歴史を学べば分かることだが、自由と独立を勝ち取ろうと奮闘した国家と民族は生き残り、その努力を怠った国家と民族は滅んだ。
 日本が現在の独立を保ち、自由と繁栄を享受できるのは、先人たちの無数の奮闘の歴史があったからだ。そんな自明の、しかし意外と誰も意識しない冷厳な事実を私が意識できるようになったのは家庭環境の影響が大きかった。
 ……」(令和6年4月号『月刊 正論』)
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 2024年4月4日 YAHOO!JAPANニュース nippon.com「蒙古襲来750年:モンゴル帝国はなぜ極東の島国・日本を攻めてきたのか
 持田 譲二(ニッポンドットコム)
 現在の中国から東ヨーロッパまで、ユーラシア大陸にまたがる版図を誇ったモンゴル帝国。13世紀にチンギス・ハンが創始者となった巨大帝国は、5代皇帝フビライ・ハンの治世になると、海を越え極東の島国・日本に攻め込んできた。今から750年前、日本は史上初めて海外から本格的な侵攻を受けたのである。
 南下を迫られたフビライ
 元の皇帝フビライ國立故宮博物院所蔵)と北条時宗像(円覚寺所蔵)
 1206年、チンギス・ハンは武力でモンゴルの諸部族を統一。中央アジアの草原に大帝国がこつぜんと姿を現わした。2代皇帝オゴタイ以降も領土の拡大意欲は、とどまるところを知らず、最強の騎馬軍団が万里の長城を越えて華北の金を滅ぼした。さらに、ヨーロッパに手を伸ばしロシア諸侯国を支配下に入れたほか、41年には「ワールシュタットの戦い」でドイツ・ポーランド連合軍を撃破。間近に迫られた西欧キリスト教社会は大きな衝撃を受けた。
 モンゴル帝国の版図と南下政策
 領土の広がりを今に伝えるのが、長崎県北部の鷹島(たかしま)沖海底で見つかった直径13センチほどのずしりと重いモンゴル軍の投石弾だ。回回砲(かいかいほう)と呼ばれるアーム式の投石機で飛ばす仕組み。この兵器は、フビライモンゴル帝国西部のペルシャから技術者を招いて作らせたと言われ、後の対日攻撃にも持ち込まれた。その威力は南宋攻撃の際、城壁に穴をあけるほど強力だったという。
 投石弾の実物(左)と回回砲の模型(右)。重りの力でアームが跳ね上がり、石弾を飛ばす。地元の高校生が実験したところ、44メートル飛んだという=いずれも長崎県松浦市埋蔵文化財センターで(筆者撮影)
 帝国の領土はユーラシア大陸ほぼいっぱいに広がったため、やがてチンギスの血族の間で、東西に分割統治された。東のアジア大陸を治めたのが孫のフビライだ。兄である先帝の死去に伴う後継者争いで、フビライはライバル候補を追い落とすため、領土のさらなる拡大という戦功を挙げる必要に迫られた。中国大陸を南進して漢民族国家の南宋と対峙したのである。
 日宋の同盟関係にくさび
 てつはう=松浦市埋蔵文化財センター所蔵(筆者撮影)
 後継争いに勝ち、5代皇帝に就いたフビライは1271年、国号を「元」に改めた。朝鮮半島の高麗を制圧するとともに、南宋を支配すべく南下政策を取った。その際、元にとって目障りだったのが、南宋と文物交流が盛んな日本の存在だった。元は「日宋の同盟関係にくさびを打ち込みたかったのではないか」と、蒙古襲来の研究で知られる元九州大学大学院教授の服部英雄氏は話す。
 服部氏によると、中でも元が神経を尖らせていたのは、日宋貿易だ。火山国の日本は火薬の原料となる硫黄の産出量が多かった。南宋はこれを輸入し、火器を装備して元と闘っていた。元としては軍事上の観点から日宋貿易を遮断する必要に迫られたし、自らも日本との交易を望んでいた。
 元は「てつはう」という火器を作り出している。直径13センチ程度の陶器製の球体に、硫黄を使った火薬が詰められ、さく裂する仕組みだ。
 また、「黄金の国・ジパング」観が日本に触手を伸ばした理由との説もある。13世紀に生まれたベネチアの商人マルコ・ポーロはアジアに進出し、『東方見聞録』を著わしたことで知られる。マルコはフビライに仕えていた時期があり、「日本は黄金の島といえるほどに金銀を産出する、といった誤った情報を、フビライは確固として信じ」ていたと、作家の司馬遼太郎は『街道をゆく11 肥前の諸街道』(朝日文庫)の中で記している。
 広大な版図内で交易が活発になるにつれ、元では貨幣制度が発達していった。「紙幣の濫発によるインフレを鎮静させるには国家が銀を大量に獲得せねばならず」、日本を征服するのが手っ取り早いと考えたと司馬は推測する。
 親交か侵攻か
 蒙古国牒状写本(国立公文書館所蔵)
 元を中心とした東アジアの国際情勢に当時の日本は巻き込まれようとしていた。鎌倉幕府や朝廷は、思いもよらなかったのではないか。
 1268年にはフビライ名で日本に国書「蒙古国牒状」が届いた。
 「天帝の慈しみを受ける大蒙古国皇帝(フビライ)が、書簡を日本国王に差し上げる。私の考えでは、昔から小国の君主は、国境を接していれば、ひきつづき意志を通じて友好につとめてきた。(中略)高麗は私の東の属国である。日本は高麗に近接し、国の初め以来、時には中国とも通交してきた。だが、私の治世には一度も使いを派遣してよしみを結んだことはない。(中略)今後は互いに訪問することで友好を結び、親睦を深めることを願うものである。また、聖人(皇帝)は世界全体を一つの家とするものである。互いによしみを通じなくては、どうして一つの家だといえよう。軍事力を用いようとは、だれが好んでするだろうか。(『詳説 日本史史料集』=山川出版=より抜粋)」
 この国書は、元には日本と友好関係を結びたい意思があるようにも読める。その半面、元が朝鮮半島の高麗を攻めて属国化したことをさりげなく伝えるとともに、求めに応じなければ日本へ武力行使も辞さない構えを示している。
 元の使者から国書を受け取った幕府は判断を朝廷に託したが、朝議の結果、返書は出さないこととなり、使者も引き返させた。服部氏は「日本の主な海外情報源は南宋から渡ってくる禅僧だ。彼らは(侵略者の)元について、よくは言わなかったのだろう。日本としても南宋と手を組んでいるつもりだった」とみる。
 一方、アジア史の専門家の間では、元の国書にしては「実に穏やかな文面である。一種の挨拶状に近い」(杉山正明著『モンゴル帝国の興亡(下)』、講談社現代新書)と受け止められている。国書を無視した態度は「普通の外交ならば、向こう(元)は面白くないはず。執権の北条時宗が使者を出していたら、事態はどうなったかは分からない」と服部氏は言う。幕府は、元の硬軟織り交ぜた姿勢の意図を慎重に探るところまで考えが及ばなかったようだ。
 ひょっとしたら戦争は起きずに済んだかもしれないが、「外交」経験のない幕府には限界があった。元は計6回も国書や使者を送ってきたのに対し、幕府は一度たりとも返答をしなかった。そして、1271年には日本侵攻の最後通告が送られてきたのである。
 内憂外患
 戦闘前夜の日本と元の動き
 日本の外交権限は当時、一義的には朝廷にあるとされていたが、幕府の関与なしに対処方針は決められなかったはずだ。ところが、北条支配の鎌倉幕府は内部に問題を抱え、思わぬ「外敵」の登場に十分な対応ができなかったとみられる。
 北条氏は唯一のライバル、三浦氏を滅ぼし、絶頂期を迎えたのも束(つか)の間、内紛が起きてしまう。5代執権の北条時頼には時輔(ときすけ)という長男がいた。だが、側室の子という理由から、正室の子である弟の時宗が執権(※1)の座を引き継ぎ、「ねじれ」が生じた。元から国書が届いたのと同じ1268年のことだった。
 その後は元との緊張関係が一挙に高まった重要な時期だったにもかかわらず、時宗は異母兄の時輔が恨みを抱いていると警戒。72年には時輔を討ち、北条家内の反時宗派も一掃した。「いろいろな勢力がひしめき合っていた幕府も、これ以降は時宗得宗(北条家の直系)の権力が強化された」(鎌倉歴史文化交流館の大澤泉学芸員)。幕府は迫り来る元の脅威にようやく態勢を整え始めた。異国警固番役を設け、九州に所領を持つ御家人らに九州北部の警戒に当たらせたのである。
 一方のフビライはそのころ、属国の高麗に対し、軍船の建造を命じていた。戦いは間近に迫っていた。(第2回に続く)
 (※1) 時宗は幼少だったため、時頼の後は中継ぎとして長時(6代)、政村(7代)が執権に就き、これを経て時宗は8代執権となった。
●道案内
・鎌倉歴史文化交流館:JR横須賀線鎌倉駅西口から徒歩10分。毎週木曜には、学芸員が午前10時から展示解説のギャラリートークをしている。日曜・祝休日は休館。観覧料は一般400円、小・中学生150円。
円覚寺:JR横須賀線北鎌倉駅そば。1282年、執権・北条時宗が無学祖元禅師を招いて開山した禅寺。敵味方に関係なく、蒙古襲来の殉死者を弔う目的があった。「鎌倉五山」の第二位に当たる。
 【Profile】
 持田 譲二(ニッポンドットコム)
 ニッポンドットコム編集部。時事通信で静岡支局・本社経済部・ロンドン支局の各記者のほか、経済部デスクを務めた。ブルームバーグを経て、2019年2月より現職。趣味はSUP(スタンドアップパドルボード)と減量、ラーメン食べ歩き。
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 何時の時代でも、如何なる地域でも、大国が小国に求める友好と平和とは、同じ権利を持った対等関係ではなく服従・従属の上下関係である、その為に外交交渉は武力と戦争をチラつかせた脅迫的交渉になる。
 小国にとって、軍事力で恫喝する大国の思惑(戦争をせずに降伏させる)など知った事ではない、進撃してくる大軍を侵略軍として母国と同胞を守り助ける為に戦争を仕掛けていた。
 大国は、小国との戦争における犠牲者を少なくする為に、抵抗する一つの都市を攻略すると住民を皆殺しにし、掠奪をおこない、放火して灰燼に帰し、人が住めないように廃墟にした。
 小国は、大国の残虐行為に恐怖し、国民の命を救う為に、抵抗する事を諦め無条件降伏して属国となるか領土の一部となるかった。
 高麗は、生き残る為に、名誉も面子も捨て、恥も外聞も捨て臣下の道を選んだ。
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 蒙古(中国)・高麗(朝鮮)連合軍は、対馬壱岐・北九州で日本人を虐殺し女性や子供を戦利品として乱取りしていた。
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 日本人は、旧宋国人(揚子江流域中国人)は助け、死亡すれば懇ろに葬ったが、高麗人(朝鮮人)は惨殺し死体は捨てた。
 日本人の高麗人(朝鮮人)への偏見・差別の本質は、敵意・憎悪である。
 前期倭寇は、日本人の高麗人(朝鮮人)への復讐と報復であった。
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 日本は、古代から朝鮮や中国の侵略を受けていた。
 刀伊の入寇応永の外寇
 歴史的事実として、日本にとって隣国の中国、朝鮮、ロシアは「敵」であった。
 専守防衛とは、消極的自衛戦争であった。
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 日本にとって、蒙古襲来は侵略軍を日本本土に引き入れて日本人に犠牲者を出しながら戦う消極的自衛戦争であり、日露戦争は日本人に犠牲者を出さない為に日本国外で侵略者と戦う積極的自衛戦争であった。
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 蒙古軍の戦略は、友好と交易を望まない国を征服する為に、侵略軍を派遣して敵国の一つの都市を攻略し女子供に関係なく住民を皆殺しにして、敵国と敵国人に恐怖を与えて無条件降伏させる事であった。
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 高麗(朝鮮)の生き残り戦略とは、大陸の中華帝国と小国日本と間に存在する緩衝国としてモンゴルの忠誠を誓う事であった。その為には日本が中華帝国に征服されては困るのである。
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2018-06-02
🎵26:─1─アムール川大虐殺事件。ジョン・へイ宣言。シベリヤ鉄道敷設と朝鮮国内対日軍事基地建設。大津事件。1899年~No.61No.62・ @ 
   ・   ・   ・   
 日露戦争の端緒となった、江戸時代後期の日露関係。
 日清戦争韓国併合は、日本の対露戦略から日本が仕掛けていた積極的自衛戦争であった。
 NHK 英雄たちの選択 日本の運命を決めた「選択」に迫る!
 「検証!200年前のロシア危機〜露寇事件  松平定信3つの意見書」
 江戸後期、ロシア軍艦が蝦夷地各地を襲撃する事件が起きた。通商を要求してのことだった。このとき意見を求められた前老中首座・松平定信の3つの献策から幕府の選択に迫る
 文化4年(1807)夏、江戸幕府が震撼した。蝦夷地各地にあった幕府の出先がロシア船に襲撃されたのだ。ロシア使節レザノフの通商要求を幕府が無下に拒絶したことがきっかけだった。幕府守備隊は反撃もできずに敗北、無力ぶりをさらす。通商に応じなければ更なる攻撃を行うと予告もあった。このとき意見を求められたのが前老中首座の松平定信。残された3つの献策からは、事件が幕府の対外政策をいかに変えたかが浮かび上がる。
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 日露戦争における勝利の条件は、沖縄の琉球人と北海道のアイヌ人であった。
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 元寇における勝利の条件は、反天皇と反鎌倉幕府の日本人・武士団であった。
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 2014年6月 産経新聞「関西歴史事件簿
 元寇文永の役(中) 赤ん坊を股裂き、子供を奴隷として拉致、女性は手に穴開け数珠つなぎ…博多を血と炎で染めた蒙古・朝鮮軍の残虐・非人道行為
 (上)朝鮮人が日本で“殺戮”…から続く
 九州・博多から侵略する2万人にのぼる元・高麗連合軍は、兵の数の優位と鉄炮(てっぽう)なる新兵器、集団戦法などを駆使し、日本の武士団を撃破しては町を焼き払い、逃げる民間人を殺すなどやりたい放題。また、捕らえた女性をひもで数珠つなぎにし、日本の攻撃から船を守る盾(たて)にしたほか、拉致した子供を奴隷として高麗国王に献上するなど、残酷で非人道的な行為も数限りなかった。
 侵略される町々
 文永11年10月20日、船で博多湾に集まった元・高麗連合軍の兵は早朝を期して上陸を始めた。日本側は鎌倉・北条時宗と京都へ敵襲来の知らせと援軍を求める急使を送ると、大宰府に本陣を置き、至急集まった周辺の御家人ら総勢5千数百人で待ち構えた。
 最初に戦闘状態に入ったのは午前10時ごろ。場所は上陸地点のひとつ、百道(ももち)原をさらに進んだ麁原(そはら)。相手はキム・バンギョン率いる高麗軍約4500人で、迎え撃つ日本側は約1300人とも。
 前日に元軍のホン・ダク率いる先遣隊が占拠した小高い「麁原山」周辺をめぐる攻防戦とみられるが、数で劣るのに単独で突っ込んでいく日本に対し、鉄炮などの新兵器と集団戦を展開する高麗軍にじりじり押される。
 ここで菊池武房らは約3キロ東の赤坂に撤退することを決め、途中に湿地帯が広がる鳥飼潟へ高麗軍を誘い込む。すると、術中にはまった高麗軍はぬかるみに足をとられて思うように進むことができず、戦闘は膠着(こうちゃく)状態に陥る。
 一方、元・高麗連合軍約5400人に上陸された箱崎には島津氏、少弐氏、大友氏などから1000人しか動員ができず、いきなり劣勢に立たされる。
 日本側の大将・少弐景資の放った矢が、元軍に2人いた副司令官のうち1人を射抜き、負傷させる戦果もあったが、博多の息浜(おきのはま)まで攻め込まれるなど、やりたい放題に暴れられる。
 この戦いで箱崎(筥崎)神社が焼失する。博多の中心部でも元や高麗の兵による殺害や略奪、放火などが横行したことで地は血に染まり、空は炎で真っ赤に染まったともいわれている。
 相次ぐ残虐行為
 このような行為は博多の前の戦場だった対馬壱岐でも同様で、高麗の歴史書には、「入対馬島、撃殺甚衆」と、キム・バンギョンの高麗軍が対馬で島民を皆殺しにしたとする記録が見られる。
 日蓮宗の宗祖・日蓮が当時、関係者から聞いた出来事をまとめた文書にも同様のことが書かれている。
 生け捕りにされた女性は手のひらに穴が開けられ、ひもを通されると数珠つなぎにされ、日本の攻撃をかわす盾として船壁に並べられたという記述は残酷で生々しい。
 奴隷の手に穴を開ける行為は高麗以前から朝鮮半島にはあったとして、日蓮はこれを高麗の仕業と断定しているが、伝聞をもとにした記述のため、異論も出ている。
 ただ、山に逃れた島民をしつこく捜す元と高麗の兵士が、赤ん坊の泣き声などをたよりに見つけ出すと全員を殺害し、赤ん坊も股裂きなどにした残虐な話は数知れず。
 壱岐でも同様の行為があり、元・高麗連合軍が暴れ回った後は武士だけでなく一般島民の死体の山で埋まり、生存者はわずか65人だったともいわれている。
 さらに、元の総司令官が帰還後、日本から連行した少年・少女200人を奴隷として高麗国王と妃であるフビライ・ハンの娘に献上するといった拉致同然の行為が高麗側の記録で確認されている。
 突然に消えた敵
 戦いは元・高麗連合軍が優位のまま夜に入った。ここで双方とも兵を引くのだが、元・高麗連合軍は陸地に前線基地を設けることなく、全軍、博多湾に停泊していた船に引き払ってしまったのだ。
 しかも、一夜明けるとあれだけ湾内を埋め尽くしていた船がすべて姿を消していた。まるで忍術を使ったように影も形もなくバッと消えていたのだ。
 当然、今日も戦いが続くと思っていた日本の御家人らは、キツネにつままれたようにあっけにとられたことだろう。
 元の記録には戦ったことだけが記述されているが、高麗の記録にはこのときのいきさつが多少なりとも書かれている。
 それによると、船に帰投後、元の総司令官、クドゥン▽副司令官、ホン・タグ▽高麗軍司令官、キム・バンギョン-が今後の展開について意見を交わしたとされている。
 キムが「敵地に入って士気も上がり、必死の覚悟で戦っている」と戦闘の継続を主張したが、クドゥンは「疲弊している兵士をこれ以上使い、日増しに増える敵と戦うのは良策ではない」として撤退を決めたという。
 その決断の裏には、少弐景資の矢で負傷した元の副司令官の存在や、武器・食料の補給の問題もあっただろう。
 でも、気象や潮の流れなどの条件が重ならないと船を動かすことはできず、しかも渡航に1カ月かかった時代である。900隻の大船団が遠くの沖合にいるならまだしも、すべてが忽然(こつぜん)と海上から消えたのはミステリーとしかいいようがない。
 これを神風、つまり台風を原因と見る向きもあるが、どうやら、それだけではなかったようである。
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 2021年7月21日 YAHOO!JAPANニュース モンゴルマガジン「モンゴル帝国はなぜ残酷行為をしていたのか、そこには知られざる理由があった?
 モンゴル帝国は世界最強の遊牧民族であったと言われています。
 中国は長い歴史の間、何度も遊牧民族による征服を受け、それに苦心していました。
 しかし、どれだけ善戦していても、雪が深くなってくると撤退したり、他国と戦争中でも部族間で衝突したりと、まとまりの無い民族でした。
 ところが、例外と言って良い国家が中世、モンゴル高原に存在しました。
 皆様ご存知のモンゴル帝国です。
 モンゴル帝国はそれまで、中華大陸を支配しきれなかった慣習を打ち破るだけに留まらず、世界の20パーセントもの面積を支配しました。
 中世の全世界を震え上がらせたモンゴル帝国。その理由は彼らの残酷さにあるかもしれません。
 本記事では、モンゴル帝国の残酷さや行われた虐殺について解説していきます。
 地上最強のモンゴル帝国がなぜ成立したか
 モンゴルが中世において、世界中を支配することができた要因は様々です。
 まず、兵隊の練度が全然違いました。
 騎兵と言うと、当時の中華や欧州においては特権階級のみが扱える兵科であり、平民からの徴収兵は徒歩が原則でした。
 これは、身分の上下によってわけられていたとも言えますが、そもそも騎馬というのは非常に難しく、特権階級のように、騎馬訓練に時間がさけられた人間しかできなかったとも言えます。
 しかし、モンゴル民族をはじめとする、遊牧民は違いました。
 生活と戦闘、生活と騎馬というのが密接な関係になっているため、欧州や中華の騎兵に比べても並外れた練度を持っていたのです。
 また、動員可能数にもその要因があります。
 モンゴル高原は決して人口の多い地域ではありません。作物が育ちにくく、定住化が進まない地域では大勢の人間を養えるだけのカロリーが生産できなかったのです。
 そのため、動員できた兵力も少ないのでは?と思われがちですが、そうではありません。
 定住化の進んだ農耕民族国家では、全人口に対し、5パーセント以上の動員は難しいと考えられています。
 農耕民族国家は戦争中でも国力を維持し、前線に補給できるだけの物資を生産しなければならなかったからです。
 しかし、遊牧民族は違います。
 彼らは移動することを則ち生活といているため、女子どもでも容赦なく根こそぎ動員することができました。
 これらの理由が地上最強のモンゴル帝国を作ったと言えるでしょう。
 テムジンの過酷な生い立ち
 そんなモンゴル帝国が世界中を震え上がらせるほど残酷になったの理由は何なのでしょうか。
 その理由はもしかすると、モンゴルを統一したテムジン(チンギス=ハン)の生い立ちや統一過程を見ていけばわかるかもしれません。
 統一以前のモンゴル
 テムジンがモンゴルを統一する前、モンゴル高原は正に群雄が割拠する修羅の時代でした。
 部族間が互いに争い、領地を奪ったり奪われたり。彼らの間に国境はもちろんなく、部族間衝突が絶えない地域だったのです。
 その戦闘の渦はもちろん、テムジンも巻き込まれることになりました。
 テムジンの生まれ育ち
 テムジンは、近隣で有名な戦士「エスゲイ」の息子としてその生を受けました。
 父親が有力な戦士だっただけに、将来を期待されたテムジンでしたが、幼少の頃、父親が謀略をもって殺害されたのです。
 部族はこれを機に、エスゲイの未亡人と当時9歳だったテムジンを含むエスゲイ一家を平原へ追放しました。
 元々エスゲイは部族長の地位を脅かすほど有力になっていたので、部族長からすると好機だったのかもしれません。
 そこからは、長く過酷な荒野での生活が続くことになりました。
 しかし、同時に彼らを強靭に鍛えたのです。
 テムジンはこの頃、大自然の厳しさと部族への恨みを以って、より無慈悲になっていったのかもしれません。
 その後、親の旧友であるケレイト部族のトグリルと同盟を結び、再び有力者としての地位を築いていくことになります。
 テムジンの受難は続く
 しかし、テムジンはまだまだ困難に立ち向かわなければなりませんでした。
 テムジンが有力者になっていく一方で、盟友であったジャムカと呼ばれる人物はそれを良く思いませんでした。
 結局、両者は盟友の誓いを破棄して衝突。
 最後はテムジンが勝利するのですが、その過程において、テムジンは部下70名をジャムカによって釜茹で(油や湯で人間を煮殺す処刑方法)に処されました。
 モンゴルが行った大虐殺
 このように、過酷な運命を巡ってきたテムジンだからこそ、モンゴル高原統一後はより一層残酷さが増したとも言えます。
 抵抗する勢力には徹底した破壊活動を命じ、それが世界中で悪評を生むことになってしまったのです。
 さて、ここからは実際にモンゴル帝国が行った大虐殺と戦いについてお話していきたいと思います。
 ワールシュタットの戦い
 モンゴル帝国を建国したチンギス=ハンの跡を継いだのが3男のオゴダイでした。
 オゴダイはチンギス=ハンの征服思想を受け継ぐ形でロシアや東ヨーロッパへの野望を告示します。
 甥のバトゥを征西の大将とし、進撃を命じました。
 この遠征軍には、土地を持たない王族もいたことから、この武功を以って土地を得たいという思いと重なり、士気が非常に高かったと言われています。
 ロシアを打ち破ったモンゴル軍はついに東ヨーロッパのポーランド終結
 ポーランド・ドイツ連合軍と対峙します。
 しかし、結果は圧倒的でした。
 射程の長い弓で前線を切り開き、ほぼ無傷で重騎兵を切り込ませます。ここからはほとんど虐殺に近かったと伝わります。
 総大将であったヘンリク2世を討たれ、部隊は包囲されます。
 モンゴル帝国軍はその包囲の環を少しずつ縮めていく形で蹂躙。結局、生き残りはほとんどいませんでした。
 その後、モンゴル帝国軍はヘンリク2世の首を槍に突き刺して進軍。これは他ヨーロッパ諸国の士気を下げるのに役立ちました。
 ちなみにワールシュタットとは、ドイツ語で「死体の山」という意味であり、この戦いの残酷さがわかるのではないでしょうか。
 バグダートの戦い
 モンゴル帝国軍の残酷さを語る上で、バグダートの戦いは外せないでしょう。
 バグダートは現在のイラクに位置しており、当時はアッバース朝が支配していました。
 当時、アッバース朝のバグダートには100万人を超える居住者と6万人の軍隊がいたと知られています。
 しかし、1200年代半ばになるとその力はどんどん衰えていきます。
 その時期に現れたのはチンギス=ハンの孫モンケ=ハン率いるモンゴル帝国だったのです。
 モンケは弟のフレグを先鋒として、アッバース朝を攻めました。
 怒涛の快進撃の末、1257年11月にバグダートの包囲が完了。その時、アッバース朝皇帝であったムスタアスィムは降伏を拒否。
 ここに、バグダートの滅亡が決定づけられました。
 軍備を怠っていたこともあり、バグダートはすぐにモンゴル軍によって奪われたのです。
 その結果、1週間にわたって市井を含めた住民がモンゴル帝国軍の虐殺と略奪を受け続けることになりました。
 当時のイスラム教国家を伝える書物は全て燃え、優雅を誇った都市はたった1週間で滅亡してしまったのです。
 皇帝のムスタアスィムはフレグに捕らえられ、敷物にまかれた上に軍馬に踏み殺されました。
 これは、モンゴル伝統の「貴人の死」と呼ばれる処刑方法でした。
 ンダス河畔の戦い
 インダス河畔の戦いは1221年に現在のパキスタンで行われた戦いです。
 戦いが行われる前、モンゴル帝国はホラズム帝国を攻めていました。各地でホラズム帝国軍を討ち破り、追い込んでいた途中に起きた戦です。
 ホラズム帝国スルタン、ジャラールッディーンは兵士と数千人の避難民と一緒にインドに逃げている真っ最中でした。
 猛追するモンゴル帝国軍に追いつかれてしまい、避難民を助けるために迎撃を開始。
 しかし、すぐにモンゴル帝国に蹂躙されてしまいます。避難民もことごとく虐殺されました。
 結果、インダス川を渡って生き残ることができたのは、極わずかな避難民だけでした。
 2019年、ロシアでモンゴル大虐殺の跡が見つかった?
 モンゴル帝国虐殺は紹介できないほど各地で行われていました。
 現在でも、虐殺があった、なかったという議論は分かれますが、最近になって、ロシアのヤラスロヴリにおいて、虐殺を示す遺構が見つかったのです。
 共同墓地に打ち捨てられた多数の白骨死体
 見つかったのは、白骨死体でした。
 炭素分析の結果、モンゴル帝国がロシアに攻め入った時期にマッチします。
 残念ながら、身元自体はわかっておらず、それが平民の骨なのか、貴族の骨だったのかはわかりません。
 しかし、白骨死体は女性・子どもも含まれており、全てを合わせると300体以上の遺体が葬られていました。
 ヤラスロヴリで何が起きたのか?
 元々、ヤラスロヴリではモンゴルによる虐殺があったかどうかについては議論の分かれるところでした。
 しかし、この遺構と遺体の発掘によって、モンゴル帝国軍による略奪と虐殺が確実視されるようになったのです。
 比較的裕福な家庭を狙ったというのは遺体の歯からもわかっています。
 歯には虫歯がかなり進行していたため、日常的に佐藤やハチミツといったような高級品を食べていたということがわかっているからです。
 モンゴル帝国は本当に残酷だったのか?
 ここまでで紹介できたのは、ごく一部の虐殺例に過ぎません。
 調べてみると、まだまだモンゴルの虐殺事例はあります。
 しかし、本当にモンゴル帝国は残酷であったのでしょうか。
 チンギス=ハンが残した言葉
 チンギス=ハンが残した有名な言葉をご紹介します。
 チンギス=ハンは晩年に将軍たちを集めて宴会を開きました。酔いが回ってきたころ、チンギス=ハンは将軍たちに尋ねます。
 「人生最大の幸せは何だと思う。」
 将軍たちは生粋の遊牧民族であったため、「草原で家族に囲まれながらのんびりと暮らすことだ。」と口々に言いました。
 しかし、チンギス=ハンはこう言います。
 「人生最大の幸福は敵を撃破し、駿馬を奪い、美しい妻や娘をわが物とし、その悲しむ顔を見ることだ。」と言うのです。
 これは、モンゴル軍の残酷さを決定づけた言葉だったのでしょう。
 言葉の裏側は・・・?
 しかし、その言葉をそのまま受け取ってはダメです。
 そもそも、略奪や虐殺というのは兵站の概念が薄かった中世においては常々行われてきたことです。
 そして、チンギス=ハンの言葉はまだ遊牧民族のままボケている将軍たちを一喝したとも捉えられます。
 逆に、自分達が敗北してしまうと、そういう目に合ってしまうということを暗に示唆したのかもしれません。
 虐殺が行われなかった地域もあった
 モンゴル帝国は逆らう地域や国に対しては徹底的に虐殺を行いましたが、早い段階で降伏した国には格別の慈悲があったそうです。
 この事実から、徹底的に残酷さに振り切っていたのはある意味対外的に「従わないとこうなるぞ。」というアピールをしていたのかもしれません。
 また、降伏した国の貴族や民族、宗教をしっかりと重んじる方向にあったらしく、あれだけ徹底して虐殺を行ったイスラム教でさえ保護の対象であったほどなのです。
 パクスモンゴリカによる花開いた文明
 モンゴルの世界征服によって、良い影響も少なからずありました。
 それが交易の自由化です。
 それまで、ユーラシア大陸は小競り合いが頻発しており、とてもではありませんが商人が陸路で行き来するのは危険でした。
 しかし、ヨーロッパから東アジアまでを結ぶ大国が成立したことにより、シルクロードの安全性が確保されたのです。
 これによって、帝国領土内の様々な人種が自由に行き交う時代が到来しました。
 パクスモンゴリカはわずか百年ほどで瓦解することになりましたが、その影響は大きく、モンゴル帝国の庇護の元、諸地域では経済活動の発展が促されたのです。
 まとめ
 モンゴルより残酷だった日本の鎌倉武士
 いかがでしたでしょうか。
 モンゴル帝国の残酷さを歴史的事実と共に紹介していきましたが、モンゴル帝国が日本を攻めた「元寇」ではどのような残虐行為が行われたのでしょうか。
 元寇はそれまで、日本側が苦戦の末退けたという認識が強かったですが、昨今の研究ではいい勝負であったという説が広まっています。
 事実、元朝側の資料では、このような記述があります。
・やつらは自分で自分の国の町を焼き払う。(焦土作戦
・やつらは船の中に糞尿を打ち込んでくる。
・捕虜を盾にして進撃しても、捕虜ごと弓矢を撃ってくる。
・武士の弓矢はモンゴルの弓矢より長大な射程があり、威力もすさまじい。
 モンゴル帝国が残酷であったのはわかりましたが、もしかすると、当時の日本はモンゴル軍を恐れさせるほど残虐だったのかもしれませんね。
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 ウィキペディア
 バグダードの戦い(英:Battle of Baghdad سقوط بغداد)、あるいは「バグダッド包囲戦」(英:Siege of Baghdad)は、1258年にチンギス・ハーンの孫にあたるフレグ率いるモンゴル軍がアッバース朝バグダードを包囲した戦いである。モンゴル軍によって攻略されたバグダードは徹底的に破壊され、市内に存在していた知恵の館や数々の図書館に収蔵されていた何十万冊もの大量の学術書はモンゴル軍によって燃やされるか、または、川に捨てられた。これによってイスラム文明が築いた多くの文化遺産が地上から消失した。
 背景
 現在のイラクの首都にあたるバグダードは、当時アッバース朝第37代カリフのムスタアスィムが統治するアッバース朝の首都であった。最盛期のこの町は東西交易の中心地として繁栄を極め、産業革命以前の世界最大の都市となり、100万を超える居住者と6万の精強な軍隊を誇った。しかし、1200年代なかば頃にはその力と影響力は衰えていた。
 そうした時期、1253年頃より、チンギス・カンの孫にして、時のカアン・モンケの弟であったフレグを先鋒とするモンゴル帝国の大規模な西征が始まることとなる。
 攻囲軍の構成
フレグと郭侃が率いるモンゴル軍は1257年11月にバグダードを攻囲した。フレグはモンゴル軍史上最大規模の軍隊を率いていたとされる。モンケの命令に基づき、全モンゴル軍の10分の1の兵士がフレグの軍に編成された。攻撃部隊には大規模なキリスト教徒の派遣団がいた。主なキリスト教徒軍はグルジア人だったようで、彼らは破壊活動に従事した。フランスの歴史家アラン・ドゥマルジェによると、アンティオキア公国からのフランク人部隊も参戦していた。中国人の銃の専門家1000名[3]も加わっていた。 
 包囲攻撃
 フレグはムスタアスィムに降伏を要求したが、ムスタアスィムは「バグダードを攻撃すればアラーの復讐を受けることになろう」と警告して降伏を拒否した。にもかかわらず、ムスタアスィムは軍隊の増強やバグダードの城壁の強化をしていなかった。イギリスの中東戦史家デビッド・ニコルは次のように述べている。「ムスタアスィムは戦争の準備を怠っただけでなく、フレグの要求に従わなかったことでバグダードの破滅を決定付けてしまった。もしムスタアスィムがモンゴルのハーンの権威を認めていたならば、モンケはムスタアスィムの命を取りはしなかっただろう」。
 14世紀のペルシャで描かれたフレグ軍による攻囲の様子
 バグダード包囲攻撃の前、イラン高原の山岳地域を根拠地としていたニザール派の教主フルシャーが帰順したことによって、多くの山城が開城もしくはモンゴル軍の包囲攻撃によって陥落し、難攻不落をうたわれていた中心的拠点のアラムート城塞もモンゴル軍に引き渡されたことでほぼ無力化されてしまっていた。アラムートが陥落し、次いでアッバース朝の攻略に取り掛かったフレグはハマダン経由でバグダードへ西進、諸将に命じて道中のザグロス山脈周辺の諸勢力の攻略も併せて行った。
 フレグはチグリス川の付近で軍を東西に分割した。アッバース朝軍は西岸から攻撃するモンゴル軍は撃退したが、東岸からの攻撃に耐えられなかった。モンゴル軍はアッバース朝軍の後方の堤防を破壊し、水攻めを行い、アッバース朝軍の多くはなすすべなく虐殺されるか溺死した。
 郭侃の命令でモンゴル軍の中国人部隊が柵と溝を建築し、攻城兵器とカタパルトでバグダードを包囲した。攻撃は1月29日に開始された。モンゴル軍の攻撃は包囲攻撃の理論通りに迅速に行われ、2月5日、バグダードの城壁はモンゴル軍に破られた。ムスタアスィムはフレグと交渉しようと試みたが、時既に遅く、拒絶された。
 かつてバグダードにはマンスールが築いた難航不落の「円城」があった。しかし、サマラに遷都したときに放棄され、サマラからバグダードへ再度遷都した頃には荒廃していた。そこでアッバース朝チグリス川の東岸に新たにカリフの宮殿と市街地の城壁を造り直した。しかしこれによって、チグリス川東岸から襲来する勢力からの圧力を直に受けやすくなり、カリフ権力の弱体化に拍車をかけ、また、バグダードが容易に攻略された原因になったと言われている。
 2月10日、ついにアッバース朝は降伏。モンゴル軍は2月13日にバグダードに流れ込み、それから1週間にわたって虐殺、強姦、略奪、破壊を繰り広げた。
 破壊と殺戮
 “モンゴル軍は鳩の飛行を攻撃する飢えたハヤブサのように都市を貫き、荒れ狂う狼が羊を襲うように市民を襲った。黄金づくりの宝石で覆われたベッドやクッションはナイフで破壊され、断片さえも粉砕された。ハーレムのベールに隠れる者は路地に引きずられ、陵辱された。一方的な殺戮によって市民は死に絶えた。”
―――ワッサーフ(歴史家のベルトルト・シュプーラーによる引用)
多くの歴史的記述がモンゴル軍の残虐行為を詳述している。バグダードの市民は逃げようとしたがモンゴル軍に捕らえられ、女は幼児から老婆に至るまで徹底的に強姦され、子供から老人に至るまでことごとく虐殺された。14世紀の歴史家ワッサーフは「死者は数十万人であった」と記述している。ニューヨーカー誌のイアン・フレイザーは「20万人から100万人に及ぶ死者を計上した」と記している。20万から80万人、また200万人とするものもある。
 15世紀のフランスで描かれた幽閉されるムスタアスィムの様子
 モンゴル軍は市街を蹂躙し、モスク、宮殿、図書館、病院を略奪、破壊し尽くし、何世代にもわたって保たれていた壮大な建築物は消失した。薬学から天文学にまで及ぶ歴史的に貴重な書物を所蔵していたバグダードの知恵の館は破壊された。「モンゴル軍によって虐殺された人の血でチグリス川は赤くなり、次に、捨てられた書物のインクでチグリス川の水が黒くなった」と生存者は証言した。
 ムスタアスィムは郭侃に捕らえられ、モンゴル軍による市民の虐殺と財宝の略奪の様子を見せつけられた。その後ムスタアスィムは敷物に巻かれ、モンゴル軍の軍馬に踏み殺された。これは貴人に死を賜るときのモンゴル流の礼儀であった。モンゴル軍はムスタアスィムの子供たちも殺害、『集史』によれば、唯一生き残った息子はモンゴルに送られた。
 モンゴル軍が陣地をわざわざバグダードの風上に移動するほど、大量の死体から発する腐敗臭が凄まじかったという。モンゴル軍は降伏を拒否した都市は見せしめのために徹底的に破壊したが、降伏した都市は破壊しなかった。これはモンゴル軍の戦術だった。
 “1258年当時のイラクは現在のイラクとは違う。農業は都市の運河によって数千年守られ、バグダードは世界一輝かしい知の中心地だった。モンゴル軍によるバクダードの破壊はイスラム教に回復不可能な心理的な痛手を負わせた。既にイスラム教は保守的になっていたが、このバグダードの蹂躙によって、イスラム教の知的開花は潰えてしまった。アリストテレスペリクレスのいるアテネ核兵器により消滅する様を想像してほしい。モンゴル軍がどれだけ残酷であったか理解いただけよう。モンゴル軍は灌漑運河を徹底的に破壊した。これと殺戮による過疎化とによってイラクはもはや再起不能の状態に陥り、衰退の一途を辿ることとなった。”
―――スティーブン・ダッチ(ウィスコンシン=グリーンベイ大学)
 その後、モンゴル軍はシリアに侵攻するが、ムスタアスィムの叔父をカリフとして擁立したエジプトのマムルーク朝を相手に1260年のアイン・ジャールートの戦いで大敗。そのまま中東から撤退した。
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